シナリオ

リーテンリュースの蛍夜

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●|露花氷《ろかごおり》と|月響珠《クランペルラ》
 冒険王国『カトルヴェア』――現れては消えていく四季の|夢《ダンジョン》を擁する王国の一角にある村『リュースエルヴ』に、今年も初夏がやってきた。

 渓谷にひそりと佇むその場所は、この季節になると天気雨が多く降る。
 雲なき空から零れ落ち、花弁を濡らし、水面を揺らし、地を打って静かに光りながら弾けて躍る雨粒たち。村の立地による気候や条件が重なって、ほかよりも一等眩く燦めくそれを、人々は『神の涙花』と呼び尊んだ。
 雨は忌むべきものではなく、むしろ神の御業なのだと。

 その奇跡を慈しみ親しみを込めて生まれた『リュースエルヴ』の名物のひとつが、『|露花氷《ろかごおり》』だ。
 様々な果実から作られた氷蜜に、好きな花のフレーバーを加え、天気雨の雫を魔法で加工した仄かに耀くパウダーをまぶしたそのかき氷は、雨露に燦めく花のように、甘く香りながら鏤められた星屑めく光を纏う。
 勿論、氷蜜やフレーバーは好きに選べる。ちいさな村ながら、様々な店がこぞって種類を取り揃えているから、あなた好みの露花氷もきっと作れるはずだ。
「しかも、村の至る処に|緑廊《パーゴラ》があって、天気雨が降るなか、満開の花を屋根代わりにかき氷を食べるのがお勧めの食べ方なんだそうですよ!」
 そこまでの説明を終えたヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)が、興味津々に狐耳と尻尾をぱたぱたと揺らす。
 花屋根に使われているのは、ブーゲンビリアやクレマチス、スタージャスミン、サンパラソル、テイカカズラ、バタフライピー、黄花藤などの、初夏に咲くつる性の花々。花の種類は勿論のこと、その色も多種多様だ。
 店先や公園、丘などを彩る|緑廊《パーゴラ》のほかにも、街のあちらこちらにフラワーアーチ付きの2人掛けベンチもある。加えて、天気雨といっても小雨程度。好きな花の花屋根で、ふうわりと花の香りと燦めく雨粒を愉しみながら、自分好みの|露花氷《ろかごおり》を満喫してはどうだろう。

●白月の蛍夜
「――と、ここからが本題です。そんな長閑な村の外れに、ダンジョンが現れたんです」
 しかも厄介なことに、村人が良く出入りしている森に酷似した様相なのだと、ヴァロはひとつ嘆息した。あまりにも似ているため、森を訪れてそのまま知らずにダンジョンへと迷い込んでしまう人が増えているのだ。
「村には緩やかな川が流れてて、その浅瀬で|月響珠《クランペルラ》って言う魔石が採れるんですけど……どうやらダンジョン内の水辺でも同じものが採れるらしくて」
 しかもたくさん! と両手を大きく広げた娘は、困ったと言わんばかりに狐耳をぺしょりと伏せた。
 村のもうひとつの名物――『|月響珠《クランペルラ》』。
 淡い輝きを宿すそれは、月光の届く浅い水底に沈み、そっと息をひそめるように人知れず眠っている。そうして、水面を透いて注がれた月の魔力を宿したその石は、ささやかな“音”をひとつだけ記憶するという。
 ダンジョン内の浅瀬や、岩が削れて自然に生まれた水盆の底にあるままの|月響珠《クランペルラ》をそのまま拾い上げれば、身近にある水の調べ――せせらぎや水滴の音、雨音など――を記憶する。耳に当てると、心地良い音色が聞こえてくるだろう。
 そうではなく、水面へと“声”を発するか、記憶に在る“声”を想い描いてから手で掬い上げれば、その“声”を記憶する。
 水音、雨音、想いを告げる誰かの声。
 あるいは、もう二度と聞けぬと思っていた、過去の言葉。
 どれも記憶できる時間はほんの数秒。それでも、それを活かして愛しい人へと声を届けたり、大切な人の声を想い出から汲み出さんとする人も少なくはない。

「まぁでも、そこで村人さんたちが引き返してくれれば良いんですが……森――つまりダンジョンの最奥には敵もいるんですよね……」
 それはまさに、月へと願う人々の想いを糧とする、荘厳で幻想的な月の幻影。
 ぽっかりと空いた森の上空に浮かぶその満月に、言葉も意志も、感情もありはしない。ただそこに在り、誰かの憂いが晴れるような願いをひとつ叶えると消えてゆく。
 直接的な害意はないとはいえ、簒奪者であることは変わりない。放置したままよりも撤退させておくほうが安心だろう、とヴァロは添えた。
「ですが、急ぐこともありません。丁度今の時期は、そのあたりに蛍の群れが現れるそうですから、蛍観賞も愉しんできてはどうでしょう?」
 ダンジョンの最奥にあるのは、清流の流れ込む静かな泉。
 その畔で静かに語らったり、ちょっとした飲み物や食べ物を味わったり。
 柔らかな水の響きのなか、月光を纏った雨粒のように、ぽつりぽつりと淡いひかりを夜に鏤めてくれる蛍たちを、ひとときばかり愉しんでも支障はないだろう。

 ――だって、お月様はそっと見守っているだけですから。

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第1章 日常 『花溢れる園』


懐音・るい

●神の涙花零るる処
 ひとつ深く呼吸すると、葉と花と、雨の匂いが胸を満たした。
 葉や花びらにあたって弾けた雨粒が、白い石畳へと零れて更に跳ねる。初夏の陽を映して燦めきながら、神の涙花が人々へと無二のひかりを鏤めてゆく。

 山間にあるリュースエルヴの村には、今日も天気雨が訪れていた。
 優しく撫でるように吹き抜けていく風がからりとした心地良さを運び、蔓を彩る花々が靡くたびに、鮮やかな花片が舞い、ふうわりと甘い香りが鼻腔を擽る。それこそが、この村がこれまでも、そうしてこれからも一等慈しむ風景のひとつだ。
 神の涙花――忌むべきものじゃなくて、感謝に値するもの。
「……そうだよね。雨は恵の雨、なんて言ったりするしね」
 素敵な考え、と懐音・るい(明葬筺・h07383)が唇で弧を描く。確かに、雨は人に不自由を強いることもあるだろう。けれど、雨がなければまた、人は生きていけない。同じ事象でも、疎うより尊ぶほうが優しくなれそうな気がするのは、なにも自然に対してだけのことではないだろう。
「それにしても……」
 傘を差すほどでもない雨粒を敢えて愉しみながら幾つかの店を巡ったるいは、「たっぷり悩むのがまた、愉しいもんさ。決まったらいつでも声をかけてくれ」と微笑む青年に促され、店先の花屋根の下で一度脚を止めた。
 苺や桃、マンゴーなどの氷蜜はもちろんのこと、フレーバーも想い描いていたよりもかなりの種類があった。そのぶん、選ぶ愉しさがあると言えばそうだけれど、
(う――――ん……)
 氷は桃も良いかもしれないが、けれどチェリーや苺も捨てがたい。かといって、幾つも食べると、それはそれでお腹を壊してしまいそうだ。
 ――そうして、ぽたぽたとどこか鼓を思わせる雨音の響くなか、熟考すること暫し。
「よし」
「お、決まったか?」
「うん、やっぱり桃!」
「フレーバーは何にする?」
「……更に迷うね……。じゃあ、これと、これと……そっち、試香させてもらってもいい?」
 ゆるりふわりと眦を細めたるいに、勿論、と青年も笑う。並べられた小瓶のコルク栓をひとつずつ丁寧に開けて愉しんでから、「これを」とるいは薔薇の小瓶を見せた。
 |緑廊《パーゴラ》の軒先から零れて揺れるブーゲンビリアが、まるで誘っているように見えて。雨粒を纏って耀く紅や紫を眺めながらベンチに腰を下ろして、受け取ったばかりの露花氷へと匙を入れた。
「ん、ちょっとチャレンジの側面もあったセレクトだったけど……美味しい」
 ぱくりと食めば、華やかながら気品と奥行きのある薔薇の香りが鼻を抜け、とろりとした柔らかな桃の食感と甘味が口いっぱいに広がった。
 雨と花と氷菓が、耳と躰と心をしっとり満たしてゆく。
 そんな愉しみ方もまた、一興。

姜・雪麗

「……お稲荷さんとこの狐が、嫁にでも行っちまったのかね」
 神の涙とは大した呼び名じゃないか、と独り言ちた姜・雪麗(絢淡花・h01491)の声を拾った店主の男が、からからと笑った。
「お。“狐の嫁入り”だっけか? 昔はまことしやかに言われてたらしいなぁ」
「可愛がってた子の嫁入りなら、嬉しいやら淋しいやらで涙も出るってもんさ」
 そうだろう? と口端を上げてみせる雪麗に、「そりゃ違ぇねぇ」と店主も喉を鳴らす。緩やかな山の稜線。その奥に広がる、夏色を帯び始めた薄青の空。止め処なく零るる雨粒は白い石畳のうえで軽やかに踊り、花弁を伝う露が一層、花の香を高めてくれる。
 あまり√妖怪百鬼夜行から出ることのない雪麗にとって、見慣れぬ異国の明媚なる景色というだけで魅入ってしまうというのに、そんな涙が恵みとなってもたらされたこれほどまでの万花に出迎えられたならば、劫を生きる雪麗とて落ち着いてなぞいられまい。あちらこちらへと巡らせた視線が幾つもの気になるものや場所を見つけているというのに、まずはこの愛らしい名物ひとつに足止めされてしまっている。
「それで、どうする?」
「あぁ、すまない。待たせてるね」
「いや、いってもんさ。こんだけありゃ迷うなって方が無理な話だろ?」
 短く詫びた雪麗に、店主は人好きのする笑みを湛えた。雨をも受け入れる村の民は、どうやら皆、大らからしい。
「違いない。とはいえ、迷ってばかりじゃと氷が先に溶けちまうか。まずは香り……今のころなら、梔子の香りを浴びたいところだね。あるかい?」
「ああ、とびきり上等なのがな」
「それは僥倖だ。あいつは香り高いからね、ほんのりと加えておくれ。あとは氷密だが……合わせるなら“鬼灯の実”あたりかねぇ。こいつも、いい甘酸っぱさと香りがあってね」
「お客さん、かなりの通だな? なかなか出ないオーダーだから在庫は少ないが――ほらよ」
 見るからに柔らかそうに削られた天然氷のうえに、甘く煮詰められ一層濃く橙に色づいた鬼灯の氷密がとろりと掛けられた。仕上げにフレーバースプレーを軽く吹きかければ、忽ち梔子の香が雨の匂いに混じって広がる。
「どうにも話が長くなっちまったね。有り難くいただいてくよ」
「ここいらのもんはみんな、話好きだから店やってるようなもんだ。にしても、その組み合わせは俺も初めて作った」
「おぉ、そうか。……さぁて、梔子と似合いか喧嘩になるか……運試しってもんさ」
 受け取った硝子の器を片手に、空いた手をひらひらと振って踵を返すと、雪麗は店先を飾る花屋根の下の一席に腰かけた。
「それじゃ、魅惑のひとときと洒落込もうか」
 一匙をすくい、期待のままに口へと運べば、程良く広がる甘酸っぱさと、ほろりと混ざり合うふたつの香。
 柔く、柔く、幾重もの風が村を抜け、頬に触れて。
 花々をふうわりとを揺らし、世界に彩と雨粒を鏤めていった。

花牟礼・まほろ
結・惟人

 オーダーカウンターの隣にある、コルクボードに貼られたメニューをじっくり眺める花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)と結・惟人(桜竜・h06870)。
「露花氷……」
「花のフレーバー……」
「説明だけで気分が上がるね、惟人くん!」
「あぁ……とてもわくわくする、まほろ」
 今日の雨粒のように緑の双眸を燦めかせたまほろに、惟人もまた、微かな歓びを滲ませた金の|眼《まなこ》を向けて頷く。花の香と果実の風味がどんな出逢いになるのか、選ぶのでさえ胸躍るほどに愉しくてついつい決めきれずに迷ってしまう。
「まほろは……決まったか?」
「うーん……どれも美味しそうだけど、やっぱり王道のヒマワリ×レモンかなあ。せっかくだし、夏のお花味! 惟人くんはどれにする?」
「その組み合わせ、元気が出そうで良いな。私は苺の氷蜜と桜の花にしよう。氷蜜は苺が好きなんだ」
「わ、春爛漫でステキ!」
 ちょうど惟人くんとまほろと同じ色だね、と花笑みを浮かべるまほろに、つられて惟人の口許もちいさく綻ぶ。桜と苺――その巡り合わせがどんな幸せをもたらすのかを愉しみに、待つこと数分。ざりざりと天然氷を削る爽やかな音にあわせて、花を模した硝子の器に白く透いた山が生まれ、そうして互いの氷密と香りが丁寧にそれを包み込んだ。
 お姉ちゃんお兄ちゃん毎度あり、です! と元気に手渡してくれた看板息子から受け取って、店先にある白木のガーデンベンチに並んで座る。
「お天気雨って、お花もきらきらして見えるから素敵だね」
「ああ……」
 葉や花の間から細く長く注ぎ込むひかりへと微笑むまほろに、返した言葉は短かったけれど。陽を反射して石畳に弾ける雨だれも、小鼓を打つかのような軽やかな雨音も、風が穏やかに過ぎてゆくたびにひかりの欠片を花に鏤めてゆくちいさな雫たちさえも美しくて、惟人は見惚れながら知らずと緩みそうになる口許を掌で隠した。それでも、“好き”の詰まった風景は愛おしくて、ゆらりゆらりと長い尾が足許へと影躍らせる。
「ね、惟人くん。見て、氷のキラキラがもっときらきらになったよ!」
 こんなにも燦めく世界に、この露花氷を映してみたら――ふいに過ぎって試してみれば、まほろに倣って器を陽に翳した惟人も一層眸を見開いた。
「本当だ、氷の粒ひとつひとつ光って……ずっと見ていたくなるな」
「うん。宝石みたいでとってもかわいい! ……あ、溶けちゃう前に食べちゃわなきゃ!」
「あ、急いで食べるとキーンとするかもしれない。気をつけてくれ」
「はーい。――うん、爽やか夏味! おいしー!」
 匙を近づけただけで分かる、露を孕んでなお鮮やかな草葉を思わせる心地良い向日葵の香り。初夏の草原めく芳香に続くレモンの酸味と仄かな苦味が、じんわりと清涼な余韻を残してゆく。
 ご機嫌に頬緩ませるまほろへと僅かに眸を細めると、名残惜しみながらも下ろした器へと惟人も匙を入れた。まず鼻腔を擽る桜の香、次いで甘酸っぱい苺の風味が裡をいっぱいに満たしてくれるから、一匙ごとに尾が揺れてしまうのはもう、仕方のないこと。
「……美味しい。過ぎた春を感じる」
 舌のうえで蕩けるほどに柔らかな氷が運んでくれる、ひんやりとした涼の|気配《けわい》。
「まほろは夏を感じられたか?」
「うん! 惟人くんも?」
「ああ。今度は、秋冬の組み合わせを考えるのも楽しそうだな」
「それ素敵っ! 折角だし、四季をコンプリートしたくなっちゃうね」
 店も、花も、香りも。ほかにもまだまだ選びきれぬほどにあるのならば、それもまた愉しそうだ。
 なにせこの優しい天気雨は、もうしばらく続いてくれるのだから。

スフィア・リンク
オルロイ・セレスティアル

「見てよ、オルロイ!」
 ちいさな背をくっと伸ばして、スフィア・リンク(.·˖*✩⡱ 導星 ˚. 𖥔 ݁ ᯓ★・h07513)が指さした先。夏の燦めきを纏って一層鮮やかに広がる青空を仰いだオルロイ・セレスティアル(星芒・h07614)は、その金の双眸を柔く細める。
「ボク、天気雨は初めて。本当に雲がないのに雨が降るんだ……雲がかからない雨だなんて、びっくり!」
「……私も、初めてです」
 知識として知ったときも相応に驚いたとは思うけれど、実物を目の当たりにするとこれほどまでに心動かされるものなのか。そう思う気持ちは、スフィアもまた同じなのだろう。歩みとともに、娘の声も弾む。
「この村夜空はどんなものなんだろうね」
「ええ。雨が降っても星は見えるのか……とても興味深い」
 雨露を浴びて陽に燦めく、緩やかに村のなかを走る白い石畳。広い庭を擁する住宅街を抜けたらもう、そこは村の中心部だ。円形の広場の周囲に、様々な店が建ち並ぶのが見える。
「オルロイ、オルロイ。もう少しでお店だね」
「スフィア、あまり急かさないでください」
 急く気持ちが手に取るように分かる娘の足取りを追いながら、そういうオルロイも知らずと足早になっていた。そわそわと浮き足立つ心のままに、自然と|眼《まなこ》が店々を探す。
「どんな氷密も、どんな香りもあるって話じゃないか。何にするか決めたかい?」
「まだ、決めていませんが……たくさんあるようで迷いますね」
「ふふ、迷うよね。――あ! そうだ! シェア、をするとふたつの味が楽しめるからやってみない?」
「シェア、ですか? 勿論、あなたがいいならいいですよ」
 快諾の声に、スフィアがくるりと身を反転させて「本当か?」と眸を燦めかせた。約束だよ、と零れた微笑みをふわりと風に乗った雨粒が彩って、星々のように耀かせる。その勢いのままに、あちらこちらの店へと赴いて、じっくり吟味して選んだお互いの一等を手に、再び広場の中央に立つ。
「わぁ……! 話には聞いていだが、本当に綺麗だね」
「見た目も愉しい、というやつですね」
「だな。――さてと、何処で食べよう?」
 きょろりと見渡したスフィアの眸に、幾つもの花々が映る。華やかな紅や紫に染まるブーゲンビリアやサンパラソル、爽やかな青みを帯びたやクレマチスやバタフライピー、ちいさく清らかな白色のスタージャスミンやテイカカズラ――露を浴びた|彩《いろ》はどれも美しくて迷ってしまうけれど。
「あぁ、あそこの花屋根にいきましょう」
 オルロイが視線を向けた先、広場の一角にあった|緑廊《パーゴラ》を見れば、見頃を迎え、ふさふさとした花を枝垂れさせた黄花藤が、優しく吹き抜けてゆく風に揺られていた。
 そうだね、と娘が頷き、あそこにしよう、と嬉しそうに|咲《わら》う。そうして並んで白木のベンチに腰を下ろすと、「それじゃあ、いただこうか」と早速匙を手にしたスフィアに倣って、「では、私も遠慮なく」とオルロイも一口含んだ。
「ボクはレモンにプルメリアにしてみたんだ。――ふふふ、美味しい!」
 しゃくしゃくとした氷とともに、甘酸っぱいレモンの風味が口いっぱいに広がった。それを包む華やかな芳香が、上品で甘い余韻を残して裡から幸せで満たしてくれる。
 片やオルロイのほうは、ひんやりとふわふわな天然氷に染みゆく、白葡萄の柔く爽やかな甘味。後から続く、雨の香りを孕んだほんのりと甘い紫陽花の香りが、すうっと鼻から抜けていく。
「ね、そっちもちょーだい!」
 自然と零れた笑みが、余程興味をそそったのだろうか。ボクのもあげるから! と強請られれば、断る理由なんてなくて、「構いませんよ」とオルロイは花を模した硝子の器を娘へと向けた。
「こっちも美味しいー」
「スフィアのも、中々に美味です」
 これは確かに、ほかの組み合わせも試してみたくなるというもの。先程露花氷を買った店の主がちらりと零していた言葉の意味を察する青年の傍ら、娘もほう、と満足気な息を零す。
「なんだか贅沢な時間だね……これからも美味しいものを食べて、色んな所を巡れるといいね」
 せっかく|この《動ける》身体があるんだから――そう花笑みを浮かべた小さな保護者へと、「そうですね」と弟分も口端を綻ばせる。

 ふたり歩む路は、まだ始まったばかり。
 できる処まで。やれる処まで、たくさん愉しもう。
 ――星の数ほどあるであろう、数多の世界の燦めきを。

物集・にあ
唐草・黒海

 こんなにも陽に耀く雫が毀れてきているのだもの。傘を差すのももったいないと、物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)は艶やかな黒髪を靡かせながら、両の手を緩く広げた。
「黒海さん、黒海さんご存知ですか?」
 まるで謎かけのような言葉と声音に、唐草・黒海(告解・h04793)は己が白い尾とともに微かに首を傾げる。
「世界には、たくさん可愛くて選べなくて美味しいものがあること!」
「いえ、知りませんでした」
 こんなにも海のいろを映した眸を燦めかせた娘の前では、あまり興味もないのだけれど――と裡に過ぎった言葉を、青年はそのまま留め置く。
 黒海としては、今回は付き添いのようなものだった。子供がひとりで居ると、何があるやも知れぬ。ならば誰か大人が傍で見守っていたほうが良いというものだろう。
「黒海さんは、果実は何が好みかしら?」
「好きな果物………ドラゴンフルーツ……いや、パイナップル?」
「ドラゴン……強そうなものがお好きなんですね」
 暫し逡巡したのちに出した返事に、「前者は無いですよね、きっと」と何気なく黒海が続けた言葉を、近くの露花氷店の婆が拾った。
「ほっほっほ……そう思うじゃろう? じゃが、この村もまがいなりにも冒険王国の中じゃて。冒険者さんらが、いろんなもんを持ってきてくれるんじゃ」
 ほれこれのことじゃろう? と差し出されたのは、とげとげとした濃いピンク色の楕円の果実。紛うことなき、ドラゴンフルーツそのものだった。「無論パイナップルもあるぞ?」と続けて差し出された実物を見て、黒海は赤の双眸を僅かに瞠る。
「なんでもあるというのは本当だったんですね! では、お花は?」
「物集さんと同じので――というのはつまらないですか? じゃあ……茉莉花を」
「ふふ、はい。違うのだと倍楽しめますから」
 同じので、と言った直後、にあの眸に浮かんだ|彩《いろ》に気づいた黒海は、さり気なく言葉を付け足した。その答えに満足そうに微笑むと、にあは自身の露花氷へと思考を移す。
「わたしは……うーん……いえ、今回は迷わないように決めてきたんです。マスカットと……バタフライピーかな」
「あいよ。今作るでなぁ、ちょぉっと待っててな」
 のんびりとした口調の婆と、穏やかに流れてゆく風と時間。
 そんな長閑な空気のなか、きりりとした貌でにあが切り出す。
「それでですね、黒海さん」
「はい」
「今日は、なんとわたし手持ちがありますから。お礼をさせてください」
「お礼……奢ってくれる、ということですか?」
「はい!」
「……あの、財布の中身が心許ないような……」
「えっ」
 そんなまさか――そう言いたそうに財布を取り出し確認するにあに、微かに眉尻を下げた黒海は、
「流石に心配なので物集さんの分は俺が奢ります。大丈夫ですよ、ここまで来たら付き合いますから」
「そっ、それでは交換……ふふ、交換です」
 そう言って柔く容を緩ませる娘へと、ひとつちいさな苦笑を返した。

 花屋根の下、風が吹くたびに、露を纏った花々があたりへとひかりを鏤めてゆく。
「――よかったら、先に俺の分少し食べますか?」
「えっ!? わたし、そんなに物足りない貌してましたか?」
 貌というより、それはにあの様子を見ていれば容易く知れた。
 さっぱりと甘いマスカットに、仄かな豆のようなバタフライピーの香りは、まさに大人の上品さを孕んでいてつい匙を動かす手が進んでしまう。だのに、それもすぐに急に動きが鈍ってきたのだ。食べるのが勿体ない――そう思っていると言っているようなものだろう。
 さっき迷うと言っていたような、と心中で付け加えながら提案した黒海から一度視線を逸らすと、にあは花影のなかでちいさく俯く。
「うう、恥ずかしい……素敵なものがいっぱいあって困ります」
「まあ、全部食べてもいいんですけど」
「……では、遠慮なく三口ほどいただきます」
 さらりとした甘味と風味に、茉莉花のフローラルな香りは屹度、食が進んでしまうだろうけれど。
「流石にお腹を壊されたら困るので……ほどほどに」
 そう微かに口許を緩めた黒海は、花型の硝子器を差し出すのだった。

一文字・伽藍
エストレィラ・コンフェイト

 ――いざ参らん、氷スイーツ!
 そう意気揚々と村を訪れた一文字・伽藍(Qクイックシルバー・h01774)とエストレィラ・コンフェイト(きらきら星・h01493)は、村の中央にある広場に集う店々をぐるりと見渡した。
「おばあちゃん……見て、お店がたくさん……!」
「露花氷……なんとも甘美な響きであったが、実物は更に魅惑の氷菓のようだ……!」
「うんうん。話には聞いてたけど、これは選び甲斐あるね~」
 はぐれぬように、と繋ぎ、道中も躍る心のままにぶんぶんと揺らしていた手は知らぬ間に静止して、かわりにふたりの眸が一層耀く。
「かき氷を最後に食べたのはいつのころだったか……あぁ、そうだ。若いころに食べたきりだ」
「……いや、おばあちゃん呼びしといてなんだけど、その美少女フェイスビジュで“若いころ”とか言われてもピンと来ねぇのよ」
 苦笑を滲ませる伽藍に、そうか? と首を傾げるエストレィラは、愛らしい面立ちできょとんと瞬きながら、長く艶めく銀糸を揺らす。御年99歳には見えぬのも無理はない。
「果物と花かァ。どれが良いかなぁ……」
「わたくしはスターフルーツとスタージャスミン。白玉は大盛りがよいぞ!」
「したらアタシ、マンゴーと金木犀にしよっかな――って、おばあちゃん白玉山盛りにしてる! アタシも!」
 そんな弾むような言葉のやり取りに、オーダーを聞いていた看板娘もつられてくすりと微笑んで。花型の硝子の器にたっぷりと白玉を入れると、そのうえからふんわりと刻んだ天然氷を入れ、それぞれの氷密もたっぷりとかけて、フレーバースプレーをシュッと一吹きしたらスペシャルな一品が完成だ。
 ありがとうございました、とぺこり一礼する看板娘に見送られながら、「何処で食べる?」と伽藍があちらこちらへと視線を巡らせれば、ふうわりと風に乗って届く、優しく甘い香り。
「あ、スタージャスミンの花屋根あるじゃん。おばあちゃんフレーバーにしたやつでしょ? あそこにしよ!」
 ここまで来ればはぐれることもないだろうけれど、浮き足立つ気持ちは一緒だから。再び手を繋いだふたりは、白く甘やかな芳香に包まれた|緑廊《パーゴラ》の裡にある白木のガーデンチェアへと腰を下ろした。テーブルへと置いた器をもう一度両の手で掲げて、笑顔を交す。
「イエーイ乾杯! スイーツだけど!」
「うむ、乾杯だ」
 透いた氷の山へ、さくりと柔く匙を入れて一口食めば、口いっぱいに広がるのは滑らかな氷の舌触りと、程良い涼の気。
「冷たい! そんで美味しい! 金木犀も良い匂いする~」
「くふふ、口の中がひんやり心地良い。爽やかな甘さだ」
 マンゴーのとろりとした甘さと、柔らかくもざくざくとした氷、そしてその中に潜むぷにぷにとした白玉。その食感の違いだけでも愉しいくて、嚥下したあとに残る金木犀の優しい香りがなんとも言えぬ幸せ心地を運んできてくれる。
「伽藍ちゃんのは、鮮やかで明るいな。おまえさまの明るさが顕れているようだ。とても愛い」
 夏の陽を思わせる橙色へと眦を緩めながら、「婆のも一口如何であろうか?」と匙を差し出されたら、勿論伽藍も破顔して、
「え、一口もらっていいの? じゃあ、おばあちゃんもこっちどうぞー」
「なら、遠慮なくいただこうか。まずは伽藍ちゃんから――ほれ、あーん、だ」
 ぱくりと頬張れば、しゃきしゃきとした食感のスターフルーツが氷に溶けて、一層優しくなった甘酸っぱさがじんわりと裡へと染みてゆく。
 柔く甘い香りは、氷菓からか、はたまたふたりを包む花たちからだろうか。
「ん! おばあちゃんのも美味しい~! はい、アタシのもあーん」
「うむ、こちらも美味である。伽藍ちゃんと食べるすいーつは、一等美味いなあ」
 ほくほくと滲む笑みのまま、ふと視線を上げれば露を燦めかせながら白い小花たちが風に揺れる。こちらもまた愛いものだ――どちらかと言えば、今は花より団子だけれど。
 のんびりとした風が過ぎ去ってから、もう一匙を口へと運ぶ。
「アッ! キーンてする!!」
「……ぬぁっ!? 頭が軋む……!?」
 そんな氷菓おなじみの出来事すらも、愉しくて。
 ふたつの笑み声が軽やかに、天気雨へと溶けていった。

鬼灯・睡蓮
鬼城・橙香
清緑・色
セイシィス・リィーア

 ぱらぱらと降る雨粒が|緑廊《パーゴラ》の屋根に弾んでひかりを散らす。
 枝垂れた花々も雫を浴び、風に靡くたびに雨の気配を含んだ華やかな香りを運ぶ。白い石畳で跳ねる雨音は軽やかで、世界がどこまでも澄んで見えるよう。
「暑いときにはやっぱり氷だよね~」
「ええ、この時期にはいいですね」
 白木のガーデンテーブルを囲むように座る『セプテントリオン』の面々のうち、のんびりとした声音のセイシィス・リィーア(橙にして琥珀・h06219)へと、鬼城・橙香(青にして橙火・h06413)もポニーテールを揺らしながら頷いた。「体温低めの雪女には暑さが応えるんだよ~」とぱたぱた手で上部がはだけ気味の胸許を仰ぐセイシィスの対面で、橙香もまたライダースーツの胸許を――ちなみにどちらも、形・大きさともに極上だ――開けて涼を得る。
「睡蓮さん、今回はお誘いありがとうございます……最近暑くなってきたので、丁度良いお出かけ先です……」
「んにゅ……お誘い受けてもらえてありがとうなのです……。皆さんと食べる方が、美味しいかなと思ったのです……」
 ぽわぽわと柔らかな雰囲気の清緑・色(清き緑の龍・h06856)へ、頷きか船を漕いでいるのか、どちらにも見える仕草でこてりと|頭《こうべ》を下げた鬼灯・睡蓮(人間災厄「白昼夢」の護霊「カダス」・h07498)は、瞬間、視界に入ってきた自分の露花氷に気づいてどうにか眠気を堪えた。
「露花氷……氷蜜、かき氷なのです……甘味なのです……甘いものは、正義なのです……」
「見た目も涼しげで華やかでいいですね」
 隣でゆらりゆらりと揺れる睡蓮へと微笑みながら、橙香も仲間たちに合わせて食べ始めた。さくり、と匙を入れて口許へと運べば、上品な薔薇の香りがふうわり漂い、とろりとした舌触りのメロンがたっぷりの甘味を届けてくれる。
 並んで食べるセイシィスと色が選んだ氷密は、揃いのマンゴーだ。香りで違いを出せたら面白そうだ、と色は練乳、セイシィスは柑橘を選んだ。
「あっ……とっても甘い練乳と白玉のモチモチ食感で美味しいです……」
 これぞ求めていた甘さの極――! 幸せいっぱいの笑顔を浮かべる色へと、セイシィスもつられて頬を緩ませて、
「ん~、甘くて美味しいね~♪ 色くんも一口どうぞ~」
「では、お言葉に甘えて一口頂きます……あっ、さっぱりフレーバーも美味しいです」
 僕のもどうぞ、と差し出された匙へ、セイシィスもぱくり! マンゴーに練乳が加わって、舌に残る一層芳潤となった甘やかな余韻に暫し浸る。味は同じなのに、香りが違うだけでこんなにも愉しいなんて。皆と来たからこそ知る面白さに、もひとつ笑みが深くなる。
「皆で食べていると、やはり美味しいですね。甘みも良いですが、フレーバーも合わさって凄い豪華です♪」
「ふぁ……本当、そうなのです……」
 ゆっくりと食べ進める橙香の隣、それ以上にのんびりと匙を運ぶ睡蓮は、苺、メロン、レモンに次いで、ようやくブルーハワイの蒼山を切り崩し始めていた。色々な種類の氷密があるならば、小分けにして食べれば良い――そう思いついた少年の前には、掌サイズの硝子の器が並んでいる。
 ふわり柔く鼻孔を抜けてゆくのは、優しいラベンダーの香り。安眠効果を期待して選んだそれは、まさに効果抜群のようだ。
「――おや、どうやら眠くなってしまったようですね」
 食べ終えて一休憩していた橙香の撓わな胸へとぽてり寄りかかってきた睡蓮へ、「ゆっくり休んでください♪」とちいさく声をかけて橙香が双眸を細めた。膝枕ならぬ胸枕と言えようか。
「すぴー……」
「ふふ、よく寝てますね~。色くんもこっちにおいで~」
「え? あ、はい……」
 数度瞬いた色は、膝をぽんぽんと叩いて呼ばれるままに、セイシィスの膝へとちょこんと浅めに腰かけた。柔く後ろから抱き留められながら、燦めく雫と花たちが鏤められた風景をゆっくりと眺む。
「綺麗だね~」
「はい……露花氷に負けないくらい綺麗な天気雨と雨露の滴るお花の燦めきを楽しめて、とっても素敵です……」
 そう言った色の視界の上半分ほど――すこしでも貌を上げると、それ以上に――は、セイシィスの胸影で隠れていたけれど。
 ふうわりと香る花と舞い散る露の燦めきは、いつまでも皆を愉しませていた。

ララ・キルシュネーテ
躑躅森・花寿姫

 下ろしたての青を筆いっぱいに広げたような鮮やかな夏空遠く、透いた鳥の声が響き渡る。
 頬を撫ぜる風は雨と花の香を運び、歩を進めるたび、雨粒が足許で宝石のように燦めいては弾けてゆく。すう、と大気を吸い込めば、雨の|気配《けわい》がじんわりと裡へ染みてゆく。
 眸に映り、肌に触れるなにもかもが胸を躍らせるから、高らかな音色を奏でる心地のまま、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は足取り軽くくるりと舞った。
「美しい村ね、花寿姫」
「はい。穏やかな雰囲気の村で素敵……そんな場所で、今日はおひめさま二人のデートですね」
 なんて、とひとつ笑み零す躑躅森・花寿姫(照らし進む万花の姫・h00076)へ、ララは一層笑みを深めた。どんな露花氷を食べようかしら? 花寿姫はどんな露花氷にするのかしら? そう馳せる想いに導かれるように、花寿姫とともに村の中心たる広場へと爪先を向ける。
 幾つもの店をゆるりと巡って、漸く決めた氷密と香りを纏った露花氷を手にふたり、花と蜜を味わう|花屋根《特等席》を探す。
「お前はどんな花屋根がいい? ララは真っ赤なブーゲンビリアがすきよ」
「私ですか? 黄花藤も素敵ですが、ブーゲンビリアも好きですよ」
 どこか躑躅にも似た鮮やかさがありますよね、と添える花寿姫へ、ララの唇が愉しげに弧を描く。
 ――燃えるような情熱と、あなたしかみえないと謳う魅力の花。
「花言葉ですか? まるで今日の私みたい。今日は、貴方のことしか見ていませんもの」
「ふふ。お前の言葉は、露花氷より甘いわね」
 言って、ララがさくりと一匙、口へと運ぶ。春の暁空――特別に好きな空色を思わせる露花氷は、それだけで頬が緩んでしまうほどだけれど。食んだ途端に華やかに広がる桜蜜と、白雲を描いていた練乳の甘やかな風味が、むふふと|咲《わら》うララの笑みを一層幸せに染め上げる。
 そんな花笑みは見惚れてしまうほどで、花寿姫もまた、歓びを裡に秘めながら花型の硝子器から一口をすくった。ふたつのうちひとつの白玉と、甘酸っぱい苺の氷蜜。それらが消えた後には、躑躅の上品な甘い香りが鼻孔に余韻を残してゆく。
 ――まるで天の川の下に咲く躑躅のよう。
 ふと過ぎったその想いに、ララの声が重なった。
「お前はまるで、躑躅の妖精のようね」
 そんなお前におすそ分け。アーンしてあげる、と一匙向けられれば、花寿姫は幸せそうにぱくりと食んだ。お返しに「あーん」と手向けた匙のうえには、ふわふわ天然氷と、氷蜜と――おまけの白玉ひとつ。
「これがさいわいの味ね」なんてララが笑ってくれるから、与え与えられ分け合った幸に、花寿姫も花の容を綻ばせる。
 ああ、お天気雨ね――。そう眦を緩めて手を柔く差し出し掲げたララの横顔は、神の涙花のビジューを綺羅星のように鏤めたドレスを纏うお雛女様。夏花のはなびらから毀れた露たちが、白く滑らかなその掌へと零れてはひかりとなって弾けていく様に、ララは心地良さそうに笑みを湛える。
「|迦楼羅《ララ》も雨降りができるけど……」
「ララさんにそのような力が?」
 不思議な方。そう浮かんだ言葉を知ってか知らずか、ララはすべてを抱擁するかのような眼差しに花寿姫を映した。
「ふふふ。……でも、今は」
「ええ、そうですね」
 この地に住まう神がもたらす、恵みと満開の花味を。
 ――そして、心地良い雨音を奏でながら躍る雨を、存分に愉しもう。

御嶽・明星
エリカ・バールフリット

 雨の降る日は、嫌いだ。
 それがたとえ小雨であっても、事故で膝から下を喪った左脚が痛んだ。だのに不思議と、今目の前で降り続ける雨は痛みの欠片すらもたらさなかった。葉に、花片に、愉しそうに跳ねては陽の燦めきを散らしながら雨音を奏でてゆく。
 ――露花氷はエリカが買ってくるから、アカリはここで待っててね。
 その言葉のとおり、両手に露花氷を持ったエリカ・バールフリット(海と星の花・h01068)が、眼前の広場からぱたぱたと足早に駆けてきた。娘の纏う雨の|気配《けわい》で、花屋根から零るる花の香が、一層濃く甘く匂い立つ。
「はい、こっちがアカリの。苺の氷蜜に、蜂蜜の花の香りで良かったよね?」
「あぁ。手間かけたな。……にしても、こんな雰囲気のいい場所に、俺と来て良かったのか?」
 何気ない、他愛のない、ふと浮かんだ唯の疑問。
 だのに、エリカは迷いなく即答する。
「だってアカリ、エリカが連れ出さなきゃずーっと家にいるじゃない」
 ばらりずんと容赦なく心を斬る言葉に、御嶽・明星(推定・暁の明星・h00689)の胸が思わず詰まる。事実だからまったく、1ミリも言い返せない。
「間違ってないな……」
「引きこもりが祟ってアカリに何かあったら、お母さんに合わせる顔がないもの」
 言いながら、花影から硝子の器を外へと向けたエリカを真似て、明星もまた天気雨の下へと器を差し出した。
 青空から疎らに零れては露花氷に落ちるたび、一層氷を煌めかせてくれる宝石めいたひかりの粒たち。それがあまりにも眩くて、ふたりは暫し、言葉なく露花氷を眺めていた。
「んー……やっぱり氷はいちごよねぇ。それに、纏わせてるお花の香りも天才的にぴったり!」
「――なぁ。これ、何の花? 桜?」
「残念。桜じゃないのよねぇ」
 でも素敵な香りでしょ? そう言って|咲《わら》うエリカを横目に、もう一度匙を運ぶ。
 ひんやりとした柔らかな天然氷と交わる、深く甘酸っぱい苺の味。それに続いて鼻から抜けてゆくのはやはり、蜂蜜のように甘く、桜のようなに柔らかな花の香。
 けれど“違う”と言われてしまったから、その不思議な芳香への驚きを疑問へと変えながら、答えを探すようにじっくりと味わう明星をちらりと見ながら、エリカは気づかれぬようにそっと微笑む。
 そうしてまた、一匙すくって静かに食めば、再び裡へと満ちる甘やかな香り。

 ――答えは“エリカ”だよ、アカリ。

 それはちいさく可憐な、|花《娘》の名。
 だけど――あなたが当てられるまでは、内緒。

目・草

 夏色を帯び始めた、鮮やかな空。
 その境界線を描く稜線はあんなにも遠いのに、緩やかに伸びる裾野はこんなにも近くて、目・草(目・魄のAnkerの義子供・h00776)は黒く燦めく眸を一層まあるくした。
 村外れの田園風景を抜けて、なおも足取り軽く白い石畳を往く。ほろほろと零れ続けるかみさまの涙は、服を濡らすほどでもなく、軽く、柔く肌を転げてあたりへとひかりを散らす。そのたびに雨の匂いに花の香が混じるような気がして、草はいつしかぱたぱたと駆け出していた。
(どの辺りだろう? お店はどこかな?)
 ――山間の村に、それはそれは旨い花氷がある。
 商い狸から聞いた話を反芻しながら、視界に映った彩に惹かれるままに視線を巡らす。冒険王国『|四季の夢《カトルヴェア》』――その裡にあるリュースエルヴ村だからこそ、自然も、路も、家々も、なにもかもが鮮明に色づいて見えて、じっとしてなんていられない。
「あっ……! あれかな?」
 のんびりとした歩調ながら、行き交う人々が増えてきたことに気づいた草は、ぴょんとひとつ跳ねて先を見た。露花氷の文字と、なによりも香ってくる一等甘い花の匂い。近づくたびに、空気はどこかひんやりと涼を帯び始める。
 辿り着いた広場は、大きな円形に整えられていた。中央にはシンプルながらも美しい噴水があり、その周囲を囲うように、露花氷の店々と様々な花を戴くいくつもの|緑廊《パーゴラ》やフラワーアーチのベンチが並んでいる。
 話には聞いていたけれど、こんなにたくさんのお店――どこに行こうかと悩んでいた草の視界の端で、ゆらゆらとなにかが揺れた。一瞬でそれが猫の尾だと気づくと、反射的にそちらへと貌を向ける。
「見ない顔だにゃん。観光客さんにゃ?」
「うん。えっと……花氷が食べられるって聞いて、来たの。一つください」
 猫獣人さんだ、と裡でひそりと思いながら、カウンターの上へひょっこりと貌を覗かせた草はこくりと頷いた。黒猫又とも伽羅おじさんとも違う、髪の毛のあるちょっと大きめの二足立ちの猫。獣人階梯なるもので言うと何段階目なのかは良く分からないけれど、綺麗なサバトラ柄だとは容易に知れた。
「こちらがメニューになるにゃ」
 どうぞ、と手渡された紙を背伸びしながら両の手で受け取ると、草は真剣な眼差しで文字を追う。氷蜜だけでも、桃、すもも、さくらんぼ、ブルーベリー、メロン、ライチ、マンゴー……幾つもの美味しそうな果実名が連なっているし、フレーバーともなればそれ以上あった。あれも良いな、でもこれも良いな、なんて逡巡すること暫し――幼子は一番確実な答えを導き出した。
「――あの、おすすめください」

