シナリオ

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幸いなるかな

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 白花が揺れている。
 倒れ伏した人々は目を閉じて動かない。規則的に上下する胸だけが、彼らの生を伝えている。
 しかし、それを見留める者は誰もいない。
 罅割れたコンクリートの床を踏み、這うように生える白い花の合間に踏み入った者は、虚ろな眼差しを空に向けて祈るように手を組んだ。そのまま同じように伏した体は、やがて葉に覆われるように消えていく。
 幸いなるかな。
 後には何も残らない。
 幸いなるかな。
 幸いなるかな。
 白花が揺れている。
 幸いなるかな。


 √汎神解剖機関の片隅にある何の変哲もない廃墟には、白い花畑があるという。
 身を横たえて眠れば幸いなる夢の裡へと誘われる。その後のことは、誰も知らない――。
「その花の噂を何とかする、というのが此度の仕事だね」
 回したペンを顎に当て、オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)が声を零した。幸福なる夢に導く花など現実には咲き誇らない。少なくとも、怪異の影が潜んでいることは間違いがないだろう。
 既に犠牲者が出ている。幸福を見せてくれる花畑があるらしい――と聞けば、こぞって人々が訪れるのも、またこの√特有の事情もあるのではないかと、星詠みは悩ましげに目を伏せた。
「ここにおいては劇薬のようなものだろう。知れば触れたくなるに決まってる。即物的な快楽は、本当の充足には遠く及ばないカンフル剤にすぎないんだろうしね」
 であるからEDENたちの力が必要だ。
 まずは怪異に接触する。巧妙に隠された場所を探り当てるより、記された地図をなぞる方が早いだろう。即ち自ずから罠にかかるような真似をせねばならない。
 廃墟の場所は割れている。白い花畑に身を横たえれば、甘やかな幻想が這い寄るだろう。
 夢には欠落も亡失も関係がない。あらゆる現実の要素を無視して描かれるのは、あったかもしれぬ、心の奥底に望む大いなる光だ。
 真なる幸い――。
「それそのものは単なる夢だよ。抗う必要もないさ。望もうと望まざろうと、いつか醒める。ただし」
 気を付けて欲しいことがあると、青年の声は続けるだろう。
「犠牲者は皆、行方不明になってる。つまり、その廃墟から何らかの力で転移させられるってことだ。どこかは私にも分からない。少なくとも善い場所ではなかろうね」
 その先で何があるかも分からない。いっときの充足の夢の代償に何を支払わされるにせよ、覚悟をせねばなるまいと、青年は告げる。
「些かならず辛いことを強いて申し訳ないが……どうか無事に戻って来てくれたまえ。心身共にね」
 燃える爬虫類の双眸が伏せられたのちに、心苦しげな苦笑と共に、星詠みは手を振った。
これまでのお話

第2章 冒険 『頭の中の見知らぬ誰か』



 貴方は目を開いている。
 それが貴方の意志で望んだことなのか、さもなくば終わりある夢の終端に達してしまったのかは別として、事実として貴方の目は開いた。内包する思いに関係なく、貴方はいずれ、当然の帰結として体を起こすだろう。
 目に映るのは隘路である。
 先には導くように一条の光が差している。遥か遠く見えるそれが目指すべき道であることを、貴方は遅かれ早かれ理解するだろう。
 振り返れば暗闇があるだけだ。横に人が分け入っていけそうな道はない。ただ隘路の概念が目の前にあり、その向こうから差し込む光だけが貴方の頼りである。
 しかし悲しむ者よ。貴方の足取りを泥濘が絡め取るだろう。
 夢が心の最奥に秘めたる真なる幸福を映すならば、それは貴方の頭の奥にある現実である。
 誰の声がするだろうか。夢の中へ置き去りにして来た笑声か、さもなくば現実に立ち返る貴方を責め立てる泣き声か。でなければ、今ある現実から語りかける声か――どうあれ貴方の足を軋ませるに最も適したそれが鼓膜に届く。ともすれば実体を持った音としてではなく、内耳に反響する記憶の残滓として。
 それでも行かねばならぬと足を進めても良い。伽藍堂の隘路に蹲ることも出来るだろう。やがて光は迫り、貴方を包むのだから。
 悲しむ者よ。
 観測が終われば事象が訪れる。貴方が何を望もうと、夢を遮る目覚めと同じように。

※目が覚めたあなたは路地裏にいます。「あなたの足を止めようとする声」が脳裡に反響するでしょう。どう行動しても自由です。必ずしも光に向かう必要はありませんので、キャラクター様らしい行動を頂ければ幸いです。
リリアーニャ・リアディオ


