シナリオ

2
リーテンリュースの蛍夜

#√ドラゴンファンタジー #プレイング受付〆・執筆中

タグの編集

作者のみ追加・削除できます(🔒️公式タグは不可)。

 #√ドラゴンファンタジー
 #プレイング受付〆・執筆中

※あなたはタグを編集できません。

●|露花氷《ろかごおり》と|月響珠《クランペルラ》
 冒険王国『カトルヴェア』――現れては消えていく四季の|夢《ダンジョン》を擁する王国の一角にある村『リュースエルヴ』に、今年も初夏がやってきた。

 渓谷にひそりと佇むその場所は、この季節になると天気雨が多く降る。
 雲なき空から零れ落ち、花弁を濡らし、水面を揺らし、地を打って静かに光りながら弾けて躍る雨粒たち。村の立地による気候や条件が重なって、ほかよりも一等眩く燦めくそれを、人々は『神の涙花』と呼び尊んだ。
 雨は忌むべきものではなく、むしろ神の御業なのだと。

 その奇跡を慈しみ親しみを込めて生まれた『リュースエルヴ』の名物のひとつが、『|露花氷《ろかごおり》』だ。
 様々な果実から作られた氷蜜に、好きな花のフレーバーを加え、天気雨の雫を魔法で加工した仄かに耀くパウダーをまぶしたそのかき氷は、雨露に燦めく花のように、甘く香りながら鏤められた星屑めく光を纏う。
 勿論、氷蜜やフレーバーは好きに選べる。ちいさな村ながら、様々な店がこぞって種類を取り揃えているから、あなた好みの露花氷もきっと作れるはずだ。
「しかも、村の至る処に|緑廊《パーゴラ》があって、天気雨が降るなか、満開の花を屋根代わりにかき氷を食べるのがお勧めの食べ方なんだそうですよ!」
 そこまでの説明を終えたヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)が、興味津々に狐耳と尻尾をぱたぱたと揺らす。
 花屋根に使われているのは、ブーゲンビリアやクレマチス、スタージャスミン、サンパラソル、テイカカズラ、バタフライピー、黄花藤などの、初夏に咲くつる性の花々。花の種類は勿論のこと、その色も多種多様だ。
 店先や公園、丘などを彩る|緑廊《パーゴラ》のほかにも、街のあちらこちらにフラワーアーチ付きの2人掛けベンチもある。加えて、天気雨といっても小雨程度。好きな花の花屋根で、ふうわりと花の香りと燦めく雨粒を愉しみながら、自分好みの|露花氷《ろかごおり》を満喫してはどうだろう。

●白月の蛍夜
「――と、ここからが本題です。そんな長閑な村の外れに、ダンジョンが現れたんです」
 しかも厄介なことに、村人が良く出入りしている森に酷似した様相なのだと、ヴァロはひとつ嘆息した。あまりにも似ているため、森を訪れてそのまま知らずにダンジョンへと迷い込んでしまう人が増えているのだ。
「村には緩やかな川が流れてて、その浅瀬で|月響珠《クランペルラ》って言う魔石が採れるんですけど……どうやらダンジョン内の水辺でも同じものが採れるらしくて」
 しかもたくさん! と両手を大きく広げた娘は、困ったと言わんばかりに狐耳をぺしょりと伏せた。
 村のもうひとつの名物――『|月響珠《クランペルラ》』。
 淡い輝きを宿すそれは、月光の届く浅い水底に沈み、そっと息をひそめるように人知れず眠っている。そうして、水面を透いて注がれた月の魔力を宿したその石は、ささやかな“音”をひとつだけ記憶するという。
 ダンジョン内の浅瀬や、岩が削れて自然に生まれた水盆の底にあるままの|月響珠《クランペルラ》をそのまま拾い上げれば、身近にある水の調べ――せせらぎや水滴の音、雨音など――を記憶する。耳に当てると、心地良い音色が聞こえてくるだろう。
 そうではなく、水面へと“声”を発するか、記憶に在る“声”を想い描いてから手で掬い上げれば、その“声”を記憶する。
 水音、雨音、想いを告げる誰かの声。
 あるいは、もう二度と聞けぬと思っていた、過去の言葉。
 どれも記憶できる時間はほんの数秒。それでも、それを活かして愛しい人へと声を届けたり、大切な人の声を想い出から汲み出さんとする人も少なくはない。

「まぁでも、そこで村人さんたちが引き返してくれれば良いんですが……森――つまりダンジョンの最奥には敵もいるんですよね……」
 それはまさに、月へと願う人々の想いを糧とする、荘厳で幻想的な月の幻影。
 ぽっかりと空いた森の上空に浮かぶその満月に、言葉も意志も、感情もありはしない。ただそこに在り、誰かの憂いが晴れるような願いをひとつ叶えると消えてゆく。
 直接的な害意はないとはいえ、簒奪者であることは変わりない。放置したままよりも撤退させておくほうが安心だろう、とヴァロは添えた。
「ですが、急ぐこともありません。丁度今の時期は、そのあたりに蛍の群れが現れるそうですから、蛍観賞も愉しんできてはどうでしょう?」
 ダンジョンの最奥にあるのは、清流の流れ込む静かな泉。
 その畔で静かに語らったり、ちょっとした飲み物や食べ物を味わったり。
 柔らかな水の響きのなか、月光を纏った雨粒のように、ぽつりぽつりと淡いひかりを夜に鏤めてくれる蛍たちを、ひとときばかり愉しんでも支障はないだろう。

 ――だって、お月様はそっと見守っているだけですから。
これまでのお話

第3章 ボス戦 『白月の幻主』


●夜の想い紡ぐ処
 “月の褥の森”に擬態したダンジョン――その最奥には、朽ち果てた神殿跡があった。
 なにを、誰を祀っていたのかもしれぬその場所は、かろうじて残された土台床と柱さえも、どこからか湧き出た泉によって水底へと沈んでいる。聖域だと示すかのように木々はその周囲を囲み、ぽっかりと拓けた天蓋には瞬く星々と、そして煌々と輝く満月が浮かんでいた。

 それは、ただの満月ではない。
 それこそがこのダンジョンの主であり、物言わぬ白月の王。月に願いを乞う人々の想いから生まれた、現実であり幻。
 戦う術は持たない。ただ、誰かがなにかを願えば、それは音もなく消えてゆくだろう。

 ならば今一時は、水辺に舞う幾つもの蛍のひかりを愉しんでいこう。
 まるで泉から生えているかのようにそこかしこに姿を見せている、神殿の一部である乳白色の大理石――等間隔に連なる折れた大柱や、半壊した大階段など――に座って眺めたり、水面を渡る幾つかの石の足場を辿って、泉の中央へと行ってみたり。
 泉からすこし離れれば土の地面もあるから、遠目で蛍夜の全景を眺めるのもまた、一興だろう。

 ――さあ、行こう。今宵限りの、夢幻のひとときへ。

 ✧   ✧   ✧

【マスターより】
・敵は空に浮かんでいますが一切攻撃はしてきませんので、POW/SPD/WIZの内容は気にせず、お好きなようにお楽しみください。
・時刻は20時ごろを想定。淡い月明かりだけが光源の、夜に蛍のひかりが優しく灯るのどかな場所です。

・神殿はギリシャの神殿タイプ。
 それが崩落して、何本かの柱と土台(基壇+床)、周囲を構成していた直方体・立方体の大きな岩だけが泉から露出しています。

・飲食物の持ち込みも可。騒音を発するもののご利用はお控えください。
・あわせてマスターコメントもご参照のうえ、ご参加いただければ幸いです。
物集・にあ
唐草・黒海

 肌に夜が触れた。
 さらりと心地良い涼に混じる、水の気配。ここは地上で、踏みしめる大地は土と草に覆われているというのに、そのひそりとした空気はどこか深海を思わせて、物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)は軽やかに路先をゆく。
 木々を抜けた先へと躍り出れば、まるで終幕を控えた舞台のような景色があった。靡くヴェールを思わせる波紋を描く泉と、天蓋から降り注ぐ月のスポットライト。水底に沈みかけた神殿の、その忘れ去られた白亜が月あかりに照らされて、音もなくただ夜にぼうと浮かび上がる。
 水辺へと立つと、名も知れぬ神の蓐へと娘は丁寧に|頭《こうべ》を垂れた。たとえ両の|眼《まなこ》に映らずとも、この地から消えてしまったのだとしても、人々に慕われていたであろう“あなた”がいたことは確かだから。
 そのまま泉に貌を出す連石をとんとんと跳ねながらわたってゆくにあの背を追いながら、自由な人だな、と唐草・黒海(告解・h04793)は心中で独りごちた。
 泉の中央で踊るように身を翻し、「濡れてるから気をつけて」と微笑む娘。望むならいくらでも先へといけるだろうに、それでも脚を止めて追いつくのを待っていてくれる。なぜ、どうして、と問いかけるのは容易いけれど、それよりも待たせてはいけないと黒海の歩みも自ずと速まる。
 どこか愉しそうに向けられた手と視線に誘われるまま、水面へ貌を出した白亜の円柱のひとつへと腰を下ろし、にあと黒海は肩を並べた。
 零さぬようにと、大切に取り出した|月響珠《クランペルラ》を掌に包んだにあは、蛍の瞬きを眺めながら時折それを耳許へとあて、静謐な夜に染み入る荒波の聲へと聞き入った。
 その幼い横顔に浮かぶのは、仄かなれど確かな感傷の|彩《いろ》。また浮かんだ問いかけを黒海が唇に乗せようとしたそのとき、ちらと視線を向けた娘が柔く笑った。
「なんだか懐かしいんです」
「――懐かしい……?」
「ええ」
 水面に溶けながら淡く揺れるこの月の燦めきを、刻の流れを忘れるほどの間、ずっとずっと海底から見上げ続けてきた。
 その向こうに広がる、ひかり舞う外海。それは果てしなき凪の世界にも思えるけれど、いま耳許で鳴り響く波のように、荒々しい貴方の海に変わることもある。そう夜闇へと零すにあはどこか大人びていて、やっぱり不思議な人だ、とひとつ口端を綻ばせた黒海がゆるり月を仰いだ。
 ダンジョンの|主《ぬし》は、物言わぬまま|昊《そら》に在った。その輪郭までも朧にする月光を双眸に映せば、淡い白金が静かに視界を満たしていく。
(……彼女の語るように、海に浮かぶ月は、今目の前に在る月と同じくらいには美しいのだろうか)
 ほんとうを知らぬのは己ばかり。いつも裡にある記憶を、視界に浮かぶ幻を追うしかないこの引きこもりに、清らな盈月のひかりはすこしばかり眩い。
「ご存知ですか、黒海さん」
「え……?」
 三度目の問いかけは、花開くように静かに、そっと微笑みを添えて。
「わたしね、貴方とおんなじ景色をもっと見たいと思っているのよ。だから……いつか一緒に海にいきましょう?」
 だってきっと、幾つもに連なるこの世界ならば。貴方もわたしも知らない海が、この夜空とおなじくらい広がっているはず。
 そう云った娘の青い眸が、海の泡沫のように燦めいて。幾度となく誘ってくれる|理由《わけ》も、幸せそうに微笑む理由も、皆目分からぬままだけれど。
 “知らない海”――無邪気な誘いを紡ぐその響きが、裡を静かに震わせたから。
「ふふ、約束よ」
 こくりとちいさく頷く男へ、娘もまたひとつ、笑みを深めた。