 緑と花の香に満ちた花屋根の下、白木のベンチにちょこんと座った草は、手の裡にある花型の硝子皿へと眼を細めた。
 猫店員さん一押しだという、ブルーベリーの氷蜜とヘリオトロープのフレーバー。期待に胸を躍らせながら一匙食めば、ひんやりしゃくしゃくとした食感と、爽やかな甘酸っぱさ、そこにバニラのような甘い甘い匂いが重なって、一層笑みが深くなる。
 ぽたぽた、ぱたた。葉やはなびらのうえで弾む雨音は愉しげで、時折、雫の重みで枝垂れた先からぱしゃりと零れる響きに、草の眦も嬉しそうに緩んだ。花影から洩れる陽は夏めく熱を帯びているけれど、
「身体も、こおりでひんやりすずしー♪ ……ってあれ、なくなっちゃった」
 気づけばすっかり空っぽの器。
 だけど、口のなかにはあの至福の味が残っているから。
 草はその甘やかさを思い返しながらまた、仰ぎ見た露纏う花へとふわり微笑んだ。

古賀・聡士
高城・時兎

 ――かき氷。
 あまり好んで食べる方ではない古賀・聡士(月痕・h00259)と、苦手ながら天然氷は好きな高城・時兎(死人花・h00492)。
 どちらも、露花氷ならば、と仄かな期待を寄せながら、メニューを前に、店先のカウンターで頭を寄せる。
「聡士、フレーバーと蜜、どーする? おれ、ラズベリーとジャスミン。白玉……は、これには合わないか」
「僕は……どうしようかな。蜜はブルーベリー、フレーバーは…金木犀とか?」
 生憎花にはとんと疎い聡士は、ふと思いついたちいさなオレンジの花を口にする。その組み合わせに興味を持ったのか、時兎はほんのり愉しげな視線を傍らへと投げる。
「聡士の、後で分けてほし。おれのもあげるから」
「うん? いいよ、あとで分けてあげる」
 時兎のも美味しそうだし、楽しみだね。そう微笑む先で、心を映したかのように雨露が踊り、ひかりが弾けた。

 ほどなくして、互いの手に収まった硝子皿。そこからでもふうわりと届く涼と花の香に、密やかに期待をそそられながら、時兎はきょろりと周囲を見渡した。
 露花氷店の並ぶ此処は、村の広場なのだろう。白い石畳の敷き詰められたその中央には噴水が緩やかな弧を描き、それを囲うように幾つもの|緑廊《パーゴラ》が集っている。
「……花の屋根の下で、とか、おれたちにはメルヘンすぎ」
「ははっ、違いない」
「何がい? ドクダミ? ウツボカズラ? ラフレシア?」
「わあ、出てくる名前が大衆ウケしなさそうなのばかりだ」
「なに、かわいーでしょウツボカズラとか、八重のドクダミとか」
「そこは好みの問題かなぁ」
 ぷくりと頬を膨らます時兎へと、聡士がくつくつと喉を鳴らす。
「フレーバーのある食べ物だし、ラフレシアみたいな強烈なのは避けたいね。あとは……見た感じ、ラインナップは今が季節の花ばかりかな。なら――あれ。あのスタージャスミンあたりはどう?」
 時兎にそっくりの白い花みたいだし、と聡士が優しく眦を細めるものだから、ちょっと拗ねていた気持ちも何処へやら。時兎はひとつ頷くと、ふたり連れ立って白い星花の許へと一時の居を構えた。
「うん、冷たくて美味しいね」
 片や青き氷は、さっぱりとした甘酸っぱさと豊かな甘さ。
 片や紅き氷は、濃厚な甘酸っぱくも爽やかな甘さ。
 己が匙を差し出したふたりは、その美味しさを比翼の番へとそっとお届け。
「ほら時兎、あーん」
「聡士の、おいし」
「でしょ?」
「金木犀はお酒もおいしーもんね。はい、おれのもどーぞ」
「――ん、時兎のも美味しい」

 これまで縁のなかった氷菓が紡いだ、ふたつの芳香。
 もうすこしだけでも、それに浸っていたいから。「
「金木犀とジャスミンのシロップ、探して帰ろ」
「それ良いね。――あ、そういやさっきの店にあったような……」
 そうして暫し寄り添う影に、夏の陽を映した雨露が弾け、幾つものひかりを鏤めてゆく。

空廼・皓
白椛・氷菜

 村が一番賑わう季節というだけあって、リュースエルヴ村の広場には露花氷の店々が立ち並んでいた。呼び込みや笑い合う人々の賑わいが、初夏の夏空に溶けていく。
「露花氷……かき氷……みたいな、もの?」
 オーダーカウンターの横にあるメニューを眺めながらこてりと首を傾げる空廼・皓(春の歌・h04840)へ、そうね、と白椛・氷菜(雪涙・h04711)も頷いた。不思議なかき氷――そう表現するのが分かりやすいだろう。
「氷蜜もフレーバーも、色々選べるのね……」
「俺、氷蜜はメロン、がいいな。今旬だし。フレーバーは……どうしよ」
 ぱたぱた、ぱたりぱたり、ぺしょん。真剣にメニューへと向かいながら、逡巡する思考を現すかのように揺れていた狼の尾が萎れた様子に気づいて氷菜が見遣れば、無表情ながらどこか憂いを帯びたような皓の眼差しと交わった。
「花の香り……よく分からない。氷菜、おすすめの、花、ある?」
「私も詳しくはないけど……あ、ヘリオトロープっていうのがバニラに似た香りみたいよ」
 調べ終えたスマホをしまいながら、「アイス乗せのメロンみたいにならない?」と提案してみせれば、なるほど、と皓が貌を上げた。「それはあり、かも」と、垂れた尾が再びそわそわと揺れ始める。
「氷菜、は? どうする?」
「そうね、私の氷蜜は……梅が良いな。フレーバーは、蜜柑の花にしよう。良ければ晧も味見してね」
 甘酸っぱいと思うけど、と添えた言葉に、ううんと皓は首を振った。どんな組み合わせにするのか興味があったけれど、答えを聞けばなお一層、爽やかでおいしそうだ。

 おまたせしましたー♪ と軽やかな店員の声とともにそれぞれの露花氷を受け取ったふたりは、広場の噴水の傍らで脚を止めた。
 咲き誇る花を思わせる硝子皿に盛られた様は、どちらも陽に燦めいて宝石のよう。雨露に混じってふうわりと届く香りだけでも美味しそうで、皓の心もついつい急いてしまう。
「早く、食べたい、けど……どこに、しよ?」
 悩んでいるうちに溶けてしまわぬようにと、氷菜がそっと器へと掌を掲げた。包み込むように冷気を纏わせてから、改めて周囲を見渡す。
「いろんな花の、屋根……ある……。氷菜、どの花が好き?」
「ん-そうね……クレマチスとか綺麗かも」
 ふと目に留まったのは、こぶりの白い|緑廊《パーゴラ》だった。房を成す葉と、それを飾る青紫の花たちが風に揺れるたび、雨露がふわりと舞ってひかりの欠片を鏤めてゆく。
 此処が今日の特等席。そう決めたふたりは並んでベンチに腰かけると、手許の露花氷と天高くより零るる雨の燦めきを揃って眺めた。視線を戻し、おいしそう、と洩らす皓が「いただきます」と手を合わせた様に倣って、氷菜も同じ言葉をなぞってから匙を入れる。
「ん……甘酸っぱくておいひい」
「んんっ……甘い。氷菜、氷菜。香り、正解。すごい、メロンと合ってる!」
 淡々とした貌と声だのに、尻尾はぶんぶんとはしゃいでいて。和むままに眸を細めた氷菜は、「はい、氷菜も味見」と差し出された一口をぱくりと食む。
 とろりと甘いメロンに混じる、夢のようなバニラの香り。それがふわふわの天然氷に溶けて消えてゆくから、またすぐにもう一匙が食べたくなる。
「……うん、美味し」
「ね?」
「晧も、私のどうぞ」
 器を近づけただけで分かる、甘く爽やかな芳香。不思議と心凪ぐようなその香とともに含んだ梅の氷蜜は、不思議とどこかまろやかで。
「氷菜のも、思った通り……爽やかおいしい」
「そう? なら良かった」
 互いの“好き”が、“素敵”だとわかる。
 その優しい幸せに浸りながらふたり、雨音響くひとときを過ごしてゆく。

天國・巽
月島・珊瑚
月島・翡翠
プリエール・カルンスタイン

 天高く広がる空はこんなにも晴れ渡っているというのに、未だほろほろと降り続けては地で弾ける雨粒たち。それこそがまさに神の気紛れなのだから、ときに多めに、ときに少なく、その降り方も疎らになるのも頷けよう。
 丁度、雨量が多めになってきた頃合いで店の軒先へと辿り着けた『まよひが』の4人は、一息吐きながら早速メニューを眺め始めた。
 ――『ふんわりと削り上げた天然氷に、あなた好みの氷蜜とフレーバーを合わせてスペシャルな一品を!』
「これがかき氷……露花氷?」
 メニューの隣に掲示されていたポスターのキャッチコピーを読み上げたプリエール・カルンスタイン(天衣無縫の縛りプレイ・h00822)は、そう言って小首を傾げた。ちらりと、視線を隣の月島・珊瑚(憧れは水平線の彼方まで・h01461)へ向ける。
「だねー。一般的なのだと氷と氷蜜だけだけど、ここのウリはさらにフレーバーが選べるってことろ。――じゃあ、アタシはメロンの氷蜜にフレーバーはバニラでお願いします」
「俺は、マンゴーに橙の香りにするか。甘い中に柑橘の爽やかな香りが合いそうだ」
「え。珊瑚も、巽さんも、決めるの、早い……! えっと……じゃあ、私は苺の氷蜜と、フレーバーは……あの、おすすめあったら、それで」
 さくっと注文し終えた珊瑚と天國・巽(同族殺し・h02437)に、わたわたと月島・翡翠(余燼の鉱石・h00337)も続く。「それなら菫はいかがでしょう?」と応える青年店員へとこくりと頷く様子を眺めていたプリエールも、なるほどと得心する。
「とは云っても、ええと……氷菓子はよくしらないの。珊瑚に任せていいかしら?」
 元より、珊瑚と翡翠が行くのなら、と着いてきたのだ。ここは詳しい者に委ねるのが無難だろう。ついつい姉に似ている珊瑚のほうに|我儘を云いがちな《甘えてしまう》のはご愛敬だ。
「オッケー。んー……そうだなー。――店員さん。彼女のは、氷蜜は桃で、ラベンダーのフーレバーにしてもらえますか?」
「桃にラベンダーか。洒落てるな」
「なんかのコラボカフェで見かけた組み合わせですよ。企業監修の味なら間違いなさそうでしょう?」
「あ。プリエールのも、できたよ。はやく食べないと、溶けちゃい、そう……」
「んじゃ、食べる場所探しに行こうか」

 気づけばまた薄くなり始めた雨の|気配《けわい》に乗じて、4人は店先の広場へと出た。
 ここにも幾つかの花屋根があるが、道中にも様々な|緑廊《パーゴラ》を見かけた。探せばほかもあるだろう、と珊瑚を先頭にすこし歩けば、
「あれ? あの|緑廊《パーゴラ》……蔦と葉っぱだけ? ……花はまだ咲いてないのかしら?」
「見て、池もあるわ!」
「睡蓮も、咲いてるね……綺麗……」
「へェ、こりゃあまさに風光明媚ってなトコだな」
 丁度おあつらえ向きのベンチとテーブルもあるしな、と口角を上げる巽に、珊瑚も声を弾ませた。
「……ここにしない? すっごい素敵なシチュエーション!」
「うん。すごく、良いと、思う……」
 頷く翡翠に、勿論プリエールと巽も賛同する。ふうわりと吹き抜けた風の運ぶ、葉々の香りに誘われるように白木のガーデンテーブルを囲めば、ちょっとしたお茶会の始まりだ。
 ぱたた、とととん。花屋根ならぬ葉屋根に零れては弾む露たちが、鼓を打つような軽やかな雨音を響かせる。ちいさな弧を描き、白い石畳へと落ちれば、弾けて消えていくたびに陽のひかりを鏤める。
 ささやかなれど心地良いその音色と景色が、ゆったりとした刻にじんわりと染みてゆく。
 こりゃあいいや、と独り言ちながら、巽は己が硝子皿から一匙を食んだ。ふうわりとした氷を包む、とろりと甘いマンゴーの風味。嚥下しながらも、橙の清涼な香りが裡に留まり得も言われぬ余韻を残してくれる。
 その対面、自分の露花氷の写真を撮り、選んだ氷蜜とフレーバーなどのメモを取り終えた翡翠もまた、そうっと氷菓へ匙を入れた。途端、雨露を孕んで鼻孔を擽る菫の香り。ゆっくりと舌へ乗せれば、忽ちさらりと天然氷は溶け、苺の甘酸っぱさが口一杯に広がってゆく。
 ふと移した視線の先にあるのは、降り続く雫が池へと幾つもの波紋を描き、睡蓮の花びらや葉で跳ねた陽の欠片が燦めく眩い景色。
「雨の中、外でこういうのを、食べるのも、悪くないね……」
「……私も、こうした瞬間はとても好きよ」
 柔く微笑んだ翡翠へと双眸を細めながら、プリエールも静かに瞼を伏せる。肩から力をゆるりと抜き、凪ぐ心のままに風の葉音に耳を欹てる。
 |城《いえ》でも、緑廊や花々に囲まれた場所で良く過ごしていた。|時間《季節》を感じられるなかで、自分はただその場に佇んでみせる――永遠の刻に在る城で覚えた、|悪戯心《遊び》とともに興じる初めての氷菓は、つるりと滑らかな舌触りの桃が、食むごとに柔らかな氷と混ざって深い甘さとなり、続くラベンダーの花の香がゆっくりと裡に染みて柔く解ける。心振わせるその味に、思わず静かに瞠目した眼に耀きが宿った。
「気に入ってもらえたようで良かった。――ん、アタシのチョイスも美味しい♪」
 向かいのプリエールの様子にひとつ笑みながら、珊瑚ももう一匙を口へと運んだ。濃厚なメロンの甘味にバニラが加わり、一層甘やかに幸せに包まれる。一見くどくなりそうな味も、それに重なる氷がひんやりとした後味に整えてくれるから、幾ら食べても飽きがこない。
 どの組み合わせも唯一ならば、その幸せをお裾分け。互いに一口を交換しあうなか、人心地着いた巽がちらりと視線を移した。
「それにしても、見事な|睡蓮《アルカンシエル》だ。まるで絵画のような……そういや、こっちの世界じゃなんて名なのかね?」
 やはり、虹に因んだ名なのだろうか。後で村人さんに聞いてみよう、と零す巽へ、プリエールもくすりと笑う。
「本当、巽は知識の泉ね。その水源には何があるのか――」
「あ、虹……!」
「え、虹ってあんなに大きの!?」
 食事時のマナーとしては、ほんの少し逸れてしまうかもしれないけれど。初めて見る万彩の架け橋はあまりにも鮮やかで、プリエールは思わず声を弾ませ、躰ごと視線を外へと向けた。
「あの根元……虹の生えてるところ行ってみたい! 行けるものなのかしら?」
「行ったことがある人がいる、とは聞いたことはあるなァ」
「あぁ……食べ終わる前に消えちゃう、かな。写真撮りたいのに……」
 隣で響いた珊瑚の声に、反射的に貌を上げた翡翠も空に掛かる七色を見つけて、しょぼんと眉尻を下げた。
 それでもまだ諦めはしないと、慌てて残る露花氷の山へと匙を入れる。ぱくぱく、ぱくぱく、味わいながらも急げ急げと食む、あまりにも愛らしいその様子に、
「――て翡翠。小動物みたい。保存していいかしら」
「えっ、今……!?」
 苦笑を浮かべながらカメラのレンズを構えたプリエールに、益々わたわたとする翡翠。それが一層面白くて、くつくつと笑み声を立てる竜娘へと、つられて皆も口許を綻ばせる。
「ニンフォニア――水の妖精の加護かね? ここでふたつも虹が見れるとはよ」
「ふふっ、確かにそうですね。どちらも綺麗……来ることができて良かった」
 優しい眼差しでぽつりと零した珊瑚の傍ら、
「こんなにはっきり見えるものなのね……あ、薄れてきたかしら」
「た、食べ、終わった……! 写真、撮る……!」
 そう笑いながら、ふたりの娘も遥かなる青に描かれる天橋を仰ぐ。
 ――ああ、納得だ。
(これだけ妖精が居るのなら、そりゃあ奇跡のひとつも起こるだろう)
 ひとつ笑みを深め、ファインダー越しに|3人《妖精たち》を映して静かにシャッターを切る巽に気づいた珊瑚もまた、微笑みを湛えたままに虹を見送る。

 心に浮かぶ、ちいさな祈り。
 ――この人たちの心にも、この光景が残りますように。

 いつまでも――きっと、ずっと。

ネリー・トロイメライ
ソフィア・テレーゼ
ミューレン・ラダー

 遠く、遠く。
 山の稜線へと旅立つように、初夏の風が吹き抜けた。空からの雫も連れてきたそれはさらりと爽やかで、淡く雨と花の匂いを運んでくる。
「暑くないし、雨でも寒くない! 面白いお天気!」
 大好きな|永和《拾い主》と暮らす√EDENでは、今の時期の雨というとじっとり湿気を孕んで暑苦しいけれど、からりとした風に乗って舞う雨粒は心地良くて、ミューレン・ラダー(ご機嫌日和・h07427)は両手をいっぱいに広げて雨を受け止めた。
「そうね。お天気なのに雨って不思議……こういう雨なら、濡れても気にならないわ」
「ええ、本当に。雨でも人気が多いのは、この雨が神の御業と親しまれているからでしょうか」
 ぱたたたっ、ぴちゃん。葉や花弁や、白く続く石畳に落ちた水滴がちいさな音を零すたび、形の良い耳をぴくりと揺らすネリー・トロイメライ(|音彩を綴る者《メロディテラー》・h07666)へと、ソフィア・テレーゼ(J-WL-P161164・h00112)も静かに頷く。
「ふたりは人ごみだいじょうぶ?」
「人込みは平気よ! 折角だから色々見ましょう。――そうだわ。迷子にならないように、お手々を繋ぐ?」
「お手々を繋ぐのいいね!」
「人混みは不慣れですので、そうしていただけると心強いです」
 閃きと同時にぴこん! と耳を立てたネリーに続き、その素敵な提案にミューレンも揃って耳を立てた。葡萄石色の双眸に微かな不安を滲ませるソフィアの左右から、その手を柔く握る。
 自分よりもほんのすこしちいさな手から伝わる、あたたかなぬくもり。
「ありがとうございます……はぐれないようにお供いたします」
 そう言って、ソフィアは安堵を湛えた眸を淡く細めた。

 よほど村人たちはこの神の涙花を待ちわびていたのだろう。
 山間のこぢんまりとした村だということを忘れるほどに、リュースエルヴ村全体が祭のように賑わっていた。一等店の集った広場を中心に、四方へと走る路沿いにも、花壇や露花氷の店、花屋根やフラワーアーチが並んでいる。
 そして、こんなにも店々があるというのに、傘屋はひとつもなかった。
 確かに、今まさに娘たちが目移りするままに歩いていても、肌に落ちた雨はさらりと零れ落ち、服の布へと染みた滴も気持ちの良い風がすぐに乾かしてくれる。
 絶え間なく降り続ける涙はきっと、嬉し涙。だから陽を映して、こんなにも燦めいているのだろう。
 あちらこちらから聞こえてくる人々の笑み声や賑わいに、ネリーとミューレンのお耳もぴこぴこ。
「全部見たいけど、戻れる自信がないにゃ」
「まずは、一番お店が揃っていそうな広場から巡ってみてはどうでしょう」
「そうね。なら、あの店なんてどうかしら」
 そう目に留まった1軒へと訪れてみれば、隣のお店も気になって。ついつい横にスライドしながら、気づけばぐるりと広場の店々を一通り見終えて、それぞれの選んだ露花氷を手に、三人娘は幸せそうに花笑みを浮かべる。
「さてと、空いている花屋根は……と。どの屋根の花も壮観ね」
「この広場だけでもたくさん……! 屋根になるお花って沢山あるんだね」
「そうですね。花壇もありましたし、自分が選んだフレーバーのお花を探してみるのも良いやも」
「それも素敵! ――あっ、あの紫色のお花はハーブティーで見たことある」
 見知った|彩《いろ》をみつけたミューレンの尾が、ぱたぱたと歓びに揺れる。新緑の葉を美しく飾る、まるで蒼い蝶を思わせる愛らしいフォルム。後でお土産に買おっと、と新たな愉しみにご機嫌に笑う。
「あのお花、お茶にもなるのね。不思議……。ソフィアさんのフレーバーは、ネモフィラよね? お空みたいな青の、あのお花?」
「はい。薄青の……春に咲き誇る姿は、まさに空との境界線も分からなくなるほどで綺麗なんです」
「√EDENでも見られるかな? ――あれ……?」
 ふと優しく鼻先を掠めた香りに、ミューレンがぴたりと脚を止めた。
「なんかすっごく甘くて、でも爽やかな匂いがする」
「あ、このお星様みたいな白のお花じゃないかしら? いい香りがするの」
 ここはどう? とネリーの提案には、もちろんふたりも大賛成! そっと屋根下へと入れば、そこにあるのは、見目も涼しげなスタージャスミンと揃いの、白木で作られた4人掛けのガーデンテーブル。早速座って、それぞれの選んだとっておきの露花氷を味わい始める。
「んんっ! ライチの果汁たっぷりで、甘くて爽やかなの美味しい! 金木犀がふわって香るのもたまらないにゃー」
「そう言えばミューちゃん、黒蜜と悩んでたのよね」
「うん。でも、味がつよつよだから旅団おうちでのかき氷フレーバーに取って置こ! って思って」
「それは素敵ですね。和風のかき氷もお好きな方多いですし」
「ふふ。黒蜜のとろりとした甘さ、格別だものね」
 ネリーの言葉に頷きながら、ソフィアは期待を胸に一匙を口へと運んだ。レモンの爽やかな酸味が、ふわふわに削られた天然氷と混ざってさらりと舌の上で溶けてゆく。後に残る、ネモフィラの澄んだ甘い花の香にひたり終えたころ、興味津々なミューレンの眼差しに気づいた。
「ソフィアちゃんのは、氷がさっぱりでネモフィラが甘いのかにゃ?」
「皆さま、一口食べてみませんか?」
「ありがとう。ミューちゃん、ソフィアちゃん、私のもよければどうぞ! 交換こしましょ!」
「わーい! みんなで一匙ずつ交換しよう!」
 幸せをお裾分けしながら絶え間なく続く、朗らかな笑み声。
 花屋根の葉と花弁のうえで躍った幾つもの雫がそれに混じり、心地良い響きを奏でてゆく。
「ネリーちゃんのは、氷が甘めでフレーバーがさっぱりだね」
「でしょう? 氷蜜の白桃に梅の香りを組み合わせたから、爽やかだけどとろんと甘いのよ」
「まさに、今の時期にぴったりですね。ほかにもまだまだ、素敵な組み合わせがありそうです」
「食べ終わったらまた、探しに行ってみる? お花見るだけでも愉しそうだにゃー」
「ネリーさんの見つけたこの花屋根のお花も、さっきミューさんが見つけたお花もとても綺麗でしたしね」
「そうね。まだまだ時間はあるし……もし虹が見られたら、更に素敵じゃない?」
 ふと過ぎった可能性をネリーが口にすれば、ミューレンの尻尾も一層ぱたぱた揺らめいて、
「雨降り中でも虹は出るの? 帰る前に見られたらいいなー」
「雨の日に虹を見れると幸運が訪れるとか……あ、」
 視界の端に映った七色に、真っ先に気づいたソフィアが花影から空を仰げば、ネリーとミューレンからも歓声が沸く。

 夏の訪れを告げる空色に描かれた、なによりも華やかな自然のアーチ。
 ――これは良い思い出になりますね。
 眸燦めかせて眺める友人たちの横顔と一緒に、ソフィアはその鮮やかな景色を大切に裡へと留めた。

茶治・レモン
史記守・陽
緇・カナト

「名物のひとつが露花氷って言うんだね」
 どおりで、こぢんまりとしたこの村の至るところで目にするわけだ――緇・カナト(hellhound・h02325)は、そう心中で独り言ちる。観光客目当てというより、これは完全に“推し活”だろう。村全体の“好き!!!”アピールが半端ない。
「良いねぇ、果実から作られた氷蜜~」
「果実そのままって、すごく贅沢ですね」
「ですよね。果実で作られた氷蜜……! はやく食べてみたいです」
 便利になったそのぶんだけ人工物も溢れている世の中だ。市販の氷蜜では味わえない天然のかき氷に感嘆する史記守・陽(黎明・h04400)に続き、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は淡々とした表情ながら期待に満ちた|気配《けわい》を纏っていた。それに気づいたカナトが口端を上げる。
「普通のカキ氷とも違って、なんだか面白そうだよねぇ」
「はい、どんな味なのか気になります。たくさんお店がありますから、あれこれ巡って決めましょうか!」
 賑わいに惹かれるままに、たん、と踏み出したレモンの足許で雨露が弾けた。
 天がもたらす神の涙花は、肌へ、服へと零れるけれど、ふわりと雫をさらった初夏の風が、からり心地の良い大気を運んできてくれる。花が、葉が露を纏って陽に燦めくなか、濡れた石畳にできたちいさな水たまりを避けながら、弾むようなみっつの足音を響かせて辿り着いたのは村一番の大広場だ。
 ぐるり視線を一周して、広場の縁をなぞるように並ぶ露花氷の店々を前にどこへ行くかと悩んでいれば、くい、と陽の服を誰かが引っ張った。
「ん……?」
「おにいさんたち、うちの“ろかごおり”、いかがですかっ」
 そう真剣な眼差しで問いかけてきたのは、ちいさなリスの耳ともふんとした尾を持った獣人の少女だった。レモンより頭ひとつほど低い背丈を見るに、まだ十にも満たない年頃だろうか。すこし大きめのエプロンの胸許にあるワンポイントのシルエットに気づいた陽は、ふと視線を上げた先に同じ形の看板を見つけて合点する。
「お嬢さんは、あちらのお店の店員さんですか?」
 しゃがんで目線の高さを合わせて優しく尋ねれば、
「はっ! なんでわかったんですか!? たんていさんですか!?」
「ふふ、惜しい。おまわりさんです。――どうでしょう、レモンさん、カナトさん。こちらのお店にするのは」
「これもなにかの縁だ。オレは賛成~」
「僕も勿論、構いませんよ。可愛い店員さん、案内してもらっても良いですか?」
「ありがとうございます! こちらですっ!」
 飛びはねん勢いで駆け出す、そのご機嫌に揺れる尾に続いて、大鍋堂の3人も歩き出した。

 白い外壁に青い屋根の愛らしい店先で、木目のカウンターに置かれたメニューを覗き込む。
「僕はやはり、名前からとってレモン……ではなく! 白桃にします。果肉やアイス、ソフトも乗せて……最後にレモンのフレーバーを添えたら完璧です!」
 シキさんとカナトさんは、何の氷蜜にされますか? と隣へと視線を遣れば、
「グレープフルーツにネロリにしてみます。無難ですが、柑橘系同士だったら相性が良さそうですし」
「オレは葡萄味に、菫の花の香り。ひんやり白玉でも添えちゃおうかな」
「カナトさん、ぶどうがお好きですもんね。シキさんはグレープフルーツ! どちらも美味しそうです」
「葡萄、お好きなんですね。白玉の食感も良いアクセントになりそうです」
「シキ君の好みは、柑橘系?」
 そう尋ねるカナトへ、「いえ」と陽が眉尻を下げた。「実は、甘い物はそこまで得意ではないので……初夏らしく、さっぱりとした味わいでと思って」と添えながら、オーダーを続ける。
「トッピングは……レモンやコーヒーゼリーがあったらのせてみたいな。あ、レモンさんものせますか?」
「あっ、僕も乗せて良いですか? カナトさんのにも乗せましょうか、乗せますね、乗せました!」
「ねぇオレの意志は?? 承諾は???」
 なんて言いつつも、割となんでも愉しめるのが特技のようなものだから。真っ先にくつくつと笑みを洩らし始めたカナトに続き、ふたつの笑み声も重なって。そのままリスの看板娘に見送られながら店を後にした3人は、きょろりと視線巡らせ花屋根を探す。
「さてと、どこにしようか」
「花のことなんてあまり普段意識しないからな……花屋根に咲く花の名前も、どれがなんだか……」
 言いながらあたりを見渡せば、雨になお鮮やかな花の|彩《いろ》。この機にいろんな花の名を覚えていきたい。もしかしたら、仕事の役に立つかもしれない――そんな願いにも似た想いが陽の胸を過ぎる。
「僕も花は好きですけど、詳しくはないんですよね……あっ! あれは知ってます! スタージャスミン!」
「なるほど、あれがスタージャスミン。メモしておこう」
「宜しければ、あちらの緑廊でいかがです?」
 レモンからのそんな素敵な提案を、断る理由なんて欠片もない。
 ちょっと一息雨宿り、と花屋根の下に並んだ白いピール編みの籐椅子へと腰かければ、濃く甘く、けれど爽やかな香りに包まれる。
「では早速……いただきます!」
 さくりと入れた匙でちいさな山をすくってぱくりと食めば、忽ちひんやりとした食感がレモンの裡へと染み渡った。アイスクリームとソフトクリーム、2種の異なる贅沢な甘さへ白桃の上品な風味も加わり、レモンの爽やかな香りがすうっと鼻孔を抜けてゆく。
「美味しそうに食べるねぇ。レモン君は白くて甘いもの好きそうな印象あったけど、白桃とレモンの香りは爽やか雰囲気もしていそうな」
「それ! それですよカナトさん。僕の選択に間違いはありませんでした」
 どこか得意気なレモンにくすりと微笑むと、カナトも手許の硝子皿から一匙取った。その姿のように仄かに甘く香る菫に続いて、口いっぱいに満ちる芳潤な葡萄の味。程良い酸味の混じる甘さに、天然氷に包まれひんやりもちもちな白玉の食感がたまらない。
「これこれ! ワインや砂糖漬けとはまた違った味わいで楽しい~」
「そういえば、菫の香りってどんな香りなんでしょう?」
 ふと零した陽へと、カナトが自身の器を差し出してみれば、漂う軽やかな甘い花の香り。ひとつ礼を添えた陽も、己が露花氷の硝子皿をふたりへと向けてみる。
「グレープフルーツにネロリの香り……! なんとなくお日様とか柑橘系イメージあったなぁ」
「こちらも、初夏の爽やかさがあって良いですね」
「うん。レモン君のもシキ君のも、どっちも夏を涼しく過ごせそう。――ちなみに、ふたりが選んだのは好きなフルーツや花の香りだったり?」
 陽と雨を浴びて次々に咲き綻ぶ花のように、話題に尽きることなく咲き続ける会話の花。
 互いの好きなものを知って、お裾分けして。ちらり視界に入ったスタージャスミンの白へと、カナトが眼を細めた。
 雨に濡れる花弁。
 ふうわりと香る、雨と花の柔らかな香。
 ちいさく耀く幾つもの雫が、さらりと吹いた風に乗って、味わいきれぬ佳景に眩いまでのひかりを鏤めていった。

七・ザネリ
ジャン・ローデンバーグ

 冒険王国『|カトルヴェア《四季の夢》』――その王都で買い求めた地図上でしか知らなかったリュースエルヴ村は、山の谷間に広がる長閑な場所だった。
 農業や牧畜の区画の間を走る白い石畳の両脇には野の花が咲き、緩やかなカーブを描きながら村のなかへと続いている。
「あとはこの路を真っ直ぐだな」
 防水の魔法を施した地図へと落としていた視線を上げると、ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)はちいさく口角を上げた。
 こうしている最中にも天気雨は降り続き、陽を映して燦めく雫が、地図のうえを滑りながら端へと零れていく。水気を孕みながらも、肌を撫ぜて吹き抜ける風はからりと軽く涼やかだ。
「それにしても、ザネリ。お前も偶にはこういうお洒落スポットが気になる……いや、分かった。どーせ気になるのは露花氷だろ」
 云って、傍らを歩くひょろりと長身の男――七・ザネリ(夜探し・h01301)へと半眼を向ければ、絶望的な甘党たる当の本人は僅かな間をおいて薄笑いを浮かべる。
「……ガキが喜びそうだろ。お前こそ、準備万端じゃねえか」
 まるで裡を覗かれたように言い当てられた心境を、素直に認めるのはどうにも癪で。大人は難しい生き物だからな、なんて脳裏で呟いているのすらお見通しなのかどうか、さして気にした様子もないジャンは地図を畳みながらザネリを見上げた。
「じゃあ、おいしー店を探そうぜ」
「ひひ、店選びは重要だ。道案内は任せたぞ、航海士殿」
「ハイハイ、王様兼天才航海士に任せて」

 ほどなくして到着した村の、その中心にある広場へと向かうと、再びジャンは地図を広げた。裏面にある、詳細な店舗紹介――名づけて“露花氷攻略マップ”をじっくりと読む。
 その傍らで、ザネリはぐるりと周囲を見遣る。あちらを見てもこちらを見ても、露花氷の店ばかり。文具や野菜のシルエットを象ったアイアンプレートを店先に吊り下げている様子を見るに、どうやら普段は違う品を扱う店まで露花氷を扱っているらしい。
「神の涙花ってのは、余程重宝されてるみてえだな……」
「ここが広場だから……なるほど。ザネリ、この奥の店が甘さ強めで美味しいって!」
「――お、良くやった。褒めてやる」
 そうして訪れた店は、白壁を花蔦が彩る一軒家だった。大きく開かれた窓から迫り出したカウンターの脇にメニューがあり、目敏くそれを見つけたザネリが早速眺め始める。
「想像以上に種類があるな……3つくらい食えるか……? ……いや、あの頭痛に勝てる気がしねえな……」
「こんなにあるとは……葡萄だけでも3種類あるのか……フレーバーは……わ、もっとあるぞ……」
 互いに中折のメニューを――途中で、店先にあった椅子を借りて座りながら――吟味すること暫し。先に立ち上がったジャンが、「じゃあ、味がマスカット。フレーバーはスズラン。練乳付きで!」と注文した。晴れ晴れとした顔で椅子へと戻ると、背を丸めてまだメニューを凝視するザネリに、ひとつ嘆息する。
「ザネリ。まだかかる――」
「――よし。店主! 注文だ。西瓜に、フレーバーはジャスミンを」
 そんな、いつもの無愛想のなかにどこか熱を孕んだ男の声に、「あいよ!」と闊達な親父の声が店奥から返った。

「よしザネリ、景色いいとこで食べるぞ!」
「どこも似たようなもんだろ。さっさと決め――」
「……あ。あそこのベンチ空いてる。あっち!」
 広場を背にすこし歩いた先、ちょっとした高台にある花屋根を見つけたジャンは、零さぬように花型の硝子の器を持ちながら足早に歩く。仕方ないと言いたげな顔でそれに続くザネリは、先に到着して座っていたジャンの隣へ気怠げに腰を下ろした。
「雨が降ってるからか? 枝垂れた花からも良い香りがするな。見晴らしが良くて、青空も綺麗で……」
「さて。花より団子だ、ジャン。溶ける前に食うぞ」
「……まったく。お前は情緒がないな……」
 呆れ顔で傍らを一瞥してから、手許の露花氷をそっと匙ですくう。
 ほんのりと淡い緑に染まる天然氷をしゃくりと食めば、忽ちふわりと爽やかで愛らしい甘い芳香が鼻腔を擽った。
「! これ美味しい! 匂いが良いな!?」
 それと近しい、けれど深い甘味をもたらすマスカットの氷蜜はちいさな果肉入りで、食べているうちに薄れてしまいかねないそれらの味を、上質な練乳の甘さが最後まで引き立てていた。心が求めるままに幾度も匙をすくっては、ふわふわに削られ淡く雪のように溶けてゆく天然氷の舌触りと、氷蜜の甘さを満喫する。
「ザネリのほうはどうだ? 西瓜とジャスミンだったよな?」
「……やはり俺の選択は間違っていなかった……」
 云いながら、男は再び匙を口許へと運んだ。ジューシーで濃厚な西瓜の甘さをたっぷりと含んだ、ひんやりと柔らかな天然氷が舌のうえで解けてゆくたびに、濃密なジャスミンの甘い香りが鼻を抜けながら極上の余韻を残してゆく。暫く食べ進めれば再び氷蜜の層が現れて、下層にいくほどに一層濃く深い甘味が愉しめることに気づいたザネリは、歓喜に心を震わせた。
「美味い……コレ、如何にかして、持ち帰れねえか? 花の香りが良い仕事をする……」
「シロップなら持って帰れるんだけどなあ、これが魔法の力か?」
「かもしれねえな。――っと、一口貰い。ん、うめー」
「……あ! こら! 子供みたいなことすんな! お前のも一口寄越せ!」
「ひひ、仕方ねえから食わしてやるか」
 にまりと唇で弧を描いた男が、傍らへと器を向ける。
 そこからすくった一匙を、美味しそうに食む少年を横目に――ザネリはひとつ、幸福に染む息を零すのだった。

櫻・舞
氷薙月・静琉

 からころと下駄の音を響かせながら、白い石畳をふたり往く。
「神の涙花……か。陽に燦く天粒の神秘性を言い得て妙だな」
「はい! そうですね。雨は、私や皆様にとって大変な恵みです!」
 云って空を仰ぎ見た櫻・舞(桃櫻・h07474)の頬に、止め処なく降る雫のひとつが音無く落ちた。
 ふわりと吹いた初夏の風は軽やかで、天からはらはらと零れる雨露を舞い上げては、陽の耀きを鏤めながら山間を駆け抜ける。空はどこまでも蒼く、時折、細く澄んだ鳥の聲が染みるように響いては消えてゆく。
 他愛もない言葉を交しながら、気づけば不思議と歩きやすくて、舞は隣をちらりと見遣る。
(……きっと、歩幅を合わせ下さっているのだわ)
 見知らぬ場所故、迷子にならぬようにと懸命に――小柄で和服故に、ちょこちょこと――歩いていたのだけれど、逆に気を遣わせてしまっていたのかと申し訳なく思いながらも、ちいさな嬉しさも滲む。
 それを知らぬまま、歩調を合わせる静琉の裡に過ぎるのは、これまで過ごしてきた刻の長さだった。
 とうに数えることを止めたほどの永きを独りでいたためか、誰かと肩を並べて歩く感覚がひどく懐かしい。昔は普通にできていたことなのに、今日とてもう随分とこうして歩いているのに、不思議と未だ慣れる気配がない。

 そうしているうちに、気づけば村の広場へと着いていた。一層賑やかな人々の声が、花の香に混ざって響いている。
 あちらのお店は如何でしょうか、と遠慮がちに云った舞に倣って視線を向ければ、広場の一角に白い小花の散る花屋根を擁した店があった。近づけばふうわりと漂うスタージャスミンの香りに、舞の口許が自然と緩んだ。
「そろそろ実体化しておくか……っ、……」
「大丈夫ですか、静琉様!」
「気にするな……大丈夫だ」
 痛みを堪えるかのように柳眉を寄せる静琉へと、慌てて寄り添う舞。けれど気丈にも向けられる微笑みを前にしては、どうにも静琉に甘えてしまう。
「それより、露花氷を注文しよう。舞は、何にするんだ?」
「はい! 注文ですか?」
「俺は……生憎、花にはあまり詳しくない。――店主。酸味が控えめで、甘いものを頼む」
「私も、花は桜しか知らなくて……でも、折角なので違うお花をお任せで。フルーツ? は……では、桃を」
 桜色の艶やかな果実を想い描きながら、そわりと胸高鳴らせて注文を終えると、暫くして花の形を模した硝子皿に盛られた天然氷が運ばれてきた。ひとつずつを盆に載せ、ふたりはスタージャスミンの花屋根の下にある白木のベンチに腰を下ろす。
「さあ、溶ける前に……いただきます」
「はい! ――頂きます」
「んむ……美味い。店主は確か、マンゴーの氷蜜と云っていたな。香りは……蝋梅だったか」
 匙を運ぶたびに鼻腔を擽る、ふくよかで甘い芳香。それとともに口いっぱいに広がるとろりとしたマンゴーの甘味は、ひんやりと柔らかな氷が舌の上で蕩けたあとも確りとした満足感を残してくれる。
「私のも、ひんやりと甘いくて美味しいです」
 つるりと喉越しの良い桃の果肉を食むたびに、上品な甘味が舌へと染みてゆく。沈丁花という花だと教えてもらった芳香は優雅で甘く、けれど新緑のような爽やかさもあって、不思議と心が穏やかな心地だ。
(……まるで、静琉様といるときのよう……)
 自我が芽生える前も後も、屋敷から出たことのなかった私を、これまでに幾度も外へと連れ出してくれた優しいお方。
 世界はこんなにも色づき、優しくあたたかいのだと教えてくれた。生を受けた意味を、存在する理由を知らぬ私を、いつだって導いてくれた。
 一緒にいるだけで幸せで、穏やかな気持ちをもたらしてくれる。
「舞……俺のも食ってみるといい」
「あっ、はい! では、お言葉に甘えて……はぅ、美味しいです」
 眦を緩めながら頬張った娘は、「こちらも一口どうぞ」と器を向けた。勧められるがままに一匙すくって、静かに食めば、優しい甘さがじんわりと裡に広がり染みてゆく。
 ――彼女は、神の類だ。
 神子だからこそ容易く察することのできるその事実を、純粋に、幸せそうに微笑む娘は、まだ知らない。
 幾度となく問いかけては、未だ答えの出ぬ問いかけが裡を過ぎる。