 |誰も《かれは》いない。
 声も温もりも失って冷たく昏い大地に倒れ伏すのは、確か二度目だ。あのとき感じた足の鎖の冷たさの代わり、頬を伝う冷え切った涙に目を開き、リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)は現実に立ち返る。
 隘路であった。よくよく見慣れた光景である。味気ない暗闇が身を楔のように引き留めているのも常と同じだ。しかし。
 目の前にあるのは硝子扉ではない。
 差し込んだ一条の光すらも、闇に融ける蒼天の眸には眩かった。真白に眩む忌まわしい視界を細め、瞬きの合間に、リリアーニャのロップイヤーに声が滑り込む。
「またそんなところに座り込んで」
 光の裡からだった。たった一度きり聞いてから、ずっと脳裡に焼き付いている甘く優しい|女《あね》の声が、暗闇に蹲る哀れな|忌子《いもうと》を呼んでいる。
 目を凝らしてしまったら――。
 揺れる甘ったるい紅茶のような髪の色まで見えてしまうような気がして、咄嗟に目を逸らす。
 暗闇を這う光の真白をなぞった。冷え切った鎖の感覚なぞないはずなのに、何故だかあの漆黒に鎖された地下の扉を思い出す。軽いはずの足はそれだけで容易に地に縫い付けられた。立ち上がる気力は、もう残っていない。
「こちらへいらっしゃい。独りぼっちは嫌なのでしょう?」
 姉の声が呼んでいる。きっとあの穏やかで淑やかな微笑を湛えて手招いているのだ――見てもいないはずの姿を、あの日に目を焼いた光芒の中に幻視して、リリアーニャはきつく瞼を閉じた。
 違う。
 姉は妹を想ってなどいない。
 暗闇にばかり馴染んで、漆黒ばかり纏って、夜とばかり踊る魔女が光に焼かれるところが見たいだけなのだ。まったき白日の下で苦しむ声を聞きたいだけなのだ。裡に隠した空洞も、借り物の衣装を纏わねば立てもせぬ足も照らし出し、暗がりに隠し続けたものを壊されて泣く姿を笑いたいだけなのだ。
 自分の力では何一つ叶えられない。己の手では何も掴めない。あまつさえ伸ばされた手からも目を背ける無力な失敗作が、唯一目に宿した蒼天の光の中で焼けた靴を履かされるところを見たくて――。
「大丈夫よ」
 ――などと、耳元を擽る甘言を吐く。
 鮮やかな光芒がリリアーニャを照らし出した。眩くてたまらない。閉じた瞼の裏すらも刺すような、悍ましく美しい煌めきが迫って来る。黒い薔薇を白く染め上げるために。魔女を焼き尽くすために。
 声を殺して息を潜めた。後方に広がっている暗渠に逃げ込むことすら思い付きはしなかった。耳をきつく握り締めて、地面に額を打ち付けて――。
 声一つ上げられぬままの漆黒の魔女を、真白が呑み込む。

狩々・十坐武郎


 眼前には光が灯っている。他方で背にはは闇が迫っている。
「助けてくれ」
 目を開けたときから、狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)の耳には弱り果てた声が届いていた。
 聞き間違えようはずもない。暗がりから彼に手を伸ばすのは、間違いなく祖父の声である。
 生前には聞いたこともないようなものだった。心底から落ち込んでいるときの祖父が、更に弱々しく小さくなったというのが正しいか。嘗てもあまり聞いていたいとは思えなかったが、今とあってはひとしおである。
「まだ寝ぼけてんのかな……」
 零れる声には夢の余韻が載っていた。愛おしく儚き幼い幸福の先で、よもや斯様な声に晒されようとは。
 立ち上がって耳を塞ぐ。物理的な干渉であるのか、そうするだけで元より弱かった祖父の声はなお遠のいた。不吉な予感を揺蕩わせる暗闇の方を一瞥もせず、踏み出した十坐武郎の背に、怨嗟の声が絡みついた。
「見捨てるのか」
 やはり――聞いたことのない声である。
 祖父は優しかった。些かならず|甘い《・・》と言い切っても良かっただろう。十坐武郎に対して斯様な怒気を向けることなど一度もなかった。
「あんなによくしてやったのに」
 ――じいちゃんはそんなこと言わない。
 恩を着せるようなことを言うような人ではない。当たり前のように施し、当たり前のように愛してくれたのだ。背に受ける吐き捨てるような声を振り切って、踏み出した一歩はしかし、先よりも重みを孕んで光を踏む。
「裏切り者」
 引き結んだ唇も、きつく力を込めた眦も、光から逸らすことはしなかった。
 もしかすれば――淡い期待が心の裡に去来している。もしかすれば、あの光に辿り着けば、いつも聞いていた優しい声で話し掛けてくれるのではないか。あんな酷いことを言うはずがないと、自分ではないとよく分かってくれた――と、頭を撫でてくれることはなくとも十坐武郎を褒めてくれるのではないかと思った。
 だが。
 足は軋む。乾いたコンクリートが泥濘のように重く纏わり付く。後方から聞こえる怨嗟の声が、指先の間から脳裡に這入り込んで、あらぬ葛藤を掻き立てるのだ。
 見捨てているのではないか。
 自分の都合の良い幻想を信じて、もしかすれば本当に苦しみ、斯様な言葉を口にする他にないほど追い詰められているのかもしれない祖父を置き去りにしているのではないか。
 だとしたら――。
 十坐武郎は、ひどく悪いことをしようとしているのではないか。
 揺らぐ足取りは惰性のように尚も前に出る。終わることのない思索の先で、顔を上げた彼の前には、鮮やかな真白の光が広がっていた。

クラウス・イーザリー


 進まなくては。
 慣れ親しんだはずの胸裡の空洞に我知らず手を当てていた。一度見せつけられた満ち足りた|末期《まつご》を唐突に取り上げられて、何一つとして思うように進まなかった現実に打ち捨てられる。冷たい地面の感覚から顔を上げたとき、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の眼前にあるのは、隘路に差し込む一条の真白だけであった。
 どこなのかは分からない。いずれ怪異の引き起こすことであると前提を置けば、考えるだけ無為ともいえよう。事実として、これまであの白花の寝台によって引き込まれた人々たちもまた、ここに連れて来られたのだろうことだけは理解している。
 これ以上の被害を出すわけにはいかない。そのために、クラウスはここに来たのだから――。
「クラウス、行ってしまうのか?」
 息が詰まる。
 まるで脳の裡から湧き上がるような声だった。先まで彼を抱き締め、共に永久の死の淵にいた親友が、クラウスの袖を引くように言葉を零す。
「まだいいだろ。ここにいてくれよ」
「――ごめん。そういう訳にはいかないんだ」
 クラウスは――。
 誰かを救う道を歩まねばならない。誰かと共に進む路に立ち返らねばならない。|真なる幸い《・・・・・》にさえ終わりを見るほど、己の裡に灯ったどうしようもない死への希求を誤魔化しながら、それでも前に踏み出さねばならない。
 ――何のために?
 浅い吐息が零れ落ちた。隘路を転がっていやに反響するそれを見詰めるように、我知らず視線を落とす。
 クラウスの太陽は、クラウスのために死んだ。
 だから彼はこの命を誰かのために燃やし尽くすと決めた。燃え尽きた希望の灰の中に独り立ち尽くして尚、前を向いて足を踏み出すと決めたのだ。
 では。
 親友がここにいるのに、何故そうする必要がある。
 大きく首を横に振って湧き上がる疑問を打ち消した。これは夢だ。現実やもしれないが、夢と地続きになっているのだから、少なくともこの声は|彼《・》のものではない。クラウスの脳裡から呼び起こされる記憶の残滓に過ぎないのだから、夢と一緒だ。
 たとえ夢でも――と願ったのだから、それでも良いのではないかと囁く声が、耳元に滑り込む。
 それでも、クラウスの足はしかと大地を踏みしめた。一歩を進むごとに鎖を引き摺るように体が重くなる。曖昧に歪んでいく現実と夢との境界に、沈められていく心地がした。
 だが。
 誰かを――救わなくてはならない。
 灰に灯した使命感だけを杖に、親友の声を追い払う。近付く光の裡に誰かの姿を見た気がして伸ばした指先が、真白の裡に呑まれた。