懐音・るい

「へぇ、ダンジョンの最奥はこうなってるんだ」
 退廃的な幻想美を前に、懐音・るい(明葬筺・h07383)は誰宛てでもない言葉を夜に零した。
 かつては佳景を描いていたであろう白亜の神殿も、今はただ透いてもなお昏き泉に沈むばかり。その水面から貌を出す、過去の面影を残す朽ちた|大柱《おおばしら》だけが月光を浴びて眩くひかり、水に反射して鏤められた耀きのなかを、蛍たちが悠々と浮かぶように舞っている。
「こういうの、ダンジョンだからこそ見られる幻想的な光景だよねぇ」
 天気雨を“神の涙花”と尊ぶほどの信心深い村人たちのことだ。これがダンジョンという仮初めの場ではなく日常的に村にある神殿であったならば、今もなおその壮麗さを保っていただろう。
 まるであつらえたかのように泉を過る飛び石を伝い、一層深く夜に染む場所までわたってみる。
 耳に届く、微かな水音と虫の聲。呼吸するたびに肺腑を満たす澄んだ空気に、自然と心も解けるよう。
 足を留めて見下ろせば、水鏡に映る淡い白金のうえを、柔く夜風が通り過ぎていった。蛍たちがふわりと舞い上がり、ゆらぐ波紋へほろほろと星めくちいさなひかりを零してゆく光景に、るいの口許も微かに緩む。
 なにをするでもなく、ただ忘れ去られたこの景色を眸に留める。それだけで、不思議と心が満たされていく。
 そうして暫くしたら、るいはまた来た道を引き返した。岸辺から伸びた一本の白柱の断面に腰を下ろすと、荷物から取り出した飲み物で喉を潤しながら、さきほどまで居た場所へと視線を遣る。
「……ここから見るのも、印象が違っていいかも」
 間近でしか気づけない美しさもあれば、遠目から見て初めて知る良さもある。それは、触れることのできる古美術品も、決して届かぬあの星月も同じこと。
 今宵の邂逅は、とある初夏のささやかな出来事。
 けれどきっと、時折想い出しては心馳せる、良き記憶になるだろう。

花牟礼・まほろ
結・惟人

 ――ここ、壊れちゃったんだ……。
 傍らでぽつりと毀れた花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)の声に、結・惟人(桜竜・h06870)は柔く視線を向けた。
 まるで月へと縋るように、水底から伸びた幾本もの白亜の柱。天井を支えていたであろうそれらは既に役目を失い、途中から折れた躰はどれもが崩れかけていた。それでも、かろうじて残された華やかな装飾が、かつての壮麗な姿を彷彿とさせる。
「少し残念だけど、壊れたものが作る新しい景色もきれいだね」
「それに、朽ちていようとも、神殿は厳かな気持ちになる」
 元は聖域だったのだろうか。森も十分空気が澄んでいたけれど、ここは一段と純度が増しているようで、惟人は一度深く呼吸した。清らかな夜気に満たされながら、視界いっぱいに踊る蛍のひかりを静かに眺む。
「そうだ、まほろ。折角だから、中央に行って眺めてみないか?」
「中央に……? 賛成! 一番きれいなところを見に行こうっ」
 そうと決まれば、じっとしているのももったいない。「足元に気を付けて行こう」と添えながら、けれど惟人は足取り軽く飛び石をわたり始めた。跳ねるたびに夜に揺れるひかりがなんだか愉しくて、ふいに湧き上がる冒険心のままに先へとゆく。
(惟人くんすばやいっ)
 あっという間に泉の中央へと進むその背を、一瞬ぽかんとして見送ってしまったけれど。はたと気づいたまほろは、慌てて、けれど浮き足立ちながらその後を追いかけた。
 彼の歩調はどこか愉しげで、つられてまほろもリズミカルにとんとんと石をわたる。それでも、離されないようにするのが精一杯。アトラクションめいた動きは苦手ではないけれど、鍛えているから? 大人だから? そんな疑問がふと過る。
「あっ、まほろ……」
 知らずと夢中になっていた惟人は、あの溌剌とした声がないことに気づいて足を止めた。ついてきているだろうか。それとも先へ――? じんわりと逸る気持ちを抑えながら視線を巡らせれば、纏うかのように蛍のひかりに照らされた娘がひとり。
「惟人くーん! まほろはここだよー!」
 ぶんぶんと大きく揺れる手に静かに安堵すると、惟人も軽く手を振り返した。そのまま月明かりを頼りに傍まで飛び石をわたるまほろを、微笑みとともに出迎える。
「ふぅ、追いついた! ――わ……! やっぱりとってもきれい!」
「そうだな……より光に囲まれているみたいだ」
 なんて綺麗なのだろう、と心のままに声が毀れた。幻想的な月光とはまた違う、ちいさく儚くも確かなひかり。そのひとつひとつが命を宿しているからこそ、どこかあたたかさを感じるのだろう。
「こんなにたくさんの蛍が集まって、何してるんだろね。きれいな景色で嬉しいな、って話したりするのかな」
「あぁ、そんなふうに話しているかもな」
「なら、まほろたちと一緒だね!」
 白金のひかりを浴びながら、くるくると踊るように燦めく光片と戯れる娘が、そう笑み声を立てるから。その素敵な想像力に和みながら、惟人も柔く眦を緩める。
「……ここに来れて良かった」

 ――気の済むまで眺めていこう。
 ――うん。思う存分、心にしまっておこ!

 今宵、一夜限りの名もなき宴は、まだ始まったばかり。

鬼灯・睡蓮
鬼城・橙香

 恐らく階段だったのであろう、大半が水底へと崩れ落ちた石段の頂に座り、濃藍色の昊を仰ぐ。
 眠気を孕んだ眼差しに映すのは、物言わぬ夜の王。淡い月光を浴びながら、鬼灯・睡蓮(人間災厄「白昼夢」の護霊「カダス」・h07498)は鬼城・橙香(青にして橙火・h06413)と肩を並べる。
「これが大元のようですね……神秘的です」
「ふにゅん……攻撃もせずに願いを聞き届ける月、ですか……」
「どうします? 闘いますか?」
「攻撃してこないなら、僕も攻撃することはしないのです……。今は、この神秘的な景色を楽しむとしましょう……」
 思い出は多い方が良いと思うから、と添えながらも、いまにもこてりと寝落ちてしまいそうな少年の横顔に、橙香は柔く双眸を細めた。弧を描いた唇で、囁くような声音で賛同する。
「ええ。時間はありますしゆっくりしますか」
 闘わずにすむのなら、それに超したことはない。なにより、睡蓮がそれを望んでいるのだ。ならば、このひとときを緩りと愉しむのが最良だろう。
 橙香は荷物から飲み物を取り出すと、ふたつのカップにゆっくりと注ぐ。そのひとつを落とさぬようにと睡蓮に持たせてから、自分もそうっとカップに口をつけた。
 優しく吹き抜けた風が頬を撫で、ふたりの長い髪が夜に靡く。水辺には、ちかちかと星のように瞬く蛍のひかり。そして天上には、耿々と燦めきながら静かに佇む、大輪の月の花。
「この景色も、夢に見れるように憶えておくとしましょう……」
 僕の“夢”に反映できるよう、確りと。
「もちろん、一緒に来てくれているみんなのことも憶えておくですよ……改めて、一緒に来てくださって、ありがとうなのです……ぐぅ……」
「わたしの方こそ、ありがとうございます。お陰で、素敵な想い出ができました」
 だからこそ、橙香は願う。
 この月が願いごとを叶えてくれると云うならば、託す祈りはただひとつ。
「ん……橙香さんは、なにかお願いしますか……? ふにゅ……」
「やはり、皆の平穏と幸せですね。一番大事ですし」
 そう目許に慈しみを滲ませながら答えれば、睡蓮もまた、微睡む双眸をふわりと細めた。

 そうして睡蓮は、あちらへ、こちらへ。
 ふと思い立つまま、足取りも漫ろに夜の水辺を巡る。
 方向感覚の|扶《たす》けもなく、うろうろ、ふよふよ。あわや泉へと落ちそうになったところで橙香がその手を掴んで引き寄せれば、睡蓮のちいさな躰を豊かな胸元が柔く受け止める。
「睡蓮くん、そっちは危ないですよ」
「んみゅ……ありがとう、ございます……」

 人々の願いへ呼応するかのように、朧に揺らめく月あかり。
 睡魔を帯びた睡蓮を抱えた橙香は、その淡き道筋がゆっくりと消えゆく様を、静かに見届けていた。

清緑・色
セイシィス・リィーア

 ――じゃあ、またあとで。
 神殿を巡る仲間たちと分かれた清緑・色(清き緑の龍・h06856)は、溢れる胸を柔く弾ませながら手を振っていたセイシィス・リィーア(橙にして琥珀・h06219)へ、きょとりとひとつ瞬いた。
「セイシィスさんは、神殿を歩いて回らないのです……?」
「うん。討伐の必要がないなら、色くんと蛍鑑賞でいいかな~」
「それならご一緒しますか……?」
 ふわりと笑う色につられて、セイシィスもまた口許を緩めて。ふたり並んですぐそばの|畔《ほとり》で佇むと、ちいさなひかりを泉へと映す蛍の群れへと眸を細める。
「あ、蛍だね~」
「はい。幻想的な場所です……ここものんびりできそうですね……」
 静謐なる夜の世界にどこまでも透いた耀きを滲ませる満月と、その白金に包まれながら、淡い緑を帯びるあたたかなひかりの軌跡を描く蛍たち。
「そうだ……小型の携帯クッションで良ければ、使いますか……?」
「え? 貸してくれるの?」
「はい。これひとつしかありませんが……」
「それじゃ、色くんはここだね~」
 早速クッションへと腰を下ろしたセイシィスが、ぽんぽん、と誘うように膝を叩くから。色もちょこんとそこへ座ると、昼間に続きふたたびずっしりたわわな膨らみを頭に乗せながら、その雪女ならではのひんやり体温にほわりと心を解いてゆく。
「ふふ。かき氷を食べて、月響珠も拾って、蛍鑑賞もしてまったりだね~」
 のんびりとした空気を孕む色がなんだか愛らしくて、思わず弾力のある太腿と胸でがっちりホールドしながらぎゅっと抱きしめれば、「わっ……」とちいさな声が漏れた。包み込むような柔らかな感じは違う意味でも気持ち良くて、燦めく蛍のひかりよりも意識が向いてしまう。
「ん~。夜風も気持ちいいね~」
「はい……」
 ――この柔らかさは、やみつきになってしまいそうです……。
 そうちいさく零れた声は、水面に波紋を描きながら清かに吹き抜けていった風へと、淡く静かに溶けていった。

リュドミーラ・ドラグノフ
ルスラン・ドラグノフ

 森の木々を抜けた先、ぽっかりとあいた夜空から降り注ぐひかりへと、リュドミーラ・ドラグノフ(Людмила Драгунова.・h02800)は反射的に貌を上げた。
「そこにいるのは、月? ――、あたしを殺しにきたの?」
 月光を映して燦めく泉も、そこに半身を水没させた忘れ去られた神殿も、眩く舞い踊る蛍のひかりさえその眸には映らない。あるのはただ、怯えと困惑の色ばかり。掠れた声を震わせながら、強張る躰をそれでも動かし、一歩前へと出る。
「敵なの? 殺さなきゃ!」
 凍てつく声に、本物の殺意が混じる。普段の明るさなど欠片もなく、まるで何かに取り憑かれたようなその表情に気づいたルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)が、焦りを露わに駆けつける。
「リューダ!」
 穏やかな彼らしからぬ声を上げて妹の両肩を強く掴むと、そのまま躰を反転させ、白月の幻主への視線を強引に逸らした。青石英のような双眸に憂いを滲ませ、リュドミーラを覗き込む。
「……あれば月じゃないよ。月に似てるけど違うものなんだ」
 大丈夫、大丈夫――。
 そう囁くように繰り返しながら、華奢なその背をゆっくりと撫でる。抱きしめた肩からすこしずつ力が抜けていくのを感じたルスランは、静かに背へと回していた腕を解いてもう一度妹の貌を伺った。
「月のような何か、で何もしないのね? ふう……わかったわ! びっくりさせないでちょうだい!」
 やっと戻ってきた、いつもの声音。顔色はまだ優れないけれど、それでも笑顔を見せるリュドミーラへ、ルスランも柔く微笑む。
「……良かった。ほら、リューダ。あれを見て? 蛍が飛んでる」
「あ……気づかなかったわ。こんなにいたのね」
「せっかくここまで来たんだから、ちゃんと見ないと損だぞ」
 云って、背を向けたまま岸辺の石段へと腰を下ろせば、リュドミーラも倣って隣に座った。
 泉のうえで、金色の息吹を残して踊る、いくつもの。月の光に混じることのない、儚くも確かな命の光。ひとつ、ふたつ、きらきら、ふわり。ぶらぶらと脚を揺らしながら、ちいさなひかりで流麗な軌跡を描く蛍の姿を唯々眺めるその姿に、ようやく一息ついたルスランは心中で独りごちる。
(あのデカブツ、早く消えてくれないかな)
 妹がこの風景に見入っている間に、早く――。そうじわりと急いてしまう意識が、傍らから毀れた声に引き戻される。
「これだけほのかな光では、写真は無理そうね」
「――んー……、やはり生体を撮るのは苦手だ」
 試しにカメラのファインダー越しに眺めてみるも、ルスランはすぐに手を下ろした。嘆息交じりに、薄く笑う。
「お前さぁ。蛍がキラキラしてるからって、『集めて家で飼う~!』とか言い出すなよ?」
「なっ――!」
 思わず弾けるように隣へと貌を向けたリュドミーラは、けれどすぐに唇を噤んだ。
 茶化すような言葉も、声も、わざとだと――自分のためだと、気づいているから。ここでしか生きられぬ淡い命ならば、双眸に映したこの光景を裡にそうっとしまって、優しく寄り添ってくれるぬくもりへと身を寄せる。
「……大丈夫。僕はいつでも、お前の味方だよ」
「うん。ありがとう……期待してるわ」

