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幸いなるかな
●
白花が揺れている。
倒れ伏した人々は目を閉じて動かない。規則的に上下する胸だけが、彼らの生を伝えている。
しかし、それを見留める者は誰もいない。
罅割れたコンクリートの床を踏み、這うように生える白い花の合間に踏み入った者は、虚ろな眼差しを空に向けて祈るように手を組んだ。そのまま同じように伏した体は、やがて葉に覆われるように消えていく。
幸いなるかな。
後には何も残らない。
幸いなるかな。
幸いなるかな。
白花が揺れている。
幸いなるかな。
●
√汎神解剖機関の片隅にある何の変哲もない廃墟には、白い花畑があるという。
身を横たえて眠れば幸いなる夢の裡へと誘われる。その後のことは、誰も知らない――。
「その花の噂を何とかする、というのが此度の仕事だね」
回したペンを顎に当て、オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)が声を零した。幸福なる夢に導く花など現実には咲き誇らない。少なくとも、怪異の影が潜んでいることは間違いがないだろう。
既に犠牲者が出ている。幸福を見せてくれる花畑があるらしい――と聞けば、こぞって人々が訪れるのも、またこの√特有の事情もあるのではないかと、星詠みは悩ましげに目を伏せた。
「ここにおいては劇薬のようなものだろう。知れば触れたくなるに決まってる。即物的な快楽は、本当の充足には遠く及ばないカンフル剤にすぎないんだろうしね」
であるからEDENたちの力が必要だ。
まずは怪異に接触する。巧妙に隠された場所を探り当てるより、記された地図をなぞる方が早いだろう。即ち自ずから罠にかかるような真似をせねばならない。
廃墟の場所は割れている。白い花畑に身を横たえれば、甘やかな幻想が這い寄るだろう。
夢には欠落も亡失も関係がない。あらゆる現実の要素を無視して描かれるのは、あったかもしれぬ、心の奥底に望む大いなる光だ。
真なる幸い――。
「それそのものは単なる夢だよ。抗う必要もないさ。望もうと望まざろうと、いつか醒める。ただし」
気を付けて欲しいことがあると、青年の声は続けるだろう。
「犠牲者は皆、行方不明になってる。つまり、その廃墟から何らかの力で転移させられるってことだ。どこかは私にも分からない。少なくとも善い場所ではなかろうね」
その先で何があるかも分からない。いっときの充足の夢の代償に何を支払わされるにせよ、覚悟をせねばなるまいと、青年は告げる。
「些かならず辛いことを強いて申し訳ないが……どうか無事に戻って来てくれたまえ。心身共にね」
燃える爬虫類の双眸が伏せられたのちに、心苦しげな苦笑と共に、星詠みは手を振った。
これまでのお話
第1章 冒険 『真の皆の幸いの為に私の体をお使いください』
●
灰色の一角に人はいなかった。
白い花畑が沈黙している。吹き込む冬の隙間風に揺れ、なおみずみずしい葉脈と花弁が、新たなまどろみの住人を待ち望んでいる。
床を侵食するそれの上に身を横たえ、目を閉じれば良い。よく身に馴染んだ――或いは感じたことのない――眠りの感覚は、抗いがたく身を覆っていくだろう。
花畑に近寄りながら、ふと視線を感ずる者もあるかもしれない。
廃墟の罅の隙間、昏く淀んで見えぬ高い天井、用を為さない階段の下、敷き詰められた花々の合間から覗く僅かな灰色の床――一挙手一投足を見詰める眼差しが、漠然と貴方たちの身を捉えている。しかし。
息遣いを伴わない環視を気にするよりも先に、やるべきことがある。
白花は揺れている。
幸いなるかな。
●
まるで葬送のようだ。
真白の花畑に身を横たえる。植物の淡く甘い香りが鼻腔を包み込んだ。目を伏せた途端に襲い来る強烈な欲求に引き摺り込まれる間、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は己の死を想った。
斯様に送り出してもらえるのならば幸いだろう。そのときには彼の意識はとうに肉体を離れているだろうが、詮無い夢想を映さずにいられぬのもまた人の性である。
――√ウォーゾーンに斯様な安寧も暇も存在しないと知りながら、自嘲は深くまどろみに沈み込む。
目を開いたときには遅かった。あの日にクラウスから|希望《とも》を奪い去った運命は既に放たれ、赤く燃え立つ希望の色をした髪が視界に揺らぐ。現実には親友だけを穿った一撃は、彼に庇われた青年を理不尽な軌道で貫き、二人はほど近い距離に倒れ伏す。
死ぬのだ――と思った。
都合の良い幻覚は痛みを伴わない。夢の底に沈んでいくときの曖昧にぼやける意識の中で、クラウスはとめどなく零れる鮮血の香りを感じていた。
横合いを見る。親友は、今にも彼を絡め取ろうとする死を感じさせもせぬ、常と似たような笑みを携えて青年を見詰めていた。遠からず失われるはずの命の温もりが転がった黒い髪を抱き寄せてくれる。止まぬはずの銃砲は鼓膜から遠のき、代わりに弱々しい呼吸音が聞こえるから、クラウスも笑い返して目を閉じた。
これでようやく解放される。
生きている限り見詰め続けなくてはならない悲劇が胸を刺すこともない。今再び心に抱いた大切な誰かが、また目の前から消え失せる未来に怯えることもない。埋まらぬ空席が一つ増えるたび、罅割れた心から零れ落ちていく満ち足りた日の幸福を数えることもしなくて済む。
安寧の眠りだけが満ちている。あらゆる苦しみに背を向けて、失われない肌の温度に身を委ねた。叶う機を永遠に逃した祈りは、この幸いの夢の中ではクラウスの体を抱き締める腕となって、彼を永遠に守ろうとする。
――目なんて醒めなければ良い。
死の間際の弱まった呼吸を感じている。自身が拡散していく感覚がする。あとほんの僅か、クラウスの存在が空に混じり合った瞬間に、彼は永久の死に至るはずだ。しかし夢の世界はどこまでも心地良く彼の願いを汲み取っているらしい。ただの一呼吸でも散逸してしまうだろう青年の自我を、久遠ともとれよう時間感覚の中に誘ってくれる。
暖かい腕に抱き締められ、まどろみ続ける意識は、朦朧と死への歓待に浸っていた。砲火も悲鳴も怒号もない。あるのやも分からないが、クラウスには聞こえない。聞こえないならばないのと同じだ。
青年は深く安堵の息を零した。
幸いなるかな。苦渋に満ちたる未来を捨てて、太陽と共に燃え尽きる。
●
幸福の夢など見飽きた。
所詮は底の抜けた器である。いっとき満ちたものは凍てた真実の前に甘美さを失い、後には噛み切れぬ苦渋の味だけが舌に残る。それが夢であろうと現実であろうと本質は変わらない。浮かされた熱が互いの裡から去っていけば、後に残るのは余燼とすらいえぬ幸福の灰だけである。
リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)にとって、幸福とは不幸の先触れであった。
彼女の幸いはいつも彼女の許から消えていく。時に彼女の方から手を離すこともあったし、知らぬ間に途絶えた遣り取りの既読がつかないメッセージとなって立ちはだかることもある。夢もまた同じだ。空虚な幸福の灯火が消えたのち、リリアーニャの前にあるのはただ静謐なる暗闇だけである。
地下の一室の、冷えた鎖の感触のような。
それでも目を伏せ、再び仮初の幸福に身を委ねることにした理由を見付けることは叶わずに、漆黒の忌兎は白花に身を横たえた。
次に意識が浮上するときには柔らかな温度に包まれている。誰かが自分を抱き締めているのだ――と、すぐに思った。
幾度も経験があるからだ。
愛を分け与えてくれる誰かを探し、彼女は幾つもの温もりの間を跳ねて来た。結局そのどれも結実せずに腐り落ち、今も全てを抱き締め、割れた器に熱を注ぎ込み続けてくれる誰かは見付かっていない。心の裡にある誰かの面影を探ろうとして――。
やめた。
誰でもない方が良い。誰でもなければ良い。初めて鮮烈な|姉《ひかり》を直視したとき、知ってしまった己の中の欲動が生み出した、地下牢の視界の如く黒く塗り潰された顔であれば良い。
リリアーニャは|求め《おそれ》ているのだから。
『 』
囁く声を。甘く空疎な言葉を。耳朶に無防備に受け入れて、女は深く揺れる吐息を零した。
幸福だ。幸福であると自覚してしまう。都合の良い物語が嘘に塗れていることを知りながら、掌に触れる熱を求めていた器が満たされる。
「――本当に、駄目ね」
これなら悪夢の方がずっとましだ。
泣いて叫んで苦しみながら目が醒めるなら、現実の方がまだましだと言い聞かせて、息を繋いでいけるのに。
また目が醒めたら現実の無明が続いていくだけだ。光が強ければ強いほど後に残される影が色濃いことを、彼女は身をもって知っているのに。まるで姉の影のように息を紡ぎ、光を厭うて夜に跳ねながら生きて来た理由を、いとも容易く忘れてしまうのだ。
心の奥底を満たす|唯一《だれか》の温度に身を委ね、リリアーニャは蒼天の双眸をきつく伏せる。
次に眸が開いてしまう前に、早く|噛み締め《わすれ》てしまわなくては。
幸いなるかな。見知らぬ愛の空想で、満ちぬ器に蓋をする。
●
幾ら好きだといっても、好物ばかり食べていれば飽きるだろうに。
それでも舌を喜ばせる蜜を永久に啜りたいと願うのも人の業か。目を閉じるたびに甘美だけが満ちたる人生であるなら、それもまたある種の幸福であるといえるのかも分からぬが。
狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)は既に、真なる幸いの何たるかを知っている。
光明は遠く離れて初めて明るく輝く。当然に周囲を照らしていたときには曖昧だった輪郭は、悲しいかな光陰が矢の如くして掌を過ぎ去ったのちに、それがいかに燦然たるものであったかを示すのだ。
家族が揃っていたときの、当たり前の光景である。
三人の姉は入れ替わり立ち代わり、時に連れ立ってはひっきりなしに十坐武郎の元を訪れる。可愛い末っ子長男に姦しく世話を焼く彼女たちの声を受け流していれば、父の大きな声が彼を引き摺る時間が訪れる。些かならずしつこい鍛錬で削られ切った体力は、母の暖かな腕が癒してくれる。
そうこうしているうちにやって来た祖父母は母に輪をかけて甘い。彼の好物がたっぷり用意されているのを知っているから、幼少の十坐武郎は二人が満面の笑みで孫を呼ぶのを、母の胸の中でじっと耳を澄ませて待っていた。
美しい日々だった。
美しいのだと分かったところで、既に手には戻らぬ日々だった。
今が幸福でないとは言わない。問われれば迷いなく幸いであると応じるだろう。しかしそれは、在りし日の光に叶うほどの光明ではない。
祖父母は時の流れに逆らわず永遠に去った。姦しい姉たちも十坐武郎が大人になるより先に節目を迎えて家を出た。団欒の時間はあの頃のまどろみのように長いものではなく、空いた二つの席が埋まることも永劫にない。
もしも時を戻す方法があるとして、その甘美なる誘いを断れる自信はあった。誰もがいずれ迎える別れと、誰もがいずれ通る節目を巻き戻したとて繰り言にしかなるまい。しかし。
戻れるならば戻りたい――と、祈ることの何をして咎められようか。
まやかしの夢の中に映し取るだけの理想郷は、目を開けば脆く崩れる。それを当然だと思う十坐武郎の心の奥底に、この日々が永遠に続けば良いと願う幼い声がある。
己に生じた矛盾に揺らぐ眼差しは、やがて現れた三人の姉と、我先にと末っ子を構う彼女らに向けられる微笑ましげな笑声の裡に解けた。心地良い声と旧懐に似て褪せた痛みを伴うこの幸福に、今はただまどろんでいたい――。
抗う必要もないのならば、時には二度と戻らぬ甘い幸福を味わっても良いだろう。
夢とは、どうせ目を開けてしまえば消えるものなのだ。
幸いなるかな。縫い留められた光明の、尽きせぬ裡へ身を浸す。
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幸福には、そも受け取るべき資格がある――と思う。
それが何であるのかは具体的には思い描けぬが、とかく己には未だ備わっていないのだと、神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)は自覚していた。
たとえ一時の夢に過ぎぬのだとしても、心底から祈り願う資格なぞ、彼女の未だ小さな掌には余るのではないか――。
幾度も繰り返した問い掛けと使命感の天秤を再び傾けながら、ちよの足はとうとう花畑の前に辿り着いていた。白花が誘う幸福の夢が呼んでいる。その向こうに鎮座するのだろう、見知らぬ視線が彼女に絡みついている。
人々を絡め取る事件の解決には、真なる幸いの夢を見る必要があるという。
ならば踵を返すわけにはいかない。足を引き摺るような心地で身を横たえれば、味気ない暗闇の天蓋と冷たいコンクリートのベッドがちよを出迎える。およそ良い寝心地とはいえないが、これから得る資格なき幸福への苦渋を思えば、柔らかく暖かな寝具よりも斯様に居心地の悪い方がまだましだった。
目を閉じる前から――。
彼女は己が何を見るのか理解していた。
だから、名を呼ばれて目を開くのと同時に、掌に暖かな感触を覚えても動揺はしなかった。
鉄塊のような冷たい苦みが胃の腑を塞ぐだけだ。
「どうなさいましたか、ちよ様」
「――いいえ。何でもありません」
見上げた先で|視線が絡む《・・・・・》。微笑む男は僅かに首を傾げ、温度のある声で再び前を示した。
掌に触れる指先が熱い。鼻の奥に蟠るほど。握り締めた大きな掌が優しく白磁の肌を包んでくれるのが嬉しい。柔らかな心に冷や水を浴びせられるように。
叶いやしないと分かって、前に進む覚悟も定めておいて、ちよは未だに己の幸福の中に彼の姿を投影する。いつも彼女の向こうに別の誰かを見透かして、決して触れぬ掌に、甘えていたいと願ってしまう。
叶うべくもない。
――望むべくもない。
彼が|ちよ《・・》に目を向けてくれたことがあろうか。心を注いだ人だからこそ、その視線の先に誰がいるのか分かってしまう。声の一つ一つから、言葉の一つ一つから、ちよは彼が想うのが彼女ではないことを残酷なまでに理解して来た。
だから夢だ。
現実の彼はちよの願いを叶えてくれなかった。きっとこれからも、永劫に叶えてはくれない。
優しい声が心地良いあまりに、ちよの眼差しは自然と彼を見上げていた。厭というほど見たことのある、一度も彼女に注がれたことのない眼差しが愛おしげに甘い色を刷くのを見て――。
ちよはどうしようもなく、眠る己の微笑む頬に涙が伝ったことを悟った。
幸いなるかな。籠の中にて結ばれた、叶わぬ恋の夢を見る。
●
夢など長らく見ていない。
見得ぬものがやたらとよく見え、現実と夢の区別がやたらとつく目である。降り注ぐ、或いは見上げる無数の眼差しの気配の中で、左右非対称の不規則な足取りが花畑に近付いた。
粛々と横たわるさまは自ら葬送を望むに似ている。昏い天井を瞼で遮っても、見える景色にさしたる違いはなかった。
氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の夢は荒唐無稽である。
瞬きの裡に――少なくとも彼の意識のうえでは一瞬の間に――眼前には|いつもの《・・・・》光景が広がっていた。たとえば猥雑な繁華街から一つ奥に入った路地。たとえば書類の積まれたデスク。たとえば昏い下水道管。|異能捜査官《カミガリ》の仕事は今も昔も大して変わらず、故に眞澄のやっていることも大差はない。
横合いでへらへらと笑う相棒のいつもの調子に首を横に振る。サングラスの向こうの――当人が知ってか知らずか己を幾度も掬い上げて来た紫紺の双眸を一瞥したのち、男は半ば諦念じみた感情で、首を傾げる相棒から視線を逸らした。
幸福は空気と同じである。折に触れて感謝をすれども、あるときにはあるとも気付かずにいるくせ、なくなった途端に窒息の痛苦に悶えることになるのだ。
眞澄は――。
|これ《・・》が続くことを疑ったことがなかった。よしんば消えるのだと想定したとして、漠然と
そう《・・》なるのは己の方であろうと思っていたかも分からない。しかし。
現実なぞというものは、夢よりも突飛で脆く、そのくせ取り返しがつかない。
分かっている。
とうの昔に理解している。横で笑う唯一無二の相棒の体に、血潮が巡る熱が宿っていることも。その拍動が一定のリズムで生き生きと跳ねることも。
それが眞澄の真なる幸いであったことも。
温度のある体で笑っていてほしかった。軽やかに地を蹴って歩いてほしかった。拍動の音を長くこの世に刻んでほしかったのに。
「氷野ちゃん」
――夢だと分かって縋ることの、何と愚かしいことか。
現実の彼は己で決めて魄を喪った。それを眞澄の一存で未練がましく引き留めることはしない。しないと決めている。
ただ。
今や戻らぬ幸福の在処を眺め、覚醒に近付く感覚に身を任せるその瞬間までも、目の前で|生きている《・・・・・》彼を焼き付ける。
目が覚めれば全て消える。眞澄の中の心臓は沈黙し、彼の魄は火にくべられ、絶えず流し込まれる|幻聴《ノイズ》の群れが弱り果てた空疎な体を反響するのだろう。
未練はない。縋るつもりも、足を止めるつもりもない。
それでも目の奥が眩むように熱を持つのも、目頭が痺れるように痛むのも、止められはしなかった。
幸いなるかな。己が|脳幹《メモリ》に焼き付いた、音の主を縫い留める。
●
目の前にあるものの形がよく見えない。
輪郭のあるような気もするし、単なる光体のようにも思う。焦点を合わせようとするたびに何故か視界がぼやける。
だが、雨夜・氷月(壊月・h00493)は目を開いた瞬間に理解した。
押し殺した不安が融ける。仮面に塗りこめた焦燥が消える。目の前にある暖かく柔らかな|それ《・・》に手を伸ばし、銀月の双眸はようやく満ち足りた光を取り戻した。
己がずっと求めていたのは、寸分たがわず|これ《・・》なのだ。
形も色も分からぬそれを腕の中に優しく抱き寄せた。温もりが氷月の胸を伝播して、その奥にしまい込んだものにまでも色彩を与えてくれるようだ。一度でも触れてしまえばもう二度と離せない。唇が描くのは常の享楽に身を浸すための仮面ではなく、いとけない充足の微笑みだった。