花岡・泉純


 まず初めに隣を見た。
 眠る前に抱いていた一抹の恐怖が杞憂に終わったことに気付いたのは、一拍を置いた後だった。静かに寄り添う|影《・》を、甘い春の色をした眼差しで見上げながら、花岡・泉純(よみがえり・h00383)は緩慢に立ち上がる。
 一条の光は隘路を照らしている。どこかに繋がっているようでいて逃げ場のない一本道に差す真白はか細い糸に似て、しかし確かに暗闇を払拭していた。
 それを目掛けて歩み出す。まるで生きることのようだ。或いは――生まれることにも似ている。
 幾度も繰り返す命の輪転の間、必ず人は母の胎から繋がる隘路を通る。産声を上げるために。絶対の安全な暗闇から、自らの意志で何があるとも知れぬ光の許へと進むのだ。
 では――彼らもそうなのか。
「おいていかないで」
 悲鳴のような少年の懇願が脳裡に響いた。そこここに差し込む暗がりから、泉純に手を伸ばすように。
「なんであなただけ」
 妬心の籠った少女の声が重なった。背後に広がる無辺の闇へ、泉純を連れ去ろうとするように。
 雛鳥たちは鳴いている。小鳥が集まって生まれる囀りは柔らかな色なぞ孕まない。どれもこれもが彼女の足を絡め取りたくて仕方がないのだ。乾いたコンクリートを泥濘に変え、掘り返した柔らかな土の下から、彼女の足に縋りつこうとしている。
 息苦しい。
 何一つとして特別なことはしていないのに、泉純の喉には暗闇が纏わり付いていた。心臓が痛い。足取りまでも覚束ない。
 それでもなお――前を向こうと顔を上げた彼女の耳を、忘れ得ぬ声が掴んだ。
「俺たちを見殺しにしたんだな」
 ――瑠芽。
「あなたも私たちと一緒に喰べられてしまえばよかったのに」
 ――花耶。
 限界だった。
 膝から抜けた力が戻ってくれない。昏い地面を照らす真白の僅かな光に薄墨桜の髪が垂れ下がっている。項垂れた顔を上げることも出来ないままで、彼女の視界はぼやけて滲んだ。
 暗闇を通って再び命を得られたのは、泉純だけだった。
 懸命に逃がしてくれた二人の手が離れたとき、彼女は真実、彼らの末路を変えるすべを失った。あの楽園には未だ花が咲き乱れているだろう。無垢なる子供たちが燥ぎ回って踏む大地の下に何が埋まっているのかも知らずに。
 ――嘗て、泉純がそうであったように。
「ごめん、なさい……」
 分かっている。
 蹲って泣いても変わりはしない。悔いた過去が悔いるだけで目の前で塗り替えられることなどありはしない。彼女の選択の時間はとうに終わって、後には結果だけが残っている。
 それなのに。
 足は動かない。滲んだ視界に零れ落ちる雫は止まない。
 きつく閉じた眼差しを迎えに、白き光が訪れる。

氷野・眞澄


 静謐だ。
 開いた瞼には、眠ったときに見た天蓋と同じような暗闇が広がっている。緩慢な仕草で体を起こして胸へ触れた掌に、隘路と同じだけ静まり返った心臓は|応《いら》えない。
 確かめるように項垂れる氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の前には不変の現実だけが広がっていた。一度喪ってから、消えることなく纏わり付く|大洞《おおうろ》が、素知らぬ顔で埋まった心臓の代わりに胸中に満ちている。
 のろのろと立ち上がる。見渡したコンクリートを真白が僅かに照らし出し、ところどころの罅割れが目についた。思わず眉間に皺が寄る。
 悪路であるというだけでも、眞澄の足は鈍るのだ。
 だというのに常は望みもせぬ雑音を流し込んで来る思念は沈黙している。やけに静かな道に立つ背へ静かに忍び寄る暗がりが、ひどく厭な予感を伴って焦燥を駆り立てる。
 早く――。
 あの真白の光へ辿り着かねば。
 内心に急かされるままに足を踏み出した。慎重な一歩を引き留めるようにして、耳にはひどく懐かしい声が優しく響く。
 夢の|それ《・・》とは色の違う幸福が呼んでいる。眞澄を穏やかに引き留める老いた男女の声音は、彼の裡に眠る心臓に抱えるのとは違う心残りを否応なく膨らませた。
 ――未だ学生の身分であった頃、眞澄には庇護者が必要だった。
 必然、血縁の裡から選ばれたのは最も近しい祖父母だ。抱えた厄介が故に決して|育てやすい《・・・・・》とはいえなかっただろう眞澄を、しかし彼らは真っ当に愛し守ってくれた。少なくとも、厭な顔を見せたことは、記憶の裡では一度もない。
 恩を――。
 返したかったと思うのは、当然のことだった。未練の残り香が後ろ髪を引く。静謐の暗闇の方から、いやに鮮明に届く声を振り返りたい誘惑を、息を噛んで堪える。
 斯様なところにいるはずがあるまい。少なくともここは怪異の領域にほど近い場所なのだ。万一にも彼らが迷い込んでいたとして、これほど穏やかな声で眞澄を呼び止めるような状況であるとは思えない。
 吸い込んだ息が冬の気配で肺を満たした。常であれば厭わしいばかりのそれも、今は頭を明瞭にしてくれる。
 踏み出した足は迷いない。先よりは幾許かましになった気分を、なお泥濘のように引き摺って、男の足は一筋の光の方だけを目指した。
 足を止めるわけにはいかない。
 帰るべき場所がある。潰えた命は未だ真実魂を喪ったとはいえない。|相棒《かれ》が待っているあの場所へ――。
 帰らなければ。
 息を詰めた一歩が、真白の裡へと踏み込んだ。

