シナリオ

幸いなるかな

#√汎神解剖機関 #断章執筆中 #プレイング受付:~2/18(水)23:59

タグの編集

作者のみ追加・削除できます(🔒️公式タグは不可)。

 #√汎神解剖機関
 #断章執筆中
 #プレイング受付:~2/18(水)23:59

※あなたはタグを編集できません。


 白花が揺れている。
 倒れ伏した人々は目を閉じて動かない。規則的に上下する胸だけが、彼らの生を伝えている。
 しかし、それを見留める者は誰もいない。
 罅割れたコンクリートの床を踏み、這うように生える白い花の合間に踏み入った者は、虚ろな眼差しを空に向けて祈るように手を組んだ。そのまま同じように伏した体は、やがて葉に覆われるように消えていく。
 幸いなるかな。
 後には何も残らない。
 幸いなるかな。
 幸いなるかな。
 白花が揺れている。
 幸いなるかな。


 √汎神解剖機関の片隅にある何の変哲もない廃墟には、白い花畑があるという。
 身を横たえて眠れば幸いなる夢の裡へと誘われる。その後のことは、誰も知らない――。
「その花の噂を何とかする、というのが此度の仕事だね」
 回したペンを顎に当て、オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)が声を零した。幸福なる夢に導く花など現実には咲き誇らない。少なくとも、怪異の影が潜んでいることは間違いがないだろう。
 既に犠牲者が出ている。幸福を見せてくれる花畑があるらしい――と聞けば、こぞって人々が訪れるのも、またこの√特有の事情もあるのではないかと、星詠みは悩ましげに目を伏せた。
「ここにおいては劇薬のようなものだろう。知れば触れたくなるに決まってる。即物的な快楽は、本当の充足には遠く及ばないカンフル剤にすぎないんだろうしね」
 であるからEDENたちの力が必要だ。
 まずは怪異に接触する。巧妙に隠された場所を探り当てるより、記された地図をなぞる方が早いだろう。即ち自ずから罠にかかるような真似をせねばならない。
 廃墟の場所は割れている。白い花畑に身を横たえれば、甘やかな幻想が這い寄るだろう。
 夢には欠落も亡失も関係がない。あらゆる現実の要素を無視して描かれるのは、あったかもしれぬ、心の奥底に望む大いなる光だ。
 真なる幸い――。
「それそのものは単なる夢だよ。抗う必要もないさ。望もうと望まざろうと、いつか醒める。ただし」
 気を付けて欲しいことがあると、青年の声は続けるだろう。
「犠牲者は皆、行方不明になってる。つまり、その廃墟から何らかの力で転移させられるってことだ。どこかは私にも分からない。少なくとも善い場所ではなかろうね」
 その先で何があるかも分からない。いっときの充足の夢の代償に何を支払わされるにせよ、覚悟をせねばなるまいと、青年は告げる。
「些かならず辛いことを強いて申し訳ないが……どうか無事に戻って来てくれたまえ。心身共にね」
 燃える爬虫類の双眸が伏せられたのちに、心苦しげな苦笑と共に、星詠みは手を振った。

マスターより

開く

読み物モードを解除し、マスターより・プレイング・フラグメントの詳細・成功度を表示します。
よろしいですか?

第1章 冒険 『真の皆の幸いの為に私の体をお使いください』



 灰色の一角に人はいなかった。
 白い花畑が沈黙している。吹き込む冬の隙間風に揺れ、なおみずみずしい葉脈と花弁が、新たなまどろみの住人を待ち望んでいる。
 床を侵食するそれの上に身を横たえ、目を閉じれば良い。よく身に馴染んだ――或いは感じたことのない――眠りの感覚は、抗いがたく身を覆っていくだろう。
 花畑に近寄りながら、ふと視線を感ずる者もあるかもしれない。
 廃墟の罅の隙間、昏く淀んで見えぬ高い天井、用を為さない階段の下、敷き詰められた花々の合間から覗く僅かな灰色の床――一挙手一投足を見詰める眼差しが、漠然と貴方たちの身を捉えている。しかし。
 息遣いを伴わない環視を気にするよりも先に、やるべきことがある。
 白花は揺れている。
 幸いなるかな。
クラウス・イーザリー


 まるで葬送のようだ。
 真白の花畑に身を横たえる。植物の淡く甘い香りが鼻腔を包み込んだ。目を伏せた途端に襲い来る強烈な欲求に引き摺り込まれる間、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は己の死を想った。
 斯様に送り出してもらえるのならば幸いだろう。そのときには彼の意識はとうに肉体を離れているだろうが、詮無い夢想を映さずにいられぬのもまた人の性である。
 ――√ウォーゾーンに斯様な安寧も暇も存在しないと知りながら、自嘲は深くまどろみに沈み込む。
 目を開いたときには遅かった。あの日にクラウスから|希望《とも》を奪い去った運命は既に放たれ、赤く燃え立つ希望の色をした髪が視界に揺らぐ。現実には親友だけを穿った一撃は、彼に庇われた青年を理不尽な軌道で貫き、二人はほど近い距離に倒れ伏す。
 死ぬのだ――と思った。
 都合の良い幻覚は痛みを伴わない。夢の底に沈んでいくときの曖昧にぼやける意識の中で、クラウスはとめどなく零れる鮮血の香りを感じていた。
 横合いを見る。親友は、今にも彼を絡め取ろうとする死を感じさせもせぬ、常と似たような笑みを携えて青年を見詰めていた。遠からず失われるはずの命の温もりが転がった黒い髪を抱き寄せてくれる。止まぬはずの銃砲は鼓膜から遠のき、代わりに弱々しい呼吸音が聞こえるから、クラウスも笑い返して目を閉じた。
 これでようやく解放される。
 生きている限り見詰め続けなくてはならない悲劇が胸を刺すこともない。今再び心に抱いた大切な誰かが、また目の前から消え失せる未来に怯えることもない。埋まらぬ空席が一つ増えるたび、罅割れた心から零れ落ちていく満ち足りた日の幸福を数えることもしなくて済む。
 安寧の眠りだけが満ちている。あらゆる苦しみに背を向けて、失われない肌の温度に身を委ねた。叶う機を永遠に逃した祈りは、この幸いの夢の中ではクラウスの体を抱き締める腕となって、彼を永遠に守ろうとする。
 ――目なんて醒めなければ良い。
 死の間際の弱まった呼吸を感じている。自身が拡散していく感覚がする。あとほんの僅か、クラウスの存在が空に混じり合った瞬間に、彼は永久の死に至るはずだ。しかし夢の世界はどこまでも心地良く彼の願いを汲み取っているらしい。ただの一呼吸でも散逸してしまうだろう青年の自我を、久遠ともとれよう時間感覚の中に誘ってくれる。
 暖かい腕に抱き締められ、まどろみ続ける意識は、朦朧と死への歓待に浸っていた。砲火も悲鳴も怒号もない。あるのやも分からないが、クラウスには聞こえない。聞こえないならばないのと同じだ。
 青年は深く安堵の息を零した。
 幸いなるかな。苦渋に満ちたる未来を捨てて、太陽と共に燃え尽きる。

リリアーニャ・リアディオ


 幸福の夢など見飽きた。
 所詮は底の抜けた器である。いっとき満ちたものは凍てた真実の前に甘美さを失い、後には噛み切れぬ苦渋の味だけが舌に残る。それが夢であろうと現実であろうと本質は変わらない。浮かされた熱が互いの裡から去っていけば、後に残るのは余燼とすらいえぬ幸福の灰だけである。
 リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)にとって、幸福とは不幸の先触れであった。
 彼女の幸いはいつも彼女の許から消えていく。時に彼女の方から手を離すこともあったし、知らぬ間に途絶えた遣り取りの既読がつかないメッセージとなって立ちはだかることもある。夢もまた同じだ。空虚な幸福の灯火が消えたのち、リリアーニャの前にあるのはただ静謐なる暗闇だけである。
 地下の一室の、冷えた鎖の感触のような。
 それでも目を伏せ、再び仮初の幸福に身を委ねることにした理由を見付けることは叶わずに、漆黒の忌兎は白花に身を横たえた。
 次に意識が浮上するときには柔らかな温度に包まれている。誰かが自分を抱き締めているのだ――と、すぐに思った。
 幾度も経験があるからだ。
 愛を分け与えてくれる誰かを探し、彼女は幾つもの温もりの間を跳ねて来た。結局そのどれも結実せずに腐り落ち、今も全てを抱き締め、割れた器に熱を注ぎ込み続けてくれる誰かは見付かっていない。心の裡にある誰かの面影を探ろうとして――。
 やめた。
 誰でもない方が良い。誰でもなければ良い。初めて鮮烈な|姉《ひかり》を直視したとき、知ってしまった己の中の欲動が生み出した、地下牢の視界の如く黒く塗り潰された顔であれば良い。
 リリアーニャは|求め《おそれ》ているのだから。
『     』
 囁く声を。甘く空疎な言葉を。耳朶に無防備に受け入れて、女は深く揺れる吐息を零した。
 幸福だ。幸福であると自覚してしまう。都合の良い物語が嘘に塗れていることを知りながら、掌に触れる熱を求めていた器が満たされる。
「――本当に、駄目ね」
 これなら悪夢の方がずっとましだ。
 泣いて叫んで苦しみながら目が醒めるなら、現実の方がまだましだと言い聞かせて、息を繋いでいけるのに。
 また目が醒めたら現実の無明が続いていくだけだ。光が強ければ強いほど後に残される影が色濃いことを、彼女は身をもって知っているのに。まるで姉の影のように息を紡ぎ、光を厭うて夜に跳ねながら生きて来た理由を、いとも容易く忘れてしまうのだ。
 心の奥底を満たす|唯一《だれか》の温度に身を委ね、リリアーニャは蒼天の双眸をきつく伏せる。
 次に眸が開いてしまう前に、早く|噛み締め《わすれ》てしまわなくては。
 幸いなるかな。見知らぬ愛の空想で、満ちぬ器に蓋をする。

狩々・十坐武郎


 幾ら好きだといっても、好物ばかり食べていれば飽きるだろうに。
 それでも舌を喜ばせる蜜を永久に啜りたいと願うのも人の業か。目を閉じるたびに甘美だけが満ちたる人生であるなら、それもまたある種の幸福であるといえるのかも分からぬが。
 狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)は既に、真なる幸いの何たるかを知っている。
 光明は遠く離れて初めて明るく輝く。当然に周囲を照らしていたときには曖昧だった輪郭は、悲しいかな光陰が矢の如くして掌を過ぎ去ったのちに、それがいかに燦然たるものであったかを示すのだ。
 家族が揃っていたときの、当たり前の光景である。
 三人の姉は入れ替わり立ち代わり、時に連れ立ってはひっきりなしに十坐武郎の元を訪れる。可愛い末っ子長男に姦しく世話を焼く彼女たちの声を受け流していれば、父の大きな声が彼を引き摺る時間が訪れる。些かならずしつこい鍛錬で削られ切った体力は、母の暖かな腕が癒してくれる。
 そうこうしているうちにやって来た祖父母は母に輪をかけて甘い。彼の好物がたっぷり用意されているのを知っているから、幼少の十坐武郎は二人が満面の笑みで孫を呼ぶのを、母の胸の中でじっと耳を澄ませて待っていた。
 美しい日々だった。
 美しいのだと分かったところで、既に手には戻らぬ日々だった。
 今が幸福でないとは言わない。問われれば迷いなく幸いであると応じるだろう。しかしそれは、在りし日の光に叶うほどの光明ではない。
 祖父母は時の流れに逆らわず永遠に去った。姦しい姉たちも十坐武郎が大人になるより先に節目を迎えて家を出た。団欒の時間はあの頃のまどろみのように長いものではなく、空いた二つの席が埋まることも永劫にない。
 もしも時を戻す方法があるとして、その甘美なる誘いを断れる自信はあった。誰もがいずれ迎える別れと、誰もがいずれ通る節目を巻き戻したとて繰り言にしかなるまい。しかし。
 戻れるならば戻りたい――と、祈ることの何をして咎められようか。
 まやかしの夢の中に映し取るだけの理想郷は、目を開けば脆く崩れる。それを当然だと思う十坐武郎の心の奥底に、この日々が永遠に続けば良いと願う幼い声がある。
 己に生じた矛盾に揺らぐ眼差しは、やがて現れた三人の姉と、我先にと末っ子を構う彼女らに向けられる微笑ましげな笑声の裡に解けた。心地良い声と旧懐に似て褪せた痛みを伴うこの幸福に、今はただまどろんでいたい――。
 抗う必要もないのならば、時には二度と戻らぬ甘い幸福を味わっても良いだろう。
 夢とは、どうせ目を開けてしまえば消えるものなのだ。
 幸いなるかな。縫い留められた光明の、尽きせぬ裡へ身を浸す。

神代・ちよ


 幸福には、そも受け取るべき資格がある――と思う。
 それが何であるのかは具体的には思い描けぬが、とかく己には未だ備わっていないのだと、神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)は自覚していた。
 たとえ一時の夢に過ぎぬのだとしても、心底から祈り願う資格なぞ、彼女の未だ小さな掌には余るのではないか――。
 幾度も繰り返した問い掛けと使命感の天秤を再び傾けながら、ちよの足はとうとう花畑の前に辿り着いていた。白花が誘う幸福の夢が呼んでいる。その向こうに鎮座するのだろう、見知らぬ視線が彼女に絡みついている。
 人々を絡め取る事件の解決には、真なる幸いの夢を見る必要があるという。
 ならば踵を返すわけにはいかない。足を引き摺るような心地で身を横たえれば、味気ない暗闇の天蓋と冷たいコンクリートのベッドがちよを出迎える。およそ良い寝心地とはいえないが、これから得る資格なき幸福への苦渋を思えば、柔らかく暖かな寝具よりも斯様に居心地の悪い方がまだましだった。
 目を閉じる前から――。
 彼女は己が何を見るのか理解していた。
 だから、名を呼ばれて目を開くのと同時に、掌に暖かな感触を覚えても動揺はしなかった。
 鉄塊のような冷たい苦みが胃の腑を塞ぐだけだ。
「どうなさいましたか、ちよ様」
「――いいえ。何でもありません」
 見上げた先で|視線が絡む《・・・・・》。微笑む男は僅かに首を傾げ、温度のある声で再び前を示した。
 掌に触れる指先が熱い。鼻の奥に蟠るほど。握り締めた大きな掌が優しく白磁の肌を包んでくれるのが嬉しい。柔らかな心に冷や水を浴びせられるように。
 叶いやしないと分かって、前に進む覚悟も定めておいて、ちよは未だに己の幸福の中に彼の姿を投影する。いつも彼女の向こうに別の誰かを見透かして、決して触れぬ掌に、甘えていたいと願ってしまう。
 叶うべくもない。
 ――望むべくもない。
 彼が|ちよ《・・》に目を向けてくれたことがあろうか。心を注いだ人だからこそ、その視線の先に誰がいるのか分かってしまう。声の一つ一つから、言葉の一つ一つから、ちよは彼が想うのが彼女ではないことを残酷なまでに理解して来た。
 だから夢だ。
 現実の彼はちよの願いを叶えてくれなかった。きっとこれからも、永劫に叶えてはくれない。
 優しい声が心地良いあまりに、ちよの眼差しは自然と彼を見上げていた。厭というほど見たことのある、一度も彼女に注がれたことのない眼差しが愛おしげに甘い色を刷くのを見て――。
 ちよはどうしようもなく、眠る己の微笑む頬に涙が伝ったことを悟った。
 幸いなるかな。籠の中にて結ばれた、叶わぬ恋の夢を見る。

氷野・眞澄


 夢など長らく見ていない。
 見得ぬものがやたらとよく見え、現実と夢の区別がやたらとつく目である。降り注ぐ、或いは見上げる無数の眼差しの気配の中で、左右非対称の不規則な足取りが花畑に近付いた。
 粛々と横たわるさまは自ら葬送を望むに似ている。昏い天井を瞼で遮っても、見える景色にさしたる違いはなかった。
 氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の夢は荒唐無稽である。
 瞬きの裡に――少なくとも彼の意識のうえでは一瞬の間に――眼前には|いつもの《・・・・》光景が広がっていた。たとえば猥雑な繁華街から一つ奥に入った路地。たとえば書類の積まれたデスク。たとえば昏い下水道管。|異能捜査官《カミガリ》の仕事は今も昔も大して変わらず、故に眞澄のやっていることも大差はない。
 横合いでへらへらと笑う相棒のいつもの調子に首を横に振る。サングラスの向こうの――当人が知ってか知らずか己を幾度も掬い上げて来た紫紺の双眸を一瞥したのち、男は半ば諦念じみた感情で、首を傾げる相棒から視線を逸らした。
 幸福は空気と同じである。折に触れて感謝をすれども、あるときにはあるとも気付かずにいるくせ、なくなった途端に窒息の痛苦に悶えることになるのだ。
 眞澄は――。
 |これ《・・》が続くことを疑ったことがなかった。よしんば消えるのだと想定したとして、漠然と
そう《・・》なるのは己の方であろうと思っていたかも分からない。しかし。
 現実なぞというものは、夢よりも突飛で脆く、そのくせ取り返しがつかない。
 分かっている。
 とうの昔に理解している。横で笑う唯一無二の相棒の体に、血潮が巡る熱が宿っていることも。その拍動が一定のリズムで生き生きと跳ねることも。
 それが眞澄の真なる幸いであったことも。
 温度のある体で笑っていてほしかった。軽やかに地を蹴って歩いてほしかった。拍動の音を長くこの世に刻んでほしかったのに。
「氷野ちゃん」
 ――夢だと分かって縋ることの、何と愚かしいことか。
 現実の彼は己で決めて魄を喪った。それを眞澄の一存で未練がましく引き留めることはしない。しないと決めている。
 ただ。
 今や戻らぬ幸福の在処を眺め、覚醒に近付く感覚に身を任せるその瞬間までも、目の前で|生きている《・・・・・》彼を焼き付ける。
 目が覚めれば全て消える。眞澄の中の心臓は沈黙し、彼の魄は火にくべられ、絶えず流し込まれる|幻聴《ノイズ》の群れが弱り果てた空疎な体を反響するのだろう。
 未練はない。縋るつもりも、足を止めるつもりもない。
 それでも目の奥が眩むように熱を持つのも、目頭が痺れるように痛むのも、止められはしなかった。
 幸いなるかな。己が|脳幹《メモリ》に焼き付いた、音の主を縫い留める。

雨夜・氷月


 目の前にあるものの形がよく見えない。
 輪郭のあるような気もするし、単なる光体のようにも思う。焦点を合わせようとするたびに何故か視界がぼやける。
 だが、雨夜・氷月(壊月・h00493)は目を開いた瞬間に理解した。
 押し殺した不安が融ける。仮面に塗りこめた焦燥が消える。目の前にある暖かく柔らかな|それ《・・》に手を伸ばし、銀月の双眸はようやく満ち足りた光を取り戻した。
 己がずっと求めていたのは、寸分たがわず|これ《・・》なのだ。
 形も色も分からぬそれを腕の中に優しく抱き寄せた。温もりが氷月の胸を伝播して、その奥にしまい込んだものにまでも色彩を与えてくれるようだ。一度でも触れてしまえばもう二度と離せない。唇が描くのは常の享楽に身を浸すための仮面ではなく、いとけない充足の微笑みだった。
 ――もう我慢しなくて良いんだ。
 腕の中のそれが語りかけてくれたのか、それとも氷月の心の裡から湧き出た理解であったのかは分からない。しかし彼はどうしようもなく腕に力を込めた。
 壊さぬために諦める必要はない。崩さぬために偽る必要もない。
 人の体を容易に破壊せしめる力で抱き締めても、それは壊れなかった。真っ直ぐに制御を忘れた魔眼で視ても、それは崩れなかった。温もりが凍てることも、腕から逃れようと藻掻くこともなかった。
 氷月は――。
 ここでは|氷月《・・》のままでいて良いのだ。力を解放しても否定されることもない。薄氷の上を渡るように力を制御しなくとも、誰かを傷付けてしまうようなことも起こり得ない。それの――。
 何と幸福なことだろうか。
 得難き温もりを強く抱きしめたまま頬を寄せてみる。懐くように無防備に擦り寄ってくれるのが何よりも嬉しい。ずっと罅割れていた心の裡側に、欲しかったものをなみなみと注がれる。そしてこれは幾重にも折り重なった|いっとき《・・・・》ではなくて、永劫に氷月の傍にいて、彼の終わるまで手を握っていてくれるのだ。
 光に満ちて煌々と煌めく満月の眼差しは、しかしひどく冴えた脳裡を否定しえない。
 斯様に美しき幸福などない。あってはならない。少なくとも現実の氷月の身に、|これ《・・》の許されぬことをとうに知っている。
 光も温もりも遠き残響だ。永遠などというものは、人が起きながらにして見る夢に過ぎない。幾度指を契っても、どれほど言葉に熱を込めても、やがて来たる|そのとき《・・・・》には容易に崩れ落ちるだけの、砂城のようなものである。
 この泡沫の夢と同じだ。
 幸いなるかな。人に非ざる体の裡で、人の幸福を夢に見る。

燦爛堂・あまね


「――嗚呼、貴方!」
 歓喜の声は悲鳴じみて響いた。真白の栗鼠の尾がぴんと天を指すと同時に、少女めいた軽やかな足取りが満面の笑みを刷く。
 燦爛堂・あまね(|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》・h06890)の目の前に、彼女を愛してくれた人がいた。あらゆる画材のにおいが混じり合うアトリエの中央に座したその人の前には、あの頃と違わずカンバスが据えてある。まるで少し席を外していただけのようだ。
「一体どこへ行っていたの? 描きかけの絵がたくさんあるわ、完成させるので御座いましょう?」
 苦笑するばかりのその人の前で、あまねの姿は知らぬ間に一本の絵筆に変わっていた。伸びて来る指先が待ち切れない。いつもそうするように指の間に番えて欲しい。よく手入れのされた自慢の毛先に極彩色の絵の具をたくわえて、目の前にある真白のカンバスの上を翔んで、舞って――。
「……なあんだ」
 ふと気の抜けたように、絵筆は肩を落とすが如く声を紡いだ。
「わたくしったら、やっぱり描いて欲しいんじゃあ御座いませんか」
 己が尾の先で|描く《・・》のではなく。
 あの人の指が良い。あの人の絵が良い。
 一度絵筆を番えると、乾く間もないほどにカンバスに齧りついていた貴方。数多の色を、世界を、風景を愛した頑張り屋の貴方。双眸に映る世界を輝かしく絵に刻み込んだ貴方。無我夢中で|二人《・・》描き上げた後には、自身の疲弊も知らぬげに、絵筆を労わるように真白に戻してくれた優しい貴方。
 貴方が見ているものを切り取るときに、その指先に番えられていることこそが、あまねの限りなく美しき幸いだった。
 もう何一つも覚えていない。彼女の中にあるその人の思い出は、今や幾度も番えられた指の感触と、自在にカンバスを奔る感覚だけだ。
 それなのに。
 疾うにこの世にいないその人の手に再び収まる夢を見る。真なる幸いを映し出すというそれの、何と正直で残酷なことか。どれほど呑み込んだふりをしたって、いかにアトリエに絵を連ねたって、これでは未練の塊のようではないか。
 自嘲の声が嗤っても誤魔化せはしない。己が自慢の尾で描いたいかなる作品も、目の前で埋まっていくカンバスの彩りに敵わないと分かってしまう。
 当然だ。
 あまねの知る世界は|これ《・・》なのだ。貴方の手の中で、|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》いる。
 高揚の裡に差す冷や水を理解したところで何らの役にも立ちはしなかった。
「――嫌になります」
 あまりにはしたなくて。
 幸いなるかな。筆先に焼き付く指先と、真白のカンバスを染め上げる。