 星のひかりのように、蛍の燦めきがほろほろと毀れてゆく。
 その静謐なひとときへと触れるように、一条の夜風が柔く吹き抜けていった。

アニス・ルヴェリエ

 濃紺の世界を柔く灯す、月明かり。それを浴びた泉は眩い燦めきを鏤めて、夜風が水面をわたるたびに光のヴェールを靡かせている。鼻先に届く水の匂いに混じる、静謐な夜の気配。どこまでも清涼な空気に、アニス・ルヴェリエ(夢見る調香師・h01122)はほうっと息を零した。
「ここもダンジョン……とても神秘的な場所ね」
 抗う術を持たぬ人々ならば、なにかに願いを託さずにはいられないだろう。それが昏き夜空にひかりを灯す星月ならば尚のこと、魅せられずにはいられまい。
 そしてアニスもまた、あなたは今まで、どれだけの願いを受け止めてきたの? と。声なき主へとそっと問いかける。
 泉へと視線を遣れば、半分ほど水没した白亜の神殿の、ちょうど失き屋根を支えていたであろう石柱が飛び石のように並んでいた。それを足場にひとたび歩くと、舞いながらついてくる蛍たち。ちいさなひかりを纏いながら、アニスは遺跡と水辺をのんびりと辿ってゆく。
 視線を巡らせ、一等の景色をみつけたら、大理石へと腰を下ろしてスケッチブックを広げた。
 調香はイメージから生まれることもある。ならば、と佳景を白い紙面に残した娘は、大事にそれを抱えながら再び足取り軽やかに石をわたり始める。
(月夜の蛍……水辺を思わせる清涼な香りに、月夜をイメージしたオリエンタルを入れてもいいかも)
 まるで、今宵のこの彩を、大気を、想い出させてくれるような。
 訪れたことのないひとにも、この風景が浮かぶような――そんな香り。
 泉の中央で足を止めると、アニスはもう一度、深く呼吸する。
「本当に幻想的……。リュースエルヴ……来れて良かったわ」
 囁くように零しながら、そっと胸に手を当てる。

 露花氷、月響珠、そして夜に灯るひかりたち。
 この裡に宿った、たくさんのひらめきの欠片はきっと、いつまでも此処に在り続けるだろう。

ソフィア・テレーゼ
ネリー・トロイメライ
ラデュレ・ディア
ミューレン・ラダー

「あれ、ラーレちゃんだ!」
 まあるく見開いたひだまり色の眸で、一番乗りでその姿を見つけたミューレン・ラダー(ご機嫌日和・h07427)は、ここだよ! と云わんばかりにぴょん、と元気にひとつ跳ねた。
「――わあ、みなさま……! こちらに来ていらしていたのですね」
「ラーレちゃん、こんばんは。ソフィアちゃんもまたご一緒できて嬉しいわ」
 ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)と並んで手を振るソフィア・テレーゼ(J-WL-P161164・h00112)。道中見つけた|月響珠《クランペルラ》をそうっとポケットから取り出せば、喜びを滲ませふたりを出迎えたネリー・トロイメライ(|音彩を綴る者《メロディテラー》・h07666)も、一層深く微笑んだ。
 先に神殿を訪れていたふたりに巡り会えるなんて、これもかみさまの奇跡? ――ううん、4人の絆のちから。「もしよければ、ご一緒をさせてくださいませ」というラデュレのお願いを、断る理由なんてひとつもない。
「会えて良かった、4人で行こ!」
「ええ。みんなで夜のお出かけね!」
 街灯もなにもない夜の森。だけど、淡く白金のひかりを注ぐお月さまと、どこまでも自由に舞うたくさんの蛍たちがいてくれるから。夜風の生む波紋が、燦めきを鏤めながら次々に花咲くような模様を描いていく様に、誰しも言葉を忘れたまま見入ってしまう。
「神秘的な空間、ですね」
「どんな神殿だったんでしょう……昔の姿も見てみたかったわ」
 ラデュレへと頷きながら、ラデュレは視線を泉へと落とした。薄らと月光が映す水底には、もう忘れ去られてしまった神殿が静かに眠りについている。
「当時の姿を想像することは叶いませんが……とても荘厳で、うつくしい場所だったのでしょうか」
「かつてはもっと壮大で、歴史のある神殿だったのかもしれませんね。……今となっては分かりかねますが」
 ラデュレの問いに、ソフィアが返す。由来を知るものも居ないだろう。それでも不思議と見つめていたくなるのは、あたりに満ちる静謐で神聖な大気故だろうか。
「皆と一緒に居る公園の『元バス』も廃墟な感じはあるけど、ここはとっても静かだから、余計に神秘性が増すのかも」
 そんなソフィアの横顔に気づいたミューレンが、馴染みの景色と今を重ねて呟いた。
 普通のひとは近寄らなくなってしまったあの場所は、けれど今は皆がいるから長閑で幸せに満ちている。誰かの笑い声が、弾む会話が今にも耳に蘇る。
「確かに、廃バスとはまた違った趣がありますね」
「そうね。いつものバスとはまた違う雰囲気よね。どちらも素敵で、どちらも好きよ」
 ふわり微笑むソフィアに続き、ネリーもこくりと頷いた。どんな心惹かれる場所も、きっと誰と過ごすかでずっともっと素敵な場所になる。
 だから――さっきからミューレンの尻尾がそわそわ、ゆらゆらしているのも当然のこと。
「ミュー的には探検したくなっちゃう……!」
「それなら、せっかくですから泉の中央に行ってみましょうか?」
 そう窺うようにソフィアが小首を傾げて視線を向ければ、仲間たちからは歓喜の声が湧き上がる。
「いいね!」
「ネリーも賛成!」
「わたくしも気になります……! どのような景色が待っているのでしょう……?
 勢いのままに再び歩き始めた皆へと続き、ラデュレも浮き足立つ心地で肩を並べた。すぐに見えてきた飛び石へとミューレンが駆け寄ると、とんとん、と爪先で足場を確認する。
「水は気持ち良さそうだけど、深さは分からないしね。落ちないように、皆でお互い気をつけ合って進んで行こ」
「そうですね。蛍がいるということは、綺麗なお水でしょうけれど……皆様も足許にはお気をつけて」
「さすがに、今度は手を繋ぐと引っ張りあいっこになってしまいそうね。そうっと、気をつけて行きましょう」
 ソフィアへと頷きながら、そう云ってネリーが隣のラデュレへと視線を移す。直接は繋げなくても、まわりにみんながいてくれるから。心で手を繋いでいるような心地で、ネリーも仲間たちの後に続いた。
 とんとんと軽やかに。
 ひとつずつ慎重に。
 皆それぞれの歩調で泉の真ん中まで進むと、先頭のミューレンがふと脚を止めた。
「わ……! ミューが見たかった蛍がこれだね!」
「え……? あ、本当ですね。そのまま見るのもきれいですが、水面に映った蛍もきれいなものですね……」
 落ちぬようにと足許ばかりを気にしていたソフィアが、その声に貌を上げた。良い学びです、と添えて浮かべた微笑みに、ラデュレも淡く唇を綻ばせる。
「これが、蛍たちの輝き……ひとつひとつが繊細で、綺麗なのですね」
 儚い命が灯す、ちいさなひかり。だからこそ尊く、眩く、これほどまでに心を惹きつけるのだろう。
「光が踊るって、こういうことを言うのかしら。……とっても、とっても綺麗」
 弾む足取りで石を辿っていたネリーも、舞い上がる蛍を追うように空を仰ぐ。
 天蓋から淡く夜に染むように降る月あかりのなかを行き交う、幾つもの星めく耀き。夜闇に描かれる流麗な残光が、そうっと閉じた瞼の裏に蘇る。
「こんなにたくさん飛んでるなら、少しだけ連れ帰りたい気持ちもあるけど……それも無粋かにゃー。人工的な光がないからこそって感じだし」
「そうですね。連れ帰ることはできませんが、しっかり目に焼きつけて帰りましょう」
「ええ。このひとときを、しかとこの眼に」
 残念そうながらも明るく笑うミューレンに、ソフィアとラデュレも静かに頷き、「みんなで来られて、よかったわ」とネリーが泉を見つめる眦を緩ませながら想いを口にした。
「目を閉じたら、明日も明後日も、ずうっと思い出せそうだもの!」
 その言葉は、今度は仲間たちへと視線を向けて。
「はい。初めてのお出かけ、とても楽しかったです」
「わたくしも、みなさまと拝見することができてよかったのです」
 ネリーに続き、ソフィアも、ラデュレも。そう、どこまでも嬉しそうに咲ったから。ミューレンもたまらなく嬉しくて、一層笑みを深めて頷いた。

 この彩を、景色を、しっかりと心に刻んでいこう。
 そうしていつか、あとから想い出して、愉しかったねって。
 ――仲間たちとまた、お土産話に花を咲かせるのだ。

緇・カナト
史記守・陽
茶治・レモン

 √ウォーゾーン、√マスクドヒーロ、そして√EDEN――。
 似ているようで異なる次元が重なる世界に生まれた大鍋堂の3人は、けれど、度合いの差はあれども揃って驚きを露わにした。
「これが蛍……! 僕、初めて見ました。こんなにも幻想的で不思議な光なんですね」
 冬のイルミネーションよりも儚く、けれど満天の星々よりも確かな蛍のひかりを前に、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は思わず駆け出した。その後を追いながら、史記守・陽(黎明・h04400)と緇・カナト(hellhound・h02325)も感嘆を洩らす。
「俺も蛍は初めて見た」
「蛍って絶滅危惧種……? あんまり地元の地域でも見られなくなってたような気はしたなぁ」
「絶滅危惧種なんですか!? 危惧ってことは、まだここ以外でも見られるんですか!?」
 一層|眼《まなこ》を見開くレモンに、陽も嗚呼と合点する。
「その様子だと、√ウォーゾーンでは残っていないようですね」
「はい……すくなくとも僕が住んでた地域では、死滅したと聞いてます。緑とか自然とか、縁遠い√なので……」
「俺は√EDENの東京出身なので、蛍なんて遠い存在で……それこそ概念のような存在だと思っていました」
 だからこそ、それが目の前にあって、ほんとうに眩いひかりを灯していて。それがなんだかとても不思議で美しいと思います、と陽が柔く眼を細める。