 この出逢いになにか意味があるのならば――俺に、何ができるだろう。

リカ・ルノヴァ

 ひかりを纏って、ぱらぱらと舞うように降る雨は不思議と心地良くて、店々の並ぶ白い石畳をゆくリカ・ルノヴァ(Bezaubert・h00753)の足取りも軽やかに弾む。
「かき氷♪ かき氷♪」
 露花氷なんてとびきりの話を聞いたのなら、もうじっとしてはいられない。
 数多の氷蜜とフレーバーが生み出す無限の“おいしい”に胸躍らせながら唄を口ずさむ娘の頬を、からりとした風が吹き抜けた。夏の訪れを告げるような鮮やかな青空から零れ続けるちいさな雨粒たちは、ふわりと舞い上がり世界へとひかりを鏤めていく。
 人々の賑わいに惹かれるまま歩を進めた先、ぱっと目についたのは華やかに|緑廊《パーゴラ》を彩る白い花たちだった。雨の|気配《けわい》に混じる甘やかな香りにつられて、リカはその花屋根を擁する露花氷の店へと吸い込まれる。
「満開のお花って可愛いね。真っ白! なんて名前のお花かな?」
「おやお嬢さん。うちの花に気づくとはお目が高いね。あれは“定家葛”っていう花さ」
 香りが似ているから、よくジャスミンと間違われることもあるのだと添えた店主は、快活な笑み声を響かせた。聞けば、花の手入れも彼がやっているらしい。代々露花氷の店をやっているというから、恰幅の良い見目ながらも意外と繊細な仕事が向いているのかもしれない。
「さて、オーダーは決まってるかい?」
「勿論だよ! ――桃のかき氷あるかな! 僕の今日の気分は桃なんだ!」
「ああ、あるとも。フレーバーはなににする?」
「お花の香り? じゃあ、それはお任せするよ」
 花ならばきっと、そちらもさぞ甘やかなのだろう。けれど、甘さならば桃だって負けてはいまい。そのふたつが、氷を介して混ざり合う――こうして考えているだけでも、わくわくそわそわと落ち着かない。

 店主おすすめの、空がよく見える一等席に座って待つこと数分。
 運ばれてきた露花氷を前に、リカは一層眸を燦めかせた。
「キラキラでとっても綺麗! あ、この硝子の器もお花の形だ……!」
 ぱたたん、とととん。葉や花びらを叩く、どこか愉しげな滴の音色に包まれて、待ちに待った一匙をすくい――早速いただきます!
「うんま~! しあわせ~! さわやかあま~い!」
 まずは、たっぷりと掛けられた氷蜜だけを食んでみれば、その濃厚な甘さとつるりとした食感に忽ち頬が緩んでしまう。
 次いで氷と混ぜて2口目をぱくり!
 ふんわりと刻まれた天然氷はそれだけでも仄かに甘く、桃の果肉や風味と合わさることで、ひんやりしゃくしゃくとした舌触りと甘味を存分に愉しませてくれる。氷と合わさることで程良く冷やされるからだろう、一層瑞々しさを増した桃をカモミールの華やかな香りが包み込み、“美味しい”を幾ら云っても足りないほど。
「桃氷! 最高……!! おかわりしてこよ!」
 匙を繰る手が止まらずに、気づけば空になっていた器を手に、リカは再びカウンターへと赴いた。同じものを注文したのち、はたと思いつく。
「そうだ、果物だけならもって帰れないかな……おみせのひとー!」
「おう、どうしたお嬢さん。追加注文かい?」
「僕の友達ペットにもこの美味しい桃を食べさせてあげたいんだけど、お持ち帰りってできませんか?」
 そう、駄目元いっぱい、期待をほんのり孕んだ青い双眸を向ければ、店主も快諾しながらサムズアップ!
「何個ありゃいい?」
「んー……いっぱい!」
「ははは、いっぱいか! よし、うちの店の一番デカい袋にたくさん詰めとくから、お嬢さんはゆっくり食べてな」
「ありがとー!」
 軽やかにひとつ跳ねながら席へと戻ったリカは、そうして2杯目の露花氷一匙食んで。
 また、幸せ色の笑みを零すのだった。

空沢・黒曜

 風が、ゆるやかに抜けていった。
 空沢・黒曜(輪る平坦な現在・h00050)の毛並みに触れたのは、濡れていながらもからりと乾いた、初夏特有の軽い空気。肩に一滴、また一滴、舞い落ちた雨粒がひかりを纏って弾けていく。
 空を仰げば、山の稜線の向こうに広がる薄青を深めゆく空。なのに、止め処なくほろほろと雫はこぼれてくる。神の涙花――この村の人々がそう呼ぶそれは、なるほどふしぎと肌に優しく、軽やかな雨だった。
「まさに、今の時期にはちょうどいい場所だね」
 ぽつ、ぽつりと石畳に咲く水の紋。歩くたび、足許から小さな音が浮かんでは消えていく。通り沿いの|緑廊《パーゴラ》に蔓を伸ばすブーゲンビリアの花が、雨露をまとって鮮やかに咲いていた。軒先をひとつ借りるようにして腰を下ろせば、屋根の縁からきらりと一筋、ひかりの弧を描いて雫が足許へと落ちた。
 手にした花型の硝子皿にふんわりと盛られた天然氷へと掛かるのは、桃色の氷蜜。選んだフレーバーは、字面でなんとなく気に入ったものだった。
 匂いがわからないのは、もうずっと前からのこと。けれど、それを惜しむ気持ちは不思議と湧かない。目に見えるもの、肌に感じるもの、舌に広がる味。そういうものをひとつひとつ、丁寧に拾っていけばいいだけの話だ。
 一口。氷の冷たさが、舌に触れた瞬間に甘さへと変わる。
 ふた口目には、ほんの少しだけ果実の丸みが舌にほどけた。さく、しゃり、と静かな音とともに、喉の奥へと、染みてゆく甘味。頭が冴えるほどの冷たさではなく、暑さをほどよく引かせてくれる、ちょうどいい涼。星屑のような燦めきを食んでいると、どこかあのちいさなひかりを味わっている気にさえなってくる。
「……うん、美味しい」
 視線を少しだけ上げた先で、ブーゲンビリアの花々が風に揺れていた。雫をまとった花びらが、陽のひかりを受けて淡く輝く。耳に届くのは、雨の落ちる音ばかり。しんとした静けさのなかに、音がふわりと滲む。さざめく葉、はずむ水、どこか遠くで響いた鳥の聲――すべてがこの村のひとときなのだと思う。
 剣も鎚も、ツルハシも握らずに、ただ、雨の下で甘味を食べる――たまには、こんな贅沢な過ごし方も良いものだ。

 天気雨はまだ止みそうにないけれど、それもまた、この風景のかけらとして。
 ダンジョンへと続く路は、もうすこしだけ先に延ばしてもいい気がした。

アニス・ルヴェリエ

 空はこんなにも晴れ渡っているのに、けれど雫は今もまだ降り続いていた。
 柔らかく、不思議と軽やかに――まるで空のどこかで誰かが、摘みたての雫を手のひらからこぼしているような天気雨のなかを、アニス・ルヴェリエ(夢見る調香師・h01122)はお気に入りの傘を傾けてゆっくりと歩く。開いた傘へと落ちた雫が、ととん、たたん、と布地にあたってノックする。
「初めて来たけれど素敵な村ね」
 視線の先では、葉が、花が柔らかに濡れ、雨粒がひとしずく、花弁を伝ってまたひとつ石畳へと滑り落ちた。
 傘越しに見える空は、淡く透けた青。せっかく出かけるならば晴れているほうが好きだけれど、まさに神の御業といえる自然の素晴らしさが、アニスの裡を静かに満たす。
 鼻腔をくすぐるのは、濡れた草の匂い。そして雨に触れて立ちのぼる、初夏の大地の|気配《けわい》。
「この匂い……ちょっと土っぽくて、でも青くて……うん、覚えておこう」
 そうしてぶらりと散策して、お目当ての露花氷も手にすれば、ふわりと口許に笑みが浮かぶ。

 スタージャスミンが枝垂れる花屋根のもとへと足を運び、ひとつ息を吐く。風に揺れた白い花びらが、露に燦めきながらそっと白木のベンチを彩った。
 硝子の器に盛られた天然氷へと、淡い黄緑と白の涼やかな層を描く氷蜜。ひとひら、飾りのように添えられたミントの葉も愛らしい。
 露花氷――名を呼ぶだけで甘やかな冷たさが胸にほどけるようで、アニスは目を輝かせて花型の硝子皿を手に取った。キウイの氷蜜にミントの香り。澄んだ季節にふさわしい、さっぱりと爽やかな組み合わせだ。
「待ちに待ったお楽しみ……ふふ、いただきます」
 スプーンを差し入れて、ひと口。
 しゃり、と舌に触れた氷が、すぐさま甘酸っぱさを帯びてとろけていった。キウイの清涼な果実感が喉の奥をやさしく撫でたあと、ふわりと広がったミントが涼を残したまま消えていく。
 陽を含んで煌めいて、まるで香水瓶を透かしたような優しいひかりの粒が、空から絶え間なく舞い落ちる。雨音を響かせながら、スタージャスミンの花もまた、露をうけて香り立つ。細く清らかで、雨を孕んだまろやかな匂い。
「この香り……新作香水のインスピレーションが湧いてきそうだわ!」
 もうひと口、氷をすくって頬張る。冷たさが舌をくすぐり、胸の奥でゆっくりと花が咲くように味が広がってゆく。
 穏やかな風が吹く。雨と、花と、氷蜜と――いくつもの香りが重なって、ひとつの風景となる。
 雨の日も、悪くない。
 むしろ、こんなにも多くの香りと、静かな時間に出逢えるのなら。
「……ふふ、なんて贅沢なひとときかしら」
 アニスはちいさく口許を綻ばせながら、硝子の器を静かに傾けた。

シュネー・リースリング

 耳へと響く、レースの日傘を優しく叩く雨音を愉しみながら、シュネー・リースリング(受付の可愛いお姉さん・h06135)はしとやかに足を運ぶ。
 白いレースをあしらったサマードレスの裾が陽に透けてやわらかに揺れ、ふわりと吹き抜けた風に舞い上がった雫が、キャミソールから出た白腕を伝い零れてゆく。日傘の裡は薄く金を帯び、その燦めきに紫の双眸を薄く細める。
「さてと。どのお店にしようかしら――あら、」
 白い石畳沿いに咲きこぼれるテイカカズラの|緑廊《パーゴラ》。その陰に飾られていたスイーツ屋台のひとつに目をとめ、シュネーはするりとそちらへ足を向けた。

 村の名物スイーツたる『露花氷』を見た瞬間から、娘はあるひとつの可能性に気づいていた。
 ――これはもっと可愛くできる、と。
 そうしてメニューに並ぶ文字を一通り追うと、さらさらと淀みなくオーダーを告げて。期待以上の見栄えに仕上がった一品を手に、胸躍らせながら――けれどあくまでも仕草は楚々と、シュネーはテイカカズラの花屋根を潜った。崩れぬようにそうっと露花氷をテーブルへと置くと、自身も白木の椅子へと腰を下ろす。
 透明の花型の器に美しく盛られたのは、果実と花を閉じ込めた“露花氷のフロート仕立て”。紫の葡萄の氷蜜をベースに、上には白桃のジェラートとラベンダーの砂糖漬け、仕上げに練乳をふんわりと注ぎ、パステルカラーのおいりを散らした贅沢な一品。見目が華やかだから、フレーバーはくどくならないよう、トッピングにも使ったラベンダーの香りを選んだ。
「ん~~……最高に可愛いわ……!」
 歓喜に胸を震わせながら、スマートフォンを取り出し、カメラアプリを立ち上げる。光源の角度、露花氷の向き、背景の風景――すべてが完璧な構図になるまで微調整を重ねて数枚写真に収めたら、お待ちかねのひとときだ。
「崩すのは勿体ないけど……でも、溶けちゃうのはもっと勿体ないし。ふふ、いただきます」
 ふわりと鼻先に触れる、優しいラベンダーの香り。一匙すくえば、ひんやりとした氷蜜が舌に乗り、桃の柔らかな甘みに続き、それよりも濃く甘やかな葡萄と白桃の風味が広がってゆく。氷に混じり薄まりそうな味に練乳がほどけて、最後まで幸せな甘さが裡に残る。
 ふと外を見遣れば、軒先の枝垂れた葉先から零れたひとしずくが、白い石畳にちいさな光の輪を描いた。風がそよぎ、ちいさく柔らかな花の香が胸を満たしていく。
 ――こんな穏やかな昼下がりが、きっと世界にはもっと必要よね。
 たとえ闘いがなくならずとも。哀しみが消えることがなくても。こうして笑って過ごせる刻の大切さを、シュネーもまた、知っている。

 露花氷に煌めく雫のパウダーが、ほんのりと光に透ける。
 ゆっくりとしたこのひとときを彩る雨音は、しばらくの間続いていた。

ベルナデッタ・ドラクロワ
廻里・りり

 村のなかを抜けてゆく白い石畳を往けば、広場の賑わいが近づいてきた。
 あたりに満ちた、濡れた花の香を仄かに含んだ雨の匂いにつられて、ひとつ深く呼吸する。からりと心地良い風に混じる、ひんやりと微かに甘い空気が、どこか夏の入口を思わせて、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)と廻里・りり(綴・h01760)の口許もふわり綻ぶ。
 家々の庭や花屋根を飾る、新緑や花びらへと零れては消えてゆく雨露たち。躍るように軽やかに弾ける様はどこか眩くて、ふと細めた眸をゆるり映せば、あちらこちらの花屋根でくつろぐ人々の手に彩り華やかな露花氷が見えた。
「あれが露花氷……というの。まるで雫が星みたいね」
「とってもきらきらできれい。お名前もかわいいですよね、露花氷!」
「あら、りりの眼もキラキラ」
 愛らしい様子に、楽しみで仕方がないのね、と笑みを深めたベルナデッタは、「それじゃあ、先に座る場所を決めておきましょ」とひとつ提案を口にする。
 一緒に選ぶのも愉しそうだけれど、折角ならばそれぞれで買い求めてからの見せ合いっこ。
 互いの裡にある、宝物のような“好き”を教え合う――それは娘たちのちいさな内緒話のよう。
「ねえ、あのフラワーアーチの椅子はどう? ブランコみたいで可愛いわ」
 りり、あなたブランコ好きでしょ? と問いかけるも、りりはちょっと思案顔。
「ブランコは好きですしかわいいですけど……こどもっぽいかなって……」
「あら、ワタシも好きなのよ。子供のだけの物じゃないわ。揺れて遊んで、お花に囲まれて甘いものなんて。ね、オトナの遊び方よ」
 そう云って、少女のようなあどけなさを残しながらベルナデッタが淡い薔薇色の双眸を艶やかに細めれば、りりの透いた眸の青が一等大きく見開かれ、期待に染まる。
「おとなの遊びかた……! ここにしましょうっ」
「あら、乗ってくれる? じゃあ、お互い露花氷を持ってここに集合にしましょ」
「わかりました。なにを買ってくるかおたのしみですね?」
 ぴこん! とまあるい耳を立てて、いっぱいに微笑んで。
 ――いってきます!
 天気雨の下、そう云って駆けてゆくりりの足許で、雨粒が星のように燦めきながら弾んだ。

 公園の一角にある白いフラワーアーチへ戻ってふたりで座れば、崩れぬようにと大切に運んできた互いの“一等”のお披露目会の始まりだ。
「ワタシのはスモモの氷蜜にしたの。バラのフーレバーよ。華やかにして貰えたみたい」
「わぁっベルちゃんらしさが出てますね! わたしはパイナップルとジャスミンですっ」
「りりのは、トッピングがたくさん。すごいわ」
「……アイスと白玉だけって思っていたら、種類がいっぱいでまよってしまって……“ここからここまでください”ってしてきました!」
 白玉とパイナップルゼリーが、交互に縁取る硝子皿に、ふんわりと盛られた天然氷。夏の陽の色めく鮮やかなパイナップルの氷蜜にはチョコレートソースで縞が描かれ、カラースプレーが鏤められた柔らかなメレンゲが帽子のように乗り、頂には白と黄のちいさなアイスが並んでいる。
 その圧巻の一品を前に、どこから匙を入れようかと手を彷徨わせるりりにちいさく微笑むと、ベルナデッタは手許の露花氷を一口すくった。華やかな薔薇の香とともに裡に満ちる、爽やかな甘酸っぱさ。果実味がふんだんのスモモの風味は、夏めいてきた気温にひとときの涼を運んでくれる。
「ん、おいしいです。くだもののお味もしっかりしますし、お花の香りでとってもはなやかになりますね。組み合わせによって印象が変わりそう!」
 漸く切り口を決めて口へと運んだりりは、アイスとメレンゲ、氷蜜の、それぞれ違った甘さをいっぱいに堪能していた。どこか南国を思わせる甘味と酸味にチョコレートが加わり、一層味に深みが増しているよう。柔らかく弾力のある白玉と、すぐにほろりと崩れるゼリーの食感もリズミカルで、食めば食むほどに愉しさが増してゆく。
「こんなにおいしいと、ほかのお味も気になっちゃいますね……」
「ふふ、足りないの?」
「……おかわりしてもいいですか?」
 なんて、愛らしく尋ねるりりへと、ベルナデッタも快く頷いて、
「ええ。食べ終えたら買いに行きましょ」
 交したふたつの笑顔が、頬に触れながら渡ってゆく初夏の風に淡く溶けていった。

夜鷹・芥
冬薔薇・律

 ――律、涼みに行かないか? 綺麗な花の氷が食えるらしい。
 そんな夢言葉のような夜鷹・芥(stray・h00864)からの誘いに、冬薔薇・律(銀花・h02767)は嫋やかなる笑みを湛えた。
 ――素敵なお誘いありがとうございます。ぜひご一緒させてくださいまし。
 訪れた村の石畳を漫ろ歩きながら視線を上げると、高らかな空に夏色が広がっていた。
 まだ淡さを残す青から、幾つもの涙がはらはらと零れては燦めきを描く。遠くで鳴く鳥の声に混じり、耳を愉しませてくれる雨音と葉擦れの音。ひとつ腕に触れた雨粒はすぐに風にさらわれ、仄かな花の香を残してゆく。
 村の広場でゆるり辺りを見渡したふたりは、仲の良さそうな夫婦の営む店へと立ち寄った。路に面したカウンターに並び、メニューを覗く。
「氷蜜とフレーバー……洒落てるな。律はどれにする」
「わたくしはお店の方のお勧めをいただこうかしら。――あの、甘いフレーバーの組み合わせをお願いいたします」
「俺は柑橘系があればそれを。店のおすすめも聞いておきたい」
 ふたりの注文に喜んで応えると、夫婦はひとつずつ、花型の硝子皿に盛られた露花氷を手渡した。受け取れば忽ち、ふうわりと花の香が鼻先を擽る。
「――ん? ……ああ、小雨降ってきたな。折角だ、|緑廊《パーゴラ》で食おうか?」
 額の滴を拭いながら傍らへと視線を落とせば、律も柔く眦を緩めて頷いた。店を後にして歩き出した先、雨露を纏い、滴が零れては燦めきを増す花屋根に目が留まる。|緑廊《パーゴラ》を彩る紫のクレマチスへと惹かれるままに近づくにつれ、愈々甘く蕩ける匂いが香ってくる。
 花影へと入り、ひとまず白木のベンチへと硝子皿を置いた芥は、露滴る黒髪を指先で掻き上げた。
「少し濡れたな……律は大丈夫か?」
「ええ。――夜鷹様。どうぞ、このハンカチをお使いくださいまし」
「悪い。使うの勿体ねぇな」
 雨は然程好きではなかった。不快と云っても良いだろう。それが、得意でもない夏に在るなら尚更だ。
 それでも、愉しみをひとつ程度持つのも悪くはない。だからこそ此度、芥は律を誘った。素顔も感情も薄い男ではあるが、誰かと――それが顔なじみなら尚のこと――ともに食するひとときの愉しさは知っていた。
 一息吐きながらベンチへと並んで座ったふたりは、手を添えながら膝に乗せた露花氷へと早速匙を入れてみる。
 ひだまり色の氷蜜から漂うのは、明るく爽やかなネロリの香り。一口含めば、ひんやりとした蜜柑の甘酸っぱさが広がり、ふんわりと柔らかな食感の氷が忽ち舌のうえで溶けてゆく。時折混じる、つるりとした蜜柑ゼリーの喉越しも心地良い。
 無表情ながら静かに舌鼓を打ってた芥は、隣から流れてくる甘やかな芳香に気づいて眸を向けた。
 美味しそうだと感じるのは、その香か、氷菓の見目か、はたまた幸せそうに食むその横顔か。
「……良かったらこっちも食えよ」
「よろしいのですか? でしたらこちらもどうぞ。つい、甘いものを選んでしまったのですが……」
「じゃあ、律のも貰う」
 そう云って互いの一匙を交換した後、律は改めて手許の一山をそっと食んだ。
 真白な氷に掛けられた淡黄は、口に含めば芳醇な甘味をもたらす梨だと分かる。上品な甘味を含んだしゃくしゃくと柔らかな天然氷は忽ちほどけ、甘く艶やかな梔子の香がふうわりと鼻を抜け得も言われぬ満足感を残してゆく。
 鼓を打つような音をまばらに響かせながら、白い石畳へと波紋を描く雨粒たち。
「雨音を聴きながら、お前と美味いもんを楽しめるなら……雨も悪くない」
「わたくしも……雨は嫌いではないのですが、今年はより好きになれそうです」
 男があまり甘いものを好いてはいないことを知る娘は、己がために誘ってくれたその優しさをそっと裡に抱いて。
 ――またお誘いくださいましね、と。
 趣深い雨と露を眺めながら、穏やかな花笑みを浮かべた。

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

 ふと掌を翳してみれば、細い雨がさらりと指の間を抜け、潤んだ匂いだけを残していった。
 どこまでも鮮やかな青を湛えた空からほろほろと毀れては、白い石畳へと波紋を描く幾つもの雫たち。一歩、一歩、靴裏で柔らかくひかりを返しながら、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)とスス・アクタ(黑狐・h00710)は村の中央へと続く路を往く。
「どうした、スー。ここの話を聞いて、眼を輝かせていたではないか」
「は、はしゃぐほど子供じゃないですよ」
 肩越しに振り返り、すこしだけ後れて着いてくる狐面の少年を見遣ると、どこかぎこちない|気配《けわい》が返ってきた。ふむ、とひとつ息を吐くと、ツェイは再び軽やかに歩き出す。
「仕方なし。ならば、我がお前の分まで燥ぐとしようかのう」
「――って、え?」
 思いも寄らぬ言葉に、つい声が上擦った。愉しいものを愉しいと受け入れる。それを体現されてしまうと、落ち着いているほうが逆に格好悪く思えて、
「わ、わかりましたから待ってください、もう」
 くすり、と微笑んだツェイには気づかぬまま。
 ススはどこか慌てた調子で、けれど確かに歩調を早めてその背を追いかけた。

 辿り着いた広場は、多くの人々で賑わっていた。
 あちらこちらに見える、露花氷の看板。それと同じか、それ以上に溢れている花屋根は雨露が燦めき、山々の緑と空の青が相俟って遠目で見るだけでも美しい。
 目星をつけた店で思い思いの品を買い求めてから再び広場へと戻れば、花壇に咲く色とりどりの花々が、露に映したひかりを鏤めながら風に揺れていた。そのたびにふうわりと漂う花の香に、いよいよツェイの胸も躍り出す。
「ほれ、早う場所を決めねば。溶けて消えてしまうやもしれぬぞ」
「ま、待ってくださいってば」
「ふふふ、楽しまねば損というものよ」
 背丈の差なぞお構いなしにツェイが飄々と軽やかに歩んでゆくものだから、ススは小走りで駆け寄った。初夏になお一層鮮やかな紅に染まる、サンパラソルの花屋根の下に佇むベンチを見つけて、ふたり並んで腰を落とす。
 硝子の中で氷蜜がわずかに溶け、淡く色づいた桃の香りが胸を撫でる。
「さて、スー。いただくとするかの」
 そのまま匙ですくって食み始めたツェイを横目に、ススはそわそわと尾をゆらしながら硝子の器をしばし眺めた。
 景色に揺れる紅の花も、手の裡にある氷も。ふうわりと漂う甘やかな香りさえ、なにもかもがひかりを纏って煌めいて見えて思わず静かに息を飲む。世界はただ静かに揺蕩っていて、それに声という匙を入れてしまうのが勿体ないように思えて、ススはちいさく呟いた。
「……いただきます」
 音無くすくって、口許へと運ぶ。途端、甘く華やかな香りが鼻を抜けて喉を伝った。花には詳しくないのだと告げたススに店主が選んだのは、確かジャスミンのフレーバーだと云っていたか。瑞々しいメロンの氷蜜とともに柔らかな氷は淡雪のように忽ち溶けていってしまうから、匙を動かす手が止められない。
「つめたい。あまい、美味しい……」
「んむ美味い、それに良き香だ」
 花影を透いて届く、薄い陽のひかりに包まれながら味わう露花氷は、儚いながらも凛とした涼を孕んでいて、初夏の熱にあてられた躰をゆっくりと鎮めてくれるよう。
「花に集う蝶にでもなった心地だの」
「そうですね、似てますよ。……ふらふら飛んでて、強風でどっか行きそうなとこ」
「――これ、何ぞ言うたか」
「いえ、なんでもないです」
 知らぬ顔でそんなことを云うススに、ツェイが愉しげに眦を緩ませる。はしゃぐようなことをせぬ子ではあるけれど、どれだけ愉しんでくれているかは、残り僅かとなったその皿を見れば一目で知れた。
「……。えっと、ありがとうございます。つれて、来てくれて」
「ふふふ。お前が気に入ってくれたら、我はそれが一番嬉しいよ」
 狐面の下の貌は見えぬものの、その声色にはどこか火照りが滲んでいて。一層笑みを深めたツェイの眼前をひらりと過ぎった一輪の紅が、氷のうえへと舞い落ちる。
「――おや。向こうから来てくれたようだの」

 世界を彩る、そのひとひらへと笑み零しながら。
 雨を透いて柔く届くひかりが、ふたりの時間へとそっと溶けてゆく。

リュドミーラ・ドラグノフ
ルスラン・ドラグノフ

 足許の白い石畳に、ちいさな水紋が広がった。
 そのすぐ隣に、もうひとつ。重なるように、またひとつ。その連なりを追ううちに、雨が降っているのだと気づく。傘がいらぬほどの、淡く優しい涙の花。
 視線を上げれば、村の屋根越しに遠くの山々が見えた。かすかに青く滲む、緩やかな稜線。呼吸のたびに、雨の匂いと濡れた緑の香がじんわりと裡に染みてゆく。
「露花氷! いいわね! あたしはとにかく真っ赤に染め上げるわ!」
「……」
 今日も太陽のように元気な妹だな、とルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)は胸中で独り言ちた。ゴシック風の装いながら、けれど表情は晴天のように明るく、八重歯を覗かせて笑うたびに吸血鬼という肩書きを忘れてしまいそうになる。
「兄さま? その目はなあに? 別に、兄さまのためにトマトのかき氷とか頼まないから安心して!」
「……頼まれても食べないからな、そんなの……」
 訪れた露花氷店の店主を前に、あまり軽妙なやり取りを繰り広げるわけにもいかない。ルスランは手短に自分のぶんをオーダーすると、傍らの妹――リュドミーラ・ドラグノフ(Людмила Драгунова.・h02800)の様子を眺め見る。
「決めたわ! 果物はダークチェリー! 花の香りは赤い薔薇ね!」
「……赤だろうが白だろうが、薔薇の香りは変わらないのでは?」
 あまり軽妙なやり取りを云々、と思った矢先ではなかったか。
 自分へも裡でそんなツッコミをしてしまったけれど、こればかりはもう仕方がない。どこか諦観めいた一瞥を妹へとくれてやると、ルスランはちいさく息を吐いた。

 店を後にした双子は、そのまま村の広場へと脚を向けた。
 雨足はさほど強くないとはいえ、せっかくの露花氷を濡らしてしまっては勿体ない。幸い、花屋根なら視界のなかだけでも幾つもある。どこか屋根の下を拝借しようと、ぐるり視線を巡らせる。
「色々な花屋根があるんだな。……リューダ、好きな花を選んでいいぞ。そこで食べよう」
「なら、あのブーゲンビリアが良いわ!」
 自身が選んでもなにか云いそうだからと妹へと委ねれば、赤を好む妹らしい、予想通りの答えが返ってくる。氷を崩さぬように慎重に歩きながら近づけば、花へと貌を近づけたリュドミーラが小首を傾げた。
「ふうん、ブーゲンビリアって香りがしないわね? ちまたで売ってるブーゲンビリアの香りって何かしら? 謎ね!」
「ブーゲンビリアは、品種によっては甘い香りがするんだよ。基本は無臭だけど」
 香りが混ざってよくわからなくなるよりはいいんじゃないかな、と返しながら、ルスランは花屋根の真下にあった白木のベンチへと座った。それに続いて、リュドミーラも優雅に腰かける。
 初夏の陽に煌めく姿は思わず魅入ってしまうほどだけれど、はたと気づいた娘は上品に匙ですくいはじめた。芳しい薔薇の香とともに、口いっぱいに満ちるダークチェリーの濃厚な甘味と酸味。氷の上だけではなく、その裡にも幾つか入っている果実そのものも、食めばじゅわりと果汁が広がって味に深みを与えてくれる。
 どうやら満足のいく味だった様子の妹をちらりと見ると、ルスランは淡く色づいたクチナシ香の露花氷へと視線を戻した。選んだ氷蜜は無花果。上にはマスカルポーネのクリームが緩くかかり、輪切りの赤い果実が添えられている。
「いいね、うまそうだ」
 程良く熟れた果実を使っているのだろう。酸味よりも甘味の強い上品な味が氷へと蕩け、舌の上でさらりと溶けてゆく。輪切りの果肉の歯応えを愉しみながら、梔子の甘やかな芳香が最後まで余韻を残す。
 無花果が用いられているけど、香りがクチナシなのも不思議だ。この村独自の技法なのかな――なんて巡り始めた思考を、リュドミーラの声が遮った。
「兄さま? 何そのクリーム? 美味しそう!」
「え」
 ずびし! と指さしたかと思えば、間髪を容れずにクリームをちょっと摘まんでぺろり!
「――ん! これはチーズね!」
「おいこら勝手に食べるなって」
「いいじゃない減るものじゃないし!」
「いや、食べたら減るんだよ!」
 ド正論を返しながら、嘆息ひとつ。「あたしのかき氷にも、なにか追加してもらおうかしら? 白玉とか!」と浮き足立つ妹へ、「いいんじゃないか? 旨そうだ」とすべてを受け入れながら。
 ルスランがそっと見上げた先、紅を伝って石畳に落ちた雫が、ちいさな輪を描いては光を散らした。

ルメル・グリザイユ
贄波・絶奈

 雨の|気配《けわい》は、肌が覚えている。
 渓谷に佇むリュースエルヴを、ほんのりと水気を帯びた大気が吹き抜けた。それだけで舞い上がるほどのちいさな雨粒たちに混じる、濡れた草と土の匂い。そこに花の香が加わり始めたことに気づいたルメル・グリザイユ(寂滅を抱く影・h01485)が、つと貌を上げた。
「――ああ、あそこ。店がたくさんあるみたいだよお」
「本当だ。花屋根らしきものもあちこち見えるな」
 男に倣って遠くを見遣った贄波・絶奈(|星寂《せいじゃく》・h00674)が、その赤い双眸を細めた。離れたここからでも分かるのは、ブーゲンビリアやサンパラソルだろうか。夏色を帯び始めた青空に、華やかな赤が良く映えている。
「話に聞いてた通り……いや、それ以上の絶景だ。ここの景色、気になってたんだよね~。今日は付き合ってくれてありがとお」
「こちらこそ、お洒落なお誘いありがと。お洒落ポイントをあげる」
 最近暑いし露花氷が楽しみだね、と続けた矢先、隣から視線を感じてそちらを見れば、愉しげな、そしてどこか意を孕んだルメルの笑みがあった。
「……いや? 花屋根とか噴水とかも、当然楽しみだよ? 私は文化人だからね」
「……ふふ、勿論分かってるよお。絶奈ちゃんの浪漫溢れる物言いには、いつだって心揺さぶられてるんだから」
 まだ肌寒さの残る春先に、いつもよりすこしだけ長く語らったあのときもそうだった。まるで恋人めいたやり取りを交えた娘はもう、“共犯者”と云って良いだろう。上辺だけともまた違う、“ほんとう”を伝えながらも互いの領域は侵さない――そんな関係。
「さ、行こうか。あの嘘劇の続きにね。このひとときを楽しもう」
 そう微かに口端を上げた絶奈へとひとつ笑みを深めると、ルメルは手にした傘のネームバンドを外して広げ、ゆるく傍らへと傾けた。
 たとえ偽りだろうとて、興味深いひとときでもあったことは確かだから。今日もまた、あの続きに興ずるのも愉しそうだ。

 柔く飄々とした足取りのルメルの足許で、ひかりを鏤めながら雨花が咲く。
 幾つもの水の波紋が描かれ、陽に煌めきながら村を過ぎる白い石畳をゆけば、見晴らしの良い円形の広場に出た。中央にある噴水が心地良い音を響かせ、その周囲をぐるりと花屋根や店々が彩っている。視線を先へと遣ると、その奥には公園もあるようだった。
 青い屋根の店が眼に留まり、軒下へと入って。互いに注文した露花氷を受け取ると、ふたたび肩を並べてぶらりと歩き出す。
 路を挟んだ先の公園の一角で、ふとルメルが瞠目した。ジャスミンを思わせる、けれどどこか新緑を孕んだ花の香り。惹かれるままに見遣れば、噴水と、|緑廊《パーゴラ》を柔く包む、定家葛の白が見えた。
「あの花屋根はどお? ベンチもあるし」
「ああ、構わないよ。綺麗な定家葛だ――あ、」
「ん? わあ、青い花がいっぱいだねえ。これは……勿忘草かなあ」
 近づいてみれば、ちいさく可憐な青があたりを満たしていた。絶奈が微かに唇を開き、そっと零す。
「私さ、勿忘草って凄く好きなんだ。理由は……いや、何でもない」
「言いかけたのにすぐ言葉を止めちゃうだなんて…まったく、興味を唆るのが上手いなあ~」
「私は秘密の多い女だからね
「ふふ。好きな花、あって良かったねえ」
 ちらりと見た横顔は、いつもと変わらぬダウナーな|影《いろ》を纏っていたけれど、その口端が仄かに綻んでいるように見えて、ルメルも眦を淡く緩めた。白木のベンチへと並んで座り、手にしていた花型の硝子皿を両の手で持ち上げる。
「見てみて~、クラッシュキャンディ乗っけてもらっちゃったあ。こういうの、映え、っていうのかなあ?」
 愉しみにしていた露花氷は、バタフライピーの氷蜜とソフトクリームに、パチパチキャンディーを鏤めた華やかな見目だった。ふうわりと香るのは、この花屋根と同じ定家葛だ。
「うわ、ルメルさんの色々欲張りセットでいいな。映えソムリエの私が評価するよ」
「ありがとお。ね、絶奈ちゃんはどんな味にしたの?」
「私は、実は初めてだったからお任せにしたんだ。苺シロップだけは指定してね」
「ふふ。僕とは正反対の色合だね~。とっても綺麗だよ」
 確かに、と頷きながら視線を戻した硝子の器からは、薔薇に似たピオニーの華やかな芳香。早速ひとくち――と匙を手に取った絶奈へと、傍らから声が続く。
「僕の、食べてみる?」
「あ、いいの? ――それじゃ、ありがたく」
「はい、どーぞ」
 あの嘘劇のときと同じように、自然と娘の口許へと一匙を向けて。ぱくりと食めば、ソフトクリームのひんやりとした甘さのなかに、ほんのりと広がる豆のような風味。パチパチキャンディーが歯応えと甘さのアクセントを加えながら、濃く甘い香りが鼻を抜けてゆく。
「美味しい……。ありがと。せっかくだから、私のも分けてあげるよ」
 云って、差し出された匙へと貌を近づけ、ルメルも一口。薔薇めいた華やかな香を含みながら、ふうわりと柔らかな天然氷に溶ける苺の甘さを堪能する。
 そうして続く、他愛もない会話。
 変わらずに在る、葉や花びらをたたく雨露の音色と、陽を纏って燦めきながら毀れてゆく雫たち。
「小雨、風情があっていいね」
 よく空が泣いてるって言われるけど、これに関してはなんか悪戯っぽく笑ってる気がするんだよね。そう続けた絶奈へと、ルメルも柔く微笑みを返す。
「こんな良い場所に誘って貰えて良かったよ」
 ありがと、と。
 そう云った娘の貌には、星のようにささやかに、けれど確かな歓びが滲んでいたから。
 男もまた、ひとつ口許を緩めるのだった。

白水・縁珠
賀茂・和奏

 澄み渡る青空の下、谷間のリュースエルヴ村を軽やかな風が渡る。
 頬を撫でてゆくその感触は、よく知る梅雨真っ盛りのこの時期とはまるで違って爽やかで、白水・縁珠(デイドリーム・h00992)の口許も自然と緩む。先日から専ら、靴底から蒸し上がる熱、額に貼りつく前髪、じんわりと浮かぶ汗――育てている苗床の手入れも重苦しさとの戦いだった。けれどこの村は、陽差しこそ夏めいてきてはいるものの、風はからりと乾いて、土と緑の匂いも柔らかく爽やかだ。そうして、一層夏めく空から降り続く雨粒たちが、ひとときの涼を運んでいる。
「天気雨、綺麗だなぁ……」
「涼むのには丁度良いね」
 手で陽を遮りながら天を仰いだ賀茂・和奏(火種喰い・h04310)に倣って、縁珠も見上げた青へと眸を細める。今日は和奏につき合ってもらったけれど、行きがけに「暑くてバテかけていた」とぼやいていた彼にとっても寛げる時間になりそうだ。
 雫は風がさらってくれるから、と傘は差さずに、肩を並べ歩を揃えて、白い石畳をふたりゆく。
 雨粒が地面で跳ねるたび、草葉や花、雨――風の含んだいろんな匂いも弾けて香る。村一番の広場では万彩の花が咲き、果実の蜜と冷たい香料が混ざり合って初夏の空気に溶けていた。
「見て縁さん。蜜も香りも、選びきれないぐらい沢山あるよ」
「……ぅむー、この村の名産みたいだし。店ごとにいろいろあるね」
 決めれないから人気のにしようかな、と零した縁珠へ、和奏が窺うように小首を傾げる。
「おや、好きな味や落ち着く花の香りとかはない?」
「……どのお花のもかわいこちゃんだし」
「確かにかわいこちゃんばかりだね」
「でしょ? 縁的には植物は全推ししてるから、悩ましい……」
 それでも、強いて代表してもらうならば桜だろうか。それに好きな桃の氷蜜を選んで、オーダーを済ませる。
「奏さんはどのフレーバー?」
「悩み中。桃も美味しそうだなぁ……んー、俺は氷蜜はレモンに。香りは……今回は茉莉花にしてみようかな」
 好きな花で言えば、薔薇や銀木犀、カモミールなどが落ち着くのだけれど。折角だから、と和奏が選んだのは、先程眼に入った|緑廊《パーゴラ》のスタージャスミンにちなんだ香だ。
「おー、かわいい。見るだけでも満足……いや、スマホで撮るまでが遠足だなー」
 わっきーと露花氷――はい、チーズ。
 そう不意打ちを狙って構えたカメラに映ったのは、すかさず空いていた手でピースを作った和奏の笑顔。「ぬ。抜き打ちだったのに中々やるな」と口角を上げた縁珠へ、和奏もまた、柔く笑った。