――もう我慢しなくて良いんだ。
腕の中のそれが語りかけてくれたのか、それとも氷月の心の裡から湧き出た理解であったのかは分からない。しかし彼はどうしようもなく腕に力を込めた。
壊さぬために諦める必要はない。崩さぬために偽る必要もない。
人の体を容易に破壊せしめる力で抱き締めても、それは壊れなかった。真っ直ぐに制御を忘れた魔眼で視ても、それは崩れなかった。温もりが凍てることも、腕から逃れようと藻掻くこともなかった。
氷月は――。
ここでは|氷月《・・》のままでいて良いのだ。力を解放しても否定されることもない。薄氷の上を渡るように力を制御しなくとも、誰かを傷付けてしまうようなことも起こり得ない。それの――。
何と幸福なことだろうか。
得難き温もりを強く抱きしめたまま頬を寄せてみる。懐くように無防備に擦り寄ってくれるのが何よりも嬉しい。ずっと罅割れていた心の裡側に、欲しかったものをなみなみと注がれる。そしてこれは幾重にも折り重なった|いっとき《・・・・》ではなくて、永劫に氷月の傍にいて、彼の終わるまで手を握っていてくれるのだ。
光に満ちて煌々と煌めく満月の眼差しは、しかしひどく冴えた脳裡を否定しえない。
斯様に美しき幸福などない。あってはならない。少なくとも現実の氷月の身に、|これ《・・》の許されぬことをとうに知っている。
光も温もりも遠き残響だ。永遠などというものは、人が起きながらにして見る夢に過ぎない。幾度指を契っても、どれほど言葉に熱を込めても、やがて来たる|そのとき《・・・・》には容易に崩れ落ちるだけの、砂城のようなものである。
この泡沫の夢と同じだ。
幸いなるかな。人に非ざる体の裡で、人の幸福を夢に見る。
●
「――嗚呼、貴方!」
歓喜の声は悲鳴じみて響いた。真白の栗鼠の尾がぴんと天を指すと同時に、少女めいた軽やかな足取りが満面の笑みを刷く。
燦爛堂・あまね(|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》・h06890)の目の前に、彼女を愛してくれた人がいた。あらゆる画材のにおいが混じり合うアトリエの中央に座したその人の前には、あの頃と違わずカンバスが据えてある。まるで少し席を外していただけのようだ。
「一体どこへ行っていたの? 描きかけの絵がたくさんあるわ、完成させるので御座いましょう?」
苦笑するばかりのその人の前で、あまねの姿は知らぬ間に一本の絵筆に変わっていた。伸びて来る指先が待ち切れない。いつもそうするように指の間に番えて欲しい。よく手入れのされた自慢の毛先に極彩色の絵の具をたくわえて、目の前にある真白のカンバスの上を翔んで、舞って――。
「……なあんだ」
ふと気の抜けたように、絵筆は肩を落とすが如く声を紡いだ。
「わたくしったら、やっぱり描いて欲しいんじゃあ御座いませんか」
己が尾の先で|描く《・・》のではなく。
あの人の指が良い。あの人の絵が良い。
一度絵筆を番えると、乾く間もないほどにカンバスに齧りついていた貴方。数多の色を、世界を、風景を愛した頑張り屋の貴方。双眸に映る世界を輝かしく絵に刻み込んだ貴方。無我夢中で|二人《・・》描き上げた後には、自身の疲弊も知らぬげに、絵筆を労わるように真白に戻してくれた優しい貴方。
貴方が見ているものを切り取るときに、その指先に番えられていることこそが、あまねの限りなく美しき幸いだった。
もう何一つも覚えていない。彼女の中にあるその人の思い出は、今や幾度も番えられた指の感触と、自在にカンバスを奔る感覚だけだ。
それなのに。
疾うにこの世にいないその人の手に再び収まる夢を見る。真なる幸いを映し出すというそれの、何と正直で残酷なことか。どれほど呑み込んだふりをしたって、いかにアトリエに絵を連ねたって、これでは未練の塊のようではないか。
自嘲の声が嗤っても誤魔化せはしない。己が自慢の尾で描いたいかなる作品も、目の前で埋まっていくカンバスの彩りに敵わないと分かってしまう。
当然だ。
あまねの知る世界は|これ《・・》なのだ。貴方の手の中で、|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》いる。
高揚の裡に差す冷や水を理解したところで何らの役にも立ちはしなかった。
「――嫌になります」
あまりにはしたなくて。
幸いなるかな。筆先に焼き付く指先と、真白のカンバスを染め上げる。
●
痛みの少ない蔓薔薇を、肩から手先に掛けていく。
真白の花を携えたそれが首裏に小さく残すささくれた感触が、五香屋・彧慧(空哭き・h06055)に仮初の肉体を与えた。足先の感触はない。余人には薄く透き通る下半身と、中空に浮く上半身だけが見えていることだろう。
白花の中に横たわり、ごく自然に香りを鼻腔に招き入れた。無数の眼差しが彧慧を見下ろしている。昏く淀み沈んだ高い天井の闇の中から注がれる視線一つ一つを視認して、彼女は指先を擽る花弁の柔らかな感覚に問い掛けた。
さしたる記憶は戻って来ない。横たえた人間を呑み込む根の景色が戻るだけである。
新たな蕾が彧慧の真横で花開いた。白薔薇が頬を撫でる感触に抗わず目を閉じる。
己が意志で下った夢の階段の先にある扉の向こうに――。
在りし日の幸福が手を伸べた。節くれ立って大きな男の掌だ。しかし彧慧が想起していた、彼女の隣で歩み眠った彼ではない。もっと幼い頃に彼女の手を引いてくれていた、父のものである。
彧慧は彧慧としてあまりに永き時間を過ごした。記憶の奥底で静かにまどろんでいたはずの面立ちは、とうにぼやけて曖昧になってしまったらしい。夢の中でさえ思い出せない、しかし父だと分かる懐かしい出で立ちの手を取れば、その人は摺り硝子じみたノイズの向こうで笑ったように見えた。
彧慧は――。
手を繋いで初めて、己の体が幼い娘のものになっていることに気付いた。
抗わずに足を進める。年端も行かぬ少女と大人の男性の歩幅は違いすぎて、彼が幾ら緩慢に歩いても、彧慧は足早になるほかなかった。導かれる先にあるのは人の輪だ。ふと一人が振り返り、迷いなく彼女たちを手招いた。
誰もが当たり前のように彼女たちを受け入れる。誰かと誰かを並べて劣等をあげつらう悪意の籠った視線もない。皆が笑って一つの食卓を囲み、食材を分け合って仄かな幸福を口に運ぶ――。
嘘だ。
|幸福《・・》のレッテルを上からそのままなぞったかのように浅薄だ。彼女の知る世界はこんなにも都合良く優しくはなかったし、かくあれかしと願ったことがあるのだとしても、遥か過去のことである。
それでも彧慧は、隣で笑っているのだろう父の、摺り硝子の顔を見上げた。その向こうで抜けるような青空を飛び去る飛行機ごと。
――何故。
何故人は空に手を伸ばしながら、鮮やかな青を紅色に染めるのだ。空に届くための道具を戦う武器に変えてまで。空を切る歓声を地に蔓延る悲鳴に変えてまで。
彧慧にとって本当に大切だった依る辺を、蒼穹の彼方にずっと取り上げてしまってまでも――。
軍服は揺れない。あの頃のような重みさえ、彼女はもう纏えない。
幸いなるかな。理想の上辺をなぞる指に、掠れた真なる幸福を見る。
●
能々廃墟に導かれる運命らしい。
取り留めのないことを考えながら灰色の建造物を見上げている間、男は漠然と己の見る夢について思索を巡らせていた。生命維持を要さぬ身の上だ。真なる幸いの夢――といわれても、そも夢なるものと縁遠い。
それでも、まあ。
身を横たえた白花の冷たいベッドの上で、与えられると分かっている幸福を受け取るのも、人生の娯楽の一環であろう。舌を楽しませるために用もなく食事を摂取するのと同じだ。
迷いなく目を閉じた徒々式・橙(|花緑青《イミテーショングリーン》・h06500)の視界が明るい日差しに照らされるのと、その眩しさに思わず目を開けるのとは、殆ど同時だった。
見る夢なぞとうに決まっている。だから、目の前にある光景に落胆も驚嘆もなかった。
曰く夢は記憶を整理するためにあるのだという。眠っている間に流れる脳漿が、そうして新しい隙間を作るらしい。
橙の|これ《・・》はそういうものではない。
祈り。願い。誰でも良いから拾わぬものかと放り投げられる理想。己が手で掴み取る――なぞというお為ごかしの裏で、人が折り重ねた無数の無責任な言葉である。
誰でも良いから手を握っていてほしいと願った少女があった。指先に触れる手の主を見上げて嬉しげに笑っている。今晩だけは誰かに隣にいてほしいと祈った男があった。存分に涙を流しきった後には赤くなった鼻で酒を傾けている。
誰かに代わってほしい。誰かの声を聞きたい。何でも良いから縋るものが欲しい。誰でも良いから助けてほしい。何だって良いから――。
――|唯一無二《・・・・》なんぞでなくて構わないから。
「幸せな夢ですよね」
|誰かにとっての《・・・・・・・》。
成程確かに都合が良い。橙にとっては見飽きた光景だが。
彼自身を構築する未来の再生だ。投影である。目の前にあるようでいて、スクリーン越しに流れていく映画のようでもある。|彼ら《・・》の目の前にある男の顔はいつでも眼鏡の底で笑っているが、呼ばれる名も向けられる視線も、一つとして彼自身を表してはいなかった。
結局のところ、血を吐くような願いの在処が真実誰でも良いことは少ない。
やがて|誰か《・・》が現れれば、急場凌ぎの代用品にあれほど縋った掌は簡単に離れていく。あらゆる願いと祈りの混在の上に生まれた者はあまりに汎用的すぎて、誰かの夢にいっときの水を注ぎはすれども、己が夢を見る機能には恵まれていないのだ。
|代替品《イミテーション》は夢を見ない。ポップコーンでもあれば、もう幾分か気分がましだったかもしれないが。
幸いなるかな。己が領分を違えずに、届かぬ夢の前に立つ。
●
純真も無垢も純血も、この花畑の真意には似合うまい。
悪意があるのやらないのやら分からぬ視線が膚を刺している。真白の内包する意味を蹂躙するかの如きそれらを一瞥し、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)は細く白い息を吐く。
ここを訪れた者らの心を否定はしない。
この世界にはあまりにも苦しみが多すぎる。黄昏の気配に圧し潰されぬよう、僅かの享楽の水で今を飲み干す彼らには、幸福の夢の蜜はあまりに甘すぎる。
故に、澄夜は目を伏せた。神の眼差しに従順なるさまを示す、敬虔なる殉教者の如く――。
緩慢な深い眠りが身を包んだ。やがて下るまどろみの先に、ふと浮かび上がるように笑う顔がある。一組の睦まじい男女と、その間に立って彼らを見上げているいとけない少女の眼差しが、示し合わせたように澄夜を捉えて屈託なく笑った。
村――。
ではない。
光の裡とでもいうべきような空間だった。忌まわしきものの全てを剥ぎ取った想像の中で、黒い翼を背にはためかせる父と、白い翼で子供らを包む母と、母によく似た姉が手を広げていた。
少年の姿のままで歩み寄る。旧懐が罅割れるように胸裡で疼いた。思えば彼らの許で愛に触れながら過ごした日々も遠く霞み、独り歩む時間の方が長くなってしまったな――と思う。
疾うに忘れたと思っていた指先の輪郭は確かだった。記憶とは奇妙なものだ。平時には片隅に掠れて浮かぶだけなのに、こうして目の前に取り出されてみれば、笑う顔も声もいたく鮮明に澄夜に触れる。
或いは――。
それは彼の未練などではなく、怪異の齎す悪意に過ぎぬのかもしれないが。
ここに絡め捕ろうとしているのか。それともこの先に待ち構えるという何かのための下準備か。真実これが澄夜の中にある未練の証左であるにせよ、無理に引き摺り出して再現する意図なぞ碌なものではなかろう。
母の指が頬を撫でても、父の腕に抱き締められても、澄夜の心の奥には鉛の如く冷たい感覚が渦巻いた。
浸れはすまい。覚えているからだ。
灼ける村のさなか、倒れ伏した父と母の翼を捻じ切る狂者どもの姿を。彼らに引っ立てられてのち、未だ幼き膚の裡に綿を詰められ、剥製となった姉の姿を。
――故に怪奇よ、今は嗤え。
ともすれば嗤いすらせぬのやも分からぬそれの喉元に、澄夜は必ずや喰らい付く。無惨なる屍と変えてやる。抗うまでもなく、じきに来たるそのときに、 彼が躊躇することはないだろう。
抱き留められた懐かしい腕と名を呼ぶ声に応じ、霜の如き凍青の眼差しは夢の奥を睥睨した。
幸いなるかな。泥濘に沈められた在りし日の、柔き血潮に身を窶す。
●
白花が僅かに露出した皮膚を撫でている。
一体何のために斯様な寝具を用意したものか、勘繰るのは板についた異能捜査官としての習慣のようなものだった。しかし抱いた疑念の有無も知らぬげに、花々の香りは夜鷹・芥(stray・h00864)の浅い眠りを夢へと覆い隠していく。
「――芥?」
呼ばれて我に返った。
見遣れば金木犀が揺れている。優しくて快活で、僅かに低く耳朶を揺らす、聞き慣れた声だ。
「箸、止まってるぞ。こいつらに全部食われて良いのか?」
笑う顔を茫洋と眺める芥は、促されるままに手許に視線を落とした。暖かな部屋に鍋が茹っている。その中から好きな具――主として肉だ――を我先に突く双子の箸が過ぎった。渡し箸を注意されてはどちらが悪いの悪くないのと口論し始める彼らを横に、芥は小さく頭を振った。
「……いや、ぼーっとしてただけ。悪い夢を見てたみたいだ」
「何だよ、目開けたまま寝てたのか? ここのところ忙しかったから疲れてるんだろ」
「いや、疲れてないから」
「遠慮するな、ほら」
金木犀の箸が、喧嘩に夢中の双子の横をすり抜けていく。有無を言わさず彼の手に収まった芥の取り皿に声を上げる間もない。鍋の中の肉が全て乗ったのではないか――と思うほどの頃合いになって、漆黒はようやく咎める台詞を口に出来た。
「そんなに肉ばっかりよそわなくて良いです。アンタもほら、俺ばっかりじゃなくて、自分も美味しいもん食って下さいよ」
「俺は良いんだよ」
「俺が良くないんですよ」
いつもそうやって誰かのために身を削る。だから――。
何だっただろうか。曖昧にぼやける痛みを振り解くように、芥の声が次の台詞を紡ぐ。
「いつも忙しくしてるんだから、長生きしてくれないと」
金木犀は笑った。
整った顔立ちをくしゃくしゃにする。当惑したような顔だ。或いは答えに窮したような。その顔をいつまでも見ていたいと願うのはいつでも同じだった。
取り皿は結局、肉をひと切れも下ろされないまま芥の目の前に収まった。明瞭な返答はなく、代わりに矛先を逸らすような質問が零れる。
「今日は饒舌だな。変だぞ。どうした?」
問われて、芥の指先は胸元に触れる。
ずっと穴が開いていた気がする。冷たい雨が無慈悲に流れ込んで来るのにじっと耐える|夢《・》を見ていたようにも思う。この部屋の温度も、聞き慣れた声も、金木犀の香りも消えてしまう夢を――。
「……わからない」
それでも。
「俺は……この時間が永遠に続いて欲しかっただけなんだ」
懺悔じみた悔恨の声は、今は彼自身にも触れ得ぬ傷痕をなぞって、与えられた愛情の上を転がり落ちた。
幸いなるかな。止まない雨に背を向けて、在りし旧懐の熱を見る。
●
「行け、チェスター!」
声が届くよりも先に体は走り出していた。猫の如き双眸は絶好のチャンスを逃さない。相手の妨害を受けて、僅かに己の手前に止まるであろうパスの軌道を正確に読み切って、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)の靴裏が土を舞い上げた。
真白だったスパイクは使い込むうちに土埃の色に汚れている。抜けるような青空の下を金色が駆ける。ボールが回ればマークされるのはエースの宿命だ。迫り来るディフェンダー目掛けて軸足で踏み込む。そのまま向こうに見える味方目掛けて打ち上げられるかと思ったボールは、しかし通り過ぎた足によって横合いへ流された。
咄嗟の判断に迷った目の前の体を置き去りに走る。捉える感覚を研ぎ澄ませ、今度こそ強く踏み込んだ足と共に振り上げられたもう片方の爪先が、白黒のボールの芯を捉えた。
キーパーの予想と正反対に飛んだそれが勢いよくゴールネットを揺らす。刹那に鳴り響いたホイッスルが試合終了を告げ、肩で息をするチェスターにいち早く勝利を伝える。
唇に会心の笑みが浮かぶことは避けられない。吊り上がった口の端を隠さず、汗を拭いながら振り返れば、揃いのユニフォームに身を包んだチームメイトが歓声の雄叫びと共に駆け寄って来るのが目に映った。
避ける間もない。此度のMVPを肘で――些か痛いくらいに――小突き、今日の晴れ舞台のために入念にセットした金の髪をめちゃくちゃに掻き乱されて、チェスターは笑った。
「おいおい、それが勝利の功労者に対する態度?」
こちらからも仕返しだ。思い切り背中を叩いてやって、襲い掛かるように髪に取り付いてやる。一頻り笑って勝利の味を噛み締めてから、彼はようやく黄色い歓声を振り返った。
ギャラリーは満員だ。チェスターと変わらぬ年頃の少女たちは、今日の立役者にすっかり熱を上げていた。片手を上げて爽やかに笑って見せればそれだけでひときわ大きく声が上がる。そうすると余計に僻み混じりの攻勢が増すのが常なのだ。
他愛もない声を交わして汗のにおいが充満したロッカールームに引っ込む。今日の試合の高揚で持ちきりだった話題は、次第に次の練習のことに移り変わる。白黒のボールと濡れた芝生を踏みしめる感覚をこよなく愛する彼らと声を交わしたら、チェスターの唇は笑みを刷いたままに家路を辿るのだ。
試合の後の夕食は豪華だ。だから今日も、母と父は息子のために最高の料理を用意してくれているに違いない。その席で今日の試合結果を伝えれば、二人の笑顔がチェスターを包み込むのだ。
紛うことなき幸いを確信して、少年の掌は迷いなく生家の扉を押し開いた。
幸いなるかな。曇天を突き抜け降り注ぐ、陽だまりの追憶を目に映す。
●
咲き誇る花は、成程、蜘蛛の巣の描く形のように美しい。
いっそ幾何学的なほどに甘やかに咲き誇るそれが人々を誘うという。ならばどこへともなく連れ去られると分かっていながら身を横たえる香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は、食虫花の罠に自ずから足を滑らせる虫であろうか。