チェスター・ストックウェル


 背に感じていた柔らかな芝と、視界いっぱいの雲一つない蒼天の色は、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)を置き去りに融けて消えた。
 代わりに冷たいコンクリートの乾いた感触と、重苦しい曇天を貫く黒いビル群が広がっている。静寂に包まれた路地裏には、歓声もホイッスルも暖かな光も遠い。しかしチェスターの内耳では、あの輝かしき日々の鮮やかな声が反響し続けている。
「僕のアシストに感謝してよ、チェスター」
 同じくらい生意気だった悪友はどうしているだろうか。何だかんだと明るい彼のことだから、きっと会社でも上手くやって、紅茶片手に談笑でもしているに違いない。
「チェスター、あれは俺にパスを出すところだろ!」
 よくポジションで争っていた彼は、付き合っていた彼女と上手くいっていたら、子供を抱き上げる年頃だろう。スパイクを汚してサッカーボールを蹴っていた足で上等な革靴を纏い、小さな足と並んで歩くのだ。
「腹減ったー、何か軽く食べていこうぜ」
 思えばそんなことばかり言っていた彼は、きっとパブに陣取っているのだろうと思う。いつもの悪態を吐きながら、馴染みのチームに文句を飛ばして試合中継を見上げている姿が目に浮かぶ。
 そのどれも、グラウンドにはない。
 彼らの中にあるみずみずしい瞬間はとうに昇華すべき佳き過去へ消え、無人のグラウンドにチェスターだけがあの頃のままで立っている。
 一時的な実体化は彼に再びボールへ触れる権利を与えた。しかし今や彼が本当に手にしたかったものは、過去の亡霊を置き去りにして未来を歩んでいる。停滞し続ける少年の、永劫に歳を取らない足だけが、絶えず進み続ける世界に爪弾きにされている。
 過去が過去に囚われることは、ある種の必然であった。熱狂の余韻と、もうあるはずのない暖かな夕食の香りに纏わり付かれて、チェスターの眼差しは眼前に差し込む細い一縷の光を見詰めていた。
「チェスター!」
 無邪気な声だけが少年を呼んでいる。余燼の中に閉じ込めるように。腕を引いて、丁寧に絡め取るように。
 だが――金色の目は地面の罅をなぞった。
 いずれ醒める。彼の輝かしき夢が終端に辿り着き、この隘路の中で目覚めたのと同じだ。余燼はやがて静かに降り落ち、後には褪めた思い出の気配だけが蟠る。
 だから。
 ――どうせ醒めてしまうのだから。
 足を止めても、進んでも、同じことだ。
 嘗ての幸福を受け止めるように瞼を閉じる。背後の暗闇から呼ばう声を振り返った少年を、やがて真白が呑み込んでいく。

狗狸塚・澄夜


 アラームにしては寝覚めが悪い。耳を劈くような異音と共にまどろみから引き戻されて、一拍遅れて身体の異常を伝える警告音を悟る。
 バイタル異常――内容は動悸。
 どこか分かっていたような気分で、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)の眼差しは凍空を仰いだ。曇天が隠した太陽から光が注ぐことはない。代わりに一条の光が分かりやすく差し込む先を目指して体を起こした。
 所詮は紛いものの幸福だと、弾けた夢の裡にすら理解していた。
 だというのに心とは儘ならぬものだ。突き付けられた幸いの形は締め付けるような痛みを胸裡に残し、二度と戻らぬ事実ばかりを浮き彫りにする。
 だが――澄夜がここに立ち竦んで指を組んだところで、何らの現実が変わり得るものでないことも、彼は疾うに知っている。ただ頽れて天を仰ぐだけで救いが齎されるというなら、この世に白花の寝台が必要とされることなどありはすまい。
 だから。
 ――だから、何が耳を掠めても、前に進む。
 気丈な姉は最期まで笑って弟を逃がした。語るも悍ましき|儀式《・・》の犠牲になることを承知のうえで、先んじて凄惨な骸に取って代わった父母のようにだけはすまいと、震える手を後ろ手に隠して笑って頷いたのだ。
「此処にいて」
 弱々しい悲鳴だった。剥き出しの少女の本音が、躊躇いと共に弟の袖を引くようだった。
「独りにしないで」
 そうだろう。
 本当ならば手を離したくなぞなかったはずだ。たとえ命運を共にするのだとしても、自らのことだけを考えるのならば、弟を固く抱き締めて最期の時を待ちたかったはずだ。独り苦しみの舞台に上がることは想像するだに恐ろしい。背筋を逆撫でする恐怖のままに縋られていたら、彼はきっと、自らの命運を受け入れただろう。
 彼女がそうしなかったから、澄夜はここにいる。
 脳裏に焼き付いた命亡き姉の剥製を一目見たときから、燃えるような悔悟は胸中に逆巻いている。幾度思えど戻らぬ時間の中で、彼女の必死の笑顔に頷いて背を向けた己を愚かしく呪いさえする。
 だが。
 だからこそ――。
 唇を引き結んで睨む光へ軋む足を踏み出す。澄夜には足を止める資格なぞありはせぬ。踏みしめた地の一歩一歩に纏わり付く後悔と悲哀を砕き、硝子の如く鋭利に足を傷付ける心を御して、ただ前だけを見る。
 ――姉は正しかったのだ。
 弟へ向けた最期の勇気と献身は、確かに輪転して世界へ光を注ぐのだと、証明せねばならない。
 踏み砕く一歩が光の裡へ消えていく。見据える視界が眩むほどの真白の光が、澄夜の黒い翼を包み込んだ。