 雨と光に照らされて虹色に瞬く、氷蜜の|彩《いろ》。
 いつまでも眺めていられそうだけれど、涼むならやはり緑廊《パーゴラ》だろう。縁珠の提案に「賛成ー」と声躍らせた和奏とふたり、一等見晴らしの良い花屋根へと入って白木のベンチに腰かける。
「はー、爽やかだし涼しいね」
「ふー……うん。やっぱり涼しいね。……見上げられるの、良き……」
 天蓋の葉々や花びらが雫を弾き、心地良い雨音が耳を癒やす。視線の先にある石畳に描かれる波紋が、時折通り抜ける風に揺られて形を変える。
「ここにいる子達は、あまりお店にはいない?」
「そうだね。苗木なら時々仕入れるけど。ここまで立派なのは店にはないなぁ。あっちのバタフライピーならハーブティー用で育ててるけど……奏さんも飲むー?」
「――縁さん」
 短く、そう娘の名を呼んで。一度青花へと向けていた視線がまた自分へと戻ったところで、和奏の手許で小さなシャッター音が走った。花屋根を透いて毀れるひかりが、その淡い白い髪を仄かに煌めかせる。
「……不意打ちとは、やるな」
「あはは。これも想い出に」
 そんないつもの会話と笑みを交し合いながら、縁珠は氷蜜の一匙を口に運んだ。
 舌先に、さくりとした氷の感触。すぐに桃の蜜が広がり、花の香りがふんわりと重なる。桜の風味は淡く、舌の奥へと伸びてから、そっと鼻腔に残る。甘さはやさしく、喉を過ぎると冷たさとともに空へと還っていくよう。
 和奏の茉莉花の香りもまた、どこか透明で淡く、けれど凛とした風味があった。食めば忽ち、その芳香とともにレモンの爽やかな酸味が裡にじんわりと染みてゆく。
「氷半分食べたら、十分涼めたから……もふたちも食べる?」
 と、縁珠は手を着けていない氷の片側をそっとすくって差し出した。
(――ね。わけてくれるって)
 眦を細めた和奏がそう裡へと語りかければ、空気がふわりと揺らいだ。現れた半実体の狐神が――和奏のほうを散々味わったはずなのに――その形の良い耳をご機嫌に揺らしているその食い意地へと、呆れながら和奏がちいさく嘆息する。
「縁さん、紹介するね。憑いてる子の片方『稲ちゃん』です」
「おー、いらっしゃい。……いつもお世話になっております、かな」
「気になってたみたいだから、ひとくちだけもらっても?」
「一口と言わず、どうぞー」
 歓びながらもらった数口へと舌鼓を打つ稲ちゃんの傍ら、「はい、奏さんも」と向けられた一匙へと和奏がちいさく瞠目した。
「俺にも? ふふ、ありがと」
「ふふん。その代わり、まだ撮ってない緑廊《パーゴラ》巡り付き合ってもらうから」
「勿論だとも」
 その眸に映った|彩《いろ》へと、思うままにシャッターを切って。
 残せぬ燦めきも、香りも、雨音も――ぜんぶ、ぜんぶ、満喫しよう。

ステラ・ラパン
小沼瀬・回

 谷間を縫うように、白い路が続いていた。
 まだ淡さを残す陽が差しているというのに、けれど透いた青を抱くリュースエルヴの空からは絶え間なく雫が舞い降りる。風はからりと軽く、濡れる肌すら心地良い。
 そのなかを、ステラ・ラパン(星の兎・h03246)と小沼瀬・回(忘る笠・h00489)が――片や耳と躰をぴょこぴょこと軽やかに、片や差した傘に毀れる露を跳ねさせなががら――並んで歩む。
「雨も、雨に濡れるのも良いものだと知ったばかりだ。故に、この機会が殊更嬉しくもある」
 ね? と傍らを仰いだステラへ、ああ、と回も頷いた。雨は忌むべきものではない、という想いは、傘たる身ならば心より賛同できよう。「実に悪くない機会だ」と笑みを深める。
「なにより、涼やかで素晴らしい。此方も泣ける暑さゆえな……人の身は実に難儀だ」
 ならば、不純物が混ざる前に御業を乞わんとする男へ、娘が愉しげな笑み声を零す。
「確かに。でも、其れを味わえるのもヒトの身だからだ。難儀も混じるものも、悪くはないんじゃない?」
 ――なんて、それはそれとして。
 この先に待っているのはきっと、初夏色に染まる、煌めくほどのひとときのはずだから。
「往こう」
 なだらかな山の稜線とその奥に広がる青空を背に、雨粒を煌めかせながら、娘は耳と手を揺らして先へと招く。

 村の中心にある円形広場へと至ると、周囲を巡るように並ぶ露花氷の前に、涼と甘さを求める人々が集っていた。
 店のカウンターに並ぶ、花型の硝子皿の向こうに並ぶ蜜は色とりどり。旬のものに絞ったとしても、桃、|茘枝《ライチ》、無花果、桜桃。香もまた、梔子に茉莉花、柚子、薔薇。目移りする誘惑に赤い眸を煌めかせながら、ステラの耳が忙しなく揺れる。
「これだけ数多あるのは喜ばしいが、果実好き故にこそ選び切れない……」
「すてら殿。ならば、天気雨に肖る虹の彩りにしては?」
「! 雨に虹なんてぴったりだ、採用!」
 ひとつに絞れぬのならば、すべて選び取れば良い――それは、甘い言い訳か我儘か。どのように聞こえたとしても、無論、提案した身である回にとっては乗ってくれたほうが嬉しいというもの。満足気に笑みを深めた男へ、ご機嫌な娘も口許に弧を描く。
「虹だからね。あとみっつも足せる。……まったく、君といると贅沢に我儘を覚えて往けるよ」
「大いに結構。甘やかし甲斐のあることだ。――では、私は色も味も馴染みある苺に、香には梔子の甘さを添えよう」
 美味に口を無くすやもしれんからな、と薄く笑えば、「おや。甘い花香もいいけれど、口は持っててよ」と返る声。
「折角、君色が似合う露花氷だし……好みも知れて僥倖なんだ。ぜひ、君の感想も話も聞きたい」
 おなじものを目にしても、味わっても。
 裡に浮かぶ言葉も想いも、この降り続く露ほどの数あるのだから。

 そうしてステラが選んだ香は、柑橘にも似たほのかな香りを持ち、どこか親近感もあるブルースター。
『青い星に柑橘の淡香か。何方もお前さんに似合いだが――折角だ、更に星花を足そう』
 と、回の心も籠もった、特別な一品。
 崩さぬようにと大事にそれを持って店を後にすれば、先に広場へと戻っていた回の声を拾った兎耳がぴくりと跳ねた。
 視線を移した先には、ひらりと手招く男の姿。その背に見えた、雨露のひかりを鏤めたスタージャスミンとサンパラソルの|緑廊《パーゴラ》に、ステラは弾むような足取りで駆けてゆく。
「わあ、凄いね! 僕たちにぴったりだ」
 星と傘を冠する花の名に回もまた裡でひそりと歓びながら、ステラに続き、その花影に並ぶ白編みの籐椅子へと腰を下ろす。
 器をそっと寄せて、ちいさく硝子を慣らして乾杯したら、互いに早速、一匙を口に運ぶ。
「……美味い」
 舌先から広がる、苺の甘酸っぱさ。そこへ梔子の香りがふわりと重なれば、のどごしはまろく、それでいて香りは確りと残りながら、じんわりと淡く、涼が胸へと沁みていく。同じ溶けるのでも、焼けつくような暑さではこうはいかない。
 その隣では、食んだ瞬間に一層眸を煌めかせた星兎。
 口いっぱいに広がる、ブルースターの淡い柑橘香と、幾つもの果実の瑞々しい甘み。ふんわりと削られた天然氷はどこまでも柔らかく、さく、とひと噛みするたびに、舌の上で解けて溶けてゆく。
「すてら殿もお気に召したかね?」
 見れば、ゆるゆると緩むステラの頬が、言葉よりも雄弁にその歓びを物語っていた。耳も連れて貌をこくこくと縦にふるステラに、思わず笑み声が洩れる。
「ふ、はは! 雄弁ではあれども、お前さんの方が口無しではないか」
 今まで、幾度もこの身に受けてきた雨露。
 それをまさか、食で浴びることになろうとは。雨に包まれ語らうことが、これほどに佳いものだとは。
「こんなに鏤められた機会、味わい尽くさないと勿体ないよ」
 浮かんだ言葉も、好きを詰め込んだ語らいも。たくさんの想いを交しながら、食と雨を愉しもう。――それこそ、浴びるように。
 そう花笑むステラに、回は裡でひそり得心する。
 こんな贅沢を知ってしまったのは、神の御業ではなく星の仕業に違いない、と。
「佳い雨だね、とうさん」
「ああ此度も――佳い雨だな、ステラ」
 絶え間なく、穏やかな笑み声の響くちいさな|緑廊《パーゴラ》。
 からりとした初夏の風が吹き抜ければ、露を纏った白い星花がふわりと咲き零れ、紅の日傘花へと|彩《いろ》を寄せた。

第2章 冒険 『水晶森のダンジョン』


●月のひかり眠る処
 ――|月響珠《クランペルラ》は何処にあるか。
 村人たちにそう問えば、快く教えてくれるだろう。――“月の褥の森”、その水辺にある、と。

 リュースエルヴ村の郊外にあるその森は、誰しもが気軽に訪れる場所だった。
 季節ごとの植物や果物を採集したり、森を横断するように流れる川で魚釣りや水遊びを愉しんだり。そうしたなかで、ふと淡い燦めきが眼に留まれば幸運――そんな四ツ葉のクローバーのような存在が|月響珠《クランペルラ》だった。

 それが最近、かの森の近く、どこからが境かも分からぬほど酷似した森のダンジョン内部に数多く現れた。
 ダンジョンと言っても天井はなく、皆が訪れる宵のころにはもう、月が仄かに森を照らしているだろう。灯りがなくとも散策には不自由ないが、あっても石の燦めきは見つけられるはずだ。

 川の浅瀬や、岩が削れてくぼんだ水盆のような“月のひかりの届く水底”で生まれるというその石は、裡に月の魔力を秘めていて、ほんの数秒ながら“音”を記憶できるという。
 水底に眠る|月響珠《クランペルラ》をただ拾い上げれば、せせらぎや水滴の音、雨音などの、近くにある水にまつわる音を。
 拾うまえに水面へと“声”を発するか、記憶に在る“音”や“声”を想い描いてから手で掬い上げれば、それを記憶するのだ。

 ひとたび音を記憶した|月響珠《クランペルラ》は、そっと耳を欹てたときだけ、その記憶を再現する。
 ずっと耳をあてていれば、あなたの望むだけ――やさしく、幾度だって。

 静かに水面を打つ、雫の毀るる音。
 雨の匂いを運んでくるような、柔らかな雨音。
 なにかの記憶を呼ぶ旋律や、どうしようもなく心ふるわせる誰かの声。

 ――あなたの残したい音は、ありますか。

 ✧   ✧   ✧

【マスターより】
・敵は一切出てきませんので、POW/SPD/WIZの内容は気にせず、お好きなようにお楽しみください。
・時刻は宵が始まった頃合い~夜のはじめを想定。天気雨は上がり、空にまだ僅かに残光がある幻想的な時間帯です。

・|月響珠《クランペルラ》ひとつにつき、1種の音を記憶できます。
 複数採集しても構いませんが、それぞれに想いを託すプレイングを行うと石ひとつに対しての描写が浅くなるので、多くても2~3個がお勧めです。
・記憶できる音は、音楽や楽曲、SEのような一瞬の音、機械音、環境音、複数人の声、イメージの中の音など、音であればなんでも構いません。
・その場で複数人で声や音を発し、ひとつの石に記憶させることもできます。
・記憶できる時間は数秒。長くとも10秒程度を想定しています。

・飲食物の持ち込みも可。騒音を発するもののご利用はお控えください。
・あわせてマスターコメントもご参照のうえ、ご参加いただければ幸いです。
物集・にあ
唐草・黒海

 陽の気配がすっかり薄れ、森は澄んだ残光を薄衣のように纏っていた。空を仰げば、枝々のあいだから滲むような青白い光――まだ満ちきらぬ月が、そっと森の息を撫でている。
「黒海さん、次はあちらみたい」
 探るような声音で唐草・黒海(告解・h04793)を呼ぶと、物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)は指先でひとすじの風を追った。月を浴びながら、宵へと溶けてゆく漆黒の髪を揺らしながら、そうして娘は男の数歩先をゆく。
「……危ないですよ。ちゃんといますから、前を向いて」
 時折うしろを振り返っては、愉しげに笑みを深めるにあへとそう声をかける。それほどまでに存在を気にかけるならば、いっそ並び歩けば良いのに――そんな想いが裡に過るも、とうに大人となった己が果たしてそれを口にしても良いものかと逡巡するに留めた。そうして、その背をゆるやかに追いながら、黒海はあたりに満ちる浅い水音の協奏に耳を澄ませる。
 どこまでも透いた、森を流れる細流の音。岩間からこぼれる雫が水底に儚く波紋を描き、そこにふと、光の反射が浮かび――「ああ」と、にあが眸を細める。
「……月響珠、って、貝殻に似てますね?」
 水のなかを覗き込む彼女の声は、同じく海に縁のある黒海にとってもどこか遠い記憶を呼ぶようだった。追いついた脚で肩を並べ、横顔を一瞥してからまた、流れへと視線を落とす。水面越しに揺れる、淡い銀の粒。水底の石が月の光に応え、静かに、そうっと呼吸するような燦めきを放っていた。
「あれも海の音が聞こえるといいますが……貝殻の音は、様々な現象が重なって反響した自分の記憶の海と聞きます」
 きっと黒海さんは……ご存知よね。そう花笑みを湛えるにあの声はどこか慈しみを帯びていて、黒海も淡く眦を緩める。
「知ってはいましたが、物集さんの語りは自分の中に在るより綺麗でした」
「ふふ、そうかしら」
 言って、瞼を柔く伏せる。
 けれど、|月響珠《クランペルラ》が抱くのは記憶の音。鮮やかに留めることすらままならぬ、曖昧になっていそうなその音を、望むとおりに聞かせてくれるのだろうか。
 不思議ね、と独りごちながら、にあは傍らを仰ぎ見た
「……ねえ、黒海さん。ひとつおねだりです」
「おねだり……ですか?」
「ええ」

 ――あなたの識る海の音、わたしにくれませんか。

 それは、海の静寂を思わせる声音と、深海で燦めく泡沫にも似た淡い願い。
「貴女が気に入るかは分かりませんが……それでも、よければ」
「本当? ――ええ、勿論! それが貴方の海なら」
「では、先ほどの素敵な語りのお礼ということで」
 今でも明確に浮かぶいろ。黒とも思えるほどの、それはどこまでも深く昏い青。荒々しい波が岸壁を幾度も打ちつけ、弾けた飛沫が暗澹たる色彩の世界へと白を鏤めてゆく。
 そのコントラストを崖上から眺めるばかりだった己の覚えている音も、荒々しい波の音ばかりだ。
 月のひかりが届く水底へと静かに掌を沈め、月響珠を柔く握りしめる。あの光景とともに、記憶の音を注ぎ込む。
「……どうぞ、物集さん」
 ゆっくりと引き上げた掌を開けば、そこには柔く月光を纏った石があった。受け取ってそっと耳を寄せれば、鋭くもどこか懐かしさのある荒波が胸の奥に打ち寄せるかのようで、にあの唇がふわり綻ぶ。
「ありがとうございます。なら……黒海さんには、わたしのを」
 眸を閉じれば、いつだって蘇る。
 あの海の底。遠く、遠く。その果てで静かに泡立つ、海の声。
 水面に指先を触れさせながら、懐かしい記憶をその奥に沈めるように――ぽつりと、唇が音を落とす。
「わたしの海のこと、識ってほしいわ」
 静かな水音と、光の粒。
 ふたりの海の記憶を抱いたふたつの石のひかりが、ほろほろと宵へ毀れていった。

懐音・るい

 木々の梢を夜風が柔らかく抜けてゆき、葉掠れがまるで誰かの囁きのように耳をくすぐっていく。
 いつもの緩い足取りで内へと湾曲した水辺に近づいた懐音・るい(明葬筺・h07383)は、月光の注ぐ水面に混じる、ちいさな燦めきに気づいて脚を止めた。
「あった……」
 “音”を記憶する月響珠。それもほんの数秒だけ、まるで忘れてしまう寸前の夢のようにささやかだという。
 ただ音を残す――“記録”したければ、それこそ機械で十分だろう。けれど、その音質や音量と引き換えに得られる雰囲気と情緒は、この石でしか得られない静かな高揚感を孕んでいた。
 何を残す? 何を託す?
 折角ならば、好きな音がいい。ふと想いだしたときに耳を欹てて、静かに浸る。そうして音が消えたあとには、笑みが浮かぶ。そんな音。

 たくさんの音が浮かんでは消え――やがて、ふたつが裡に残った。

 まずはひとつを思い描きながら、そっと石を拾い上げる。そのまま耳に当てれば、柔く聞こえるのは炭酸の音。
 シュワシュワと踊るように弾ける泡は、どこか爽やかな香りも届けてくれるようで、夏の午後のような眩い清涼感がじんわりと胸に満ちてゆく。
「もうひとつは……やっぱり、ね」
 淡く瞼を伏せると、るいはそっと触れるように水面に手を浸した。
 大切な想い出を過ってゆく、あの人の姿。今でも鮮明に脳裏に響く、大事なひとの懐かしい声。
「――うん、どっちも大丈夫そう」
 ふたつめの音も聞き終えると、るいはちいさく満足げに微笑んだ。大切に布に包むと、そっと懐に仕舞う。

 残しておきたい、ふたつの記憶。
 ひとつは、自分だけの清涼。
 もうひとつは、決して|失くし《零し》たくない想い出。
 そうして、抱いた音を布越しにひとつ撫でたるいは、月が仄かに照らす森のなかをまた、気紛れに歩き出した。

目・草

 やさしい夜が、森に降りていた。
 まだ陽のぬくもりを残す風が葉のあいだをすり抜けるたび、幾つかの虫の唄に混じって、ほそいささめきが鼓膜を震わせる。ここにも花が咲いているのだろうか。時折ふうわりと甘い香りも鼻孔を擽って、つい口許が緩んでしまう。
 まるで草のうえを猫がそろりと歩くような、そんな静かな気配のなかを、目・草(目・魄のAnkerの義子供・h00776)はぽつんとひとりで歩いていた。
 けれど、淋しくはない。
 美味しいものを食べたあとの、胸の奥までふわふわするような心地を連れて。いざとなったら、おじさんからもらった提灯だってある。だから今はただ、この|そぞろ歩き《散歩》を愉しむだけだ。

 風に混ざり始めたせせらぎに惹かれるように爪先を向けた先、枝の随にちらちらと見えたひかりへと近づけば、緩やかに流れる小川があった。水面に反射する月光が、あたりにもまあるいひかりを鏤めて揺れている。
 どこか今の家とも似ていて、その心地良さに全身で浸る。眸を閉じれば、柔らかなひかりと音が裡にじんわりと満ちてゆく。
「――あ……」
 そろりと瞼をあげた瞬間、なにかが光った。伺うように川辺へと立って覗き込むと、淡く照らされた揺らぐ水底に、一等眩いちいさなひかり。
 まあるく、微かに呼吸をするかのように灯るそのひかりへと、自ずと手が伸びて――ふと浮かんだのは、家の風景。
 やさしい魄のこと。ふしぎな猫のこと。もふもふの伽羅おじさんのこと。
 それから、帰ったときの玄関の匂い。床のきしむ音。みんなの声。

 ――それは、“|家族《いま》”の音。

 すくいあげて、耳に当てる。幾つかの足音、あたたかそうな湯気の音。代わる代わる響くいろいろな音は、確かにあの暮らしに在るものばかりだ。
「……そうだ」
 もうひとつ探そう。ひとつだけじゃ、なんだか淋しい。
 ふと滲んだそんな想いのままに水面をそっと見てまわれば、川の真ん中あたりですこしだけちいさい、けれどどこか元気で鮮やかな|彩《いろ》のひかりが目に留まった。草は構わず水辺へと入ると、ひんやりとした水に触れながらそれへと指先を伸ばす。
 自ずと過ったのは、なにかの水滴がぽたりと雨のように毀れて、なにかに当たった音。鈴のように弾けた、微かだけれど確かな“|雨鈴《かこ》”の音。

 ひとつは“いま”。
 ひとつは“かこ”。

 ふたつの月響珠を大事そうに胸に抱えて、草はふたたび歩き出した。
 夜はまだ始まったばかり。ならば、散歩をやめるにはまだ早いというもの。
 道は知らない。けれど、怖くはない。
 きれいな音と、やさしい月の光が、ちゃんと見守っていてくれるから。

花牟礼・まほろ
結・惟人

 広く高く、夕映えの名残を滲ませた空の下、まだほんのりと雨の匂いのする宵の森を、花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)と結・惟人(桜竜・h06870)が並びゆく。
「よく目を凝らそう、惟人くん!」
「ああ。――あ。水底にあるというから、足を滑らせないように気を付けよう、まほろ。危ない時は遠慮なく捕まってくれ」
「うん! 転ばないように気をつけ――へ? 尻尾は痛そうじゃない……?」
 ゆらり、ひと振り揺れた竜尾へと、まほろがぱちりと目を瞠る。たとえば、猫や犬の尻尾をぎゅっと握ったりしたら、それこそ怒髪天を衝く勢いで威嚇されてしまうだろう。ならばそんな|緊急事態《要らぬ心配》は回避せねばと、まほろはひそりと裡で決意する。

 陽がすっかり落ちて、すくなくなった彩の代わりに、ただ淡く白い月のひかりが森をどこまでも満たしていた。肌に触れる静けさは、けれど淋しさではなくて、ちいさな生き物たちが寝息を立てているような、そんなやさしい沈黙だ。
「石にどんな音や声を記憶させるか、まほろはもう決めたか?」
「ううん。なんとなく、いくつかは思い浮かんだけど……惟人くんは?」
「私は……お花見をしている人たちの声を記憶させたいな」
「お花見?」
 とっておきの話が聞けそうな気配に、まほろは燦めく眸を傍らへと向けた。そうだな、と独りごちた惟人が、話を続ける。
「皆が花を見ながら、お酒を飲んだりご飯を食べたり……愉しそうに笑い合っているあの光景が好きなんだ」
「お花見をしてる人の声か~、素敵!」
「だろう? 上手くいけば、それがいつでも聞けるわけだ。……またわくわくしてきた」
「うんうん、聞いてるだけでなんだか和んじゃうよね。惟人くんのお花も人も、好きな気持ちが籠ってるなあって思う!」
 そう言ったまほろの鼻先を、ふうわりと草の香が過った。まろやかで、それでいてぎゅっと詰まった森の匂い。
 同じく気づいた惟人と視線を合わせてそれを辿れば、ふんわりと柔らかな苔に覆われた水辺の岩場に出た。月のひかりに包まれて、苔の柔らかな緑が宵に浮かぶ。
「綺麗~! ……あれ? 惟人くん、どうかした?」
「いや、せせらぎに別の水音が混じって……あ。あそこにあるのは水盆だろうか?」
「え? どこどこ? あ、あれかな?」
 ぱあっと笑顔を花開かせながら、まほろが軽やかに――ちゃあんと足許には気をつけて――苔を踏み荒らさぬように近づけば、川の畔のすぐそばの岩のひとつがすり鉢状に窪み、そこへ絶えず水が毀れ続けていた。滴るそれを追って視線を上げると、眩い月を背にせり出した、その岩の端から溢れているのだとわかる。
 この岩の器を生み出すまで、どれほどの年月が過ぎたのだろう。ぽたり、ぽたり。止め処なく溢れては、水盆へと波紋を描く月の雫。それを眺めながら、ふたりはその底で眠る石たちを覗き込んだ。在りし日を思い描きながら、惟人がひとつ拾い上げる。
「上手く魔法が掛かると良いのだが……」
「……どう?」
「……ああ……聞こえる」
 耳を寄せれば、花のように舞う記憶のなかの声がひらいた。遠くから溢れる、幾つもの笑い声。どこか春風にも似た、あのあたたかい響き。
 眼を閉じ、仄かに嬉しそうなその横顔へと、まほろもひとつ笑みを重ねた。
「じゃあ……まほろは森の音にしよっかな」
「森の音か……良いな。私も、葉が揺れる音は好きだ」
 風に揺れる、木の葉たちの囁き。動物たちの、互いを呼ぶ声と足音。思いだそうとせずとも、いつだって裡に在る大切な記憶。
 それを託す月響珠を決めると、まほろはそっと掌に包み込んだ。すこしして、ゆっくりと指をほどけば、再び淡い燦めきが手のうえに灯る。
「これで魔法が掛かったのかな? ……あ、すごい! ちゃんと聞こえる!」
「良かったな、まほろ」
「うん! ――そうだ。ねえねえ、よかったら惟人くんの音きかせて?」
 自身の知る花見の音と、それは違うのだろうか。似ているのだろうか。どちらにしても、きっと愉しいはずに違いないから。
「あぁ、是非まほろも花見の音を聞いてくれ。私も、森の音を聞きたいな」
「もちろん、まほろのもどーぞ!」

 互いに差し出した掌へ、ころりと揺れるふたつの記憶。
 そうっと耳にあてれば、閉じた瞼の裏側に、音の欠片の向こうが見えた気がした。

一文字・伽藍
エストレィラ・コンフェイト

「――あ、ちょっと待っておばあちゃん」
 陽は落ちたとはいえ、まだ初夏の熱の名残を残す森ならばきっと、川のなかへと脚を浸けて探すのも心地良いだろう。
 けれど、生憎今日の足許は気に入りのタイツ。それならば、と一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)が手早く呼び出したのは、いつも一緒のポルターガイストだ。
「というわけで、よろしくクイックシルバー」
 大好きな伽藍に頼まれたとあれば、もちろん全力で叶えたいというもの。こくりと頷くかのように瞬いた銀光は、ふわりと伽藍の躰を宙に浮遊させた。その様子を見ていたエストレィラ・コンフェイト(きらきら星・h01493)も、ぱちりと瞠目する。
「……おや、器用なものだ」
「おばあちゃんは? お着物濡れちゃうでしょ」
「では、お言葉に甘えよう」
「OKー! クイックシルバ~おばあちゃんもフワっとして~」
 ぱちりぱちり。再び点滅した銀光たちが、今度はエストレィラの躰も――念のために、着物の裾は指先でつまんで――浮かばせた。ふよふよと伽藍の隣へと移動し、そのまま水面近くをゆっくりと揺蕩っていく。
「それにしても、露花氷美味しかった! やっぱ夏は冷たいスイーツよね」
「あれは格別に美味であったな。また機会があれば食べたいものだ」
「だねー! 糖分補給も出来たし、今のアタシならさくっと見つけられそう!」
「うむ、腹が満たされた後ならば、わたくしも百人力である!」
 途端、わっと沸くように笑み声が重なった。涼しい夜気を運んできた夜風が、絶えぬ語らいに弾むふたつの声音を乗せて、森の奥へと渡ってゆく。
 空を覆う葉々の隙間から毀れる、月のひかり。どこかから聞こえる夏虫の声と、時折香る花の匂い。澄んだ空気で肺腑を満たしながら、ひとつ息を零せば、視線の先にひときわ強い燦めきを見つけて、ふたりの声が交わった。
「おばあちゃん!」「伽藍ちゃん!」
 見失わないよう、確りとひかりを見つめたまま。そろりと近寄って、もう少し間近で月響珠を眺める。
「おばあちゃんは、どんな音記憶させるか決めてる?」
「いや? そういう伽藍ちゃんは?」
「……アタシね。音を記憶させるのも面白そうだけど、せっかくだし。此処で覚えた水の音そのまま持ってくのも良いよね、って思ってたんだ」
 どんな音するかな、とぽつり零してから、娘は口を噤んだ。指を伸ばして、そうっと拾い上げた石をきゅっと握る。
 そのまま傍らを見れば、同じように石を手にしたエストレィラがいた。銀糸を揺らして、甘やかな金の双眸を愉しそうに細める。
「わたくしも、同じことを思っていた。水の音を持ち帰ろうではないか、とな」
「そうなの!?」
「くふふ、お揃いだなあ。……今日の想い出の、良いひとつになった」
 ふくふくと口許を緩ませるエストレィラにつられるように、伽藍も唇で弧を描いた。ゆっくりと開いた掌には、月の欠片のような淡いひかり。耳を欹てれば、心地良い水の調べが、今もなお響く川音と重なった。
 おばあちゃんのも、同じ音? それとも、ちょっと違ってたり?
 そう浮かんだ疑問を悟ったのか、エストレィラが眦を緩めて伽藍へと自身の石を見せた。
「わたくしのも聞いてみるか?」
「うん! あとで聞かせて。でも今は、その前に――」
 言いながら取り出したスマートフォンを掲げて、一層笑みを深めて。
「ねねね、浮いたまま一緒に写真撮ってもい? ギャルピしよ♡」
「む? ぎゃるぴ? はて、面妖な響きであるな」
「あ、ギャルピースね。手はこうね」
「こうか? ああ、さては巷で流行っているぽぉずだな?」
「そうそう! じゃあ、いくよー!」
「うむ、こういう時はこう言うのであろう?」

 ――いぇーい!

「……で、合っておるか?」
「合ってる合ってる!」
 パシャリと響いたシャッター音に、そんなふたりの笑み声が混じっていった。

リュドミーラ・ドラグノフ
ルスラン・ドラグノフ

「へぇ、弁当持参とか準備万端だな」
 リュドミーラ・ドラグノフ(Людмила Драгунова.・h02800)の片手を塞いでいる荷物に気づいたルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)が、ぱちりと瞬いた。
 大きめのバスケットには、サンドイッチがたっぷりと水筒が入っていた。飲み物は紅茶にしたわ、と添えると、リュドミーラはどこか得意気に兄へとそれを差し出す。
「はぁ……わかってるよ、荷物は僕が持つんだろ」
 硝子の奥の眼差しは冷めたままに、短く嘆息を零したルスランへとリュドミーラも笑みを深める。
「さすが兄さまね! 察しが良いわ!」
「……結構重いな」
 最後にぼそりと付け足した言葉は完全にスルーして、娘は笑顔のままくるりと前へ向き直った。一般人なら分からぬであろう、普通の森とダンジョンのそれとの境界線を目聡くみつけると、それを軽々と踏み越える。
 屋外ダンジョンというだけあって、一見すればまさに森そのものだった。恐らく、透明な外壁がダンジョン全体を覆っているのだろう。夜風や、空の陽の名残まで感じられるということは、物理的な障壁にはなっていても、それ以外は素通りできるのかもしれない。
「んー! それにしても良い宵ね!お散歩するにはちょうど良いわ!」
「目当ての場所はあるのか?」
「景色の良い、大きな岩場があれば――あら、あったわ! さすがあたしね!」
 言って、赤い眸を向けた先を見遣れば、拓けた場所に小川が見えた。両脇にはちいさめの岩や石が、その周囲にはそれよりも大きな苔岩が集い、それらを囲うように木々の枝葉が垂れ気味に伸びている。
「よし! ここを基地にするわ! ――兄さま、先にサンドイッチ食べる?」
「リューダがそうしたいんだろう? 僕は構わないよ」
「ふふ、じゃあ食べましょ!」
 ベッドほどのサイズはあろうかという平岩へと並んで腰掛けると、ルスランはふたりの間にバスケットを置いた。リュドミーラがサンドイッチの包装を手早く解くあいだに、ルスランが互いのカップに紅茶を注ぐ。
「はい、これ兄さまの! トマト抜きにしたから安心してね!」
「そうか。助かる。――うん、旨いよ」
 はむっと食めば、ふんわりとしたパンの食感からじゅわりと広がる色々な味。ボリュームはありそうなのに、それでいてぺろりと食べられてしまうからつくづく不思議なものだ。
「あの川のなかでキラキラ光ってるのが月響珠かしら」
「ん? ……ああ、かもな」
「綺麗な石が見つかるといいわね! そうそう。四葉のクローバーを一緒に探したときは、あたしが先に見つけたわ!」
「随分と懐かしいな。お前はすぐに見つけるから、あのあたりの四葉が全滅するんじゃないかと思ったよ」
 そう言って紅茶で喉を潤しながら、2つ目のサンドイッチを食べ始めたルスランへと、リュドミーラはひとつ瞠目した。「生態系までは破壊しないわよ!」と、すこし頬を膨らませて、自分も次のサンドイッチへと手を伸ばす。
 心地よい夜風が吹き抜け、舞い上がった川の涼が頬へと触れた。ささやかに響く初夏の虫たちの歌声が、あたりを柔く照らす月のひかりへと滲んでゆく。
 言われなければ――言われたとしても、ここがダンジョンだなんて誰が信じるだろうか。それほどに穏やかで、優しい|気配《けわい》が満ちている。
「さて、そろそろ石を探しましょうか! どっちが先に見つけるか競争よ、兄さま!」
「えぇ……」
 俄然乗り気のリュドミーラへと、ルスランは僅かに柳眉を寄せた。どうせNOと言ってもいつの間にか参加させられていた体になるのがお約束だ。ならば、自分は自分のペースで探せばいい。
 そう思考を切り替えたルスランは、先ほど岩場から見つけた川の中腹へと行くと、早速水面を眺め始めた。これほどに綺麗な場所なら、この燦めくひかりのどれかはきっと、月響珠に違いない。
(記憶させたい音、か……)
 恋人でもいればまた話は違ったのかもしれないけれど、生憎“ふたりであいの告白を記憶して、お互いに交換”――なんてリア充爆発めいたことができる相手はいない。
 ならば、絶えず耳を潤してくれている、この美しい森の音だけで十分だろう。旅の良い想い出にもなる。
(石を拾う前に音が記憶されるんだよな。なら、慎重に――)

「ねえねえ兄さま!」

「あっ」
「あら? もしかして兄さまの手にあるのって……」
「リューダ……お前なぁ……」
「まあまあ! でもほら、聞いてみなければ分からないわ!」
「……あー! やっぱり……リューダの声を記憶しちゃったよ……」
「大丈夫よ兄さま! あたしがちゃんと水音を拾ってみせるわ!」
 そう言うやいなや、いつも溌剌とした娘の声がぴたりと止んだ。暫し訪れた静寂のなかに、清らかなせせらぎだけがじんわりと染みてゆく。
 そっと指先を水へとつけて、燦めくひとつを掬い上げたら、そのまま耳を欹てて。
「……うん、ちゃんと音が記憶できてるわ! 完璧ね!さすがあたし!」
「じゃあ、そっちの石と交換しろ」
「イヤよ! 自分の声が聞こえてもうるさいだけじゃない! ――ほら、兄さま! あそこで光ってるのも月響珠じゃない?」
「まったく……」
 それならなんのためにせせらぎを記憶したのか。
 そう過った言葉を嘆息に混ぜながら、ルスランは幾度目かの苦笑を零すのだった。

月島・珊瑚
プリエール・カルンスタイン
天國・巽
月島・翡翠

「“月の褥の森”なんて、洒落た名前だなぁ」
 夜風を浴びながら月島・珊瑚(憧れは水平線の彼方まで・h01461)が零した声が、ふわりと森の奥へと溶けてゆく。
 茜の余韻も消え去った空は、薄く紺から藍へと移り始めていた。初夏の熱が和らぎ、どこからか虫の唄が響いてくる。
 躊躇うことなく先をいく仲間たちの後ろ、覚束なくなってきた視界に胸をきゅっと締め付けられたプリエール・カルンスタイン(天衣無縫の縛りプレイ・h00822)は、誰かの袖を掴まんと半ば無意識に手を伸ばした。その白磁のような手の甲に、木々の合間から毀れる淡いひかりが降り注ぐ。
(あ……)
 優しくじんと染みゆくような、幻想的な白。それは母ローラの象徴でもあるものだと気づくと、プリエールは静かに手を引き戻した。不思議と、母が一緒にいてくれるような、そんな心強さが裡より湧き上がる。
「――見て、川があるよ。折角静かで涼しいし、素足で入ってみようかな」
「なるほど、妙案だ。昼はちょいと蒸すような感じもあったが――夕涼みにはちょうどいい頃合いだな」
 早速水へと脚を浸け始めた珊瑚の姿に口許を綻ばせながら、天國・巽(同族殺し・h02437)もひとつ頷いた。「どうせ河辺で濡れるだろうしな?」と川岸で雪駄と足袋を脱ぎ、懐へとしまってから浅瀬に素足を晒して歩き始める。
「わ、ふたりとも気持ちよさそう……! じゃあ、私も……」
 暑さを苦手とする月島・翡翠(余燼の鉱石・h00337)にとっては、日中の熱が引いただけでも大分過ごしやすくはあったけれど。ふたりの涼やかな足許と川のせせらぎに惹かれるままにヒールのサンダルを脱いで川へと入れば、忽ちひんやりさらさらと流れる水の感触に笑みを咲かせる。
「ふふ。雨の中散歩はしても、水に入ることは少ないから、なんだか新鮮……」
「……水に入るのは吸血鬼的にどうなのかしら? ……でも……」
 このまま置いていかれては、森のなかで迷子になるのは必至――そう悟ったプリエールの裡で、天秤が片方へぐぐっと傾いた。天晴れ、打算! すぐさまブーツを脱ぐと、両手に持ちながらそろりと川に脚を浸けて歩き出す。
 月光を浴びて燦めく川の流れにそって、暫く歩いた先。ふと肌に触れる空気の変化に気づいた巽が、視線を上げた。
「ダンジョンへ入ったか」
 仲間たちへと説明するまでもない。そう零すだけで自然と隊列を整えた面々は、慎重な足取りの巽を先頭に先へと進む。
 変わらず川の流れは穏やかで、心地良いせせらぎが耳を潤してくれている。そんな月のひかりに燦めく水面の奥、きらりと白銀を纏うような輝きを見た気がして男は一度脚を止めた。腰を屈めて、水底をよく覗き込む。
「ほう――これが月響珠。綺麗なもんだ」
「え? ありました?」
「ああ。ほら、この先に」
 言いながら巽が示した先へと、その背からひょっこりと顔を出した珊瑚が眼を凝らせば、まるで大きな星が鏤められたかのようなひかりの群れに、硝子の奥の双眸を見開いた。
「本当だ、すごいたくさんありますね……!」
「ちょっと珊瑚、見えづらい。もう少し屈んでちょうだい。――わ、こんなに……!?」
「写真に映るかな。えーっと、夜景モードで……あ、綺麗に撮れた!」
 そうはしゃぐ翡翠に続いて、|蹲《しゃが》んでみたり、そろりと石の周りを歩いてみたり。暫くのあいだ思い思いに過ごしていれば、試しに拾ったひとつを耳に当てていた珊瑚が、夜色に溶けるような声音で云った。
「そうだ……折角だから、月響珠の力で遊ばない?」
「遊ぶ? って、どうやって?」
「4つの月響珠に、それぞれが考えた1小節ずつ……それを分割して封じて、4つ揃えて聞くと意味のある言葉になるようにする、とか」
 それは本当に、ふと脳裏に過った思いつき。
 けれど、浮かんだ瞬間に素敵だと確信した。「こうしたら、素敵な思い出になりそうじゃない?」と、珊瑚は一層笑みを深める。
「珊瑚にしては、洒落たこと、思いつくね?」
「ふん? いいじゃねェか、面白そうだ。ついでに、自分が持ち帰るのは誰かのと交換してもいいかもな」
「えっ、みんなは良いの!? 私は急に言われても困るのだけれど!?」
 素足に触れる水の気配と音に感じ入っていたプリエールのなかで、一瞬にしてその安らぎが吹っ飛んだ。きょろきょろと仲間を見渡すけれど、どうやら皆だれもが乗り気のようだ。
「アタシは何て言葉を封じようか……そうだな……よし、最初はもらうよ」

 ――“日和雨の村”。

 4人で露花氷を愉しんだリュースエルヴ村。
 晴れ渡った青空から毀れる雫の燦めきを受け止める、美しい睡蓮の池。その眩い景色を彩るように、空を縁取る大きな虹。そのすべてが鮮明に、珊瑚の裡に焼きついている。
「ンじゃあ、2番目は俺が」

 ――“水蓮のほとりで”。

 珊瑚に続き、そうっと水面へと囁いた巽は、月のひかりをひとつを掌に乗せた。あの池を彩っていた睡蓮にも似た、白に近い淡い桃色。“信頼”の言葉を抱くあの花のように、己へと屈託なく向けられる笑顔たちにこの先も信じ頼ってもらえればと、願いを託す。
「言い出しっぺは元より、巽さんも考えつくの早い……。なら、じゃぁ3つ目を……」

 ――“雨の匂いと共に”。

 『匂いが、一番記憶に残る』――そう、此処にはいない知り合いが言っていたと、翡翠が添える。
 記憶とは、生きているかぎり、気づかぬうちに薄らいでゆくもの。だからこそ、この頼りない私の記憶に、すこしでも留まってくれるといいのに。そう願わずにはいられない。
「えっ? もう最後!? えっと……」
 流れるように言葉を紡いだ仲間たちの姿に、プリエールは逸る気持ちのまま視線を巡らせた。なにか良い言葉を、と考えれば考えるほど、色々な単語が脳裏を過っては消えていく。
 そんな視界の端で、一際鮮やかな燦めきが映った。ほんの一瞬、けれど、見つけてほしいと囁いてくれたような気がして、プリエールはそちらへと顔を向けた。
 揺らぐ水面に映る淡く眩い月白と、水底に眠る月響珠。
 まるで月に抱かれているようなその景色は、どこか母ローラに抱き上げてもらった記憶にも似ていて。
(……そうね。これにしよう)