どうにせよ輪郭を結ばぬ眼差しを伏せる。やがて這い寄る眠りの感覚に身を委ね――。
目を開く。
蒼穹を見上げていた。遠くを鳥の群れが飛んでいくのが見える。一羽一羽の影が黒ぐろと青空を遮り、遥か先を目掛けて一心不乱に飛び去っていった。
「鳰。今日は何処へ遊びに行く?」
渡り鳥だろうか――取り留めもないことを思った鳰の名を、優しく柔らかな声が呼ばった。
視線を結ぶ。片時も忘れたことのない姉が笑っていた。その体に傷痕も包帯もなく、|胼胝《たこ》のない娘の白魚のような指先が日光に白むのが|よく見える《・・・・・》。
だから鳰も笑った。喉を揺らす声が、思ったよりもずっと少女じみて弾んでいるのを自覚する。
「そうね、姉さん、今日は街中へ行かない? 友達が新しいお店が出来たって言っていたの」
「賛成。何ていうお店なの?」
「確か……『藤や』だったかな?」
和菓子と茶が旨いのだと友人が笑っていた。きっと店主は風変わりで、しかし穏やかに懐深く、新しい来店者を迎えてくれるだろう。必ずや味は良いと、|食べたことがなくとも《・・・・・・・・・・》知っている。
父と母にも土産を買って帰れば喜ぶ。明日来訪する予定の|お客さん《・・・・》も、極上の茶と茶請けがあればきっと喜んでくれるに違いない。
指折り未来の予定を数える。今日も明日も幸福だと、隣の姉も健在の両親も、彼女自身でさえ疑いはしない。
鳰は何も亡くさなかった。
亡くさねば手放す必要はなかった。手放さねば欠けることもなかった。
欠けなければ――今傍にいないはずの存在でさえも、この夢の中にはしかと在ってくれる。現実の因果も、そうなるまでの経緯も無視して――さながら不出来なパッチワークのようだ。一枚の布から無遠慮に美しい絵だけを切り取って、それを無粋に継ぎ合わせるだけの。
鳰は全てを等しく大切に思っている。だからどれ一つ手放せない。真なる幸いとして目の前に映る景色が、己にとって都合の良いだけの継ぎ接ぎであると知っていても。
だから笑う鳰の眸の裡に、赤熱する灰のように疼く心は消えてくれない。
未練も、後悔も、罪悪感も。
幸いなるかな。亡失と獲得の天秤を壊し、完全なる未来を目に映す。
●
幸いとは呼吸のようなものである。
なければ|ない《・・》と気付くのだろう。苦しいからだ。しかし|ある《・・》ときにそれについて思いを馳せることは多くない。不幸との相対によって生まれる概念は、結局のところ不幸らしい不幸を感じなければ脳裡に浮かび上がることもないのである。
そういう意味で、不来方・白(「おがみ様」・h00013)は幸福の何たるかに真面目に向き合ったことは多くない。
幸福かと問われれば分からぬ。しかし少なくとも特別に不幸だとは思ったことがない。課された役割が故に誰かに好意を向けられることはなくとも、彼女を敬い畏れる村の衆を相手に不自由をしたことはないし、学校生活にもさしたる支障があったことはない。
それに。
最近は村の外から来る人が増えた。友人――と呼んで良い相手も出来た。
だから夢だ。
いつも通っている学校ではなかった。窓の外を埋め尽くすのは、森深い山村では到底見ることの叶わない摩天楼の群れである。
白はすんなりと村を出た。|おがみ役《かみ》ではないから。流行りのブレザーとチェックスカートの制服に身を包み、新築同然の廊下を歩く。すれ違う友人たちは気さくに声を掛けてくれるから、幾らか言葉を交わして放課後の約束をして手を振る。
次の長期休暇には、帰省の予定がない寮住まいの仲間たちと旅行に行く計画を立てていた。インターネットで情報をチェックするにも随分慣れたが、やはり紙の方が手に馴染むから、今日は目的地に関する旅行誌を買いに行くつもりだ。
昼休みには長めの立ち話も許される。テストの点数についての愚痴を零す一団の横を通り過ぎる男女が手を固く繋いでいるのを、白の紅色の双眸が追った。
恋人が欲しい――とぼやいたのは誰だったろう。
「そうね、私も」
――恋に恋してみたかった。
誰かと手を繋いで笑い合うのはどういう気分なのだろう。唇を交わすことを考えて顔を熱くしたりするのだろうか。まるで|ふつうの《・・・・》女の子みたいに。
笑う頬に濡れた感触が一筋伝った。滲んだ視界の向こう、磨き上げられた廊下に反射する己の顔を見遣りながら、白は胸元に指先を這わせた。
理解している。
これは夢だ。だから白は村にいない。当たり前の生活をしている。美しい幻想の中に映し出された己の姿は、涙なんぞを零しもする。斯様に荒唐無稽なことは、現実では起こり得ない。
白は――。
|おがみ様《ヒトではないもの》だから。
幸いなるかな。|不痛《フツウ》の鏡の向こう側に、|普通《フツウ》の少女の顔を見る。
●
砂糖菓子なんぞ好んで口にはせぬ性分である。
真なる幸いなるものがあるとして、その甘みが口に合うかどうかは別の話であろう。幻影に足を惑わされるには些かならず現実を知りすぎた。苦渋を噛み締めれば噛み締めるほど、荒唐無稽に口中を蹂躙する甘美に舌が合わなくなるものだ。
とまれ見られるかどうかすら怪しい夢を見ねば話が始まらぬというなら、従ってやることに否やはない。
無遠慮に白花の寝台へ横たわり、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は金色の隻眼を迷いなく伏せた。待ち侘びたように纏わり付く泥濘に似た眠りの感覚へ自ずから手を伸ばす。
やがて――。
差し込んだ光は拍子抜けするほど凪いでいた。
眼前には大きな庭がある。どうやら窓の向こうを見詰めていたらしい。緩慢に隻眼を巡らせれば、無人の廊下と沈黙する扉の数々が立ち並んでいる。
生家か。
それにしては穏やかだ。そもライナスが独りで部屋の外を歩くことは滅多になかった。本来であれば生まれるべきでなかった妾腹の息子を、毒婦に絡め取られた使用人たちの目は逃さない。窓硝子に映る、僅かに目を眇めた己の顔を指先でなぞったとき、ふと懐かしい声を聴いた。
「ライナス」
振り返ることに躊躇はなかった。
する余地もなかった――という方が正しいか。ライナスにとって抗うべくもない、心の奥底に眠っていたそれは、ごく当たり前のように耳朶を擽る。
先まで硝子に映っていた顔とよく似た女が立っている。嬉しげな眼差しは彼が知るよりも二回りばかり歳を経ていたが、なお美しい容貌に変わりはない。
それで。
男は口の端を自嘲の形に吊り上げた。
眼前に突き付けられてみればごくすんなりと得心した。その手に守られるほかになかった幼い少年が戦えるようになるまで永らえてくれれば、確かにあの悍ましい家を抜け出すことも出来たかもしれない。生きる糧を得るにも年端も行かぬ少年独りほどには苦労しなかったろう。何れ斯様な邸宅を得て、腰を落ち着けて安穏を与えてやれさえすれば――。
――生きていてくれさえすれば。
皺の刻まれた手を握って見送れたのだろう。あの凍り付いたような横顔でなく、ライナスに生きるすべを与えるときの思いつめたような顔でなく、毒で孤独に苦しむ羽目にもならず笑顔で永遠の眠りに就けたのやも分からない。
甘ったるいだけの砂糖菓子の如き――真なる幸福だ。
隻眼が皺の増えた掌を視線でなぞる。当然のように手を取る母の指先は、幼い息子の傷口を慰めたときと寸分たがわぬ優しさで、男の手を引いて笑った。
幸いなるかな。悔悟の裡に飴を食み、二度と取り得ぬ指を取る。
●
そも何をして幸福と定義するのやら分からぬ。
己を殊更不幸だと思ったことはない。一つ一つを取り沙汰して不幸といわれれば不幸ではあろうし、幸福であったといわれれば幸福であろう。いずれにせよ、時司・慧雪(界岐堂・h00889)にとって、斯様な概念は曖昧に霞むものであった。
ただ――白花の寝台に身を横たえたとき、日頃の浅いまどろみが急速に夢の淵に引きずられていく感覚は、慣れぬばかりに不安感を煽った。
瞬きの間に地に足がつく。僅かに傾いた体を反射的に体幹が引き留めたのだ。顔を上げた先にある光景に、慧雪は僅かに紅色の双眸を眇める。
見覚えはある。
しかしどこであったかをすぐに特定するのは難しかった。顎を撫でて暫し、ふと脳裡に蘇ったのは、嘗て過ごした街のことだ。
祖父母の家があった地である。
むろん母方である。父はそも親らしい親が生きているのかどうかも知らない。顔を見たことすら一度しかない相手の家なぞ知りはせぬ。
歩む足取りは曖昧な記憶の輪郭を少しずつ結んでいくようだった。顔を見て名が浮かぶことこそないまでも、少なくともあの街の中ですれ違いはしたのだろう顔ぶれが、何ら変わらぬ平日を送っているのが視界の端を掠めていった。
しかし誰もが彼の存在を気に留めない。
口の端に名が昇るのを聞いた。談笑する声の端々から、少年の頃の己を感じさせる言葉を聞き取った。そのどれも、慧雪が一歩を歩むたびに消えていく。やがて己の手足が僅かずつ人の色を失って、周囲の景色が透けるようになるのを感じる。
やがて――。
|それ《・・》は男の存在そのものを覆った。
人々の体がすり抜けていく。気付けば銀光を孕む黒髪も、紅色の宝石じみた光を孕む双眸も、触れることすら叶わぬようになったようだった。
まるで幽霊のようなものである。
しかし誰もの記憶から零れ落ちた幽霊を、誰が|在る《・・》といえようか。この世のいかなる場所からも――人の頭の片隅からさえも――消えたのであれば、今や慧雪は存在するとはいえまい。
成る程――独り語ちる声も空気と同じで透明である。
己が映す幸福の何たるかも分からぬままだったが、斯様なものを|真なる幸い《・・・・・》と定めるか。
人の世界に在ることを良しとしない。慧雪という男の存在そのものがすっかり人倫の合間から消え失せれば、それは人から完全に分かたれたといって差支えはないだろう。
人間と妖の狭間に生まれ落ち、どちらともつかずに生きて来た。故に|半分《・・》ばかりは、|ひと《・・》であると疑いもしなかったが。
思っていたよりも、己はひとではないらしい。
幸いなるかな。人の営みへ背を向けて、己が証を奪い去る。
●
「おにいさま」
幼き日に、少女は小高い丘に立った兄をそう呼んだ。
水の如く流れる色素の薄い長い髪と、背に一揃いの翼が、エル・ネモフィラ(蒼星・h07450)の頬を撫でる風を孕んで緩やかに揺れていた。雲一つない空から注ぐ陽光が幼い少女の小さな世界を遍く照らし出し、兄の居場所をも教えてくれた日だ。
よく風を感じられる場所で、兄は緩慢に振り返る。迷いなく歩むエルの足取りが彼を疑ったことはない。穏やかな、しかし節くれ立った一端の戦士の指先を見る。
「ここの風は優しいだろう」
兄と同じことを思っていたから頷いた。心地良く清涼を孕むそれを体に浴びながら、彼女は抜けるような晴天と兄を仰ぐ。
影になった彼の手が蒼穹へ伸びる。見えぬ何かを掌に留めるような仕草の意味が分からぬまま、首を傾げるエルの横で、彼は小さく口を開く。
「風は、戦いには役立たない」
では何故。
エルが口を開きかけたとき、続く声は静かに決意を携えて言葉を紡いだ。
「……だが。守る理由にはなる」
意味がよく呑み込めない。守ることと戦うことの間にあるものの大きさを、未だ幼い少女は上手く噛み締められなかったのだ。
曖昧に首を傾げて瞠目する妹の青い眸を、兄はじっと見下ろしていた。その手が徐に伸びた先に、彼女の柔らかな翼がある。
「なにかを好きでいられる心がないと、剣はすぐに濁る」
走ったせいか、或いは風と戯れたせいか、よく整えられていた羽が乱れていたらしい。痛みのないよう優しく撫でつける指先をくすぐったく受け入れながら、エルは兄の紡ぐ言葉の一つ一つに耳を傾けた。
やはり意味はよく分からない。しかし何が言いたいのかは、先よりは何となく理解が及んだ。
だから。
「お前には、何か守りたいものが思い付くか?」
「私が守りたいのは――」
問われたときに、すぐに蒼穹に手を伸ばせたのだ。先に兄がそうしたのと同じように、見えぬ何かをいっぱいに腕に迎え入れるように。
「この風、ひかる空、それと」
見上げた先に兄がいる。エルより高い背は逆光を浴びて、顔に落ちた影で表情がよく見えない。しかし彼女の羽を撫でてくれる掌は優しいままだから、少女のあどけない声はなお迷いなく、その顔を見詰めて瞬いた。
「いま」
――影の中で、兄が静謐に微笑んだのが、今度はしかと感じ取れた。
「それなら、お前の剣は、きっと美しい」
幼い少女の中でまどろんでいた騎士の心が芽生えたのは、風の穏やかな午後の丘でのことだった。
幸福とは儚い。一つ一つを手に取って確かめることすら難しいから、時に人はそれを簡単に忘れてしまう。しかし。
柔らかく脆いものを掌に包んで抱き締める優しさと、剣を手に果敢に前を見据える強き眼差しは、同じ場所から生まれるのだ。どちらを失くしても護る者にはなれない。濁った剣の行く末は、きっと在りし日の憧憬すらも切り裂いてしまう――。
だから。
エルは幼き日にそうしたように、今も風を見る。いっぱいに体に抱き止めた穏やかな小高い丘の風を思い返すように。守りたいと願い、心の奥底でひたむきに愛し続けたあの日を思い出すように。
いかなる場にあっても、いかなる相手を前にしても――剣が濁ってしまわぬように。
幼い日を永遠に映し取った真なる幸いは、まどろみが醒めるまで彼女に剣を返さない。一揃いの翼と長い髪を、いつか翼を撫でてくれた掌によって失った日は訪れない。
それでも――幼い少女の裡で、鮮やかな蒼天に流れる風を見詰めたエルの心は、今はまだ憧憬の在処でしかない背に問い掛けた。
――あなたの剣はどこに在りますか、兄上。
幸いなるかな。焼け落ちた日の旧懐に、心の在処を問い掛ける。
●
息がしやすい。
吐き出す吐息が白く濁ることも、不愉快な熱が頬に混じり合うこともなかった。身を横たえた白花の寝台は柔らかな雪の感触に変わっている。その下に眠っているのだろう土すら氷に鎖され、春は二度と訪れない。
誰にも踏み荒らされぬ新雪を絶えず降らせる重い曇天を、冷嶋・華子(つめたい・h03803)の吐息だけが生きて見上げている。
災厄は命ある全てを根絶した。
世に満ちていた熱は消え果てる。青々と咲く山も、極彩色の花々も、人の営みも――生きて熱を灯し、或いは熱なくして生きてはゆけぬ全ては、遍く華子の齎した零下の極寒に熱を奪われて絶えたのだ。
そういう夢である。
腐り果てるための温度すらも世界から喪われて久しい。有機物を分解せしめる微生物すらも今や死の雪の下に眠っているのだろうから、あらゆる熱塊の骸もまた、きっと永劫に雪と氷の下に堆積し続けることになる。
しかし――。
華子は己の名を呼ぶ声で、不毛の曇天から真白の地に視線を移した。
手を振っているのは小さな書堂の主だった。新緑を思わせる鮮やかな髪の下で、女性と見紛う柔和な笑みが彼女を呼んでいる。その横を駆け寄って来るのは魔法使いの卵だ。懐こい笑みは常と変わらないが、生きていれば新雪に取られてしまうのだろう足は、転ぶことなく近寄って来る。
どちらももう熱は持っていない。本来の魄は永劫の|つめたさ《・・・・》の下に埋められて、代わりに剥がれた魂だけがこの地にあるのだ。他の全ての者と同じだ。一つ違うことがあるとすれば、世界に永久の絶滅を齎し、次の繫栄を奪った華子に笑いかけてくれること――。
まるで、|こうした《・・・・》のが彼女であることなど知らぬげに。
零れ落ちる吐息は常のように冷たい。だが今は大気の全てが同じ温度をしているから、|つめたい《・・・・》と感じることさえない。描いた笑みで歩み寄る華子の、一人分の質量だけが、もう他の誰の温度を受け入れることもない真白の大地に足跡を残す。
「もう、熱も命もないのね、あなた達も」
伸ばした手は染み着いた躊躇と共に宙を彷徨った。だから言い聞かせるように声を零して、己の中に事実を染み込ませる。
そうすれば――。
華子には、もうこの手が触れ得ぬことに躊躇う理由はなくなる。
「わたしと一緒ね」
優しく包み込んだ掌の感触を確かめる。華子のあまりに|つめた《・・・》すぎる指が熱に焼かれることはない。彼らの命を、華子の|つめたさ《・・・・》が蝕むこともない。
確かめた途端に欲が出た。言葉にするのは憚られ、腕を軽く広げてみせれば、二人分の凍てた温度が確かに身に触れる。誰との間にもあった境は既にない。友人が交わしてくれる抱擁の質量に応じて、華子は初めて静かに目を伏せた。
「……ずっと、|誰かに触れてみたかった《こうしたかった》の。わたし」
絡み合った災厄は熱を拒み、命を奪う。さりとて華子は悲しいほどに|生きて《・・・》いた。心までも|つめた《・・・》ければ何も思いはしなかったものを。この地に踏みしめる新雪のように無垢であれば、何に躊躇う必要もなかったものを。
だが――。
「夢が叶ってしまったわ」
本当にただの夢でも、華子の手の中には、確かに友の質量がある。
自嘲の吐息が凍てる大気に零れ出る。絶え間なく降る雪は友の体をすり抜け、華子の体にばかり柔らかく圧し掛かっている。
叶わない方が良い。
全ての熱が消え果てた世界なぞあって良いものではない。とうに知っている。とうに理解して来た。だから彼女は災厄と名を受けることに甘んじて、なお外の世界に身を晒すことを許されるような立場にいるのに。
きつく抱き締めた二人分の|つめたい《・・・・》体から、手を離すことは出来なかった。
幸いなるかな。綴じた|性《しょう》の蓋を外し、凍てる終末を夢に見る。
●
所詮は紛いものだと知っている。
白花の純粋無垢をひたむきに信じられるような時分は疾うに過ぎ去って久しい。いかに人の心が甘味を求めるからといって、そればかりを継いで接いだ甘美なる都合の良い幸福なんぞは、いかにも現実離れしていて児戯めいている。
それでも――。
身を浸す前から分かっていても、三珂薙・律(はずれもの・h01989)の指先は花弁を撫でた。嘗てあった、今は戻らぬものにいっとき身を預けるのもまた一興であろう。所詮は散り失せた残骸のようなものだと知ってなお、金色の眼に映る|その先《・・・》を識ることに手を伸ばしてみたくなったのだ。