五香屋・彧慧


 カナリヤはかくて死んだ。
 五香屋・彧慧(空哭き・h06055)の手は胸元で組まれている。さながら死の淵に送られたときの恰好をそのまま映し取ったが如く、起き上がる白い指先が空を辿る。
 花の香りはしないのに、鼻腔はそれを覚えているらしい。お誂え向きの順路は横たえた白花の如く眩む輝きを放つものだから、些かならずや目が痛い。
 馴染みある暗がりが背を這っている。しかし、ともなればこちらが順路ということもなかろう。避けるべくは避けるが良かろうと、浮き上がる夢見の足取りが空を進む。
「なんだな、さっきから……|うるさい《干渉はげしい》きがする わ」
 脳裡で弾ける爆弾のようだ。目に映る世界を切り取るようだ。
 音か。
 或いは――囁きか。
「いい え」
 ――ひとのこえなど、聞こえはしないのよ。
 人のしかと信じたものの崩れる音の中で、ただびとの悲鳴が何らの痕跡を残せようか。地を割る無慈悲な火の中に燃える建造物の影に隠れ、人の苦悶は夥しい灰となって風に攫われゆくほかにない。隣人と混ざり合った骨は軍靴に踏みしだかれて、やがて後悔の鋲によって反省の額縁に飾られるまで、誰の目にも留まらない。
 秩序は混沌の前に無為だ。人が懸命に作り上げて来て、誰もが信じていることを信じているから、蜃気楼の如くして空を覆っているだけだ。同じ手で作った鉄の塊が嘶くだけで、容易に立ち消える幻朧の温室にすぎぬ。
「ふふんふん」
 鼻歌一つも燃え朽ちる音に隠れている。或いは路地そのものは静謐なのか。彧慧の脳裡を埋める|フラッシュバック《PTSD》が、彼方より人の営みそのものを燃やし尽くす気配を連れて来るだけか。
 良心は悪心の前に無意味な綺麗事に変わる。病を焼くのが炎なら、悪を焼くのもまた、人の放つ炎である。それがときに無辜を信じた世界の全てを灰燼と硝煙に包み隠すとしても、掲げられた大義名分の旗がその柄で誰かを貫くとしても、悪は焼かれねばならぬと人は叫ぶのだ。
 やがて悪を焼き尽くした良心こそが悪と呼ばれることも知らず。
「ふ〜け〜ば〜とぶよ〜な、×××に〜〜♪」
 足取りは軽やかに宙を蹴る。女の眼差しはただ冴えていた。無数の人々の悲鳴を呑み込む戦禍の気配が脳裡で弾けることも知らぬげに、少女の如き柔らかな声音が歌を紡ぐ。
 所詮は記憶だ。
 数多と渡り歩いた誰かの断片と、今更何を違おうか。
「か〜け〜た、いのちーを 笑わば笑え~」
 厭う光の淵に手を掛ける。或いは光の側が彧慧を迎えに来たのか。遠のく背後の暗がりの裡より、女の指先は、嘗て誰もが信じた無垢の色に触れた。

燦爛堂・あまね


 求める世界は、もはや如何なる光の裡にもありはしないのだ。
 誘うように揺れる真白の光が隘路に唯一の光源を落としている。足許に迫るそれが浮かび上がらせたコンクリートの罅をなぞる眼差しに、地面と同じだけ乾いた吐息が重なった。
 燦爛堂・あまね(|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》・h06890)の描きたかった全ては、あの眩しいだけの終点の中にはない。
 番える優しい指先の感触が、彼女の中に残る擦り切れきった思い出の全てだった。突き付けられた幸福の棘が抜けない。咄嗟に背を向けて向かい合った暗闇の裡から、優しい声が耳朶へ触れる。
「――おいで」
 顔を上げた先に――。
 何かが見えることはなかった。引き絞るように鳴った喉と共に真白の眸が彷徨う。踏み出そうとした爪先と伸ばしかけた指先を咎めたのが何だったのか、瞬き一つで分からなくなる。
 暗がりにある夢の名残が、噛み砕いて飲み干したはずの心を丁寧に拾い上げる。あまねの中に生まれた永劫空白のカンバスに、鮮やかな景色が描き込まれていく。
 期待するのも、視線で無意識に探すのも、もう止めた。
 大切に扱われたモノの寿命に比べれば、人の命の何と儚いことだろう。旅路はいずれ終点に辿り着き、取り残された誰かの心に埋まらぬ真白のカンバスを遺していく。連綿と続く命の輪転に、あまね独りが遺されたのだと思い知ったときに、あの燦爛たる日々が手には戻らぬことを受け入れた。
 受け入れたのに。
「……貴方に、逢いたい」
 零れた声の何と愚かしいことか。まるで乙女のように単純な口ぶりだ。魂を持ちカミに達せど、元を糺せば絵筆の癖に。
 ――わたくし、こんなにも貴方がすきよ。
「酷いひと、狡いひと」
 責め立てる声の無為を知りながら、あまねの唇は弧を描いた。目を凝らせど見えもしない。優しく暗闇から呼ぶ声に勝手に胸元を握り締めて、千切れ乱れる心の在処をようやく定めて、絵筆は静かに踵を返した。
 斯様な暗闇にいるものか。
 何より世界の色彩を愛して、眼に映る全てを描き留めようと|絵筆《あまね》を番えた指先は、己の姿一つ見とめられはしない暗がりの中で、彼女を呼んだりはしない。
 代わりに眼前にしかと番えるのは真白の光だった。目も眩むようなカンバスが広がっている。纏う極彩にて向かい合うならば、それは光の表現すらも儘ならぬ漆黒などであってはならないはずだ。
 彼も――あまねも。
 呼ばう声に背を向ける。揺れる尾が迷いなく隘路を進む。馴染んだ白の眩む淵に手を掛け、絵筆はしかと顔を上げた。