 泉の畔にある、朽ちた神殿の一部――数歩ばかりあがった石段へと昇り、3人並んで腰を下ろせば、柔く吹き抜けた風がひんやりと頬に触れた。大気が水面を優しく撫でて、月あかりを鏤めながら、幾つもの波紋が大輪の花を描いてゆく。
「俺たち、生まれた世界も職業もまったく違うのに、今こうして一緒にいるんですよね……。ひとつ何かが違えば絶対繋がっていなかったことを思うと、偶然の力って凄いんだなって感じます」
「確かに……今ってきっと、偶然と偶然の重なり合いで在るんですよね」
 幾つもの√が重なって、この世界が成り立っているように。
 無限の選択肢のなかから、それぞれが選んだ道が今、この場所に繋がっている。その奇跡は、どれほどの尊さだろう。
「オレ√マスクドヒーロー出身だけど、脱走怪人……お尋ね者だから、そんなに帰る機会もないし」
「カナトさん……」
「その後は旅人みたいにしてた事もあるけれど……目的あってもなくても、うつくしいと思える景色は色々あるし、共に見る相手も含めたらその光景は一度きり……なぁんて」
 あまりにもこの景色が――皆と眺める世界が眩くて。
 ついそんな気分に浸りながら口をついて出た言葉がどこか気恥ずかしくて、カナトはへらりと笑った。
 それでも、この気持ちは嘘偽りでは決してない。
「偶然でも巡り合わせって、善きモノだとは想うよぅ」
「あ、そういえばカナトさんお尋ね者……なんですね? ちょっと署で詳しくお話を聞きましょうか」
「え!?!? シキ君、本気!?」
「いえ、冗談ですよ」
「あ! 良かったら何か飲みますか?」
 あわやお尋ね者とお巡りさんが遭遇する、まさかの展開に――!? なんて危惧もすぐに消し飛んだレモンは、笑い合うふたりへと便利な魔法バッグを掲げてみせる。
「折角ですし、皆さんと飲もうと思って色々入れて参りました」
「わぁい、レモン君の魔法バッグが便利~」
「そういうのも、√EDENでは絶対見られなかった謎技術ですよね……」
 こんなにも摩訶不思議なアイテムがまかり通ってしまっていては、さぞや各√の警察官も対応が難儀するだろう。だからこその|警視庁異能捜査官《カミガリ》との協力体制なのだと、改めて実感しながら、陽は興味津々にレモンの手許を見た。
「種類はどんなものがあるんですか?」
「えっと……お汁粉とコーンスープ、あとお味噌汁です。缶タイプなので飲みやすいですよ」
「なんとも渋めな飲み物チョイス……!」
「中々レモンさんのセンスが尖っていますが、美味しいのは間違いなさそう」
 甘いもの、クリーミーなもの、そして適度な塩気。
 レモンが両手で器用に持って見せた缶は、味はそれぞれながら、どれもほっこりとできるハートフルなラインナップだ。
「塩っぱいのが好きだから味噌汁が良いかなぁ……」
「じゃあ僕はー……お汁粉!」
「シキ君は何にする?」
「あ、俺はコーンスープか味噌汁の余った方をいただきますね」
「なら、オレがコーンスープにするから、交換しようよ~」

 そうして始まる、ちいさなお茶――ならぬスープパーティーを彩るのは、変わらず視界を潤してくれる蛍の舞と、水辺に映る月あかり。
「人生初の蛍、おふたりと見られて良かった」
 そうっと、大切に紡ぐ言葉。
「おふたりにとっても、蛍が特別なものと知れて嬉しいですし……おふたりのルーツなんかも知れましたね!」
「あぁ、カナトさんがお尋ね者――」
「シキ君!?」
「ふふ、冗談ですよ」
 その柔らかな笑み声に重なって。
 仲間たちの笑顔が、一夜のひとときに染みてゆく。

シュネー・リースリング

「なんだ……あれがここの“ボス”?」
 聞いてはいたけれど、実物を目の当たりにしたシュネー・リースリング(受付の可愛いお姉さん・h06135)は、どこか呆れすら孕んだ声でそう零した。
 いくら幻想的なロケーションでも、ここは紛うことなくダンジョンの最奥。ならば、そこを根城にするモンスターはどれほどに凶悪かと思いきや、生きているかも疑わしい“天体ショー”とは。
「これは……さすがに撃破は難儀しそうだわ」
 |S.A.T.O.M.O.R.I.《遺跡侵略モンスターへの特別強襲部隊》の一員である以上、敵の存在が認知されているのならば見過ごすことはできない。が、条件さえ揃えば発生しうる“現象”のような存在が相手となっては、手も出しづらい。
「それだけに、消滅条件も|簡潔《シンプル》みたいだし……まぁ、荘厳な聖域で喧騒も野暮ね」
 云いながら、眉尻を下げてひとつ嘆息すると、シュネーはぶらりと歩き出した。撃退しようと思えば、いつでも――無粋な戦闘音を立てることもなく――できるのだ。ならば、今暫く蛍を愉しんでも問題はあるまい。
 左手に泉を眺めながら、縁取るように水辺を辿る。
 時折、ふわりと頬を撫でてゆく夜風に、口許も知らずと淡く緩んだ。幾重もの光の波紋が水面を飾り、飛び交う蛍たちがそのうえに細く燦めく軌跡を描く様を、紫の双眸に焼きつける。
 蛍であれば、毎年|あの公園《S.A.T.O.M.O.R.I.》で眺めているけれど、こういう場所で見るのもまた、違った趣があって良いものだ。
 ――けれど。
「いい雰囲気だけど、わたしに『月が綺麗ですね』って言ってくれる人はいないのよねー」
 はぁ、と。
 独りごちたシュネーの唇からもうひとつ、やり場のない溜息が毀れるのだった。

エストレィラ・コンフェイト
一文字・伽藍

 森を抜けた先に広がる絶景に、一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)とエストレィラ・コンフェイト(きらきら星・h01493)はそろえて感嘆の息を零した。
 視界いっぱいに広がる泉は月影を浴びて宝石のような燦めきを鏤め、そのうえをちいさくも確かな蛍のひかりが舞うように踊る。水底から伸びる白亜の大柱は群れをなし、半ばで折れながらもなお悠然と夜に佇んでいる。
「超満月。あれがボスかァ」
「ほう、あれが『超満月』! と、やらか」
 なるほど、これほどまでに本物に近しい見目ならば、一般人では到底見分けはつかないだろう。心中でひとつ得心した伽藍は、月を仰ぎ続けるエストレィラへと軽く微笑む。
「そ。闘う必要なさそうだし、のんびり蛍見よっか」
「うむ、大人しいものよなぁ。これならのんびりできるだろう。蛍観賞とさせていただこう」
 星詠みの話ならば、ささやかな願いを叶える力を持つ程度で、直接的な攻撃手段はないようだ。ならばと気持ちを遊びに全力で傾けたふたりは、水辺から貌を出していた石段へと昇る。
「オッケーおばあちゃん、暫し待たれよ」
「座らないのか? 伽藍ちゃん」
「そのまま座ったらお着物汚れちゃうでしょ、白いんだから」

 ――は~い一緒に『|【念動力】《ポルターガイスト》』~。

 指先をくるりと回せば、忽ちふわりと宙に浮くふたりの躰。
「……おぉ、やはり伽藍ちゃんは器用だな。可愛くて器用で気遣いもできるなんて、最早天才と言えよう」
「そんなに褒めても、クイックシルバーしか出ないぞ♡」
 ありがとう、と添えるエストレィラへは、得意気な笑みを返して。ふわふわ心地良く浮かびながら、伽藍はごろりと寝転んだ。
「実際に蛍見るの初めて。こんなに光ってんだね」
 清らかな水辺でしか生きられない、ちいさな命。
 たとえ戦禍に巻き込まれていない世界だとて、街中で暮らす者ならば、そうした自然が残る場所を見つけるのは容易いことではないだろう。静謐なる夜気と、清涼な水の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、エストレィラも満足げに柔く微笑む。
「うむ、美しいな」
「観光地とかのライトアップも良いけど、こうゆうのも好き。満月を背景に蛍が飛んでるの、めっちゃ綺麗」
「わたくしも、斯様な光景は好きだ。儚くも、幻想的で……僅かばかりの煌めきであろうと、命は美しい」
 ちいさく頷きながら、そっと視線を前へと戻す。
 その長短に関わらず、失われてしまうときは一瞬であることをエストレィラは識っていた。今この夜空に浮かぶ星々でさえ、誰に知られることなく今日にも消えてしまうものもある。
 だからこそ、燦めいて見えるのだろう。
「……イマドキ風に言うと“えもい”というやつだな?」
「そそ。……ところでおばあちゃん」
「む?」
「頭に蛍止まっておられる」
「おぉ。どうしたどうした。わたくしに愛でられにきたのか?」
 月明かりに蕩ける艶やかな銀糸に誘われたのか、寄り添うように頭部で佇む淡いひかり。
 見えないながらもそうっと。触れてしまわぬようにしながら、撫でるかのように手を近づけてみる。
「あ、なんか点滅してるよ。Yes! ってことかな?」
「くふふ、愛い奴め」

 ではおまえさまを、一等愛でてやろうではないか。
 そう云いながら金の双眸を細めるエストレィラに、伽藍も今宵一番の笑みを返すのだった。

空廼・皓
白椛・氷菜

 森の奥に、その清かなる泉と白亜の神殿は静かに在った。
 朽ちながらもなお誇らしく、夜を背負う白き姿。
月のひかりに濡れながら浮かびあがる崩れた柱の群れは、儚くも美しい緩やかな影を水面へと落とし、
あたりに集う蛍のひかりが、まるで過ぎ去った祈りの残響のように夜闇を舞う。
「わ……凄い。擬態の森だけど、素敵な雰囲気……」
「そっか。ここはダンジョンなんだっけ……」
 天を仰ぎながら視線を下ろした白椛・氷菜(雪涙・h04711)へと、空廼・皓(春の歌・h04840)がぱちりとひとつ瞬いた。
「蛍が居るなら、水も綺麗なままなのね」
「きれいな泉のあるダンジョン……ちょっとだいぶ、不思議……」
 外と繋がっているというだけでも珍しいのに、モンスターが巣くうダンジョンが綺麗だなんて。ここにもきっと、素敵なことが溢れているはず。氷菜の言葉にこくこくと頷きながら、皓の尻尾がご機嫌に揺れる。
 ふたりは泉の周辺をぐるりと巡ると、浅瀬に残る大理石の床を見つけてぱしゃりと脚を踏み入れてみた。街灯なぞはひとつもないけれど、視界を灯してくれる夜の王へと一度視線を上げた氷菜は、ありがとう、とちいさく囁いて。晧と並びながら、蛍舞う神殿を奥へと進んでゆく。
「こういう遺跡みたいのは、わくわくするわね」
「だよね。ほんと不思議なダンジョン」
 ダンジョンに住まう人々がいたのだろうか。
 それとも、天上界の遺産が、誰かの願いを写し取ったのだろうか。
 建てられた目的も、祀られていた神さえも知らぬまま、残された記憶を辿るように、皓は柱に触れてみてはあちらこちらへと視線を巡らす。
「氷菜、こっちから見るのもおもしろい」
 半壊した大理石の大階段を見つけて軽やかに途中まで昇った皓が、一面の笑みとともに振り返って手を差し出した。その愉しげな様子に眉尻を僅かに下げながら、氷菜もその掌へと己のそれを重ねれば、連れ添うように幾つもの蛍のひかりがふたりを包む。
 その一瞬、ぴくりと動いた娘の指先に、青年の金の双眸が僅かに見開く。
「大丈夫?」
「……まあ、その……蛍は見ている分には大丈夫、触れなければ」
「捕まえたら光らなそう、だし。かわいそう、じゃない?」
「捕まえるわけじゃなくて……虫類、割と苦手なの」
「ほわ……そうだった、のか」
 氷菜の新たな一面に、こてりと不思議そうに皓が小首を傾げるものだから。ふと視界に入ったひかりへと視線を向けると、氷菜は細い指先をそちらへ向けた。
「あの泉のところも気になるわよね」
 水面を横切るように連なる飛び石。その中央まで渡っていけばまた、別の素敵な景色があるような気がして。
「あそこから空を見上げるのも良さそう」
「見上げるのもいいけど、見下ろすのも、だよ。月? と一緒に湖面に映って、きっときれい」
 王たる風情を帯びながら夜に佇むあのひかりを、果たして月と呼んで良いものか。そんな疑問に首を傾げながら、晧は大きく一歩を踏み出した。「勿論、泉もよ」と添えた氷菜も、尾を揺らしながら軽やかに飛び石をわたり始めるその背を追う。
 ひとつ石を移るたびに、振り返って。笑顔と視線をくれる晧と一緒ならば、どこへ行くのだって怖くはない。
「ほうほう。俺と氷菜も映ってる」
「ここからだと、空にも水面にも星が煌いて……夜空のなかに居るみたい」
「うんうん。上も下もとってもきれい。氷菜、すごい発見」