 ――“しとどの月で眠る子ら”。

 ぽつりと毀れた、短い声。
 水鏡越しにそれを宿した4つ目の月響珠が、プリエールの指先できらりと輝いた。

鬼灯・睡蓮
セイシィス・リィーア
鬼城・橙香
清緑・色

「わぁ……さっきとはまた違った素敵な場所です……」
 緑に囲まれた場所は何だか落ち着きます、とほわりと続ける清緑・色(清き緑の龍・h06856)の眼前。暮れゆく空を背中で見送りながら訪れた月の褥の森は、すっかり夜の気配を纏っていた。
 梢を抜けてゆく風は昼間よりも幾らか涼しく、囁く葉掠れの音に紛れて夏虫の音が響いてくる。そんなどこか静謐な雰囲気に満ちた森を照らす月を仰ぎながら、鬼城・橙香(青にして橙火・h06413)が柔く双眸を窄めた。
「ここも綺麗ですね、天気も相まっていい感じです♪」
 早速月響珠を採取してみましょうか、と足取り軽く先をゆく橙香の後に鬼灯・睡蓮(人間災厄「白昼夢」の護霊「カダス」・h07498)と色が続き、ちいさなふたりを見守るようにセイシィス・リィーア(橙にして琥珀・h06219)が末尾に加わった。
 脚を踏み入れたときは暗いと感じていた森も、暫く歩いていれば月のひかりに目が慣れて、むしろ眩いほどだった。見たことのない月響珠が、どれほどの燦めきなのか。その特別なひかりを探しながら歩いていれば、ふと鼻先をかすめた風に水の匂いを感じ取る。
「――あちらに川があるようですね」
 橙香の声にふわりと顔を上げた睡蓮と色の、その柔らかな眼差しにぽわりとひかりが灯る。それに気づいたセイシィスと橙香が、小石の混ざり始めた道をゆくふたりの手を取った。
 程なくして現れたのは、苔生した岩場に囲まれた水辺だった。柔らかな苔の緑が、月光に包まれて一層淡く夜に浮かぶ。
「んにゅ……綺麗なのです……」
「もしかして、あの光ってるのが月響珠でしょうか……?」
「あ、色くん。滑りやすいから気をつけてね~」
 そろりそろりと、水に濡れぬように平たい石を足がかりに、色が川を過り始めた。もし川に落ちてしまったら一大事だと、セイシィスがその後を追い、丁度追いついたところで色の足許がずるりと揺らぐ。
「あっ――セイシィスさん、ありがとうございます……」
「間一髪セーフだったね~」
 片足が水に浸かりかけたちょうどその瞬間、セイシィスに抱きかかえられた色。お礼を告げながら顔を上げれば、ぽふんと髪に触れる柔らかなぬくもりと、安堵を滲ませるセイシィスの笑顔があった。
「おふたりとも、無事で良かったです」
「ふにゃ……結構、滑りやすいのです……」
「だね~。――で、これが例の石なんだね~。たしか、そのままだと水音で、話しかけたりすると変わるんだよね~?」
 ゆっくりと色を下ろしながら水面を伺うセイシィスへ、橙香も軽く頷く。
「さて、内容は何にしましょうか。好きな音楽はともかく、音だと長さに悩みますね」
「んぅ……迷うですね……」
「水音も良いけど、せっかくなら声を入れたのも欲しいかな~」
「んみゅ……音を残せる、大事なのです……」
 記憶のうち、もっとも早く薄れていってしまうのが声や音なのだと、なにかで聞いたことがある――そう続けた睡蓮が、すこし間を置いてから口を開いた。
「僕が残すとしたら……感謝、なのです……」
「感謝、ですか……?」
 きょとり瞬く色へと、眠たげな眼差しのままこくり頷いて、
「縁というのは、偶然も必然もあるもの……。であるならば、せっかくお逢いした縁ですし……感謝の言葉を残すのが良いと、判断したのです……」
 すぴー……、と寝息の混じる、いつもの声音で紡がれた言葉は、どこまでも優しく耳に響いたから。これからも、叶うならば遊びにいきたい。夢にも――いつか、招待をしてみたい。だからこそ石に込めるのは、共にいてくれることへの感謝の言葉と、これからも末永くこの縁が続くようにという願い。
「感謝の言葉……睡蓮さんの案、素敵です……」
「ええ。たしかに素敵ですね。わたしも見習ってそうしましょうか」
 震える胸のままに石を探し始めた色に続き、そう言って橙香も視線を巡らした。すぐに見つけた燦めきを水面越しに覗き込み、そっと囁く。
 ――一緒に来てくれた皆に感謝を。そして、これからも仲良くしましょうね♪

「川辺は涼しいし探しやすいね~」
 ――私からも、心からのありがとうを。
 溢れんばかりの胸を押さえながら|蹲《しゃが》むと、セイシィスは水底のちいさな月光へと想いを託す。この想いがどんなふうに皆へと届くのか、あとで聞くときが待ち遠しい。

 ――いつもありがとうございます……。これからも仲良くして欲しいです……。
 星の囁きのように毀れた声は、色のもの。
 改めて言葉にすると、ほんのりと気恥ずかしいけれど。やっぱりちゃんと、言葉にしたいから。
「上手く吹き込めたようですね、色くん。えっと……この月響珠ですか?」
「はい……拾ってくれてありがとうございます、橙香さん……」
「睡蓮くんのは……あ、それですね」
「むにゃ……そうなのです……」
「では確保しましょう」
 この中でならば、まだ濡れても支障のない服だからと浅瀬へ入ると、橙香はそれぞれの石を優しく掌に乗せた。
 大切な、唯一の皆の|声《心》。決して失くしはしないと、そっとライダースーツの胸元の谷間へと収めたとき、微かに言葉が耳を掠めた。

 ――この出逢いに、感謝を……ありがとう、なのです……。

御嶽・明星
エリカ・バールフリット

 森は、沈みゆく空の名残を葉裏に滲ませながら、静かに夜を迎えていた。
 仰ぎ見れば、光と翳がひとひらずつ交わりながら、彩の輪郭を解いてゆく。梢の上から降り注ぐ宵の雫が、葉を伝い、水面へと毀るるたびに、ちいさな音を響かせている。
 それはまるで、この世界の呼吸のようにも思えて、御嶽・明星(推定・暁の明星・h00689)は無意識に息を殺して水底を覗き込んでいた。傍らのエリカ・バールフリット(海と星の花・h01068)もまた、|蹲《しゃが》み込んで水面を覗く。
 |月響珠《クランペルラ》の存在を知ったとき、どちらも敢えてなにも云わなかった。それでも此処へと訪れることを決めたということは、互いに相手の思い描いた音を――焦がれていた声を察していたという意味でもあった。
 言葉にせずとも、容易く分かる。
 だって――その声を知っているのは、他ならぬ自分なのだから。
「あ……あそこなんてどうだ?」
 明星の視線の先を見れば、苔生した岩肌のあいだから水が流れ落ちている場所があった。長い年月をかけてこの窪みが作られたのだろうか。突如現れたこのダンジョンがいつから在るのかは知りようもないけれど、両手で作った円ほどの大きさのその水盆のちょうど中央へと、細い水流が愛らしい音を立てながら毀れ続けている。
「静かで綺麗な場所だね。……これが|月響珠《クランペルラ》なのね」
 石が声を拾わぬように、音を汚さぬように、すこし離れてそのひかりを眺める。淡く月光を映した水面へと注ぐささやかな水の流れが、幾つもの波紋を生みながら水面のひかりをあたりへと鏤めるなか、星のような幾つかの燦めきが確かに在った。
 どちらからともなく水盆へと近寄り、水面へと顔を近づけて記憶を辿る。懐かしい声を。――もう一度と、願わずにはいられないその声を。
 そうして、水から引き上げた|月響珠《クランペルラ》へと耳を欹てる。その響きがたまらなく嬉しくて、知らずと綻びかけていた心を整えんと、明星は一度深呼吸をした。
「……聴いてみな」
 それだけを添えて差し出した珠に込めたのは、姉――エリカの母が|15歳《エリカと同い年》のときの声だった。知らないはずなのに、どこか懐かしいような。7歳の明星の名を呼ぶ、少女らしい柔らかで優しいその声音に、エリカは閉じていた瞼をゆっくりと上げた。
「エリカ、お母さんとあまり似てないけど、声がそっくりだったのね……」
「……そうだな」
 今はまだ、比べることのできずにいる声色を抱くちいさな月の欠片。それを一度、愛おしげに掌に包むと、エリカは自分の記憶を込めた|月響珠《クランペルラ》を差し出した。
「じゃぁ、アカリにも聴かせてあげる。……ううん、アカリに聴かせたかったの」
 エリカが選んだふたつの|珠《石》が抱くのは、どちらも、娘がいま一番聴きたいと願う声。
 ひとつには父のを、もうひとつには――母のを。
「……聞こえてる? それが、お母さんの声――アカリが聞くことができなかった、大人になったお姉さんの声だよ」
「……ああ」
 耳許で響く、柔らかな声。ひとつの命を慈しむような大人びた女性の声は、けれど確かに少女のころの名残を滲ませていた。
「幸せ……だったんだな」
「……うん」
 明星の耳に響いているであろうその声を思い出せば、また胸に想いが込み上げてしまって、エリカはそれだけを云うと唇を噤んだ。
 ふたりの掌には、消えることのないぬくもりを宿した月のひかり。
 互いに渡しあった記憶の欠片は、宵色に包まれ始めた森のなかで仄かに瞬き続けていた。

高城・時兎
古賀・聡士

 雫よりははっきりと、けれど絹のように薄い月光が、葉の隙間を透いてあちらこちらの足許を照らしていた。まだ陽の名残を孕む夜風が肌を掠めるたび、それは淡いひかりがカーテンのように揺れて、ふたりを森の奥へと愉しげに誘う。
 星詠みの云うとおり、水音を辿ってゆけば、目当てのひかりは容易く見つかった。
 幾つも積み上がった苔生した岩の隙間からあふれた流水は、細く長い流線を描きながらその下にある腰の高さほどの岩場へと注がれ、清かなる水盆を生み出していた。浅いその水底に灯る幾つもの月のひかりに、古賀・聡士(月痕・h00259)はひとつ感嘆する。
「これが音を記憶できるなんてすごいねぇ」
「だね。気に入ったの、大切に持って帰りたいケド……」
 名の響きからして心惹かれていたそれは、やはりこうして実物を眼にするとまさにちいさな月のようだった。水面に燦めく月光にも似た、けれど時折銀や、それ以外の|彩《いろ》も帯びてみえるそれは、呼吸するかのようにゆっくりとちいさな明滅を繰り返している。
「聡士、何か吹き込んでみる? 自然の音、そのままでも心地良さそーだけど……例えば、なんか、お互いへのメッセージ的なヤツ、とか」
 どうかな? とそろりと伺うように尋ねる声音に、男は「僕はどちらでも」と言いかけた言葉を飲み込んだ。「吹き込んだら、交換して聞いてみるのも面白そ」なんて、どこか強請るように向けられた傍らの愛おしい視線へと笑みを深める。
「……そうだね。それならお互いにメッセージを入れて交換しよう」
「良いね。おれは、じゃあ……うん、決めた」
 ――アイシテル。
 今の胸の裡を言い表すならば、きっとこれになるだろう。
 恋人という枠を超えた、“大切”を示す、一番の言葉。
「早いな。――うん、僕も決まった」
 想い描いた言葉は、それだけで心がふわりと柔く綻ぶから。ふたりはそのぬくもりを抱きながら、水面越しにそっと声を零して、水底に眠る|月響珠《クランペルラ》を静かに掬い上げた。水を隔てぬそれは、掌のうえでは一層眩く、けれど淡く夜にほどけるようなひかりを零している。
 どちらからともなく差し出した珠を確りと受け取ると、時兎の裡ではひそやかに鼓動が早鐘を打ち始めた。聴くのは愉しみだけれど、聴かれるのはすこし緊張してしまうのはなぜだろう。
 そんな、どこか落ち着かぬ様子の時兎に気づいた聡士は、眦を柔く緩めながら掌の珠をそっと握った。
「ありがとう、これは後で聴かせてもらおうかな」
「わ……わかった。じゃあ……聡士の、聴くな」
 一瞬にして消えた緊張の代わりに、ふわりと湧き上がった高揚感のまま石へと耳を添えれば、愛しく紡がれる優しい声。

 ――心安らかな日々をありがとう、時兎。どうか、これからも末永く。

「ふふ。時兎、顔が赤い」
「いや、コレ……なんか、耳許で囁かれてるみたい、だし……」
「ああ、確かにそうかも? 僕も聴くのが愉しみだ。――そうだ、もうひとつ試しても良い?」
「もうひとつ?」
 きょとりと瞬いた赤い双眸に映る、聡士の横顔。なにかを想い描いたのだろう様子を見守っていれば、雫を纏った|月響珠《クランペルラ》が差し出された。そっとそれに触れて、耳許へと当てる。
「懐かし……この旋律」
 瞼の裏に広がる、それは遠けれど近いような昔の記憶。共に奏でたピアノとヴィオラの旋律が連なって、その美しい調べを自然に繰り返している。
「どうだい? 過去の音色を残すのも面白いんじゃないかなって」
「ああ……凄く、良い。……これは、おれたちふたりの宝物の珠、だね」
 そう花笑みを浮かべる時兎へと、聡士もまた、慈しむような笑みを湛える。

 過ぎゆく刻は、知らぬ間に記憶を解いていってしまうだろう。
 それでも、此処に残るひかりがあれば、いつだって蘇る。
 あの旋律も――この想いも、きっと。

空沢・黒曜

 微かに茜の残る宵の空を、静かに仰ぐ。
 ――そろそろ行かないとだね。
 陽の満ちるこの村も語り尽くせぬほどの美しさだったけれど。世界はいつだって何処だって、輝いていることを知っているから。
 次はどんな綺麗な彩があるのだろう。そう思うだけで穏やかに弾む足取りのまま、空沢・黒曜(輪る平坦な現在・h00050)は“月の褥の森”へと歩を向けた。
 程なくして辿り着いたそこは、まるで月に抱かれているかのような佇まいだった。無論、今このときでさえ、簒奪者を討つことこそが最たる目的であることを忘れてはいない。それでも、|梯《はしご》のように天から降りる幾重もの月光のカーテンが、宵に染まる木々へと幻想的な陰影をつけるこのひとときに、息を飲んだとしても罰は当たるまい。
 この灯りがあれば十分だろう、と常に携帯しているカンテラへと伸びた手を引き戻す。そのままゆっくりとした歩調で森へと入れば、忽ち静寂ながらもその存在を雄弁に語る、夜と森の気配が肌に触れる。
 匂いは分からずとも、あたりに満ちる音は十分聞き取れた。
 梢が風に揺れて毀れる、葉掠れの音。夏虫たちの歌声。そして、揺蕩うように紡がれる川のせせらぎ。
 それらに導かれるよう、水辺と寄り添いながら先をゆく。次第にじんわりと増えてきたひかりに気づいた黒曜は、眼下の浅瀬にあるそのひとつを手に取った。
「これが、|月響珠《クランペルラ》か……」
 そっと耳を欹てれば、今ここに溢れる心地良い水の流れと同じ響きが、柔く重なる。
 これはどういう仕組みなのだろう。月の魔力が宿っていると云うけれど、それに反応しているのか、常に音を発しているものの、それは耳を近づけたときにしか聞こえぬほどに繊細なのだろうか。
「月が答えてくれる……わけはないか」
 そう独りごちながら、緩んだ口許のままに月を見上げる。
 瞼をそっと閉じて、静寂と、そこに染むように響く川音へと心を預ける。
 時折、そんなふうに身を預けてこのひとときを満喫するのは――きっと、贅沢なことのひとつなのだろう。

アニス・ルヴェリエ

 |月響珠《クランペルラ》――なんて素敵な響きなのだろう。
 それを求めに、森へとゆく。それを宝探しと云わずして、なんと呼べば良いというのか。もうとうに独り立ちしているというのに、まるで幼子のようにアニス・ルヴェリエ(夢見る調香師・h01122)は胸を躍せる。
 天から毀れ、森へと鏤められた月のひかりを纏いながら、娘はゆっくりと森の路を辿る。夜はすぐそばにあるけれど、葉々の随からスポットライトのように降り注ぐ月光はどこまでも柔らかく、寧ろ見入ってしまうほど。
 これよりも一等眩いひかりがどんなものか早く知りたくて、夢中で視線を巡らせる。
 きっとちいさな燦めきのはず。ちゃんと気づけるかしら。ここがダンジョンだということも一時忘れ、漫ろなままに歩を進めていれば、その視界に一瞬、微かな、けれど確かな白銀が飛び込んだ。
「あったわ……! これが月の魔力を秘めた石……」
 長い年月を経て削られてできた岩場の水盆の底に、幾つかの石が眠っていた。月光を映す水面越しでも分かる、淡い輪郭を描きながらもなお一層強い月のひかりを放つそれをひとつ拾うと、アニスはそっと耳を添えた。
 ――ねぇ。あなたはどんな音を記憶しているの?
 裡でそう問いかけながら、川辺に、岩場から毀れる水で瞬く|月響珠《クランペルラ》を掬い上げ、優しく響く音へと心を委ねて耳を澄ます。
 さらさらと紡がれるせせらぎ。ぽつぽつとまあるい雨音。ざあざあと強く清らかな滝の|音《ね》。
 どれも、この石の記憶。今日という日の、わたしの記憶だから。
「今日の日を思い出せるように、ひとついただいていくわね」
 記念にと、気に入りの一欠片をそっと懐へしまう。
「それにしても素敵……この石をうまく加工して香水瓶の蓋にしたら、思い出を奏でる素敵なものになりそうね! ……でも」
 ひらめきを唇に乗せながら、娘はぴたりと脚を止めた。
 利益のために使うのは、なにか違う気がしてしまう。大量生産ではなく、そう――大切なひとへの贈り物なら良さそうだろうか。そんな近い未来を想い描きながら、アニスは再びひかりを辿り始める。
 ふとした折りに耳を欹てれば、柔く響くのはあの雨の音。瞼の裏にそっと、雨の匂いを孕んだスタージャスミンの香りが蘇る。

 そう、|調香師《わたし》は知っているもの。
 香もまた、記憶と結びつくということを。

躑躅森・花寿姫
ララ・キルシュネーテ

 薄紅の混じる茜と、紫紺。
 光と影の境界線をなぞるように、ゆっくりと天穹を染めあげてゆく鮮やかなその彩に脚を止めれば、涙花の名残がひとつぶ、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の視界を過った。
 ふわりと舞い上がったその燦めきに誘われるように、躑躅森・花寿姫(照らし進む万花の姫・h00076)とふたり、森へとそっと脚を踏み入れる。弾けて消えた雨だれの代わりに、薄絹のようにたおやかに降り注ぐ月光が、ほの暗い森を照らしていた。
「とても綺麗な場所で……お伽の世界で戯れる精になった心地です」
「ふふ、本当に綺麗な場所よね。お前ならば、躑躅の妖精姫になれそう」
 そしたらララは迦楼羅の姫になってみようかしら、と花笑みを浮かべるものだから、花寿姫もつられて笑み声を立てた。
 凸凹の背を並べながら、ともに歩む路はどこまでも続くようで。月の導を辿ってゆけば、知らぬ間に川の流れと混じったそのひかりに、ほうとちいさな息が漏れる。
「これが月響珠……」
「これほどに美しいなんて……」
 月光を浴びた水面を透いて、ちいさくとも一等強く灯っていたひかりは星のようにも見えたけれど、近づけば仄かに白銀に染むそれらはやはり、月のひかりを思わせた。淡く、白く、薄らと夜を溶かしたような燦めきに、ふたりは暫し言葉を失う。
「そうだ、折角なら音を記憶させた月響珠を交換しませんか?」
「名案ね、花寿姫。ならばララは……花笛を奏でて、お前のためだけの音色をとじこめてみせましょう」
 胸躍る提案に赤の双眸を細めると、ララは懐から桜と神鏡が揺れる横笛を取り出した。笛の術は、ほかの誰でもないパパが教えてくれた。だからきっと、大丈夫。綺麗な音色を出せるはず。そう静かに息を吸い、花笛に唇をつける。
 辿々しくも、可憐に。お前へと紡ぐのは、躑躅の花のひとひらに雨雫が踊るような、特別な音色。
 明日天気になぁれ。
 どうか明日も、花寿姫が満開に咲っていられるように。
(ララさんの笛の音……嬉しいです)
 瞼を閉じ、耳を傾けながら、ちいさく花寿姫が口許を綻ばせた。得手不得手なぞ関係ない。自分のために奏でられた音色が、ララの満開の想いを乗せてあたたかく裡を染め上げてゆく。
「では……私からはこの歌を」
 それは、いまの花寿姫を形作る切欠のうた。護られているばかりではなく、護る側へ。『戦うお姫様』を志す一歩をくれた、あの物語の主題歌を。
 ――『夢見て戦って走って涙した 日々は 君を飾るティアラ 愛と勇気のドレス纏って 駆け続けよう未来へ』
 この|詩《うた》は、なにも私だけのものじゃない。
 貴方の過ごす日々が、経験が――抱いた想いのすべてが、貴方を支え、彩るから。大切だからこそ、この歌が貴方を力づけるそのひとつとなればと願わずにはいられない。
 互いの旋律を、そうっと|月響珠《クランペルラ》へと留めて。静かに触れた指先で水底から引き上げたひとつを、互いの掌へと乗せる。
「ありがとうございます、小さな演奏家さん。この音、大切にしますね」
「ララも……花寿姫のはじまりの歌をありがとう。花の歌姫様ね。心があたたかくなるわ」

 これからは、耳を欹てればその響きが、いつだって共にある。
 このひかりが、裡に宿り続いていく。
 ――ララの宝物よ、と。
 そうふわり微笑む娘へと、花寿姫もこくりと頷きながら、柔く破顔したのだった。

ミューレン・ラダー
ネリー・トロイメライ

「ダンジョンは初めてだけど、拓けた場所なんて不思議だね」
「うん。……ここからも空が見えるのね」
 軽やかな足取りで森へと入ったミューレン・ラダー(ご機嫌日和・h07427)へと頷くと、ネリー・トロイメライ(音彩を綴る者メロディテラー・h07666)も琥珀色の眸を瞬きながら顔を上げた。
 茜色の残光に溶けてゆく紫雲の影が、更に宵へと静かに滲みてゆく様は、どこの地から見ても好きな世界の|彩《いろ》のひとつだ。
「見て、ネリーちゃん。夕暮れと石の光で、川がきらきらしてる! ――あれ。そういえば、蛍はもうちょっと先だった?」
「確か、もう少し奥だったはずよ。まずは、この景色を愉しみながら行ってみましょう」
 ふたりの背丈よりずっとずっと大きな森だから、頭上を幾重もの枝葉が覆っているけれど。その隙間から毀れる薄らとした淡い月のひかりが、夜に微睡みながらふたりのゆく先を照らしてくれる。
 それになんといっても、夜目の利くふたりだもの。夜の森だってなにも、怯むことなんてない。とはいえ、躓いたり滑ったりするのは陽の元でもあり得ること。油断は厳禁とばかりに、確りとした足取りを刻んでいく。
「夜に遊ぶと、ちょっと大人になった気分にならない?」
「ふふふー。うん! 夜遊びって、悪いことしてるみたいな感じはあるね」
「あ、そうだ。拾う時に籠める音を決めてておかなきゃだよね」
「そうね。水切りのあの爽やかな音を思い浮かべたら、それも記録できるのかしら」
「うん、きっと記録できるよ!」
 弾む会話に笑み声を重ねながら、穏やかな川の流れにそって先へ、先へ。
 月光を映して燦めき、水辺との輪郭さえもぼやけた小川はどこか天河を思わせて、時折みつけた水切り用の小石もまるで星屑のよう。
「あ……あれかしら、|月響珠《クランペルラ》……!」
「ほんとだ! きらきら綺麗ー!」
 淡い月のひかりのなかで瞬く、幾つもの白銀の耀き。どこか呼吸するかのようにちかちかと灯る場所へと駆け寄ると、|蹲《しゃが》みこんだふたりは肩を並べて水底を覗き込んだ。さらさらと流れる水面の向こう、幾つかの月の石が静かに眠っている。
 ミューレンとネリー、ふたりこくりと頷きあって。互いに音を想い描きながら、静かに水へと指先を浸ける。ひんやりと心地良い流れに眦を細めて、そうっと掌で掬い取る。
 ちいさなミューレンの掌には、小指の先ほどの石がころりとふたつ。
 ひとつは、天気雨のなかで虹をみつけたときの、みんなの歓声。もうひとつは、この川面に弾けるちいさな雨音。
 どちらも大切な、今日の想い出。
 ネリーの両の掌にあるのは、まんまるお月様のような石ひとつ。
 あなたが覚えたのは、かちり、かちりと水底で触れあう|月響珠《クランペルラ》の音? ふたつ重なる、私たちの靴音? それとも、澄んだ風鈴の音色のように涼やかな、このせせらぎの音?
「帰ったら一緒に聞きましょ、ミューちゃん」
「うん、帰ったら聞かせあいっこして、その後皆にも聞いてもらお」

 同じ音でも、違う音でも。それもまた、素敵な想い出のひとつだから。
 くすくすと、またひとつ生まれた愉しみを言の葉に乗せて、娘ふたりは心惹かれるままに歩き出した。

櫻・舞
氷薙月・静琉

「|月響珠《クランペルラ》……なんとも不思議な石があるものですね」
 村人たちの話を思い返しながら、櫻・舞(桃櫻・h07474)は感嘆の息を零した。
 すっかり夜の彩を纏った森の随に降り注ぐ、柔らかな月のひかりたち。既にダンジョンに入ったという話だけれど、どこかから聞こえる虫の音も、頬を優しく撫でてゆく夜気も、それが運ぶ微かな花の香さえも。なにもかもがみな自然の|気配《けわい》を纏っていて、石もさながら、この場所も不思議なものだと、舞は静かに眸を瞬いた。
「音を記憶出来るなんて……とても凄いですね、静琉様! ――静琉様?」
「――あ。……ああ、すまん……」
 反射的に舞へと振り向いた氷薙月・静琉(想雪・h04167)は、そう言ってすこしぎこちなさの残る笑みを浮かべた。その陰りに気づいて舞が見上げれば、眉尻を下げた静琉が言葉を継ぐ。
「悪い……そんな心配させるような貌をしてたか」
「いえ……」
 そんなにも貌に出ていただろうか。心を添えようとしたのに逆に気遣われてしまって、舞はそうっと俯いた。静琉はなにか、とても真剣に考えていたようだった。いや、思い出そうとしていたのだろうか。
「静琉様……なにか残したい音があるのでは?」
「……。……いや、俺はいい」
 それだけを返すと、静琉は柔く瞼を伏せた。
 記憶したい音ならば、考えるまでもない。今もなお鮮明に浮かぶのは、あの藍瑠璃色の面影と鈴鳴く様な聲ばかり。
 けれど、立ち止まってばかりはいられないのも事実だった。どれほどに永久の後悔と懺悔の渦に飲まれようとも、その先へと進まねばならない。それに、決して消えることのないこの執着が万が一にでも記憶されてしまったら――そう思うと、怖れすらあるのが本音とも云えた。
「良いのですか……?」
 おずおずと問いながら、再び頷きを返した静琉に、舞もそれ以上は問わなかった。なにかがありそうだけれど、今は識るときではないのだろう。いつか教えてもらえる日が来るのだろうか。そんな思考を、続く静琉の声がかき消した。
「舞はなにか、記憶したい音はあるのか」
「えっ、私? いえ、記憶したい音というか……『妹』が居ると思うのですが、どんな姿でどんな声なのか思い出せなくて……。それに、残したいというより、探したいものですから……」
「そうか」
 ぽつりぽつりと零す舞の横顔を見ながら、以前娘から聞いたその話を思い出す。いつか見つけてやれれば――そう過っていれば、傍らからの視線に気づく。
「どうかしたか? 舞」
「あの……私、静琉様の優しいお声を残せたら嬉しいです!」
「俺の……? 優しい、……どんな声だ……」
 真剣な眼差しで告げる願いは、思ってもみなかったもので。きょとりと瞬いて首を傾げてみたけれど、躊躇う理由なぞひとつもない。舞が願うのならば、叶えるまでだ。
 ゆっくりと、月光を辿るように夜の森をふたりで漫ろ歩いて見つけた、岩場の水盆。紺藍の世界を照らしながら降り注ぐ月のひかりを掬うように、その水面へとそうっと両の手を添えて浸ける。

 ――舞。おまえの願いが叶うことを、祈っている。

 償いきれぬ過ちを犯した身だとしても、それでもこの想いは確かに舞を想って紡ぐ言霊だから。
「できた……が、これで良かったのか?」
「ふふ……はい! 静琉様、ありがとうございます! 大切にします!」
「目の前で聞かれると、さすがにこそばゆい、な」
 裡に広がるのは、どこか落ち着かぬあの感覚。懐かしさに眸を細める静琉へと、舞も花のように|咲《わら》う。

 耳を欹てれば聞こえる、大切なひとの聲。
 “今”、私が残したいと思う、かけがえのない音。
 胸いっぱいにあふれるこの喜びが、どうかあなたにも伝わりますように。

ベルナデッタ・ドラクロワ
廻里・りり

「音や声を記憶できる月響珠……思い描いたものも記憶してもらえるって、すごいですよね」
 月光のヴェールが淡く降り注ぐ蒼夜の森を歩きながら、廻里・りり(綴・h01760)が改めて感嘆を滲ませた。肩を並べるベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)が、そうね、とちいさく頷く。
「りりはなにを記憶させるか、もう決めたの?」
「うーん……お父さんとお母さんの声を……って思ったんですけど、せっかくならいっしょに来て、直接お願いしたいなって!」
「そう、|ご両親《あの子たち》の声は今度にするの」
「なので、まだベルちゃんが記憶してもらうものが決まっていなかったら、おたがいに交換しませんか?」
 ぱたぱたと大きな耳を揺らして声を弾ませるりりは、どこまでも愛らしくて。ベルナデッタの唇も、ふわりと柔く弧を描く。
「ええ、それなら是非交換にしましょう。まだ何も決めていなかったの」
 とても素敵な提案をありがとう、りり。そう花笑みを添えれば、青い双眸を一層燦めかせた娘もまた、嬉しさを滲ませながら頷いた。

 村人でさえ容易く見つけられるほど、たくさんあるとは聞いたけれど。月のひかりが眩いこんなにも美しい夜ならば、その燦めきを纏って飛び交う蝶を添えるのもまた一興だろう。ベルナデッタはどこか愉しげに眸を窄めると、指先から紡がれた魔法の蝶々たちを宵彩のなかへと解き放つ。
「わ……! 綺麗ですね、ベルちゃん!」
「ふふ。まずは|月響珠《クランペルラ》探しね。見つけるのも幸運のうちかしら」
 たとえ運が絡むものだとしても、それを引き寄せるられるのも魔術師ならではだろう。燦めく欠片をほろほろと零しながら森をゆく蝶を辿ってゆけば、ほどなくして緩やかに揺蕩う小川が現れた。下流のほうなのだろうか、川縁の石も小粒で歩きやすい。
「これが|月響珠《クランペルラ》……でしょうか?」
「そうみたいね」
 腰を屈めて覗き込んだ先、月光を映して煌めく水面の奥に、幾つものちいさな瞬きがあった。夜にぼうっと浮かび上がる幻想的なひかりは、ほかにもそこかしこに見えている。
「早速、試してみましょうか」
「あっ! ま、待ってベルちゃん。わたしはあっちのほうでやってきます!」
「あら……ふふ、そう。行ってらっしゃい」
 転ばぬように、と添えようと思った言葉も届かぬほど、急ぎばやに駆けてゆく娘の背を見送ると、ベルナデッタは裡へと問いかける。
 ――さぁ、どんな音にしましょうか。
「……そうね。いつか聞いたオルゴールの音色はどうかしら」
 ゆっくりとした旋律。ドイツ生まれの、ひとつひとつ優しく編まれた音色の名は『|Träumerei《トロイメライ》』。
 りりの夢が穏やかで優しいものになるように――そっと、願いを込めて。
「お待たせしました、ベルちゃん! わたしのもできました!」
 そう言って戻ってきたりりの両の掌の中央、ころりと転がったちいさな石へと口許を綻ばせると、ベルナデッタは丁寧にそれを受け取った。まるで月から毀れた雫のように、淡く灯るそれを耳許へと寄せようとすれば、
「ああっ、ここで聴かないでください! はずかしいので!」
「あら、内容は内緒なの? なら、大切に愉しみに持ち帰るわ。ありがとう、りり」
 そう柔く笑ってもらえて、りりもはにかみながらひとつ頷いた。

 ――ベルちゃん、いつもありがとうございます。だいすきです!

 ちゃあんと覚えてくれたか、念のため自分で聞いてみたときのその声が脳裏を過って、じわりと湧き上がった恥ずかしさを払うようにふるふると首を振ると、りりは愉しげに尾を揺らしながらベルナデッタの隣に並ぶ。
「露花氷もおいしかったですし、今度はみんなでいっしょに来たいですねっ」
「ええ、みんなで来たいわね。――ああ、りり。もうひとつ探して帰ってもいいかしら。残しておきたいものが思いついたの」
「もちろんです!」
 残しておきたいもの? この場所の音だろうか。ならばわたしも欲しいかも。
 そんな新たな愉しさを見つけると、りりは弾む足取りでベルナデッタとともに歩き出した。

緇・カナト
茶治・レモン
史記守・陽

 宵彩の森のなか、月のひかりを辿った先で流れる川をみつけて、寄り添うように傍らをゆく。
「月響珠、不思議でとても心惹かれますね」
「だねぇ。月の魔力を秘めてるなんてロマンがある」
「そういや、ふたりは記憶したい音って決めてますか?」
 のんびりと――言い換えれば、すっかり音を決めたような余裕さえあるように見えた緇・カナト(hellhound・h02325)と茶治・レモン(魔女代行・h00071)へ、未だ決めきれずにいた史記守・陽(黎明・h04400)が視線を向けた。
「シキさんカナトさん、お決まりでしたらお先にどうぞ! 大丈夫ですよ、横でドラミングとかしませんから!」
 そう云って、どこか得意気にもみえそうないつもの淡い面立ちでレモンがサムズアップした。宣言通り、実行はしないだろうけれど、ワンチャンしてもおかしくはない雰囲気があるのは気のせいだろう。
「そうだな……せせらぎや雨音は好きだから、オレはそのままを水底から拾いあげようかな。耳を欹てたら聴こえる、月からのせせらぎ――なんて」
 耳に音が触れるたび、月の海のような景色を思い浮かべてしまいそう。ちいさく笑み声を零しながら愉しそうに云うカナトへ、陽がつられて口許を綻ばせ、レモンはちいさな驚きを見せる。
「素敵な表現ですね。音の美しさがよく伝わります。シキさんは?」
「俺はカナトさんみたいにすぐに思いつかなかったけど……思い出したい声はあるんです」
「思い出したい声?」
 揃って眸を瞬かせるふたりへと眉尻を下げると、陽はゆっくりと空を仰いだ。夜を纏いはじめた森を仄かに照らす、その月白の向こうへと記憶を馳せる。
「7年前に亡くなった、父さんの声です」
「お父様の声……」
「そう言えば、|月響珠《クランペルラ》って声も留めておけるんだってねェ」
「……不思議なもので、声って生きていた頃は当たり前に傍にあるものなのに、いざその人が居なくなってしまうとあまり遺らないんですよね」
 結局、手許に残ったのは写真や動画ばかり。それでさえ、撮影者である父の声はほんの僅かにしか残っていない。

 ――陽ならきっと良い警察官になれるよ。その日を楽しみにしているから、夢を叶えなさい。

 そう、確かに云ってくれたのに。
 一語一句を覚えてはいても、言の葉に乗せたあの優しい声音は年を経るごとに色褪せていくようで。今日だって、はっきりと思い出せるかまだ裡に不安がある。
「声って、記憶から最初に薄れて行ってしまうものだそうです」
「……どうしてヒトって、声から忘れていってしまうんだろうねぇ」
 刻を隔てて届くメッセージカードのように、大切なものほど後から振り返りたいと願うものだし、そう在ってほしいだろうに。
「でもきっと、そう簡単に消えたりしません。ちゃんと思い出せますよ、シキさん!」
「……、あ。ああ。ありがとうレモンくん。――そうだ。レモンくんはどんな音を記録するんですか?」
 つい記憶のなかにあるはずの音を探りすぎていたことに気づいて、陽は話を切り替えた。対面のカナトも、興味津々といった視線を少年へ向ける。
「とても悩みましたが……うん、決めました」
「お、なになに?」

 ――早く帰って来なさい!

「そう記録した|月響珠《クランペルラ》を、師匠の元へ送ります」
「お師匠さんに?」
「ええ。効果のほどは分かりませんが……! あ、カナトさんシキさんも、良かったら手伝って下さい! おふたりのイケボなら、師匠も思わず帰ってくるかもしれません」
「イイよぅ。んー……『早く帰って来なさい』かぁ……『Please come back my love』……とかにしておく?」
「なるほど。カナトさんがそう来るなら、僕は……そうですね。ここは犯人に投降を呼びかけるように……『田舎のレモンさんが泣いてますよー。早く帰ってきてくださーい』とかでしょうか?」
「すごい、これぞ飴と鞭……! 効果抜群そうですね!」
「だと良いねぇ」

 浅瀬のあちらこちらで灯る、白銀の燦めき。
 そうっと水に触れて、思い思いのひかりへと言葉を託してゆく。
「大鍋堂の魔女様とも、そのうち会ってみたいよね」
「本当、早く帰ってきてくれたら良いんですけど……」
「レモンくんの気持ち、きっと届きますよ」

 懐へと仕舞うまえに月にかざせば、囁くほどの――けれど確かな|記憶《音と声》が、そっと夜風に溶けていった。

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

 まだ空は沈んだばかりの陽の名残を残しているし、姿を見せ始めた月の淡いひかりだってある。
 けれど、それでも夜を纏い始めた森は昼間のようには行かないだろうからと、木々の群れの只中を歩き始めたスス・アクタ(黑狐・h00710)は、すこしばかり足早にツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)の前へと出た。
「おれ……いや、私は夜目が利きますから、今度は先を歩きます」
「おお、そうか。ならばお前についてゆくとしよう」
 ほんとうは夜闇を見通す術は持っているのだけれど、当分は語らずにおこうと裡に秘めて、ツェイは柔く眸を細めて幼子の背を追った。役に立てているからだろうか。どこか得意気で軽い足取りに、どうにも口許が綻んでしまう。
 ダンジョンとは云うものの、静謐を抱いた森はただただ夜に佇んでいた。梢を抜ける夜気が肌に触れ、じんわりと森そのものが身に馴染んでゆくようで心地良い。
「――ん? どうした? スー」
「……すみません、進みすぎたかもしれない」
 狐面の鼻が僅かに下がり、ぽつり闇へと声が漏れた。漸く、してもらうばかりではなく、なにか力になれると思ったのに。石の燦めきばかりに気を取られて、気づけばどこへ進んでいるのかも分からなくなってしまっていた。
 そのまま黙り込んでしまったススに眉尻を下げると、ツェイは努めて明るく云う。
「ははは、なにを詫びることがあろう。ほれ、足を運んだ甲斐はあったぞ」
 そう指差した先に僅かなひかりを見留めて、ススは面越しに静かに瞠目した。
「! ほ、本当だ……」
 木々の幹から確かに見える、それは淡く降り注ぐ月光だった。水音が聞こえないのは、そこが地中から湧き出た泉だったからだろう。近づいてみれば、水底から沸騰する様にも似た水の湧き場が見てとれた。それに弾かれたのか、はたまた最初からそこに在ったのか、湧き場からすこし離れた水中に、ひそりと仄かなひかりを放つ幾つかの|月響珠《クランペルラ》があった。
「こんなにたくさん……!」
「これはこれは、見事な石だの」
 そう感心するツェイの視線の先、そわりそわりと落ち着きのない様子でススの尾が揺れていた。折角音を刻むのだ。ならば一等良い石を選びたいというもの。ああでもそれより、なにを留めようか。そう決めあぐねていれば、
「あれ?」
 ツェイがそうっと水面へと手を伸ばしているのに気づいて、足早に駆け寄ってみる。
「なんの音にしたんですか?」
「ふふ、まだ内緒だよ」
「そう云って、結局教えてくれないんでしょう?」
 識っていますともと云わんばかりにくるりと背を向けると、口を尖らせつつススは再び逡巡する。
 やはり、もう記憶にしかない家族の声にしようか。いや、それとも――。
「ゆっくり選んでおいで。お前の心が決まるまで、共に居るとも」
「……」
 そう、いつもの声音で微笑むツェイを一瞥すると、ススはそうっとすぐそばにあったひとつを掬い上げた。なにかを石へと託した様子もなくて、ツェイはきょとりと眼を瞬く。
「おや、もう良いのか?」
「はい。――云っておきますが、おれも教えませんからね」
「ふふ、お前も言うようになったのう」
 くつくつと笑み声を立てるツェイへと、もう一度唇を尖らせる。
 今しがた毀れた声を記した|月響珠《これ》を弟子入りの言質にしてしまったら、さすがに卑怯が過ぎるだろうか。
 けれど、相手はこのひとだ。そうでもせねば、伝わるものも伝わるまい。
 そうして手にした石を、大事そうに懐へと仕舞うススの姿に、ツェイはもうひとつ笑みを深める。
 ――こんな時間すらも、いつしか独り懐かしむ日が来るのだろうか。
 そんな想いがふと過ったからこそ、石に記した。こんこんと静かに湧き出す水の調べを伴奏に、近くを歩くちいさな足音を、己が名を呼ぶ声を――嘗て確かにこうした日々が在ったのだと云える、その証を。
「……写し取れど、とわに手に出来ぬのは、水面の月と良う似ておる」
「――ツェイ? なにか言いましたか?」
「ふふ。いや、大したことではないよ」

 いつしか来るやもしれぬ、その日まで。
 この記憶はひそりと裡に抱いておこう。――この、淡く灯る月の欠片とともに。

空廼・皓
白椛・氷菜

「氷菜。森とダンジョンって、境目、わからない、んだっけ?」
 云いながら、空廼・皓(春の歌・h04840)はひとつ瞬いた双眸でそのまま天を仰ぎ見た。
 幾つもの枝葉が重なりあって、深く深く影を落とす夜の森。その隙間からちらりと見える空は西日の残光すらも消えて、いよいよ紫紺が広がり始めている。
「そうね、似た森だけど……|月響珠《クランペルラ》が通常よりたくさんあるみたい」
「月響珠がたくさんあるとこが、ダンジョン?」
 白椛・氷菜(雪涙・h04711)の声に視線を戻すと、皓はきょとんと首を傾げた。村から続く路を辿ってここへと来たけれど、脚を踏み入れたときからダンジョンだったのか、はたまた途中から切り替わっていたのか。心地良い夜風も吹くし、初夏の虫が涼やかに歌うこの森では、その境目は未だ分からぬままだ。
 そうして見つけた川を辿って暫く歩いていれば、皓の耳がぴくりと動いた。
「んっ……あのあたり、光って、る? 氷菜あれ、じゃない?」
「確かに……ほかよりも光が強いわ」
 夜空に浮かぶ月光を浴びて、飛沫を上げながら淡く燦めく水面。そのなかに瞬くような白銀のひかりを見つけて、ふたりは足早に駆け寄った。川を横切るように連なる石を渡り、一層眩くともる白を覗き込む。
「……わ、光ってる様も綺麗ね」
「これが、|月響珠《クランペルラ》……」
 大きさは多少の違いはあるけれど、どれも掌には収まるほど。試しにひとつをそっと拾ってみれば、心地良い水音が耳許で跳ねた。
「んっ……水の音さやさやとちゃぷって音。氷菜も聞いてみて」
「……本当、川のせせらぎの音がする……」
「ね? たくさん光ってるし、もっと試してみる?」
「そうね、まだあるみたいだから……試してみよう」
 表情ではなく、興味津々にそわそわとするその様子で彼の裡を察すると、本格的に探し始めた皓のとなりに|蹲《しゃが》んだ氷菜も、ほんのりと色の異なるひかりたちへと視線を巡らせる。
「氷菜は何、入れる?」
「私は……鳥の囀りとかも良いし、昔にふたりで行った縁日の音も良いなぁ」
「ほうほう。……じゃあ、俺は」
 そう云って、皓は一度口を噤んだ。大切な記憶だからこそ、この一時だけ心を静めて、鮮明に呼び起こす。
 ひんやりとした水面に触れて、今度はそうっと。先ほどよりもずっとずっと、宝物を取り出すような手つきでひとつを掬うと、そわり期待と不安を抱きながら耳に当てる。
「おお……すごい。そうそう、合ってる」
「晧は何の音にしたの?」
 真剣な横顔で石を手にする様にひとつ、石に耳を欹てて喜ぶ様にもうひとつ首を傾げれば、
「えと、子供のころの、氷菜の声。俺と、出逢ったころの」
「え、昔の私の声? な、なに言ってた時の?」
 狼狽もあらわに、氷菜の頬が一瞬にして朱に染まる。今頃の歳ならばいざしらず、幼いころの自身の言葉なぞ、さほど確りと覚えてはいない。変なことを云ってはいないだろうかと、そればかりが胸を過る。
「だって小さい頃の声、忘れちゃう、から。だいじ、だよ」
 きょとんとした眼差してそんな風に云うものだから、氷菜はどうにか落ち着きを取り戻しながら言葉を継ぐ。
「じゃあ、私も。声変わり前の晧の声にするわ。……仔狼で可愛かったわよ……」
「えー? 真似、しなくても」
 そんな声を傍らに、氷菜はひとつ深呼吸をして。瞼を閉じ、あのころの記憶を――まだ裡に残るあの想い出を丁寧に辿って、託したばかりの石へと耳を傾ければ、それだけで記憶の輪郭が鮮明になってゆくよう。
「……うん、大事ね」
「……でしょ」
 ゆらゆらと、嬉しそうに揺れる皓の尾。
 その様子にもうひとつ、氷菜の口許に笑みが浮かんだ。

夜鷹・芥
冬薔薇・律

 ――夜鷹様は、何を記憶するか決めていまして?