五香屋・彧慧


 痛みの少ない蔓薔薇を、肩から手先に掛けていく。
 真白の花を携えたそれが首裏に小さく残すささくれた感触が、五香屋・彧慧(空哭き・h06055)に仮初の肉体を与えた。足先の感触はない。余人には薄く透き通る下半身と、中空に浮く上半身だけが見えていることだろう。
 白花の中に横たわり、ごく自然に香りを鼻腔に招き入れた。無数の眼差しが彧慧を見下ろしている。昏く淀み沈んだ高い天井の闇の中から注がれる視線一つ一つを視認して、彼女は指先を擽る花弁の柔らかな感覚に問い掛けた。
 さしたる記憶は戻って来ない。横たえた人間を呑み込む根の景色が戻るだけである。
 新たな蕾が彧慧の真横で花開いた。白薔薇が頬を撫でる感触に抗わず目を閉じる。
 己が意志で下った夢の階段の先にある扉の向こうに――。
 在りし日の幸福が手を伸べた。節くれ立って大きな男の掌だ。しかし彧慧が想起していた、彼女の隣で歩み眠った彼ではない。もっと幼い頃に彼女の手を引いてくれていた、父のものである。
 彧慧は彧慧としてあまりに永き時間を過ごした。記憶の奥底で静かにまどろんでいたはずの面立ちは、とうにぼやけて曖昧になってしまったらしい。夢の中でさえ思い出せない、しかし父だと分かる懐かしい出で立ちの手を取れば、その人は摺り硝子じみたノイズの向こうで笑ったように見えた。
 彧慧は――。
 手を繋いで初めて、己の体が幼い娘のものになっていることに気付いた。
 抗わずに足を進める。年端も行かぬ少女と大人の男性の歩幅は違いすぎて、彼が幾ら緩慢に歩いても、彧慧は足早になるほかなかった。導かれる先にあるのは人の輪だ。ふと一人が振り返り、迷いなく彼女たちを手招いた。
 誰もが当たり前のように彼女たちを受け入れる。誰かと誰かを並べて劣等をあげつらう悪意の籠った視線もない。皆が笑って一つの食卓を囲み、食材を分け合って仄かな幸福を口に運ぶ――。
 嘘だ。
 |幸福《・・》のレッテルを上からそのままなぞったかのように浅薄だ。彼女の知る世界はこんなにも都合良く優しくはなかったし、かくあれかしと願ったことがあるのだとしても、遥か過去のことである。
 それでも彧慧は、隣で笑っているのだろう父の、摺り硝子の顔を見上げた。その向こうで抜けるような青空を飛び去る飛行機ごと。
 ――何故。
 何故人は空に手を伸ばしながら、鮮やかな青を紅色に染めるのだ。空に届くための道具を戦う武器に変えてまで。空を切る歓声を地に蔓延る悲鳴に変えてまで。
 彧慧にとって本当に大切だった依る辺を、蒼穹の彼方にずっと取り上げてしまってまでも――。
 軍服は揺れない。あの頃のような重みさえ、彼女はもう纏えない。
 幸いなるかな。理想の上辺をなぞる指に、掠れた真なる幸福を見る。

徒々式・橙


 能々廃墟に導かれる運命らしい。
 取り留めのないことを考えながら灰色の建造物を見上げている間、男は漠然と己の見る夢について思索を巡らせていた。生命維持を要さぬ身の上だ。真なる幸いの夢――といわれても、そも夢なるものと縁遠い。
 それでも、まあ。
 身を横たえた白花の冷たいベッドの上で、与えられると分かっている幸福を受け取るのも、人生の娯楽の一環であろう。舌を楽しませるために用もなく食事を摂取するのと同じだ。
 迷いなく目を閉じた徒々式・橙(|花緑青《イミテーショングリーン》・h06500)の視界が明るい日差しに照らされるのと、その眩しさに思わず目を開けるのとは、殆ど同時だった。
 見る夢なぞとうに決まっている。だから、目の前にある光景に落胆も驚嘆もなかった。
 曰く夢は記憶を整理するためにあるのだという。眠っている間に流れる脳漿が、そうして新しい隙間を作るらしい。
 橙の|これ《・・》はそういうものではない。
 祈り。願い。誰でも良いから拾わぬものかと放り投げられる理想。己が手で掴み取る――なぞというお為ごかしの裏で、人が折り重ねた無数の無責任な言葉である。
 誰でも良いから手を握っていてほしいと願った少女があった。指先に触れる手の主を見上げて嬉しげに笑っている。今晩だけは誰かに隣にいてほしいと祈った男があった。存分に涙を流しきった後には赤くなった鼻で酒を傾けている。
 誰かに代わってほしい。誰かの声を聞きたい。何でも良いから縋るものが欲しい。誰でも良いから助けてほしい。何だって良いから――。
 ――|唯一無二《・・・・》なんぞでなくて構わないから。
「幸せな夢ですよね」
 |誰かにとっての《・・・・・・・》。
 成程確かに都合が良い。橙にとっては見飽きた光景だが。
 彼自身を構築する未来の再生だ。投影である。目の前にあるようでいて、スクリーン越しに流れていく映画のようでもある。|彼ら《・・》の目の前にある男の顔はいつでも眼鏡の底で笑っているが、呼ばれる名も向けられる視線も、一つとして彼自身を表してはいなかった。
 結局のところ、血を吐くような願いの在処が真実誰でも良いことは少ない。
 やがて|誰か《・・》が現れれば、急場凌ぎの代用品にあれほど縋った掌は簡単に離れていく。あらゆる願いと祈りの混在の上に生まれた者はあまりに汎用的すぎて、誰かの夢にいっときの水を注ぎはすれども、己が夢を見る機能には恵まれていないのだ。
 |代替品《イミテーション》は夢を見ない。ポップコーンでもあれば、もう幾分か気分がましだったかもしれないが。
 幸いなるかな。己が領分を違えずに、届かぬ夢の前に立つ。

狗狸塚・澄夜


 純真も無垢も純血も、この花畑の真意には似合うまい。
 悪意があるのやらないのやら分からぬ視線が膚を刺している。真白の内包する意味を蹂躙するかの如きそれらを一瞥し、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)は細く白い息を吐く。
 ここを訪れた者らの心を否定はしない。
 この世界にはあまりにも苦しみが多すぎる。黄昏の気配に圧し潰されぬよう、僅かの享楽の水で今を飲み干す彼らには、幸福の夢の蜜はあまりに甘すぎる。
 故に、澄夜は目を伏せた。神の眼差しに従順なるさまを示す、敬虔なる殉教者の如く――。
 緩慢な深い眠りが身を包んだ。やがて下るまどろみの先に、ふと浮かび上がるように笑う顔がある。一組の睦まじい男女と、その間に立って彼らを見上げているいとけない少女の眼差しが、示し合わせたように澄夜を捉えて屈託なく笑った。
 村――。
 ではない。
 光の裡とでもいうべきような空間だった。忌まわしきものの全てを剥ぎ取った想像の中で、黒い翼を背にはためかせる父と、白い翼で子供らを包む母と、母によく似た姉が手を広げていた。
 少年の姿のままで歩み寄る。旧懐が罅割れるように胸裡で疼いた。思えば彼らの許で愛に触れながら過ごした日々も遠く霞み、独り歩む時間の方が長くなってしまったな――と思う。
 疾うに忘れたと思っていた指先の輪郭は確かだった。記憶とは奇妙なものだ。平時には片隅に掠れて浮かぶだけなのに、こうして目の前に取り出されてみれば、笑う顔も声もいたく鮮明に澄夜に触れる。
 或いは――。
 それは彼の未練などではなく、怪異の齎す悪意に過ぎぬのかもしれないが。
 ここに絡め捕ろうとしているのか。それともこの先に待ち構えるという何かのための下準備か。真実これが澄夜の中にある未練の証左であるにせよ、無理に引き摺り出して再現する意図なぞ碌なものではなかろう。
 母の指が頬を撫でても、父の腕に抱き締められても、澄夜の心の奥には鉛の如く冷たい感覚が渦巻いた。
 浸れはすまい。覚えているからだ。
 灼ける村のさなか、倒れ伏した父と母の翼を捻じ切る狂者どもの姿を。彼らに引っ立てられてのち、未だ幼き膚の裡に綿を詰められ、剥製となった姉の姿を。
 ――故に怪奇よ、今は嗤え。
 ともすれば嗤いすらせぬのやも分からぬそれの喉元に、澄夜は必ずや喰らい付く。無惨なる屍と変えてやる。抗うまでもなく、じきに来たるそのときに、 彼が躊躇することはないだろう。
 抱き留められた懐かしい腕と名を呼ぶ声に応じ、霜の如き凍青の眼差しは夢の奥を睥睨した。
 幸いなるかな。泥濘に沈められた在りし日の、柔き血潮に身を窶す。

夜鷹・芥


 白花が僅かに露出した皮膚を撫でている。
 一体何のために斯様な寝具を用意したものか、勘繰るのは板についた異能捜査官としての習慣のようなものだった。しかし抱いた疑念の有無も知らぬげに、花々の香りは夜鷹・芥(stray・h00864)の浅い眠りを夢へと覆い隠していく。
「――芥?」
 呼ばれて我に返った。
 見遣れば金木犀が揺れている。優しくて快活で、僅かに低く耳朶を揺らす、聞き慣れた声だ。
「箸、止まってるぞ。こいつらに全部食われて良いのか?」
 笑う顔を茫洋と眺める芥は、促されるままに手許に視線を落とした。暖かな部屋に鍋が茹っている。その中から好きな具――主として肉だ――を我先に突く双子の箸が過ぎった。渡し箸を注意されてはどちらが悪いの悪くないのと口論し始める彼らを横に、芥は小さく頭を振った。
「……いや、ぼーっとしてただけ。悪い夢を見てたみたいだ」
「何だよ、目開けたまま寝てたのか? ここのところ忙しかったから疲れてるんだろ」
「いや、疲れてないから」
「遠慮するな、ほら」
 金木犀の箸が、喧嘩に夢中の双子の横をすり抜けていく。有無を言わさず彼の手に収まった芥の取り皿に声を上げる間もない。鍋の中の肉が全て乗ったのではないか――と思うほどの頃合いになって、漆黒はようやく咎める台詞を口に出来た。
「そんなに肉ばっかりよそわなくて良いです。アンタもほら、俺ばっかりじゃなくて、自分も美味しいもん食って下さいよ」
「俺は良いんだよ」
「俺が良くないんですよ」
 いつもそうやって誰かのために身を削る。だから――。
 何だっただろうか。曖昧にぼやける痛みを振り解くように、芥の声が次の台詞を紡ぐ。
「いつも忙しくしてるんだから、長生きしてくれないと」
 金木犀は笑った。
 整った顔立ちをくしゃくしゃにする。当惑したような顔だ。或いは答えに窮したような。その顔をいつまでも見ていたいと願うのはいつでも同じだった。
 取り皿は結局、肉をひと切れも下ろされないまま芥の目の前に収まった。明瞭な返答はなく、代わりに矛先を逸らすような質問が零れる。
「今日は饒舌だな。変だぞ。どうした?」
 問われて、芥の指先は胸元に触れる。
 ずっと穴が開いていた気がする。冷たい雨が無慈悲に流れ込んで来るのにじっと耐える|夢《・》を見ていたようにも思う。この部屋の温度も、聞き慣れた声も、金木犀の香りも消えてしまう夢を――。
「……わからない」
 それでも。
「俺は……この時間が永遠に続いて欲しかっただけなんだ」
 懺悔じみた悔恨の声は、今は彼自身にも触れ得ぬ傷痕をなぞって、与えられた愛情の上を転がり落ちた。
 幸いなるかな。止まない雨に背を向けて、在りし旧懐の熱を見る。

チェスター・ストックウェル


「行け、チェスター!」
 声が届くよりも先に体は走り出していた。猫の如き双眸は絶好のチャンスを逃さない。相手の妨害を受けて、僅かに己の手前に止まるであろうパスの軌道を正確に読み切って、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)の靴裏が土を舞い上げた。
 真白だったスパイクは使い込むうちに土埃の色に汚れている。抜けるような青空の下を金色が駆ける。ボールが回ればマークされるのはエースの宿命だ。迫り来るディフェンダー目掛けて軸足で踏み込む。そのまま向こうに見える味方目掛けて打ち上げられるかと思ったボールは、しかし通り過ぎた足によって横合いへ流された。
 咄嗟の判断に迷った目の前の体を置き去りに走る。捉える感覚を研ぎ澄ませ、今度こそ強く踏み込んだ足と共に振り上げられたもう片方の爪先が、白黒のボールの芯を捉えた。
 キーパーの予想と正反対に飛んだそれが勢いよくゴールネットを揺らす。刹那に鳴り響いたホイッスルが試合終了を告げ、肩で息をするチェスターにいち早く勝利を伝える。
 唇に会心の笑みが浮かぶことは避けられない。吊り上がった口の端を隠さず、汗を拭いながら振り返れば、揃いのユニフォームに身を包んだチームメイトが歓声の雄叫びと共に駆け寄って来るのが目に映った。
 避ける間もない。此度のMVPを肘で――些か痛いくらいに――小突き、今日の晴れ舞台のために入念にセットした金の髪をめちゃくちゃに掻き乱されて、チェスターは笑った。
「おいおい、それが勝利の功労者に対する態度?」
 こちらからも仕返しだ。思い切り背中を叩いてやって、襲い掛かるように髪に取り付いてやる。一頻り笑って勝利の味を噛み締めてから、彼はようやく黄色い歓声を振り返った。
 ギャラリーは満員だ。チェスターと変わらぬ年頃の少女たちは、今日の立役者にすっかり熱を上げていた。片手を上げて爽やかに笑って見せればそれだけでひときわ大きく声が上がる。そうすると余計に僻み混じりの攻勢が増すのが常なのだ。
 他愛もない声を交わして汗のにおいが充満したロッカールームに引っ込む。今日の試合の高揚で持ちきりだった話題は、次第に次の練習のことに移り変わる。白黒のボールと濡れた芝生を踏みしめる感覚をこよなく愛する彼らと声を交わしたら、チェスターの唇は笑みを刷いたままに家路を辿るのだ。
 試合の後の夕食は豪華だ。だから今日も、母と父は息子のために最高の料理を用意してくれているに違いない。その席で今日の試合結果を伝えれば、二人の笑顔がチェスターを包み込むのだ。
 紛うことなき幸いを確信して、少年の掌は迷いなく生家の扉を押し開いた。
 幸いなるかな。曇天を突き抜け降り注ぐ、陽だまりの追憶を目に映す。

香柄・鳰


 咲き誇る花は、成程、蜘蛛の巣の描く形のように美しい。
 いっそ幾何学的なほどに甘やかに咲き誇るそれが人々を誘うという。ならばどこへともなく連れ去られると分かっていながら身を横たえる香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は、食虫花の罠に自ずから足を滑らせる虫であろうか。
 どうにせよ輪郭を結ばぬ眼差しを伏せる。やがて這い寄る眠りの感覚に身を委ね――。
 目を開く。
 蒼穹を見上げていた。遠くを鳥の群れが飛んでいくのが見える。一羽一羽の影が黒ぐろと青空を遮り、遥か先を目掛けて一心不乱に飛び去っていった。
「鳰。今日は何処へ遊びに行く?」
 渡り鳥だろうか――取り留めもないことを思った鳰の名を、優しく柔らかな声が呼ばった。
 視線を結ぶ。片時も忘れたことのない姉が笑っていた。その体に傷痕も包帯もなく、|胼胝《たこ》のない娘の白魚のような指先が日光に白むのが|よく見える《・・・・・》。
 だから鳰も笑った。喉を揺らす声が、思ったよりもずっと少女じみて弾んでいるのを自覚する。
「そうね、姉さん、今日は街中へ行かない? 友達が新しいお店が出来たって言っていたの」
「賛成。何ていうお店なの?」
「確か……『藤や』だったかな?」
 和菓子と茶が旨いのだと友人が笑っていた。きっと店主は風変わりで、しかし穏やかに懐深く、新しい来店者を迎えてくれるだろう。必ずや味は良いと、|食べたことがなくとも《・・・・・・・・・・》知っている。
 父と母にも土産を買って帰れば喜ぶ。明日来訪する予定の|お客さん《・・・・》も、極上の茶と茶請けがあればきっと喜んでくれるに違いない。
 指折り未来の予定を数える。今日も明日も幸福だと、隣の姉も健在の両親も、彼女自身でさえ疑いはしない。
 鳰は何も亡くさなかった。
 亡くさねば手放す必要はなかった。手放さねば欠けることもなかった。
 欠けなければ――今傍にいないはずの存在でさえも、この夢の中にはしかと在ってくれる。現実の因果も、そうなるまでの経緯も無視して――さながら不出来なパッチワークのようだ。一枚の布から無遠慮に美しい絵だけを切り取って、それを無粋に継ぎ合わせるだけの。
 鳰は全てを等しく大切に思っている。だからどれ一つ手放せない。真なる幸いとして目の前に映る景色が、己にとって都合の良いだけの継ぎ接ぎであると知っていても。
 だから笑う鳰の眸の裡に、赤熱する灰のように疼く心は消えてくれない。
 未練も、後悔も、罪悪感も。
 幸いなるかな。亡失と獲得の天秤を壊し、完全なる未来を目に映す。

不来方・白


 幸いとは呼吸のようなものである。
 なければ|ない《・・》と気付くのだろう。苦しいからだ。しかし|ある《・・》ときにそれについて思いを馳せることは多くない。不幸との相対によって生まれる概念は、結局のところ不幸らしい不幸を感じなければ脳裡に浮かび上がることもないのである。
 そういう意味で、不来方・白(「おがみ様」・h00013)は幸福の何たるかに真面目に向き合ったことは多くない。
 幸福かと問われれば分からぬ。しかし少なくとも特別に不幸だとは思ったことがない。課された役割が故に誰かに好意を向けられることはなくとも、彼女を敬い畏れる村の衆を相手に不自由をしたことはないし、学校生活にもさしたる支障があったことはない。
 それに。
 最近は村の外から来る人が増えた。友人――と呼んで良い相手も出来た。
 だから夢だ。
 いつも通っている学校ではなかった。窓の外を埋め尽くすのは、森深い山村では到底見ることの叶わない摩天楼の群れである。
 白はすんなりと村を出た。|おがみ役《かみ》ではないから。流行りのブレザーとチェックスカートの制服に身を包み、新築同然の廊下を歩く。すれ違う友人たちは気さくに声を掛けてくれるから、幾らか言葉を交わして放課後の約束をして手を振る。
 次の長期休暇には、帰省の予定がない寮住まいの仲間たちと旅行に行く計画を立てていた。インターネットで情報をチェックするにも随分慣れたが、やはり紙の方が手に馴染むから、今日は目的地に関する旅行誌を買いに行くつもりだ。
 昼休みには長めの立ち話も許される。テストの点数についての愚痴を零す一団の横を通り過ぎる男女が手を固く繋いでいるのを、白の紅色の双眸が追った。
 恋人が欲しい――とぼやいたのは誰だったろう。
「そうね、私も」
 ――恋に恋してみたかった。
 誰かと手を繋いで笑い合うのはどういう気分なのだろう。唇を交わすことを考えて顔を熱くしたりするのだろうか。まるで|ふつうの《・・・・》女の子みたいに。
 笑う頬に濡れた感触が一筋伝った。滲んだ視界の向こう、磨き上げられた廊下に反射する己の顔を見遣りながら、白は胸元に指先を這わせた。
 理解している。
 これは夢だ。だから白は村にいない。当たり前の生活をしている。美しい幻想の中に映し出された己の姿は、涙なんぞを零しもする。斯様に荒唐無稽なことは、現実では起こり得ない。
 白は――。
 |おがみ様《ヒトではないもの》だから。
 幸いなるかな。|不痛《フツウ》の鏡の向こう側に、|普通《フツウ》の少女の顔を見る。

ライナス・ダンフィーズ


 砂糖菓子なんぞ好んで口にはせぬ性分である。
 真なる幸いなるものがあるとして、その甘みが口に合うかどうかは別の話であろう。幻影に足を惑わされるには些かならず現実を知りすぎた。苦渋を噛み締めれば噛み締めるほど、荒唐無稽に口中を蹂躙する甘美に舌が合わなくなるものだ。
 とまれ見られるかどうかすら怪しい夢を見ねば話が始まらぬというなら、従ってやることに否やはない。
 無遠慮に白花の寝台へ横たわり、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は金色の隻眼を迷いなく伏せた。待ち侘びたように纏わり付く泥濘に似た眠りの感覚へ自ずから手を伸ばす。
 やがて――。
 差し込んだ光は拍子抜けするほど凪いでいた。
 眼前には大きな庭がある。どうやら窓の向こうを見詰めていたらしい。緩慢に隻眼を巡らせれば、無人の廊下と沈黙する扉の数々が立ち並んでいる。
 生家か。
 それにしては穏やかだ。そもライナスが独りで部屋の外を歩くことは滅多になかった。本来であれば生まれるべきでなかった妾腹の息子を、毒婦に絡め取られた使用人たちの目は逃さない。窓硝子に映る、僅かに目を眇めた己の顔を指先でなぞったとき、ふと懐かしい声を聴いた。
「ライナス」
 振り返ることに躊躇はなかった。
 する余地もなかった――という方が正しいか。ライナスにとって抗うべくもない、心の奥底に眠っていたそれは、ごく当たり前のように耳朶を擽る。
 先まで硝子に映っていた顔とよく似た女が立っている。嬉しげな眼差しは彼が知るよりも二回りばかり歳を経ていたが、なお美しい容貌に変わりはない。
 それで。
 男は口の端を自嘲の形に吊り上げた。
 眼前に突き付けられてみればごくすんなりと得心した。その手に守られるほかになかった幼い少年が戦えるようになるまで永らえてくれれば、確かにあの悍ましい家を抜け出すことも出来たかもしれない。生きる糧を得るにも年端も行かぬ少年独りほどには苦労しなかったろう。何れ斯様な邸宅を得て、腰を落ち着けて安穏を与えてやれさえすれば――。
 ――生きていてくれさえすれば。
 皺の刻まれた手を握って見送れたのだろう。あの凍り付いたような横顔でなく、ライナスに生きるすべを与えるときの思いつめたような顔でなく、毒で孤独に苦しむ羽目にもならず笑顔で永遠の眠りに就けたのやも分からない。
 甘ったるいだけの砂糖菓子の如き――真なる幸福だ。
 隻眼が皺の増えた掌を視線でなぞる。当然のように手を取る母の指先は、幼い息子の傷口を慰めたときと寸分たがわぬ優しさで、男の手を引いて笑った。
 幸いなるかな。悔悟の裡に飴を食み、二度と取り得ぬ指を取る。