 月影を浴びて、水面に映る影ふたつ。

「……此処じゃなくても、来年もまた観ようね」
「そう、だね。ここはダンジョンだから……また一緒に、探しに行こ」
 それは氷菜と皓の、今宵生まれた新しい約束。

空沢・黒曜

 梢の合間から見える眩さへと惹かれるように脚を向けた先、漸く見えた天蓋と、その袂に広がる風景へと双眸を細めた。
 夜闇になおも白き、朽ちた神殿。水面から幾つも貌を出した大柱はどれも半ばで折れているけれど、哀愁を纏いながらもどこかあたたかさもあるのは、周囲を飛び交う蛍のひかりのお陰だろう。
「森の奥には、忘れられたような遺跡……そしてあれが、」
 云って、空沢・黒曜(輪る平坦な現在・h00050)は視線を上げる。導となった光の源たる満月は、意識してその気配を探るも特に物騒な力を使ってくる様子はない。ならば、と結論づけると、黒曜は水辺に沿って歩き始めた。ここが戦場でないと云うならば、今ひとときこの風情をゆるりと愉しむのも良いだろう。
 間近で見れば、大理石の柱ひとつひとつには壮麗な装飾が施されていた。一目見ればわかるその職人技に感嘆を零しながら、今度は泉の飛び石をわたってゆく。淡いながらも月あかりを頼りに一歩一歩進むたび、足場にした石の周囲に波紋が生まれ、花咲くように月の耀きが四方へと広がった。
 中央あたりで崩れかけた石階段を見つけると、数段昇った頂で腰を下ろす。放り出した脚のすぐ下にある水辺を、心地良い涼を孕んだ夜風が吹き抜けていき、連れ添うように蛍たちも舞い上がる。
「……どんな過去があった遺跡でも、飛び回る蛍には関係ないよね」
 崇められていた神の善悪や、その歴史。それは確かに人々にとっては意味のあるものだったろうけれど、今はただ、儚い命たちの住処に他ならない。
 その細くひかりをたなびかせるちいさな燦めきがどこか亡き人々の魂のように見えて、黒曜は僅かに瞼を伏せた。白き大理石の残骸という墓標に留まり続ける、命のひかり。それを見送るように、そっと心を寄せる。

 それを包む、淡い月光。
 願うならば――もうすこしだけ、空に留まっていて。

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

 白く眩い神殿が、泉にひそりと半身を沈めていた。
 水面には月と蛍とが混ざり合ったひかりの紗が漂い、波紋とともに踊る。そのひとつひとつが、まるで大切な想い出がふと裡に浮かび上がるかのように夜の世界を飾り、時折靡く風が、淡い細波を響かせてゆく。
「昼間の熱が嘘のようだなあ」
「不思議ですね……暑さも、こころも、凪いでいくみたいだ」
 その声音の端さえ、そっと夜に溶けていくようで、スス・アクタ(黑狐・h00710)は続く言葉を辿々しく探した。
「ええと……最後にちょっとした孝行ということで。乗せていきましょうか」
「構わぬというに、義理堅いのうお前は。……まあ良い」
 なれば偶には甘えるとしようかの、と微笑むツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は、親しさを滲ませながらもどこか手の届かない場所に居るようで。大黑狐に転じたススは|和《にこ》やかなその|容《かんばせ》を一瞥すると、どうぞ、と云うかのように四つ足を屈めた。
「振り落とされないでくださいね」
「ははは、手が滑れば分からぬぞ?」
 たん、と軽やかに水辺へと飛び出した幼き子の背のうえで、えもいわれぬ浮遊感にツェイの口端も淡く緩んだ。手触りの良い黒く艶やかな毛を優しく撫でながら、己が脚でもなく、浮遊するでもなく、愛い子に身を預けて運んでもらうのも中々に良いものだ。
 そんな裡を知ってか知らずか、片やススはツェイを落とさぬようにと慎重に、朽ちているとはいえまだ丈夫そうな足場を選んでは、ひらりと跳躍を重ねていく。そうして、最初に目星をつけていた場所――幾つかの大きな石材の向こうにある、大理石の大階段へと辿り着くと、再びそっと腰を落とした。
「到着かの」
「……こんな場所も、あるんですね」
「嗚呼、そうさなあ……」
 云いながら、伏せたままの大黑狐に背を預け、水鏡へと映る月へと視線を遣った。
 水面へと静かに溶けてゆく、数多のひかり。
 まるで同じ彩に染まるような、月の燦めきと蛍の命。
「……世界は広く、ひとつですらない。お前はお前の望むまま、何処へでも行けるのだぞ」
 穏やかに響く声に、けれどススは不満の滲む視線を返した。
(またこれだ。……いっそ、突き落としたら分かってくれるだろうか)
「ん? どうした、その眼は」
(……無理だろうなあ)
 気づいていないのか、それとも気づいているのに躱されているのか。どちらにせよ、手を伸ばせばするりと逃げられてしまいそうなツェイの|気配《けわい》に、ひそりと落胆の吐息が漏れる。
 倣って視線を向ければ、ゆらゆらと朧で、決して触れることの叶わぬ白い月がどこか傍らのひとと良く似ていたものだから。ススは足許のちいさな瓦礫を蹴り上げ、無数の波紋でそのひかりを崩してやる。
「これ、悪戯するでない」
「悪戯じゃないです抗議です」
(すこしくらい望まれたい、なんて願うのは、一人前になんて程遠いおれには我侭だろうか)
 大きな月。見てるなら叶えてくれないかな――そう切望する横顔を一瞥したツェイは、もう一度月華を仰ぐ。

 幾ら愛い子とはいえ、あまり長く手許に留めおいては、要らぬ望みで縛ってしまいかねぬ。
 だから、ただ――この子が、いつまでも自由に、心のままに駆けていられるように。
 そう裡で囁く男の心を映すかのように、淡く青い煙角が夜風にそっと揺れた。

廻里・りり
ベルナデッタ・ドラクロワ

 泉に半身を落としながら佇む白亜の神殿を前に、廻里・りり(綴・h01760)はちいさく眸を燦めかせ、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は淡く感嘆を零した。
 あたりの回廊を巡るように飛び交う蛍の軌跡は、忘れ去られた神殿を眩く彩り、水面に映るひかりが揺らめき跳ねて、ふたりの座る石段の影をそうっと撫でてゆく。
「いろんな願いが重なり合って、この夢の月夜になったのね」
「お願いごとがお月さまになるってすてきですね!」
「ふふ、そうね。そして、願いごとをすれば消える――それなら、誰かが祈るのなら、ワタシたちは少し離れてお月見としましょうか?」
「お月見……ですか?」
 きょとりと瞬くりりへとひとつ微笑むと、ベルナデッタは荷から両の掌ほどの包みを取り出した。細い指先で丁寧に封を開け、りりへと広げてみせる。
「おやつにね。露花氷のお店の中で、白玉団子を見つけていたの」
「白玉団子? いつのまに……!」
「お月見団子にぴったりでしょ?」
「はい! お月見にはかかせないですよね、お団子。ゆっくりお月さまをながめながら食べましょうっ」
 街灯のひとつもない場所だけれど、愛らしい蛍のあかりと、眩いほどの月光と、そしてりりのランタンがあれば十分すぎるほどだから。あの子たちにしかないやさしい光ですね、とふわりと笑うりりへ、ベルナデッタの眦も柔く緩む。
「光にもいろんなお顔があって、どの光もとってもきれいです! ――そうだ。ベルちゃんは、お月さまにお願いごとをするなら、どんなものにしましたか?」
「月に? そうね……」
 問われて、ちいさく唇へと指をあてる。そのまま暫し逡巡するも、これといった答えが出てこない。
「美味しい露花氷に、あなたからの贈り物を貰って、この景色とお団子を堪能しているんだもの。とても満ち足りているから、難しいわ」
「なるほど! えへへ……そう云ってもらえるの、すごく嬉しいですっ」
「それでもなにかを願うなら……『この2週間ほどの蛍の瞬きが運命の相手につながって、来年もまた見れるように』――なんてどう?」
「わぁっ、すてきなお願いごと!」
 来年も、ってやくそくができるのは、とってもしあわせなこと。そう柔らかな花笑みを浮かべたりりは、んー、とちいさく零しながら視線を宙へと投げた。
「じゃあわたしは……来年はお父さんとお母さんもいっしょに来られますように、にしようかな?」
 お日さまが雨と仲良く過ごす昼も、お月さまが静かに見守る夜も。
 どちらもきっと、ふたりなら気に入ってくれるはず!
「もちろん、ベルちゃんもいっしょです! 月響珠にみんなの声を覚えてもらって、たからものにしますっ」

 そう云って、どのひかりよりも眩く笑ってくれる貴方。
 その愛おしい願いへと柔く頷きながら、ベルナデッタもまた、幸せに染む微笑みを返すのだった。

天國・巽
プリエール・カルンスタイン
月島・珊瑚
月島・翡翠

 遠く木々の間に見え始めた白亜の姿は、どこか物悲しく憂いを孕んでいるようで、月島・翡翠(余燼の鉱石・h00337)はひそりと身を竦めた。光の届かぬ森の奥、更に向かう先が廃墟とくれば尚のことだろう。
 けれどそれも、ゆっくりと葉陰から姿を現した風景に忽ち掻き消えた。
「とてもきれいです……」
「こりゃすげェ」
 まるで求めるがままに両の手を伸ばすかのように、緩く弧を描きながら枝葉たちと、決して届かぬ距離ながら、その腕に抱かれるように夜に浮かぶ大輪の月華。
 豊かな水を湛えた泉は底が見えるほどに澄み渡り、そこへ半身を浸しながら月光を浴びて朧に輝く神殿が物言わず佇む。周囲を飛び交う蛍たちは、月から毀れた欠片のようにも、ひかりを纏った花びらのようにも見えて、翡翠も――そして誰しもが思わず脚を止めた。
「暗いから足許に気を付けてな?」
 云って、天國・巽(同族殺し・h02437)は岸から届く場所にある大柱へと軽く触れてみた。僅かなぬめり気を帯びた感触に気づいて、足場へと視線を移す。
 このあたりは足首ほどの深さしかないとはいえ、落ち着けそうな石段まではすこし距離があった。だからこそ、有事の際はすぐに動けるようにと後ろを窺ったその瞬間、
「わわっ!?」
 感嘆の息を零して、心奪われたまま脚を踏み出した月島・珊瑚(憧れは水平線の彼方まで・h01461)の声が響いた。咄嗟に手を伸ばしてくれた巽へとはにかみながら礼を添える姉へと安堵しながら、翡翠もまた後ろを振り向く。
「滑るのが怖いなら手を貸すか――」

 ――すてん! ばしゃん!