神代・ちよ


 息が続く限り、この世の檻に囚われている。
 夢はいつか終端に辿り着く。変え得ぬ現実が祈りの力で都合の良い幸いに塗り替わりもしない。嘗て蝶の翅を捕えた小さな匣の中から広い世界へ手を伸ばしたところで、本質はさして変わっていないのやもしれぬ。
 神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)の抱いた幸いは、実のところ、生まれたときから叶う見込みがなかった。
 幸福のさなかにあるその人の表情と声にすらも違和を抱くのだから、ちよが幾度やり直したところであのまどろみの中には至れまい。泥濘のように身を絡め取る乾いたコンクリートの罅割れを細く白い指でなぞり、緩慢に体を起こせば、夢の名残が柔らかな後ろ髪を引くようだった。
 だが――。
 立ち返らねばならない時間だ。
 夢は所詮は泡沫である。永劫に続くことを願い、甘美な誘惑に身を委ねてまた目を伏せたなら、それは自ら死を選ぶことと何が違うのか。
 足に気怠さが纏わり付く。曇天に鎖されたビル街の隘路に、唯一の光源として真白の光が差し込んでいる。後方の暗がりから呼ばう声音は、あの夢と同じ温度でちよを手招いている。
「ちよ様」
 浅く吐いた息を噛む。
 幻にしか会えない人に会いたいからと、まどろみの中で蹲るのは、逃避だ。
 過去は過去である。分かり合えぬものはもう分かり合えない。失くしたものが戻ることはないし、時間が遡ることもない。
 遡ってちよに変えられることも――ない。
 鼓動は締め付けるように痛む。息は心のように乱れる。それこそがちよの生を証明する。生きているからには前に進まねばならないのだ。それが茨の上を歩くような疼痛を伴うのだとしても、自らの積み重ねて来た選択への後悔が雪の如く折り重なるのだとしても、歩み続ける限りその苦しみから逃れ得ないのだとしても――。
 ちよにはもう、前に進むこと以外の何も、遺されていない。
 目を開けたときにはほんの僅かと見えた距離がひどく遠く感ぜられる。覚束ない足取りをはためく蝶の翼で支え、時に暗がりに沈む外壁に手を突きながら、ちよは己の内耳を反響する痛みの残滓を振り払った。
 暗闇に差した一条の光明は、その向こうに何をも映さずにいる。あまりに光が強いからだ。目を焼くようなそれの裡に何が見えるのであっても、或いは何も見えないのだとしても、息を詰めた娘の一歩は真白のさなかに踏み出した。
 眩む光が目を焼く。何もかもから色を奪っていくような煌めきの中で、しかしちよは、しかと瞼を開いた。

徒々式・橙


 目が醒めると同時に去来した映画を忘れた。
 はて脳裡を巡っていたのは|誰《なん》の夢であったかも分からぬが、それそのものはさしたる動揺を齎しもしない。元より夢なんぞを見る機会もそうそうありもしないのだし、人は大方、見た夢を忘れるものであるともいう。
 ただ。
 徒々式・橙(|花緑青《イミテーショングリーン》・h06500)の眸を、真白の光が焼いている。
 後方には暗闇の気配が蟠った。周囲を見渡しても光の逃げていくような路は見当たらない。どうやらお誂え向きに用意された順路は、光の向こうに誘っているようだ。
 ならば進むしかあるまい。そも人の描いた未来より現れた橙に、後ろへ進む理由なぞありはしないのだ。
 耳朶を声が擽る。
「誰か代わってくれないか」
 助けを求めている。祈っている。縋っている。実体を持った|個人《・・》ではなく、己を救いうるある種の幻覚じみた存在として。
「誰かこっちに来てよ」
 ――叶えなくては。
 橙の中に刻まれた意義が呻いている。芽吹く前から乾き果てると決まっている種に水を遣らなくてはならない。花を咲かせることすら出来ない優しさを嘘に変えてはならない。
 誰かの理想を――誰かの祈りを。
 主が打ち消し掻き消し土の奥底に埋めてしまう前に、受け止めてやらなくてはいけない。
 |誰でもない《・・・・・》橙の掌にしか掬えない願いの全てを、否定される前に包み込まなくては。
 使命感は、しかし花緑青の眼差しを揺らがせるには足りなかった。路地から聞こえる一辺倒の声たちは決死を真似てこそいるが、実体にしてみれば虚ろで軽い。
 祈りではないから。
 ただ足を止めようとするだけの幻聴に何らの意味もありはしないのだ。であらば橙が汲んでやる必要も、|応《いら》えて足を止めてやる意味もない。誰か、誰か、誰か――壊れた機械と同じだ。繰り返すだけでは祈りには至らぬ。
 故に踏み出す足には迷いもない。ただ真っ直ぐに見据える順路の先の、焼けつくような光を眼に映し取っている。
 数多の声を聴いた。数多の祈りの哀しみの終着点として、|誰でもない誰か《・・・・・・・》は目を開けた。大いなる諦念の群れが生み出した耳が聞き遂げるのは、しかし誰にも受け止められることのない血を吐くような嘆きだけではない。
 背に迫る暗闇の中に取り残されるような人々の心が橙を呼び起こしたのだとしても、その向こうに手を伸ばすために生まれたのだから――。
「世界の善意を、ナメんなよ」
 踏み出した一歩が真白に辿り着く。暗闇を打ち払う希望の色が、無垢なる世界を照らし出す。