時司・慧雪


 そも何をして幸福と定義するのやら分からぬ。
 己を殊更不幸だと思ったことはない。一つ一つを取り沙汰して不幸といわれれば不幸ではあろうし、幸福であったといわれれば幸福であろう。いずれにせよ、時司・慧雪(界岐堂・h00889)にとって、斯様な概念は曖昧に霞むものであった。
 ただ――白花の寝台に身を横たえたとき、日頃の浅いまどろみが急速に夢の淵に引きずられていく感覚は、慣れぬばかりに不安感を煽った。
 瞬きの間に地に足がつく。僅かに傾いた体を反射的に体幹が引き留めたのだ。顔を上げた先にある光景に、慧雪は僅かに紅色の双眸を眇める。
 見覚えはある。
 しかしどこであったかをすぐに特定するのは難しかった。顎を撫でて暫し、ふと脳裡に蘇ったのは、嘗て過ごした街のことだ。
 祖父母の家があった地である。
 むろん母方である。父はそも親らしい親が生きているのかどうかも知らない。顔を見たことすら一度しかない相手の家なぞ知りはせぬ。
 歩む足取りは曖昧な記憶の輪郭を少しずつ結んでいくようだった。顔を見て名が浮かぶことこそないまでも、少なくともあの街の中ですれ違いはしたのだろう顔ぶれが、何ら変わらぬ平日を送っているのが視界の端を掠めていった。
 しかし誰もが彼の存在を気に留めない。
 口の端に名が昇るのを聞いた。談笑する声の端々から、少年の頃の己を感じさせる言葉を聞き取った。そのどれも、慧雪が一歩を歩むたびに消えていく。やがて己の手足が僅かずつ人の色を失って、周囲の景色が透けるようになるのを感じる。
 やがて――。
 |それ《・・》は男の存在そのものを覆った。
 人々の体がすり抜けていく。気付けば銀光を孕む黒髪も、紅色の宝石じみた光を孕む双眸も、触れることすら叶わぬようになったようだった。
 まるで幽霊のようなものである。
 しかし誰もの記憶から零れ落ちた幽霊を、誰が|在る《・・》といえようか。この世のいかなる場所からも――人の頭の片隅からさえも――消えたのであれば、今や慧雪は存在するとはいえまい。
 成る程――独り語ちる声も空気と同じで透明である。
 己が映す幸福の何たるかも分からぬままだったが、斯様なものを|真なる幸い《・・・・・》と定めるか。
 人の世界に在ることを良しとしない。慧雪という男の存在そのものがすっかり人倫の合間から消え失せれば、それは人から完全に分かたれたといって差支えはないだろう。
 人間と妖の狭間に生まれ落ち、どちらともつかずに生きて来た。故に|半分《・・》ばかりは、|ひと《・・》であると疑いもしなかったが。
 思っていたよりも、己はひとではないらしい。
 幸いなるかな。人の営みへ背を向けて、己が証を奪い去る。

エル・ネモフィラ


「おにいさま」
 幼き日に、少女は小高い丘に立った兄をそう呼んだ。
 水の如く流れる色素の薄い長い髪と、背に一揃いの翼が、エル・ネモフィラ(蒼星・h07450)の頬を撫でる風を孕んで緩やかに揺れていた。雲一つない空から注ぐ陽光が幼い少女の小さな世界を遍く照らし出し、兄の居場所をも教えてくれた日だ。
 よく風を感じられる場所で、兄は緩慢に振り返る。迷いなく歩むエルの足取りが彼を疑ったことはない。穏やかな、しかし節くれ立った一端の戦士の指先を見る。
「ここの風は優しいだろう」
 兄と同じことを思っていたから頷いた。心地良く清涼を孕むそれを体に浴びながら、彼女は抜けるような晴天と兄を仰ぐ。
 影になった彼の手が蒼穹へ伸びる。見えぬ何かを掌に留めるような仕草の意味が分からぬまま、首を傾げるエルの横で、彼は小さく口を開く。
「風は、戦いには役立たない」
 では何故。
 エルが口を開きかけたとき、続く声は静かに決意を携えて言葉を紡いだ。
「……だが。守る理由にはなる」
 意味がよく呑み込めない。守ることと戦うことの間にあるものの大きさを、未だ幼い少女は上手く噛み締められなかったのだ。
 曖昧に首を傾げて瞠目する妹の青い眸を、兄はじっと見下ろしていた。その手が徐に伸びた先に、彼女の柔らかな翼がある。
「なにかを好きでいられる心がないと、剣はすぐに濁る」
 走ったせいか、或いは風と戯れたせいか、よく整えられていた羽が乱れていたらしい。痛みのないよう優しく撫でつける指先をくすぐったく受け入れながら、エルは兄の紡ぐ言葉の一つ一つに耳を傾けた。
 やはり意味はよく分からない。しかし何が言いたいのかは、先よりは何となく理解が及んだ。
 だから。
「お前には、何か守りたいものが思い付くか?」
「私が守りたいのは――」
 問われたときに、すぐに蒼穹に手を伸ばせたのだ。先に兄がそうしたのと同じように、見えぬ何かをいっぱいに腕に迎え入れるように。
「この風、ひかる空、それと」
 見上げた先に兄がいる。エルより高い背は逆光を浴びて、顔に落ちた影で表情がよく見えない。しかし彼女の羽を撫でてくれる掌は優しいままだから、少女のあどけない声はなお迷いなく、その顔を見詰めて瞬いた。
「いま」
 ――影の中で、兄が静謐に微笑んだのが、今度はしかと感じ取れた。
「それなら、お前の剣は、きっと美しい」
 幼い少女の中でまどろんでいた騎士の心が芽生えたのは、風の穏やかな午後の丘でのことだった。
 幸福とは儚い。一つ一つを手に取って確かめることすら難しいから、時に人はそれを簡単に忘れてしまう。しかし。
 柔らかく脆いものを掌に包んで抱き締める優しさと、剣を手に果敢に前を見据える強き眼差しは、同じ場所から生まれるのだ。どちらを失くしても護る者にはなれない。濁った剣の行く末は、きっと在りし日の憧憬すらも切り裂いてしまう――。
 だから。
 エルは幼き日にそうしたように、今も風を見る。いっぱいに体に抱き止めた穏やかな小高い丘の風を思い返すように。守りたいと願い、心の奥底でひたむきに愛し続けたあの日を思い出すように。
 いかなる場にあっても、いかなる相手を前にしても――剣が濁ってしまわぬように。
 幼い日を永遠に映し取った真なる幸いは、まどろみが醒めるまで彼女に剣を返さない。一揃いの翼と長い髪を、いつか翼を撫でてくれた掌によって失った日は訪れない。
 それでも――幼い少女の裡で、鮮やかな蒼天に流れる風を見詰めたエルの心は、今はまだ憧憬の在処でしかない背に問い掛けた。
 ――あなたの剣はどこに在りますか、兄上。
 幸いなるかな。焼け落ちた日の旧懐に、心の在処を問い掛ける。

冷嶋・華子


 息がしやすい。
 吐き出す吐息が白く濁ることも、不愉快な熱が頬に混じり合うこともなかった。身を横たえた白花の寝台は柔らかな雪の感触に変わっている。その下に眠っているのだろう土すら氷に鎖され、春は二度と訪れない。
 誰にも踏み荒らされぬ新雪を絶えず降らせる重い曇天を、冷嶋・華子(つめたい・h03803)の吐息だけが生きて見上げている。
 災厄は命ある全てを根絶した。
 世に満ちていた熱は消え果てる。青々と咲く山も、極彩色の花々も、人の営みも――生きて熱を灯し、或いは熱なくして生きてはゆけぬ全ては、遍く華子の齎した零下の極寒に熱を奪われて絶えたのだ。
 そういう夢である。
 腐り果てるための温度すらも世界から喪われて久しい。有機物を分解せしめる微生物すらも今や死の雪の下に眠っているのだろうから、あらゆる熱塊の骸もまた、きっと永劫に雪と氷の下に堆積し続けることになる。
 しかし――。
 華子は己の名を呼ぶ声で、不毛の曇天から真白の地に視線を移した。
 手を振っているのは小さな書堂の主だった。新緑を思わせる鮮やかな髪の下で、女性と見紛う柔和な笑みが彼女を呼んでいる。その横を駆け寄って来るのは魔法使いの卵だ。懐こい笑みは常と変わらないが、生きていれば新雪に取られてしまうのだろう足は、転ぶことなく近寄って来る。
 どちらももう熱は持っていない。本来の魄は永劫の|つめたさ《・・・・》の下に埋められて、代わりに剥がれた魂だけがこの地にあるのだ。他の全ての者と同じだ。一つ違うことがあるとすれば、世界に永久の絶滅を齎し、次の繫栄を奪った華子に笑いかけてくれること――。
 まるで、|こうした《・・・・》のが彼女であることなど知らぬげに。
 零れ落ちる吐息は常のように冷たい。だが今は大気の全てが同じ温度をしているから、|つめたい《・・・・》と感じることさえない。描いた笑みで歩み寄る華子の、一人分の質量だけが、もう他の誰の温度を受け入れることもない真白の大地に足跡を残す。
「もう、熱も命もないのね、あなた達も」
 伸ばした手は染み着いた躊躇と共に宙を彷徨った。だから言い聞かせるように声を零して、己の中に事実を染み込ませる。
 そうすれば――。
 華子には、もうこの手が触れ得ぬことに躊躇う理由はなくなる。
「わたしと一緒ね」
 優しく包み込んだ掌の感触を確かめる。華子のあまりに|つめた《・・・》すぎる指が熱に焼かれることはない。彼らの命を、華子の|つめたさ《・・・・》が蝕むこともない。
 確かめた途端に欲が出た。言葉にするのは憚られ、腕を軽く広げてみせれば、二人分の凍てた温度が確かに身に触れる。誰との間にもあった境は既にない。友人が交わしてくれる抱擁の質量に応じて、華子は初めて静かに目を伏せた。
「……ずっと、|誰かに触れてみたかった《こうしたかった》の。わたし」
 絡み合った災厄は熱を拒み、命を奪う。さりとて華子は悲しいほどに|生きて《・・・》いた。心までも|つめた《・・・》ければ何も思いはしなかったものを。この地に踏みしめる新雪のように無垢であれば、何に躊躇う必要もなかったものを。
 だが――。
「夢が叶ってしまったわ」
 本当にただの夢でも、華子の手の中には、確かに友の質量がある。
 自嘲の吐息が凍てる大気に零れ出る。絶え間なく降る雪は友の体をすり抜け、華子の体にばかり柔らかく圧し掛かっている。
 叶わない方が良い。
 全ての熱が消え果てた世界なぞあって良いものではない。とうに知っている。とうに理解して来た。だから彼女は災厄と名を受けることに甘んじて、なお外の世界に身を晒すことを許されるような立場にいるのに。
 きつく抱き締めた二人分の|つめたい《・・・・》体から、手を離すことは出来なかった。
 幸いなるかな。綴じた|性《しょう》の蓋を外し、凍てる終末を夢に見る。

三珂薙・律


 所詮は紛いものだと知っている。
 白花の純粋無垢をひたむきに信じられるような時分は疾うに過ぎ去って久しい。いかに人の心が甘味を求めるからといって、そればかりを継いで接いだ甘美なる都合の良い幸福なんぞは、いかにも現実離れしていて児戯めいている。
 それでも――。
 身を浸す前から分かっていても、三珂薙・律(はずれもの・h01989)の指先は花弁を撫でた。嘗てあった、今は戻らぬものにいっとき身を預けるのもまた一興であろう。所詮は散り失せた残骸のようなものだと知ってなお、金色の眼に映る|その先《・・・》を識ることに手を伸ばしてみたくなったのだ。
 伏せた眼差しにまどろみが這い寄る。やがて薄暗く鎖された意識が光に引き寄せられた頃、律の月光の双眸には在りし日の光景が蘇っていた。
 いつだったろうか。未だ√妖怪百鬼夜行が、戦乱を経る前のことだ。
 かの戦によって身罷った父母の姿は熱を保って在る。今は兄の前から行方を晦ました弟も、二人の間で当然のように律を見た。
 両親から幾重ともなく聞いて来た話を、久方ぶりに見詰めた顔にふと思い出す。
 曰く、他の√でいう大正時代の頃に、退魔師がこの|世界《√》に迷い込んだのだという。父がそう語るたびに母が曖昧な顔をしていたから、律は当時より、恐らく別の――父には言えぬ――目的があったのだろうと察していた。
 魔を退ける生業の者と大妖怪の関係なぞ武器を交える他にない。一触即発の関係は奇妙に縁を赤く染め、先に恋をしたのは大妖怪の方だった。
 凛然と立つ女の芯の強さと眼差しの美しさが男を捉えて離さぬようになって暫く、ひと悶着どころでない紆余曲折の果てに、男女は夫婦となって子を成した。
 二人の眼差しは律を優しく見詰めている。母は新しい植物を見付ければ自然を好む息子に一つ一つ教えてくれたし、他の妖怪からは畏れの混じる眼差しで見詰められる父の相貌は、子と妻の前では優しく緩むのが常だった。今になれば父があれほど遠巻きに恐れられた理由も身に染みて理解出来るが、幼い頃には優しい父の何がそれほど気に入らぬのか疑問に思っていたほどだ。
 |良い《・・》両親だった。だからこそ心底から敬愛したし、相反する力の両面が身に宿ることに胸を張っていたのだ。
 律が生まれて少し、母の血をよく受け継いだ弟が生まれた。
 育つにつれ露わになる性質の、何とも素晴らしい者だったことを忘れもしない。万事小器用で|出来た《・・・》少年だった。非の打ち所がないとはまさしく彼のためにある言葉であろう――幾度羨んだかも分からない。
 人格も才覚も祓いの力も弟の方が優れているともなれば、大抵は兄の劣等感が厄介を引き起こすのだ。お世辞にも仲睦まじいとは言い難い、喧嘩の絶えぬ仲であったことも、手から零れ落ちた今となっては旧懐の締め付けるような痛みの中にある幸福だ。
 今はどこにいるのかも分からない。だが、必ずや死してはいないだろうと確信していた。あれほどの男がみすみす命を落とすとは考えられない。きっとどこかで生き永らえているのだろう。
 律の前で笑っている家族は、かの戦乱を境にして、永久に集うことはなくなってしまった。あの頃にはあったはずの些細な憤懣も、今この体に流れる|大妖怪《ちち》の血が齎す|性《しょう》への嫌悪も、眼前に在る光景が齎す旧懐の熱に揺らいでいく。
 彼は――。
 その中には入れない。
 無垢であった時分は過ぎたのだ。これがいっときの夢に過ぎぬと知っている。だから。
 心に過ぎるのは、一抹の寂しさが齎す罅割れたような幽かな痛みだけだ。
 幸いなるかな。霞んだ愛の灯火に、我が身を流れる血を思う。

ケヴィン・ランツ・アブレイズ


 まどろみの向こうには、在りし日の鮮烈な蒼空が広がっている。
 |若き竜《アルグレーン》が未だ己が命運を知らぬ、幼く淡き日々である。過去に置き去りにされた夢想の中で、少年――ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)は、その日十六の誕生日を迎えた。
 遡れば血脈は旧い。しかしその|旧さ《・・》に対し、立場が釣り合っているとは到底いえぬ家だった。世に名高き名門というには些かならず家格が足りず、不自由のない生活を買えるほどの財もない。それでも現代に至るまで繋ぎ止められて来た由緒に偽りはなく、それこそが生家にとって最も誇れる財であるといって良かった。
 現当主もまた血筋を繋いだ。既に没落して久しい貴族の子孫らは、既に名声にも地位にも栄誉にも殊更の執着を示すことはなかったが、四人目の子が宿した髪色には皆が驚嘆と期待の声を上げた。
 業火にも似た紅色の髪――この血脈にあって煌びやかな功績を残した大騎士である大叔父のそれとよく似ていたからだ。期待と祝福に満ちた父の声が彼に賜った最初の祝福は、大叔父に肖った|ケヴィン《・・・・》の名であった。
 特段|かくあれ《・・・・》と言われた覚えもないが、やがて少年となった幼子は、まるで大叔父の背を追うようにして剣を取ることを選ぶ。自らの意志で握ったそれを握り締め、脇目も振らずに走り抜けているうちに、ケヴィンは従騎士の栄誉に手を掛けた。弱冠十三のことである。
 その才覚は他の者を驚嘆させたが、何より周囲を感服せしめたのは、彼が生まれながらにして宿したとしかいえぬ騎士としての素養である。
 単純な武勇のみが功績を作るのではない。騎士は怯んではならぬ。いかに死神の鎌と肉薄しようとも、震えや恐れを抱いたとしても、全てを呑み込んで堅牢な鎧の下に隠さねばならぬ。弱者の前に身を挺し、守ることこそが責務なれば、その心の苦しみにさえも寄り添えねばならぬ。
 ケヴィンはいかなる相手にも何ら怯むことなく向き合った。未熟な手が届かぬ背を前にしても言い訳一つ口にせず、一つでも多く自らの学びに変える。荒削りの剣はやがて磨かれれば何より鋭い煌めきを放つであろうことを否応なしに予見させる目の輝きは、一度たりとも濁ったことがない。
 明るくたゆまぬ心は真っ直ぐであるが、その分だけ些か不器用だ。それでも彼が誰かを切り捨てたことは一度もない。傷付き果てた者には懸命に寄り添い、その痛みに自らの心を震わせる――やがて歳を経れば自ずと円熟していくであろう言葉と心は、少年がより偉大な存在へ育つのであろうことを誰しもに感じさせた。
 然れどもケヴィンが子供らしさを捨てたこともまた一度もない。好奇心は常に外の世界に向かい、彼の心を突き動かす冒険心に蓋をすることもない――。
 「|真竜卿《レティア・ドラグーン》」と呼ばれる至上の栄誉に、彼であれば手が届くのではないか。
 絶えて久しき大いなる騎士の称号は、偉大なる騎士であった大叔父ですらも終ぞ手に入れることが叶わなかった。次第に強くなる周囲の期待の眼差しはケヴィンにとって重圧にはなり得ず、少年は十六の誕生日に、遂に願い続けた正騎士の称号を得ることになったのである。
 これから駆け上がるのだろう騎士としての道を、誰しもが笑顔で祝福していた。雲一つない蒼天に照らされる、最も美しき日のことであった。
 僅か四日の後、少年が悲鳴と血のにおいに染まった故郷の中で、己が裡にまどろむ真実と運命を知ることになろうとは――未だ、誰も知らずに。
 幸いなるかな。亡くした故郷の蒼天に、最後の祝福の夢を見る。

ノーバディ・ノウズ


 何ら変わりない日々である。
 今日もいつもと大差なく仕事をした。ごく当然に食事をして、ごく平穏に酒を飲み、ごく普通に煙草を咥える。
 そういう夢である。
 唯一、ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)の知る現実との差異を指摘するなら、どの行為にも些かの違和感が纏わり付くことか。
 何とはなしに食事が食べ|やすい《・・・》気がした。酒を飲み干すときにもやり|やすかった《・・・・・》から、つい杯が進んで飲みすぎた。今しがた咥えた煙草も吸い|やすい《・・・》。どれもいつもよりも明瞭な味がしたようにも思えるが、そちらは感覚としては曖昧だ。それよりも、どれも|しやすい《・・・・》ように感ぜられた方の違和感が大きい――といった方が正しいかもしれない。
 特段追求する気にならなかったのは、それが不愉快なものではなかったからである。
 寧ろ居心地の良ささえ感じる。現実世界でもこのくらい|引っかかり《・・・・・》がなければ良いのに――なぞと心の底に思うのだから、成程幸いの夢と言われればそうであろう。
 まあ。
 肝心の原因には思い至らぬのだが。
 まさか真なる幸いの夢といわれて効力がこれだけということはあるまい。頭の片隅にずっと呈していた疑問は、仕事や酒や食事やその他雑多の考えるべきことがなくなってから、ようやくノーバディの中に大きく鎌首を擡げた。
 √汎神解剖機関にあって、マナーやモラルは人の享楽の二の次だ。漫然と捨て置かれているそれは街中の咥え煙草を咎めたりはしない。思索に身を任せるまま、当て所なく歩く足は、ふと室内から零れる灯りに|目《・》を惹かれた。
 何のことはない服屋である。奇妙に明るく見えたのが何故なのかは分からぬが、ノーバディの眼差しは服に関心を示さない。一点に吸い寄せられた|双眸《・・》は、眉根を寄せる|己の顔《・・・》をまじまじと見詰める。
「――こんな顔だったっけ俺?」
 曖昧だった違和感がいよいよもって質量を増した。途端に居心地の良い感覚が吹き飛ぶ。代わりに奇妙な不愉快さが胸の裡を満たし、男は思わず硝子に映る己に手を伸ばした。
 平面の向こうにある|それ《・・》は、寸分たがわず今の彼自身を映し取っているはずだ。幾ら触れど触れ得ぬ立体は、ごく平凡な、どこにでもいる若い男の顔そのものの形でノーバディを見詰め返している。
 おかしい。己はこんな顔では――。
 違う。
「そもそも顔なんてねェよ」
 煙草が落ちる。
 虚しい感触に思わず視線を落とした。火種が燻る白いそれを見詰めたのは一瞬であったはずだ。それなのに。
 視線を戻した先、窓ガラスに映る己は、|知る由もない《Nobody Knows》頭を欠いていた。そこにあったはずの男の顔はもう思い出せない。代わりに見飽きた無頭の空隙が、ノーバディの肩の上に乗っているだけである。
 ――ということは、未だ夢の中に囚われているのだ。
 冷静に受け止める思考に感情が追い付かない。乖離した内情は冷や水を浴びせられたように色を失った。見飽きた灰色の街に、己が今しがた吸っていた煙草の灯火だけが、彼が見ていた|真なる幸い《・・・・・》の形を映し出している。
「ウッッワァ気分悪ゥ……目覚め最悪なヤツじゃねーかコレ」
 モニターがあれば『|:(《きぶんさいあく》』の表示が点滅しただろう。しかし今はそれを表現するすべすらも失われている。ただ、どこから出ているのかも分からぬ声と共に、硝子の向こうの無頭の男が溜息じみた動きをするだけだ。
 視界の端で燻る火がいやに邪魔で、男の足は乱暴に白い紙を踏みしだいた。
 幸いなるかな。在らぬ充足の最果てに、映る欠落を直視する。

ツェイ・ユン・ルシャーガ


 手には地図がある。何より木氣は身に馴染んだ。
 やがて辿り着いた白花の寝台は、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)の前にただ沈黙して揺れている。触れれば柔らかな花弁の感覚が指先に懐くから、思わず小さく笑みが零れた。
 眠れというなら否やはない。角と髪を横たえ尾で一撫でした花々は、常日頃ツェイの傍に在るそれらとは違って、一言も語りかけてはくれないようだった。
 味気ない天井の漆黒を浴びて目を伏せる。柔らかな緑のにおいに誘われるようにして、ごく自然と開いた眼差しが焦点を結んだ。
 晴天が降り注いでいる。穏やかな日差しを遮って、細かな影を落とす木漏れ日の下に佇んでいた。茫洋と手を見る彼は、先から聞こえている声が己を呼んでいるものだと気付くのが随分と遅れた。
 その声が紡いでいた言葉があまりに己とかけ離れていたものだから。
 かみさま――と。
 漸う上げた双眸に人々が映る。在りし日が不意に頭に過ぎり、しかし幽かに罅割れるような違和を残して消えた。何しろ皆が笑顔だ。見覚えのあるような朧な顔は、少なくとも斯様に晴れやかな表情をしていたようには思えぬのだが。
 さて誰であったか。確かめるためとはいわぬが、先から手を振られているのだから応じようとするのは染み着いた性分のようなものだった。
 一歩を進めた足許に一輪ずつ花が咲く。鮮やかな煌めきに歓声を上げた幼子が転んだのを引き上げようとして手に触れただけで、柔肌についていた傷は痕も残さずに消え去った。涙に濡れていた顔は途端に笑顔になって、礼の言葉を置き去りにしてまた元気に駆け出していく。
 雷嵐が迫れば手を打ち鳴らして追い払い、血に飢えた悍ましき妖どもも槍の一振りですごすごと退散する。流行り病は幾重にも編まれた加護を打ち破るには能わず、鮮やかな緑はさながら常春の如く爛漫に咲き誇った。
 かくして村を一巡する頃には、ツェイの記憶にある限り随分と苔生していた気がする磐座は信仰持つ人々の手で丁重に浄められていた。信仰の満ちたる証左を前に、男は一人佇んで、己のための巨石を見詰めていた。
 成程、確かに足りぬものはない。
 未熟ななり損ないなぞおらず、人々は有り余る加護を享受して、安寧と繁栄に手を合わせる。|かみさま《・・・・》は守るべき民の笑顔に囲まれて、命ある限り永劫の守護を結ぶ――。
 まるで|ほんもの《・・・・》のような、満ち足りて幸いなる夢の一つである。
 望んだかと言われれば、確かに首肯せざるを得まい。これ以上のことはないと渇望した日もあったはずだ。然れども。
 今のツェイは、ここから立ち去りたくてたまらない。
 村を歩く間ずっと黒い狐の姿を探していた。いつものように名を呼んでやって、振り返る顔が恋しくてならない。拾い上げた縁の幸福になる姿は、しかしこの|満ち足りた《・・・・・》夢の中には影も形もないようだった。
 ここではないどこか――たとえばツェイと彼が出会ったような場所で、健在の両親と共に暮らせているのだろうか。そうすれば手を延べる必要はなかった。地獄のような苦痛の中で、胸に抱いた温もりに安堵することも。
 それが厭だとは、実に|かみさま《・・・・》らしくもないことだが。
 己のためにあつらえられた磐座に背を向けた。村の中にいないのであれば森に分け入っていくほかにあるまい。暖かな日差しに照らされる森の中を、指先は身馴染んだ黒を探して彷徨った。
 この道の先がどこに繋がっているのか、白花の誘いがどこへ続くのかも分からぬまま――。
 ただ押しつけがましく描かれた在りし日の幸いの終端を待って、ツェイの足取りは梢の中に消えた。
 幸いなるかな。今の祈りに手を伸ばし、罪の在処に背を向ける。