「プリエール!?」
「大丈夫か?」
「うぅ、私が動く前に言ってほしいわ……」
 前のめりに脚を滑らせ派手に転んだプリエール・カルンスタイン(天衣無縫の縛りプレイ・h00822)が、恥ずかしさを滲ませながら視線を逸らした。
 それでも、差し伸べられた珊瑚の手を取ったとき。心配そうな面持ちのその向こうに浮かぶ、眩いほどの幻想的なひかりに、思わず動きも、呼吸すらも止めて見惚れてしまう。
「こんなに綺麗だと見入っちゃうよね」
 プリエールを気遣うようにそう云うと、珊瑚も一緒に空を仰ぐ。世界にはまだ見ぬ絶景はいくらでもあるだろう。けれど、眼前に広がるこの幻想的な景色は今宵限り。だからこそ、裡に刻む。忘れぬように。また、想い出せるように。
「たまにこういう景色を見るのも楽しいです」
「そんなに気に入ったの?」
 珍しくちいさくはしゃぐ翡翠へとそう軽く笑うけれど、それは珊瑚だって同じこと。変わらず仄かに踊る心地のまま、水音を響かせながら石段へと辿り着くと、巽に倣ってその隣へと腰を下ろした。
 それに続いて珊瑚とプリエールも横に並べば、忽ち始まるのは今日の想い出話。
「この景色も素晴らしいが、昼間の雨と虹も綺麗だったな」
「露花氷も美味しかったしね」
「それなら、さっき見つけた月響珠も素敵でしたよね」
「そう! 全部どれも初めてのことで……なにより、友達とこんな風にお出かけしたのだって初めてだし!」
 濡れた髪や躰をハンカチで拭いながらも、プリエールが月よりもなお眸を燦めかせて声を弾ませる。それにつられて珊瑚も笑うと、その手から柔く受け取ったハンカチでプリエールの後ろ髪を丁寧に拭いてゆく。
「でも……あの月も、本物じゃないなんて信じられないですね」
 ぱしゃりと浸した脚を動かしながら、ぽつりと零した翡翠の視線の先には、言葉なく唯々眼下を見守る満月の姿。
(この月は、私と同じように、当て所なく、彷徨っているのかな……)
 ふと過ったその想いに、ひとつの記憶が呼び起こされる。

 この満月が、ここに在る理由。――そして、この依頼の最後の目的。

「『願い』……ね」
 もっと背丈がほしいとか、ナイスバディにしてほしいとか。いずれは叶うかもしれないその望みも、吸血鬼たるこの身が至るにはどれほどの年月が必要だろう。ならば、ここで叶えてもらうのも――、そう悩み始めたプリエールの思考に、珊瑚の声が重なった。
「ここの消滅――そう願うのが筋でしょうか」
「そ。そうよね。このダンジョンはあってはいけないものだもの」
 ほんのり慌てながらも言葉を合わせるプリエールに、珊瑚もひとつ笑みを深めた。
 天蓋に浮かぶ、眩いひかり。
 そこから毀れるように、ほろほろと降り注ぐ光片たち。視界を過ったそのひとひらに、裡なる“ほんとうの望み”が映っていたのに気づくと、珊瑚は淡く微笑み、伸ばした右手でそっとかき消す。
 叶えてくれるなら――そう願う気持ちは決して、戯れではないけれど。
「……これは、良いんだ」
 誰にも聞こえぬほどの声が、唇から漏れる。
「――いい場所だったな」
 なんせ、元は縁もゆかりも無い俺達が揃って来れた、思い出の場所だ。それだけを云うと、巽は仄かに口端を上げた。
 掌のうえには、誰のものとも知れぬ、ひとひらの願い。
 そのまま月色を抱いた双眸を柔く細め、皆と心をひとつに願う。

「へくちっ。……あ。ティッシュあるかしら?」
「風邪引かないようにな」
 裡で願うと同時に漏れた、愛らしいプリエールのくしゃみに眉尻を下げると、巽は脱いだ羽織を娘の肩へと掛けた。その様子にからりと笑う珊瑚が、ひとつ深く息をついた。
「はー……良い思い出ができたねぇ。夏休みの自由研究にはできなさそうなのは、ちょっと残念だけど」
「うん。また来たいね」
 そう何度も出現されても、困りそうですけど。
 ちゃっかり添えられた翡翠の言葉に、仲間たちの笑み声が優しく夜に溶けてゆく。

御嶽・明星
エリカ・バールフリット

 夜風にさざめく泉の面に、ふいに一筋の光が奔った。
 細く、長く軌跡を描く蛍のあかりが月光の燦めきに重なって、まるで導くように御嶽・明星(推定・暁の明星・h00689)とエリカ・バールフリット(海と星の花・h01068)の視界に溢れた。
 真っ直ぐに見据えるのは、天蓋に佇む白月の王。
 耳許に響く水のさざめきと、星の瞬きを思わせるちいさな命の灯火を辿って、水面に連なる飛び石をわたる。
「アカリ、こっち」
「ああ」
 明星の躰を思えば、足場の悪いところを歩かせるのはほんとうなら避けるべきだけれど。
 ――それでも、エリカが手を伸ばして、明星がそれを掴んだから。どんなに覚束ない足取りでも、行くと決めたから。

 そうして辿り着いた水辺の中央でひとつ息を吐くと、ふたりは言葉なく天穹を仰ぐ。
 先ほどよりもずっとずっと大きな、千の星を従えた夜の王。
「『エリカがいなくなって心配してる家族に、幸せがありますように』……それが、エリカの願いよ」
 ほんとうは。
 ほんとうは――『エリカは大丈夫』と知らせたい。けれど、それが無理な願いだということも、痛いほどわかっている。
 だから、願わない。叶わぬ願掛けほど、虚しいものはないから。
 ぎゅっと唇を噤んだその横顔に気づいた明星が、僅かに柳眉を寄せた。ずっと傍で見守ってきたからこそ、そのちいさな裡に抱えた想いなぞ、言葉にせずとも手に取るように容易く知れる。
 ならば、願うことはただひとつ。
 これまでに幾つもの願いを託された白月よ。無害なる|簒奪者《おまえ》が望むなら、この俺の願いも託そう。
 心中で唱えるように囁いて、真摯な眼差しを向けたまま、月へと続く月光へと想いを注ぐ。
「『エリカは、必ず俺が守るから。――安心していて』」
 そっと優しく紡がれた言葉に、エリカが反射的に貌を向けた。胸に込み上げる感情をどうにか堪えながら、ちいさく呟く。
「……意外とロマンチストなのね……」
「俺は、『叶わない願いをかける意味なんてない』なんてことはないと思う。どんな願いも星に変えて、|ここ《胸》で輝かせるからこそ、人は生きていけるんだ」
「アカリ……」
「って、柄にもなさすぎることも言えてしまうのは、この景色のおかげかもな」
 どこか気恥ずかしさを紛らわせるような微笑みに、エリカも眉尻を下げながら不器用に笑った。
 思いがけぬほどの力強いその言葉が、ゆっくりと裡へと沁みていく。声を出そうと思ったけれど、どうにも掠れてしまいそうで。それでも唇を開いたエリカは、絞り出すように囁いた。
「お母さんも言ってたよ。……『胸の星を輝かせるんだ』って」
「……そうか」
 ただそれだけを零して眸を細める明星に、月を背にしたエリカも破顔する。

「エリカの代わりに願ってくれて、ありがとう」
 ――アカリが叔父さんで、よかった。

氷薙月・静琉
櫻・舞

 風の指先が水面を撫でるたび、幾重にも揺らぐ月あかり。
 その輪郭が朧となり、崩れてはまた生まれ――まるで鼓動のような瞬きを宿す世界のなかで、蛍たちはただ静かに語らうように舞い踊っていた。
 写真でしか見ることのなかった幻想的な景色に、氷薙月・静琉(想雪・h04167)は僅かの合間、見入っていた。
(現実味が薄い……いや、良い意味で、だが)
 そう裡に過ったと同時、つと背に触れるぬくもりに気づいた。肩越しに見た櫻・舞(桃櫻・h07474)はどこか怯えを孕んでいて、その先に佇む白月の王に気づいた静琉は、自然な所作でそれを遮る。
 櫻の守り神だからだろうか。恐らく、あれが本物の月ではないと悟ったのだろう――そう察してくれたのだと気づいた舞は、そのあたたかく頼もしい背のぬくもりに、ほわりと安堵の息を零した。

 ふと頬を撫でていった夜風に惹かれるように、静琉は躰を翻して舞と対峙する。
 淡くやさしい月と蛍のひかりを纏って、夜に柔く灯る櫻彩。それがあまりにも美しくて、つい見つめて――否、見蕩れてしまう。
 美しい、と。浮かんだ言葉は、そう容易く口にはできなくて。思いのほか生前の照れやすい性根は残っていたのだと、今更ながらに自覚した青年は、貌に滲まぬように、悟られぬようにと静かに視線を移した。
(静琉様……?)
 優しいその眼差しがなにを映しているのかと視線を辿れば、あちらこちらを優雅に舞う蛍たち。儚くも愛らしいそのあかりに心を和ませながら、ふと戻した視線の先に佇む静琉の横顔が夜に淡く輝いているかのようで、舞は思わず見入ってしまう。
(何を考えているのでしょうか? お気持ちがわかればいいのですが……)
 そうすれば、想いに寄り添うことができるのに。気の利く言葉を投げられるのに。
 そんな想いが裡に過るも、気づけば自身へと向けられていた視線にこてんと小首を傾げてみせる。
(――舞は、出逢ったときから美しかった)
 廃れた屋敷にひとり座するその姿は、どこか人外のように儚げで。
 ひとたび触れてしまえば、忽ち毀れてしまいそうなほどに繊細だったのに、それでも手を伸ばしていた。どうしてか、放っておくことができなかった。
 ふと蘇った記憶から呼び覚ますように、ひとつのちいさなあかりが掌に留まった。はたと意識を引き戻した静琉は、傷つけぬように掌包み込むと、すこし離れた場にいる舞へと視線を遣る。
「……舞、こっちへ」
「? なんでしょう、静琉様」
 名を呼ぶ声が愛しくて、微笑みを零しながら傍へと寄れば、そうっとふたりで覗き込んだ掌のなかには、ほんのりと灯る淡いひかり。
「ああ……綺麗だ、な」
「はい、とても綺麗です」

 ――嗚呼、もし願いが叶うというなら、この時間が続きますように。
 ――この優しい彼の傍で、彼が笑っていられますように。

 そっと裡で祈りを紡ぐ舞の姿に、静琉は瞼を柔く伏せる。
 変わらぬ春の薫りを連ね、ふたりの穏やかな夏がゆっくりと過ぎてゆく。

夜鷹・芥
冬薔薇・律

 月が静かに、泉の心臓を灯していた。
 その淡く白むひかりが降り注ぐたび、水底に眠る石段がうっすらと輪郭を現し、それを辿るように視線を移した夜鷹・芥(stray・h00864)が、傍らへと声をかけた。
「……律、こっちだ」
 岸辺からほど近くにある、崩れずかろうじて形を留めていた階段へと冬薔薇・律(銀花・h02767)を誘うと、水面に咲く波紋をなぞるようにふわりと舞う蛍たちの瞬きを眼下に収めた男は、そのまま腰を下ろした。
 これほどまでに美しいのは、その命がすぐに尽きてしまうからだろうか。
 ならば、この景色も長くは持つまい。そう思い至った芥が、そっと傍らへと視線を投げる。
「……なぁ、他愛ない話でもしてみねぇか? 律と一杯やってみたかったんだ」
 手許に小瓶ひとつと盃ふたつを掲げてみせれば、月の|彩《いろ》を宿すその眸を覗き見た律も、愉しげに眦を緩める。
「まあ、お酒は飲んだことがないので楽しみですわ」
「白月の王を眺めながらの月見酒、ってとこだな。――さあ、乾杯だ」
 ととと、と注いだ杯の片割れを手渡して。
 互いに笑みを揃えたら、律はこくりこくりゆっくりと、そして芥は盃に宿る月ごと一気に飲み干した。じんわりと裡に湧き始めた熱のままに、男は浮かんだ言葉を唇に乗せる。
「聞かせてくれねぇか。律が好む酒、蛍は好きか、何でもいい」
「ふふ。そうですわね……このお酒は好きですわ。それに、蛍も」
「……そうだ。前に話していた、お転婆時代のエピソードってのは?」
「ああ、高価な服を何着もダメにしてしまって……ふふ、それを知ったときの、侍従の真っ青な貌ったら」
 口許を柔く指先で隠しながら、ころころと鈴のように笑う娘。
 それはいつもと変わらぬ笑みだけれど、ふとしたときにどこか淋しそうな彩も覗かせるから、芥はその理由を求めて話を繋ぐ。
 ――暴くではなく、知りたいのだと。
(ああ、俺は珍しく酔ってるのか)
 僅かとはいえ、自分でも知らぬうちに饒舌になっていることに気づきながら、それでも男は問いかけを続けた。|諄《くど》くならぬようにと気を回しつつも、教えてほしいと求める気持ちを言外に滲ませる。
「今は、あまり寂しくありませんのよ。こうして、夜鷹様や皆さまが気にかけてくださるから」
 その厚意を悟れぬ娘でもなく、幾度目かに注がれた盃を眺めながら、律は長い睫を伏せた。酒に微睡む意識のなかで、手繰るようにゆっくりと言葉を選ぶ。
「……ただ、依頼や仕事が終われば、なんて思うと少し寂しくなるのやも。……きっと皆さまは、どこかへ行ってしまわれますから」
「律……」
「ふふ、頭がふわふわして余計なことを申しました。酔うと饒舌になるのですわね……どうかお忘れになって」
 建前か、本音か。
 そう云って美しく唇で弧を描いた娘の貌は、確かにほんのりと赤らんでいるようでもあったけれど。
 探るのを止めた芥は、浮かんだままを音にした。
「つれねぇな。……どこかへ行っても会いに行くし、会いに来れば良い。俺はそうする」
「……では、会いに来てくださいまし」
 変わらぬその優しさへと、律もまた、そう云って花笑みを浮かべる。
 行くことはきっと、叶いませぬゆえ――。
「約束、ですわよ」
 そっと紡いだ声音が、月へと解けるように溶けていった。