伏せた眼差しにまどろみが這い寄る。やがて薄暗く鎖された意識が光に引き寄せられた頃、律の月光の双眸には在りし日の光景が蘇っていた。
いつだったろうか。未だ√妖怪百鬼夜行が、戦乱を経る前のことだ。
かの戦によって身罷った父母の姿は熱を保って在る。今は兄の前から行方を晦ました弟も、二人の間で当然のように律を見た。
両親から幾重ともなく聞いて来た話を、久方ぶりに見詰めた顔にふと思い出す。
曰く、他の√でいう大正時代の頃に、退魔師がこの|世界《√》に迷い込んだのだという。父がそう語るたびに母が曖昧な顔をしていたから、律は当時より、恐らく別の――父には言えぬ――目的があったのだろうと察していた。
魔を退ける生業の者と大妖怪の関係なぞ武器を交える他にない。一触即発の関係は奇妙に縁を赤く染め、先に恋をしたのは大妖怪の方だった。
凛然と立つ女の芯の強さと眼差しの美しさが男を捉えて離さぬようになって暫く、ひと悶着どころでない紆余曲折の果てに、男女は夫婦となって子を成した。
二人の眼差しは律を優しく見詰めている。母は新しい植物を見付ければ自然を好む息子に一つ一つ教えてくれたし、他の妖怪からは畏れの混じる眼差しで見詰められる父の相貌は、子と妻の前では優しく緩むのが常だった。今になれば父があれほど遠巻きに恐れられた理由も身に染みて理解出来るが、幼い頃には優しい父の何がそれほど気に入らぬのか疑問に思っていたほどだ。
|良い《・・》両親だった。だからこそ心底から敬愛したし、相反する力の両面が身に宿ることに胸を張っていたのだ。
律が生まれて少し、母の血をよく受け継いだ弟が生まれた。
育つにつれ露わになる性質の、何とも素晴らしい者だったことを忘れもしない。万事小器用で|出来た《・・・》少年だった。非の打ち所がないとはまさしく彼のためにある言葉であろう――幾度羨んだかも分からない。
人格も才覚も祓いの力も弟の方が優れているともなれば、大抵は兄の劣等感が厄介を引き起こすのだ。お世辞にも仲睦まじいとは言い難い、喧嘩の絶えぬ仲であったことも、手から零れ落ちた今となっては旧懐の締め付けるような痛みの中にある幸福だ。
今はどこにいるのかも分からない。だが、必ずや死してはいないだろうと確信していた。あれほどの男がみすみす命を落とすとは考えられない。きっとどこかで生き永らえているのだろう。
律の前で笑っている家族は、かの戦乱を境にして、永久に集うことはなくなってしまった。あの頃にはあったはずの些細な憤懣も、今この体に流れる|大妖怪《ちち》の血が齎す|性《しょう》への嫌悪も、眼前に在る光景が齎す旧懐の熱に揺らいでいく。
彼は――。
その中には入れない。
無垢であった時分は過ぎたのだ。これがいっときの夢に過ぎぬと知っている。だから。
心に過ぎるのは、一抹の寂しさが齎す罅割れたような幽かな痛みだけだ。
幸いなるかな。霞んだ愛の灯火に、我が身を流れる血を思う。
●
まどろみの向こうには、在りし日の鮮烈な蒼空が広がっている。
|若き竜《アルグレーン》が未だ己が命運を知らぬ、幼く淡き日々である。過去に置き去りにされた夢想の中で、少年――ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)は、その日十六の誕生日を迎えた。
遡れば血脈は旧い。しかしその|旧さ《・・》に対し、立場が釣り合っているとは到底いえぬ家だった。世に名高き名門というには些かならず家格が足りず、不自由のない生活を買えるほどの財もない。それでも現代に至るまで繋ぎ止められて来た由緒に偽りはなく、それこそが生家にとって最も誇れる財であるといって良かった。
現当主もまた血筋を繋いだ。既に没落して久しい貴族の子孫らは、既に名声にも地位にも栄誉にも殊更の執着を示すことはなかったが、四人目の子が宿した髪色には皆が驚嘆と期待の声を上げた。
業火にも似た紅色の髪――この血脈にあって煌びやかな功績を残した大騎士である大叔父のそれとよく似ていたからだ。期待と祝福に満ちた父の声が彼に賜った最初の祝福は、大叔父に肖った|ケヴィン《・・・・》の名であった。
特段|かくあれ《・・・・》と言われた覚えもないが、やがて少年となった幼子は、まるで大叔父の背を追うようにして剣を取ることを選ぶ。自らの意志で握ったそれを握り締め、脇目も振らずに走り抜けているうちに、ケヴィンは従騎士の栄誉に手を掛けた。弱冠十三のことである。
その才覚は他の者を驚嘆させたが、何より周囲を感服せしめたのは、彼が生まれながらにして宿したとしかいえぬ騎士としての素養である。
単純な武勇のみが功績を作るのではない。騎士は怯んではならぬ。いかに死神の鎌と肉薄しようとも、震えや恐れを抱いたとしても、全てを呑み込んで堅牢な鎧の下に隠さねばならぬ。弱者の前に身を挺し、守ることこそが責務なれば、その心の苦しみにさえも寄り添えねばならぬ。
ケヴィンはいかなる相手にも何ら怯むことなく向き合った。未熟な手が届かぬ背を前にしても言い訳一つ口にせず、一つでも多く自らの学びに変える。荒削りの剣はやがて磨かれれば何より鋭い煌めきを放つであろうことを否応なしに予見させる目の輝きは、一度たりとも濁ったことがない。
明るくたゆまぬ心は真っ直ぐであるが、その分だけ些か不器用だ。それでも彼が誰かを切り捨てたことは一度もない。傷付き果てた者には懸命に寄り添い、その痛みに自らの心を震わせる――やがて歳を経れば自ずと円熟していくであろう言葉と心は、少年がより偉大な存在へ育つのであろうことを誰しもに感じさせた。
然れどもケヴィンが子供らしさを捨てたこともまた一度もない。好奇心は常に外の世界に向かい、彼の心を突き動かす冒険心に蓋をすることもない――。
「|真竜卿《レティア・ドラグーン》」と呼ばれる至上の栄誉に、彼であれば手が届くのではないか。
絶えて久しき大いなる騎士の称号は、偉大なる騎士であった大叔父ですらも終ぞ手に入れることが叶わなかった。次第に強くなる周囲の期待の眼差しはケヴィンにとって重圧にはなり得ず、少年は十六の誕生日に、遂に願い続けた正騎士の称号を得ることになったのである。
これから駆け上がるのだろう騎士としての道を、誰しもが笑顔で祝福していた。雲一つない蒼天に照らされる、最も美しき日のことであった。
僅か四日の後、少年が悲鳴と血のにおいに染まった故郷の中で、己が裡にまどろむ真実と運命を知ることになろうとは――未だ、誰も知らずに。
幸いなるかな。亡くした故郷の蒼天に、最後の祝福の夢を見る。
●
何ら変わりない日々である。
今日もいつもと大差なく仕事をした。ごく当然に食事をして、ごく平穏に酒を飲み、ごく普通に煙草を咥える。
そういう夢である。
唯一、ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)の知る現実との差異を指摘するなら、どの行為にも些かの違和感が纏わり付くことか。
何とはなしに食事が食べ|やすい《・・・》気がした。酒を飲み干すときにもやり|やすかった《・・・・・》から、つい杯が進んで飲みすぎた。今しがた咥えた煙草も吸い|やすい《・・・》。どれもいつもよりも明瞭な味がしたようにも思えるが、そちらは感覚としては曖昧だ。それよりも、どれも|しやすい《・・・・》ように感ぜられた方の違和感が大きい――といった方が正しいかもしれない。
特段追求する気にならなかったのは、それが不愉快なものではなかったからである。
寧ろ居心地の良ささえ感じる。現実世界でもこのくらい|引っかかり《・・・・・》がなければ良いのに――なぞと心の底に思うのだから、成程幸いの夢と言われればそうであろう。
まあ。
肝心の原因には思い至らぬのだが。
まさか真なる幸いの夢といわれて効力がこれだけということはあるまい。頭の片隅にずっと呈していた疑問は、仕事や酒や食事やその他雑多の考えるべきことがなくなってから、ようやくノーバディの中に大きく鎌首を擡げた。
√汎神解剖機関にあって、マナーやモラルは人の享楽の二の次だ。漫然と捨て置かれているそれは街中の咥え煙草を咎めたりはしない。思索に身を任せるまま、当て所なく歩く足は、ふと室内から零れる灯りに|目《・》を惹かれた。
何のことはない服屋である。奇妙に明るく見えたのが何故なのかは分からぬが、ノーバディの眼差しは服に関心を示さない。一点に吸い寄せられた|双眸《・・》は、眉根を寄せる|己の顔《・・・》をまじまじと見詰める。
「――こんな顔だったっけ俺?」
曖昧だった違和感がいよいよもって質量を増した。途端に居心地の良い感覚が吹き飛ぶ。代わりに奇妙な不愉快さが胸の裡を満たし、男は思わず硝子に映る己に手を伸ばした。
平面の向こうにある|それ《・・》は、寸分たがわず今の彼自身を映し取っているはずだ。幾ら触れど触れ得ぬ立体は、ごく平凡な、どこにでもいる若い男の顔そのものの形でノーバディを見詰め返している。
おかしい。己はこんな顔では――。
違う。
「そもそも顔なんてねェよ」
煙草が落ちる。
虚しい感触に思わず視線を落とした。火種が燻る白いそれを見詰めたのは一瞬であったはずだ。それなのに。
視線を戻した先、窓ガラスに映る己は、|知る由もない《Nobody Knows》頭を欠いていた。そこにあったはずの男の顔はもう思い出せない。代わりに見飽きた無頭の空隙が、ノーバディの肩の上に乗っているだけである。
――ということは、未だ夢の中に囚われているのだ。
冷静に受け止める思考に感情が追い付かない。乖離した内情は冷や水を浴びせられたように色を失った。見飽きた灰色の街に、己が今しがた吸っていた煙草の灯火だけが、彼が見ていた|真なる幸い《・・・・・》の形を映し出している。
「ウッッワァ気分悪ゥ……目覚め最悪なヤツじゃねーかコレ」
モニターがあれば『|:(《きぶんさいあく》』の表示が点滅しただろう。しかし今はそれを表現するすべすらも失われている。ただ、どこから出ているのかも分からぬ声と共に、硝子の向こうの無頭の男が溜息じみた動きをするだけだ。
視界の端で燻る火がいやに邪魔で、男の足は乱暴に白い紙を踏みしだいた。
幸いなるかな。在らぬ充足の最果てに、映る欠落を直視する。
●
手には地図がある。何より木氣は身に馴染んだ。
やがて辿り着いた白花の寝台は、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)の前にただ沈黙して揺れている。触れれば柔らかな花弁の感覚が指先に懐くから、思わず小さく笑みが零れた。
眠れというなら否やはない。角と髪を横たえ尾で一撫でした花々は、常日頃ツェイの傍に在るそれらとは違って、一言も語りかけてはくれないようだった。
味気ない天井の漆黒を浴びて目を伏せる。柔らかな緑のにおいに誘われるようにして、ごく自然と開いた眼差しが焦点を結んだ。
晴天が降り注いでいる。穏やかな日差しを遮って、細かな影を落とす木漏れ日の下に佇んでいた。茫洋と手を見る彼は、先から聞こえている声が己を呼んでいるものだと気付くのが随分と遅れた。
その声が紡いでいた言葉があまりに己とかけ離れていたものだから。
かみさま――と。
漸う上げた双眸に人々が映る。在りし日が不意に頭に過ぎり、しかし幽かに罅割れるような違和を残して消えた。何しろ皆が笑顔だ。見覚えのあるような朧な顔は、少なくとも斯様に晴れやかな表情をしていたようには思えぬのだが。
さて誰であったか。確かめるためとはいわぬが、先から手を振られているのだから応じようとするのは染み着いた性分のようなものだった。
一歩を進めた足許に一輪ずつ花が咲く。鮮やかな煌めきに歓声を上げた幼子が転んだのを引き上げようとして手に触れただけで、柔肌についていた傷は痕も残さずに消え去った。涙に濡れていた顔は途端に笑顔になって、礼の言葉を置き去りにしてまた元気に駆け出していく。
雷嵐が迫れば手を打ち鳴らして追い払い、血に飢えた悍ましき妖どもも槍の一振りですごすごと退散する。流行り病は幾重にも編まれた加護を打ち破るには能わず、鮮やかな緑はさながら常春の如く爛漫に咲き誇った。
かくして村を一巡する頃には、ツェイの記憶にある限り随分と苔生していた気がする磐座は信仰持つ人々の手で丁重に浄められていた。信仰の満ちたる証左を前に、男は一人佇んで、己のための巨石を見詰めていた。
成程、確かに足りぬものはない。
未熟ななり損ないなぞおらず、人々は有り余る加護を享受して、安寧と繁栄に手を合わせる。|かみさま《・・・・》は守るべき民の笑顔に囲まれて、命ある限り永劫の守護を結ぶ――。
まるで|ほんもの《・・・・》のような、満ち足りて幸いなる夢の一つである。
望んだかと言われれば、確かに首肯せざるを得まい。これ以上のことはないと渇望した日もあったはずだ。然れども。
今のツェイは、ここから立ち去りたくてたまらない。
村を歩く間ずっと黒い狐の姿を探していた。いつものように名を呼んでやって、振り返る顔が恋しくてならない。拾い上げた縁の幸福になる姿は、しかしこの|満ち足りた《・・・・・》夢の中には影も形もないようだった。
ここではないどこか――たとえばツェイと彼が出会ったような場所で、健在の両親と共に暮らせているのだろうか。そうすれば手を延べる必要はなかった。地獄のような苦痛の中で、胸に抱いた温もりに安堵することも。
それが厭だとは、実に|かみさま《・・・・》らしくもないことだが。
己のためにあつらえられた磐座に背を向けた。村の中にいないのであれば森に分け入っていくほかにあるまい。暖かな日差しに照らされる森の中を、指先は身馴染んだ黒を探して彷徨った。
この道の先がどこに繋がっているのか、白花の誘いがどこへ続くのかも分からぬまま――。
ただ押しつけがましく描かれた在りし日の幸いの終端を待って、ツェイの足取りは梢の中に消えた。
幸いなるかな。今の祈りに手を伸ばし、罪の在処に背を向ける。
●
最初から抗うつもりはなかった。
抗う――ということを一度もしたことがない。白花のベッドを前にしても疑念は湧かなかった。眠れといわれるのだから眠れば良い。水藍・徨(夢現の境界・h01327)の金色は、特段何か思うこともなく、瞼の下に隠された。
――まず最初に目に映ったのは、何のことはない一室の景色だった。
視線を上げた先に笑顔の両親が立っている。些か己の背が低いような気もするが、それよりも差し出された包装紙に視線が吸い寄せられた。綺麗にラッピングされたそれに何が入っているのか、今の徨は知っている。
人間災厄と銘打たれ、管理機関に連れて行かれる前――家で最後に祝ってもらった誕生日の記憶だ。
「誕生日おめでとう」
二人分の声が重なった。確か徨は、開けても良いかと問うたはずだ。一も二もなく頷く両親の前でラッピングを剥がすとき、どうしてあんなに慌てたような手つきになったのか、今の彼には思い出せない。
丁寧に開いた指先には見知った表紙が触れた。今はもう使い古しになってしまったそれは、そういえば開いたときにはこれほど綺麗だったのだったか。
早速もらった万年筆を使って、自由帳に初めて記したのは、名前欄に収めた自分の名前だった。
どうしても漢字で書きたかったのを覚えている。小学生には難しいそれと睨み合いながら記したのだったか。ようやく納得のいく文字が出来上がって一番に両親に見せたとき、頭を撫でてくれた掌の感覚も――まだ思い出せる。
「上手に書けたね」
「徨に万年筆は少し早いかと思ってたが、才能があるな」
知っているはずの言葉に胸の奥が温もりを灯した。奇妙に擽ったい感覚の名を掴むことは出来ずに、断片的に思い出した|幸い《・・》の二文字に瞬く。
刹那、眼前に広がったのは先とは違う光景だった。
ここはすぐに思い出せる。管理施設だ。徨の他に四人の子供がはしゃいでいるのを、彼の金色は茫洋と追っていた。
記憶が曖昧だった。しかし言われてみれば斯様な構成だったようにも思える。少女が二人、少年が二人――徨を含めて、小さな箱に五人。
彼の力は遊びには有用だった。思い描いたものは全て眼前に実体として現れるから、ねだられたものも欲しいと思ったものもたちどころに目の前に現れたのだ。
少年が一人にやけた顔で近寄って来た。何やら意地の悪いことを言うのを真面目そうな少女が咎めるのも、何故だか奇妙に見慣れた光景であるように思えてならない。首を傾げる徨の手をやや強引に引くもう一人の少年は遊ぶのが上手で、今日も徨を遊び相手に溌溂と笑った。
少し外れたところで、そのさまを微笑みながら見ている少女の姿を横目に捉える。いつもそうだった――ように思う。これが本当に己の記憶なのか、それとも投影された夢の描き出した理想なのかも曖昧なまま、徨はただ目の前に映し出された|幸福《・・》の形を見詰めていた。
輪郭のぼやけた心は、現実に正しく反応を返さない。しかし胸の奥底から湧き上がる想いが脳裡に言葉を形作るのを止めることも出来ない。
――ここにいたい。
もっと、ずっと、ここにいたい。夢であっても構わない。出来得る限り長く、終端に届かぬようにとさえ思う。これが|幸い《・・》というのか。この温もりに身を浸していたいと思うことが。
それは――。
許されることなのだろうか。
賑やかにはしゃぐ子供たちの声が耳を擽った。徨を呼んでいる。両親の声も、子供たちの声も。
もしも徨が抗うことを知っていたとしても、きっと引力には勝てなかっただろう。
幸いなるかな。失くした心の輪郭で、在りし温度を抱き締める。
●
独断の速戦即決で飛び出していくのも、それを器用に察されて同じ場所で顔を合わせることになるのも、まあ、いつものことである。
たまさか廃墟の前で予期せぬ合流をしたうち、心底意外そうな顔をしたのは黒野・真人(暗殺者・h02066)で、分かっていたような顔で小さく笑ったのは櫂・エバークリア(心隠すバーテンダー・h02067)だった。
単独で仕事に向かおうとする真人の癖は共犯者に筒抜けだ。とはいえどうにせよ最初の裡は夢の中であるから、どこかで合流と相成れば構うまいと算段を付けて来た櫂にとっても、寝台に横たわる前に足並みを揃えられたのは望外のことであった。