 そう傍らで毀れた冬薔薇・律(銀花・h02767)の声に、夜鷹・芥(stray・h00864)は掬い上げたばかりの掌の石から視線を移した。
「わたくしは決めかねておりますのよ」
「律もか。俺も、決まっていない」
「記憶にある声も掬えるそうですが……後ろを向いていたらきっと、その人に叱られてしまいますから」
「そうだな。律の云う通り、過去の音を刻んで縋るのは少し憚られる」
 それでも、縋らねば生きてゆけぬときもあるだろう。けれど今のふたりは、すくなくともその痛みからは幾らか離れた場所にいた。振り返るよりも、前を見据えんとする心持ちが、確かに裡にあった。
「夜鷹様も、以前にもう一度会いたい人がいると仰っていましたが……どうでしょうか」
 聞いても良いものかと僅かに逡巡したのち、伺うような声音と視線で、律が問うた。
「亡くした者は、先ず声から忘れていくらしい。……刻むには既に、少し朧気かもだ」
「そう、ですか……」
 それだけを云って、律も形の良い唇を噤んだ。僅かに俯き視線を投げた先で、月あかりを映して朧に灯る川面が、ひとつ大きな飛沫をあげながらひかりを鏤めた。
「なぁ、律」
 そう名を呼ばれて、もう一度傍らを見る。芥は変わらず、金の双眸で前を見据えたまま、けれど心はこちらへと向けるように言の葉を紡いだ。
「自然の音は安眠の供になると思うか? 緑廊での雨音も、今日は心地良かったんだが……そうだ」
「ふふ。なにか妙案でも思いつきまして?」
「あのな、此れは厭だったら断ってくれて構わねぇけど――律の声、聴かせてくれってのはダメか?」
 そんな不意の問いかけに、律の眸が僅かに見開いた。その真意を探すように、小首を傾げる。
「わたくしの声などでよろしいのですか? もちろん構いませんが……なにをお話ししましょう?」
「記憶できる音は数秒だったか。……なら、何でもいい」
 男のなかにも、明確な答えはなかった。
 どのようなものであれ、自然の音とは異なりなんらかの意味を持つ“言葉”ならば尚のこと、正解を見つけることは、この仄かに灯る川から|月響珠《クランペルラ》を探すよりも難しいことだろう。
「では――『おやすみなさい、また明日』なんて、どうかしら。雨音ほどの安らぎにはなりえぬでしょうが」
「『おやすみ』……か。はは、言われ慣れないワードが擽ってぇ。……でも、雨音より余程落ち着く気がする」
 それは、知らぬうちに月あかりに心奪われていたのか。それとも、傍らの娘との会話に浸っていたのか。ふと我に返れば、どこか恥ずかしい気持ちもわいてきて、芥はつと視線を逸らした。そのまま、右へ、左へ、落ち着きのない様子で彷徨わせる。
「では、夜鷹様。わたくしの|月響珠《クランペルラ》には、あなたさまの声を」
「え……?」
「よろしければ、わたくしの名をお呼びくださいまし。あなたさまがわたくしの名にあててくださった音を、記憶しておきたいのです」
 そう云って柔らかに微笑む律の、その淡い気遣いが嬉しくて。芥は躊躇いがちに頷くと、一度だけ律を見てからまた、気恥ずかしそうに前を向く。
「俺で良いなら……じゃあ――」

 ――『りつ』、おやすみ。また明日。

 自分で紡ぐのも、いつぶりだろうか。
 ぎこちないかもしれない。それでも、彼女の名を、おとを、ゆっくりと刻んで。
 律もまた、囁きながら言葉を映すと、そのひとつぶのひかりを、芥の掌へと静かに零した。

ルメル・グリザイユ
贄波・絶奈

 夜風が吹くたびに、葉々の隙間から漏れる月のひかりが踊るように揺らぐから、それを辿る足取りもどこか軽やかに、ふたり宵の森をゆく。
「正直な話、こんなに良い場所だなんて想像もしてなかったよ」
 いつものダウナーな面持ちに微かな笑みを浮かべながら、贄波・絶奈(|星寂《せいじゃく》・h00674)が澄んだ夜気を深く吸い込んだ。陽の名残を孕みながらもひんやりとした涼が、胸を満たして心地良い。
「ふふ、喜んでもらえて良かった~。……なあんて。僕もこれほどの場所だなんて、思ってもみなかったんだけれどねえ
「|露花氷《ろかごおり》も美味しかったしさ。――ま、何が言いたいかっていうと……誘ってくれてありがと、ってこと」
 欲を言うのならば、もっと色々な味を試してみたかったところだけれど、それはここだけの秘密として仕舞っておこうと口端を上げた絶奈へ、ルメル・グリザイユ(寂滅を抱く影・h01485)もゆるりと眦を細める。
「そんなに気に入ったんなら、また来れば良いよ~。今度は皆とでも、またふたりでも」
 このダンジョンは今宵限りだろうけれど、露花氷も|月響珠《クランペルラ》も元よりこの村にあるものだ。また来る機会はいくらでもある、とまだ見ぬ次回へと期待を滲ませながら、歩を進めた先。ひときわ眩いひかりを見つけて近寄れば、今まで頭上を覆っていた枝葉がそこだけぽっかりと途切れ、まあるく拓けた夜空から清かなる月光の降り注ぐ場所へと出た。
「これは……すごいな」
「うん、凄いね。なんだか御伽噺にでも迷い込んだみたいな場所だ」
 階段状に積み重なった岩のうえから流れ落ちる、穏やかな水流。それがちいさな水音を立てながら、下段の岩場にできた水盆へと注がれて、飛沫とともに光彩を鏤めながら夜に灯る。その幻のようにどこか朧な輪郭の裡、水面の奥から星の瞬きのようにちかちかと明滅する白銀をみつけて、ふたりはそろりと水辺へと近寄った。
「……水底で仄かに光る石……あれが月響珠、かなあ?」
「なんだか夜空に浮かぶ星みたいだね」
「絶奈ちゃんは、なんの音を残すか決めてある?」
「音か……別にそういうのは私はないかな。いつかの音は、私の思い出のなかで静かに眠らせておくことにするよ」
 きっと、自分にとってはそれで良いのだろう。敢えて残さぬことで、より強く抱き続けられるものもあるはずだ。
 そんな想いが過ったと同時、傍らのルメルがからりと云った。
「それなら、“今”の音を残せば良いんじゃないかな~」
「“今”の音か……それもいいね。それじゃ、ご期待に応えてちょっとした歌でも残そうかな。明るいような寂しいような、黄昏みたいな……そんな歌」
「ふふ、良いねえ。絶奈ちゃんの歌声だったら僕、大事にとっとくよお」
 ルメルがそう云ってくれるのならば、と絶奈は短く息を吸った。仰ぎ見た天穹の星々をその眸に映して、夜の静寂に身を委ねながら音を紡ぐ。聴衆はただひとりだけ。けれど、だからこそ自由に、伸びやかに歌を響かせられる。
 もしかしたらさ、私ってホントは歌手にでもなりたかったのかも――なんて、淡く笑みを零しながら、月響珠のひとつを手に取った。適当に云ってみただけの、それは軽い冗談。――多分ね。
 絶奈の歌声に耳を傾けていたルメルは、娘が石を手に取ったのを見届けると静かに瞼を閉じた。
 裡で手繰り寄せるのは、遠い日のあの記憶。もう二度と逢えぬ、嘗ての師との失われた日々。ほんとうに記憶されたのだろうか。ふたたびその声を聞いたならば、自分はなにを想うのだろうか。答えの出ぬまま、そうっとちいさなひかりをひとつ、掬う。

 ――さあ、スープをよそっておくれ。……ああ、調味料には決して触れぬように。

 耳許に灯る、穏やかで品のある男の声に、ルメルは一瞬息を止めた。吸ったままの呼気とともに、声が漏れる。
「………し……しょ…、……ッ……」
「ルメルさんどうしたの? どんな音が聞こえてる?」
 絶奈の窺うような視線に気づいて、ルメルは反射的に貌を上げた。すぐさま返せず、不自然に開いた僅かな間を誤魔化すように、いつもの柔らかな笑みを引き出した。
「……、……ん~ん、なんでもなあい」
「そんなこと言われると気になっちゃうじゃん」
「なら聴いてみる~?」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて聞かせて貰うよ」
 云って片手を差し出した絶奈へと、ルメルは知らずと握りしめていた月響珠を静かに手渡した。傍らの水盆を一瞥しながら、耳を欹てる娘へと背を向ける。

「別になんてことない……ただの、古い記憶だよ」

 ふわりと過った夜風がさらった、ささやかな声。
 水面に描かれる幾重もの波紋とともにほろほろとほどけてゆく月あかりが、男の眸に滲んだかのように見えた僅かな揺らぎさえも、淡く夜へと溶かしていった。

賀茂・和奏
白水・縁珠

 初夏の熱さえも天気雨がさらっていったかのように、宵の帳が降りはじめた森は心地よい涼に満ちていた。
 村から続く石畳から逸れて森へと入れば、心なしか濃く感じる土や緑の匂いに、白水・縁珠(デイドリーム・h00992)の口許が淡く緩む。
「日が落ちれば大分涼やかだね」
「水場の近くなのもあるかも。せせらぎって、聞いてるだけで涼しくなる」
 云って、賀茂・和奏(火種喰い・h04310)が硝子の奥の双眸を細めた。微かな音を頼りに歩き始めてきたけれど、いつしか耳を澄まさずともわかるほどに、その水音がはっきりと聞こえている。
「あ、そういえばモフちゃんたちは大丈夫? ……ダンジョン内ならそんなに|人気《ひとけ》ないし、あっちで水遊びできそうだよ」
「んー、どうだろ」
 青くん水浴びしたい? と肩に乗った子へと尋ねれば、その名を表す透いた眸がぱちりと瞬いた。今のところは大丈夫そうな様子に一安心すると、再び縁珠と肩を並べて歩き出す。
 程なくして、不意に拓けた場所に出た。何歩かあれば軽く対岸へと行けるほどの、細い川。上流へ向かってなだらかな斜面になっているその周囲には、脇へと幾本か枝分かれした水流が、岩肌を伝って水盆へと流れ、幾重もの波紋を描いていた。
「……あ、奏さん。こっち」
 気づけばすこし離れた場所まで歩を進めていた縁珠が、ひらひらと手招いた。なになに? と窺うように近寄れば、娘の脇から月あかりに燦めく水面が見えた。
「此処に来る前に話してたでしょ、『面貸して』って。ちょっとこの水面に顔突っ込んでほしー」
「そういう面貸し?」
 これが、とその幻想的な光景に見入るよりも先に、つい軽い突っ込みが口をついて出た。その言葉に、縁珠がなにか気づいたようにひとつ瞬く。
「あ。浸るまではしなくて良いんだっけ? ――|月響珠《クランペルラ》に、音を籠めてほしいの」
「吃驚した……ダイレクト頭冷やしかと」
「……まあ、暑かったら突っ込んでも良き。タオルは沢山準備してるから安心せい」
「準備いいな! まぁ、顔つけないで良いなら、びしょ濡れにはならないさ。……ところで、理由を聞いても?」
 もちろん、答えがもらえなくとも、自分の出せる音ならばいくらでも快く籠めるけれど。ほんのり興味を滲ませた和奏と交わった視線を、縁珠はすこしだけ逸らしてからぽつりと零す。
「……いつもの、手紙の中のイマジナリーじゃない『おやすみ』が……欲しいなって思い立った次第です」
「ああ。そう言うことなら、お安い御用だよ」

 ――おやすみなさい。

 たった一言。けれど、娘へと手紙を綴るとき、文字にはできても音として届けられずにいた想いを――夜が、明日が、縁に優しいようにと祈りをそえて、月光を湛えた水面へと裡で囁けば、水底で眠るひとつが応えるようにひとつ、燦めいた。そうっと水へ手を浸し、「はい」と掬い上げた石を縁珠へ差し出す。
 掌で灯る淡い白銀を眺めながら、ふす、とどこか娘も満足そうに「ありがとう」と返すと、ふと浮かんだ。言葉を口にする
「縁も、何か籠めてみようかな……」
 想い描いたものでも記憶できるのならば、言葉にできていなかった音も残せるはず。
「まだまだ石はあるし、良いと思うよ。――ふむ、自分も欲しいのが浮かんだから、またやってみよう」
「じゃあ、今度はあっちの浅瀬でどう?」
 まるで天の河のように、淡いひかりを放つ川辺に並んで|蹲《しゃが》んだら、流れのなかに揺らめく月の彩たちをじっくりと眺めはじめる。あちらのも、そちらのも、と、選ぶうちにほんのり開いたふたりの距離だけれど、先んじてお目当てを見つけた和奏が、ふたつの月響珠の音に嬉しそうに微笑みながら縁珠の元へと戻ってくる。
「縁さん、これ――」
 言い終わるよりも早く、男の耳許へと白い指先が伸びて、聞き慣れた聲が響く。

 ――縁は、仲良しだと思ってるよ。

「……届いた?」
「届いたよ……ありがと、嬉しい。じゃあ俺も、さっきのだけじゃなくてこれも縁さんへ」
「ん? もうひとつ……?」
 和奏は、掌にあった揃いの形と大きさの石の片方を、そっと縁珠の手に乗せた。
「心地いいから、落ち着きたいとき用とか……思い出を分け合って残したいなって。受け取ってくれる?」
「……枕元に置いとく」
 そうっと耳を欹てれば、優しく響くせせらぎの音。
 色も形も、抱く音さえも揃いの、ふたりでふたつの双子石。
「……うん、仲良しのしるしね」
「ん、仲良しのしるし」
 どこか擽ったくて、笑みを深める和奏を横目に、縁珠はちいさく苦笑する。
(また、さん付けに戻ってる。……けど、いっかー)
 それもまた、和奏らしい――縁珠は手にしたタオルを冷えた肌へと纏いながら、ふわり眦を緩ませるのだった。

七・ザネリ
ジャン・ローデンバーグ

 風情があっていいじゃねえか、とどこか愉しそうに口角を上げた七・ザネリ(夜探し・h01301)を、ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)がその緑の眸で一瞥した。
「そういうものか?」
「ああ。四葉の代わりが水底の月の石、ってことだろ?」
「幸運の四葉? そういうものがあるのか」
 お前もガキのころ探したりした? と興味本位で尋ねたジャンは、返る言葉を脳裏で反芻しながら、一歩先へと出たザネリの後を追って肩を並べる。
 すっかり宵に色づいた森には生憎道しるべなぞはないけれど、かわりに鬱蒼と茂った葉々の随にそそぐ淡い月光が足許を照らしていた。木漏れ日のようにちらちらと揺れるひかりはまるで誘うかのようで、それを断る理由もないのならば、とふたりは森の奥へと進んでゆく。
 森に入ったときから、微かながらずっと聞こえていたせせらぎの音。それが俄に強くなり、ふわりと鼻先を掠めた水の匂いに惹かれるように歩を進めれば、
「――お、」
「あ……川だ!」
 一瞬にして消えた枝葉の天蓋のかわりに、ぽっかりとあいた空から毀れる淡白い月光を映した細流が現れた。宵にぼうと朧に浮かびあがるその水面の奥に、白銀の燦めきがちいさく瞬いている。
 ザネリはそのひかりを見逃さぬようにしながら、軽やかな足取りで浅瀬に連なる石を渡った。背高の躰を折り、水辺を覗き込んでみれば、ふと童心に返るような心地が裡に過る。――遺したいと願うような記憶は、ありもしないのに。
「ジャン。これ、持ってみろ。ほんの少しだが、遺せるらしい」
 聲が石へと伝わらぬようにと躰を起こしながら、ザネリが見つけたひとつを指差した。
「へえ! それが|月響珠《クランペルラ》か。綺麗な石だなあ。……って、これ、お前のにしないの?」
 視線で是と返す男へ、「じゃあ遠慮なく」と少年王は笑みを添えた。そうして、改めて遺したい音を裡に問う。週末の教会に満ちていた賛美歌。刻を告げていた鐘の音。川のせせらぎ――。
「よし、決めた!」
 暫し悩んだ様子の末に、そう云ってふたたび口を噤んだジャンの横顔を、ザネリはただ見守った。聲ではなく、記憶を刻んでいるのだろう。数秒して、そうっと石を拾い上げたジャンへと声をかける。
「お、出来たか?」
「ああ。お前にも聞かせてやろうか? つっても、ただの国の城下市の喧騒だけどな」
「喧騒か? ……ああ、聞かせろ」
 遠い記憶のようにささやかな、けれど活気のある人々の声が耳奥へと触れた。あちらこちらから響く呼び込みの声。安値だ特売だと謳う声。愉しげな会話に混ざる、幾つもの笑い声。
「朝にだけ市場が出てさ。活気があっていいだろ?」
「ひひ、……お前の国は朝から随分賑やかだな」
「……けどお前、なんで|この石《さっきの》を自分のにしなかったよ」
「なら、俺の分はお前が探せよ」
 重く鈍く光る王冠を抱えるガキに、寄る辺が増えるのは悪いことじゃねえ。そう浮かんだ言葉は口にせぬまま、ザネリは唇で三日月を描いた。「仕方ないな」と溜息交じりに零すジャンへ、ひひ、ともひとつ笑みを刻む。
「なら、王様が拾ってきてやる」
「イイじゃねえか、等価交換だ。………んで、なんか、言ってから拾ってこい」
「何か? ――絶対、適当な声入れてやる」
 幸い、これほどまでに見事な銀河ならば、次なる月の欠片を見つけることなぞ造作もない。すぐさま星の瞬きのような燦めきを見つけると、ジャンは――相応に逡巡したのち――水面へとひとことを毀す。

 ――今の俺が、いつだって最高だろ。

 そうして石を拾いながら、さっきから注がれていた視線へとひとつ舌を出すと、ジャンは短くザネリを手招いた。さしてもったいぶることもなく、軽やかな手つきで石を譲る。
「云ったとおり、適当だからな。文句言うなよ?」
「お前がデカくなっちまったらな。俺はこれを聞いて、懐古主義の老害っぷりを披露する。……あの頃は良かったと」
 結構待たされはしたけれど、無事届いた贈り物だ。折角だからと耳を欹てれば、ちいさくも確りと聞こえた悪態に、思わずくつくつと笑みが漏れる。
「ちゃんと入ってるか?」
「こりゃまた、お前らしい」
「それと、俺にばっかこういうのさせるのフコーヘーだと思うんだよね。だから――ほら、そこ」
「ん? ……川がどうした?」
「そこにあるだろ、もう1個の月響珠。ちゃんと見つけといてやったんだからな。お前も寄越せよ」
 それ以上は云わずとも知れる。けれど、わざと歪んだ笑みを浮かべて、ザネリは短く問う。
「なにをだ?」
「何って……決まってるだろ? お前の声だよ。ちゃんと後で王様が聞き返してやるから、心を込めてな!」
 仕返しだと言外に孕みながら、得意気な笑顔を浮かべるジャンへとちいさく目を瞠ると、男はゆっくりと腰を落として水面を見た。
 なんでも良いと云ったうえに、釘も刺されてしまっている。ならばこちらからもなにか|お返し《仕返し》を、と暫し――ジャンよりは短いけれど――悩んだ末に、口にはせず裡で言葉を綴った。
「ほら、受け取れ」
「……なんて入れたんだ?」
「聞けばわかる」
「なら、後で聞く。――楽しみにしててやる」
 そう愉しげに燦めく緑の双眸を細めた少年王は、あの言葉を聞いてどのような貌を見せるのだろう。

 ――………デカくなっても、お前はクソ可愛い。

 のちに見られるであろうその表情を予想しながら、男はもひとつ笑みを深めた。

第3章 ボス戦 『白月の幻主』


●夜の想い紡ぐ処
 “月の褥の森”に擬態したダンジョン――その最奥には、朽ち果てた神殿跡があった。
 なにを、誰を祀っていたのかもしれぬその場所は、かろうじて残された土台床と柱さえも、どこからか湧き出た泉によって水底へと沈んでいる。聖域だと示すかのように木々はその周囲を囲み、ぽっかりと拓けた天蓋には瞬く星々と、そして煌々と輝く満月が浮かんでいた。

 それは、ただの満月ではない。
 それこそがこのダンジョンの主であり、物言わぬ白月の王。月に願いを乞う人々の想いから生まれた、現実であり幻。
 戦う術は持たない。ただ、誰かがなにかを願えば、それは音もなく消えてゆくだろう。

 ならば今一時は、水辺に舞う幾つもの蛍のひかりを愉しんでいこう。
 まるで泉から生えているかのようにそこかしこに姿を見せている、神殿の一部である乳白色の大理石――等間隔に連なる折れた大柱や、半壊した大階段など――に座って眺めたり、水面を渡る幾つかの石の足場を辿って、泉の中央へと行ってみたり。
 泉からすこし離れれば土の地面もあるから、遠目で蛍夜の全景を眺めるのもまた、一興だろう。

 ――さあ、行こう。今宵限りの、夢幻のひとときへ。

 ✧   ✧   ✧

【マスターより】
・敵は空に浮かんでいますが一切攻撃はしてきませんので、POW/SPD/WIZの内容は気にせず、お好きなようにお楽しみください。
・時刻は20時ごろを想定。淡い月明かりだけが光源の、夜に蛍のひかりが優しく灯るのどかな場所です。

・神殿はギリシャの神殿タイプ。
 それが崩落して、何本かの柱と土台(基壇+床)、周囲を構成していた直方体・立方体の大きな岩だけが泉から露出しています。

・飲食物の持ち込みも可。騒音を発するもののご利用はお控えください。
・あわせてマスターコメントもご参照のうえ、ご参加いただければ幸いです。
物集・にあ
唐草・黒海

 肌に夜が触れた。
 さらりと心地良い涼に混じる、水の気配。ここは地上で、踏みしめる大地は土と草に覆われているというのに、そのひそりとした空気はどこか深海を思わせて、物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)は軽やかに路先をゆく。
 木々を抜けた先へと躍り出れば、まるで終幕を控えた舞台のような景色があった。靡くヴェールを思わせる波紋を描く泉と、天蓋から降り注ぐ月のスポットライト。水底に沈みかけた神殿の、その忘れ去られた白亜が月あかりに照らされて、音もなくただ夜にぼうと浮かび上がる。
 水辺へと立つと、名も知れぬ神の蓐へと娘は丁寧に|頭《こうべ》を垂れた。たとえ両の|眼《まなこ》に映らずとも、この地から消えてしまったのだとしても、人々に慕われていたであろう“あなた”がいたことは確かだから。
 そのまま泉に貌を出す連石をとんとんと跳ねながらわたってゆくにあの背を追いながら、自由な人だな、と唐草・黒海(告解・h04793)は心中で独りごちた。
 泉の中央で踊るように身を翻し、「濡れてるから気をつけて」と微笑む娘。望むならいくらでも先へといけるだろうに、それでも脚を止めて追いつくのを待っていてくれる。なぜ、どうして、と問いかけるのは容易いけれど、それよりも待たせてはいけないと黒海の歩みも自ずと速まる。
 どこか愉しそうに向けられた手と視線に誘われるまま、水面へ貌を出した白亜の円柱のひとつへと腰を下ろし、にあと黒海は肩を並べた。
 零さぬようにと、大切に取り出した|月響珠《クランペルラ》を掌に包んだにあは、蛍の瞬きを眺めながら時折それを耳許へとあて、静謐な夜に染み入る荒波の聲へと聞き入った。
 その幼い横顔に浮かぶのは、仄かなれど確かな感傷の|彩《いろ》。また浮かんだ問いかけを黒海が唇に乗せようとしたそのとき、ちらと視線を向けた娘が柔く笑った。
「なんだか懐かしいんです」
「――懐かしい……?」
「ええ」
 水面に溶けながら淡く揺れるこの月の燦めきを、刻の流れを忘れるほどの間、ずっとずっと海底から見上げ続けてきた。
 その向こうに広がる、ひかり舞う外海。それは果てしなき凪の世界にも思えるけれど、いま耳許で鳴り響く波のように、荒々しい貴方の海に変わることもある。そう夜闇へと零すにあはどこか大人びていて、やっぱり不思議な人だ、とひとつ口端を綻ばせた黒海がゆるり月を仰いだ。
 ダンジョンの|主《ぬし》は、物言わぬまま|昊《そら》に在った。その輪郭までも朧にする月光を双眸に映せば、淡い白金が静かに視界を満たしていく。
(……彼女の語るように、海に浮かぶ月は、今目の前に在る月と同じくらいには美しいのだろうか)
 ほんとうを知らぬのは己ばかり。いつも裡にある記憶を、視界に浮かぶ幻を追うしかないこの引きこもりに、清らな盈月のひかりはすこしばかり眩い。
「ご存知ですか、黒海さん」
「え……?」
 三度目の問いかけは、花開くように静かに、そっと微笑みを添えて。
「わたしね、貴方とおんなじ景色をもっと見たいと思っているのよ。だから……いつか一緒に海にいきましょう?」
 だってきっと、幾つもに連なるこの世界ならば。貴方もわたしも知らない海が、この夜空とおなじくらい広がっているはず。
 そう云った娘の青い眸が、海の泡沫のように燦めいて。幾度となく誘ってくれる|理由《わけ》も、幸せそうに微笑む理由も、皆目分からぬままだけれど。
 “知らない海”――無邪気な誘いを紡ぐその響きが、裡を静かに震わせたから。
「ふふ、約束よ」
 こくりとちいさく頷く男へ、娘もまたひとつ、笑みを深めた。

懐音・るい

「へぇ、ダンジョンの最奥はこうなってるんだ」
 退廃的な幻想美を前に、懐音・るい(明葬筺・h07383)は誰宛てでもない言葉を夜に零した。
 かつては佳景を描いていたであろう白亜の神殿も、今はただ透いてもなお昏き泉に沈むばかり。その水面から貌を出す、過去の面影を残す朽ちた|大柱《おおばしら》だけが月光を浴びて眩くひかり、水に反射して鏤められた耀きのなかを、蛍たちが悠々と浮かぶように舞っている。
「こういうの、ダンジョンだからこそ見られる幻想的な光景だよねぇ」
 天気雨を“神の涙花”と尊ぶほどの信心深い村人たちのことだ。これがダンジョンという仮初めの場ではなく日常的に村にある神殿であったならば、今もなおその壮麗さを保っていただろう。
 まるであつらえたかのように泉を過る飛び石を伝い、一層深く夜に染む場所までわたってみる。
 耳に届く、微かな水音と虫の聲。呼吸するたびに肺腑を満たす澄んだ空気に、自然と心も解けるよう。
 足を留めて見下ろせば、水鏡に映る淡い白金のうえを、柔く夜風が通り過ぎていった。蛍たちがふわりと舞い上がり、ゆらぐ波紋へほろほろと星めくちいさなひかりを零してゆく光景に、るいの口許も微かに緩む。
 なにをするでもなく、ただ忘れ去られたこの景色を眸に留める。それだけで、不思議と心が満たされていく。
 そうして暫くしたら、るいはまた来た道を引き返した。岸辺から伸びた一本の白柱の断面に腰を下ろすと、荷物から取り出した飲み物で喉を潤しながら、さきほどまで居た場所へと視線を遣る。
「……ここから見るのも、印象が違っていいかも」
 間近でしか気づけない美しさもあれば、遠目から見て初めて知る良さもある。それは、触れることのできる古美術品も、決して届かぬあの星月も同じこと。
 今宵の邂逅は、とある初夏のささやかな出来事。
 けれどきっと、時折想い出しては心馳せる、良き記憶になるだろう。

花牟礼・まほろ
結・惟人

 ――ここ、壊れちゃったんだ……。
 傍らでぽつりと毀れた花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)の声に、結・惟人(桜竜・h06870)は柔く視線を向けた。
 まるで月へと縋るように、水底から伸びた幾本もの白亜の柱。天井を支えていたであろうそれらは既に役目を失い、途中から折れた躰はどれもが崩れかけていた。それでも、かろうじて残された華やかな装飾が、かつての壮麗な姿を彷彿とさせる。
「少し残念だけど、壊れたものが作る新しい景色もきれいだね」
「それに、朽ちていようとも、神殿は厳かな気持ちになる」
 元は聖域だったのだろうか。森も十分空気が澄んでいたけれど、ここは一段と純度が増しているようで、惟人は一度深く呼吸した。清らかな夜気に満たされながら、視界いっぱいに踊る蛍のひかりを静かに眺む。
「そうだ、まほろ。折角だから、中央に行って眺めてみないか?」
「中央に……? 賛成! 一番きれいなところを見に行こうっ」
 そうと決まれば、じっとしているのももったいない。「足元に気を付けて行こう」と添えながら、けれど惟人は足取り軽く飛び石をわたり始めた。跳ねるたびに夜に揺れるひかりがなんだか愉しくて、ふいに湧き上がる冒険心のままに先へとゆく。
(惟人くんすばやいっ)
 あっという間に泉の中央へと進むその背を、一瞬ぽかんとして見送ってしまったけれど。はたと気づいたまほろは、慌てて、けれど浮き足立ちながらその後を追いかけた。
 彼の歩調はどこか愉しげで、つられてまほろもリズミカルにとんとんと石をわたる。それでも、離されないようにするのが精一杯。アトラクションめいた動きは苦手ではないけれど、鍛えているから? 大人だから? そんな疑問がふと過る。
「あっ、まほろ……」
 知らずと夢中になっていた惟人は、あの溌剌とした声がないことに気づいて足を止めた。ついてきているだろうか。それとも先へ――? じんわりと逸る気持ちを抑えながら視線を巡らせれば、纏うかのように蛍のひかりに照らされた娘がひとり。
「惟人くーん! まほろはここだよー!」
 ぶんぶんと大きく揺れる手に静かに安堵すると、惟人も軽く手を振り返した。そのまま月明かりを頼りに傍まで飛び石をわたるまほろを、微笑みとともに出迎える。
「ふぅ、追いついた! ――わ……! やっぱりとってもきれい!」
「そうだな……より光に囲まれているみたいだ」
 なんて綺麗なのだろう、と心のままに声が毀れた。幻想的な月光とはまた違う、ちいさく儚くも確かなひかり。そのひとつひとつが命を宿しているからこそ、どこかあたたかさを感じるのだろう。
「こんなにたくさんの蛍が集まって、何してるんだろね。きれいな景色で嬉しいな、って話したりするのかな」
「あぁ、そんなふうに話しているかもな」
「なら、まほろたちと一緒だね!」
 白金のひかりを浴びながら、くるくると踊るように燦めく光片と戯れる娘が、そう笑み声を立てるから。その素敵な想像力に和みながら、惟人も柔く眦を緩める。
「……ここに来れて良かった」

 ――気の済むまで眺めていこう。
 ――うん。思う存分、心にしまっておこ!

 今宵、一夜限りの名もなき宴は、まだ始まったばかり。

鬼灯・睡蓮
鬼城・橙香

 恐らく階段だったのであろう、大半が水底へと崩れ落ちた石段の頂に座り、濃藍色の昊を仰ぐ。
 眠気を孕んだ眼差しに映すのは、物言わぬ夜の王。淡い月光を浴びながら、鬼灯・睡蓮(人間災厄「白昼夢」の護霊「カダス」・h07498)は鬼城・橙香(青にして橙火・h06413)と肩を並べる。
「これが大元のようですね……神秘的です」
「ふにゅん……攻撃もせずに願いを聞き届ける月、ですか……」
「どうします? 闘いますか?」
「攻撃してこないなら、僕も攻撃することはしないのです……。今は、この神秘的な景色を楽しむとしましょう……」
 思い出は多い方が良いと思うから、と添えながらも、いまにもこてりと寝落ちてしまいそうな少年の横顔に、橙香は柔く双眸を細めた。弧を描いた唇で、囁くような声音で賛同する。
「ええ。時間はありますしゆっくりしますか」
 闘わずにすむのなら、それに超したことはない。なにより、睡蓮がそれを望んでいるのだ。ならば、このひとときを緩りと愉しむのが最良だろう。
 橙香は荷物から飲み物を取り出すと、ふたつのカップにゆっくりと注ぐ。そのひとつを落とさぬようにと睡蓮に持たせてから、自分もそうっとカップに口をつけた。
 優しく吹き抜けた風が頬を撫で、ふたりの長い髪が夜に靡く。水辺には、ちかちかと星のように瞬く蛍のひかり。そして天上には、耿々と燦めきながら静かに佇む、大輪の月の花。
「この景色も、夢に見れるように憶えておくとしましょう……」
 僕の“夢”に反映できるよう、確りと。
「もちろん、一緒に来てくれているみんなのことも憶えておくですよ……改めて、一緒に来てくださって、ありがとうなのです……ぐぅ……」
「わたしの方こそ、ありがとうございます。お陰で、素敵な想い出ができました」
 だからこそ、橙香は願う。
 この月が願いごとを叶えてくれると云うならば、託す祈りはただひとつ。
「ん……橙香さんは、なにかお願いしますか……? ふにゅ……」
「やはり、皆の平穏と幸せですね。一番大事ですし」
 そう目許に慈しみを滲ませながら答えれば、睡蓮もまた、微睡む双眸をふわりと細めた。

 そうして睡蓮は、あちらへ、こちらへ。
 ふと思い立つまま、足取りも漫ろに夜の水辺を巡る。
 方向感覚の|扶《たす》けもなく、うろうろ、ふよふよ。あわや泉へと落ちそうになったところで橙香がその手を掴んで引き寄せれば、睡蓮のちいさな躰を豊かな胸元が柔く受け止める。
「睡蓮くん、そっちは危ないですよ」
「んみゅ……ありがとう、ございます……」

 人々の願いへ呼応するかのように、朧に揺らめく月あかり。
 睡魔を帯びた睡蓮を抱えた橙香は、その淡き道筋がゆっくりと消えゆく様を、静かに見届けていた。

清緑・色
セイシィス・リィーア

 ――じゃあ、またあとで。
 神殿を巡る仲間たちと分かれた清緑・色(清き緑の龍・h06856)は、溢れる胸を柔く弾ませながら手を振っていたセイシィス・リィーア(橙にして琥珀・h06219)へ、きょとりとひとつ瞬いた。
「セイシィスさんは、神殿を歩いて回らないのです……?」
「うん。討伐の必要がないなら、色くんと蛍鑑賞でいいかな~」
「それならご一緒しますか……?」
 ふわりと笑う色につられて、セイシィスもまた口許を緩めて。ふたり並んですぐそばの|畔《ほとり》で佇むと、ちいさなひかりを泉へと映す蛍の群れへと眸を細める。
「あ、蛍だね~」
「はい。幻想的な場所です……ここものんびりできそうですね……」
 静謐なる夜の世界にどこまでも透いた耀きを滲ませる満月と、その白金に包まれながら、淡い緑を帯びるあたたかなひかりの軌跡を描く蛍たち。
「そうだ……小型の携帯クッションで良ければ、使いますか……?」
「え? 貸してくれるの?」
「はい。これひとつしかありませんが……」
「それじゃ、色くんはここだね~」
 早速クッションへと腰を下ろしたセイシィスが、ぽんぽん、と誘うように膝を叩くから。色もちょこんとそこへ座ると、昼間に続きふたたびずっしりたわわな膨らみを頭に乗せながら、その雪女ならではのひんやり体温にほわりと心を解いてゆく。
「ふふ。かき氷を食べて、月響珠も拾って、蛍鑑賞もしてまったりだね~」
 のんびりとした空気を孕む色がなんだか愛らしくて、思わず弾力のある太腿と胸でがっちりホールドしながらぎゅっと抱きしめれば、「わっ……」とちいさな声が漏れた。包み込むような柔らかな感じは違う意味でも気持ち良くて、燦めく蛍のひかりよりも意識が向いてしまう。
「ん~。夜風も気持ちいいね~」
「はい……」
 ――この柔らかさは、やみつきになってしまいそうです……。
 そうちいさく零れた声は、水面に波紋を描きながら清かに吹き抜けていった風へと、淡く静かに溶けていった。

リュドミーラ・ドラグノフ
ルスラン・ドラグノフ

 森の木々を抜けた先、ぽっかりとあいた夜空から降り注ぐひかりへと、リュドミーラ・ドラグノフ(Людмила Драгунова.・h02800)は反射的に貌を上げた。
「そこにいるのは、月? ――、あたしを殺しにきたの?」
 月光を映して燦めく泉も、そこに半身を水没させた忘れ去られた神殿も、眩く舞い踊る蛍のひかりさえその眸には映らない。あるのはただ、怯えと困惑の色ばかり。掠れた声を震わせながら、強張る躰をそれでも動かし、一歩前へと出る。
「敵なの? 殺さなきゃ!」
 凍てつく声に、本物の殺意が混じる。普段の明るさなど欠片もなく、まるで何かに取り憑かれたようなその表情に気づいたルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)が、焦りを露わに駆けつける。
「リューダ!」
 穏やかな彼らしからぬ声を上げて妹の両肩を強く掴むと、そのまま躰を反転させ、白月の幻主への視線を強引に逸らした。青石英のような双眸に憂いを滲ませ、リュドミーラを覗き込む。
「……あれば月じゃないよ。月に似てるけど違うものなんだ」
 大丈夫、大丈夫――。
 そう囁くように繰り返しながら、華奢なその背をゆっくりと撫でる。抱きしめた肩からすこしずつ力が抜けていくのを感じたルスランは、静かに背へと回していた腕を解いてもう一度妹の貌を伺った。
「月のような何か、で何もしないのね? ふう……わかったわ! びっくりさせないでちょうだい!」
 やっと戻ってきた、いつもの声音。顔色はまだ優れないけれど、それでも笑顔を見せるリュドミーラへ、ルスランも柔く微笑む。
「……良かった。ほら、リューダ。あれを見て? 蛍が飛んでる」
「あ……気づかなかったわ。こんなにいたのね」
「せっかくここまで来たんだから、ちゃんと見ないと損だぞ」
 云って、背を向けたまま岸辺の石段へと腰を下ろせば、リュドミーラも倣って隣に座った。
 泉のうえで、金色の息吹を残して踊る、いくつもの。月の光に混じることのない、儚くも確かな命の光。ひとつ、ふたつ、きらきら、ふわり。ぶらぶらと脚を揺らしながら、ちいさなひかりで流麗な軌跡を描く蛍の姿を唯々眺めるその姿に、ようやく一息ついたルスランは心中で独りごちる。
(あのデカブツ、早く消えてくれないかな)
 妹がこの風景に見入っている間に、早く――。そうじわりと急いてしまう意識が、傍らから毀れた声に引き戻される。
「これだけほのかな光では、写真は無理そうね」
「――んー……、やはり生体を撮るのは苦手だ」
 試しにカメラのファインダー越しに眺めてみるも、ルスランはすぐに手を下ろした。嘆息交じりに、薄く笑う。
「お前さぁ。蛍がキラキラしてるからって、『集めて家で飼う~!』とか言い出すなよ?」
「なっ――!」
 思わず弾けるように隣へと貌を向けたリュドミーラは、けれどすぐに唇を噤んだ。
 茶化すような言葉も、声も、わざとだと――自分のためだと、気づいているから。ここでしか生きられぬ淡い命ならば、双眸に映したこの光景を裡にそうっとしまって、優しく寄り添ってくれるぬくもりへと身を寄せる。
「……大丈夫。僕はいつでも、お前の味方だよ」
「うん。ありがとう……期待してるわ」