古賀・聡士
高城・時兎

「へぇ、あの満月がダンジョンの主か……色んな主がいるんだねぇ」
 木々に囲まれた泉のうえ、空高く佇む声なき主を仰ぎ見ながら、古賀・聡士(月痕・h00259)は感心を露わにそう零した。
「満月のボス……想像してたのと、ちょと違った。きれーだね。人面満月かと思ってた」
「人面満月……都市伝説かな?」
「……なんか、肉まん食べたくなってきた」
 まるで軽やかなステップを踏むように、ころころと変わる高城・時兎(死人花・h00492)の思考。それがなんだか面白くて、ついくつくつと喉を鳴らす。
「ま、特に戦うとかもなさそうだし、泉のあの足場を辿ってみようか? 中央あたりで見る水面の光は、きっと綺麗だよ」
 そう云って手を差しのばす聡士が、愉しそうに笑うから。時兎も柔く眸を窄めると、その手を取って歩き出した。

 泉はまるで、満月が夢を紡ぐためにしつらえた寝台のようだった。
 見上げれば眩いばかりの月光も、泉に映ればその|彩《いろ》を柔く灯し、ひとつ、またひとつと生まれる波紋にひかりがほどけて、夜を裡から照らしてゆく。その随に連なる飛び石を辿る足取りは軽く、自然と笑み声も重なった。
「落ちない? 大丈夫?」
「落ちない。っていうか、落ちるときは聡士も道連れにするから。全力で」
 ほんのすこしばかり揶揄うような声音に、時兎がちいさく柳眉を寄せる。その貌がやっぱり愛しくて、聡士は一層笑みを深めた。
「ははっ、僕を道連れにできると思うんだ」
「離さない、その手を」
 ともすれば甘やかな言葉を、それとは程遠い意味で紡いでみれば、「やってみる?」なんて返る声。
「冗談だよ」
 こんな些細なやりとりさえも、嬉しくて、幸せで。破顔しながら、重ねた掌をひいて共にゆき――終着点の泉の只中で、ふたりはちいさく息を吐いた。
 水のうえをなぞるように、絹のような軌跡を描く蛍たち。
 その隙間から貌を出し、夜へ流麗な影を落とす白亜の大柱の群れ。
 どこまでも穏やかで静謐なる世界に、ぽつりと声が毀れた。

「ねぇ時兎、せっかくだから歌ってよ」

 お強請りにも聞こえるその望みに、「歌?」と時兎はひとつ瞬いた。
「この景色と君の歌、すごく良い思い出になると思うんだよねぇ」
「ん……、何がい、かな……。下手な歌うたうと、魑魅魍魎を召喚しそ……ま、そしたら、ある意味一緒に楽しめるだろーケド」
「ははっ。それも楽しそうだけれど、また今度ね」
 そう云って向けられた視線は思いのほか真っ直ぐで、時兎はすこしばかり逡巡すると、そうっと唇を開いた。
 ゆるりと紡ぐのは、魂還しの歌。
 思い出は還さず、遺るように。魂の瞬きめく蛍のひかりを赤き双眸に映して、静かに捧ぐのは傍らの唯ひとりにだけ。
 耳を欹てねば聞こえぬほどの、その淡い歌声を記憶に刻むように。
 聡士もまた幸せを湛えながら、残光の染む瞼を柔く閉じた。

贄波・絶奈
ルメル・グリザイユ

 かつては神聖なる場所だったからだろうか。
 はたまた、誰からも忘れられてしまった場所だかだろうか。
 葉陰の天蓋が途切れ、かわりに眩い月光が降り注ぎ、蛍のひかりが花びらのように舞うその場所は、どこか静謐な気で満ちていた。中央に広がる泉の底から顔を出す幾つもの白亜の大柱が、まるで救いを求め空へと伸ばされた腕のようにも見えて、贄波・絶奈(|星寂《せいじゃく》・h00674)は薄く双眸を細める。
「へぇ……綺麗でなんだか寂しい場所だ。蛍の灯りがなんだかこの場所を慰めてるみたいに見えるね」
 ま、こういう雰囲気はむしろ私の好みだけど。そう過った想いのままに続けると、傍らのルメル・グリザイユ(寂滅を抱く影・h01485)も小首を傾げた。
「この神殿、いつの時代のものだろ~?」
「ダンジョンの核は天上界の遺産だと言うからね。もしかすると、天上界の記憶が反映されているのかもしれない」
「ふふ、浪漫だなあ。……本当、こういう水没した建物って良いよねえ。時の流れの重みや静けさ、秘められた物語を感じるよお」
 すべてを見てきたであろう唯一の存在たる白月は、けれど語り部にはなり得ない。
 とはいえ、ルメルとしてはそれでも良かった。歴史の残照から過去を想い描く――その、今を生きる者に与えられた自由であり横暴でもある行為へ、ときに浸るのも悪くはない。
「……ああ、あそこに浮かんでるのが噂の月か」
「だねえ。あんなに本物に似てたら、普通の人じゃアレが簒奪者だなんて分からないだろうなあ」
「まあ、襲ってこないというなら、一緒に月見をさせて貰おうよ」
 そうルメルを誘いながら、口端を上げて。顔を上げ、もの言わぬ月へと視線を投げる。
「願いを聞いてくれるんでしょ? だったら月下の蛍火――そんな夢を見させてよ」

 水辺をなぞるように辿ってゆき、泉を横断するように連なる飛び石を渡って、一段高くなった大理石へと昇る。滑らすように脱いだ黒の上着を横長に広げると、ルメルは絶奈へと手を差し出した。先に腰掛けてもらい、余った場所へと並んで座る。
「そうだ。泉に足でも浸して涼しませて貰いながら、蛍鑑賞と洒落込ませて貰おうか」
「あ、いいねえ。僕も~」
 絶奈に倣って、指を掛けてさらりと脱いだヒールを脇に置いたルメルは、そっと爪先で泉に触れた。仄かながらも心地よさそうな絶奈の横顔に、つられて笑みが浮かぶ。
「そうだ。あの歌、とっても素敵だったよお」
「ああ、さっきの私の歌?」
「うん、まるで時間が止まったみたいだった~。絶奈ちゃんの歌が響いていたあの瞬間だけ……自分が何者かも忘れて、ただそこに佇んでいた気さえした」
 どこかその語尾に違う感情が滲んだような気がして、絶奈は視界の端で一瞥した。一度瞼を伏せ、視線を正面でちらちらと瞬くひかりの群れへと戻す。
「うーん……私の歌は稀少価値が高い一品だけど、どうしてもって言うんならまた聴かせてあげてもいいよ。こんな|幻想《夢》を視させてくれたお礼にね」
「ほんとお? ふふ、もし絶奈ちゃんが歌手デビューしたら、僕は何号目のファンになれるかな~」
「なんだったら、今ここで私のファン第一号になってくれても構わないよ」
 いつものようにダウナーな声色で、けれど僅かに眦を緩めた絶奈は、からりと笑み声を立てるルメルをひそりと窺いながら話を向ける。
「せっかくだし、ルメルさんの話も聴かせてよ」
「ええ~? 話題になりそうなこととかあるかなあ」
「そうだな……さっきの声のこととか。凄く気になるな」
 男の眸が、微かに見開く。
 一歩、深く踏み込んだのだという意識は、娘にもあった。纏う気配が、|警視庁異能捜査官《カミガリ》としての勘が、それを是と教えてくれていた。
「さっきのアレ……、あの声は……師匠の声、なんだ」
「ルメルさんの、師匠……」
「うん。師匠が作った夕食の、配膳を手伝うように言われて……」
 いつもならば、記憶の底にしまっていたはずなのに。何故か今ばかりは、鮮明あの風景が、声が、裡に蘇る。
「ふっ。俺がすぐに色んな味を試したがるから、事あるごとにあんな風に言われてたなあ~……」
 ふふ、とまた、笑みが漏れる。
 懐かしく、そして今は手の届かぬあのころが胸に止め処なく溢れて、ルメルは一度唇を噛んだ。吐き出すように大きく溜息をつくと、水面に映る月光と蛍火のひかりを映した双眸を、淡く細める。
「……よりによって、あんな場面を思い出すだなんて……」
「……ルメルさんにとって、かけがえのない思い出なんだ」
「かけがえのない……?」
「うん。だって、その話をするルメルさん、すごく嬉しそうだもの」
 云って、隣へと投げた淡々とした眼差しがルメルを捉えた。男の息をのむ音が、ひとつ夜に落ちる。「そ、っか。……そっか。……はは……」と、どこか言葉を、想いを探すかのように、毀れた声に僅かに感情が染みた。

「……あの人は……、俺の……、……親みたいな人、だったよ」

 ――そう。“だった”。
 それが、今残された結果であり、全て。

 そっと月へ|月響珠《クランペルラ》を掲げると、ルメルはそれを握りしめ――力を籠めて握りしめた。ゆっくりと開いた指先の間からほろほろと毀れた月の欠片が、夜風にさらわれながら水面へと溶けてゆく。
 ひとつ、またひとつ。
 紫紺の世界に、祈りのようなひかりが灯る。
「……いいと思うよ。
 ――きっと、それでいいんだよ。
 絶奈の声が、ぽつりと漏れて。
 なにも云わぬルメルの、その|気配《けわい》だけが肌に触れた。

目・草

 ひそやかな夜の真ん中に燦めきを見つけて、目・草 カナメ・ソウ(目・魄のAnkerの義子供・h00776)はちいさく息を飲んだ。
 水面に毀れた白金のひかりがひらひらと波紋にほぐれ、そのうえを蛍たちがぽわりぽわりと優雅に舞う。風がひとすじ渡るたび、溢れるほどの光の粒が淡く揺れ、泉全体がやさしい夢のように静謐な燦めきを宿す。
 ふらり森の夜道をゆくその手には、とっておきの提灯ひとつ。帰りに迷わぬようにと持ってきたその優しい灯りも仄かに揺れて、幼子の影までゆらゆらと戯れる。
 ひとつ、ふたつ、目の前を過った儚い灯へと誘われるように、草はぱたたと駆けだした。漆黒の髪を揺らし、草の香りを纏った夜風が頬を撫でていくのがなんだか愉しくて、笑み声がちいさく毀れる。
「わっ……!」
 勢い余って泉の縁まで辿り着き、あわや落ちそうになったすんでの所で脚を止めた。まあるい水鏡に朧に映る幾つもの蛍火を、黒曜石めくおおきな眸で覗き込む。
 波紋が生まれるたびに、ふわりとほどけてまた寄り添う水面のひかり。ちょこんとしゃがんだまま、ちっとも飽きることもなく、草はその揺らぎをじっと眺め続けた。
 そうしてふと顔を上げれば、天蓋に浮かぶ眩い満月にまあるく眼を見開いた。
「おっきい! 真ん丸お月様、きれいだな」
 弾む声が、夜に溶ける。淡くも視界いっぱいを埋め尽くすほどの耀きに心惹かれるように、草は泉を横切る飛び石へと足をのせた。
 もっともっと、傍に行ってみたい。その一心で、ちいさな足取りは軽やかに、夜の水面に影を踊らせながらぴょんぴょんと跳ねる姿は、大人が見ていたら危なっかしいのかもしれないけれど。それでも草はそんなことなんてちっとも考えずに、石をわたる。
 もっと先へ、あの真ん中まで行って、手を伸ばせば――。
「……とどかない……」
 一番近い場所まで来たのに、結局ぐっと月へと伸ばした手は空を切った。
 こんなにも近くにあるのに。優しいひかりがいっぱい、溢れているのに。
(……でも、近くで見られたから満足)
 知らずと落としていた肩をまた上げると、草は淡く眦を緩めた。あの綺麗な燦めきは手に入れられなかったけれど、なんだか柔らかく包まれているような気がして、泉いっぱいに広がるひかりと一緒に思うままに戯れる。
 蛍を眼で追って、波紋へと指先で触れて。両の手で燦めきをすくって、夜に散らす。
 過ぎゆく刻の感覚も忘れ、笑い声を響かせながらはしゃぐ初夏の夜は、ただひたすらに透明にどこまでも続いて――やがて、森のなかから現れたしなやかな影に気づいて、もひとつ笑う。
 最後に今一度、その景色を眸に、裡に焼きつけた草は、踵を返してお迎えにきてくれた黒猫又へと一歩踏み出した。
 今宵の冒険は、これにて終幕。
 けれどこの記憶は、きっと、ずっと、心のなかで柔らかに灯り続けてゆくのだろう。