水藍・徨


 最初から抗うつもりはなかった。
 抗う――ということを一度もしたことがない。白花のベッドを前にしても疑念は湧かなかった。眠れといわれるのだから眠れば良い。水藍・徨(夢現の境界・h01327)の金色は、特段何か思うこともなく、瞼の下に隠された。
 ――まず最初に目に映ったのは、何のことはない一室の景色だった。
 視線を上げた先に笑顔の両親が立っている。些か己の背が低いような気もするが、それよりも差し出された包装紙に視線が吸い寄せられた。綺麗にラッピングされたそれに何が入っているのか、今の徨は知っている。
 人間災厄と銘打たれ、管理機関に連れて行かれる前――家で最後に祝ってもらった誕生日の記憶だ。
「誕生日おめでとう」
 二人分の声が重なった。確か徨は、開けても良いかと問うたはずだ。一も二もなく頷く両親の前でラッピングを剥がすとき、どうしてあんなに慌てたような手つきになったのか、今の彼には思い出せない。
 丁寧に開いた指先には見知った表紙が触れた。今はもう使い古しになってしまったそれは、そういえば開いたときにはこれほど綺麗だったのだったか。
 早速もらった万年筆を使って、自由帳に初めて記したのは、名前欄に収めた自分の名前だった。
 どうしても漢字で書きたかったのを覚えている。小学生には難しいそれと睨み合いながら記したのだったか。ようやく納得のいく文字が出来上がって一番に両親に見せたとき、頭を撫でてくれた掌の感覚も――まだ思い出せる。
「上手に書けたね」
「徨に万年筆は少し早いかと思ってたが、才能があるな」
 知っているはずの言葉に胸の奥が温もりを灯した。奇妙に擽ったい感覚の名を掴むことは出来ずに、断片的に思い出した|幸い《・・》の二文字に瞬く。
 刹那、眼前に広がったのは先とは違う光景だった。
 ここはすぐに思い出せる。管理施設だ。徨の他に四人の子供がはしゃいでいるのを、彼の金色は茫洋と追っていた。
 記憶が曖昧だった。しかし言われてみれば斯様な構成だったようにも思える。少女が二人、少年が二人――徨を含めて、小さな箱に五人。
 彼の力は遊びには有用だった。思い描いたものは全て眼前に実体として現れるから、ねだられたものも欲しいと思ったものもたちどころに目の前に現れたのだ。
 少年が一人にやけた顔で近寄って来た。何やら意地の悪いことを言うのを真面目そうな少女が咎めるのも、何故だか奇妙に見慣れた光景であるように思えてならない。首を傾げる徨の手をやや強引に引くもう一人の少年は遊ぶのが上手で、今日も徨を遊び相手に溌溂と笑った。
 少し外れたところで、そのさまを微笑みながら見ている少女の姿を横目に捉える。いつもそうだった――ように思う。これが本当に己の記憶なのか、それとも投影された夢の描き出した理想なのかも曖昧なまま、徨はただ目の前に映し出された|幸福《・・》の形を見詰めていた。
 輪郭のぼやけた心は、現実に正しく反応を返さない。しかし胸の奥底から湧き上がる想いが脳裡に言葉を形作るのを止めることも出来ない。
 ――ここにいたい。
 もっと、ずっと、ここにいたい。夢であっても構わない。出来得る限り長く、終端に届かぬようにとさえ思う。これが|幸い《・・》というのか。この温もりに身を浸していたいと思うことが。
 それは――。
 許されることなのだろうか。
 賑やかにはしゃぐ子供たちの声が耳を擽った。徨を呼んでいる。両親の声も、子供たちの声も。
 もしも徨が抗うことを知っていたとしても、きっと引力には勝てなかっただろう。
 幸いなるかな。失くした心の輪郭で、在りし温度を抱き締める。

櫂・エバークリア
黒野・真人


 独断の速戦即決で飛び出していくのも、それを器用に察されて同じ場所で顔を合わせることになるのも、まあ、いつものことである。
 たまさか廃墟の前で予期せぬ合流をしたうち、心底意外そうな顔をしたのは黒野・真人(暗殺者・h02066)で、分かっていたような顔で小さく笑ったのは櫂・エバークリア(心隠すバーテンダー・h02067)だった。
 単独で仕事に向かおうとする真人の癖は共犯者に筒抜けだ。とはいえどうにせよ最初の裡は夢の中であるから、どこかで合流と相成れば構うまいと算段を付けて来た櫂にとっても、寝台に横たわる前に足並みを揃えられたのは望外のことであった。
 顔を合わせてめいめいの反応を覗き込んだのも暫し、互いの意識はたちどころに一つに収束する。どちらにせよ今後に控えているのは首魁との対峙に変わりない。となれば独りより二人の方が選択肢が増えるのは当然であるから――。
「一緒だと|戦闘し《ヤり》やすいよな」
「だな。後で合流するからな」
 頷き合った共犯者たちの足取りは迷いなく同じ入口を踏んだ。
「まずは敵の懐へいくか」
 頷く真人と共に、櫂も真白の甘やかな香りに身を横たえる。斯様に荒唐無稽な噂に惹きつけられる者ばかりがあるという現実に思う幾許かの同情も、夢の誘いにやがて融けた。

 ◆

 そも己にとっての幸福とは何なのだろうか。
 根源的な問いに答えが見付からぬのは迷いというべきか、或いは幸福の在処となり得るよすががそれほど多くあるというべきか。どちらとも分からぬ心をそのまま映すように、櫂の眼前に広がる光景は移り変わる。
 まさしく夢の如き無秩序だ。まず地に足がついたとき、見上げたのは|天蓋大聖堂《カテドラル》の天井だった。差し込む光は鮮やかに大地を照らし、そこでようやくいやに賑やかであることに気付いた。
 見遣れば人々が一堂に会している。衣服は他の√で見るように綺麗にあつらえられていて、土煙と硝煙の香りはどこからも漂わない。どうやら祭事をやっているらしい大きな広場には、制服を纏った子供たちの楽しげな笑声が満ちていた。
 すぐに己の手に武器がないことに気付いた。平穏に溢れた世界ではもはや戦う必要すらもないのだ――と悟る。瞬きの間に消え失せた喧騒にふと視線を上げた。
 女が笑っている。
 その目が固く閉じられてどれほどの時間が過ぎたか。長き眠りに身を委ねた彼女が体を起こして櫂を見ている。伸ばされた褐色の指先が彼の手を取って、まるで一日の始まりを告げるかの如き軽やかさで|彼女ら《・・・》のバーへと足を進めるのだ。
 変わらぬ一日が待っている。見知った顔ぶれが揃って櫂に手を振って、常連客らがこぞって聞き慣れた注文をするのを聞き遂げて――。
 そのどれもが、泡となって弾ける。
 まるで夢そのものが当惑しているようなありさまだ。心に浮かぶ全てを形にして、しかし尚本物に届かぬような。一つ一つの輪郭をなぞりながら、どれもが心の奥底に絡みつくほどの質量を持たぬことを理解しているから、夢の主は笑うのだ。
「おいおい、物足りない幸福だな」
 櫂の中にある真なる幸いは、未だその形を彼の前にも現していない。
 心の裡にないものを目の前に出せと言われたところで、上手くいかぬのは自明だ。足を進めた先にしかないのであれば、今この場に映し出されようはずもない。
 夢は所詮、|在った《・・・》ものしか映さない。
「ちゃんと魅せてくれよ……こんな程度、醒めちまう」
 続く声を夢が諦めたように、急速に遠のいていく意識が現実に引きずられていることを自覚して、いの一番に隣に横たわった黒髪を思い浮かべた。
 ――真人の奴はどんな夢見てんのかね。
 きっと常の眠りと大差ない目覚めが待っているだろう。そのときには隣で彼も身を起こすに違いない。次に目が覚めたときには如何なる景色が映ったものかと頭の片隅に思い、男は抵抗なく目を閉じた。
 泡沫に消えぬ幸福を形にするために、まずは今日の仕事を終わらせなくては。

 ◆

 甘やかな香りが巧妙に隠した厭なにおいに知らず眉間に皺を寄せながら、真人の意識はそのまま引き摺られるように夢の裡へ閉じ込められた。
 開いた眼差しに映るのは、いたく懐かしいクリスマスツリーの、色とりどりの煌めきだった。
「表立っては出来んが――」
 言いながら父が持って来たものだった。綺麗にラッピングされたプレゼントも、ケーキまでも用意されている。|外《・》ではよく見掛けたそれが家の中にあることが、まるで宝物のように映って、幼い真人は叫んだのだ。
「これいいの!?」
 ――どんな信仰と思想があれども、現代社会に紛れるためには相反する全てを拒むことは出来ない。
 一族の間で如何なる取り決めがあったとして、それが外の世界にまでも及ぶことはない。秘密裏に葬り、祀り、焚き上げながら、彼らは子供をごく当たり前に学校に通わせた。当然ながらそれに付随するあらゆる行事に参加することも容認している。児童会やら学校行事やら、|配慮《・・》によって|お楽しみ会《・・・・・》と銘打たれたクリスマス会には参加の許可が出ていた。
 しかし――真人は信じられぬ心地のままで、スクールバッグを下ろすのも忘れて居間にあるそれらを見詰めていた。
 家の中に|これ《・・》があるのは、十三年の人生の中で初めてだ。
「此処から裏も表も忙しいからな」
 唖然と見詰めた先の父が曖昧に笑っている。どこか苦みを宿した表情は母の顔にも浮かんでいた。
 当たり前の日常が崩れる日は、どうあれ訪れる。本家の意向にもしきたりにも逆らえぬ身であれども、息子に楽しい思い出を残してやりたかったのだ――と、続く言葉少なな声が語っていた。
「だから、今日だけは、と考えてな」
 それが嬉しくてたまらない。
 たった一日、家の中にある輝くクリスマスツリーも。苺の乗った生クリームのケーキも。手渡されたラッピングの鮮やかな赤と緑も、その中にある重みも――。
 幾度も確かめて、そして。
 景色は途端に暗転する。その先が続かないことを、真人はよく知っている。
 煌びやかな光は消え失せた。手の中にあったはずの包みも、甘いショートケーキの味わいも、彼の前からたちどころに消え失せる。
 ――カイが視た夢はどんなだったろう。
 零れ落ちる思考を残して意識が浮上する。やがて遠からず目覚めが訪れるだろう。彼にとって日常と地続きになった、戦いの舞台で。

兎沢・深琴


 ――私も大人になったら、お姉ちゃんみたいに素敵なお嫁さんになるの。
 無垢な己の声を聞いた気がした。今も忘れない。真白のドレスはどこか誇らしげに笑う姉によく似合っていて、幸福をそのまま携えた表情で見詰める先にいるタキシード姿の義兄と合わせて一枚の絵のように完成されていた。
 我が事のように嬉しかった。だから、いつか自分も同じようになりたかった――。
 家族に囲まれながら、兎沢・深琴(星華夢想・h00008)は己の見る真なる幸福が、永劫に手放せぬ呪いのようなものであると悟った。
 ここは己の新居だろうか。深琴の夫となったのだろう人が赤子を抱えてあやしているぎこちない手つきを、義兄が熱心に指南しているのが見える。その横で笑っていた姉が手を振れば、足許の姪――咲月と名を受けた少女が無邪気な笑みで深琴を呼んだ。両親もまた穏やかに孫たちを覗き込んで、目尻に皺を作っている。
 忘れない。
 忘れることなど出来るものか。
 一度はこの心に抱いた大切な祈りで、願いだった。幼い頃から優秀だった姉は、生まれ順もあっていつも深琴の前を歩いていた。いつでも彼女を導いてくれる掌の優しさが、何より妹から見れば出来ないことなど何もないように思える背中が、深琴の世界の中心に根差している。
 ずっと――。
 姉のようになりたかった。
「私、お姉ちゃんみたいになれたかしら」
 夫からそっと手渡された赤子は柔らかくて暖かい。姪を初めて抱かせてもらったときのことを思い出しながら、深琴は眼前の夢に問い掛けた。
 きっと頷いてくれるだろう。これは深琴の夢だから。彼女の見ている真なる幸いの中で、彼女の意に反することは起きやしないと分かっている。
 だから、その|応《いら》えが真実であろうとあるまいと、女にとっては構わない。
 近付けていれば嬉しいと思う。祈りの一片でも叶っていたならば心底から安堵するだろう。しかしもしもそうでなかったのだとしても、今ここにある景色が壊れずにいるのであれば、深琴にとってそれ以上のことはない。
 当たり前と地続きの日常はいともたやすく壊れる。脆く儚い幸いの形は、ピースを失えば二度と埋まりやしないのだ。深琴は――。
 あの日、己の手でそれを齎してしまった。
 他愛ない会話だった。何の気なしの善意だった。誰も真の意味で未来を予見することなど出来なかったのだとしても、確かにあの日の引鉄を引いてしまったのは深琴の指先だったのだ。
 だから――分かっている。
 世界の真ん中にいたはずの姉も、彼女の一番大切な人だったはずの義兄も、幼い娘を遺して永遠に写真の中で時間を止めた。不運の撃鉄を起こし、運命の引鉄を引いてしまった指が、彼女たちと同じ幸福を望むことなど永久に許されはしない。
 それでも、深琴は確かに幸福を感じていた。これが己の望む|真なる幸い《・・・・・》の形であることを、亡くしたからこそ強く確かめられる。当たり前は簡単に消えてしまうのだ。何よりも大切なのに。どんな特別な日よりも、こうして他愛のない近況を交わして笑い合い、時に何のことはない喧嘩を積み重ねる日々こそが愛おしい。
 姪の指先が嬉しそうに手の中の赤子の頬を突いている。眠りを邪魔されてぐずり始める声が可愛らしい。いつか両親に聞かせてもらった子守唄を我知らず奏でながら、深琴は二度と見ることすら赦されぬ幸福の夢の中で、切なる祈りに身を委ねた。
 どうか醒めても忘れぬように。
 それほどまでに深く、呪いのように――。
 ――この幸福を感じさせて。
 幸いなるかな。愛しき日々の罅割れに、失くした祈りを映し取る。

ララ・キルシュネーテ


 真白の花畑が滲む。
 染み出すような薄紅には見覚えがあった。樂園の中にあるいっとうのお気に入りに似た真白の花の撫でる感触は、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の頬の横で懐かしい香りに変わっていく。
 優しい眠りが彼女を導いた。白い花のベッドは日頃のそれより寝心地は悪いが、否応なしに引き摺り込む夢には関係がない。
 やがて、聖女の髪に穏やかに触れる温もりがある。
 ――ママ。
 暖かな掌が優しく撫でてくれる感触を見紛う筈がない。桜の香りと共に在る桜禍龍の温度に頭を擦り寄せて、少女の喉が上機嫌に鳴った。
 桜の香りは穏やかに咲き誇っている。爛漫の春はララの樂園に緩慢な滅びを齎すそれとは一線を画す。祝福の証として舞い散る無数の薄紅色の中で、桜を携える父祖の系譜を受け継いだ母もまた、同じ色で笑っているのが常だった。
 話したいことは沢山ある。むろん父の腕の中で迦楼羅の翼が空を切る感覚を味わっているのもアトラクションのようで楽しいけれど、今日のことを話すならやはり母の膝の上が一番だ。甘えるように頬を擦り寄せて、娘の唇は飾らぬ幼い音色を奏でた。
「あのね、今日はねぇねとお花の冠を作ったのよ」
 ――それから、にぃにが一緒に隠れんぼをしてくれたの。ララは隠れんぼが上手だから、にぃにもすぐに見付けたわ。ララもにぃににすぐ見付かっちゃったのは内緒。
 ――みんなで遊んでたらじぃじが来てくれて、角に咲いていた桜をひとつ分けてくれたの。花冠に使ったらどうかしらって、ねぇねにも。
 ――そうそう、神使の鴉も羽をくれたわ。折角だからじぃじのお花と一緒に花冠に使ったの。だからいろんな色の冠になったわ。ねぇねが自分の作ったのをララにくれたから、ララもねぇねにあげて、交換したのよ。
 どこか懸命に言葉を紡ぐのは母のためだ。禁忌の子は折悪く父の血を色濃く継いだ。龍を喰らう迦楼羅の血はどこまでも娘に付き纏い、彼女に望まぬ宿業を生むのではないかと、生まれたときから心配してくれている。
 だから彼女は母に伝えるのだ。この世界にも、きょうだいたちにも、祖父にも、神にも――この世界に存在する全てに、ララの存在は歓迎されている。ララがこの世界を愛しているのと同じだけ、彼女は世界から歓迎されているのだと。
 大好きな家族が傍にいる。だいすきな世界が目の前に広がっている。その全ては、ララの小さな白い掌に抱き締められることを望んでいるのだ。
 これがララの幸福だ。何よりの|真なる幸い《・・・・・》だった。懐かしい甘やかな香りを胸いっぱいに迎え入れ、母の掌に擦り寄って、閉じられたアネモネの双眸はまろやかに開かれる。
 その向こうに母の顔がある。今にも涙を零しそうな微笑みが双眸に映し出される。
 僅かに――。
 少女の唇が笑んだ。伸ばされた掌は無垢な娘のそれでなく、アネモネには神の色が一瞬ばかり咲き誇る。
「大丈夫よ、|ママ《キルシュネーテ》」
 声は凛然と啓示を紡いだ。
 さいわいが災穢と成り果てる前に、ララが救う。
「お前も、皆」
 閉じられた神の唇はすぐにあどけなく綻んだ。眼差しは瞬きの間に幼い娘へと移り変わっている。今日のことはまだ話し足りない。もっと沢山、母に教えてあげたいことがある。
 だから。
 だから今だけは――|神《・》であることは、今暫し置き去りにして。
 |桜樂《ララ》は笑う。まどろむ夢の生み出した優しき母の指先に、真白の髪を預けるように。
 幸いなるかな。聖女の軛を解いて、神は娘の顔をする。

ツェツィーリエ・モーリ


 もしもを思ったことがないと言えば嘘になる。
 生まれながらにして人ではない。その厳然たる事実を覆し、人として生を享受していたのならば――と、人ならざる身を思い知るにつけ考える。
 しかし|そう《・・》であれば、今己を形作る何とも出会えなかったことを、ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)は自覚している。
 ならば真なる幸福とはいえまい。彼女を作り上げる全てに感謝している。その足跡の全てに恩を返したいと、力になりたいと願っている。
 ならば己に何が見えるというのか、興味がないといえば嘘になる。
 眼前の白花の群れを暫し色の違う双眸で見据えたのち、メイド服は瀟洒に腰を下ろした。そのまま必要のない眠りに身を委ねる。静かに引き摺り込まれる|睡眠《・・》の淵で、目を開いた彼女の前には、ただいつもと何ら変わらぬ光景が輝いていた。
 養父が調理をしている音がする。暖炉の前で養母が本を読んでいる。騒がしく走り回る弟妹と、彼らを見守る義姉がいる。双子の主も遊びに来ていたようだ。何やらいつもよりも人の気配を多く感じたのは、彼らの向こう側に友人たちがめいめい寛いでいるからだった。
 ツェツィーリエをかたどる全てがひとところに会している。それそのものには、何らの不思議もなかった。未だ誰もこの世から欠けていないのだから、日常の延長として斯様な光景が目に映る日もいつかは訪れるだろう――そういう意味で、これはいつもの変わらぬ日々の象徴といって良かった。
 今の己が――ツェツィーリエにとって、一番の幸福なのだ。
 我知らず零れた吐息は安堵の色を描いた。彼女は心の底から今の日常を幸いだと感じているのだと、目の前に示されているのだ。時折過ぎる|もしも《・・・》が正解でなかったことを身に浴びることが出来たのであれば、今よりも揺るがずに足を進められる。
 しかし。
 外に連れ出されて歩くとき、己の足は人と変わらなかった。友人たちと手を繋ぐことに何らの躊躇もしなくて良い。まるで最初から普通の人間と何ら変わらずにいたかのように言葉を交わし、食事をして、呼吸をする。
 日が暮れれば眠気が訪れて、日が昇れば伸びをして起き上がる。寝ぼけた重たい体で髪を整え顔を洗って、ようやく身支度を整える――。
 羨ましい。
 心の奥底に湧き上がるそれを自覚してしまった。
 夢から目覚めれば、ツェツィーリエには真実いつもの日常が待っているだろう。夜には死を纏い、昼には生を纏う。権能は常に彼女の裡に渦巻き続け、人と触れ合うことにも常に薄暗い懸念が付き纏う。破壊的な力が裡にあることを律し、人の世で生きるために研鑽を重ね、それでもなお――。
 ツェツィーリエは人間にはなれない。
 衒いなく|ひと《・・》としての日常を経てしまえば、それはたとえようもない悲しみと共に胸に蟠った。大切な日々に細かについた瑕疵が鮮明になる。部屋の隅に折り重なったほんの僅かの埃のように、一度目についてしまったら、頭から離れなくなる。
 抱き締めていたいと願う。心の底から大切だと思う。それなのに、今ここに在る幸いと比べてしまう。
「……なんて、贅沢なのでしょう」
 受け入れてくれている人たちがいる。彼女の中にあるものを知ってなお、彼女を友人と呼んで手を差し伸べてくれる人が沢山いるのに。
 鏡に映った、およそ|メイドさん《・・・・・》らしくない寝ぐせと眠たげな自分の眼差しに、どうしようもなく募った羨望が手を伸ばしているのだ。
 幸いなるかな。珠玉の夢に身を映し、愛しき日々の瑕をなぞる。