顔を合わせてめいめいの反応を覗き込んだのも暫し、互いの意識はたちどころに一つに収束する。どちらにせよ今後に控えているのは首魁との対峙に変わりない。となれば独りより二人の方が選択肢が増えるのは当然であるから――。
「一緒だと|戦闘し《ヤり》やすいよな」
「だな。後で合流するからな」
頷き合った共犯者たちの足取りは迷いなく同じ入口を踏んだ。
「まずは敵の懐へいくか」
頷く真人と共に、櫂も真白の甘やかな香りに身を横たえる。斯様に荒唐無稽な噂に惹きつけられる者ばかりがあるという現実に思う幾許かの同情も、夢の誘いにやがて融けた。
◆
そも己にとっての幸福とは何なのだろうか。
根源的な問いに答えが見付からぬのは迷いというべきか、或いは幸福の在処となり得るよすががそれほど多くあるというべきか。どちらとも分からぬ心をそのまま映すように、櫂の眼前に広がる光景は移り変わる。
まさしく夢の如き無秩序だ。まず地に足がついたとき、見上げたのは|天蓋大聖堂《カテドラル》の天井だった。差し込む光は鮮やかに大地を照らし、そこでようやくいやに賑やかであることに気付いた。
見遣れば人々が一堂に会している。衣服は他の√で見るように綺麗にあつらえられていて、土煙と硝煙の香りはどこからも漂わない。どうやら祭事をやっているらしい大きな広場には、制服を纏った子供たちの楽しげな笑声が満ちていた。
すぐに己の手に武器がないことに気付いた。平穏に溢れた世界ではもはや戦う必要すらもないのだ――と悟る。瞬きの間に消え失せた喧騒にふと視線を上げた。
女が笑っている。
その目が固く閉じられてどれほどの時間が過ぎたか。長き眠りに身を委ねた彼女が体を起こして櫂を見ている。伸ばされた褐色の指先が彼の手を取って、まるで一日の始まりを告げるかの如き軽やかさで|彼女ら《・・・》のバーへと足を進めるのだ。
変わらぬ一日が待っている。見知った顔ぶれが揃って櫂に手を振って、常連客らがこぞって聞き慣れた注文をするのを聞き遂げて――。
そのどれもが、泡となって弾ける。
まるで夢そのものが当惑しているようなありさまだ。心に浮かぶ全てを形にして、しかし尚本物に届かぬような。一つ一つの輪郭をなぞりながら、どれもが心の奥底に絡みつくほどの質量を持たぬことを理解しているから、夢の主は笑うのだ。
「おいおい、物足りない幸福だな」
櫂の中にある真なる幸いは、未だその形を彼の前にも現していない。
心の裡にないものを目の前に出せと言われたところで、上手くいかぬのは自明だ。足を進めた先にしかないのであれば、今この場に映し出されようはずもない。
夢は所詮、|在った《・・・》ものしか映さない。
「ちゃんと魅せてくれよ……こんな程度、醒めちまう」
続く声を夢が諦めたように、急速に遠のいていく意識が現実に引きずられていることを自覚して、いの一番に隣に横たわった黒髪を思い浮かべた。
――真人の奴はどんな夢見てんのかね。
きっと常の眠りと大差ない目覚めが待っているだろう。そのときには隣で彼も身を起こすに違いない。次に目が覚めたときには如何なる景色が映ったものかと頭の片隅に思い、男は抵抗なく目を閉じた。
泡沫に消えぬ幸福を形にするために、まずは今日の仕事を終わらせなくては。
◆
甘やかな香りが巧妙に隠した厭なにおいに知らず眉間に皺を寄せながら、真人の意識はそのまま引き摺られるように夢の裡へ閉じ込められた。
開いた眼差しに映るのは、いたく懐かしいクリスマスツリーの、色とりどりの煌めきだった。
「表立っては出来んが――」
言いながら父が持って来たものだった。綺麗にラッピングされたプレゼントも、ケーキまでも用意されている。|外《・》ではよく見掛けたそれが家の中にあることが、まるで宝物のように映って、幼い真人は叫んだのだ。
「これいいの!?」
――どんな信仰と思想があれども、現代社会に紛れるためには相反する全てを拒むことは出来ない。
一族の間で如何なる取り決めがあったとして、それが外の世界にまでも及ぶことはない。秘密裏に葬り、祀り、焚き上げながら、彼らは子供をごく当たり前に学校に通わせた。当然ながらそれに付随するあらゆる行事に参加することも容認している。児童会やら学校行事やら、|配慮《・・》によって|お楽しみ会《・・・・・》と銘打たれたクリスマス会には参加の許可が出ていた。
しかし――真人は信じられぬ心地のままで、スクールバッグを下ろすのも忘れて居間にあるそれらを見詰めていた。
家の中に|これ《・・》があるのは、十三年の人生の中で初めてだ。
「此処から裏も表も忙しいからな」
唖然と見詰めた先の父が曖昧に笑っている。どこか苦みを宿した表情は母の顔にも浮かんでいた。
当たり前の日常が崩れる日は、どうあれ訪れる。本家の意向にもしきたりにも逆らえぬ身であれども、息子に楽しい思い出を残してやりたかったのだ――と、続く言葉少なな声が語っていた。
「だから、今日だけは、と考えてな」
それが嬉しくてたまらない。
たった一日、家の中にある輝くクリスマスツリーも。苺の乗った生クリームのケーキも。手渡されたラッピングの鮮やかな赤と緑も、その中にある重みも――。
幾度も確かめて、そして。
景色は途端に暗転する。その先が続かないことを、真人はよく知っている。
煌びやかな光は消え失せた。手の中にあったはずの包みも、甘いショートケーキの味わいも、彼の前からたちどころに消え失せる。
――カイが視た夢はどんなだったろう。
零れ落ちる思考を残して意識が浮上する。やがて遠からず目覚めが訪れるだろう。彼にとって日常と地続きになった、戦いの舞台で。
●
――私も大人になったら、お姉ちゃんみたいに素敵なお嫁さんになるの。
無垢な己の声を聞いた気がした。今も忘れない。真白のドレスはどこか誇らしげに笑う姉によく似合っていて、幸福をそのまま携えた表情で見詰める先にいるタキシード姿の義兄と合わせて一枚の絵のように完成されていた。
我が事のように嬉しかった。だから、いつか自分も同じようになりたかった――。
家族に囲まれながら、兎沢・深琴(星華夢想・h00008)は己の見る真なる幸福が、永劫に手放せぬ呪いのようなものであると悟った。
ここは己の新居だろうか。深琴の夫となったのだろう人が赤子を抱えてあやしているぎこちない手つきを、義兄が熱心に指南しているのが見える。その横で笑っていた姉が手を振れば、足許の姪――咲月と名を受けた少女が無邪気な笑みで深琴を呼んだ。両親もまた穏やかに孫たちを覗き込んで、目尻に皺を作っている。
忘れない。
忘れることなど出来るものか。
一度はこの心に抱いた大切な祈りで、願いだった。幼い頃から優秀だった姉は、生まれ順もあっていつも深琴の前を歩いていた。いつでも彼女を導いてくれる掌の優しさが、何より妹から見れば出来ないことなど何もないように思える背中が、深琴の世界の中心に根差している。
ずっと――。
姉のようになりたかった。
「私、お姉ちゃんみたいになれたかしら」
夫からそっと手渡された赤子は柔らかくて暖かい。姪を初めて抱かせてもらったときのことを思い出しながら、深琴は眼前の夢に問い掛けた。
きっと頷いてくれるだろう。これは深琴の夢だから。彼女の見ている真なる幸いの中で、彼女の意に反することは起きやしないと分かっている。
だから、その|応《いら》えが真実であろうとあるまいと、女にとっては構わない。
近付けていれば嬉しいと思う。祈りの一片でも叶っていたならば心底から安堵するだろう。しかしもしもそうでなかったのだとしても、今ここにある景色が壊れずにいるのであれば、深琴にとってそれ以上のことはない。
当たり前と地続きの日常はいともたやすく壊れる。脆く儚い幸いの形は、ピースを失えば二度と埋まりやしないのだ。深琴は――。
あの日、己の手でそれを齎してしまった。
他愛ない会話だった。何の気なしの善意だった。誰も真の意味で未来を予見することなど出来なかったのだとしても、確かにあの日の引鉄を引いてしまったのは深琴の指先だったのだ。
だから――分かっている。
世界の真ん中にいたはずの姉も、彼女の一番大切な人だったはずの義兄も、幼い娘を遺して永遠に写真の中で時間を止めた。不運の撃鉄を起こし、運命の引鉄を引いてしまった指が、彼女たちと同じ幸福を望むことなど永久に許されはしない。
それでも、深琴は確かに幸福を感じていた。これが己の望む|真なる幸い《・・・・・》の形であることを、亡くしたからこそ強く確かめられる。当たり前は簡単に消えてしまうのだ。何よりも大切なのに。どんな特別な日よりも、こうして他愛のない近況を交わして笑い合い、時に何のことはない喧嘩を積み重ねる日々こそが愛おしい。
姪の指先が嬉しそうに手の中の赤子の頬を突いている。眠りを邪魔されてぐずり始める声が可愛らしい。いつか両親に聞かせてもらった子守唄を我知らず奏でながら、深琴は二度と見ることすら赦されぬ幸福の夢の中で、切なる祈りに身を委ねた。
どうか醒めても忘れぬように。
それほどまでに深く、呪いのように――。
――この幸福を感じさせて。
幸いなるかな。愛しき日々の罅割れに、失くした祈りを映し取る。
●
真白の花畑が滲む。
染み出すような薄紅には見覚えがあった。樂園の中にあるいっとうのお気に入りに似た真白の花の撫でる感触は、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の頬の横で懐かしい香りに変わっていく。
優しい眠りが彼女を導いた。白い花のベッドは日頃のそれより寝心地は悪いが、否応なしに引き摺り込む夢には関係がない。
やがて、聖女の髪に穏やかに触れる温もりがある。
――ママ。
暖かな掌が優しく撫でてくれる感触を見紛う筈がない。桜の香りと共に在る桜禍龍の温度に頭を擦り寄せて、少女の喉が上機嫌に鳴った。
桜の香りは穏やかに咲き誇っている。爛漫の春はララの樂園に緩慢な滅びを齎すそれとは一線を画す。祝福の証として舞い散る無数の薄紅色の中で、桜を携える父祖の系譜を受け継いだ母もまた、同じ色で笑っているのが常だった。
話したいことは沢山ある。むろん父の腕の中で迦楼羅の翼が空を切る感覚を味わっているのもアトラクションのようで楽しいけれど、今日のことを話すならやはり母の膝の上が一番だ。甘えるように頬を擦り寄せて、娘の唇は飾らぬ幼い音色を奏でた。
「あのね、今日はねぇねとお花の冠を作ったのよ」
――それから、にぃにが一緒に隠れんぼをしてくれたの。ララは隠れんぼが上手だから、にぃにもすぐに見付けたわ。ララもにぃににすぐ見付かっちゃったのは内緒。
――みんなで遊んでたらじぃじが来てくれて、角に咲いていた桜をひとつ分けてくれたの。花冠に使ったらどうかしらって、ねぇねにも。
――そうそう、神使の鴉も羽をくれたわ。折角だからじぃじのお花と一緒に花冠に使ったの。だからいろんな色の冠になったわ。ねぇねが自分の作ったのをララにくれたから、ララもねぇねにあげて、交換したのよ。
どこか懸命に言葉を紡ぐのは母のためだ。禁忌の子は折悪く父の血を色濃く継いだ。龍を喰らう迦楼羅の血はどこまでも娘に付き纏い、彼女に望まぬ宿業を生むのではないかと、生まれたときから心配してくれている。
だから彼女は母に伝えるのだ。この世界にも、きょうだいたちにも、祖父にも、神にも――この世界に存在する全てに、ララの存在は歓迎されている。ララがこの世界を愛しているのと同じだけ、彼女は世界から歓迎されているのだと。
大好きな家族が傍にいる。だいすきな世界が目の前に広がっている。その全ては、ララの小さな白い掌に抱き締められることを望んでいるのだ。
これがララの幸福だ。何よりの|真なる幸い《・・・・・》だった。懐かしい甘やかな香りを胸いっぱいに迎え入れ、母の掌に擦り寄って、閉じられたアネモネの双眸はまろやかに開かれる。
その向こうに母の顔がある。今にも涙を零しそうな微笑みが双眸に映し出される。
僅かに――。
少女の唇が笑んだ。伸ばされた掌は無垢な娘のそれでなく、アネモネには神の色が一瞬ばかり咲き誇る。
「大丈夫よ、|ママ《キルシュネーテ》」
声は凛然と啓示を紡いだ。
さいわいが災穢と成り果てる前に、ララが救う。
「お前も、皆」
閉じられた神の唇はすぐにあどけなく綻んだ。眼差しは瞬きの間に幼い娘へと移り変わっている。今日のことはまだ話し足りない。もっと沢山、母に教えてあげたいことがある。
だから。
だから今だけは――|神《・》であることは、今暫し置き去りにして。
|桜樂《ララ》は笑う。まどろむ夢の生み出した優しき母の指先に、真白の髪を預けるように。
幸いなるかな。聖女の軛を解いて、神は娘の顔をする。
●
もしもを思ったことがないと言えば嘘になる。
生まれながらにして人ではない。その厳然たる事実を覆し、人として生を享受していたのならば――と、人ならざる身を思い知るにつけ考える。
しかし|そう《・・》であれば、今己を形作る何とも出会えなかったことを、ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)は自覚している。
ならば真なる幸福とはいえまい。彼女を作り上げる全てに感謝している。その足跡の全てに恩を返したいと、力になりたいと願っている。
ならば己に何が見えるというのか、興味がないといえば嘘になる。
眼前の白花の群れを暫し色の違う双眸で見据えたのち、メイド服は瀟洒に腰を下ろした。そのまま必要のない眠りに身を委ねる。静かに引き摺り込まれる|睡眠《・・》の淵で、目を開いた彼女の前には、ただいつもと何ら変わらぬ光景が輝いていた。
養父が調理をしている音がする。暖炉の前で養母が本を読んでいる。騒がしく走り回る弟妹と、彼らを見守る義姉がいる。双子の主も遊びに来ていたようだ。何やらいつもよりも人の気配を多く感じたのは、彼らの向こう側に友人たちがめいめい寛いでいるからだった。
ツェツィーリエをかたどる全てがひとところに会している。それそのものには、何らの不思議もなかった。未だ誰もこの世から欠けていないのだから、日常の延長として斯様な光景が目に映る日もいつかは訪れるだろう――そういう意味で、これはいつもの変わらぬ日々の象徴といって良かった。
今の己が――ツェツィーリエにとって、一番の幸福なのだ。
我知らず零れた吐息は安堵の色を描いた。彼女は心の底から今の日常を幸いだと感じているのだと、目の前に示されているのだ。時折過ぎる|もしも《・・・》が正解でなかったことを身に浴びることが出来たのであれば、今よりも揺るがずに足を進められる。
しかし。
外に連れ出されて歩くとき、己の足は人と変わらなかった。友人たちと手を繋ぐことに何らの躊躇もしなくて良い。まるで最初から普通の人間と何ら変わらずにいたかのように言葉を交わし、食事をして、呼吸をする。
日が暮れれば眠気が訪れて、日が昇れば伸びをして起き上がる。寝ぼけた重たい体で髪を整え顔を洗って、ようやく身支度を整える――。
羨ましい。
心の奥底に湧き上がるそれを自覚してしまった。
夢から目覚めれば、ツェツィーリエには真実いつもの日常が待っているだろう。夜には死を纏い、昼には生を纏う。権能は常に彼女の裡に渦巻き続け、人と触れ合うことにも常に薄暗い懸念が付き纏う。破壊的な力が裡にあることを律し、人の世で生きるために研鑽を重ね、それでもなお――。
ツェツィーリエは人間にはなれない。
衒いなく|ひと《・・》としての日常を経てしまえば、それはたとえようもない悲しみと共に胸に蟠った。大切な日々に細かについた瑕疵が鮮明になる。部屋の隅に折り重なったほんの僅かの埃のように、一度目についてしまったら、頭から離れなくなる。
抱き締めていたいと願う。心の底から大切だと思う。それなのに、今ここに在る幸いと比べてしまう。
「……なんて、贅沢なのでしょう」
受け入れてくれている人たちがいる。彼女の中にあるものを知ってなお、彼女を友人と呼んで手を差し伸べてくれる人が沢山いるのに。
鏡に映った、およそ|メイドさん《・・・・・》らしくない寝ぐせと眠たげな自分の眼差しに、どうしようもなく募った羨望が手を伸ばしているのだ。
幸いなるかな。珠玉の夢に身を映し、愛しき日々の瑕をなぞる。
●
真白の寝台を前に、漠然と過ぎる不安に足を止めた。
幸いなる夢を見るという。そのことが無性にうそ寒く感ぜられて、吐息交じりの柔らかな声が唇から零れ落ちた。
「……こわい、な」
花岡・泉純(よみがえり・h00383)は、これから見るのが夢だと理解している。
甘く誘うように揺れる花々が彼女に見せるのは、ただのいっときの夢想である。終わりがあると分かっているのであれば、長らく身を浸し続けるわけにはいくまい。しかしもしも、それが本当に泉純の心を映し取って、優しいだけの幸福の揺り籠になるのだとするならば――。
「きっと、目醒められる……よね?」
己が泥濘に絡め取られる想像が頭から離れない。これでは到底眠れたものではないだろう。思いながらも、身を横たえて目を閉じれば、意識を引き摺り込むような眠りは彼女を夢の淵まで連れ去った。
目を開く。
まず目に入ったのは天井だった。それから、己を包み込む暖かな掛け布団の感触を知覚する。ベッドの中で目が醒めたのだ――と理解するまでに、そう時間は要さない。
だが真実の目覚めではない。泉純の見る幸福の形を切り取った夢の中で、彼女は朝を迎えたのだ。
ごく当然の帰結として体を起こした。まさかベッドの中で眠り続けることが泉純の幸福ではあるまいと思ったこともある。ここがどこで、何を映し取っているのか、視線を巡らせた彼女の横でふとリネンが衣擦れの音を立てた。
「ん……」
息を呑む。
右隣で蠢く真白から|ひと《・・》の声がする。まじまじとそちらを見詰める泉純の前で、その|ひと《・・》ははっきりと声を上げた。
「泉純……?」
眠たげな声と共に、寝返りを打ったその人がぼんやりと彼女を見上げている。泉純と揃いの真白の髪が動きに合わせて柔らかく流れている。まどろみを湛えて焦点を結ばない眸は黒いはずなのに、何故だかそれを|桜の色だ《・・・・》と直感した。
「おはよう。早かったね」
優しく耳朶を擽る声が脳裡から名を引き摺り出す。乾いた唇は、しかし音を紡がずに、じっと目の前にいるその人を見詰めていた。
――エレス……?