 星のひかりのように、蛍の燦めきがほろほろと毀れてゆく。
 その静謐なひとときへと触れるように、一条の夜風が柔く吹き抜けていった。

アニス・ルヴェリエ

 濃紺の世界を柔く灯す、月明かり。それを浴びた泉は眩い燦めきを鏤めて、夜風が水面をわたるたびに光のヴェールを靡かせている。鼻先に届く水の匂いに混じる、静謐な夜の気配。どこまでも清涼な空気に、アニス・ルヴェリエ(夢見る調香師・h01122)はほうっと息を零した。
「ここもダンジョン……とても神秘的な場所ね」
 抗う術を持たぬ人々ならば、なにかに願いを託さずにはいられないだろう。それが昏き夜空にひかりを灯す星月ならば尚のこと、魅せられずにはいられまい。
 そしてアニスもまた、あなたは今まで、どれだけの願いを受け止めてきたの? と。声なき主へとそっと問いかける。
 泉へと視線を遣れば、半分ほど水没した白亜の神殿の、ちょうど失き屋根を支えていたであろう石柱が飛び石のように並んでいた。それを足場にひとたび歩くと、舞いながらついてくる蛍たち。ちいさなひかりを纏いながら、アニスは遺跡と水辺をのんびりと辿ってゆく。
 視線を巡らせ、一等の景色をみつけたら、大理石へと腰を下ろしてスケッチブックを広げた。
 調香はイメージから生まれることもある。ならば、と佳景を白い紙面に残した娘は、大事にそれを抱えながら再び足取り軽やかに石をわたり始める。
(月夜の蛍……水辺を思わせる清涼な香りに、月夜をイメージしたオリエンタルを入れてもいいかも)
 まるで、今宵のこの彩を、大気を、想い出させてくれるような。
 訪れたことのないひとにも、この風景が浮かぶような――そんな香り。
 泉の中央で足を止めると、アニスはもう一度、深く呼吸する。
「本当に幻想的……。リュースエルヴ……来れて良かったわ」
 囁くように零しながら、そっと胸に手を当てる。

 露花氷、月響珠、そして夜に灯るひかりたち。
 この裡に宿った、たくさんのひらめきの欠片はきっと、いつまでも此処に在り続けるだろう。

ソフィア・テレーゼ
ネリー・トロイメライ
ラデュレ・ディア
ミューレン・ラダー

「あれ、ラーレちゃんだ!」
 まあるく見開いたひだまり色の眸で、一番乗りでその姿を見つけたミューレン・ラダー(ご機嫌日和・h07427)は、ここだよ! と云わんばかりにぴょん、と元気にひとつ跳ねた。
「――わあ、みなさま……! こちらに来ていらしていたのですね」
「ラーレちゃん、こんばんは。ソフィアちゃんもまたご一緒できて嬉しいわ」
 ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)と並んで手を振るソフィア・テレーゼ(J-WL-P161164・h00112)。道中見つけた|月響珠《クランペルラ》をそうっとポケットから取り出せば、喜びを滲ませふたりを出迎えたネリー・トロイメライ(|音彩を綴る者《メロディテラー》・h07666)も、一層深く微笑んだ。
 先に神殿を訪れていたふたりに巡り会えるなんて、これもかみさまの奇跡? ――ううん、4人の絆のちから。「もしよければ、ご一緒をさせてくださいませ」というラデュレのお願いを、断る理由なんてひとつもない。
「会えて良かった、4人で行こ!」
「ええ。みんなで夜のお出かけね!」
 街灯もなにもない夜の森。だけど、淡く白金のひかりを注ぐお月さまと、どこまでも自由に舞うたくさんの蛍たちがいてくれるから。夜風の生む波紋が、燦めきを鏤めながら次々に花咲くような模様を描いていく様に、誰しも言葉を忘れたまま見入ってしまう。
「神秘的な空間、ですね」
「どんな神殿だったんでしょう……昔の姿も見てみたかったわ」
 ラデュレへと頷きながら、ラデュレは視線を泉へと落とした。薄らと月光が映す水底には、もう忘れ去られてしまった神殿が静かに眠りについている。
「当時の姿を想像することは叶いませんが……とても荘厳で、うつくしい場所だったのでしょうか」
「かつてはもっと壮大で、歴史のある神殿だったのかもしれませんね。……今となっては分かりかねますが」
 ラデュレの問いに、ソフィアが返す。由来を知るものも居ないだろう。それでも不思議と見つめていたくなるのは、あたりに満ちる静謐で神聖な大気故だろうか。
「皆と一緒に居る公園の『元バス』も廃墟な感じはあるけど、ここはとっても静かだから、余計に神秘性が増すのかも」
 そんなソフィアの横顔に気づいたミューレンが、馴染みの景色と今を重ねて呟いた。
 普通のひとは近寄らなくなってしまったあの場所は、けれど今は皆がいるから長閑で幸せに満ちている。誰かの笑い声が、弾む会話が今にも耳に蘇る。
「確かに、廃バスとはまた違った趣がありますね」
「そうね。いつものバスとはまた違う雰囲気よね。どちらも素敵で、どちらも好きよ」
 ふわり微笑むソフィアに続き、ネリーもこくりと頷いた。どんな心惹かれる場所も、きっと誰と過ごすかでずっともっと素敵な場所になる。
 だから――さっきからミューレンの尻尾がそわそわ、ゆらゆらしているのも当然のこと。
「ミュー的には探検したくなっちゃう……!」
「それなら、せっかくですから泉の中央に行ってみましょうか?」
 そう窺うようにソフィアが小首を傾げて視線を向ければ、仲間たちからは歓喜の声が湧き上がる。
「いいね!」
「ネリーも賛成!」
「わたくしも気になります……! どのような景色が待っているのでしょう……?
 勢いのままに再び歩き始めた皆へと続き、ラデュレも浮き足立つ心地で肩を並べた。すぐに見えてきた飛び石へとミューレンが駆け寄ると、とんとん、と爪先で足場を確認する。
「水は気持ち良さそうだけど、深さは分からないしね。落ちないように、皆でお互い気をつけ合って進んで行こ」
「そうですね。蛍がいるということは、綺麗なお水でしょうけれど……皆様も足許にはお気をつけて」
「さすがに、今度は手を繋ぐと引っ張りあいっこになってしまいそうね。そうっと、気をつけて行きましょう」
 ソフィアへと頷きながら、そう云ってネリーが隣のラデュレへと視線を移す。直接は繋げなくても、まわりにみんながいてくれるから。心で手を繋いでいるような心地で、ネリーも仲間たちの後に続いた。
 とんとんと軽やかに。
 ひとつずつ慎重に。
 皆それぞれの歩調で泉の真ん中まで進むと、先頭のミューレンがふと脚を止めた。
「わ……! ミューが見たかった蛍がこれだね!」
「え……? あ、本当ですね。そのまま見るのもきれいですが、水面に映った蛍もきれいなものですね……」
 落ちぬようにと足許ばかりを気にしていたソフィアが、その声に貌を上げた。良い学びです、と添えて浮かべた微笑みに、ラデュレも淡く唇を綻ばせる。
「これが、蛍たちの輝き……ひとつひとつが繊細で、綺麗なのですね」
 儚い命が灯す、ちいさなひかり。だからこそ尊く、眩く、これほどまでに心を惹きつけるのだろう。
「光が踊るって、こういうことを言うのかしら。……とっても、とっても綺麗」
 弾む足取りで石を辿っていたネリーも、舞い上がる蛍を追うように空を仰ぐ。
 天蓋から淡く夜に染むように降る月あかりのなかを行き交う、幾つもの星めく耀き。夜闇に描かれる流麗な残光が、そうっと閉じた瞼の裏に蘇る。
「こんなにたくさん飛んでるなら、少しだけ連れ帰りたい気持ちもあるけど……それも無粋かにゃー。人工的な光がないからこそって感じだし」
「そうですね。連れ帰ることはできませんが、しっかり目に焼きつけて帰りましょう」
「ええ。このひとときを、しかとこの眼に」
 残念そうながらも明るく笑うミューレンに、ソフィアとラデュレも静かに頷き、「みんなで来られて、よかったわ」とネリーが泉を見つめる眦を緩ませながら想いを口にした。
「目を閉じたら、明日も明後日も、ずうっと思い出せそうだもの!」
 その言葉は、今度は仲間たちへと視線を向けて。
「はい。初めてのお出かけ、とても楽しかったです」
「わたくしも、みなさまと拝見することができてよかったのです」
 ネリーに続き、ソフィアも、ラデュレも。そう、どこまでも嬉しそうに咲ったから。ミューレンもたまらなく嬉しくて、一層笑みを深めて頷いた。

 この彩を、景色を、しっかりと心に刻んでいこう。
 そうしていつか、あとから想い出して、愉しかったねって。
 ――仲間たちとまた、お土産話に花を咲かせるのだ。

緇・カナト
史記守・陽
茶治・レモン

 √ウォーゾーン、√マスクドヒーロ、そして√EDEN――。
 似ているようで異なる次元が重なる世界に生まれた大鍋堂の3人は、けれど、度合いの差はあれども揃って驚きを露わにした。
「これが蛍……! 僕、初めて見ました。こんなにも幻想的で不思議な光なんですね」
 冬のイルミネーションよりも儚く、けれど満天の星々よりも確かな蛍のひかりを前に、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は思わず駆け出した。その後を追いながら、史記守・陽(黎明・h04400)と緇・カナト(hellhound・h02325)も感嘆を洩らす。
「俺も蛍は初めて見た」
「蛍って絶滅危惧種……? あんまり地元の地域でも見られなくなってたような気はしたなぁ」
「絶滅危惧種なんですか!? 危惧ってことは、まだここ以外でも見られるんですか!?」
 一層|眼《まなこ》を見開くレモンに、陽も嗚呼と合点する。
「その様子だと、√ウォーゾーンでは残っていないようですね」
「はい……すくなくとも僕が住んでた地域では、死滅したと聞いてます。緑とか自然とか、縁遠い√なので……」
「俺は√EDENの東京出身なので、蛍なんて遠い存在で……それこそ概念のような存在だと思っていました」
 だからこそ、それが目の前にあって、ほんとうに眩いひかりを灯していて。それがなんだかとても不思議で美しいと思います、と陽が柔く眼を細める。

 泉の畔にある、朽ちた神殿の一部――数歩ばかりあがった石段へと昇り、3人並んで腰を下ろせば、柔く吹き抜けた風がひんやりと頬に触れた。大気が水面を優しく撫でて、月あかりを鏤めながら、幾つもの波紋が大輪の花を描いてゆく。
「俺たち、生まれた世界も職業もまったく違うのに、今こうして一緒にいるんですよね……。ひとつ何かが違えば絶対繋がっていなかったことを思うと、偶然の力って凄いんだなって感じます」
「確かに……今ってきっと、偶然と偶然の重なり合いで在るんですよね」
 幾つもの√が重なって、この世界が成り立っているように。
 無限の選択肢のなかから、それぞれが選んだ道が今、この場所に繋がっている。その奇跡は、どれほどの尊さだろう。
「オレ√マスクドヒーロー出身だけど、脱走怪人……お尋ね者だから、そんなに帰る機会もないし」
「カナトさん……」
「その後は旅人みたいにしてた事もあるけれど……目的あってもなくても、うつくしいと思える景色は色々あるし、共に見る相手も含めたらその光景は一度きり……なぁんて」
 あまりにもこの景色が――皆と眺める世界が眩くて。
 ついそんな気分に浸りながら口をついて出た言葉がどこか気恥ずかしくて、カナトはへらりと笑った。
 それでも、この気持ちは嘘偽りでは決してない。
「偶然でも巡り合わせって、善きモノだとは想うよぅ」
「あ、そういえばカナトさんお尋ね者……なんですね? ちょっと署で詳しくお話を聞きましょうか」
「え!?!? シキ君、本気!?」
「いえ、冗談ですよ」
「あ! 良かったら何か飲みますか?」
 あわやお尋ね者とお巡りさんが遭遇する、まさかの展開に――!? なんて危惧もすぐに消し飛んだレモンは、笑い合うふたりへと便利な魔法バッグを掲げてみせる。
「折角ですし、皆さんと飲もうと思って色々入れて参りました」
「わぁい、レモン君の魔法バッグが便利~」
「そういうのも、√EDENでは絶対見られなかった謎技術ですよね……」
 こんなにも摩訶不思議なアイテムがまかり通ってしまっていては、さぞや各√の警察官も対応が難儀するだろう。だからこその|警視庁異能捜査官《カミガリ》との協力体制なのだと、改めて実感しながら、陽は興味津々にレモンの手許を見た。
「種類はどんなものがあるんですか?」
「えっと……お汁粉とコーンスープ、あとお味噌汁です。缶タイプなので飲みやすいですよ」
「なんとも渋めな飲み物チョイス……!」
「中々レモンさんのセンスが尖っていますが、美味しいのは間違いなさそう」
 甘いもの、クリーミーなもの、そして適度な塩気。
 レモンが両手で器用に持って見せた缶は、味はそれぞれながら、どれもほっこりとできるハートフルなラインナップだ。
「塩っぱいのが好きだから味噌汁が良いかなぁ……」
「じゃあ僕はー……お汁粉!」
「シキ君は何にする?」
「あ、俺はコーンスープか味噌汁の余った方をいただきますね」
「なら、オレがコーンスープにするから、交換しようよ~」

 そうして始まる、ちいさなお茶――ならぬスープパーティーを彩るのは、変わらず視界を潤してくれる蛍の舞と、水辺に映る月あかり。
「人生初の蛍、おふたりと見られて良かった」
 そうっと、大切に紡ぐ言葉。
「おふたりにとっても、蛍が特別なものと知れて嬉しいですし……おふたりのルーツなんかも知れましたね!」
「あぁ、カナトさんがお尋ね者――」
「シキ君!?」
「ふふ、冗談ですよ」
 その柔らかな笑み声に重なって。
 仲間たちの笑顔が、一夜のひとときに染みてゆく。

シュネー・リースリング

「なんだ……あれがここの“ボス”?」
 聞いてはいたけれど、実物を目の当たりにしたシュネー・リースリング(受付の可愛いお姉さん・h06135)は、どこか呆れすら孕んだ声でそう零した。
 いくら幻想的なロケーションでも、ここは紛うことなくダンジョンの最奥。ならば、そこを根城にするモンスターはどれほどに凶悪かと思いきや、生きているかも疑わしい“天体ショー”とは。
「これは……さすがに撃破は難儀しそうだわ」
 |S.A.T.O.M.O.R.I.《遺跡侵略モンスターへの特別強襲部隊》の一員である以上、敵の存在が認知されているのならば見過ごすことはできない。が、条件さえ揃えば発生しうる“現象”のような存在が相手となっては、手も出しづらい。
「それだけに、消滅条件も|簡潔《シンプル》みたいだし……まぁ、荘厳な聖域で喧騒も野暮ね」
 云いながら、眉尻を下げてひとつ嘆息すると、シュネーはぶらりと歩き出した。撃退しようと思えば、いつでも――無粋な戦闘音を立てることもなく――できるのだ。ならば、今暫く蛍を愉しんでも問題はあるまい。
 左手に泉を眺めながら、縁取るように水辺を辿る。
 時折、ふわりと頬を撫でてゆく夜風に、口許も知らずと淡く緩んだ。幾重もの光の波紋が水面を飾り、飛び交う蛍たちがそのうえに細く燦めく軌跡を描く様を、紫の双眸に焼きつける。
 蛍であれば、毎年|あの公園《S.A.T.O.M.O.R.I.》で眺めているけれど、こういう場所で見るのもまた、違った趣があって良いものだ。
 ――けれど。
「いい雰囲気だけど、わたしに『月が綺麗ですね』って言ってくれる人はいないのよねー」
 はぁ、と。
 独りごちたシュネーの唇からもうひとつ、やり場のない溜息が毀れるのだった。

エストレィラ・コンフェイト
一文字・伽藍

 森を抜けた先に広がる絶景に、一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)とエストレィラ・コンフェイト(きらきら星・h01493)はそろえて感嘆の息を零した。
 視界いっぱいに広がる泉は月影を浴びて宝石のような燦めきを鏤め、そのうえをちいさくも確かな蛍のひかりが舞うように踊る。水底から伸びる白亜の大柱は群れをなし、半ばで折れながらもなお悠然と夜に佇んでいる。
「超満月。あれがボスかァ」
「ほう、あれが『超満月』! と、やらか」
 なるほど、これほどまでに本物に近しい見目ならば、一般人では到底見分けはつかないだろう。心中でひとつ得心した伽藍は、月を仰ぎ続けるエストレィラへと軽く微笑む。
「そ。闘う必要なさそうだし、のんびり蛍見よっか」
「うむ、大人しいものよなぁ。これならのんびりできるだろう。蛍観賞とさせていただこう」
 星詠みの話ならば、ささやかな願いを叶える力を持つ程度で、直接的な攻撃手段はないようだ。ならばと気持ちを遊びに全力で傾けたふたりは、水辺から貌を出していた石段へと昇る。
「オッケーおばあちゃん、暫し待たれよ」
「座らないのか? 伽藍ちゃん」
「そのまま座ったらお着物汚れちゃうでしょ、白いんだから」

 ――は~い一緒に『|【念動力】《ポルターガイスト》』~。

 指先をくるりと回せば、忽ちふわりと宙に浮くふたりの躰。
「……おぉ、やはり伽藍ちゃんは器用だな。可愛くて器用で気遣いもできるなんて、最早天才と言えよう」
「そんなに褒めても、クイックシルバーしか出ないぞ♡」
 ありがとう、と添えるエストレィラへは、得意気な笑みを返して。ふわふわ心地良く浮かびながら、伽藍はごろりと寝転んだ。
「実際に蛍見るの初めて。こんなに光ってんだね」
 清らかな水辺でしか生きられない、ちいさな命。
 たとえ戦禍に巻き込まれていない世界だとて、街中で暮らす者ならば、そうした自然が残る場所を見つけるのは容易いことではないだろう。静謐なる夜気と、清涼な水の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、エストレィラも満足げに柔く微笑む。
「うむ、美しいな」
「観光地とかのライトアップも良いけど、こうゆうのも好き。満月を背景に蛍が飛んでるの、めっちゃ綺麗」
「わたくしも、斯様な光景は好きだ。儚くも、幻想的で……僅かばかりの煌めきであろうと、命は美しい」
 ちいさく頷きながら、そっと視線を前へと戻す。
 その長短に関わらず、失われてしまうときは一瞬であることをエストレィラは識っていた。今この夜空に浮かぶ星々でさえ、誰に知られることなく今日にも消えてしまうものもある。
 だからこそ、燦めいて見えるのだろう。
「……イマドキ風に言うと“えもい”というやつだな?」
「そそ。……ところでおばあちゃん」
「む?」
「頭に蛍止まっておられる」
「おぉ。どうしたどうした。わたくしに愛でられにきたのか?」
 月明かりに蕩ける艶やかな銀糸に誘われたのか、寄り添うように頭部で佇む淡いひかり。
 見えないながらもそうっと。触れてしまわぬようにしながら、撫でるかのように手を近づけてみる。
「あ、なんか点滅してるよ。Yes! ってことかな?」
「くふふ、愛い奴め」

 ではおまえさまを、一等愛でてやろうではないか。
 そう云いながら金の双眸を細めるエストレィラに、伽藍も今宵一番の笑みを返すのだった。

空廼・皓
白椛・氷菜

 森の奥に、その清かなる泉と白亜の神殿は静かに在った。
 朽ちながらもなお誇らしく、夜を背負う白き姿。
月のひかりに濡れながら浮かびあがる崩れた柱の群れは、儚くも美しい緩やかな影を水面へと落とし、
あたりに集う蛍のひかりが、まるで過ぎ去った祈りの残響のように夜闇を舞う。
「わ……凄い。擬態の森だけど、素敵な雰囲気……」
「そっか。ここはダンジョンなんだっけ……」
 天を仰ぎながら視線を下ろした白椛・氷菜(雪涙・h04711)へと、空廼・皓(春の歌・h04840)がぱちりとひとつ瞬いた。
「蛍が居るなら、水も綺麗なままなのね」
「きれいな泉のあるダンジョン……ちょっとだいぶ、不思議……」
 外と繋がっているというだけでも珍しいのに、モンスターが巣くうダンジョンが綺麗だなんて。ここにもきっと、素敵なことが溢れているはず。氷菜の言葉にこくこくと頷きながら、皓の尻尾がご機嫌に揺れる。
 ふたりは泉の周辺をぐるりと巡ると、浅瀬に残る大理石の床を見つけてぱしゃりと脚を踏み入れてみた。街灯なぞはひとつもないけれど、視界を灯してくれる夜の王へと一度視線を上げた氷菜は、ありがとう、とちいさく囁いて。晧と並びながら、蛍舞う神殿を奥へと進んでゆく。
「こういう遺跡みたいのは、わくわくするわね」
「だよね。ほんと不思議なダンジョン」
 ダンジョンに住まう人々がいたのだろうか。
 それとも、天上界の遺産が、誰かの願いを写し取ったのだろうか。
 建てられた目的も、祀られていた神さえも知らぬまま、残された記憶を辿るように、皓は柱に触れてみてはあちらこちらへと視線を巡らす。
「氷菜、こっちから見るのもおもしろい」
 半壊した大理石の大階段を見つけて軽やかに途中まで昇った皓が、一面の笑みとともに振り返って手を差し出した。その愉しげな様子に眉尻を僅かに下げながら、氷菜もその掌へと己のそれを重ねれば、連れ添うように幾つもの蛍のひかりがふたりを包む。
 その一瞬、ぴくりと動いた娘の指先に、青年の金の双眸が僅かに見開く。
「大丈夫?」
「……まあ、その……蛍は見ている分には大丈夫、触れなければ」
「捕まえたら光らなそう、だし。かわいそう、じゃない?」
「捕まえるわけじゃなくて……虫類、割と苦手なの」
「ほわ……そうだった、のか」
 氷菜の新たな一面に、こてりと不思議そうに皓が小首を傾げるものだから。ふと視界に入ったひかりへと視線を向けると、氷菜は細い指先をそちらへ向けた。
「あの泉のところも気になるわよね」
 水面を横切るように連なる飛び石。その中央まで渡っていけばまた、別の素敵な景色があるような気がして。
「あそこから空を見上げるのも良さそう」
「見上げるのもいいけど、見下ろすのも、だよ。月? と一緒に湖面に映って、きっときれい」
 王たる風情を帯びながら夜に佇むあのひかりを、果たして月と呼んで良いものか。そんな疑問に首を傾げながら、晧は大きく一歩を踏み出した。「勿論、泉もよ」と添えた氷菜も、尾を揺らしながら軽やかに飛び石をわたり始めるその背を追う。
 ひとつ石を移るたびに、振り返って。笑顔と視線をくれる晧と一緒ならば、どこへ行くのだって怖くはない。
「ほうほう。俺と氷菜も映ってる」
「ここからだと、空にも水面にも星が煌いて……夜空のなかに居るみたい」
「うんうん。上も下もとってもきれい。氷菜、すごい発見」

 月影を浴びて、水面に映る影ふたつ。

「……此処じゃなくても、来年もまた観ようね」
「そう、だね。ここはダンジョンだから……また一緒に、探しに行こ」
 それは氷菜と皓の、今宵生まれた新しい約束。

空沢・黒曜

 梢の合間から見える眩さへと惹かれるように脚を向けた先、漸く見えた天蓋と、その袂に広がる風景へと双眸を細めた。
 夜闇になおも白き、朽ちた神殿。水面から幾つも貌を出した大柱はどれも半ばで折れているけれど、哀愁を纏いながらもどこかあたたかさもあるのは、周囲を飛び交う蛍のひかりのお陰だろう。
「森の奥には、忘れられたような遺跡……そしてあれが、」
 云って、空沢・黒曜(輪る平坦な現在・h00050)は視線を上げる。導となった光の源たる満月は、意識してその気配を探るも特に物騒な力を使ってくる様子はない。ならば、と結論づけると、黒曜は水辺に沿って歩き始めた。ここが戦場でないと云うならば、今ひとときこの風情をゆるりと愉しむのも良いだろう。
 間近で見れば、大理石の柱ひとつひとつには壮麗な装飾が施されていた。一目見ればわかるその職人技に感嘆を零しながら、今度は泉の飛び石をわたってゆく。淡いながらも月あかりを頼りに一歩一歩進むたび、足場にした石の周囲に波紋が生まれ、花咲くように月の耀きが四方へと広がった。
 中央あたりで崩れかけた石階段を見つけると、数段昇った頂で腰を下ろす。放り出した脚のすぐ下にある水辺を、心地良い涼を孕んだ夜風が吹き抜けていき、連れ添うように蛍たちも舞い上がる。
「……どんな過去があった遺跡でも、飛び回る蛍には関係ないよね」
 崇められていた神の善悪や、その歴史。それは確かに人々にとっては意味のあるものだったろうけれど、今はただ、儚い命たちの住処に他ならない。
 その細くひかりをたなびかせるちいさな燦めきがどこか亡き人々の魂のように見えて、黒曜は僅かに瞼を伏せた。白き大理石の残骸という墓標に留まり続ける、命のひかり。それを見送るように、そっと心を寄せる。

 それを包む、淡い月光。
 願うならば――もうすこしだけ、空に留まっていて。

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

 白く眩い神殿が、泉にひそりと半身を沈めていた。
 水面には月と蛍とが混ざり合ったひかりの紗が漂い、波紋とともに踊る。そのひとつひとつが、まるで大切な想い出がふと裡に浮かび上がるかのように夜の世界を飾り、時折靡く風が、淡い細波を響かせてゆく。
「昼間の熱が嘘のようだなあ」
「不思議ですね……暑さも、こころも、凪いでいくみたいだ」
 その声音の端さえ、そっと夜に溶けていくようで、スス・アクタ(黑狐・h00710)は続く言葉を辿々しく探した。
「ええと……最後にちょっとした孝行ということで。乗せていきましょうか」
「構わぬというに、義理堅いのうお前は。……まあ良い」
 なれば偶には甘えるとしようかの、と微笑むツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は、親しさを滲ませながらもどこか手の届かない場所に居るようで。大黑狐に転じたススは|和《にこ》やかなその|容《かんばせ》を一瞥すると、どうぞ、と云うかのように四つ足を屈めた。
「振り落とされないでくださいね」
「ははは、手が滑れば分からぬぞ?」
 たん、と軽やかに水辺へと飛び出した幼き子の背のうえで、えもいわれぬ浮遊感にツェイの口端も淡く緩んだ。手触りの良い黒く艶やかな毛を優しく撫でながら、己が脚でもなく、浮遊するでもなく、愛い子に身を預けて運んでもらうのも中々に良いものだ。
 そんな裡を知ってか知らずか、片やススはツェイを落とさぬようにと慎重に、朽ちているとはいえまだ丈夫そうな足場を選んでは、ひらりと跳躍を重ねていく。そうして、最初に目星をつけていた場所――幾つかの大きな石材の向こうにある、大理石の大階段へと辿り着くと、再びそっと腰を落とした。
「到着かの」
「……こんな場所も、あるんですね」
「嗚呼、そうさなあ……」
 云いながら、伏せたままの大黑狐に背を預け、水鏡へと映る月へと視線を遣った。
 水面へと静かに溶けてゆく、数多のひかり。
 まるで同じ彩に染まるような、月の燦めきと蛍の命。
「……世界は広く、ひとつですらない。お前はお前の望むまま、何処へでも行けるのだぞ」
 穏やかに響く声に、けれどススは不満の滲む視線を返した。
(またこれだ。……いっそ、突き落としたら分かってくれるだろうか)
「ん? どうした、その眼は」
(……無理だろうなあ)
 気づいていないのか、それとも気づいているのに躱されているのか。どちらにせよ、手を伸ばせばするりと逃げられてしまいそうなツェイの|気配《けわい》に、ひそりと落胆の吐息が漏れる。
 倣って視線を向ければ、ゆらゆらと朧で、決して触れることの叶わぬ白い月がどこか傍らのひとと良く似ていたものだから。ススは足許のちいさな瓦礫を蹴り上げ、無数の波紋でそのひかりを崩してやる。
「これ、悪戯するでない」
「悪戯じゃないです抗議です」
(すこしくらい望まれたい、なんて願うのは、一人前になんて程遠いおれには我侭だろうか)
 大きな月。見てるなら叶えてくれないかな――そう切望する横顔を一瞥したツェイは、もう一度月華を仰ぐ。

 幾ら愛い子とはいえ、あまり長く手許に留めおいては、要らぬ望みで縛ってしまいかねぬ。
 だから、ただ――この子が、いつまでも自由に、心のままに駆けていられるように。
 そう裡で囁く男の心を映すかのように、淡く青い煙角が夜風にそっと揺れた。

廻里・りり
ベルナデッタ・ドラクロワ

 泉に半身を落としながら佇む白亜の神殿を前に、廻里・りり(綴・h01760)はちいさく眸を燦めかせ、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は淡く感嘆を零した。
 あたりの回廊を巡るように飛び交う蛍の軌跡は、忘れ去られた神殿を眩く彩り、水面に映るひかりが揺らめき跳ねて、ふたりの座る石段の影をそうっと撫でてゆく。
「いろんな願いが重なり合って、この夢の月夜になったのね」
「お願いごとがお月さまになるってすてきですね!」
「ふふ、そうね。そして、願いごとをすれば消える――それなら、誰かが祈るのなら、ワタシたちは少し離れてお月見としましょうか?」
「お月見……ですか?」
 きょとりと瞬くりりへとひとつ微笑むと、ベルナデッタは荷から両の掌ほどの包みを取り出した。細い指先で丁寧に封を開け、りりへと広げてみせる。
「おやつにね。露花氷のお店の中で、白玉団子を見つけていたの」
「白玉団子? いつのまに……!」
「お月見団子にぴったりでしょ?」
「はい! お月見にはかかせないですよね、お団子。ゆっくりお月さまをながめながら食べましょうっ」
 街灯のひとつもない場所だけれど、愛らしい蛍のあかりと、眩いほどの月光と、そしてりりのランタンがあれば十分すぎるほどだから。あの子たちにしかないやさしい光ですね、とふわりと笑うりりへ、ベルナデッタの眦も柔く緩む。
「光にもいろんなお顔があって、どの光もとってもきれいです! ――そうだ。ベルちゃんは、お月さまにお願いごとをするなら、どんなものにしましたか?」
「月に? そうね……」
 問われて、ちいさく唇へと指をあてる。そのまま暫し逡巡するも、これといった答えが出てこない。
「美味しい露花氷に、あなたからの贈り物を貰って、この景色とお団子を堪能しているんだもの。とても満ち足りているから、難しいわ」
「なるほど! えへへ……そう云ってもらえるの、すごく嬉しいですっ」
「それでもなにかを願うなら……『この2週間ほどの蛍の瞬きが運命の相手につながって、来年もまた見れるように』――なんてどう?」
「わぁっ、すてきなお願いごと!」
 来年も、ってやくそくができるのは、とってもしあわせなこと。そう柔らかな花笑みを浮かべたりりは、んー、とちいさく零しながら視線を宙へと投げた。
「じゃあわたしは……来年はお父さんとお母さんもいっしょに来られますように、にしようかな?」
 お日さまが雨と仲良く過ごす昼も、お月さまが静かに見守る夜も。
 どちらもきっと、ふたりなら気に入ってくれるはず!
「もちろん、ベルちゃんもいっしょです! 月響珠にみんなの声を覚えてもらって、たからものにしますっ」

 そう云って、どのひかりよりも眩く笑ってくれる貴方。
 その愛おしい願いへと柔く頷きながら、ベルナデッタもまた、幸せに染む微笑みを返すのだった。

天國・巽
プリエール・カルンスタイン
月島・珊瑚
月島・翡翠

 遠く木々の間に見え始めた白亜の姿は、どこか物悲しく憂いを孕んでいるようで、月島・翡翠(余燼の鉱石・h00337)はひそりと身を竦めた。光の届かぬ森の奥、更に向かう先が廃墟とくれば尚のことだろう。
 けれどそれも、ゆっくりと葉陰から姿を現した風景に忽ち掻き消えた。
「とてもきれいです……」
「こりゃすげェ」
 まるで求めるがままに両の手を伸ばすかのように、緩く弧を描きながら枝葉たちと、決して届かぬ距離ながら、その腕に抱かれるように夜に浮かぶ大輪の月華。
 豊かな水を湛えた泉は底が見えるほどに澄み渡り、そこへ半身を浸しながら月光を浴びて朧に輝く神殿が物言わず佇む。周囲を飛び交う蛍たちは、月から毀れた欠片のようにも、ひかりを纏った花びらのようにも見えて、翡翠も――そして誰しもが思わず脚を止めた。
「暗いから足許に気を付けてな?」
 云って、天國・巽(同族殺し・h02437)は岸から届く場所にある大柱へと軽く触れてみた。僅かなぬめり気を帯びた感触に気づいて、足場へと視線を移す。
 このあたりは足首ほどの深さしかないとはいえ、落ち着けそうな石段まではすこし距離があった。だからこそ、有事の際はすぐに動けるようにと後ろを窺ったその瞬間、
「わわっ!?」
 感嘆の息を零して、心奪われたまま脚を踏み出した月島・珊瑚(憧れは水平線の彼方まで・h01461)の声が響いた。咄嗟に手を伸ばしてくれた巽へとはにかみながら礼を添える姉へと安堵しながら、翡翠もまた後ろを振り向く。
「滑るのが怖いなら手を貸すか――」

 ――すてん! ばしゃん!

「プリエール!?」
「大丈夫か?」
「うぅ、私が動く前に言ってほしいわ……」
 前のめりに脚を滑らせ派手に転んだプリエール・カルンスタイン(天衣無縫の縛りプレイ・h00822)が、恥ずかしさを滲ませながら視線を逸らした。
 それでも、差し伸べられた珊瑚の手を取ったとき。心配そうな面持ちのその向こうに浮かぶ、眩いほどの幻想的なひかりに、思わず動きも、呼吸すらも止めて見惚れてしまう。
「こんなに綺麗だと見入っちゃうよね」
 プリエールを気遣うようにそう云うと、珊瑚も一緒に空を仰ぐ。世界にはまだ見ぬ絶景はいくらでもあるだろう。けれど、眼前に広がるこの幻想的な景色は今宵限り。だからこそ、裡に刻む。忘れぬように。また、想い出せるように。
「たまにこういう景色を見るのも楽しいです」
「そんなに気に入ったの?」
 珍しくちいさくはしゃぐ翡翠へとそう軽く笑うけれど、それは珊瑚だって同じこと。変わらず仄かに踊る心地のまま、水音を響かせながら石段へと辿り着くと、巽に倣ってその隣へと腰を下ろした。
 それに続いて珊瑚とプリエールも横に並べば、忽ち始まるのは今日の想い出話。
「この景色も素晴らしいが、昼間の雨と虹も綺麗だったな」
「露花氷も美味しかったしね」
「それなら、さっき見つけた月響珠も素敵でしたよね」
「そう! 全部どれも初めてのことで……なにより、友達とこんな風にお出かけしたのだって初めてだし!」
 濡れた髪や躰をハンカチで拭いながらも、プリエールが月よりもなお眸を燦めかせて声を弾ませる。それにつられて珊瑚も笑うと、その手から柔く受け取ったハンカチでプリエールの後ろ髪を丁寧に拭いてゆく。
「でも……あの月も、本物じゃないなんて信じられないですね」
 ぱしゃりと浸した脚を動かしながら、ぽつりと零した翡翠の視線の先には、言葉なく唯々眼下を見守る満月の姿。
(この月は、私と同じように、当て所なく、彷徨っているのかな……)
 ふと過ったその想いに、ひとつの記憶が呼び起こされる。

 この満月が、ここに在る理由。――そして、この依頼の最後の目的。

「『願い』……ね」
 もっと背丈がほしいとか、ナイスバディにしてほしいとか。いずれは叶うかもしれないその望みも、吸血鬼たるこの身が至るにはどれほどの年月が必要だろう。ならば、ここで叶えてもらうのも――、そう悩み始めたプリエールの思考に、珊瑚の声が重なった。
「ここの消滅――そう願うのが筋でしょうか」
「そ。そうよね。このダンジョンはあってはいけないものだもの」
 ほんのり慌てながらも言葉を合わせるプリエールに、珊瑚もひとつ笑みを深めた。
 天蓋に浮かぶ、眩いひかり。
 そこから毀れるように、ほろほろと降り注ぐ光片たち。視界を過ったそのひとひらに、裡なる“ほんとうの望み”が映っていたのに気づくと、珊瑚は淡く微笑み、伸ばした右手でそっとかき消す。
 叶えてくれるなら――そう願う気持ちは決して、戯れではないけれど。
「……これは、良いんだ」
 誰にも聞こえぬほどの声が、唇から漏れる。
「――いい場所だったな」
 なんせ、元は縁もゆかりも無い俺達が揃って来れた、思い出の場所だ。それだけを云うと、巽は仄かに口端を上げた。
 掌のうえには、誰のものとも知れぬ、ひとひらの願い。
 そのまま月色を抱いた双眸を柔く細め、皆と心をひとつに願う。

「へくちっ。……あ。ティッシュあるかしら?」
「風邪引かないようにな」
 裡で願うと同時に漏れた、愛らしいプリエールのくしゃみに眉尻を下げると、巽は脱いだ羽織を娘の肩へと掛けた。その様子にからりと笑う珊瑚が、ひとつ深く息をついた。
「はー……良い思い出ができたねぇ。夏休みの自由研究にはできなさそうなのは、ちょっと残念だけど」
「うん。また来たいね」
 そう何度も出現されても、困りそうですけど。
 ちゃっかり添えられた翡翠の言葉に、仲間たちの笑み声が優しく夜に溶けてゆく。

御嶽・明星
エリカ・バールフリット

 夜風にさざめく泉の面に、ふいに一筋の光が奔った。
 細く、長く軌跡を描く蛍のあかりが月光の燦めきに重なって、まるで導くように御嶽・明星(推定・暁の明星・h00689)とエリカ・バールフリット(海と星の花・h01068)の視界に溢れた。
 真っ直ぐに見据えるのは、天蓋に佇む白月の王。
 耳許に響く水のさざめきと、星の瞬きを思わせるちいさな命の灯火を辿って、水面に連なる飛び石をわたる。
「アカリ、こっち」
「ああ」
 明星の躰を思えば、足場の悪いところを歩かせるのはほんとうなら避けるべきだけれど。
 ――それでも、エリカが手を伸ばして、明星がそれを掴んだから。どんなに覚束ない足取りでも、行くと決めたから。

 そうして辿り着いた水辺の中央でひとつ息を吐くと、ふたりは言葉なく天穹を仰ぐ。
 先ほどよりもずっとずっと大きな、千の星を従えた夜の王。
「『エリカがいなくなって心配してる家族に、幸せがありますように』……それが、エリカの願いよ」
 ほんとうは。
 ほんとうは――『エリカは大丈夫』と知らせたい。けれど、それが無理な願いだということも、痛いほどわかっている。
 だから、願わない。叶わぬ願掛けほど、虚しいものはないから。
 ぎゅっと唇を噤んだその横顔に気づいた明星が、僅かに柳眉を寄せた。ずっと傍で見守ってきたからこそ、そのちいさな裡に抱えた想いなぞ、言葉にせずとも手に取るように容易く知れる。
 ならば、願うことはただひとつ。
 これまでに幾つもの願いを託された白月よ。無害なる|簒奪者《おまえ》が望むなら、この俺の願いも託そう。
 心中で唱えるように囁いて、真摯な眼差しを向けたまま、月へと続く月光へと想いを注ぐ。
「『エリカは、必ず俺が守るから。――安心していて』」
 そっと優しく紡がれた言葉に、エリカが反射的に貌を向けた。胸に込み上げる感情をどうにか堪えながら、ちいさく呟く。
「……意外とロマンチストなのね……」
「俺は、『叶わない願いをかける意味なんてない』なんてことはないと思う。どんな願いも星に変えて、|ここ《胸》で輝かせるからこそ、人は生きていけるんだ」
「アカリ……」
「って、柄にもなさすぎることも言えてしまうのは、この景色のおかげかもな」
 どこか気恥ずかしさを紛らわせるような微笑みに、エリカも眉尻を下げながら不器用に笑った。
 思いがけぬほどの力強いその言葉が、ゆっくりと裡へと沁みていく。声を出そうと思ったけれど、どうにも掠れてしまいそうで。それでも唇を開いたエリカは、絞り出すように囁いた。
「お母さんも言ってたよ。……『胸の星を輝かせるんだ』って」
「……そうか」
 ただそれだけを零して眸を細める明星に、月を背にしたエリカも破顔する。