三珂薙・律


 疾うに理解していたことで痛みを覚える胸中の、何とも儘ならぬことである。
 我知らず握り締めた胸元に熾火が燻っている。隣にも前にも広がる、ただ真白の光に照らされるだけの空白を藤色の硝子越しに映し、三珂薙・律(はずれもの・h01989)の唇は小さく苦笑した。
 元に戻っただけだ。分かり切っていたことが分かり切った形で目の前に現れただけだ。現実は常に事実の形だけを取るのだし、底おこに燈火の温もりが宿らぬことに落胆し、空疎を覚えるようなこともありはすまい。
 ただ。
 疼痛を訴える胸を、声が喚んでいる。
「ほっほ、|読み解《あば》かれる側は新鮮だ」
 律自身にすらも見当たらぬ最奥でまどろむ幸福の夢は、斯様な形をしているというのか。実に興味深い結果ではあったが――。
「……俺は、俺でなくなるのを怖れているだけのことよ」
 いつぞやか、敵意の塊が後ろをついて回る弟子になった。以来は彼女の存在を碇とし、彼の身は律として成っている。なればそうそう足許を掬われるわけにも行くまい。いかにしても、自らの直下は疎かになるものであるのだから。
 だが。
 ただ一つ、足を留めるものがあの夢の中にあるのだとするならば、それは――。
 呼ばう聞き慣れた声音に足が軋む。兄を呼ぶ弟の声だ。いつも争っていたさなかのそれとは違う、真実兄を求め、その背を引き留めようとするような。
 行方知れずの気掛かりを汲み取ったということか。初めて眉間に皺を寄せ、律の声は僅かな怒気を孕んだ。
「耳障りな聲で囀るな。君は弟ではない」
 彼は暗がりの中にはいない。
 兄よりも余程優秀だった弟が、律の助けに縋るようなこともない。故に足取りは囁きを受けてより確たるものと変じた。
 猶のこと、歩みを止めるわけには行くまい。彼の存在はこの暗闇に蹲っていて見付かるわけでもない。今や記憶の裡にしかない団欒の中にある、その声の真なる主を見付けるまで――。
 否。
 |見付けてもらうまで《・・・・・・・・・》か。
 黄泉の国へ足を取られるのは未だ早い。ここで待ち続けて何が変わるわけでもないのであれば、闇には背を向けるが良かろう。緩慢に迫る暗闇の気配に冥府に引き摺られてしまうよりは、緩慢な足取りであれど光に向かっていく方が速いのであるから。
 藤の硝子が透かし見る光は徐々に勢いを増していく。やがて辿り着いた淵に手を掛けた。真白の煌めきは世界の全てを覆い尽くすが如く目を晦ませて、律の前に広がっていく――。

ライナス・ダンフィーズ


 行く先の分からぬ路地なぞ慣れたものだが、明示があるに越したことはない。
 起こした背にみずみずしい緑のにおいは名残も香らなかった。乾いた灰色のコンクリートに這う寒気が背筋を伝う。身を起こした銀の髪が尾のように揺れた。
 ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)の眼前に、真白の光が差し込んでいる。
 お誂え向きの、取ってつけたような救済の色だ。露骨なほどに誘われているのは承知のうえで、敢えて反発してやる意義もない。立ち上がった黒いブーツが迷いなく一歩を踏み出した。
 その耳を、声が口々に呼び止める。
「……うるせえ」
 僅かに眇めた金色の隻眼は、暗闇から聞こえる声の主を知っている。
 庇護者を喪った|生家《じごく》から抜け出した少年に行く先などなかった。必然、転がり込んだのは世に見捨てられた掃き溜めのような場所である。
 似たような境遇ゆえに根を捨てた子供たちは、自らが生きるために徒党を組んだ。出自の運に恵まれぬ者はその後も似たようなものか、或いは庇護なくして幼子が育つとは斯様に困難なのか――分かりはせぬが、誰も長生きはしなかった。
 半分は死んだ。事故のことも事件のこともあったが、身寄りに厭われた子供の死体一つにかかずらう者は少なかったから、大半はそのままどこぞでジョン・ドゥとなった。
 残った裡から半分は、そのうちに下らぬ堕落に手を染めた。一度堕ちれば早いものだ。気付けば言葉も通じなくなった成れの果てに食い扶持を遣っている余裕なぞ誰にもない。やがて皆、消えた。
 残り僅かの中から半分もまた、いつの間にか戻らなくなった。どこで何をしているのかは知らない。生きているのかも分からぬし、探すつもりもなかった。
 未だ――。
 覚えているものなのかと、他人事のように思う。
 脳裡に反響する泣き声はあらゆる質を孕んでいる。足に縋りついて懇願する者、裏切りを罵り呪いを叫ぶ者、言葉にすらならず泣き喚く者――。
 その全てを、ライナスは吐き捨てる一言で切り捨てる。
「うるせえっつーんだよ。|失せろ《Piss off》」
 痛みは失せても重苦しい蓋は残る。一度目に喪ったときに、全て味わい尽くした。
 過去は過去だ。呆気ない幕切れで消えていった同類の幻影に惑わされて足を止めることなどすまい。流れる血に縋らなかったように。引き摺られていく誰かを追わなかったように。いなくなった背を探さなかったように。
 今も、それと同じだ。
 踏みしめるコンクリートの乾いた感触が途切れる。隻眼に迫る光から目を逸らすことも、後方の闇を振り返ることもせず、ライナスはただ、目を眇めた。