見たことのない筈の顔に、確かに強くその名を重ねた。影として、或いは蝶として泉純に連れ添う|彼《・》だ。そう思えば思うほど、眼前のその人に強く視線が吸い寄せられる。
清廉な真白の髪の下で、蕩けるような黒い眼差しが優しげに彼女を見詰めている。今にも散り失せてしまいそうなほどに儚いその姿が、純白のシーツの合間に融けて消えてしまうかのような錯覚が脳裡を支配する。
それが――。
怖い。
奇妙な警鐘に抗わず、咄嗟に泉純は身を引いた。ベッドから降りようと慌てて足を動かす。ようやく立ち上がろうとした刹那、手首を信じられぬほどの強さで捕まれた。
振り返れば真黒の双眸が見ている。
「どこに行くの?」
引き寄せられる手に抗うことは出来なかった。そのままきつく抱き締められる。ちょうど耳元に吐息の掛かるのを感じると同時、花の如く|甘い《・・》香りが泉純を包んだ。
「どこにも行かないって約束したでしょ」
純白の髪も容貌も、あれほど儚く手折られそうに感じていた。穢れの一片も孕まないような形をしていたはずなのに、耳元で彼女を捕らえる声はひどく支配的だ。まるで泉純を絡め取るかの如きそれに、しかし、彼女は抗う気になれなかった。
ずっとこうして欲しかったような気がする。心の奥底に見知らぬ充足が注がれていく。どこにそんな力があるのか分からないほど細い彼の腕にそっと手を重ねてみせれば、吐息がようやく笑ったのを感じた。
良かった――と思う。
決して機嫌を損ねなかったことに安堵したのではない。確かに彼の力はひどく強いし、もしも害意があれば泉純に敵うすべは殆どないだろう。だが、彼女の心にあるのは、彼に対する恐怖心などではなかった。
彼に喜んで欲しい。
もっと絡め取ってほしいとさえ願っている。きつく抱き締める腕に力を込めても構わない。既に息苦しいほどの力に、なおも|足りぬ《・・・》とすら考える己のことが分からない。混乱する泉純の脳裡をよそに、夢の甘やかな香りが思考を鈍らせるように滑り込む。
「俺の名前を呼んで、泉純」
懇願に応じることが出来なかった。代わりに指先を滑らせて、腕と同じように白く細い指に指を絡める。確かに返される力と共に、耳元の声は甘く愛を囁いた。
「愛してるよ」
――何も分からない。
何を恐ろしく感じていたのか。何故こんなにも心地良いのか。心の奥に満たされる|これ《・・》が何なのか、この夢の意味するところがどこに辿り着くのかさえも。
しかし。
今はただ、泉純は静かに目を閉じる。
柔らかなリネンの純白に身を委ね、夢のまどろみに心を預ける。次に目を開くときには、|彼女たち《・・・・》はひとつになっているのだから。
幸いなるかな。零した過去の裏側に、運命の影の声を聴く。
●
灰色の巨大な建造物からは圧さえ感じる。
中に入ればその感覚はますます重くなった。長身を以てしても見えぬ天井の暗闇を一瞥し、猫の尾が揺れる。
「ラーレ、怖くない?」
ラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)の声を受けて、顔を上げたラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)の眼差しが揺らぐ。
先から奇妙な視線の群れを感じている。どこからともつかぬそれが背筋を逆撫でするような感覚に、垂れた耳は余計に力を失っていた。眠りに誘うという白い花々の甘やかな香りに視線を落とした兎は、小さく首を横に振って応じる。
「怖くありません……と、言えば嘘になってしまいます」
重ねて来た日々に繕いは不要だ。無理に笑って見せたところでラナにはとうに見通されている。素直な吐露に浅く頷いた大きな猫は、常より幾分曖昧になった笑みで、しかし大きく腕を広げて友人を迎え入れた。
「――おいで、ラーレ」
夢の中までは共にはいられないかも分からない。これは幸いを映す夢だ。何が切り取られてしまうのか、もしも互いの姿が映ったとして、それが真に|互い《・・》であるといえるのかは分からない。
だが眠りに就くまでは傍にいられる。胸に飛び込んだ小さな兎は、友人の暖かな温度と共に白花に寝そべった。
「……ああ、あたたかいです」
ラナの自慢の尻尾が身を包んでくれる。大きな体はまるで卵の殻のようだ。聞こえる声も友人の聞き慣れたものだから、余計に安堵する。
「ボクがキミを大事に包んで護っていてあげる」
「ありがとうございます、ラナ」
まるでどんなものからでも護ってくれそうな大きな体に身を預ける。きつく抱き締められる感触がラデュレの身に伝わった。
ほんの少しだけ――ラナが震えていることも。
「だからおねがい。どこにも、いかないでね――」
「ええ」
零れた声にしかと頷く。ラデュレの掌はラナの大きな体全てを抱えきれないが、それでもしかと抱き締め返した。
「わたくしは、此処に。ラーレは、ラナの傍におりますよ」
たとえ夢に分かたれたとしても。
◆
『――くだらない。あんたに殻が必要ですって? あんたはあたしの卵殻でしょう』
眠りに落ちる刹那にロップイヤーを掠めた声に、ラデュレは重たい瞼を持ち上げた。
ラナの向こうに紅色が翻る。ドレスの裾だ――と知覚するのと、嘲笑に重なる針の音がギャベルの冷厳な音に変わるのは、彼女が夢の淵へ足を踏み入れる直前のことだった。
目を開く。
眼前にはよく見慣れた光景が広がっている。まるで一つ一つの足跡をなぞるように、時計の針が早回しに進んでいくのだ。目まぐるしく変わる光景が最初に指し示したのは、花に囲まれたマルシェの記憶。
おどおどと道を進んでいた小さな兎を、大きな猫が見付けてくれた。ラナという名前を知って、友達の仔猫を紹介してもらったのはその少し後のことだ。
公園の廃バス。水鳥が鳴いている湖の畔。数多紡がれた物語の中で出会い、ラデュレと声を交わした数多の人々――。
違う。
これは夢ではない。
ラデュレの辿って来た|これまで《・・・・》が、あらすじめいて彼女の前を流れていく。大切な言葉も、他愛のない会話も一緒くたに、彼女の記憶をなぞるように紡がれている。
現実を夢見る――ともすれば|現実こそが幸い《・・・・・・・》であると捉えることも出来ようはずが、そうは思えなかった。奇妙な感覚が背筋を逆撫でする。抱き締めてくれる柔らかな尻尾の感覚を求めるように、彼女の腕は知らず己を掻き抱いた。
『卵殻は、あくまで外壁』
あの嘲笑がどこからともなく聞こえて来る。小さく笑う声がラデュレの歩んできた全てを踏みにじるように言葉を紡ぐ。
『あんたは“胚”ではない』
――違う。
否定の言葉が思い浮かぶ意味も分からなかった。強烈な嫌悪感と、どうしようもない諦念が体の奥底から込み上げて来る。まるで卵の殻を割るように。
ラデュレは過去を知らない。記憶がない。だからこの声の言っていることの意味も分からない。
だが。
だからこそ、|今《・》を始まりとして、この瞬間を大切に抱えていきたい。彼女を取り巻く全ての人々を、縁を、喪いたくないのに――。
『はやく、思い出して?』
「――いや!」
悲鳴じみた声が喉を裂いた。いつの間にかきつく閉じていた眸を見開く。
「わたくしは……!」
続けざまの台詞がたちどころに霧散する。気付けば声は聞こえない。静寂が満たす空間が夢なのか現実なのか、ともすれば己の存在そのものが千々に裂けたような感覚の中で、ラデュレの指先はよすがを探して彷徨った。
ふと、暖かな毛の感覚がする。
抱き締められている。暖かい。茫洋とした心地で顔を上げた先に、眠る大きな猫の顔がある。
「……ラナ」
どんな夢を見ているのだろうか。
確かめるように指でなぞった体を抱き締めた。再び鎖した眸に再び眠りが這い寄る。もう、夢は映らない。
◆
初めて知った温もりが身を包んでいた。
夢なのだろうか。眠りに就く直前とは違う、ラナ自身をすっぽりと抱き締めるような温度の中で茫洋と思う。
体は今ほどに大きくない。二つの足で歩くことはなく、代わりに前足を丸めて眠っている。身を起こせば随分と低い視線が、彼女に夢の裡の幸いの形を伝えた。
ラナは嘗て、ただの猫であった。
伸びをすれば笑ってくれるヒトの顔がある。男女で一つずつ。ぱぱとままだ。
見渡せば暖かな部屋には沢山のきょうだいがいる。一匹一匹の名前を、ラナはすぐに思い出せる。暖房の前を陣取っているのがるる。ボールを転がしているのはりゅか。猫じゃらしが大好きなるぴ。ソファで寝ているのはそふぃー。窓際で外を見るのが好きなしゅくる。餌を夢中で食べているのがぼん。
血は繋がっていない。どの猫たちもどこからか、ぱぱとままが連れて来た。ラナはどこから来ているのか知らなかったが、誰しもが|ひとりっこ《・・・・・》であることは知っていた。
――|ボク《わたし》の可愛いきょうだい。
誰も彼も事情は違うが、悲しい生活だったと聞く。だが――だからこそ、独りぼっちの生活の中からこうして出会えたのだから、必ず幸せにして見せると心に誓ったのだ。
皆で一緒にいれば|ひとりっこ《・・・・・》ではなくなる。|長女《・・》として、ラナがこの尻尾と体でしかと護って面倒を見る。ぱぱとままに頼ってしまうことは沢山あるだろうけれど、それでも彼女にとって、皆は愛しい|かぞく《・・・》なのだから。
編んでもらった特大の籠の中に皆で集まるのが大好きだった。丸まって身を寄せ合えばどんな寒さも怖くはない。降り注ぐ木漏れ日のように優しく暖かな幸せに、皆の喉もごろごろぐるぐる幸福の音色を奏でる。
幸せだ。
これからもずっと、きっと永遠に――。
暖かなきょうだいたちの温度の中で、しかしラナはふとささくれに気が付いた。
これからも永久に続くはずの優しい幸福の中に身を浸して、では、何故――。
ラナは|あの人《・・・》に助けられたのだろうか。何故あのとき、|あの人《・・・》が差し出してくれたラングドシャの甘みを知ったとき、ラナは。
――ひとりぼっちでいたのだろうか。
曖昧に歪んでいく夢の中で、誰かがラナを抱き締めた。ほんの小さな感触が幸福の温もりを取り戻してくれる。まるで隙間風のように、ほんの少しの雨のように、心に差した冷たい苦しみを誤魔化したくて、彼女の手は誰かを抱き締め返す。
温もりが伝播する。それが――。
何故だかひどく目許に熱を宿した。
違和感が指先をちりちりと焼いてしまったせいか。それとも、確かな温もりが彼女を抱き締めてくれた安堵からか。
分からぬままに零れた一筋の涙を拭うすべもなく、猫の夢は今暫し、白花の中に幸福を描いた。
●
花の上に眠ってしまえば押し潰すことにはなるまいか。
常の笑みを崩さぬまま、調子良く廃墟に軽い足を進めた日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)の眼差しが、昏い灰色の建造物の中に咲き誇る花畑を目に留めるや、ますます細められた。
「へぇ、まるで映画の中のように美しい場所ですねぇ」
思わずといったふうに唇から転がり落ちる声にも感情らしい感情は載らない。嘘とも真ともつかぬ慈しみを込めた指先は、物言わぬ白花に形式ばかりに触れてみせたのち、今しがた愛おしんだばかりのそれの上に何らの躊躇なく体躯を擲った。
柔らかなベッドのすぐ下にコンクリートの感覚がする。舞い散った白い花弁の向こうにじっとりと湿った闇の天蓋が見える。全てに迷いなく目を伏せて、芥多の意識は泥濘の裡へ沈んだ。
◆
今日も随分と頑張った――と、まず思う。
手は常のように怪異の血で染まったが、それを家まで持ち込むことはない。暖かな電気の点いた家の中から生活音が聞こえて来ることを疑いもせず、男の手は|二人《・・》の家の玄関を開け放った。
「ただいま、ゆりちゃん!」
「おかえり。お疲れ様」
十年以上見詰めても毎日惚れ直す顔は今日も麗しい。芥多の帰宅を察知して、妻が笑って迎え入れてくれるこの瞬間に辿り着かないことには、彼の|今日《・・》は終わらないのだ。
扉を後ろ手に閉めてようやく肩の力が抜ける。柔らかな香りは夕食の用意だろうか。それとも今は殆ど朝というに近い時間帯だっただろうか。もう思い出せないが、ともあれ横に立つ柔らかな髪を見下ろして、男は深く溜息を零す。
「……あー……やっと今日が終わった」
「大丈夫?」
常であれば首肯を返すが、今日は芥多といえども疲労感を引き摺るような一日だった。
具体的に何をしたのかはよく思い出せない。しかしここに|帰って《・・・》来るまでが長すぎたことだけは分かっている。曖昧な返答を唸るような声に変えた芥多は、愛しい妻を見詰めて弱音を転がした。
「ううん……俺、今の仕事辞めようかな」
妻が――。
|小百合《・・・》がこちらを見る。
確かに稼ぎは良い。この歳にして二人には些か広い家を構えることも出来る。元より自由と気儘を好み、血に汚れることに忌避感のない節のある芥多にとっては天職のようなものだ。
しかし――。
左手の薬指に光る揃いの指輪を見るたびに、己には背負っているものがあるのだと思い出す。
因業な仕事だ。裏社会に身を浸し、マフィアとして人に武器を向ける生活は、要らぬ因縁を抱えているから寿命が短い。人に顔向け出来ないようなことをいつまでも続けて生活していくことにはいずれ無理も出て来るだろう。
何より、妻の視線はいつも、戻って来た芥多から血のにおいがしないかどうかを不安げに確かめている。
怪我を負わされることも、怪我を負いに行くことも、彼女はひどく嫌がる。その度に愛情の熱を覚えて心が震えることも事実だが、愛しい妻をいつまでも悲しませるのが良いことであるとは思えなかった。
仕事を続けていくにしても、彼女独りを悲しみの海に放り込むような真似はしないが――。
リスクは少ない方が良い。
彼女がたまに少しの贅沢をして、自分が過不足ない贈り物を贈れれば、派手な生活も煌びやかな調度品も必要ない。そのうちに、二人には広い家をちょうど良くしてくれる天使がやって来てくれるかもしれないし、そうならずとも二人で暮らしていけば良い。
武器を捨ててネクタイを締める。血を浴びないスーツを着て、太陽の下を胸を張って歩き、少ないながらの収入を真面目に数えて――。
ごくありふれた、細やかな人生を、最愛の人と伴に送るのだ。
「ゆりちゃんはどう思う?」
甘く優しい声で訊きながら、男の視線は自らの指輪を見詰めていた。
花嫁は死んだ。この生活は嘘だ。芥多の一日は永久に終わることはない。あの日の骸と共にどことも知れぬ√に置き去りにされた、その先に連なっていたはずの幸福が、芥多の未だ血に汚れる手に纏わり付いている。
運が悪いから――。
あまりに運が悪いから。
百合の花は落ちた。百年後にも会えはすまい。真白の花嫁衣装は紅色に染まって台無しになってしまったし、芥多の帰る家には電気は点いていないし、妻のための贈り物は押し潰してゴミ箱に捨てられて、二人にも些か広い家はもっと広くなってしまった。
後を追う気はない。
彼女は芥多が傷付くことをひどく嫌がる。そもそも芥多は自らの意志一つでは死ねもしないのだ。無駄に首にナイフを突き立てて、無為に彼女を泣かせることなぞ考えることさえしないが――。
叶うなら、芥多の居場所に。
伸ばした手の先にある髪に本当に触れ、|今日《・・》を終わらせる彼女の声に迎え入れられて、その身を抱き締めて眠る家に帰りたい。
幸いなるかな。途切れた路の温もりに、落ちたる花の笑みを見る。
●
泥濘じみて湿度を孕んだ視線には慣れている。今となっては久しい感覚だが、それらはいつも幼い久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)の背を刺すように見詰めていた。
気になりはするが怯みはしない。そもそも足を竦ませるような感情そのものに疎いのだ。常と変わらぬ歩様は、しかし幾分の思案を孕んで、白花の前に辿り着いた。
横たわれというのであれば否やはない性質だ。高く昏い天井から降り注ぐ不可視の視線とは奇妙に目が合わない。
幸福とは――。
真なる幸いとは、何であろうか。
茫洋とした思索に答えは出なかった。今とて幸福である。それを疑ったことはない。それでも今そのものが夢に映ると断言出来なかったのは、不服なきことと未練なきことの違いが故だった。
失くしたものが――。
否。
|自ら手放した《・・・・・・》ものがある。
恨みはしない。後悔もしていない。深い霧の下に永久に鎖されることを受け入れて、自らその裡に手を伸ばした。代わりに心底からの願いは叶えられ、当然のこととして、彰は代償を支払ったのだ。
ただ――目を伏せながら、己の裡にある暗闇に目を遣った。
失ったときからずっと、あの淵よりも昏い霧の中に取り残されたような心地が蟠っている。折に触れて質量を増すそれが、いつか己の全てを飲み干してしまう日が来るのではないかと思うことがある。そうなったときのことを思うたびに、最近になってようやく知った|恐怖《・・》が、背筋を遡るような違和感を齎す。
ざらついた感情の手触りに名前がついて、彰はその輪郭をはっきりと理解するようになった。一つ形を持てば隣り合った感覚も境界線を得る。今まで思いもつかなかったことを掬い上げることを止められない。
――本当は。
生きて来た|場所《なまえ》を取り戻して、誰かが与えられた最初の祝福を呼ぶことが出来て、己の持ちえたはずのそれも正しく呼んでもらえるような世界を欲しがっているのかもしれない。
伸ばした手から儚く崩れ落ちる願望を自業自得と退けるようになったときから、彰には元より分からなかった幸福な夢の見方がますます分からなくなった。だから白花の見せる幸福が歪な形をしていることを想定していたのに。
開いた目に映るのは、鮮やかな陽光だった。
世界は未だ黄昏に傾いている。だから彰はいつものように仕事に出る。歩く街並みには不思議と彼の知る顔ばかりがあって、彼らが揃って彰を見るや、彼の持つ|今の《・・》名前を呼んでくれるのだ。
誰も彼もが明瞭だ。猥雑な世界に差す暗がりの中でも、はっきりとした輪郭を保って、彰の方に近寄って来る。同僚たちは気安く彰を呼び止めて、休日だというのに結局は業務の話をして去っていく。友人たちはめいめい特徴的な反応をするが、誰もが彼の存在を見とめて足を止めるのは変わりなかった。唇に刷かれた笑顔の一つ一つが迷いなく彰に延べられている。
家族たちも――。
今は何くれとなく避けるようにして、しかし心の底から慕う彼らもまた、この穏やかな|日常《・・》においては当たり前の存在だった。姉はいつもの如く傍若無人な顔で近寄って来て、有無を言わさず彰の手を引いていく。両親が――|育ての親《・・・・》たちが笑っているテーブルについて、珍しく皆でゆっくりと珈琲を飲む。そこに現れた大切な人が少し緊張したような顔で彼の隣に座るのだ。家族たちには分からぬよう肘で小脇を突いて、悪戯っぽく笑って、彰を呼んだ。
全てが暖かく巡っていた。その間、誰もが彰の輪郭を確かにするように彼の名を呼んだ。
しかし己の口から零れている言葉にひどいノイズが掛かっているのを、男は確かに理解している。
夢の中ですら彼自身には認識出来ない、水が耳の奥に詰まったような感覚と共に塞がれる|それ《・・》が何なのかは、既に理解している。彼自身の口から滑るように零れた|それ《・・》が皆を笑顔にさせることで、彰はようやく安堵したような心地になるのだ。
正しい|名前《・・》を呼べている。
常であれば手帳に記されたそれを見ねば思い出せもしない。渾名で誤魔化すものが、今は己の裡に確かに宿っている。
家族たちとの束の間の平穏は、めいめいの呼び出しによって自然と解散していった。忙しい医療従事者たちを見送って歩き出した彰の目が、雑踏の中にふと投げかけられて――。
足が止まる。
夜の闇のように深く昏い黒髪が、同じように黒い着物を纏って、男を見ていた。
|懐かしい《・・・・》。
会ったこともないはずの面影に導かれるように足が前に出る。|彼女《・・》もまた、長い髪を揺らし、着物の足を急かして駆け寄って来る。雑踏の全てが遠のくような心地の中で、男は半ば茫然としたまま、息も忘れてその人を見た。
まるでようやく叶った再会を尊ぶように、細い指先が頬に触れる。愛おしむような手つきと共に、今にも涙を零しそうな顔で笑った声が、囁くように掠れた|名《・》を呼んだ。
「――|██《よみ》ちゃん」
寂しい、と思った。
目を醒ましたら忘れてしまうのだろう。今、確かに明瞭に聞き取ったはずの――失くしたものを。それは寂しい。胸郭の内側が締め付けられるような違和感を訴えるのを、咎めることすら出来ないほどに。