「エリカの代わりに願ってくれて、ありがとう」
 ――アカリが叔父さんで、よかった。

氷薙月・静琉
櫻・舞

 風の指先が水面を撫でるたび、幾重にも揺らぐ月あかり。
 その輪郭が朧となり、崩れてはまた生まれ――まるで鼓動のような瞬きを宿す世界のなかで、蛍たちはただ静かに語らうように舞い踊っていた。
 写真でしか見ることのなかった幻想的な景色に、氷薙月・静琉(想雪・h04167)は僅かの合間、見入っていた。
(現実味が薄い……いや、良い意味で、だが)
 そう裡に過ったと同時、つと背に触れるぬくもりに気づいた。肩越しに見た櫻・舞(桃櫻・h07474)はどこか怯えを孕んでいて、その先に佇む白月の王に気づいた静琉は、自然な所作でそれを遮る。
 櫻の守り神だからだろうか。恐らく、あれが本物の月ではないと悟ったのだろう――そう察してくれたのだと気づいた舞は、そのあたたかく頼もしい背のぬくもりに、ほわりと安堵の息を零した。

 ふと頬を撫でていった夜風に惹かれるように、静琉は躰を翻して舞と対峙する。
 淡くやさしい月と蛍のひかりを纏って、夜に柔く灯る櫻彩。それがあまりにも美しくて、つい見つめて――否、見蕩れてしまう。
 美しい、と。浮かんだ言葉は、そう容易く口にはできなくて。思いのほか生前の照れやすい性根は残っていたのだと、今更ながらに自覚した青年は、貌に滲まぬように、悟られぬようにと静かに視線を移した。
(静琉様……?)
 優しいその眼差しがなにを映しているのかと視線を辿れば、あちらこちらを優雅に舞う蛍たち。儚くも愛らしいそのあかりに心を和ませながら、ふと戻した視線の先に佇む静琉の横顔が夜に淡く輝いているかのようで、舞は思わず見入ってしまう。
(何を考えているのでしょうか? お気持ちがわかればいいのですが……)
 そうすれば、想いに寄り添うことができるのに。気の利く言葉を投げられるのに。
 そんな想いが裡に過るも、気づけば自身へと向けられていた視線にこてんと小首を傾げてみせる。
(――舞は、出逢ったときから美しかった)
 廃れた屋敷にひとり座するその姿は、どこか人外のように儚げで。
 ひとたび触れてしまえば、忽ち毀れてしまいそうなほどに繊細だったのに、それでも手を伸ばしていた。どうしてか、放っておくことができなかった。
 ふと蘇った記憶から呼び覚ますように、ひとつのちいさなあかりが掌に留まった。はたと意識を引き戻した静琉は、傷つけぬように掌包み込むと、すこし離れた場にいる舞へと視線を遣る。
「……舞、こっちへ」
「? なんでしょう、静琉様」
 名を呼ぶ声が愛しくて、微笑みを零しながら傍へと寄れば、そうっとふたりで覗き込んだ掌のなかには、ほんのりと灯る淡いひかり。
「ああ……綺麗だ、な」
「はい、とても綺麗です」

 ――嗚呼、もし願いが叶うというなら、この時間が続きますように。
 ――この優しい彼の傍で、彼が笑っていられますように。

 そっと裡で祈りを紡ぐ舞の姿に、静琉は瞼を柔く伏せる。
 変わらぬ春の薫りを連ね、ふたりの穏やかな夏がゆっくりと過ぎてゆく。

夜鷹・芥
冬薔薇・律

 月が静かに、泉の心臓を灯していた。
 その淡く白むひかりが降り注ぐたび、水底に眠る石段がうっすらと輪郭を現し、それを辿るように視線を移した夜鷹・芥(stray・h00864)が、傍らへと声をかけた。
「……律、こっちだ」
 岸辺からほど近くにある、崩れずかろうじて形を留めていた階段へと冬薔薇・律(銀花・h02767)を誘うと、水面に咲く波紋をなぞるようにふわりと舞う蛍たちの瞬きを眼下に収めた男は、そのまま腰を下ろした。
 これほどまでに美しいのは、その命がすぐに尽きてしまうからだろうか。
 ならば、この景色も長くは持つまい。そう思い至った芥が、そっと傍らへと視線を投げる。
「……なぁ、他愛ない話でもしてみねぇか? 律と一杯やってみたかったんだ」
 手許に小瓶ひとつと盃ふたつを掲げてみせれば、月の|彩《いろ》を宿すその眸を覗き見た律も、愉しげに眦を緩める。
「まあ、お酒は飲んだことがないので楽しみですわ」
「白月の王を眺めながらの月見酒、ってとこだな。――さあ、乾杯だ」
 ととと、と注いだ杯の片割れを手渡して。
 互いに笑みを揃えたら、律はこくりこくりゆっくりと、そして芥は盃に宿る月ごと一気に飲み干した。じんわりと裡に湧き始めた熱のままに、男は浮かんだ言葉を唇に乗せる。
「聞かせてくれねぇか。律が好む酒、蛍は好きか、何でもいい」
「ふふ。そうですわね……このお酒は好きですわ。それに、蛍も」
「……そうだ。前に話していた、お転婆時代のエピソードってのは?」
「ああ、高価な服を何着もダメにしてしまって……ふふ、それを知ったときの、侍従の真っ青な貌ったら」
 口許を柔く指先で隠しながら、ころころと鈴のように笑う娘。
 それはいつもと変わらぬ笑みだけれど、ふとしたときにどこか淋しそうな彩も覗かせるから、芥はその理由を求めて話を繋ぐ。
 ――暴くではなく、知りたいのだと。
(ああ、俺は珍しく酔ってるのか)
 僅かとはいえ、自分でも知らぬうちに饒舌になっていることに気づきながら、それでも男は問いかけを続けた。|諄《くど》くならぬようにと気を回しつつも、教えてほしいと求める気持ちを言外に滲ませる。
「今は、あまり寂しくありませんのよ。こうして、夜鷹様や皆さまが気にかけてくださるから」
 その厚意を悟れぬ娘でもなく、幾度目かに注がれた盃を眺めながら、律は長い睫を伏せた。酒に微睡む意識のなかで、手繰るようにゆっくりと言葉を選ぶ。
「……ただ、依頼や仕事が終われば、なんて思うと少し寂しくなるのやも。……きっと皆さまは、どこかへ行ってしまわれますから」
「律……」
「ふふ、頭がふわふわして余計なことを申しました。酔うと饒舌になるのですわね……どうかお忘れになって」
 建前か、本音か。
 そう云って美しく唇で弧を描いた娘の貌は、確かにほんのりと赤らんでいるようでもあったけれど。
 探るのを止めた芥は、浮かんだままを音にした。
「つれねぇな。……どこかへ行っても会いに行くし、会いに来れば良い。俺はそうする」
「……では、会いに来てくださいまし」
 変わらぬその優しさへと、律もまた、そう云って花笑みを浮かべる。
 行くことはきっと、叶いませぬゆえ――。
「約束、ですわよ」
 そっと紡いだ声音が、月へと解けるように溶けていった。

古賀・聡士
高城・時兎

「へぇ、あの満月がダンジョンの主か……色んな主がいるんだねぇ」
 木々に囲まれた泉のうえ、空高く佇む声なき主を仰ぎ見ながら、古賀・聡士(月痕・h00259)は感心を露わにそう零した。
「満月のボス……想像してたのと、ちょと違った。きれーだね。人面満月かと思ってた」
「人面満月……都市伝説かな?」
「……なんか、肉まん食べたくなってきた」
 まるで軽やかなステップを踏むように、ころころと変わる高城・時兎(死人花・h00492)の思考。それがなんだか面白くて、ついくつくつと喉を鳴らす。
「ま、特に戦うとかもなさそうだし、泉のあの足場を辿ってみようか? 中央あたりで見る水面の光は、きっと綺麗だよ」
 そう云って手を差しのばす聡士が、愉しそうに笑うから。時兎も柔く眸を窄めると、その手を取って歩き出した。

 泉はまるで、満月が夢を紡ぐためにしつらえた寝台のようだった。
 見上げれば眩いばかりの月光も、泉に映ればその|彩《いろ》を柔く灯し、ひとつ、またひとつと生まれる波紋にひかりがほどけて、夜を裡から照らしてゆく。その随に連なる飛び石を辿る足取りは軽く、自然と笑み声も重なった。
「落ちない? 大丈夫?」
「落ちない。っていうか、落ちるときは聡士も道連れにするから。全力で」
 ほんのすこしばかり揶揄うような声音に、時兎がちいさく柳眉を寄せる。その貌がやっぱり愛しくて、聡士は一層笑みを深めた。
「ははっ、僕を道連れにできると思うんだ」
「離さない、その手を」
 ともすれば甘やかな言葉を、それとは程遠い意味で紡いでみれば、「やってみる?」なんて返る声。
「冗談だよ」
 こんな些細なやりとりさえも、嬉しくて、幸せで。破顔しながら、重ねた掌をひいて共にゆき――終着点の泉の只中で、ふたりはちいさく息を吐いた。
 水のうえをなぞるように、絹のような軌跡を描く蛍たち。
 その隙間から貌を出し、夜へ流麗な影を落とす白亜の大柱の群れ。
 どこまでも穏やかで静謐なる世界に、ぽつりと声が毀れた。

「ねぇ時兎、せっかくだから歌ってよ」

 お強請りにも聞こえるその望みに、「歌?」と時兎はひとつ瞬いた。
「この景色と君の歌、すごく良い思い出になると思うんだよねぇ」
「ん……、何がい、かな……。下手な歌うたうと、魑魅魍魎を召喚しそ……ま、そしたら、ある意味一緒に楽しめるだろーケド」
「ははっ。それも楽しそうだけれど、また今度ね」
 そう云って向けられた視線は思いのほか真っ直ぐで、時兎はすこしばかり逡巡すると、そうっと唇を開いた。
 ゆるりと紡ぐのは、魂還しの歌。
 思い出は還さず、遺るように。魂の瞬きめく蛍のひかりを赤き双眸に映して、静かに捧ぐのは傍らの唯ひとりにだけ。
 耳を欹てねば聞こえぬほどの、その淡い歌声を記憶に刻むように。
 聡士もまた幸せを湛えながら、残光の染む瞼を柔く閉じた。

贄波・絶奈
ルメル・グリザイユ

 かつては神聖なる場所だったからだろうか。
 はたまた、誰からも忘れられてしまった場所だかだろうか。
 葉陰の天蓋が途切れ、かわりに眩い月光が降り注ぎ、蛍のひかりが花びらのように舞うその場所は、どこか静謐な気で満ちていた。中央に広がる泉の底から顔を出す幾つもの白亜の大柱が、まるで救いを求め空へと伸ばされた腕のようにも見えて、贄波・絶奈(|星寂《せいじゃく》・h00674)は薄く双眸を細める。
「へぇ……綺麗でなんだか寂しい場所だ。蛍の灯りがなんだかこの場所を慰めてるみたいに見えるね」
 ま、こういう雰囲気はむしろ私の好みだけど。そう過った想いのままに続けると、傍らのルメル・グリザイユ(寂滅を抱く影・h01485)も小首を傾げた。
「この神殿、いつの時代のものだろ~?」
「ダンジョンの核は天上界の遺産だと言うからね。もしかすると、天上界の記憶が反映されているのかもしれない」
「ふふ、浪漫だなあ。……本当、こういう水没した建物って良いよねえ。時の流れの重みや静けさ、秘められた物語を感じるよお」
 すべてを見てきたであろう唯一の存在たる白月は、けれど語り部にはなり得ない。
 とはいえ、ルメルとしてはそれでも良かった。歴史の残照から過去を想い描く――その、今を生きる者に与えられた自由であり横暴でもある行為へ、ときに浸るのも悪くはない。
「……ああ、あそこに浮かんでるのが噂の月か」
「だねえ。あんなに本物に似てたら、普通の人じゃアレが簒奪者だなんて分からないだろうなあ」
「まあ、襲ってこないというなら、一緒に月見をさせて貰おうよ」
 そうルメルを誘いながら、口端を上げて。顔を上げ、もの言わぬ月へと視線を投げる。
「願いを聞いてくれるんでしょ? だったら月下の蛍火――そんな夢を見させてよ」

 水辺をなぞるように辿ってゆき、泉を横断するように連なる飛び石を渡って、一段高くなった大理石へと昇る。滑らすように脱いだ黒の上着を横長に広げると、ルメルは絶奈へと手を差し出した。先に腰掛けてもらい、余った場所へと並んで座る。
「そうだ。泉に足でも浸して涼しませて貰いながら、蛍鑑賞と洒落込ませて貰おうか」
「あ、いいねえ。僕も~」
 絶奈に倣って、指を掛けてさらりと脱いだヒールを脇に置いたルメルは、そっと爪先で泉に触れた。仄かながらも心地よさそうな絶奈の横顔に、つられて笑みが浮かぶ。
「そうだ。あの歌、とっても素敵だったよお」
「ああ、さっきの私の歌?」
「うん、まるで時間が止まったみたいだった~。絶奈ちゃんの歌が響いていたあの瞬間だけ……自分が何者かも忘れて、ただそこに佇んでいた気さえした」
 どこかその語尾に違う感情が滲んだような気がして、絶奈は視界の端で一瞥した。一度瞼を伏せ、視線を正面でちらちらと瞬くひかりの群れへと戻す。
「うーん……私の歌は稀少価値が高い一品だけど、どうしてもって言うんならまた聴かせてあげてもいいよ。こんな|幻想《夢》を視させてくれたお礼にね」
「ほんとお? ふふ、もし絶奈ちゃんが歌手デビューしたら、僕は何号目のファンになれるかな~」
「なんだったら、今ここで私のファン第一号になってくれても構わないよ」
 いつものようにダウナーな声色で、けれど僅かに眦を緩めた絶奈は、からりと笑み声を立てるルメルをひそりと窺いながら話を向ける。
「せっかくだし、ルメルさんの話も聴かせてよ」
「ええ~? 話題になりそうなこととかあるかなあ」
「そうだな……さっきの声のこととか。凄く気になるな」
 男の眸が、微かに見開く。
 一歩、深く踏み込んだのだという意識は、娘にもあった。纏う気配が、|警視庁異能捜査官《カミガリ》としての勘が、それを是と教えてくれていた。
「さっきのアレ……、あの声は……師匠の声、なんだ」
「ルメルさんの、師匠……」
「うん。師匠が作った夕食の、配膳を手伝うように言われて……」
 いつもならば、記憶の底にしまっていたはずなのに。何故か今ばかりは、鮮明あの風景が、声が、裡に蘇る。
「ふっ。俺がすぐに色んな味を試したがるから、事あるごとにあんな風に言われてたなあ~……」
 ふふ、とまた、笑みが漏れる。
 懐かしく、そして今は手の届かぬあのころが胸に止め処なく溢れて、ルメルは一度唇を噛んだ。吐き出すように大きく溜息をつくと、水面に映る月光と蛍火のひかりを映した双眸を、淡く細める。
「……よりによって、あんな場面を思い出すだなんて……」
「……ルメルさんにとって、かけがえのない思い出なんだ」
「かけがえのない……?」
「うん。だって、その話をするルメルさん、すごく嬉しそうだもの」
 云って、隣へと投げた淡々とした眼差しがルメルを捉えた。男の息をのむ音が、ひとつ夜に落ちる。「そ、っか。……そっか。……はは……」と、どこか言葉を、想いを探すかのように、毀れた声に僅かに感情が染みた。

「……あの人は……、俺の……、……親みたいな人、だったよ」

 ――そう。“だった”。
 それが、今残された結果であり、全て。

 そっと月へ|月響珠《クランペルラ》を掲げると、ルメルはそれを握りしめ――力を籠めて握りしめた。ゆっくりと開いた指先の間からほろほろと毀れた月の欠片が、夜風にさらわれながら水面へと溶けてゆく。
 ひとつ、またひとつ。
 紫紺の世界に、祈りのようなひかりが灯る。
「……いいと思うよ。
 ――きっと、それでいいんだよ。
 絶奈の声が、ぽつりと漏れて。
 なにも云わぬルメルの、その|気配《けわい》だけが肌に触れた。

目・草

 ひそやかな夜の真ん中に燦めきを見つけて、目・草 カナメ・ソウ(目・魄のAnkerの義子供・h00776)はちいさく息を飲んだ。
 水面に毀れた白金のひかりがひらひらと波紋にほぐれ、そのうえを蛍たちがぽわりぽわりと優雅に舞う。風がひとすじ渡るたび、溢れるほどの光の粒が淡く揺れ、泉全体がやさしい夢のように静謐な燦めきを宿す。
 ふらり森の夜道をゆくその手には、とっておきの提灯ひとつ。帰りに迷わぬようにと持ってきたその優しい灯りも仄かに揺れて、幼子の影までゆらゆらと戯れる。
 ひとつ、ふたつ、目の前を過った儚い灯へと誘われるように、草はぱたたと駆けだした。漆黒の髪を揺らし、草の香りを纏った夜風が頬を撫でていくのがなんだか愉しくて、笑み声がちいさく毀れる。
「わっ……!」
 勢い余って泉の縁まで辿り着き、あわや落ちそうになったすんでの所で脚を止めた。まあるい水鏡に朧に映る幾つもの蛍火を、黒曜石めくおおきな眸で覗き込む。
 波紋が生まれるたびに、ふわりとほどけてまた寄り添う水面のひかり。ちょこんとしゃがんだまま、ちっとも飽きることもなく、草はその揺らぎをじっと眺め続けた。
 そうしてふと顔を上げれば、天蓋に浮かぶ眩い満月にまあるく眼を見開いた。
「おっきい! 真ん丸お月様、きれいだな」
 弾む声が、夜に溶ける。淡くも視界いっぱいを埋め尽くすほどの耀きに心惹かれるように、草は泉を横切る飛び石へと足をのせた。
 もっともっと、傍に行ってみたい。その一心で、ちいさな足取りは軽やかに、夜の水面に影を踊らせながらぴょんぴょんと跳ねる姿は、大人が見ていたら危なっかしいのかもしれないけれど。それでも草はそんなことなんてちっとも考えずに、石をわたる。
 もっと先へ、あの真ん中まで行って、手を伸ばせば――。
「……とどかない……」
 一番近い場所まで来たのに、結局ぐっと月へと伸ばした手は空を切った。
 こんなにも近くにあるのに。優しいひかりがいっぱい、溢れているのに。
(……でも、近くで見られたから満足)
 知らずと落としていた肩をまた上げると、草は淡く眦を緩めた。あの綺麗な燦めきは手に入れられなかったけれど、なんだか柔らかく包まれているような気がして、泉いっぱいに広がるひかりと一緒に思うままに戯れる。
 蛍を眼で追って、波紋へと指先で触れて。両の手で燦めきをすくって、夜に散らす。
 過ぎゆく刻の感覚も忘れ、笑い声を響かせながらはしゃぐ初夏の夜は、ただひたすらに透明にどこまでも続いて――やがて、森のなかから現れたしなやかな影に気づいて、もひとつ笑う。
 最後に今一度、その景色を眸に、裡に焼きつけた草は、踵を返してお迎えにきてくれた黒猫又へと一歩踏み出した。
 今宵の冒険は、これにて終幕。
 けれどこの記憶は、きっと、ずっと、心のなかで柔らかに灯り続けてゆくのだろう。

白水・縁珠
賀茂・和奏

「これで目的達成、と」
「目的達成! できて良かった」
 満足気に|月響珠《クランペルラ》をしまった白水・縁珠(デイドリーム・h00992)へと、硝子の奥の眸を細める賀茂・和奏(火種喰い・h04310)。このまま「はい、解散!」とすることもできるけれど――そう過った思考を、和奏の声がかき消した。
「先では蛍が見れるというし、時間的にも遅すぎないから、見に行ってみようか」
 一瞬、僅かに瞠目した縁珠だったけれど。
(そうだ……今回の誘い文句って『面貸しデート』……だったっけ)
 ならば、もうすこしだけ。折角来てくれたのだし。
 そう思い至ると、縁珠は窺うように傍らを仰ぎ見る。
「……もう少し奥に行ってみる?」
「だね。これも見知らぬ景色への冒険、ってことで」
「ん、冒険ー」
 程なくして現れた泉を囲む森は、夜の底で静かに呼吸をしているようだった。
 月光が水面を撫でて、その上で舞う蛍のあかりが柔らかな花を咲かせる。崩れかけた白亜の神殿は半ば水に沈み、折れた柱が幾筋も空へと伸びて、光と影の柱廊を描いていた。
 朽ちる前は荘厳だったんだろうなぁ、なんて。ぼんやりと浮かんだ言葉のままに視線を上げた和奏は、口許を淡く綻ばせた。ともすれば神殿が隠していたかもしれない星々が、今はこんなにも綺羅に瞬いている。

 まるでひかりの海を渡るかのように、のんびりとふたり、水面を過る飛び石を辿る。
「ぉー……中央は明るめだ」
「月と星あかりだけじゃなく、蛍も照らしてくれているからね」
「ぺティーユも足許照らしてくれるから、泉に落ちるドジはなかろうー」
「ふふ、縁さんのペティーユにも感謝だ。君も俺も、落ちるのは避けたいからなぁ」
「……タオルまだあるから涼んでも良いよ? 縁は落ちる予定ないけど」
 ちいさな笑み声を零しながら、軽やかに石を渡る青年の背を眼で追っていれば、ぴたと脚を止めた和奏が振り返った。
「……いっそ、蛍たちみたいに一緒に飛ぶ?」
 なんて、と微笑みながら、ちょっとした悪戯心のままに差し出された左手と――彼の足場をじっと見つめる。
 大人ひとりがちょうど乗れるほどの、狭い飛び石。そも、『飛ぶ』という発想自体が飛んでいる。
 ――けれど。
 縁珠はふいに唇の端を上げると、勢いよく地を蹴った。
 理由は単純明快――調子の良さそうな顔に、なんだか不意を突きたくなったから。
 お互い、空中浮遊の心得もある。怪我はしないだろう。そう算段をつけて夜露に濡れたようなひんやりとした感触とともに、和奏のいる石へと飛び移れば、
「ちょ」
 その緑の双眸に、一瞬焦りが滲んだ。それでも咄嗟に手を伸ばして支えると、その腕のなかで縁珠が得意気にひとつ微笑んでみせるものだから。和奏は安堵とともに眉尻を下げて、また一歩先へと波紋を響かせながら歩き出す。
「いまは田舎でしか見ない蛍もいっぱいだ」
 縁珠の零した声に、和奏もまた脚を止めた。ふたり並んで、泉の奥を見遣る。
 水鏡に映る、淡くも眩い月明かり。そこへと蛍のひかりがひと粒ずつ落ちては溶け、また浮かび上がって、夜の紫紺を燦めきで飾り立ててゆく。
「そうだね、こんなに沢山の蛍は初めて見るかも。子供のころ、すこしだけ見たことあった気がするけど……朧げで。君は? 小さいころ、お爺さんたちと見たかい?」
「……うん、散歩とか田んぼの水路とか、小さいころは見たかも」
 あのころはまだ、鑑賞よりも追いかけるほうに夢中で――結局水路に落ちたというオチまでつくのだけれど、それはひそりと裡へとしまったままにした。
 それから短くも長くもある日々を過ごして、今は静かにただ眺めるのも良いと思えるのだから、不思議なものだ。

 まさかの『面を貸して』が始まりの、今回のデート。
 だけど、こんな綺麗な景色を『綺麗だね』って、一緒に言い合えるのが素直に愉しい。
(……君の瞳に、この景色はどう映ってるかな)
 夜風がふたりの間を優しく吹き抜けていく。水辺を照らすのは、月と蛍と、蝶の翅の燦めきたち。ゆっくりと移ろう波紋とひかりに、刻が柔らかに溶けてゆく。
「今日はありがとうね、縁」
 不意に紡がれたその呼び名に、縁珠がちいさく瞬いた。
 普段、親類以外の女性には呼び捨てにしない和奏だけれど。夜闇が気恥ずかしさも紛れさせてくれるから、真っ直ぐにみつめて言の葉に乗せるのは、心からの感謝。
「うん……ん」
 ただそれだけを返すと、縁珠は僅かに視線を外して俯いた。
 ちらりと再び見上げた隣には、変わらず柔らかな和奏の笑顔。

 綺麗だねー、なんて気の利いた言葉のひとつも返せなかったけれど。
 ――すこしは、デートっぽかったかな。

エイル・デアルロベル
フィア・ディーナリン

「あの、ご当主様……」
「どうかしましたか? フィア」
「ダンジョン絡みの簒奪者退治とのことでしたが……肝心の簒奪者は何処に?」
 日中からずっと抱き続けていた疑問を漸く口にしたフィア・ディーナリン(|忠実なる銃弾《トロイエクーゲル》・h01116)は、そう云いながら白いエプロンをちいさく握りしめた。
 この問いかけはつまり、主人からの話を完全に理解できてはいないことをも意味すること。使用人としては致命的なその事実を受け入れざるを得ない状況が、唯々心を締めつける。
 片やそんなフィアを前にしたエイル・デアルロベル(品籠のノスタルジア・h01406)と云えば、僅かな瞠目のあと、ふわりと口許を綻ばせる。
「ああ、そんなことも言っていましたね」
「えっ……?」
 そのなんともわざとらしい答えに、反射的に漏れた声と、一瞬だけ見せた――漸く、自分にだけそんな隙を見せてくれるようになった――娘の吃驚した様子が愛らしくて、思わずエイルは笑みを深めた。
 任務という形で誘ったのは、娘が来やすいようにとの思惑から。それに、害意のない簒奪者とはいえ村人がここに迷い込んでしまうのは確かな問題でもあるし、簒奪者自身も最後には撤退させることとなるのだから嘘ではない。
「まあ、折角来たんですから。偶には硝煙や任務は忘れて、ゆっくり楽しんでいきましょう」
 云いながら脳裏を過るのは、数ヶ月前に任務で訪れた水族館でのこと。初めて目にした青く幻想的なその世界に魅入っていた横顔に、組織ではなく普通の家庭に育っていたらと馳せた想いは、今もまだこの裡に在る。
「……良いんでしょうか……」
 詳細も聞かされぬまま連れられてきたリュースエルヴ村では、ぱらぱらと降る天気雨のなか、ふたり肩を並べての――一歩後ろをついていたら、エイルに隣を歩くように云われてしまった――散歩から始まって。
 |露花氷《ろかごおり》なる氷菓の店では、「フィアはどの氷蜜とフレーバーにしますか?」なんて尋ねられて、決まるまで待たせてしまったのに叱責のひとつもないどころか、花笑みを湛えたエイルと匙を交わすこととなったり。
 夕闇に溶けゆく空の下、訪れた森で見つけた燦めく|月響珠《クランペルラ》へと音を映すエイルを眺めていたら、それを貰うことと――恐れ多いと一度は断ったけれど、気づけば受け取る流れに――なっていたり。
 そうして空の紫紺が深まり始めた今になってもなお、敵らしき姿は見えぬときた。だのに、主はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを湛えるばかりだ。
「構いませんよ。それに、ここから先は本題の……蛍鑑賞ですから」
「……蛍、ですか……」
「ほら、見えてきましたよ」
 柔らかな声音に誘われるように視線を先へと向ければ、ひんやりとした夜気が、心地良い涼と清らかな水の匂いを運んできた。
 森の奥に佇む泉を抱くかのように、水辺をひときわ白く照らす満月のひかり。半壊した神殿の柱が水面に影を落とし、その影のあいだを蛍たちが緩やかに漂う。風がわずかに通り抜けるたび、ひかりの欠片が波紋に乗って揺れて、眸に映る景色が燦めきながら一時ごとにその形を変えてゆく。
「これが、蛍……」
「あの村でもそうでしたが、こうして幻想的な風景を純粋に楽しむのも良いんじゃないでしょうか。私たちの住む地域ではお目にかれない光景ですし、映像で見るのとは全然違うでしょう?」
 そう云ったエイルを見つめながら、けれどフィアは言葉を忘れていた。巡らせていた警戒心すら、知らずと薄れる。
 エイルを飾り立てる宝石のように舞う、幾つもの蛍のひかり。明滅しながら夜に毀れる光片がその金の髪と双眸を輝かせ、大輪の月華を背に微笑む主はまるで夢幻のよう。
 彼の云うとおり、知識と体験はまるで違った。無機質な文字ばかりが現す情報が、いまはっきりと|彩《いろ》づいた。
 こんなにも昏い地の底めく場所で仄かに灯りながら揺蕩う儚い存在。それはどこか闇のなかで心細く身を寄せ合うようにも見えて、ふと過去の記憶が重なるも、フィアはすぐさま振り払った。
 違う――そうではない。
 蛍たちは決して、悲観的になぞなってはいないのだろう。ともすれば、彼らも――そして己も、安住の地を見つけたのかもしれない。
「……こんなところでも、命は煌めくことができるのですね」
「気に入ったのなら、もうしばらくのんびりと、この綺麗な景色を眺めていきましょう」
「……はい」
 夜に溶けるほどに、ちいさな応え。
 懸命に生きているからこそ、これほどにも美しく、幻想的ですらある彼らの姿。エイルと共に在ることで出逢えた風景と得られた視点に心からの感謝を添えながら、フィアはそうっと瞼を伏せる。
 裡に宿るのは、溢れるほどの幸せ。
 同じ世界の|彩《いろ》を、記憶を、共有できる歓びを噛みしめながら、願うのはただひとつ。

 ――私は、“此処”に在り続けたい。

 そう想った瞬間、ふわりとエイルの指先がカチューシャへと伸びた。
「フィア……少し動かないでくださいね」
「――っ!?」
 もう片方の手で不意に肩を抱き寄せられて、フィアが忽ち息をのむ。服越しに伝わる掌のぬくもりに、躰が思わず固まってしまう。
 遠目であれば綺麗とはいえ、虫である蛍が留まっていると知れば驚かせてしまうやも――故に男は敢えて理由を云わず、不用意に動かぬようにと娘を己へと寄せながら柔くそれを追い払った。同時に、普段の戦闘姿からつい薄れかけていたけれど、娘がこれほどまでに華奢で小柄だったのだと改めて思い出す。
「これで大丈夫です……ん? どうかしましたか?」
「あ、いえ……だ、大丈夫です、ありがとうございます」
 常であればあり得ぬほどの距離感に、どうにも頬に熱が灯って。ぎこちなさを滲ませながらつい俯いてしまったけれど、拒むことはできなくて。
 畏れ多いことだと、過分な望みであると判っている。
 それでも、叶うことならば。

 もうすこしだけ、このまま――あなた様の傍で、この夜に身を委ねていたい。

ステラ・ラパン
小沼瀬・回

 一度吸い込んだ夜を、感嘆とともにゆっくりと零す。
 肺腑を満たした涼が躰を巡り、どこか夜の森に溶けてゆくような感覚に、小沼瀬・回(忘る笠・h00489)は一層軽やかな靴音を響かせた。その呼気も、足取りも、言葉にせずとも愉しさを雄弁に物語っているから、ステラ・ラパン(星の兎・h03246)も友が生み出す音へと長い耳を揺らし傾けながら、“月の褥”と謳われる森に眦を細める。
「森に見つける、淡い燦めきの“幸運”か……」
 ふと回の口をついて出たのは、村人たちの言葉。月の魔力を抱いた、奇跡めくその石の性質を思えば確かにそう呼ぶにふさわしい。
「……『幸運』は、見つけてもらえたその珠こそ、そう感じているように僕は思う」
「珠こそが……?」
「あゝ。出逢えた誰かの残したい大切な音をその身に抱えられるのは、なんて幸せだろう……そう、思えてさ」
 見上げた赤い双眸に満月を映しながら、ステラが呟く。
 人々を見守るかのように、遠く遙かから夜を灯すやわらかなひかり。静かに降り注ぐ、その淡い燦めきに包まれながら巡り逢えた響きは、そっと触れた音はきっと、どれもが愛おしく、誰かの心を震わすのだろう。
「流石、月光の神だな」
 称えるような声音でそう云うと、回は笑みを浮かべたまま瞼を僅かに伏せた。
 この月の褥の森で眠る|月響珠《クランペルラ》。夜を愛し、嘗て月夜見として空に在り、そうして今は星の名を冠する娘に、なんと似合いの場所だろう。だからだろうか、もの云わぬ珠の裡を語る言葉が、不思議と心にぴたりと嵌まる。
「なら、珠に籠めるのはさしずめ“月の音”――だろうか。とはいえ、私にはどんなものか知るはずもないが……お前さんはどう思う?」
「そうだね……“月の音”があるとするなら、遥かより触れること叶ったそのすべて。それを抱えて“そう”だと言うんじゃないかな。……なんて、」
 僕は月そのものでなく降りる光のひとつであったから、月の『こたえ』はまた別かもしれないけどね――そう、ちいさな笑み声とともに投げかけられた娘の視線に、回は静かに一度、嗚呼と瞠目する。
「――“そう”か。その“こたえ”が、私には正解だ」
 月の裡にあるであろう正解よりも、よっぽど心響かせるステラの言葉へと男もまた柔く微笑めば、視界の端を微かな燦めきが過った。
「すてら殿、あれではないか」
「おや、ほんとうだ」
 昏い森を過る地上の天河に、一等またたく粒のようなひかりたち。
 まるで星あかりのようなそれに呼ばれるがままに歩み寄った回の隣へと、ステラもちょこんと腰を落とした。さやさやと心地良いせせらぎに包まれながら、さてどんな音を残そうかと思考を巡らせた矢先、そうっと水面へと手を伸ばした男に――なにかの音を籠めた仕草に気づいて、娘もゆるりと眸を細める。
「佳い音が籠められた――聞くかね?」
「うん、聞かせてよ」
 云って、まだひんやりとした水の|気配《けわい》を残す掌へと耳を寄せれば、|月響珠《クランペルラ》が紡ぐのはまだ記憶も新しいあの日の音。
「あゝ、本当に――佳い音だ」
 ふわり口許を緩めたステラにつられて、回も湛えていた笑みをもひとつ深める。
 大地に広がる緑の海から見つけた四つ葉に『幸運』を見いだすのならば、それに似た|月響珠《クランペルラ》へと籠めるのはこの音が佳いと思った。
 友であり、店主仲間であり、そして父娘代わりのふたりにとって共通の想い出。唐傘の付喪神故に晴れを呼ぶ男が、不意に齎された雨に子供のように燥ぎながら、幾重もの波紋が描かれる石畳を舞台に娘と踊ったあの雨の日の音色。
 既にステラも識る音ならば、お裾分けとも云えぬだろう。だからこそ、あの燦めきが、歓びが、より鮮明に色づくように。いつまでも響き渡るように。そうしてそうっと触れて生まれた唯一の|月響珠《クランペルラ》を、回は今一度、柔く掌の裡に包んだ。
「ねえ、回」
 星のささやきのような声が、夜に溶ける。
「我儘娘の願いを、聞いてくれるかい?」
「私に叶えられるものなら佳いが」

 ――僕の名を呼んで籠めてはくれないだろうか。

「抱えていたいんだ。君の呼ぶその響きをさ」
 この掌に収める月の音色ならば、それが佳い。口以上にそう物語る視線へと、回は僅かに瞠目して――笑った。
 ここで籠めずとも、幾らでも抱く機はあろうに――過ったその想いは口にせぬまま、男は再び水面へと|眼《まなこ》を向けた。大切な娘からの、ささやかな我儘を叶えるべく、月あかりに揺蕩う水鏡へと静かに触れる。
 裡で紡ぎ、そして言の葉にも乗せて。
「――ステラ、」
 男の穏やかな声が、ちいさな満月のような珠へと染みていった。

 銀河を辿る旅路のように、燦めく川縁に添って奥へ奥へと進んでいけば、いつしか枝葉の昏き屋根は消え、代わりに満天の夜空と満月が姿を見せた。眼前に広がる泉の水底には白き神殿が眠るように佇み、そのうえを行き交う蛍のひかりが淡く夢を彩っている。
「真白の月が――不思議だね。こんなにも地に近くあるなんて」
「ああ。恒は届かぬようなものに、手が届きそうなのが不思議だ」
 おなじ心を交わすふたりの間を、ふわりと一筋のひかりが過ぎてゆく。どこか迷子星のようなそれをつい視線で追えば、知らぬ間に素足になってそのままぴょんと浅瀬に入ったステラに気づいて、回の思考が一瞬止まった。
「おいっ……!」
「ふふ。こういうとこ、入りたくならない?」
「――まったく、御転婆娘め」
 伸ばせど空を切った手を引っ込めながら、回がクツクツと喉を鳴らした。両の手にブーツを持って水と戯れる姿はなんとも愉しげで、つられた男も娘を真似てあとに続く。
「高い柱の上までは、流石に翼がないと難しそうだ。……君たちなら、ゆけるのだろうね」
 そう、視界を過った蛍へと指先を伸ばした娘のその横顔に、言葉以上の想いが過ったような気がして、戯れ紛れに回が薄く笑みを浮かべた。
 生憎、己が背にも翼はない。それでも、嵩上げくらいならば叶えてやれる。
「肩車でもしてやろうか? まあ、見えるものは蛍に満たないが」
「ふふ。そうだね、高いところの景色は好きだよ」
 上から見下ろす景は少しだけ懐かしい、と遙か見上げた先に嘗てを想う。月夜見として、まだその魂が空に在ったころに記憶を重ねれば、眼下に広がっていた景色へと懐かしさがじんわり滲む。
「でもね。地に足つけた、この高さからの景も好きさ。触れられるこの身もね」
「……お前さんが、そうして同じ地を好んでくれることが嬉しい」
 空から毀れる雨粒を受けるための|唐傘《存在》故に、回にはステラの想い描く景色を知りようもなかった。互いに同じ付喪神とはいえ、ステラのように懐かしめるほどの神たる自覚も未だない。
 だからこその、それは男の本音だった。
「でも、君が乗せてくれるなら甘えようかな」
「何? ――佳いだろう、私は構わん」
 振り向きながら柔く緩む赤い双眸を受け止めると、回は短い所作で腰を落とし、肩を差し出した。首許に掛かる、軽い体重。そのちいさな躰ごとふわりと持ち上げれば、周囲の蛍たちが一斉に舞い上がり、淡いひかりがステラの微笑みを夜に映す。
 ふたりの頬を、さらりと夜風が撫でた。鼻先に触れる、水の匂い。朽ちて折れてもなお残された幾つもの柱が、泉から咲いた白い花のように佇んでいる。
 ひとつ、またひとつとゆっくり波紋が凪いでいき、そうして水面がふたたび鏡へと戻る。
「ああ、いい眺めだ。柱より蛍より、僕はここがいいよ。とうさんの肩の上が――降りたくなくなってしまうくらい」
 なぁんてね、と続ける娘が愉しげに笑みを深めるものだから、男の唇からも笑み声が漏れた。
「ふ、はは、吝かではない。だが、骨組みを確とした傘とて、流石に腰を痛めそうだ。……なんて、いや冗談にならんな」
 それでも、独りでは到底思いもよらなかったであろう想像はどこか愉快で、眉尻を下げたまま回が月を仰ぎ、ステラもその眩いひかりへと眸を窄めた。
「月に願いを、なんて僕がするのもなんだか不思議だ」
「月が願いを向けるも佳いではないか」
「回はどんなことを願うんだい?」
「私は……そうだな。それはもう傲慢に、『輝夜姫が月に帰らぬように』と願うとするか」
 お前さんは? と続けて問うてみれば、頭上へと毀れる柔らかな声。
「僕は……そうだな。『――君の願いが叶いますように』」
「――おい、願いを受けるな」
「え、ダメ?」
「翁の戯言なぞ、どうでもいい。こう云うときは我儘を言え」
 そう溜息交じりに柳眉を寄せれば、軽やかな笑み声が夜に響いた。
「あははっ。そういってくれるなよ。僕に向けたよな君の願いだから、受けたいと思うんだ」
「べつにむけてもない」
 反射的に口早に返す回の緋の髪へ、ステラが柔く手を添えた。
 この地上だからこそ得られた、友と呼べる存在。だからこそ、ステラも頬を緩ませる。
「それに、どうでもよくはないよ。僕だって月より君の隣がいい。そんな我儘じゃダメかい? ……なんて、それを叶えるのは月じゃなくて君か」
 ステラがぽつりと呟けば、回は言葉を呑み込んだ。すぐさま返せる言葉が出てこない。
 それに気づいたステラが、僅かに生まれた不器用な間を紡ぐように囁いた。視線の先で、折れた石柱を渡るかのように、ひかりがふわりと流れていく。
「なら、そうだな。――『幸せな雨に濡れる君を見れますように』だ」
「……それも結局、私の願う所ではないか」
 いつも|他人《ひと》のことばかりなステラへと、そう呆れを滲ませた回の口許に笑みが浮かぶ。

 ――まあ、妥協点だな。

 交わされ、囁かれた幾多の想いが、泉の水面に揺れるひかりを透いて、月白の王とともに夜の涯へと還っていく。
 白亜の神殿も、豊かなる泉も、ダンジョンに抱かれたままに姿を消し――変わらぬ静寂のなか、ただ夏告げの蛍たちだけが、夜に淡く燦めきを残し続けていた。

挿絵申請あり!

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挿絵イラスト