夜鷹・芥


 全て己が氷雨に埋めたものだ。
 あの日と同じような空疎が乾いた灰色のコンクリートを伝っている。団欒も、鍋も、金木犀の香りも散った。どうしようもなく恋しい嘗ての幸福は、目を開けてしまえばただ苛む暗がりの痛みに変わるのだ。
 眩しい――緩慢に体を起こした夜鷹・芥(stray・h00864)の黒を飲み干すような真白の光が、眼前に口を開けている。
 ――帰れるだろうか。
 ――変えれるだろうか。
 幼子のような淡い期待が胸中を去来する。覚束ぬ足取りで踏み出した地面は、水滴の一粒もないというのに、泥濘じみて芥の足を絡め取った。
「また置いていくんだ?」
 狐の声が耳元に囁いている。噛み締めた息は噛み慣れてなお苦い後悔の苦渋を口腔に満たす。
「また殺すんだね?」
 誰より聞きたかった優しい声が眼前の光を遮っている。早く背を向けて暗闇に戻れとでも言うように。
 気付けば抜いていた銃口は、己の心臓に向けられていた。口を隠しているせいか。しかし以前には迷いなく咥えていたような気もする。
 確実に命を終わらせるために――。
 ほんの少し押し込むだけで良かった。だというのに、引鉄に宛がった親指は震えて抵抗する。気が狂うような焦燥感が全てを曖昧に歪ませていく中で、不思議と自らの呼吸音に意識が向いていた。
 ――俯いたコンクリートを、真白の輝きが照らしている。
 ただ一筋、涙のように伝ったそれが、芥を引き留めている。真白の中に去来する顔は気付けば増えて、忘れ得ぬ金木犀の香りの他に数多を重ねて揺れるのだ。
 だから。
「ごめん」
 引鉄から指を外す。
 暗闇に身を浸すのは簡単だ。自ら臓腑を貫くことも。死の安寧は罪悪感を幾分か拭って、短絡な救済で心を軽くしてくれる。
 だが――。
 そうしてしまったときのことを、芥はもう知っている。
 怒られるだろうな、と思う。悲しむのだろうな、とも思う。どちらも綯い交ぜになって散々に反省させられて、その後に|おかえり《・・・・》を聞かせてくれるに違いない。
 それを思って唇に笑みが浮かぶのも、否応のない事実だから――。
「ごめんな」
 弱くて。
 自ら命に終止符を打つことも、罪に報いることも出来ない。ただ一筋の未練に押し留められて、あれほど望んだ死の暗闇を拒む惑いを打ち消すことも出来ない。
「だけど、もう少しだけ猶予が欲しい」
 死で報いるのではなく――この命の凡てを使い果たしてでも、恩義に報いるために。
 銃をしまって前を向く。歩き出した足には確たる意思が宿った。見据える先の真白へと、漆黒の装束が歩み出す。

時司・慧雪


 道程を示してもらう分には結構だが、斯様に単純であれば罠を疑るべきであろう。
 或いは仕掛けか。蜘蛛の糸に自ら絡まりに行った以上は何であれど飲み干すつもりであるが、だからと警戒そのものを捨てることもまた、愚かしい行為に違いはあるまい。
 手招くような真白に歩みを進める。灰色の曇天からは光が差さない。見る限り刻限のあるようにも見えぬのであるから、急く理由もなかろう――時司・慧雪(界岐堂・h00889)の足取りは確たる一歩を踏みながら、緩慢にアスファルトの上を往く。
 耳を擽る声があることは理解している。
 まさしく|擽る《・・》といって良かろう。隘路に反響するそれはどうにも聞き取りづらい。というよりは――人間の言語ではないという方が正しいのか。
 耳に滑り込む声音を解読しようとしていた意識がふと真実に辿り着く。同時に得心もした。
 慧雪の幸福は、人の営みの裡から己の存在が乖離していくことだったのだ。
 ここに在る理由を見出せぬのであれば、|もう片方《・・・・》が干渉して来るのは道理であるといえよう。人の目に一顧だにされぬことを心から望むなら、脳裡を擽るのは今まで選んで来なかった方の道で間違いがない。
 しかし――慧雪の唇は小さく息を零すに留まった。
 特段、|そちら《・・・》に興味があるわけでもないのだ。
 無視を決め込むにも気を遣う必要がない。意味を拾える人の声が聞こえたのであれば、まやかしであっても幾らかの社会性が足を引いたかもしれないが、|こちら《・・・》に斯様に気を回してやる意味は最初からないのだ。
 有難くすら感ぜられる声を聴き流し、やがて近付く真白に吐息が転がり落ちる。自嘲とも当惑ともつかぬ色もまた、どちらつかずの足取りと同じように曖昧にぼやけた。
 こうまで|他《・》に興味がないとは。
 客商売を営んでいるに違いない身である。野心の類があるわけでもない、道の端に構えられた小さな店から広げるつもりもないのだとしても、些か問題があろう。客の顔色を読み、その望みを過不足なく汲み取る――どうあれ基本であろう通念が真実実践出来ていたのかすら怪しく思えるところだ。
 どちらを選ぶこともしないというのは、どちらとも選べないことと大差ない。どちらにも選ぶ理由があるか、或いはどちらにも選ぶほどの理由がないのか、違いといえば些細なことである。
 残る結果は同じだ。
 ――半端モノの排他主義とは。
「……笑えないねえ……」
 溜息めいた声音が真白に融ける。届いた煌めきに宝石めいた紅色を一度伏せ、男は一歩を踏み出した。