幸福な夢はとうに見方が分からなくなったと思っていた。嘗て己の手で自らを証明するものを擲った男にとってみれば、夢とは命を捧げられなかったことへの贖罪で、己に与えられる神罰の一つにすぎなかった。
だから。
どうか醒めろと願う夢ばかりを見て来たから――。
女の指に触れる。ごく自然と、当たり前のように零れ落ちた名前は、やはり濁水の裡に鎖されて聞こえない。それでも確かに目の前の半分は、いたく幸福そうな顔で笑って、もう一度男の名前を紡いだから。
初めて、夢から醒めたくないと思った。
幸いなるかな。罪の在処を知りながら、霧に沈めた夢を見る。
第2章 冒険 『頭の中の見知らぬ誰か』
●
貴方は目を開いている。
それが貴方の意志で望んだことなのか、さもなくば終わりある夢の終端に達してしまったのかは別として、事実として貴方の目は開いた。内包する思いに関係なく、貴方はいずれ、当然の帰結として体を起こすだろう。
目に映るのは隘路である。
先には導くように一条の光が差している。遥か遠く見えるそれが目指すべき道であることを、貴方は遅かれ早かれ理解するだろう。
振り返れば暗闇があるだけだ。横に人が分け入っていけそうな道はない。ただ隘路の概念が目の前にあり、その向こうから差し込む光だけが貴方の頼りである。
しかし悲しむ者よ。貴方の足取りを泥濘が絡め取るだろう。
夢が心の最奥に秘めたる真なる幸福を映すならば、それは貴方の頭の奥にある現実である。
誰の声がするだろうか。夢の中へ置き去りにして来た笑声か、さもなくば現実に立ち返る貴方を責め立てる泣き声か。でなければ、今ある現実から語りかける声か――どうあれ貴方の足を軋ませるに最も適したそれが鼓膜に届く。ともすれば実体を持った音としてではなく、内耳に反響する記憶の残滓として。
それでも行かねばならぬと足を進めても良い。伽藍堂の隘路に蹲ることも出来るだろう。やがて光は迫り、貴方を包むのだから。
悲しむ者よ。
観測が終われば事象が訪れる。貴方が何を望もうと、夢を遮る目覚めと同じように。
※目が覚めたあなたは路地裏にいます。「あなたの足を止めようとする声」が脳裡に反響するでしょう。どう行動しても自由です。必ずしも光に向かう必要はありませんので、キャラクター様らしい行動を頂ければ幸いです。
●
|誰も《かれは》いない。
声も温もりも失って冷たく昏い大地に倒れ伏すのは、確か二度目だ。あのとき感じた足の鎖の冷たさの代わり、頬を伝う冷え切った涙に目を開き、リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)は現実に立ち返る。
隘路であった。よくよく見慣れた光景である。味気ない暗闇が身を楔のように引き留めているのも常と同じだ。しかし。
目の前にあるのは硝子扉ではない。
差し込んだ一条の光すらも、闇に融ける蒼天の眸には眩かった。真白に眩む忌まわしい視界を細め、瞬きの合間に、リリアーニャのロップイヤーに声が滑り込む。
「またそんなところに座り込んで」
光の裡からだった。たった一度きり聞いてから、ずっと脳裡に焼き付いている甘く優しい|女《あね》の声が、暗闇に蹲る哀れな|忌子《いもうと》を呼んでいる。
目を凝らしてしまったら――。
揺れる甘ったるい紅茶のような髪の色まで見えてしまうような気がして、咄嗟に目を逸らす。
暗闇を這う光の真白をなぞった。冷え切った鎖の感覚なぞないはずなのに、何故だかあの漆黒に鎖された地下の扉を思い出す。軽いはずの足はそれだけで容易に地に縫い付けられた。立ち上がる気力は、もう残っていない。
「こちらへいらっしゃい。独りぼっちは嫌なのでしょう?」
姉の声が呼んでいる。きっとあの穏やかで淑やかな微笑を湛えて手招いているのだ――見てもいないはずの姿を、あの日に目を焼いた光芒の中に幻視して、リリアーニャはきつく瞼を閉じた。
違う。
姉は妹を想ってなどいない。
暗闇にばかり馴染んで、漆黒ばかり纏って、夜とばかり踊る魔女が光に焼かれるところが見たいだけなのだ。まったき白日の下で苦しむ声を聞きたいだけなのだ。裡に隠した空洞も、借り物の衣装を纏わねば立てもせぬ足も照らし出し、暗がりに隠し続けたものを壊されて泣く姿を笑いたいだけなのだ。
自分の力では何一つ叶えられない。己の手では何も掴めない。あまつさえ伸ばされた手からも目を背ける無力な失敗作が、唯一目に宿した蒼天の光の中で焼けた靴を履かされるところを見たくて――。
「大丈夫よ」
――などと、耳元を擽る甘言を吐く。
鮮やかな光芒がリリアーニャを照らし出した。眩くてたまらない。閉じた瞼の裏すらも刺すような、悍ましく美しい煌めきが迫って来る。黒い薔薇を白く染め上げるために。魔女を焼き尽くすために。
声を殺して息を潜めた。後方に広がっている暗渠に逃げ込むことすら思い付きはしなかった。耳をきつく握り締めて、地面に額を打ち付けて――。
声一つ上げられぬままの漆黒の魔女を、真白が呑み込む。
●
眼前には光が灯っている。他方で背にはは闇が迫っている。
「助けてくれ」
目を開けたときから、狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)の耳には弱り果てた声が届いていた。
聞き間違えようはずもない。暗がりから彼に手を伸ばすのは、間違いなく祖父の声である。
生前には聞いたこともないようなものだった。心底から落ち込んでいるときの祖父が、更に弱々しく小さくなったというのが正しいか。嘗てもあまり聞いていたいとは思えなかったが、今とあってはひとしおである。
「まだ寝ぼけてんのかな……」
零れる声には夢の余韻が載っていた。愛おしく儚き幼い幸福の先で、よもや斯様な声に晒されようとは。
立ち上がって耳を塞ぐ。物理的な干渉であるのか、そうするだけで元より弱かった祖父の声はなお遠のいた。不吉な予感を揺蕩わせる暗闇の方を一瞥もせず、踏み出した十坐武郎の背に、怨嗟の声が絡みついた。
「見捨てるのか」
やはり――聞いたことのない声である。
祖父は優しかった。些かならず|甘い《・・》と言い切っても良かっただろう。十坐武郎に対して斯様な怒気を向けることなど一度もなかった。
「あんなによくしてやったのに」
――じいちゃんはそんなこと言わない。
恩を着せるようなことを言うような人ではない。当たり前のように施し、当たり前のように愛してくれたのだ。背に受ける吐き捨てるような声を振り切って、踏み出した一歩はしかし、先よりも重みを孕んで光を踏む。
「裏切り者」
引き結んだ唇も、きつく力を込めた眦も、光から逸らすことはしなかった。
もしかすれば――淡い期待が心の裡に去来している。もしかすれば、あの光に辿り着けば、いつも聞いていた優しい声で話し掛けてくれるのではないか。あんな酷いことを言うはずがないと、自分ではないとよく分かってくれた――と、頭を撫でてくれることはなくとも十坐武郎を褒めてくれるのではないかと思った。
だが。
足は軋む。乾いたコンクリートが泥濘のように重く纏わり付く。後方から聞こえる怨嗟の声が、指先の間から脳裡に這入り込んで、あらぬ葛藤を掻き立てるのだ。
見捨てているのではないか。
自分の都合の良い幻想を信じて、もしかすれば本当に苦しみ、斯様な言葉を口にする他にないほど追い詰められているのかもしれない祖父を置き去りにしているのではないか。
だとしたら――。
十坐武郎は、ひどく悪いことをしようとしているのではないか。
揺らぐ足取りは惰性のように尚も前に出る。終わることのない思索の先で、顔を上げた彼の前には、鮮やかな真白の光が広がっていた。
●
進まなくては。
慣れ親しんだはずの胸裡の空洞に我知らず手を当てていた。一度見せつけられた満ち足りた|末期《まつご》を唐突に取り上げられて、何一つとして思うように進まなかった現実に打ち捨てられる。冷たい地面の感覚から顔を上げたとき、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の眼前にあるのは、隘路に差し込む一条の真白だけであった。
どこなのかは分からない。いずれ怪異の引き起こすことであると前提を置けば、考えるだけ無為ともいえよう。事実として、これまであの白花の寝台によって引き込まれた人々たちもまた、ここに連れて来られたのだろうことだけは理解している。
これ以上の被害を出すわけにはいかない。そのために、クラウスはここに来たのだから――。
「クラウス、行ってしまうのか?」
息が詰まる。
まるで脳の裡から湧き上がるような声だった。先まで彼を抱き締め、共に永久の死の淵にいた親友が、クラウスの袖を引くように言葉を零す。
「まだいいだろ。ここにいてくれよ」
「――ごめん。そういう訳にはいかないんだ」
クラウスは――。
誰かを救う道を歩まねばならない。誰かと共に進む路に立ち返らねばならない。|真なる幸い《・・・・・》にさえ終わりを見るほど、己の裡に灯ったどうしようもない死への希求を誤魔化しながら、それでも前に踏み出さねばならない。
――何のために?
浅い吐息が零れ落ちた。隘路を転がっていやに反響するそれを見詰めるように、我知らず視線を落とす。
クラウスの太陽は、クラウスのために死んだ。
だから彼はこの命を誰かのために燃やし尽くすと決めた。燃え尽きた希望の灰の中に独り立ち尽くして尚、前を向いて足を踏み出すと決めたのだ。
では。
親友がここにいるのに、何故そうする必要がある。
大きく首を横に振って湧き上がる疑問を打ち消した。これは夢だ。現実やもしれないが、夢と地続きになっているのだから、少なくともこの声は|彼《・》のものではない。クラウスの脳裡から呼び起こされる記憶の残滓に過ぎないのだから、夢と一緒だ。
たとえ夢でも――と願ったのだから、それでも良いのではないかと囁く声が、耳元に滑り込む。
それでも、クラウスの足はしかと大地を踏みしめた。一歩を進むごとに鎖を引き摺るように体が重くなる。曖昧に歪んでいく現実と夢との境界に、沈められていく心地がした。
だが。
誰かを――救わなくてはならない。
灰に灯した使命感だけを杖に、親友の声を追い払う。近付く光の裡に誰かの姿を見た気がして伸ばした指先が、真白の裡に呑まれた。
●
まず初めに隣を見た。
眠る前に抱いていた一抹の恐怖が杞憂に終わったことに気付いたのは、一拍を置いた後だった。静かに寄り添う|影《・》を、甘い春の色をした眼差しで見上げながら、花岡・泉純(よみがえり・h00383)は緩慢に立ち上がる。
一条の光は隘路を照らしている。どこかに繋がっているようでいて逃げ場のない一本道に差す真白はか細い糸に似て、しかし確かに暗闇を払拭していた。
それを目掛けて歩み出す。まるで生きることのようだ。或いは――生まれることにも似ている。
幾度も繰り返す命の輪転の間、必ず人は母の胎から繋がる隘路を通る。産声を上げるために。絶対の安全な暗闇から、自らの意志で何があるとも知れぬ光の許へと進むのだ。
では――彼らもそうなのか。
「おいていかないで」
悲鳴のような少年の懇願が脳裡に響いた。そこここに差し込む暗がりから、泉純に手を伸ばすように。
「なんであなただけ」
妬心の籠った少女の声が重なった。背後に広がる無辺の闇へ、泉純を連れ去ろうとするように。
雛鳥たちは鳴いている。小鳥が集まって生まれる囀りは柔らかな色なぞ孕まない。どれもこれもが彼女の足を絡め取りたくて仕方がないのだ。乾いたコンクリートを泥濘に変え、掘り返した柔らかな土の下から、彼女の足に縋りつこうとしている。
息苦しい。
何一つとして特別なことはしていないのに、泉純の喉には暗闇が纏わり付いていた。心臓が痛い。足取りまでも覚束ない。
それでもなお――前を向こうと顔を上げた彼女の耳を、忘れ得ぬ声が掴んだ。
「俺たちを見殺しにしたんだな」
――瑠芽。
「あなたも私たちと一緒に喰べられてしまえばよかったのに」
――花耶。
限界だった。
膝から抜けた力が戻ってくれない。昏い地面を照らす真白の僅かな光に薄墨桜の髪が垂れ下がっている。項垂れた顔を上げることも出来ないままで、彼女の視界はぼやけて滲んだ。
暗闇を通って再び命を得られたのは、泉純だけだった。
懸命に逃がしてくれた二人の手が離れたとき、彼女は真実、彼らの末路を変えるすべを失った。あの楽園には未だ花が咲き乱れているだろう。無垢なる子供たちが燥ぎ回って踏む大地の下に何が埋まっているのかも知らずに。
――嘗て、泉純がそうであったように。
「ごめん、なさい……」
分かっている。
蹲って泣いても変わりはしない。悔いた過去が悔いるだけで目の前で塗り替えられることなどありはしない。彼女の選択の時間はとうに終わって、後には結果だけが残っている。
それなのに。
足は動かない。滲んだ視界に零れ落ちる雫は止まない。
きつく閉じた眼差しを迎えに、白き光が訪れる。
●
静謐だ。
開いた瞼には、眠ったときに見た天蓋と同じような暗闇が広がっている。緩慢な仕草で体を起こして胸へ触れた掌に、隘路と同じだけ静まり返った心臓は|応《いら》えない。
確かめるように項垂れる氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の前には不変の現実だけが広がっていた。一度喪ってから、消えることなく纏わり付く|大洞《おおうろ》が、素知らぬ顔で埋まった心臓の代わりに胸中に満ちている。
のろのろと立ち上がる。見渡したコンクリートを真白が僅かに照らし出し、ところどころの罅割れが目についた。思わず眉間に皺が寄る。
悪路であるというだけでも、眞澄の足は鈍るのだ。
だというのに常は望みもせぬ雑音を流し込んで来る思念は沈黙している。やけに静かな道に立つ背へ静かに忍び寄る暗がりが、ひどく厭な予感を伴って焦燥を駆り立てる。
早く――。
あの真白の光へ辿り着かねば。
内心に急かされるままに足を踏み出した。慎重な一歩を引き留めるようにして、耳にはひどく懐かしい声が優しく響く。
夢の|それ《・・》とは色の違う幸福が呼んでいる。眞澄を穏やかに引き留める老いた男女の声音は、彼の裡に眠る心臓に抱えるのとは違う心残りを否応なく膨らませた。
――未だ学生の身分であった頃、眞澄には庇護者が必要だった。
必然、血縁の裡から選ばれたのは最も近しい祖父母だ。抱えた厄介が故に決して|育てやすい《・・・・・》とはいえなかっただろう眞澄を、しかし彼らは真っ当に愛し守ってくれた。少なくとも、厭な顔を見せたことは、記憶の裡では一度もない。
恩を――。
返したかったと思うのは、当然のことだった。未練の残り香が後ろ髪を引く。静謐の暗闇の方から、いやに鮮明に届く声を振り返りたい誘惑を、息を噛んで堪える。
斯様なところにいるはずがあるまい。少なくともここは怪異の領域にほど近い場所なのだ。万一にも彼らが迷い込んでいたとして、これほど穏やかな声で眞澄を呼び止めるような状況であるとは思えない。
吸い込んだ息が冬の気配で肺を満たした。常であれば厭わしいばかりのそれも、今は頭を明瞭にしてくれる。
踏み出した足は迷いない。先よりは幾許かましになった気分を、なお泥濘のように引き摺って、男の足は一筋の光の方だけを目指した。
足を止めるわけにはいかない。
帰るべき場所がある。潰えた命は未だ真実魂を喪ったとはいえない。|相棒《かれ》が待っているあの場所へ――。
帰らなければ。
息を詰めた一歩が、真白の裡へと踏み込んだ。
●
背に感じていた柔らかな芝と、視界いっぱいの雲一つない蒼天の色は、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)を置き去りに融けて消えた。
代わりに冷たいコンクリートの乾いた感触と、重苦しい曇天を貫く黒いビル群が広がっている。静寂に包まれた路地裏には、歓声もホイッスルも暖かな光も遠い。しかしチェスターの内耳では、あの輝かしき日々の鮮やかな声が反響し続けている。
「僕のアシストに感謝してよ、チェスター」
同じくらい生意気だった悪友はどうしているだろうか。何だかんだと明るい彼のことだから、きっと会社でも上手くやって、紅茶片手に談笑でもしているに違いない。
「チェスター、あれは俺にパスを出すところだろ!」
よくポジションで争っていた彼は、付き合っていた彼女と上手くいっていたら、子供を抱き上げる年頃だろう。スパイクを汚してサッカーボールを蹴っていた足で上等な革靴を纏い、小さな足と並んで歩くのだ。
「腹減ったー、何か軽く食べていこうぜ」
思えばそんなことばかり言っていた彼は、きっとパブに陣取っているのだろうと思う。いつもの悪態を吐きながら、馴染みのチームに文句を飛ばして試合中継を見上げている姿が目に浮かぶ。
そのどれも、グラウンドにはない。
彼らの中にあるみずみずしい瞬間はとうに昇華すべき佳き過去へ消え、無人のグラウンドにチェスターだけがあの頃のままで立っている。
一時的な実体化は彼に再びボールへ触れる権利を与えた。しかし今や彼が本当に手にしたかったものは、過去の亡霊を置き去りにして未来を歩んでいる。停滞し続ける少年の、永劫に歳を取らない足だけが、絶えず進み続ける世界に爪弾きにされている。
過去が過去に囚われることは、ある種の必然であった。熱狂の余韻と、もうあるはずのない暖かな夕食の香りに纏わり付かれて、チェスターの眼差しは眼前に差し込む細い一縷の光を見詰めていた。
「チェスター!」
無邪気な声だけが少年を呼んでいる。余燼の中に閉じ込めるように。腕を引いて、丁寧に絡め取るように。
だが――金色の目は地面の罅をなぞった。
いずれ醒める。彼の輝かしき夢が終端に辿り着き、この隘路の中で目覚めたのと同じだ。余燼はやがて静かに降り落ち、後には褪めた思い出の気配だけが蟠る。
だから。
――どうせ醒めてしまうのだから。
足を止めても、進んでも、同じことだ。
嘗ての幸福を受け止めるように瞼を閉じる。背後の暗闇から呼ばう声を振り返った少年を、やがて真白が呑み込んでいく。
●
アラームにしては寝覚めが悪い。耳を劈くような異音と共にまどろみから引き戻されて、一拍遅れて身体の異常を伝える警告音を悟る。
バイタル異常――内容は動悸。
どこか分かっていたような気分で、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)の眼差しは凍空を仰いだ。曇天が隠した太陽から光が注ぐことはない。代わりに一条の光が分かりやすく差し込む先を目指して体を起こした。
所詮は紛いものの幸福だと、弾けた夢の裡にすら理解していた。
だというのに心とは儘ならぬものだ。突き付けられた幸いの形は締め付けるような痛みを胸裡に残し、二度と戻らぬ事実ばかりを浮き彫りにする。
だが――澄夜がここに立ち竦んで指を組んだところで、何らの現実が変わり得るものでないことも、彼は疾うに知っている。ただ頽れて天を仰ぐだけで救いが齎されるというなら、この世に白花の寝台が必要とされることなどありはすまい。
だから。
――だから、何が耳を掠めても、前に進む。
気丈な姉は最期まで笑って弟を逃がした。語るも悍ましき|儀式《・・》の犠牲になることを承知のうえで、先んじて凄惨な骸に取って代わった父母のようにだけはすまいと、震える手を後ろ手に隠して笑って頷いたのだ。
「此処にいて」
弱々しい悲鳴だった。剥き出しの少女の本音が、躊躇いと共に弟の袖を引くようだった。
「独りにしないで」
そうだろう。
本当ならば手を離したくなぞなかったはずだ。たとえ命運を共にするのだとしても、自らのことだけを考えるのならば、弟を固く抱き締めて最期の時を待ちたかったはずだ。独り苦しみの舞台に上がることは想像するだに恐ろしい。背筋を逆撫でする恐怖のままに縋られていたら、彼はきっと、自らの命運を受け入れただろう。
彼女がそうしなかったから、澄夜はここにいる。
脳裏に焼き付いた命亡き姉の剥製を一目見たときから、燃えるような悔悟は胸中に逆巻いている。幾度思えど戻らぬ時間の中で、彼女の必死の笑顔に頷いて背を向けた己を愚かしく呪いさえする。
だが。
だからこそ――。
唇を引き結んで睨む光へ軋む足を踏み出す。澄夜には足を止める資格なぞありはせぬ。踏みしめた地の一歩一歩に纏わり付く後悔と悲哀を砕き、硝子の如く鋭利に足を傷付ける心を御して、ただ前だけを見る。
――姉は正しかったのだ。
弟へ向けた最期の勇気と献身は、確かに輪転して世界へ光を注ぐのだと、証明せねばならない。
踏み砕く一歩が光の裡へ消えていく。見据える視界が眩むほどの真白の光が、澄夜の黒い翼を包み込んだ。