花岡・泉純


 真白の寝台を前に、漠然と過ぎる不安に足を止めた。
 幸いなる夢を見るという。そのことが無性にうそ寒く感ぜられて、吐息交じりの柔らかな声が唇から零れ落ちた。
「……こわい、な」
 花岡・泉純(よみがえり・h00383)は、これから見るのが夢だと理解している。
 甘く誘うように揺れる花々が彼女に見せるのは、ただのいっときの夢想である。終わりがあると分かっているのであれば、長らく身を浸し続けるわけにはいくまい。しかしもしも、それが本当に泉純の心を映し取って、優しいだけの幸福の揺り籠になるのだとするならば――。
「きっと、目醒められる……よね?」
 己が泥濘に絡め取られる想像が頭から離れない。これでは到底眠れたものではないだろう。思いながらも、身を横たえて目を閉じれば、意識を引き摺り込むような眠りは彼女を夢の淵まで連れ去った。
 目を開く。
 まず目に入ったのは天井だった。それから、己を包み込む暖かな掛け布団の感触を知覚する。ベッドの中で目が醒めたのだ――と理解するまでに、そう時間は要さない。
 だが真実の目覚めではない。泉純の見る幸福の形を切り取った夢の中で、彼女は朝を迎えたのだ。
 ごく当然の帰結として体を起こした。まさかベッドの中で眠り続けることが泉純の幸福ではあるまいと思ったこともある。ここがどこで、何を映し取っているのか、視線を巡らせた彼女の横でふとリネンが衣擦れの音を立てた。
「ん……」
 息を呑む。
 右隣で蠢く真白から|ひと《・・》の声がする。まじまじとそちらを見詰める泉純の前で、その|ひと《・・》ははっきりと声を上げた。
「泉純……?」
 眠たげな声と共に、寝返りを打ったその人がぼんやりと彼女を見上げている。泉純と揃いの真白の髪が動きに合わせて柔らかく流れている。まどろみを湛えて焦点を結ばない眸は黒いはずなのに、何故だかそれを|桜の色だ《・・・・》と直感した。
「おはよう。早かったね」
 優しく耳朶を擽る声が脳裡から名を引き摺り出す。乾いた唇は、しかし音を紡がずに、じっと目の前にいるその人を見詰めていた。
 ――エレス……?
 見たことのない筈の顔に、確かに強くその名を重ねた。影として、或いは蝶として泉純に連れ添う|彼《・》だ。そう思えば思うほど、眼前のその人に強く視線が吸い寄せられる。
 清廉な真白の髪の下で、蕩けるような黒い眼差しが優しげに彼女を見詰めている。今にも散り失せてしまいそうなほどに儚いその姿が、純白のシーツの合間に融けて消えてしまうかのような錯覚が脳裡を支配する。
 それが――。
 怖い。
 奇妙な警鐘に抗わず、咄嗟に泉純は身を引いた。ベッドから降りようと慌てて足を動かす。ようやく立ち上がろうとした刹那、手首を信じられぬほどの強さで捕まれた。
 振り返れば真黒の双眸が見ている。
「どこに行くの?」
 引き寄せられる手に抗うことは出来なかった。そのままきつく抱き締められる。ちょうど耳元に吐息の掛かるのを感じると同時、花の如く|甘い《・・》香りが泉純を包んだ。
「どこにも行かないって約束したでしょ」
 純白の髪も容貌も、あれほど儚く手折られそうに感じていた。穢れの一片も孕まないような形をしていたはずなのに、耳元で彼女を捕らえる声はひどく支配的だ。まるで泉純を絡め取るかの如きそれに、しかし、彼女は抗う気になれなかった。
 ずっとこうして欲しかったような気がする。心の奥底に見知らぬ充足が注がれていく。どこにそんな力があるのか分からないほど細い彼の腕にそっと手を重ねてみせれば、吐息がようやく笑ったのを感じた。
 良かった――と思う。
 決して機嫌を損ねなかったことに安堵したのではない。確かに彼の力はひどく強いし、もしも害意があれば泉純に敵うすべは殆どないだろう。だが、彼女の心にあるのは、彼に対する恐怖心などではなかった。
 彼に喜んで欲しい。
 もっと絡め取ってほしいとさえ願っている。きつく抱き締める腕に力を込めても構わない。既に息苦しいほどの力に、なおも|足りぬ《・・・》とすら考える己のことが分からない。混乱する泉純の脳裡をよそに、夢の甘やかな香りが思考を鈍らせるように滑り込む。
「俺の名前を呼んで、泉純」
 懇願に応じることが出来なかった。代わりに指先を滑らせて、腕と同じように白く細い指に指を絡める。確かに返される力と共に、耳元の声は甘く愛を囁いた。
「愛してるよ」
 ――何も分からない。
 何を恐ろしく感じていたのか。何故こんなにも心地良いのか。心の奥に満たされる|これ《・・》が何なのか、この夢の意味するところがどこに辿り着くのかさえも。
 しかし。
 今はただ、泉純は静かに目を閉じる。
 柔らかなリネンの純白に身を委ね、夢のまどろみに心を預ける。次に目を開くときには、|彼女たち《・・・・》はひとつになっているのだから。
 幸いなるかな。零した過去の裏側に、運命の影の声を聴く。

ラデュレ・ディア
ラナ・ラングドシャ


 灰色の巨大な建造物からは圧さえ感じる。
 中に入ればその感覚はますます重くなった。長身を以てしても見えぬ天井の暗闇を一瞥し、猫の尾が揺れる。
「ラーレ、怖くない?」
 ラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)の声を受けて、顔を上げたラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)の眼差しが揺らぐ。
 先から奇妙な視線の群れを感じている。どこからともつかぬそれが背筋を逆撫でするような感覚に、垂れた耳は余計に力を失っていた。眠りに誘うという白い花々の甘やかな香りに視線を落とした兎は、小さく首を横に振って応じる。
「怖くありません……と、言えば嘘になってしまいます」
 重ねて来た日々に繕いは不要だ。無理に笑って見せたところでラナにはとうに見通されている。素直な吐露に浅く頷いた大きな猫は、常より幾分曖昧になった笑みで、しかし大きく腕を広げて友人を迎え入れた。
「――おいで、ラーレ」
 夢の中までは共にはいられないかも分からない。これは幸いを映す夢だ。何が切り取られてしまうのか、もしも互いの姿が映ったとして、それが真に|互い《・・》であるといえるのかは分からない。
 だが眠りに就くまでは傍にいられる。胸に飛び込んだ小さな兎は、友人の暖かな温度と共に白花に寝そべった。
「……ああ、あたたかいです」
 ラナの自慢の尻尾が身を包んでくれる。大きな体はまるで卵の殻のようだ。聞こえる声も友人の聞き慣れたものだから、余計に安堵する。
「ボクがキミを大事に包んで護っていてあげる」
「ありがとうございます、ラナ」
 まるでどんなものからでも護ってくれそうな大きな体に身を預ける。きつく抱き締められる感触がラデュレの身に伝わった。
 ほんの少しだけ――ラナが震えていることも。
「だからおねがい。どこにも、いかないでね――」
「ええ」
 零れた声にしかと頷く。ラデュレの掌はラナの大きな体全てを抱えきれないが、それでもしかと抱き締め返した。
「わたくしは、此処に。ラーレは、ラナの傍におりますよ」
 たとえ夢に分かたれたとしても。

 ◆

『――くだらない。あんたに殻が必要ですって? あんたはあたしの卵殻でしょう』
 眠りに落ちる刹那にロップイヤーを掠めた声に、ラデュレは重たい瞼を持ち上げた。
 ラナの向こうに紅色が翻る。ドレスの裾だ――と知覚するのと、嘲笑に重なる針の音がギャベルの冷厳な音に変わるのは、彼女が夢の淵へ足を踏み入れる直前のことだった。
 目を開く。
 眼前にはよく見慣れた光景が広がっている。まるで一つ一つの足跡をなぞるように、時計の針が早回しに進んでいくのだ。目まぐるしく変わる光景が最初に指し示したのは、花に囲まれたマルシェの記憶。
 おどおどと道を進んでいた小さな兎を、大きな猫が見付けてくれた。ラナという名前を知って、友達の仔猫を紹介してもらったのはその少し後のことだ。
 公園の廃バス。水鳥が鳴いている湖の畔。数多紡がれた物語の中で出会い、ラデュレと声を交わした数多の人々――。
 違う。
 これは夢ではない。
 ラデュレの辿って来た|これまで《・・・・》が、あらすじめいて彼女の前を流れていく。大切な言葉も、他愛のない会話も一緒くたに、彼女の記憶をなぞるように紡がれている。
 現実を夢見る――ともすれば|現実こそが幸い《・・・・・・・》であると捉えることも出来ようはずが、そうは思えなかった。奇妙な感覚が背筋を逆撫でする。抱き締めてくれる柔らかな尻尾の感覚を求めるように、彼女の腕は知らず己を掻き抱いた。
『卵殻は、あくまで外壁』
 あの嘲笑がどこからともなく聞こえて来る。小さく笑う声がラデュレの歩んできた全てを踏みにじるように言葉を紡ぐ。
『あんたは“胚”ではない』
 ――違う。
 否定の言葉が思い浮かぶ意味も分からなかった。強烈な嫌悪感と、どうしようもない諦念が体の奥底から込み上げて来る。まるで卵の殻を割るように。
 ラデュレは過去を知らない。記憶がない。だからこの声の言っていることの意味も分からない。
 だが。
 だからこそ、|今《・》を始まりとして、この瞬間を大切に抱えていきたい。彼女を取り巻く全ての人々を、縁を、喪いたくないのに――。
『はやく、思い出して?』
「――いや!」
 悲鳴じみた声が喉を裂いた。いつの間にかきつく閉じていた眸を見開く。
「わたくしは……!」
 続けざまの台詞がたちどころに霧散する。気付けば声は聞こえない。静寂が満たす空間が夢なのか現実なのか、ともすれば己の存在そのものが千々に裂けたような感覚の中で、ラデュレの指先はよすがを探して彷徨った。
 ふと、暖かな毛の感覚がする。
 抱き締められている。暖かい。茫洋とした心地で顔を上げた先に、眠る大きな猫の顔がある。
「……ラナ」
 どんな夢を見ているのだろうか。
 確かめるように指でなぞった体を抱き締めた。再び鎖した眸に再び眠りが這い寄る。もう、夢は映らない。

 ◆

 初めて知った温もりが身を包んでいた。
 夢なのだろうか。眠りに就く直前とは違う、ラナ自身をすっぽりと抱き締めるような温度の中で茫洋と思う。
 体は今ほどに大きくない。二つの足で歩くことはなく、代わりに前足を丸めて眠っている。身を起こせば随分と低い視線が、彼女に夢の裡の幸いの形を伝えた。
 ラナは嘗て、ただの猫であった。
 伸びをすれば笑ってくれるヒトの顔がある。男女で一つずつ。ぱぱとままだ。
 見渡せば暖かな部屋には沢山のきょうだいがいる。一匹一匹の名前を、ラナはすぐに思い出せる。暖房の前を陣取っているのがるる。ボールを転がしているのはりゅか。猫じゃらしが大好きなるぴ。ソファで寝ているのはそふぃー。窓際で外を見るのが好きなしゅくる。餌を夢中で食べているのがぼん。
 血は繋がっていない。どの猫たちもどこからか、ぱぱとままが連れて来た。ラナはどこから来ているのか知らなかったが、誰しもが|ひとりっこ《・・・・・》であることは知っていた。
 ――|ボク《わたし》の可愛いきょうだい。
 誰も彼も事情は違うが、悲しい生活だったと聞く。だが――だからこそ、独りぼっちの生活の中からこうして出会えたのだから、必ず幸せにして見せると心に誓ったのだ。
 皆で一緒にいれば|ひとりっこ《・・・・・》ではなくなる。|長女《・・》として、ラナがこの尻尾と体でしかと護って面倒を見る。ぱぱとままに頼ってしまうことは沢山あるだろうけれど、それでも彼女にとって、皆は愛しい|かぞく《・・・》なのだから。
 編んでもらった特大の籠の中に皆で集まるのが大好きだった。丸まって身を寄せ合えばどんな寒さも怖くはない。降り注ぐ木漏れ日のように優しく暖かな幸せに、皆の喉もごろごろぐるぐる幸福の音色を奏でる。
 幸せだ。
 これからもずっと、きっと永遠に――。
 暖かなきょうだいたちの温度の中で、しかしラナはふとささくれに気が付いた。
 これからも永久に続くはずの優しい幸福の中に身を浸して、では、何故――。
 ラナは|あの人《・・・》に助けられたのだろうか。何故あのとき、|あの人《・・・》が差し出してくれたラングドシャの甘みを知ったとき、ラナは。
 ――ひとりぼっちでいたのだろうか。
 曖昧に歪んでいく夢の中で、誰かがラナを抱き締めた。ほんの小さな感触が幸福の温もりを取り戻してくれる。まるで隙間風のように、ほんの少しの雨のように、心に差した冷たい苦しみを誤魔化したくて、彼女の手は誰かを抱き締め返す。
 温もりが伝播する。それが――。
 何故だかひどく目許に熱を宿した。
 違和感が指先をちりちりと焼いてしまったせいか。それとも、確かな温もりが彼女を抱き締めてくれた安堵からか。
 分からぬままに零れた一筋の涙を拭うすべもなく、猫の夢は今暫し、白花の中に幸福を描いた。

日宮・芥多


 花の上に眠ってしまえば押し潰すことにはなるまいか。
 常の笑みを崩さぬまま、調子良く廃墟に軽い足を進めた日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)の眼差しが、昏い灰色の建造物の中に咲き誇る花畑を目に留めるや、ますます細められた。
「へぇ、まるで映画の中のように美しい場所ですねぇ」
 思わずといったふうに唇から転がり落ちる声にも感情らしい感情は載らない。嘘とも真ともつかぬ慈しみを込めた指先は、物言わぬ白花に形式ばかりに触れてみせたのち、今しがた愛おしんだばかりのそれの上に何らの躊躇なく体躯を擲った。
 柔らかなベッドのすぐ下にコンクリートの感覚がする。舞い散った白い花弁の向こうにじっとりと湿った闇の天蓋が見える。全てに迷いなく目を伏せて、芥多の意識は泥濘の裡へ沈んだ。

 ◆

 今日も随分と頑張った――と、まず思う。
 手は常のように怪異の血で染まったが、それを家まで持ち込むことはない。暖かな電気の点いた家の中から生活音が聞こえて来ることを疑いもせず、男の手は|二人《・・》の家の玄関を開け放った。
「ただいま、ゆりちゃん!」
「おかえり。お疲れ様」
 十年以上見詰めても毎日惚れ直す顔は今日も麗しい。芥多の帰宅を察知して、妻が笑って迎え入れてくれるこの瞬間に辿り着かないことには、彼の|今日《・・》は終わらないのだ。
 扉を後ろ手に閉めてようやく肩の力が抜ける。柔らかな香りは夕食の用意だろうか。それとも今は殆ど朝というに近い時間帯だっただろうか。もう思い出せないが、ともあれ横に立つ柔らかな髪を見下ろして、男は深く溜息を零す。
「……あー……やっと今日が終わった」
「大丈夫?」
 常であれば首肯を返すが、今日は芥多といえども疲労感を引き摺るような一日だった。
 具体的に何をしたのかはよく思い出せない。しかしここに|帰って《・・・》来るまでが長すぎたことだけは分かっている。曖昧な返答を唸るような声に変えた芥多は、愛しい妻を見詰めて弱音を転がした。
「ううん……俺、今の仕事辞めようかな」
 妻が――。
 |小百合《・・・》がこちらを見る。
 確かに稼ぎは良い。この歳にして二人には些か広い家を構えることも出来る。元より自由と気儘を好み、血に汚れることに忌避感のない節のある芥多にとっては天職のようなものだ。
 しかし――。
 左手の薬指に光る揃いの指輪を見るたびに、己には背負っているものがあるのだと思い出す。
 因業な仕事だ。裏社会に身を浸し、マフィアとして人に武器を向ける生活は、要らぬ因縁を抱えているから寿命が短い。人に顔向け出来ないようなことをいつまでも続けて生活していくことにはいずれ無理も出て来るだろう。
 何より、妻の視線はいつも、戻って来た芥多から血のにおいがしないかどうかを不安げに確かめている。
 怪我を負わされることも、怪我を負いに行くことも、彼女はひどく嫌がる。その度に愛情の熱を覚えて心が震えることも事実だが、愛しい妻をいつまでも悲しませるのが良いことであるとは思えなかった。
 仕事を続けていくにしても、彼女独りを悲しみの海に放り込むような真似はしないが――。
 リスクは少ない方が良い。
 彼女がたまに少しの贅沢をして、自分が過不足ない贈り物を贈れれば、派手な生活も煌びやかな調度品も必要ない。そのうちに、二人には広い家をちょうど良くしてくれる天使がやって来てくれるかもしれないし、そうならずとも二人で暮らしていけば良い。
 武器を捨ててネクタイを締める。血を浴びないスーツを着て、太陽の下を胸を張って歩き、少ないながらの収入を真面目に数えて――。
 ごくありふれた、細やかな人生を、最愛の人と伴に送るのだ。
「ゆりちゃんはどう思う?」
 甘く優しい声で訊きながら、男の視線は自らの指輪を見詰めていた。
 花嫁は死んだ。この生活は嘘だ。芥多の一日は永久に終わることはない。あの日の骸と共にどことも知れぬ√に置き去りにされた、その先に連なっていたはずの幸福が、芥多の未だ血に汚れる手に纏わり付いている。
 運が悪いから――。
 あまりに運が悪いから。
 百合の花は落ちた。百年後にも会えはすまい。真白の花嫁衣装は紅色に染まって台無しになってしまったし、芥多の帰る家には電気は点いていないし、妻のための贈り物は押し潰してゴミ箱に捨てられて、二人にも些か広い家はもっと広くなってしまった。
 後を追う気はない。
 彼女は芥多が傷付くことをひどく嫌がる。そもそも芥多は自らの意志一つでは死ねもしないのだ。無駄に首にナイフを突き立てて、無為に彼女を泣かせることなぞ考えることさえしないが――。
 叶うなら、芥多の居場所に。
 伸ばした手の先にある髪に本当に触れ、|今日《・・》を終わらせる彼女の声に迎え入れられて、その身を抱き締めて眠る家に帰りたい。
 幸いなるかな。途切れた路の温もりに、落ちたる花の笑みを見る。

久瀬・彰


 泥濘じみて湿度を孕んだ視線には慣れている。今となっては久しい感覚だが、それらはいつも幼い久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)の背を刺すように見詰めていた。
 気になりはするが怯みはしない。そもそも足を竦ませるような感情そのものに疎いのだ。常と変わらぬ歩様は、しかし幾分の思案を孕んで、白花の前に辿り着いた。
 横たわれというのであれば否やはない性質だ。高く昏い天井から降り注ぐ不可視の視線とは奇妙に目が合わない。
 幸福とは――。
 真なる幸いとは、何であろうか。
 茫洋とした思索に答えは出なかった。今とて幸福である。それを疑ったことはない。それでも今そのものが夢に映ると断言出来なかったのは、不服なきことと未練なきことの違いが故だった。
 失くしたものが――。
 否。
 |自ら手放した《・・・・・・》ものがある。
 恨みはしない。後悔もしていない。深い霧の下に永久に鎖されることを受け入れて、自らその裡に手を伸ばした。代わりに心底からの願いは叶えられ、当然のこととして、彰は代償を支払ったのだ。
 ただ――目を伏せながら、己の裡にある暗闇に目を遣った。
 失ったときからずっと、あの淵よりも昏い霧の中に取り残されたような心地が蟠っている。折に触れて質量を増すそれが、いつか己の全てを飲み干してしまう日が来るのではないかと思うことがある。そうなったときのことを思うたびに、最近になってようやく知った|恐怖《・・》が、背筋を遡るような違和感を齎す。
 ざらついた感情の手触りに名前がついて、彰はその輪郭をはっきりと理解するようになった。一つ形を持てば隣り合った感覚も境界線を得る。今まで思いもつかなかったことを掬い上げることを止められない。
 ――本当は。
 生きて来た|場所《なまえ》を取り戻して、誰かが与えられた最初の祝福を呼ぶことが出来て、己の持ちえたはずのそれも正しく呼んでもらえるような世界を欲しがっているのかもしれない。
 伸ばした手から儚く崩れ落ちる願望を自業自得と退けるようになったときから、彰には元より分からなかった幸福な夢の見方がますます分からなくなった。だから白花の見せる幸福が歪な形をしていることを想定していたのに。
 開いた目に映るのは、鮮やかな陽光だった。
 世界は未だ黄昏に傾いている。だから彰はいつものように仕事に出る。歩く街並みには不思議と彼の知る顔ばかりがあって、彼らが揃って彰を見るや、彼の持つ|今の《・・》名前を呼んでくれるのだ。
 誰も彼もが明瞭だ。猥雑な世界に差す暗がりの中でも、はっきりとした輪郭を保って、彰の方に近寄って来る。同僚たちは気安く彰を呼び止めて、休日だというのに結局は業務の話をして去っていく。友人たちはめいめい特徴的な反応をするが、誰もが彼の存在を見とめて足を止めるのは変わりなかった。唇に刷かれた笑顔の一つ一つが迷いなく彰に延べられている。
 家族たちも――。
 今は何くれとなく避けるようにして、しかし心の底から慕う彼らもまた、この穏やかな|日常《・・》においては当たり前の存在だった。姉はいつもの如く傍若無人な顔で近寄って来て、有無を言わさず彰の手を引いていく。両親が――|育ての親《・・・・》たちが笑っているテーブルについて、珍しく皆でゆっくりと珈琲を飲む。そこに現れた大切な人が少し緊張したような顔で彼の隣に座るのだ。家族たちには分からぬよう肘で小脇を突いて、悪戯っぽく笑って、彰を呼んだ。
 全てが暖かく巡っていた。その間、誰もが彰の輪郭を確かにするように彼の名を呼んだ。
 しかし己の口から零れている言葉にひどいノイズが掛かっているのを、男は確かに理解している。
 夢の中ですら彼自身には認識出来ない、水が耳の奥に詰まったような感覚と共に塞がれる|それ《・・》が何なのかは、既に理解している。彼自身の口から滑るように零れた|それ《・・》が皆を笑顔にさせることで、彰はようやく安堵したような心地になるのだ。
 正しい|名前《・・》を呼べている。
 常であれば手帳に記されたそれを見ねば思い出せもしない。渾名で誤魔化すものが、今は己の裡に確かに宿っている。
 家族たちとの束の間の平穏は、めいめいの呼び出しによって自然と解散していった。忙しい医療従事者たちを見送って歩き出した彰の目が、雑踏の中にふと投げかけられて――。
 足が止まる。
 夜の闇のように深く昏い黒髪が、同じように黒い着物を纏って、男を見ていた。
 |懐かしい《・・・・》。
 会ったこともないはずの面影に導かれるように足が前に出る。|彼女《・・》もまた、長い髪を揺らし、着物の足を急かして駆け寄って来る。雑踏の全てが遠のくような心地の中で、男は半ば茫然としたまま、息も忘れてその人を見た。
 まるでようやく叶った再会を尊ぶように、細い指先が頬に触れる。愛おしむような手つきと共に、今にも涙を零しそうな顔で笑った声が、囁くように掠れた|名《・》を呼んだ。
「――|██《よみ》ちゃん」
 寂しい、と思った。
 目を醒ましたら忘れてしまうのだろう。今、確かに明瞭に聞き取ったはずの――失くしたものを。それは寂しい。胸郭の内側が締め付けられるような違和感を訴えるのを、咎めることすら出来ないほどに。
 幸福な夢はとうに見方が分からなくなったと思っていた。嘗て己の手で自らを証明するものを擲った男にとってみれば、夢とは命を捧げられなかったことへの贖罪で、己に与えられる神罰の一つにすぎなかった。
 だから。
 どうか醒めろと願う夢ばかりを見て来たから――。
 女の指に触れる。ごく自然と、当たり前のように零れ落ちた名前は、やはり濁水の裡に鎖されて聞こえない。それでも確かに目の前の半分は、いたく幸福そうな顔で笑って、もう一度男の名前を紡いだから。
 初めて、夢から醒めたくないと思った。
 幸いなるかな。罪の在処を知りながら、霧に沈めた夢を見る。