白水・縁珠
賀茂・和奏

「これで目的達成、と」
「目的達成! できて良かった」
 満足気に|月響珠《クランペルラ》をしまった白水・縁珠(デイドリーム・h00992)へと、硝子の奥の眸を細める賀茂・和奏(火種喰い・h04310)。このまま「はい、解散!」とすることもできるけれど――そう過った思考を、和奏の声がかき消した。
「先では蛍が見れるというし、時間的にも遅すぎないから、見に行ってみようか」
 一瞬、僅かに瞠目した縁珠だったけれど。
(そうだ……今回の誘い文句って『面貸しデート』……だったっけ)
 ならば、もうすこしだけ。折角来てくれたのだし。
 そう思い至ると、縁珠は窺うように傍らを仰ぎ見る。
「……もう少し奥に行ってみる?」
「だね。これも見知らぬ景色への冒険、ってことで」
「ん、冒険ー」
 程なくして現れた泉を囲む森は、夜の底で静かに呼吸をしているようだった。
 月光が水面を撫でて、その上で舞う蛍のあかりが柔らかな花を咲かせる。崩れかけた白亜の神殿は半ば水に沈み、折れた柱が幾筋も空へと伸びて、光と影の柱廊を描いていた。
 朽ちる前は荘厳だったんだろうなぁ、なんて。ぼんやりと浮かんだ言葉のままに視線を上げた和奏は、口許を淡く綻ばせた。ともすれば神殿が隠していたかもしれない星々が、今はこんなにも綺羅に瞬いている。

 まるでひかりの海を渡るかのように、のんびりとふたり、水面を過る飛び石を辿る。
「ぉー……中央は明るめだ」
「月と星あかりだけじゃなく、蛍も照らしてくれているからね」
「ぺティーユも足許照らしてくれるから、泉に落ちるドジはなかろうー」
「ふふ、縁さんのペティーユにも感謝だ。君も俺も、落ちるのは避けたいからなぁ」
「……タオルまだあるから涼んでも良いよ? 縁は落ちる予定ないけど」
 ちいさな笑み声を零しながら、軽やかに石を渡る青年の背を眼で追っていれば、ぴたと脚を止めた和奏が振り返った。
「……いっそ、蛍たちみたいに一緒に飛ぶ?」
 なんて、と微笑みながら、ちょっとした悪戯心のままに差し出された左手と――彼の足場をじっと見つめる。
 大人ひとりがちょうど乗れるほどの、狭い飛び石。そも、『飛ぶ』という発想自体が飛んでいる。
 ――けれど。
 縁珠はふいに唇の端を上げると、勢いよく地を蹴った。
 理由は単純明快――調子の良さそうな顔に、なんだか不意を突きたくなったから。
 お互い、空中浮遊の心得もある。怪我はしないだろう。そう算段をつけて夜露に濡れたようなひんやりとした感触とともに、和奏のいる石へと飛び移れば、
「ちょ」
 その緑の双眸に、一瞬焦りが滲んだ。それでも咄嗟に手を伸ばして支えると、その腕のなかで縁珠が得意気にひとつ微笑んでみせるものだから。和奏は安堵とともに眉尻を下げて、また一歩先へと波紋を響かせながら歩き出す。
「いまは田舎でしか見ない蛍もいっぱいだ」
 縁珠の零した声に、和奏もまた脚を止めた。ふたり並んで、泉の奥を見遣る。
 水鏡に映る、淡くも眩い月明かり。そこへと蛍のひかりがひと粒ずつ落ちては溶け、また浮かび上がって、夜の紫紺を燦めきで飾り立ててゆく。
「そうだね、こんなに沢山の蛍は初めて見るかも。子供のころ、すこしだけ見たことあった気がするけど……朧げで。君は? 小さいころ、お爺さんたちと見たかい?」
「……うん、散歩とか田んぼの水路とか、小さいころは見たかも」
 あのころはまだ、鑑賞よりも追いかけるほうに夢中で――結局水路に落ちたというオチまでつくのだけれど、それはひそりと裡へとしまったままにした。
 それから短くも長くもある日々を過ごして、今は静かにただ眺めるのも良いと思えるのだから、不思議なものだ。

 まさかの『面を貸して』が始まりの、今回のデート。
 だけど、こんな綺麗な景色を『綺麗だね』って、一緒に言い合えるのが素直に愉しい。
(……君の瞳に、この景色はどう映ってるかな)
 夜風がふたりの間を優しく吹き抜けていく。水辺を照らすのは、月と蛍と、蝶の翅の燦めきたち。ゆっくりと移ろう波紋とひかりに、刻が柔らかに溶けてゆく。
「今日はありがとうね、縁」
 不意に紡がれたその呼び名に、縁珠がちいさく瞬いた。
 普段、親類以外の女性には呼び捨てにしない和奏だけれど。夜闇が気恥ずかしさも紛れさせてくれるから、真っ直ぐにみつめて言の葉に乗せるのは、心からの感謝。
「うん……ん」
 ただそれだけを返すと、縁珠は僅かに視線を外して俯いた。
 ちらりと再び見上げた隣には、変わらず柔らかな和奏の笑顔。

 綺麗だねー、なんて気の利いた言葉のひとつも返せなかったけれど。
 ――すこしは、デートっぽかったかな。

エイル・デアルロベル
フィア・ディーナリン

「あの、ご当主様……」
「どうかしましたか? フィア」
「ダンジョン絡みの簒奪者退治とのことでしたが……肝心の簒奪者は何処に?」
 日中からずっと抱き続けていた疑問を漸く口にしたフィア・ディーナリン(|忠実なる銃弾《トロイエクーゲル》・h01116)は、そう云いながら白いエプロンをちいさく握りしめた。
 この問いかけはつまり、主人からの話を完全に理解できてはいないことをも意味すること。使用人としては致命的なその事実を受け入れざるを得ない状況が、唯々心を締めつける。
 片やそんなフィアを前にしたエイル・デアルロベル(品籠のノスタルジア・h01406)と云えば、僅かな瞠目のあと、ふわりと口許を綻ばせる。
「ああ、そんなことも言っていましたね」
「えっ……?」
 そのなんともわざとらしい答えに、反射的に漏れた声と、一瞬だけ見せた――漸く、自分にだけそんな隙を見せてくれるようになった――娘の吃驚した様子が愛らしくて、思わずエイルは笑みを深めた。
 任務という形で誘ったのは、娘が来やすいようにとの思惑から。それに、害意のない簒奪者とはいえ村人がここに迷い込んでしまうのは確かな問題でもあるし、簒奪者自身も最後には撤退させることとなるのだから嘘ではない。
「まあ、折角来たんですから。偶には硝煙や任務は忘れて、ゆっくり楽しんでいきましょう」
 云いながら脳裏を過るのは、数ヶ月前に任務で訪れた水族館でのこと。初めて目にした青く幻想的なその世界に魅入っていた横顔に、組織ではなく普通の家庭に育っていたらと馳せた想いは、今もまだこの裡に在る。
「……良いんでしょうか……」
 詳細も聞かされぬまま連れられてきたリュースエルヴ村では、ぱらぱらと降る天気雨のなか、ふたり肩を並べての――一歩後ろをついていたら、エイルに隣を歩くように云われてしまった――散歩から始まって。
 |露花氷《ろかごおり》なる氷菓の店では、「フィアはどの氷蜜とフレーバーにしますか?」なんて尋ねられて、決まるまで待たせてしまったのに叱責のひとつもないどころか、花笑みを湛えたエイルと匙を交わすこととなったり。
 夕闇に溶けゆく空の下、訪れた森で見つけた燦めく|月響珠《クランペルラ》へと音を映すエイルを眺めていたら、それを貰うことと――恐れ多いと一度は断ったけれど、気づけば受け取る流れに――なっていたり。
 そうして空の紫紺が深まり始めた今になってもなお、敵らしき姿は見えぬときた。だのに、主はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを湛えるばかりだ。
「構いませんよ。それに、ここから先は本題の……蛍鑑賞ですから」
「……蛍、ですか……」
「ほら、見えてきましたよ」
 柔らかな声音に誘われるように視線を先へと向ければ、ひんやりとした夜気が、心地良い涼と清らかな水の匂いを運んできた。
 森の奥に佇む泉を抱くかのように、水辺をひときわ白く照らす満月のひかり。半壊した神殿の柱が水面に影を落とし、その影のあいだを蛍たちが緩やかに漂う。風がわずかに通り抜けるたび、ひかりの欠片が波紋に乗って揺れて、眸に映る景色が燦めきながら一時ごとにその形を変えてゆく。
「これが、蛍……」
「あの村でもそうでしたが、こうして幻想的な風景を純粋に楽しむのも良いんじゃないでしょうか。私たちの住む地域ではお目にかれない光景ですし、映像で見るのとは全然違うでしょう?」
 そう云ったエイルを見つめながら、けれどフィアは言葉を忘れていた。巡らせていた警戒心すら、知らずと薄れる。
 エイルを飾り立てる宝石のように舞う、幾つもの蛍のひかり。明滅しながら夜に毀れる光片がその金の髪と双眸を輝かせ、大輪の月華を背に微笑む主はまるで夢幻のよう。
 彼の云うとおり、知識と体験はまるで違った。無機質な文字ばかりが現す情報が、いまはっきりと|彩《いろ》づいた。
 こんなにも昏い地の底めく場所で仄かに灯りながら揺蕩う儚い存在。それはどこか闇のなかで心細く身を寄せ合うようにも見えて、ふと過去の記憶が重なるも、フィアはすぐさま振り払った。
 違う――そうではない。
 蛍たちは決して、悲観的になぞなってはいないのだろう。ともすれば、彼らも――そして己も、安住の地を見つけたのかもしれない。
「……こんなところでも、命は煌めくことができるのですね」
「気に入ったのなら、もうしばらくのんびりと、この綺麗な景色を眺めていきましょう」
「……はい」
 夜に溶けるほどに、ちいさな応え。
 懸命に生きているからこそ、これほどにも美しく、幻想的ですらある彼らの姿。エイルと共に在ることで出逢えた風景と得られた視点に心からの感謝を添えながら、フィアはそうっと瞼を伏せる。
 裡に宿るのは、溢れるほどの幸せ。
 同じ世界の|彩《いろ》を、記憶を、共有できる歓びを噛みしめながら、願うのはただひとつ。

 ――私は、“此処”に在り続けたい。

 そう想った瞬間、ふわりとエイルの指先がカチューシャへと伸びた。
「フィア……少し動かないでくださいね」
「――っ!?」
 もう片方の手で不意に肩を抱き寄せられて、フィアが忽ち息をのむ。服越しに伝わる掌のぬくもりに、躰が思わず固まってしまう。
 遠目であれば綺麗とはいえ、虫である蛍が留まっていると知れば驚かせてしまうやも――故に男は敢えて理由を云わず、不用意に動かぬようにと娘を己へと寄せながら柔くそれを追い払った。同時に、普段の戦闘姿からつい薄れかけていたけれど、娘がこれほどまでに華奢で小柄だったのだと改めて思い出す。
「これで大丈夫です……ん? どうかしましたか?」
「あ、いえ……だ、大丈夫です、ありがとうございます」
 常であればあり得ぬほどの距離感に、どうにも頬に熱が灯って。ぎこちなさを滲ませながらつい俯いてしまったけれど、拒むことはできなくて。
 畏れ多いことだと、過分な望みであると判っている。
 それでも、叶うことならば。

 もうすこしだけ、このまま――あなた様の傍で、この夜に身を委ねていたい。