●
カナリヤはかくて死んだ。
五香屋・彧慧(空哭き・h06055)の手は胸元で組まれている。さながら死の淵に送られたときの恰好をそのまま映し取ったが如く、起き上がる白い指先が空を辿る。
花の香りはしないのに、鼻腔はそれを覚えているらしい。お誂え向きの順路は横たえた白花の如く眩む輝きを放つものだから、些かならずや目が痛い。
馴染みある暗がりが背を這っている。しかし、ともなればこちらが順路ということもなかろう。避けるべくは避けるが良かろうと、浮き上がる夢見の足取りが空を進む。
「なんだな、さっきから……|うるさい《干渉はげしい》きがする わ」
脳裡で弾ける爆弾のようだ。目に映る世界を切り取るようだ。
音か。
或いは――囁きか。
「いい え」
――ひとのこえなど、聞こえはしないのよ。
人のしかと信じたものの崩れる音の中で、ただびとの悲鳴が何らの痕跡を残せようか。地を割る無慈悲な火の中に燃える建造物の影に隠れ、人の苦悶は夥しい灰となって風に攫われゆくほかにない。隣人と混ざり合った骨は軍靴に踏みしだかれて、やがて後悔の鋲によって反省の額縁に飾られるまで、誰の目にも留まらない。
秩序は混沌の前に無為だ。人が懸命に作り上げて来て、誰もが信じていることを信じているから、蜃気楼の如くして空を覆っているだけだ。同じ手で作った鉄の塊が嘶くだけで、容易に立ち消える幻朧の温室にすぎぬ。
「ふふんふん」
鼻歌一つも燃え朽ちる音に隠れている。或いは路地そのものは静謐なのか。彧慧の脳裡を埋める|フラッシュバック《PTSD》が、彼方より人の営みそのものを燃やし尽くす気配を連れて来るだけか。
良心は悪心の前に無意味な綺麗事に変わる。病を焼くのが炎なら、悪を焼くのもまた、人の放つ炎である。それがときに無辜を信じた世界の全てを灰燼と硝煙に包み隠すとしても、掲げられた大義名分の旗がその柄で誰かを貫くとしても、悪は焼かれねばならぬと人は叫ぶのだ。
やがて悪を焼き尽くした良心こそが悪と呼ばれることも知らず。
「ふ〜け〜ば〜とぶよ〜な、×××に〜〜♪」
足取りは軽やかに宙を蹴る。女の眼差しはただ冴えていた。無数の人々の悲鳴を呑み込む戦禍の気配が脳裡で弾けることも知らぬげに、少女の如き柔らかな声音が歌を紡ぐ。
所詮は記憶だ。
数多と渡り歩いた誰かの断片と、今更何を違おうか。
「か〜け〜た、いのちーを 笑わば笑え~」
厭う光の淵に手を掛ける。或いは光の側が彧慧を迎えに来たのか。遠のく背後の暗がりの裡より、女の指先は、嘗て誰もが信じた無垢の色に触れた。
●
求める世界は、もはや如何なる光の裡にもありはしないのだ。
誘うように揺れる真白の光が隘路に唯一の光源を落としている。足許に迫るそれが浮かび上がらせたコンクリートの罅をなぞる眼差しに、地面と同じだけ乾いた吐息が重なった。
燦爛堂・あまね(|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》・h06890)の描きたかった全ては、あの眩しいだけの終点の中にはない。
番える優しい指先の感触が、彼女の中に残る擦り切れきった思い出の全てだった。突き付けられた幸福の棘が抜けない。咄嗟に背を向けて向かい合った暗闇の裡から、優しい声が耳朶へ触れる。
「――おいで」
顔を上げた先に――。
何かが見えることはなかった。引き絞るように鳴った喉と共に真白の眸が彷徨う。踏み出そうとした爪先と伸ばしかけた指先を咎めたのが何だったのか、瞬き一つで分からなくなる。
暗がりにある夢の名残が、噛み砕いて飲み干したはずの心を丁寧に拾い上げる。あまねの中に生まれた永劫空白のカンバスに、鮮やかな景色が描き込まれていく。
期待するのも、視線で無意識に探すのも、もう止めた。
大切に扱われたモノの寿命に比べれば、人の命の何と儚いことだろう。旅路はいずれ終点に辿り着き、取り残された誰かの心に埋まらぬ真白のカンバスを遺していく。連綿と続く命の輪転に、あまね独りが遺されたのだと思い知ったときに、あの燦爛たる日々が手には戻らぬことを受け入れた。
受け入れたのに。
「……貴方に、逢いたい」
零れた声の何と愚かしいことか。まるで乙女のように単純な口ぶりだ。魂を持ちカミに達せど、元を糺せば絵筆の癖に。
――わたくし、こんなにも貴方がすきよ。
「酷いひと、狡いひと」
責め立てる声の無為を知りながら、あまねの唇は弧を描いた。目を凝らせど見えもしない。優しく暗闇から呼ぶ声に勝手に胸元を握り締めて、千切れ乱れる心の在処をようやく定めて、絵筆は静かに踵を返した。
斯様な暗闇にいるものか。
何より世界の色彩を愛して、眼に映る全てを描き留めようと|絵筆《あまね》を番えた指先は、己の姿一つ見とめられはしない暗がりの中で、彼女を呼んだりはしない。
代わりに眼前にしかと番えるのは真白の光だった。目も眩むようなカンバスが広がっている。纏う極彩にて向かい合うならば、それは光の表現すらも儘ならぬ漆黒などであってはならないはずだ。
彼も――あまねも。
呼ばう声に背を向ける。揺れる尾が迷いなく隘路を進む。馴染んだ白の眩む淵に手を掛け、絵筆はしかと顔を上げた。
●
息が続く限り、この世の檻に囚われている。
夢はいつか終端に辿り着く。変え得ぬ現実が祈りの力で都合の良い幸いに塗り替わりもしない。嘗て蝶の翅を捕えた小さな匣の中から広い世界へ手を伸ばしたところで、本質はさして変わっていないのやもしれぬ。
神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)の抱いた幸いは、実のところ、生まれたときから叶う見込みがなかった。
幸福のさなかにあるその人の表情と声にすらも違和を抱くのだから、ちよが幾度やり直したところであのまどろみの中には至れまい。泥濘のように身を絡め取る乾いたコンクリートの罅割れを細く白い指でなぞり、緩慢に体を起こせば、夢の名残が柔らかな後ろ髪を引くようだった。
だが――。
立ち返らねばならない時間だ。
夢は所詮は泡沫である。永劫に続くことを願い、甘美な誘惑に身を委ねてまた目を伏せたなら、それは自ら死を選ぶことと何が違うのか。
足に気怠さが纏わり付く。曇天に鎖されたビル街の隘路に、唯一の光源として真白の光が差し込んでいる。後方の暗がりから呼ばう声音は、あの夢と同じ温度でちよを手招いている。
「ちよ様」
浅く吐いた息を噛む。
幻にしか会えない人に会いたいからと、まどろみの中で蹲るのは、逃避だ。
過去は過去である。分かり合えぬものはもう分かり合えない。失くしたものが戻ることはないし、時間が遡ることもない。
遡ってちよに変えられることも――ない。
鼓動は締め付けるように痛む。息は心のように乱れる。それこそがちよの生を証明する。生きているからには前に進まねばならないのだ。それが茨の上を歩くような疼痛を伴うのだとしても、自らの積み重ねて来た選択への後悔が雪の如く折り重なるのだとしても、歩み続ける限りその苦しみから逃れ得ないのだとしても――。
ちよにはもう、前に進むこと以外の何も、遺されていない。
目を開けたときにはほんの僅かと見えた距離がひどく遠く感ぜられる。覚束ない足取りをはためく蝶の翼で支え、時に暗がりに沈む外壁に手を突きながら、ちよは己の内耳を反響する痛みの残滓を振り払った。
暗闇に差した一条の光明は、その向こうに何をも映さずにいる。あまりに光が強いからだ。目を焼くようなそれの裡に何が見えるのであっても、或いは何も見えないのだとしても、息を詰めた娘の一歩は真白のさなかに踏み出した。
眩む光が目を焼く。何もかもから色を奪っていくような煌めきの中で、しかしちよは、しかと瞼を開いた。
●
目が醒めると同時に去来した映画を忘れた。
はて脳裡を巡っていたのは|誰《なん》の夢であったかも分からぬが、それそのものはさしたる動揺を齎しもしない。元より夢なんぞを見る機会もそうそうありもしないのだし、人は大方、見た夢を忘れるものであるともいう。
ただ。
徒々式・橙(|花緑青《イミテーショングリーン》・h06500)の眸を、真白の光が焼いている。
後方には暗闇の気配が蟠った。周囲を見渡しても光の逃げていくような路は見当たらない。どうやらお誂え向きに用意された順路は、光の向こうに誘っているようだ。
ならば進むしかあるまい。そも人の描いた未来より現れた橙に、後ろへ進む理由なぞありはしないのだ。
耳朶を声が擽る。
「誰か代わってくれないか」
助けを求めている。祈っている。縋っている。実体を持った|個人《・・》ではなく、己を救いうるある種の幻覚じみた存在として。
「誰かこっちに来てよ」
――叶えなくては。
橙の中に刻まれた意義が呻いている。芽吹く前から乾き果てると決まっている種に水を遣らなくてはならない。花を咲かせることすら出来ない優しさを嘘に変えてはならない。
誰かの理想を――誰かの祈りを。
主が打ち消し掻き消し土の奥底に埋めてしまう前に、受け止めてやらなくてはいけない。
|誰でもない《・・・・・》橙の掌にしか掬えない願いの全てを、否定される前に包み込まなくては。
使命感は、しかし花緑青の眼差しを揺らがせるには足りなかった。路地から聞こえる一辺倒の声たちは決死を真似てこそいるが、実体にしてみれば虚ろで軽い。
祈りではないから。
ただ足を止めようとするだけの幻聴に何らの意味もありはしないのだ。であらば橙が汲んでやる必要も、|応《いら》えて足を止めてやる意味もない。誰か、誰か、誰か――壊れた機械と同じだ。繰り返すだけでは祈りには至らぬ。
故に踏み出す足には迷いもない。ただ真っ直ぐに見据える順路の先の、焼けつくような光を眼に映し取っている。
数多の声を聴いた。数多の祈りの哀しみの終着点として、|誰でもない誰か《・・・・・・・》は目を開けた。大いなる諦念の群れが生み出した耳が聞き遂げるのは、しかし誰にも受け止められることのない血を吐くような嘆きだけではない。
背に迫る暗闇の中に取り残されるような人々の心が橙を呼び起こしたのだとしても、その向こうに手を伸ばすために生まれたのだから――。
「世界の善意を、ナメんなよ」
踏み出した一歩が真白に辿り着く。暗闇を打ち払う希望の色が、無垢なる世界を照らし出す。
●
疾うに理解していたことで痛みを覚える胸中の、何とも儘ならぬことである。
我知らず握り締めた胸元に熾火が燻っている。隣にも前にも広がる、ただ真白の光に照らされるだけの空白を藤色の硝子越しに映し、三珂薙・律(はずれもの・h01989)の唇は小さく苦笑した。
元に戻っただけだ。分かり切っていたことが分かり切った形で目の前に現れただけだ。現実は常に事実の形だけを取るのだし、底おこに燈火の温もりが宿らぬことに落胆し、空疎を覚えるようなこともありはすまい。
ただ。
疼痛を訴える胸を、声が喚んでいる。
「ほっほ、|読み解《あば》かれる側は新鮮だ」
律自身にすらも見当たらぬ最奥でまどろむ幸福の夢は、斯様な形をしているというのか。実に興味深い結果ではあったが――。
「……俺は、俺でなくなるのを怖れているだけのことよ」
いつぞやか、敵意の塊が後ろをついて回る弟子になった。以来は彼女の存在を碇とし、彼の身は律として成っている。なればそうそう足許を掬われるわけにも行くまい。いかにしても、自らの直下は疎かになるものであるのだから。
だが。
ただ一つ、足を留めるものがあの夢の中にあるのだとするならば、それは――。
呼ばう聞き慣れた声音に足が軋む。兄を呼ぶ弟の声だ。いつも争っていたさなかのそれとは違う、真実兄を求め、その背を引き留めようとするような。
行方知れずの気掛かりを汲み取ったということか。初めて眉間に皺を寄せ、律の声は僅かな怒気を孕んだ。
「耳障りな聲で囀るな。君は弟ではない」
彼は暗がりの中にはいない。
兄よりも余程優秀だった弟が、律の助けに縋るようなこともない。故に足取りは囁きを受けてより確たるものと変じた。
猶のこと、歩みを止めるわけには行くまい。彼の存在はこの暗闇に蹲っていて見付かるわけでもない。今や記憶の裡にしかない団欒の中にある、その声の真なる主を見付けるまで――。
否。
|見付けてもらうまで《・・・・・・・・・》か。
黄泉の国へ足を取られるのは未だ早い。ここで待ち続けて何が変わるわけでもないのであれば、闇には背を向けるが良かろう。緩慢に迫る暗闇の気配に冥府に引き摺られてしまうよりは、緩慢な足取りであれど光に向かっていく方が速いのであるから。
藤の硝子が透かし見る光は徐々に勢いを増していく。やがて辿り着いた淵に手を掛けた。真白の煌めきは世界の全てを覆い尽くすが如く目を晦ませて、律の前に広がっていく――。
●
行く先の分からぬ路地なぞ慣れたものだが、明示があるに越したことはない。
起こした背にみずみずしい緑のにおいは名残も香らなかった。乾いた灰色のコンクリートに這う寒気が背筋を伝う。身を起こした銀の髪が尾のように揺れた。
ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)の眼前に、真白の光が差し込んでいる。
お誂え向きの、取ってつけたような救済の色だ。露骨なほどに誘われているのは承知のうえで、敢えて反発してやる意義もない。立ち上がった黒いブーツが迷いなく一歩を踏み出した。
その耳を、声が口々に呼び止める。
「……うるせえ」
僅かに眇めた金色の隻眼は、暗闇から聞こえる声の主を知っている。
庇護者を喪った|生家《じごく》から抜け出した少年に行く先などなかった。必然、転がり込んだのは世に見捨てられた掃き溜めのような場所である。
似たような境遇ゆえに根を捨てた子供たちは、自らが生きるために徒党を組んだ。出自の運に恵まれぬ者はその後も似たようなものか、或いは庇護なくして幼子が育つとは斯様に困難なのか――分かりはせぬが、誰も長生きはしなかった。
半分は死んだ。事故のことも事件のこともあったが、身寄りに厭われた子供の死体一つにかかずらう者は少なかったから、大半はそのままどこぞでジョン・ドゥとなった。
残った裡から半分は、そのうちに下らぬ堕落に手を染めた。一度堕ちれば早いものだ。気付けば言葉も通じなくなった成れの果てに食い扶持を遣っている余裕なぞ誰にもない。やがて皆、消えた。
残り僅かの中から半分もまた、いつの間にか戻らなくなった。どこで何をしているのかは知らない。生きているのかも分からぬし、探すつもりもなかった。
未だ――。
覚えているものなのかと、他人事のように思う。
脳裡に反響する泣き声はあらゆる質を孕んでいる。足に縋りついて懇願する者、裏切りを罵り呪いを叫ぶ者、言葉にすらならず泣き喚く者――。
その全てを、ライナスは吐き捨てる一言で切り捨てる。
「うるせえっつーんだよ。|失せろ《Piss off》」
痛みは失せても重苦しい蓋は残る。一度目に喪ったときに、全て味わい尽くした。
過去は過去だ。呆気ない幕切れで消えていった同類の幻影に惑わされて足を止めることなどすまい。流れる血に縋らなかったように。引き摺られていく誰かを追わなかったように。いなくなった背を探さなかったように。
今も、それと同じだ。
踏みしめるコンクリートの乾いた感触が途切れる。隻眼に迫る光から目を逸らすことも、後方の闇を振り返ることもせず、ライナスはただ、目を眇めた。
●
全て己が氷雨に埋めたものだ。
あの日と同じような空疎が乾いた灰色のコンクリートを伝っている。団欒も、鍋も、金木犀の香りも散った。どうしようもなく恋しい嘗ての幸福は、目を開けてしまえばただ苛む暗がりの痛みに変わるのだ。
眩しい――緩慢に体を起こした夜鷹・芥(stray・h00864)の黒を飲み干すような真白の光が、眼前に口を開けている。
――帰れるだろうか。
――変えれるだろうか。
幼子のような淡い期待が胸中を去来する。覚束ぬ足取りで踏み出した地面は、水滴の一粒もないというのに、泥濘じみて芥の足を絡め取った。
「また置いていくんだ?」
狐の声が耳元に囁いている。噛み締めた息は噛み慣れてなお苦い後悔の苦渋を口腔に満たす。
「また殺すんだね?」
誰より聞きたかった優しい声が眼前の光を遮っている。早く背を向けて暗闇に戻れとでも言うように。
気付けば抜いていた銃口は、己の心臓に向けられていた。口を隠しているせいか。しかし以前には迷いなく咥えていたような気もする。
確実に命を終わらせるために――。
ほんの少し押し込むだけで良かった。だというのに、引鉄に宛がった親指は震えて抵抗する。気が狂うような焦燥感が全てを曖昧に歪ませていく中で、不思議と自らの呼吸音に意識が向いていた。
――俯いたコンクリートを、真白の輝きが照らしている。
ただ一筋、涙のように伝ったそれが、芥を引き留めている。真白の中に去来する顔は気付けば増えて、忘れ得ぬ金木犀の香りの他に数多を重ねて揺れるのだ。
だから。
「ごめん」
引鉄から指を外す。
暗闇に身を浸すのは簡単だ。自ら臓腑を貫くことも。死の安寧は罪悪感を幾分か拭って、短絡な救済で心を軽くしてくれる。
だが――。
そうしてしまったときのことを、芥はもう知っている。
怒られるだろうな、と思う。悲しむのだろうな、とも思う。どちらも綯い交ぜになって散々に反省させられて、その後に|おかえり《・・・・》を聞かせてくれるに違いない。
それを思って唇に笑みが浮かぶのも、否応のない事実だから――。
「ごめんな」
弱くて。
自ら命に終止符を打つことも、罪に報いることも出来ない。ただ一筋の未練に押し留められて、あれほど望んだ死の暗闇を拒む惑いを打ち消すことも出来ない。
「だけど、もう少しだけ猶予が欲しい」
死で報いるのではなく――この命の凡てを使い果たしてでも、恩義に報いるために。
銃をしまって前を向く。歩き出した足には確たる意思が宿った。見据える先の真白へと、漆黒の装束が歩み出す。
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道程を示してもらう分には結構だが、斯様に単純であれば罠を疑るべきであろう。
或いは仕掛けか。蜘蛛の糸に自ら絡まりに行った以上は何であれど飲み干すつもりであるが、だからと警戒そのものを捨てることもまた、愚かしい行為に違いはあるまい。
手招くような真白に歩みを進める。灰色の曇天からは光が差さない。見る限り刻限のあるようにも見えぬのであるから、急く理由もなかろう――時司・慧雪(界岐堂・h00889)の足取りは確たる一歩を踏みながら、緩慢にアスファルトの上を往く。
耳を擽る声があることは理解している。
まさしく|擽る《・・》といって良かろう。隘路に反響するそれはどうにも聞き取りづらい。というよりは――人間の言語ではないという方が正しいのか。
耳に滑り込む声音を解読しようとしていた意識がふと真実に辿り着く。同時に得心もした。
慧雪の幸福は、人の営みの裡から己の存在が乖離していくことだったのだ。
ここに在る理由を見出せぬのであれば、|もう片方《・・・・》が干渉して来るのは道理であるといえよう。人の目に一顧だにされぬことを心から望むなら、脳裡を擽るのは今まで選んで来なかった方の道で間違いがない。
しかし――慧雪の唇は小さく息を零すに留まった。
特段、|そちら《・・・》に興味があるわけでもないのだ。
無視を決め込むにも気を遣う必要がない。意味を拾える人の声が聞こえたのであれば、まやかしであっても幾らかの社会性が足を引いたかもしれないが、|こちら《・・・》に斯様に気を回してやる意味は最初からないのだ。
有難くすら感ぜられる声を聴き流し、やがて近付く真白に吐息が転がり落ちる。自嘲とも当惑ともつかぬ色もまた、どちらつかずの足取りと同じように曖昧にぼやけた。
こうまで|他《・》に興味がないとは。
客商売を営んでいるに違いない身である。野心の類があるわけでもない、道の端に構えられた小さな店から広げるつもりもないのだとしても、些か問題があろう。客の顔色を読み、その望みを過不足なく汲み取る――どうあれ基本であろう通念が真実実践出来ていたのかすら怪しく思えるところだ。
どちらを選ぶこともしないというのは、どちらとも選べないことと大差ない。どちらにも選ぶ理由があるか、或いはどちらにも選ぶほどの理由がないのか、違いといえば些細なことである。
残る結果は同じだ。
――半端モノの排他主義とは。
「……笑えないねえ……」
溜息めいた声音が真白に融ける。届いた煌めきに宝石めいた紅色を一度伏せ、男は一歩を踏み出した。