第2章 冒険 『頭の中の見知らぬ誰か』



 貴方は目を開いている。
 それが貴方の意志で望んだことなのか、さもなくば終わりある夢の終端に達してしまったのかは別として、事実として貴方の目は開いた。内包する思いに関係なく、貴方はいずれ、当然の帰結として体を起こすだろう。
 目に映るのは隘路である。
 先には導くように一条の光が差している。遥か遠く見えるそれが目指すべき道であることを、貴方は遅かれ早かれ理解するだろう。
 振り返れば暗闇があるだけだ。横に人が分け入っていけそうな道はない。ただ隘路の概念が目の前にあり、その向こうから差し込む光だけが貴方の頼りである。
 しかし悲しむ者よ。貴方の足取りを泥濘が絡め取るだろう。
 夢が心の最奥に秘めたる真なる幸福を映すならば、それは貴方の頭の奥にある現実である。
 誰の声がするだろうか。夢の中へ置き去りにして来た笑声か、さもなくば現実に立ち返る貴方を責め立てる泣き声か。でなければ、今ある現実から語りかける声か――どうあれ貴方の足を軋ませるに最も適したそれが鼓膜に届く。ともすれば実体を持った音としてではなく、内耳に反響する記憶の残滓として。
 それでも行かねばならぬと足を進めても良い。伽藍堂の隘路に蹲ることも出来るだろう。やがて光は迫り、貴方を包むのだから。
 悲しむ者よ。
 観測が終われば事象が訪れる。貴方が何を望もうと、夢を遮る目覚めと同じように。

※目が覚めたあなたは路地裏にいます。「あなたの足を止めようとする声」が脳裡に反響するでしょう。どう行動しても自由です。必ずしも光に向かう必要はありませんので、キャラクター様らしい行動を頂ければ幸いです。
リリアーニャ・リアディオ


 |誰も《かれは》いない。
 声も温もりも失って冷たく昏い大地に倒れ伏すのは、確か二度目だ。あのとき感じた足の鎖の冷たさの代わり、頬を伝う冷え切った涙に目を開き、リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)は現実に立ち返る。
 隘路であった。よくよく見慣れた光景である。味気ない暗闇が身を楔のように引き留めているのも常と同じだ。しかし。
 目の前にあるのは硝子扉ではない。
 差し込んだ一条の光すらも、闇に融ける蒼天の眸には眩かった。真白に眩む忌まわしい視界を細め、瞬きの合間に、リリアーニャのロップイヤーに声が滑り込む。
「またそんなところに座り込んで」
 光の裡からだった。たった一度きり聞いてから、ずっと脳裡に焼き付いている甘く優しい|女《あね》の声が、暗闇に蹲る哀れな|忌子《いもうと》を呼んでいる。
 目を凝らしてしまったら――。
 揺れる甘ったるい紅茶のような髪の色まで見えてしまうような気がして、咄嗟に目を逸らす。
 暗闇を這う光の真白をなぞった。冷え切った鎖の感覚なぞないはずなのに、何故だかあの漆黒に鎖された地下の扉を思い出す。軽いはずの足はそれだけで容易に地に縫い付けられた。立ち上がる気力は、もう残っていない。
「こちらへいらっしゃい。独りぼっちは嫌なのでしょう?」
 姉の声が呼んでいる。きっとあの穏やかで淑やかな微笑を湛えて手招いているのだ――見てもいないはずの姿を、あの日に目を焼いた光芒の中に幻視して、リリアーニャはきつく瞼を閉じた。
 違う。
 姉は妹を想ってなどいない。
 暗闇にばかり馴染んで、漆黒ばかり纏って、夜とばかり踊る魔女が光に焼かれるところが見たいだけなのだ。まったき白日の下で苦しむ声を聞きたいだけなのだ。裡に隠した空洞も、借り物の衣装を纏わねば立てもせぬ足も照らし出し、暗がりに隠し続けたものを壊されて泣く姿を笑いたいだけなのだ。
 自分の力では何一つ叶えられない。己の手では何も掴めない。あまつさえ伸ばされた手からも目を背ける無力な失敗作が、唯一目に宿した蒼天の光の中で焼けた靴を履かされるところを見たくて――。
「大丈夫よ」
 ――などと、耳元を擽る甘言を吐く。
 鮮やかな光芒がリリアーニャを照らし出した。眩くてたまらない。閉じた瞼の裏すらも刺すような、悍ましく美しい煌めきが迫って来る。黒い薔薇を白く染め上げるために。魔女を焼き尽くすために。
 声を殺して息を潜めた。後方に広がっている暗渠に逃げ込むことすら思い付きはしなかった。耳をきつく握り締めて、地面に額を打ち付けて――。
 声一つ上げられぬままの漆黒の魔女を、真白が呑み込む。

狩々・十坐武郎


 眼前には光が灯っている。他方で背にはは闇が迫っている。
「助けてくれ」
 目を開けたときから、狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)の耳には弱り果てた声が届いていた。
 聞き間違えようはずもない。暗がりから彼に手を伸ばすのは、間違いなく祖父の声である。
 生前には聞いたこともないようなものだった。心底から落ち込んでいるときの祖父が、更に弱々しく小さくなったというのが正しいか。嘗てもあまり聞いていたいとは思えなかったが、今とあってはひとしおである。
「まだ寝ぼけてんのかな……」
 零れる声には夢の余韻が載っていた。愛おしく儚き幼い幸福の先で、よもや斯様な声に晒されようとは。
 立ち上がって耳を塞ぐ。物理的な干渉であるのか、そうするだけで元より弱かった祖父の声はなお遠のいた。不吉な予感を揺蕩わせる暗闇の方を一瞥もせず、踏み出した十坐武郎の背に、怨嗟の声が絡みついた。
「見捨てるのか」
 やはり――聞いたことのない声である。
 祖父は優しかった。些かならず|甘い《・・》と言い切っても良かっただろう。十坐武郎に対して斯様な怒気を向けることなど一度もなかった。
「あんなによくしてやったのに」
 ――じいちゃんはそんなこと言わない。
 恩を着せるようなことを言うような人ではない。当たり前のように施し、当たり前のように愛してくれたのだ。背に受ける吐き捨てるような声を振り切って、踏み出した一歩はしかし、先よりも重みを孕んで光を踏む。
「裏切り者」
 引き結んだ唇も、きつく力を込めた眦も、光から逸らすことはしなかった。
 もしかすれば――淡い期待が心の裡に去来している。もしかすれば、あの光に辿り着けば、いつも聞いていた優しい声で話し掛けてくれるのではないか。あんな酷いことを言うはずがないと、自分ではないとよく分かってくれた――と、頭を撫でてくれることはなくとも十坐武郎を褒めてくれるのではないかと思った。
 だが。
 足は軋む。乾いたコンクリートが泥濘のように重く纏わり付く。後方から聞こえる怨嗟の声が、指先の間から脳裡に這入り込んで、あらぬ葛藤を掻き立てるのだ。
 見捨てているのではないか。
 自分の都合の良い幻想を信じて、もしかすれば本当に苦しみ、斯様な言葉を口にする他にないほど追い詰められているのかもしれない祖父を置き去りにしているのではないか。
 だとしたら――。
 十坐武郎は、ひどく悪いことをしようとしているのではないか。
 揺らぐ足取りは惰性のように尚も前に出る。終わることのない思索の先で、顔を上げた彼の前には、鮮やかな真白の光が広がっていた。

クラウス・イーザリー


 進まなくては。
 慣れ親しんだはずの胸裡の空洞に我知らず手を当てていた。一度見せつけられた満ち足りた|末期《まつご》を唐突に取り上げられて、何一つとして思うように進まなかった現実に打ち捨てられる。冷たい地面の感覚から顔を上げたとき、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の眼前にあるのは、隘路に差し込む一条の真白だけであった。
 どこなのかは分からない。いずれ怪異の引き起こすことであると前提を置けば、考えるだけ無為ともいえよう。事実として、これまであの白花の寝台によって引き込まれた人々たちもまた、ここに連れて来られたのだろうことだけは理解している。
 これ以上の被害を出すわけにはいかない。そのために、クラウスはここに来たのだから――。
「クラウス、行ってしまうのか?」
 息が詰まる。
 まるで脳の裡から湧き上がるような声だった。先まで彼を抱き締め、共に永久の死の淵にいた親友が、クラウスの袖を引くように言葉を零す。
「まだいいだろ。ここにいてくれよ」
「――ごめん。そういう訳にはいかないんだ」
 クラウスは――。
 誰かを救う道を歩まねばならない。誰かと共に進む路に立ち返らねばならない。|真なる幸い《・・・・・》にさえ終わりを見るほど、己の裡に灯ったどうしようもない死への希求を誤魔化しながら、それでも前に踏み出さねばならない。
 ――何のために?
 浅い吐息が零れ落ちた。隘路を転がっていやに反響するそれを見詰めるように、我知らず視線を落とす。
 クラウスの太陽は、クラウスのために死んだ。
 だから彼はこの命を誰かのために燃やし尽くすと決めた。燃え尽きた希望の灰の中に独り立ち尽くして尚、前を向いて足を踏み出すと決めたのだ。
 では。
 親友がここにいるのに、何故そうする必要がある。
 大きく首を横に振って湧き上がる疑問を打ち消した。これは夢だ。現実やもしれないが、夢と地続きになっているのだから、少なくともこの声は|彼《・》のものではない。クラウスの脳裡から呼び起こされる記憶の残滓に過ぎないのだから、夢と一緒だ。
 たとえ夢でも――と願ったのだから、それでも良いのではないかと囁く声が、耳元に滑り込む。
 それでも、クラウスの足はしかと大地を踏みしめた。一歩を進むごとに鎖を引き摺るように体が重くなる。曖昧に歪んでいく現実と夢との境界に、沈められていく心地がした。
 だが。
 誰かを――救わなくてはならない。
 灰に灯した使命感だけを杖に、親友の声を追い払う。近付く光の裡に誰かの姿を見た気がして伸ばした指先が、真白の裡に呑まれた。

花岡・泉純


 まず初めに隣を見た。
 眠る前に抱いていた一抹の恐怖が杞憂に終わったことに気付いたのは、一拍を置いた後だった。静かに寄り添う|影《・》を、甘い春の色をした眼差しで見上げながら、花岡・泉純(よみがえり・h00383)は緩慢に立ち上がる。
 一条の光は隘路を照らしている。どこかに繋がっているようでいて逃げ場のない一本道に差す真白はか細い糸に似て、しかし確かに暗闇を払拭していた。
 それを目掛けて歩み出す。まるで生きることのようだ。或いは――生まれることにも似ている。
 幾度も繰り返す命の輪転の間、必ず人は母の胎から繋がる隘路を通る。産声を上げるために。絶対の安全な暗闇から、自らの意志で何があるとも知れぬ光の許へと進むのだ。
 では――彼らもそうなのか。
「おいていかないで」
 悲鳴のような少年の懇願が脳裡に響いた。そこここに差し込む暗がりから、泉純に手を伸ばすように。
「なんであなただけ」
 妬心の籠った少女の声が重なった。背後に広がる無辺の闇へ、泉純を連れ去ろうとするように。
 雛鳥たちは鳴いている。小鳥が集まって生まれる囀りは柔らかな色なぞ孕まない。どれもこれもが彼女の足を絡め取りたくて仕方がないのだ。乾いたコンクリートを泥濘に変え、掘り返した柔らかな土の下から、彼女の足に縋りつこうとしている。
 息苦しい。
 何一つとして特別なことはしていないのに、泉純の喉には暗闇が纏わり付いていた。心臓が痛い。足取りまでも覚束ない。
 それでもなお――前を向こうと顔を上げた彼女の耳を、忘れ得ぬ声が掴んだ。
「俺たちを見殺しにしたんだな」
 ――瑠芽。
「あなたも私たちと一緒に喰べられてしまえばよかったのに」
 ――花耶。
 限界だった。
 膝から抜けた力が戻ってくれない。昏い地面を照らす真白の僅かな光に薄墨桜の髪が垂れ下がっている。項垂れた顔を上げることも出来ないままで、彼女の視界はぼやけて滲んだ。
 暗闇を通って再び命を得られたのは、泉純だけだった。
 懸命に逃がしてくれた二人の手が離れたとき、彼女は真実、彼らの末路を変えるすべを失った。あの楽園には未だ花が咲き乱れているだろう。無垢なる子供たちが燥ぎ回って踏む大地の下に何が埋まっているのかも知らずに。
 ――嘗て、泉純がそうであったように。
「ごめん、なさい……」
 分かっている。
 蹲って泣いても変わりはしない。悔いた過去が悔いるだけで目の前で塗り替えられることなどありはしない。彼女の選択の時間はとうに終わって、後には結果だけが残っている。
 それなのに。
 足は動かない。滲んだ視界に零れ落ちる雫は止まない。
 きつく閉じた眼差しを迎えに、白き光が訪れる。

氷野・眞澄


 静謐だ。
 開いた瞼には、眠ったときに見た天蓋と同じような暗闇が広がっている。緩慢な仕草で体を起こして胸へ触れた掌に、隘路と同じだけ静まり返った心臓は|応《いら》えない。
 確かめるように項垂れる氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の前には不変の現実だけが広がっていた。一度喪ってから、消えることなく纏わり付く|大洞《おおうろ》が、素知らぬ顔で埋まった心臓の代わりに胸中に満ちている。
 のろのろと立ち上がる。見渡したコンクリートを真白が僅かに照らし出し、ところどころの罅割れが目についた。思わず眉間に皺が寄る。
 悪路であるというだけでも、眞澄の足は鈍るのだ。
 だというのに常は望みもせぬ雑音を流し込んで来る思念は沈黙している。やけに静かな道に立つ背へ静かに忍び寄る暗がりが、ひどく厭な予感を伴って焦燥を駆り立てる。
 早く――。
 あの真白の光へ辿り着かねば。
 内心に急かされるままに足を踏み出した。慎重な一歩を引き留めるようにして、耳にはひどく懐かしい声が優しく響く。
 夢の|それ《・・》とは色の違う幸福が呼んでいる。眞澄を穏やかに引き留める老いた男女の声音は、彼の裡に眠る心臓に抱えるのとは違う心残りを否応なく膨らませた。
 ――未だ学生の身分であった頃、眞澄には庇護者が必要だった。
 必然、血縁の裡から選ばれたのは最も近しい祖父母だ。抱えた厄介が故に決して|育てやすい《・・・・・》とはいえなかっただろう眞澄を、しかし彼らは真っ当に愛し守ってくれた。少なくとも、厭な顔を見せたことは、記憶の裡では一度もない。
 恩を――。
 返したかったと思うのは、当然のことだった。未練の残り香が後ろ髪を引く。静謐の暗闇の方から、いやに鮮明に届く声を振り返りたい誘惑を、息を噛んで堪える。
 斯様なところにいるはずがあるまい。少なくともここは怪異の領域にほど近い場所なのだ。万一にも彼らが迷い込んでいたとして、これほど穏やかな声で眞澄を呼び止めるような状況であるとは思えない。
 吸い込んだ息が冬の気配で肺を満たした。常であれば厭わしいばかりのそれも、今は頭を明瞭にしてくれる。
 踏み出した足は迷いない。先よりは幾許かましになった気分を、なお泥濘のように引き摺って、男の足は一筋の光の方だけを目指した。
 足を止めるわけにはいかない。
 帰るべき場所がある。潰えた命は未だ真実魂を喪ったとはいえない。|相棒《かれ》が待っているあの場所へ――。
 帰らなければ。
 息を詰めた一歩が、真白の裡へと踏み込んだ。

チェスター・ストックウェル


 背に感じていた柔らかな芝と、視界いっぱいの雲一つない蒼天の色は、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)を置き去りに融けて消えた。
 代わりに冷たいコンクリートの乾いた感触と、重苦しい曇天を貫く黒いビル群が広がっている。静寂に包まれた路地裏には、歓声もホイッスルも暖かな光も遠い。しかしチェスターの内耳では、あの輝かしき日々の鮮やかな声が反響し続けている。
「僕のアシストに感謝してよ、チェスター」
 同じくらい生意気だった悪友はどうしているだろうか。何だかんだと明るい彼のことだから、きっと会社でも上手くやって、紅茶片手に談笑でもしているに違いない。
「チェスター、あれは俺にパスを出すところだろ!」
 よくポジションで争っていた彼は、付き合っていた彼女と上手くいっていたら、子供を抱き上げる年頃だろう。スパイクを汚してサッカーボールを蹴っていた足で上等な革靴を纏い、小さな足と並んで歩くのだ。
「腹減ったー、何か軽く食べていこうぜ」
 思えばそんなことばかり言っていた彼は、きっとパブに陣取っているのだろうと思う。いつもの悪態を吐きながら、馴染みのチームに文句を飛ばして試合中継を見上げている姿が目に浮かぶ。
 そのどれも、グラウンドにはない。
 彼らの中にあるみずみずしい瞬間はとうに昇華すべき佳き過去へ消え、無人のグラウンドにチェスターだけがあの頃のままで立っている。
 一時的な実体化は彼に再びボールへ触れる権利を与えた。しかし今や彼が本当に手にしたかったものは、過去の亡霊を置き去りにして未来を歩んでいる。停滞し続ける少年の、永劫に歳を取らない足だけが、絶えず進み続ける世界に爪弾きにされている。
 過去が過去に囚われることは、ある種の必然であった。熱狂の余韻と、もうあるはずのない暖かな夕食の香りに纏わり付かれて、チェスターの眼差しは眼前に差し込む細い一縷の光を見詰めていた。
「チェスター!」
 無邪気な声だけが少年を呼んでいる。余燼の中に閉じ込めるように。腕を引いて、丁寧に絡め取るように。
 だが――金色の目は地面の罅をなぞった。
 いずれ醒める。彼の輝かしき夢が終端に辿り着き、この隘路の中で目覚めたのと同じだ。余燼はやがて静かに降り落ち、後には褪めた思い出の気配だけが蟠る。
 だから。
 ――どうせ醒めてしまうのだから。
 足を止めても、進んでも、同じことだ。
 嘗ての幸福を受け止めるように瞼を閉じる。背後の暗闇から呼ばう声を振り返った少年を、やがて真白が呑み込んでいく。

狗狸塚・澄夜


 アラームにしては寝覚めが悪い。耳を劈くような異音と共にまどろみから引き戻されて、一拍遅れて身体の異常を伝える警告音を悟る。
 バイタル異常――内容は動悸。
 どこか分かっていたような気分で、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)の眼差しは凍空を仰いだ。曇天が隠した太陽から光が注ぐことはない。代わりに一条の光が分かりやすく差し込む先を目指して体を起こした。
 所詮は紛いものの幸福だと、弾けた夢の裡にすら理解していた。
 だというのに心とは儘ならぬものだ。突き付けられた幸いの形は締め付けるような痛みを胸裡に残し、二度と戻らぬ事実ばかりを浮き彫りにする。
 だが――澄夜がここに立ち竦んで指を組んだところで、何らの現実が変わり得るものでないことも、彼は疾うに知っている。ただ頽れて天を仰ぐだけで救いが齎されるというなら、この世に白花の寝台が必要とされることなどありはすまい。
 だから。
 ――だから、何が耳を掠めても、前に進む。
 気丈な姉は最期まで笑って弟を逃がした。語るも悍ましき|儀式《・・》の犠牲になることを承知のうえで、先んじて凄惨な骸に取って代わった父母のようにだけはすまいと、震える手を後ろ手に隠して笑って頷いたのだ。
「此処にいて」
 弱々しい悲鳴だった。剥き出しの少女の本音が、躊躇いと共に弟の袖を引くようだった。
「独りにしないで」
 そうだろう。
 本当ならば手を離したくなぞなかったはずだ。たとえ命運を共にするのだとしても、自らのことだけを考えるのならば、弟を固く抱き締めて最期の時を待ちたかったはずだ。独り苦しみの舞台に上がることは想像するだに恐ろしい。背筋を逆撫でする恐怖のままに縋られていたら、彼はきっと、自らの命運を受け入れただろう。
 彼女がそうしなかったから、澄夜はここにいる。
 脳裏に焼き付いた命亡き姉の剥製を一目見たときから、燃えるような悔悟は胸中に逆巻いている。幾度思えど戻らぬ時間の中で、彼女の必死の笑顔に頷いて背を向けた己を愚かしく呪いさえする。
 だが。
 だからこそ――。
 唇を引き結んで睨む光へ軋む足を踏み出す。澄夜には足を止める資格なぞありはせぬ。踏みしめた地の一歩一歩に纏わり付く後悔と悲哀を砕き、硝子の如く鋭利に足を傷付ける心を御して、ただ前だけを見る。
 ――姉は正しかったのだ。
 弟へ向けた最期の勇気と献身は、確かに輪転して世界へ光を注ぐのだと、証明せねばならない。
 踏み砕く一歩が光の裡へ消えていく。見据える視界が眩むほどの真白の光が、澄夜の黒い翼を包み込んだ。

五香屋・彧慧


 カナリヤはかくて死んだ。
 五香屋・彧慧(空哭き・h06055)の手は胸元で組まれている。さながら死の淵に送られたときの恰好をそのまま映し取ったが如く、起き上がる白い指先が空を辿る。
 花の香りはしないのに、鼻腔はそれを覚えているらしい。お誂え向きの順路は横たえた白花の如く眩む輝きを放つものだから、些かならずや目が痛い。
 馴染みある暗がりが背を這っている。しかし、ともなればこちらが順路ということもなかろう。避けるべくは避けるが良かろうと、浮き上がる夢見の足取りが空を進む。
「なんだな、さっきから……|うるさい《干渉はげしい》きがする わ」
 脳裡で弾ける爆弾のようだ。目に映る世界を切り取るようだ。
 音か。
 或いは――囁きか。
「いい え」
 ――ひとのこえなど、聞こえはしないのよ。
 人のしかと信じたものの崩れる音の中で、ただびとの悲鳴が何らの痕跡を残せようか。地を割る無慈悲な火の中に燃える建造物の影に隠れ、人の苦悶は夥しい灰となって風に攫われゆくほかにない。隣人と混ざり合った骨は軍靴に踏みしだかれて、やがて後悔の鋲によって反省の額縁に飾られるまで、誰の目にも留まらない。
 秩序は混沌の前に無為だ。人が懸命に作り上げて来て、誰もが信じていることを信じているから、蜃気楼の如くして空を覆っているだけだ。同じ手で作った鉄の塊が嘶くだけで、容易に立ち消える幻朧の温室にすぎぬ。
「ふふんふん」
 鼻歌一つも燃え朽ちる音に隠れている。或いは路地そのものは静謐なのか。彧慧の脳裡を埋める|フラッシュバック《PTSD》が、彼方より人の営みそのものを燃やし尽くす気配を連れて来るだけか。
 良心は悪心の前に無意味な綺麗事に変わる。病を焼くのが炎なら、悪を焼くのもまた、人の放つ炎である。それがときに無辜を信じた世界の全てを灰燼と硝煙に包み隠すとしても、掲げられた大義名分の旗がその柄で誰かを貫くとしても、悪は焼かれねばならぬと人は叫ぶのだ。
 やがて悪を焼き尽くした良心こそが悪と呼ばれることも知らず。
「ふ〜け〜ば〜とぶよ〜な、×××に〜〜♪」
 足取りは軽やかに宙を蹴る。女の眼差しはただ冴えていた。無数の人々の悲鳴を呑み込む戦禍の気配が脳裡で弾けることも知らぬげに、少女の如き柔らかな声音が歌を紡ぐ。
 所詮は記憶だ。
 数多と渡り歩いた誰かの断片と、今更何を違おうか。
「か〜け〜た、いのちーを 笑わば笑え~」
 厭う光の淵に手を掛ける。或いは光の側が彧慧を迎えに来たのか。遠のく背後の暗がりの裡より、女の指先は、嘗て誰もが信じた無垢の色に触れた。

燦爛堂・あまね


 求める世界は、もはや如何なる光の裡にもありはしないのだ。
 誘うように揺れる真白の光が隘路に唯一の光源を落としている。足許に迫るそれが浮かび上がらせたコンクリートの罅をなぞる眼差しに、地面と同じだけ乾いた吐息が重なった。
 燦爛堂・あまね(|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》・h06890)の描きたかった全ては、あの眩しいだけの終点の中にはない。
 番える優しい指先の感触が、彼女の中に残る擦り切れきった思い出の全てだった。突き付けられた幸福の棘が抜けない。咄嗟に背を向けて向かい合った暗闇の裡から、優しい声が耳朶へ触れる。
「――おいで」
 顔を上げた先に――。
 何かが見えることはなかった。引き絞るように鳴った喉と共に真白の眸が彷徨う。踏み出そうとした爪先と伸ばしかけた指先を咎めたのが何だったのか、瞬き一つで分からなくなる。
 暗がりにある夢の名残が、噛み砕いて飲み干したはずの心を丁寧に拾い上げる。あまねの中に生まれた永劫空白のカンバスに、鮮やかな景色が描き込まれていく。
 期待するのも、視線で無意識に探すのも、もう止めた。
 大切に扱われたモノの寿命に比べれば、人の命の何と儚いことだろう。旅路はいずれ終点に辿り着き、取り残された誰かの心に埋まらぬ真白のカンバスを遺していく。連綿と続く命の輪転に、あまね独りが遺されたのだと思い知ったときに、あの燦爛たる日々が手には戻らぬことを受け入れた。
 受け入れたのに。
「……貴方に、逢いたい」
 零れた声の何と愚かしいことか。まるで乙女のように単純な口ぶりだ。魂を持ちカミに達せど、元を糺せば絵筆の癖に。
 ――わたくし、こんなにも貴方がすきよ。
「酷いひと、狡いひと」
 責め立てる声の無為を知りながら、あまねの唇は弧を描いた。目を凝らせど見えもしない。優しく暗闇から呼ぶ声に勝手に胸元を握り締めて、千切れ乱れる心の在処をようやく定めて、絵筆は静かに踵を返した。
 斯様な暗闇にいるものか。
 何より世界の色彩を愛して、眼に映る全てを描き留めようと|絵筆《あまね》を番えた指先は、己の姿一つ見とめられはしない暗がりの中で、彼女を呼んだりはしない。
 代わりに眼前にしかと番えるのは真白の光だった。目も眩むようなカンバスが広がっている。纏う極彩にて向かい合うならば、それは光の表現すらも儘ならぬ漆黒などであってはならないはずだ。
 彼も――あまねも。
 呼ばう声に背を向ける。揺れる尾が迷いなく隘路を進む。馴染んだ白の眩む淵に手を掛け、絵筆はしかと顔を上げた。

神代・ちよ


 息が続く限り、この世の檻に囚われている。
 夢はいつか終端に辿り着く。変え得ぬ現実が祈りの力で都合の良い幸いに塗り替わりもしない。嘗て蝶の翅を捕えた小さな匣の中から広い世界へ手を伸ばしたところで、本質はさして変わっていないのやもしれぬ。
 神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)の抱いた幸いは、実のところ、生まれたときから叶う見込みがなかった。
 幸福のさなかにあるその人の表情と声にすらも違和を抱くのだから、ちよが幾度やり直したところであのまどろみの中には至れまい。泥濘のように身を絡め取る乾いたコンクリートの罅割れを細く白い指でなぞり、緩慢に体を起こせば、夢の名残が柔らかな後ろ髪を引くようだった。
 だが――。
 立ち返らねばならない時間だ。
 夢は所詮は泡沫である。永劫に続くことを願い、甘美な誘惑に身を委ねてまた目を伏せたなら、それは自ら死を選ぶことと何が違うのか。
 足に気怠さが纏わり付く。曇天に鎖されたビル街の隘路に、唯一の光源として真白の光が差し込んでいる。後方の暗がりから呼ばう声音は、あの夢と同じ温度でちよを手招いている。
「ちよ様」
 浅く吐いた息を噛む。
 幻にしか会えない人に会いたいからと、まどろみの中で蹲るのは、逃避だ。
 過去は過去である。分かり合えぬものはもう分かり合えない。失くしたものが戻ることはないし、時間が遡ることもない。
 遡ってちよに変えられることも――ない。
 鼓動は締め付けるように痛む。息は心のように乱れる。それこそがちよの生を証明する。生きているからには前に進まねばならないのだ。それが茨の上を歩くような疼痛を伴うのだとしても、自らの積み重ねて来た選択への後悔が雪の如く折り重なるのだとしても、歩み続ける限りその苦しみから逃れ得ないのだとしても――。
 ちよにはもう、前に進むこと以外の何も、遺されていない。
 目を開けたときにはほんの僅かと見えた距離がひどく遠く感ぜられる。覚束ない足取りをはためく蝶の翼で支え、時に暗がりに沈む外壁に手を突きながら、ちよは己の内耳を反響する痛みの残滓を振り払った。
 暗闇に差した一条の光明は、その向こうに何をも映さずにいる。あまりに光が強いからだ。目を焼くようなそれの裡に何が見えるのであっても、或いは何も見えないのだとしても、息を詰めた娘の一歩は真白のさなかに踏み出した。
 眩む光が目を焼く。何もかもから色を奪っていくような煌めきの中で、しかしちよは、しかと瞼を開いた。

徒々式・橙


 目が醒めると同時に去来した映画を忘れた。
 はて脳裡を巡っていたのは|誰《なん》の夢であったかも分からぬが、それそのものはさしたる動揺を齎しもしない。元より夢なんぞを見る機会もそうそうありもしないのだし、人は大方、見た夢を忘れるものであるともいう。
 ただ。
 徒々式・橙(|花緑青《イミテーショングリーン》・h06500)の眸を、真白の光が焼いている。
 後方には暗闇の気配が蟠った。周囲を見渡しても光の逃げていくような路は見当たらない。どうやらお誂え向きに用意された順路は、光の向こうに誘っているようだ。
 ならば進むしかあるまい。そも人の描いた未来より現れた橙に、後ろへ進む理由なぞありはしないのだ。
 耳朶を声が擽る。
「誰か代わってくれないか」
 助けを求めている。祈っている。縋っている。実体を持った|個人《・・》ではなく、己を救いうるある種の幻覚じみた存在として。
「誰かこっちに来てよ」
 ――叶えなくては。
 橙の中に刻まれた意義が呻いている。芽吹く前から乾き果てると決まっている種に水を遣らなくてはならない。花を咲かせることすら出来ない優しさを嘘に変えてはならない。
 誰かの理想を――誰かの祈りを。
 主が打ち消し掻き消し土の奥底に埋めてしまう前に、受け止めてやらなくてはいけない。
 |誰でもない《・・・・・》橙の掌にしか掬えない願いの全てを、否定される前に包み込まなくては。
 使命感は、しかし花緑青の眼差しを揺らがせるには足りなかった。路地から聞こえる一辺倒の声たちは決死を真似てこそいるが、実体にしてみれば虚ろで軽い。
 祈りではないから。
 ただ足を止めようとするだけの幻聴に何らの意味もありはしないのだ。であらば橙が汲んでやる必要も、|応《いら》えて足を止めてやる意味もない。誰か、誰か、誰か――壊れた機械と同じだ。繰り返すだけでは祈りには至らぬ。
 故に踏み出す足には迷いもない。ただ真っ直ぐに見据える順路の先の、焼けつくような光を眼に映し取っている。
 数多の声を聴いた。数多の祈りの哀しみの終着点として、|誰でもない誰か《・・・・・・・》は目を開けた。大いなる諦念の群れが生み出した耳が聞き遂げるのは、しかし誰にも受け止められることのない血を吐くような嘆きだけではない。
 背に迫る暗闇の中に取り残されるような人々の心が橙を呼び起こしたのだとしても、その向こうに手を伸ばすために生まれたのだから――。
「世界の善意を、ナメんなよ」
 踏み出した一歩が真白に辿り着く。暗闇を打ち払う希望の色が、無垢なる世界を照らし出す。

三珂薙・律


 疾うに理解していたことで痛みを覚える胸中の、何とも儘ならぬことである。
 我知らず握り締めた胸元に熾火が燻っている。隣にも前にも広がる、ただ真白の光に照らされるだけの空白を藤色の硝子越しに映し、三珂薙・律(はずれもの・h01989)の唇は小さく苦笑した。
 元に戻っただけだ。分かり切っていたことが分かり切った形で目の前に現れただけだ。現実は常に事実の形だけを取るのだし、底おこに燈火の温もりが宿らぬことに落胆し、空疎を覚えるようなこともありはすまい。
 ただ。
 疼痛を訴える胸を、声が喚んでいる。
「ほっほ、|読み解《あば》かれる側は新鮮だ」
 律自身にすらも見当たらぬ最奥でまどろむ幸福の夢は、斯様な形をしているというのか。実に興味深い結果ではあったが――。
「……俺は、俺でなくなるのを怖れているだけのことよ」
 いつぞやか、敵意の塊が後ろをついて回る弟子になった。以来は彼女の存在を碇とし、彼の身は律として成っている。なればそうそう足許を掬われるわけにも行くまい。いかにしても、自らの直下は疎かになるものであるのだから。
 だが。
 ただ一つ、足を留めるものがあの夢の中にあるのだとするならば、それは――。
 呼ばう聞き慣れた声音に足が軋む。兄を呼ぶ弟の声だ。いつも争っていたさなかのそれとは違う、真実兄を求め、その背を引き留めようとするような。
 行方知れずの気掛かりを汲み取ったということか。初めて眉間に皺を寄せ、律の声は僅かな怒気を孕んだ。
「耳障りな聲で囀るな。君は弟ではない」
 彼は暗がりの中にはいない。
 兄よりも余程優秀だった弟が、律の助けに縋るようなこともない。故に足取りは囁きを受けてより確たるものと変じた。
 猶のこと、歩みを止めるわけには行くまい。彼の存在はこの暗闇に蹲っていて見付かるわけでもない。今や記憶の裡にしかない団欒の中にある、その声の真なる主を見付けるまで――。
 否。
 |見付けてもらうまで《・・・・・・・・・》か。
 黄泉の国へ足を取られるのは未だ早い。ここで待ち続けて何が変わるわけでもないのであれば、闇には背を向けるが良かろう。緩慢に迫る暗闇の気配に冥府に引き摺られてしまうよりは、緩慢な足取りであれど光に向かっていく方が速いのであるから。
 藤の硝子が透かし見る光は徐々に勢いを増していく。やがて辿り着いた淵に手を掛けた。真白の煌めきは世界の全てを覆い尽くすが如く目を晦ませて、律の前に広がっていく――。

ライナス・ダンフィーズ


 行く先の分からぬ路地なぞ慣れたものだが、明示があるに越したことはない。
 起こした背にみずみずしい緑のにおいは名残も香らなかった。乾いた灰色のコンクリートに這う寒気が背筋を伝う。身を起こした銀の髪が尾のように揺れた。
 ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)の眼前に、真白の光が差し込んでいる。
 お誂え向きの、取ってつけたような救済の色だ。露骨なほどに誘われているのは承知のうえで、敢えて反発してやる意義もない。立ち上がった黒いブーツが迷いなく一歩を踏み出した。
 その耳を、声が口々に呼び止める。
「……うるせえ」
 僅かに眇めた金色の隻眼は、暗闇から聞こえる声の主を知っている。
 庇護者を喪った|生家《じごく》から抜け出した少年に行く先などなかった。必然、転がり込んだのは世に見捨てられた掃き溜めのような場所である。
 似たような境遇ゆえに根を捨てた子供たちは、自らが生きるために徒党を組んだ。出自の運に恵まれぬ者はその後も似たようなものか、或いは庇護なくして幼子が育つとは斯様に困難なのか――分かりはせぬが、誰も長生きはしなかった。
 半分は死んだ。事故のことも事件のこともあったが、身寄りに厭われた子供の死体一つにかかずらう者は少なかったから、大半はそのままどこぞでジョン・ドゥとなった。
 残った裡から半分は、そのうちに下らぬ堕落に手を染めた。一度堕ちれば早いものだ。気付けば言葉も通じなくなった成れの果てに食い扶持を遣っている余裕なぞ誰にもない。やがて皆、消えた。
 残り僅かの中から半分もまた、いつの間にか戻らなくなった。どこで何をしているのかは知らない。生きているのかも分からぬし、探すつもりもなかった。
 未だ――。
 覚えているものなのかと、他人事のように思う。
 脳裡に反響する泣き声はあらゆる質を孕んでいる。足に縋りついて懇願する者、裏切りを罵り呪いを叫ぶ者、言葉にすらならず泣き喚く者――。
 その全てを、ライナスは吐き捨てる一言で切り捨てる。
「うるせえっつーんだよ。|失せろ《Piss off》」
 痛みは失せても重苦しい蓋は残る。一度目に喪ったときに、全て味わい尽くした。
 過去は過去だ。呆気ない幕切れで消えていった同類の幻影に惑わされて足を止めることなどすまい。流れる血に縋らなかったように。引き摺られていく誰かを追わなかったように。いなくなった背を探さなかったように。
 今も、それと同じだ。
 踏みしめるコンクリートの乾いた感触が途切れる。隻眼に迫る光から目を逸らすことも、後方の闇を振り返ることもせず、ライナスはただ、目を眇めた。

夜鷹・芥


 全て己が氷雨に埋めたものだ。
 あの日と同じような空疎が乾いた灰色のコンクリートを伝っている。団欒も、鍋も、金木犀の香りも散った。どうしようもなく恋しい嘗ての幸福は、目を開けてしまえばただ苛む暗がりの痛みに変わるのだ。
 眩しい――緩慢に体を起こした夜鷹・芥(stray・h00864)の黒を飲み干すような真白の光が、眼前に口を開けている。
 ――帰れるだろうか。
 ――変えれるだろうか。
 幼子のような淡い期待が胸中を去来する。覚束ぬ足取りで踏み出した地面は、水滴の一粒もないというのに、泥濘じみて芥の足を絡め取った。
「また置いていくんだ?」
 狐の声が耳元に囁いている。噛み締めた息は噛み慣れてなお苦い後悔の苦渋を口腔に満たす。
「また殺すんだね?」
 誰より聞きたかった優しい声が眼前の光を遮っている。早く背を向けて暗闇に戻れとでも言うように。
 気付けば抜いていた銃口は、己の心臓に向けられていた。口を隠しているせいか。しかし以前には迷いなく咥えていたような気もする。
 確実に命を終わらせるために――。
 ほんの少し押し込むだけで良かった。だというのに、引鉄に宛がった親指は震えて抵抗する。気が狂うような焦燥感が全てを曖昧に歪ませていく中で、不思議と自らの呼吸音に意識が向いていた。
 ――俯いたコンクリートを、真白の輝きが照らしている。
 ただ一筋、涙のように伝ったそれが、芥を引き留めている。真白の中に去来する顔は気付けば増えて、忘れ得ぬ金木犀の香りの他に数多を重ねて揺れるのだ。
 だから。
「ごめん」
 引鉄から指を外す。
 暗闇に身を浸すのは簡単だ。自ら臓腑を貫くことも。死の安寧は罪悪感を幾分か拭って、短絡な救済で心を軽くしてくれる。
 だが――。
 そうしてしまったときのことを、芥はもう知っている。
 怒られるだろうな、と思う。悲しむのだろうな、とも思う。どちらも綯い交ぜになって散々に反省させられて、その後に|おかえり《・・・・》を聞かせてくれるに違いない。
 それを思って唇に笑みが浮かぶのも、否応のない事実だから――。
「ごめんな」
 弱くて。
 自ら命に終止符を打つことも、罪に報いることも出来ない。ただ一筋の未練に押し留められて、あれほど望んだ死の暗闇を拒む惑いを打ち消すことも出来ない。
「だけど、もう少しだけ猶予が欲しい」
 死で報いるのではなく――この命の凡てを使い果たしてでも、恩義に報いるために。
 銃をしまって前を向く。歩き出した足には確たる意思が宿った。見据える先の真白へと、漆黒の装束が歩み出す。

時司・慧雪


 道程を示してもらう分には結構だが、斯様に単純であれば罠を疑るべきであろう。
 或いは仕掛けか。蜘蛛の糸に自ら絡まりに行った以上は何であれど飲み干すつもりであるが、だからと警戒そのものを捨てることもまた、愚かしい行為に違いはあるまい。
 手招くような真白に歩みを進める。灰色の曇天からは光が差さない。見る限り刻限のあるようにも見えぬのであるから、急く理由もなかろう――時司・慧雪(界岐堂・h00889)の足取りは確たる一歩を踏みながら、緩慢にアスファルトの上を往く。
 耳を擽る声があることは理解している。
 まさしく|擽る《・・》といって良かろう。隘路に反響するそれはどうにも聞き取りづらい。というよりは――人間の言語ではないという方が正しいのか。
 耳に滑り込む声音を解読しようとしていた意識がふと真実に辿り着く。同時に得心もした。
 慧雪の幸福は、人の営みの裡から己の存在が乖離していくことだったのだ。
 ここに在る理由を見出せぬのであれば、|もう片方《・・・・》が干渉して来るのは道理であるといえよう。人の目に一顧だにされぬことを心から望むなら、脳裡を擽るのは今まで選んで来なかった方の道で間違いがない。
 しかし――慧雪の唇は小さく息を零すに留まった。
 特段、|そちら《・・・》に興味があるわけでもないのだ。
 無視を決め込むにも気を遣う必要がない。意味を拾える人の声が聞こえたのであれば、まやかしであっても幾らかの社会性が足を引いたかもしれないが、|こちら《・・・》に斯様に気を回してやる意味は最初からないのだ。
 有難くすら感ぜられる声を聴き流し、やがて近付く真白に吐息が転がり落ちる。自嘲とも当惑ともつかぬ色もまた、どちらつかずの足取りと同じように曖昧にぼやけた。
 こうまで|他《・》に興味がないとは。
 客商売を営んでいるに違いない身である。野心の類があるわけでもない、道の端に構えられた小さな店から広げるつもりもないのだとしても、些か問題があろう。客の顔色を読み、その望みを過不足なく汲み取る――どうあれ基本であろう通念が真実実践出来ていたのかすら怪しく思えるところだ。
 どちらを選ぶこともしないというのは、どちらとも選べないことと大差ない。どちらにも選ぶ理由があるか、或いはどちらにも選ぶほどの理由がないのか、違いといえば些細なことである。
 残る結果は同じだ。
 ――半端モノの排他主義とは。
「……笑えないねえ……」
 溜息めいた声音が真白に融ける。届いた煌めきに宝石めいた紅色を一度伏せ、男は一歩を踏み出した。

水藍・徨


 向かう先がどちらであるかは明白だった。曇天に鎖され陽の一筋も差さぬ隘路には、真白の順路が導くように横たわっている。
 乾いたコンクリートの罅割れを照らし出す真白の光に誘われて、水藍・徨(夢現の境界・h01327)の足取りは茫洋と地を踏む。強く抱き締める自由帳を頼りに真っ直ぐに道を往く耳へ、ふと音が滑り込んだ。
 ――父と母だ。
 何やら言い争っている。喧嘩というよりも切迫して、必死になっているようだった。奇妙に騒めく胸の裡を映して視線が揺らぐ。暗闇の裡で聞こえていた声は、やがて無機質な二発の銃声めいた音ののち、聞こえなくなった。
 静寂が身を浸す。泥濘の如く足に纏わり付くそれを振り払うすべは知らない。
 何が――。
 あったのだろうか。
 鎌首を擡げる胸中の不気味な感覚を振り払うために、殊更強く一歩を踏む。真白の焼けるような光が作り出す影は裏腹にひどく濃い。声も何も聞こえなくなったというのに、少年の脳裡に曖昧な感覚が去来する。
 違う。彼らは今も徨の帰りを待っているはずだ。監視下から逃れた現況でおめおめと姿を見せるわけにはいかないが、家に戻ることが出来た暁には、徨を常と同じ笑顔で迎えて抱き締めてくれるはずだ。
 打ち払う不吉の奥から、今度は責め立てる声がする。重なり合った子供たちの泣き声が少年の足を引く。
「化け物」
「ひとごろし」
 徨に首を横に振ることは出来ない。何をも記憶の底に封じたままであれば|知らぬ《・・・》と言えたのやも分からぬが、今や無垢なる時分はとうに過ぎ去ったのだ。蓋の内側から溢れ出した記憶は少年の脳裡に反響し、自らの手が浴びた鉄の香りを呼び覚ます。
 ――あの頃のままでいたかった。
 思うことに嘘はない。真なる幸いの夢に映し出すほどに求めた時間は、しかし他ならぬ徨の手によって破壊されたのだ。
 あまりにも辛い記憶だった。一人で抱えておくには重すぎるそれを、少年の柔らかな胸中は全て深くしまうことに決めた。忘れては思い出し、思い出しては忘れる――不随意に起こる混濁が残す曖昧なさざ波だけがこびり付いていた記憶にようやく手が届いたのは、ごく最近のことだ。
 だが。
 思い出したのは|殺した《・・・》事実だけである。何があって、如何なる方法で――委細は知らない。分からない。或いは。
 分かりたくないのか。
 足に絡みつく泥濘はなお重さを増していた。息が上がって足を引き摺る。心臓の拍動に合わせて起こる頭痛が、否応なしに徨へ事実を突き付ける。
 記憶の海の中に、未だ思い出せていないことが眠っている。まどろみの中の暖かな記憶と幸福の象形ではなく――より深く昏い、夜闇の湖畔の如く冷たいものが。
 そんなものは思い出したくない。これ以上の暗がりに足を踏み入れたくなどない。
 足取りと同じだけ、胸中にも泥が詰まってしまったようだった。上手く息が出来ない。重く垂れこめる曇天の如き心臓が、引き裂かれるように痛い。
 浅い息に任せて開いた唇を閉じる。乾いた凍てつく風が頬を撫でた。
 助けて――と。
 口にしたところで誰もいない。誰もいないのであれば言ったところで意味もなく、同時に誰にも聞き遂げられぬ些細な祈りとして寒風に流されていくだけであろう。
 だというのに、徨の唇が音を成すことはなかった。そもどうすれば助かったといえるのかも、どう助けてもらえば良いのかも分かりはしないのだ。
 だから、進むしかない。
 深く息を吸って吐く。震える吐息はそれでも幾分か胸と足を軽くしてくれた。
 助けを求める先も分からぬのなら、足掻くしかない。フードを深くかぶり直して、少年の足は真白の裡に踏み入れる。

雨夜・氷月


 意識の浮上する感覚は、悪夢を見たときよりは緩慢だった。
 開いた銀月の眼差しに曇天が映り込む。腕に抱き締めていたはずの温もりは乾いた冷たいコンクリートに流れ落ち、雨夜・氷月(壊月・h00493)の身には暗がりの気配だけが纏わり付いている。
 置き去りにされた――ような状況か。重い頭を持ち上げて息を吐く。頬を擽る色素の薄い髪を視界の端に捉えて立ち上がった。
 眼前には鮮やかな真白の誘いが口を開けている。
 疑いも興味も置き去りに、抗う気もなく無意識の一歩を踏み出した。罅割れの上を行く孤独な足音を追うように、暗闇がむせび泣く。
「何故お前だけ生きている」
 肺が軋んだ。
 聞き覚えのある声だ。しかし氷月の頭に像は結ばれない。|どこか《・・・》の|誰か《・・》の曖昧な面影が揺らいで消える。覚えていることがあるとすれば、ただ――。
「何故お前がのうのうと、何食わぬ顔で」
 恨みがましい言葉を、一度ならず聞いたことだけだ。
「お前のせいで――」
 いつのことだったのかも思い出せはしない。幼子の頃であったような気もするし、昨日とさして差のない頃合いだったような気もする。
 どちらにせよ同じだ。
 突き刺すような呪詛は氷月の記憶のほど近くに蟠るのだから。
 ――厄災め。
「化物め」
 役立たずの半端者。人にも成れぬ癖に月の淵から滑り堕ち、化生の道にも染まり切れぬ|まがいもの《・・・・・》。
 斯様な足取りを誰が受け入れる。昼夜を渡り歩くなら、どちらにも真実の居場所など生まれない。この世を幾ら彷徨い歩けど、在るのは所詮、ひとときの止まり木に過ぎぬ――。
 いつの誰の言葉だったっけ――霞がかる脳裡の他人事めいた感傷をなぞる。
 答えは出ない。しかし、もはや具体的な記憶である必要もなかった。
 氷月は光の下で笑い、誰かの隣で過ごすには値しない。
 最初は一人の声だったそれが、足を進めるごとに合唱になる。怨嗟と呪いの裡に立ち尽くして、氷月は茫然と眼前の真白を見詰めた。
 何故――。
 足を踏み出したのだったか。
 何故生きて来たのだろう。自らの心に蓋をして、表面上の享楽を必死になぞって嘘の仮面を貼り付けてまでも。
 記憶の淵からふいに蘇るのは、目を醒ましたときに感じた空疎だった。思えば幾度も凍てついた大穴の空く感覚を覚えて来た。
 一人で手の届くことはあらかた試した。銀のナイフを汚しても、己の力で首を刎ねても、首を絞めても、安寧の眠りは束の間氷月を安堵させるだけだった。目が開くたびに絶望というには浅い落胆を抱えて次の方法を探す。|人間《・・》のやり方が無意味だと理解するのに時間はかからなかった。
 だから。
 真白の光に向けて踏み出す。蹲っていることにこそ意義がないからだ。幾度と繰り返した無意味な命の浪費と変わらぬ。人々を破壊せしめ、悲劇の渦中に立ってただ一人息をする怪物は――消えたりしない。
 数多怪異を解剖せねば。神秘の底までまさぐって、流れ出る血の一滴すら余さず覗かねば。そうした先にしか、氷月が真実己の息の根を止める方法はない。
「アンタ達も其れを求めてるんでしょ」
 人を悲劇の裡に陥れる化生に相応しい死にざまを見せてやらねばならない。
 否定の声は応えなかった。それこそが答えと呑み込んで、氷月の足は前に踏み出す。濁る銀月の光が真白に照らされて、辛うじて薄く煌めきを宿した。
 ――それじゃダメだ。
 幽かな声だった。脳裡に曖昧に結ばれる像を見渡しても声の主が分からない。浅い溜息に不可解の色を載せ、氷月は僅かに俯いた。
「……何が、だめなのかな」
 返答はない。零れ落ちる言葉を拾い上げる者もない。子供めいた疑問の声を自らの足で踏み砕き、男の足取りは光の裡へ呑まれた。

ツェイ・ユン・ルシャーガ


 どうせ全ては醒める夢だ。
 何をしようとも、どう足掻こうとも、やがて結末は訪れる。月に縋れど夜は途切れ、陽に祈れど昼は沈む。そういう意味では現も夢もさして変わらぬ。故に腰を落ち着けたまま、冬のコンクリートの感触が尾を冷やすのを受け入れて、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は曇天に目を遣っている。
 脳裡には美しき夢の残響が揺らめいていた。日の差す森の鮮やかな緑の香りを思い描きながら、耳朶を打つ声に耳を傾けている。
「役目を果たせ」
「済まぬな、果たせぬままで」
「にせもの」
「なにひとつ成せぬくせに」
「ああ、全くじゃの」
 だから斯様な夢を見る。全てが丸く収まって、ツェイが与えられた役割に不足なき力を揮って世に安寧の光を齎す――過去には幾重にも自らを縛り上げて来た願いの集大成を、白花の寝台に映すのだ。
 翻り曇天の現実はどうだ。
 影から囁く声は一つたりとも同じ喉をしていない。老若男女、数多の重なり合うそれは、しかし皆、似たような色を帯びていた。
 あまりの未熟に失笑する嘲りの声音。或いは嘗ての|神《・》と似ても似つかぬ小さな神性の破片への失望の溜息。誰ぞと悪辣な陰口を並べ立てるとき、耳元で交わすに似た囁き――。
「はは、致し方無しよな」
 その全てを、ツェイは笑って飲み干した。
 斯様な声は常から聞いている。確かな形を得たことこそないが、もはや如何に力を得たとて帰り着くことも出来ないのであろう故郷に置き去りにして来た心の一部が、飽きず繰り返す問答と同じだ。吐き戻しそうな質量を呑み込んで笑みに塗り替えるのも、風の如き身の熟しで突き刺す針の痛苦を躱すのも、或いは息もつかせぬ水底に沈めきるのも、いつものことである。
 だというのに。
 叩きつけられた正解があまりにそれらしい形をしていたせいか、今日は肺腑が上手く膨らまない。
 緩慢に身を起こした。自らの足裏が地につけば、成程それだけで幾らか意識が明瞭になった気がする。
 ふと――。
 柔らかく名を呼ぶ誰かの声を聴く。
「申し訳ない、顔も思い出してやれませぬ」
 零す吐息へ|応《いら》えはない。代わり耳朶にはもう一つ、祝福が滑り込む。
「待っているよ。また、いつか」
「――結局、間に合わなんだなあ」
 なぞるコンクリートの罅割れは真白の光に続いていた。脆い世界の理は、いかにしても再会を阻む泥濘の檻となって、ツェイの足に絡みつく。
 別れの言葉が幾つか折り重なった。どれも真白の光のような色だった。
「……然様なら」
 会えはせぬ。届きもせぬ。今や全て、あの夢と同じ過去の裡に去来する思い出の一つに過ぎぬ。積み上げた石を崩し、また一つ積む――やがて差し込む光の眩さに目を焼かれる気がして、ツェイは己が目前に迫った光に瞼を伏せようとした。
 その耳朶を、小さな声が擽ったように思えた。
 夢の中で探し続けた姿と声が、眼前を包み込む朝陽の光の中で、彼の名を呼んだ気がする。いつものような声音の裡に導くに似た色を覚えたのは気のせいか、ツェイの願望であったか。
 どうにせよ迎えに来るのだろう光の中へ、泥濘の鎖に囚われた足が無意識に前に出る。気付けば指先を伸ばしていた。巻きつく過去の重荷は今や男の全てを暗がりに押し留めようとしていたが、縋る声すらも耳に届きはしなかった。
 ただ。
 ――焼き付くような真白の中にいるならば、小さくともきっとよく目立つのだろう漆黒の色が、彼を誘う気がしただけだ。
 踏み出した一歩はひどくよろめいていた。それでも男の手は確かに全てを融かすような真白に触れる。その向こうに何があるのだとしても、双眸はただ、焦がれる小さな声の主を探して光に目を凝らした。

兎沢・深琴


 腕に抱き締めていた温もりのないことで、曇天の下に放り捨てられていることに気付く。
 身を起こしてなお、胸に出来た小さな空疎の形をなぞるように、兎沢・深琴(星華夢想・h00008)の指先は空を滑った。隘路の奥から誘いの如く差し込む真白の光が照らす罅割れたアスファルトの灰色を、どこか曖昧な心地で見詰めている。
 幸福なる夢は終端に達した。しかし余燼は未だ心の裡に燻っている。目を閉じればあの庭園の日差しの中に帰れるような気すらした。だが。
 彼女は自らがここに来た理由を忘れてはいない。誘われているのであれば進まねばなるまい。
 立ち上がった足裏は思っていたよりもしかと地を踏んだ。曖昧な境界が僅かに現実の比重を増す。これならば前に進めるだろう――安堵の息が唇から零れると同時、引き留めるような声が脳裡に滑り込む。
「深琴」
 たとえ如何なる雑踏であっても間違えるはずがない音だった。深琴が泣いているとき、何か厭なことがあったとき、心底から愛した姉はいつも同じように彼女を呼んだ。
「このまま進んでも苦しむだけ。お母さんもお父さんも皆あなたを心配してるのよ」
 いつもそうだったように寄り添ってくれる熱がないことが、ひどく胸を締め付けた。あの頃と同じように寄り添ってくれているような気がする。或いは目の前で、声音と同じような優しさで腕を広げてくれているようにも。
「|深琴《あなた》は悪くない、これ以上傷つかなくていいの。一人でよく頑張ったわね」
 指先が軋むようだった。我知らず伸ばした手は記憶の裡にある姿を探して惑っている。光の中にも、暗闇の中にも見えない優しい笑顔へ問いたいことが、堰を切ったように脳裡に溢れた。
 どうして――。
 何故そうまで優しく引き留めてくれるのだ。
 深琴に悪意がなかったのだとしても、悲劇の引鉄を引いたのは間違いなく彼女だ。可愛い盛りの娘を遺し、愛しい人までも共に奪われたのだから、どれほど仲の良い姉妹であっても恨んで然るべきであるはずなのに。
 これこそが怪異の齎した罠であるということか。それとも、深琴の心底で許しを乞い続けるあの日の己が見せる都合の良い幻聴か。|起きた《・・・》という認識そのものが錯覚で、未だ別の真なる幸いの夢を見ているだけなのか――。
 考えたところで答えは出ない。暗闇を振り返った眼差しは緩慢に瞬いた。
 正体が何であれど、深琴は深く得心している。
 たとえどんな心を抱えていたとしても、姉は決して誰かを責めたりはしない。ただ受け止め包む優しさだけが、彼女を彼女たらしめる長所ではなかった。心の奥に確かな芯を持っている。どれほど柔らかく見えるのだとしても、譲れぬものを真っ直ぐに見据えて背筋を伸ばす強い人だったのだ。
 だから。
 ――だから未だに、彼女は深琴の心の一番深いところで、凛然と立っている。
「だから行くね」
 優しい姉の声から指を引く。きっと走り寄れば抱き締めてくれるだろう。この声は姉の本心を映しているのだろうから。そうしてここに蹲って、涙を零してあの日の悔悟を繰り返せば、撫でる指先は確かに妹を許してくれるのだろうと思う。
 思う――だけだ。
 そうすることを許せないのは、深琴の方である。母が抱き止めても、父が慰めても、姪が笑って頷いても、義兄が手を伸ばしても、姉が許しても、深琴だけはここに蹲ることを許せない。
 姉に恥じない己であるためには、ただ罪悪感に押し潰されて許しを乞う娘であることは出来ない。
「――手のかかる妹で、ごめんね」
 謝罪は柔らかな色を帯びた。未練がましく軋む指を握り込んで、真白の光の方を向く。
 背筋を伸ばす。迎えに来る終端へ、己が足で踏み込んだ。

香柄・鳰


 畢竟人心とは贅沢なものである。見るに堪えぬ歪なパッチワークが眼前に広げられていたときには目を逸らしたくて堪らなかったというのに、いざ仕舞われてみれば心の表裏に爪を立てられたような痛みが走るのだ。
 開いた目は焦点を結ばない。ぼんやりと歪む輪郭にも、ビル群の間に光一つない曇天が広がっているのは見て取れた。
 己が勝手に自嘲の吐息を零しながら、香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は緩慢に身を起こした。無意識に腰元へ触れる手が鈴を鳴らす。得物の感触が掌に冷たく感ぜられて初めて、肩の力を抜いた。
 見据える眼前には鳰の目にも分かるほどの光が差し込んでいた。誰もに分かりやすいお誂え向きの順路を進むのは、まるで見えている策謀に乗っかってやるようで業腹だ。とはいえ、迅速に問題を解決するためには最短の道を進むのが最善である。
 よしんば罠であっても――いつものようにやれば良い。
 定めれば揺らがぬ少女の歩みを咎めるように、耳元に声が囁く。問い掛けに載る色は甘く、同時にいたく鳰を思い遣っているようでもあった。
「いつまで歩くの」
「果てまでよ、姉さん」
 先の夢で隣に聞いたその声が、今はひどく悲しげな色を帯びている。ただの平和な世界の少女で在れなかった彼女の嘆きは妹を撫でるように続くのだ。
「もう十分ではないの。あの時に身を挺したのは、この様な戦いに明け暮れさす為では無かったのに」
 ――分かっている。
 姉は咄嗟に鳰を庇った。愛する妹の命が尽きせぬように、最も安全な場所へと突き飛ばしたのは、彼女にいたずらな苦しみを与えるためではなかった。
「独り立たせ続ける位なら、あの時一緒に連れていけば良かったわ。今になって後悔してる……」
 髪を優しく梳くような声に溜息が零れた。進まんとする足を泥濘に絡め取られている。もしかしたら――。
 斯様な怪異の児戯でなくとも、姉が今の鳰を見れば、同じように嘆きを零すのかもしれないと思う。
 自ずから死を纏う人に傅き、命しらずの鈴を鳴らして戦地を馳せる。見ぬように蓋をした視界を補うすべが彼女の命に肉薄する銃弾を生むことすらも知らぬげに、少女の身には余るであろう大太刀を以て心持たぬ機械どもを斬り伏せる。
 姉が最期に望んだ姿ではないだろう。
 叶うのであれば暗闇に身を投げたいと、いつでも頭の片隅に囁く己の声がある。今すぐにでも踵を返し、死の淵へと手を伸ばし、そこにあるはずの嘗て愛した面影を抱き締めたい。いつか、眩む閃光に霞んで揺らぐほどの過去にそうしてもらったように頭を撫でて欲しい。
「それでも、私は遺ってしまったから」
 遺されたならば、遺されたなりの使命がある。
 たとえそれが死者に望まれていないのだとしても。鳰の足を支える脆い杖にすぎないのだとしても。全てを焼き尽くす閃光の裡より生きて戻ってしまったのならば――最期の一滴までも燃やし果たさなければ、何より鳰が得心いかない。
 穏やかな湖畔のひと時は、忘れかけていたものをいつでも思い出させてくれる。死に愛され死を愛し、鳰が心底から命を捧ぐに足ると判じた主は、彼女のことを鷹揚に受け入れてくれる。
 それこそ、真なる幸いの夢の裡に、今ある日々を喪わない幻想を抱いてしまうほどに。
 見えぬ目が見えよとは願わぬ。会えぬ者に蘇れとは祈らぬ。あの歪な夢は、今や距離を置いても魅力的には思えぬが――。
 一時の穏やかさを思えば、今傍に在る大切な人々の顔すらも、僅かに近しく鳰へ笑いかけてくれているような気がする。
「ふふ……やぁね」
 嫌がりながら結局大事に抱えてしまうとは。
 零れた自嘲は先より軽く柔らかい。同じ足取りで光に迷いなく踏み入って、鳰は閃光に目を開いた。

黒野・真人
櫂・エバークリア


「起きたか」
 まず最初に目に入ったのは、共犯者の常と変わらぬ口ぶりであった。
 瞬く黒野・真人(暗殺者・h02066)の表情は、櫂・エバークリア(心隠すバーテンダー・h02067)から見れば酷いものだった。揺らぐ感情の一つ一つを呑み込むことも出来ぬまま、真人の唇は思わずと心の裡を紡ぐ。
「……どうせならもう少し……」
 視線は照らし出されるアスファルトの罅割れをなぞる。それ以上の声が零れるのを寸でで飲み干し、真人は深く溜息を零した。
 ――分かっていて斯様な弱音を零すわけに行かぬ。両手で思い切り叩いた己の頬に走る痛みが幾らかの正気を引っ張って来てくれた。瞬いたのちに櫂を見上げる表情は、先よりはましになったろうか。
 真人の思惑に違わず、共犯者は常の調子で笑う。
「そういうとこも二人だから出来る事だ」
「だな。アンタいたら現実ってわかっから」
 櫂にしてみればただ眠りに就いて、特別|善い《・・》ともいえぬ目覚めを迎えただけだ。だがどうやら漆黒の共犯者の方は随分と厭な寝覚めを迎えたらしい。
 何を見たのか――とは訊かない。
 無為に踏み込んでも互いに損をするだけだ。生憎と寄り添い合って傷を舐め合うことにはどちらも向いていない。揺さぶられた心を吐露し合って何が変わるわけでもないなら、今は先に進むことが先決だ。
 軽やかに立ち上がった真人が眼前の真白を見据える。唇は拍子抜けとも警戒ともつかない声色を零す。
「ココも戦闘ナシか……」
「みたいだな。さて次は何が来るか――」
 目配せのための一瞬で、互いの姿が掻き消える。

 ◆

 けど油断しねえで――。
 続くはずだった言葉は声に載らない。まるで融けるように隘路の闇へ消えた隣の男を探すより先に、真人の指先は刀を抜き放っていた。必要以上に警戒を露わにすることはしない。しかし気配があればすぐにも斬りかかれるよう、指先にだけは力を込めた。
 怪異の仕業か、路地そのものの異能か、どちらにせよ異常だ。
「長様……どうして起動しないのですか?」
 櫂の声の代わり、耳朶に滑り込むのは聞き慣れたものだ。惨劇を唯一生き延びた本家の娘の、感情が載らぬ音が確かに暗闇から響いて来る。
 だが――。
 真人の眼差しが動揺することはない。これは|るな《・・》ではないのだ。彼女は何も知らずに生きている。何も知らずに生きていけるように、真人が命じたのだ。
「オレは絶対やらねえ」
「しないなら殺せば良いでしょうに」
 淡々とした声が尚も|長《・》の背をなぞる。今や唯一全てを知る真人にとってすら、未だ呑み込むも悍ましいような理由がある。
 蟲毒のようなものだと、言葉にしてしまえば軽い。全ての終わりは長の一太刀でなければならない。己と同じ遺伝子を孕んだ血に塗れ、最後の一人を貫いて、|起動《・・》してしまえば――。
「どっちもやんねえよ」
 意を示すように刀を仕舞う。すげなく背を向けた彼は、真白の光を睨みながら、振り返りもせずに吐き捨てた。
「アイツには何の力もねえ……失せろ!」
 ――それで良い。
 今や長となった真人こそが取り決めたことだ。ただ二人だけの血族の、それも片方は分かりもせぬ、無意味な決定ではあるが。
 長の定めた掟とあらば従うが道理であろう。
 幻影を振り払う。同時に、闇の裡に色を見た。

 ◆

 僅かの合間に姿が消えている。
「次はそういう感じな」
 零した声には静寂が戻るのみだ。とはいえじきに合流出来るであろうことは想像に難くない。ともあれこちらはこちらで先に進んでおこうかと、櫂の足が一歩を踏み出す。
 闇は今のところ蟠る闇の他に意味を孕まない。殺意も気配も漫ろめかない暗がりに、必要以上に警戒心を向けることもないだろう。ごく自然な仕草で歩む男の足を、ふと声が呼び止める。
「……誰だ?」
 |応《いら》えはない。
 今まで隣にいた共犯者の声ではない。常連客の声でもない。まして夢の中に見た彼女が発した声色とも違う。ならば誰か――記憶を探れどそれらしい答えが見付からず、そうしている合間に意識は声に傾いていく。
 しかし何を言っているのかすらも定かではない。
 飽きるほど手に掛けて来た者どもの怨嗟が渦を成しているといわれれば、成程確かに罵声に聞こえよう。しかし同時に、記憶の中にすらない親の掌が与えてくれる優しい言葉だといわれれば、斯様にも取れる声であった。
 あらゆる感情を読み取ろうと思えば、それに応じた感触を得られる。言葉の一片すらも読み取れぬ、老若男女の重なり合ったような雑音がいやに耳を刺した。
 何も分からぬ。
 ――櫂が空っぽであるからか。
 浅く息を吐いた。突き付けられる刃の鋭利さに怯えたことは、思い返せる限りの記憶では一度もない。それが胸の空洞へ向けられているのだとしても、同じことだ。
「まぁ、相手はしねーけどな」
 歩みを緩めることはしなかった。代わり煙草に火をつける。燻る紫煙を眩む真白の光ごと深く吸い込んで、吐き出した先で――。
 光の方に、漆黒の色を見た。

 ◆

「おせーぞ。行くか?」
 ――やはりこちらが現実だ。
 全ての声は互いの耳の裡から遠ざかっていく。静寂の戻った隘路にようやく互いの姿を視認して、肩の荷が降りたような心地になるのも殆ど同時だ。
 此度、共犯者を僅かに窺うように見たのは、真人の方であった。
 己の心は揺らいでいない。だが櫂の表情はまるで起きたときの己を鏡映しにするようだ。何を聞いたか問いたいような思いも去来するが、今は斯様なことをしている場合でもないし――。
 心配一つで無遠慮に心に踏み込むつもりがないのは、真人も同じだ。
「わりぃ、けどブチ抜いてきたぜ」
 代わりに揺らがぬ声で続ける。ますます遠のく声は櫂の裡より抜け出て、凍てる風に融けて流れていくような心地がした。
 現実だ。
 互いの声が一番よく聞こえるから。
「報いは受けて貰おうぜ」
「そうだな」
 並び立つ影はもう消えない。互いの足取りを頼りに、真白の光へ手を伸ばす。

日宮・芥多


 全く運の悪いことに、日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)の夢は永劫夢のままに鎖された。
 不運とは重なるものであろうか。柔らかな花を蹂躙する寝台は消え果て、代わりに背には冬の冷気に凍てつくアスファルトの硬い感触がある。重く垂れこめた曇天には光の一片も差し込みはしない。
 実に陰気な路地裏である。
 或いはこれも未だ夢の続きであろうか。どちらにせよ関係のないことだから、芥多は迷いなく体を起こして、適当に裾を払った。目の前を見据えれば、暗闇の隘路に相応しくない、目も眩むような真白の光が煌めいている。
 向かえば良いのだ――ということはすぐに分かる。
 お誂え向きの順路の向こうは真白に包まれてよく見えない。芥多が連想したのは、走馬灯の先にある静かな眠りへ至るための、ほんの僅かの無痛であった。あの光の向こうには俗に涅槃だの天国だのと呼ばれる暖かな楽園か、或いは地獄と呼ばれる永久の奈落が広がっていることだろう。
 では成仏しに向かうか。
 男の足は軽やかに前へ出る。死のうが生きようが夢だろうが現実だろうが、芥多に意識が続き、地に足がついている限りはさしたる差異なぞありはせぬのだ。
 ふと――。
 隘路の後方から声がした。
「行かないで」
 先まで夢の裡に聞いていた、忘れもせぬ愛しい人の声だった。
 斯様な声を聴いたのは何度目だろうか。少なくとも笑い声よりはずっと少ない。芥多は|ゆりちゃん《・・・・・》の涙が嫌いで、笑う顔が好きで、愛しい頬に傷のつかないようにすることに――ともすれば、|それだけには《・・・・・・》――必死になって来た。
 だから、これほど芯から嫌がって、止めようとするときの声音を聞いたことは殆どない。
 僅かに視線がぶれる。鈍く照らされるコンクリートの罅割れを辿った先、背に迫る暗闇の中に聞こえる声の本当の主を思えば、もはや揺らぐ意味すら失った心に一片の惑いが生ずる。
 だが。
 いるはずがない。祈りも願いも取り返しのつかぬ事実を前には無駄な足掻きに過ぎぬ。怨敵を仕留めたところで墜ちた花は戻らぬ。まして死者は口を利きはせぬのだから――。
 これは幻聴だ。
 分かっていてなお軋む胸は、唯一の花の意志を無視して光を目指すことに一抹の罪悪感を覚える。ましてそれがこれほど悲痛で切実なものであれば猶のことである。今や洞の如く空いた胸中に感情の棘を差し込める者があるとすれば、記憶の裡にしかない笑顔だけだ。
「やめて、もう止まって」
 ――前に進む足に溜息が絡む。先からずっと聞こえ続ける声に反して、眼前の光には近付いているような気もしない。進む隘路に比べて出口が明るすぎるせいだ。遠近の感覚が狂っているのだと、冷静な脳裡は理解している。だがいつまでこの幻聴と付き合わねばならぬのだ。誰より聞きたかった声の、最も聞きたくない色が、必死に男を止めようとしているのに。
 折角聞こえるのであればもっと暖かなものであれば良いものを。ほんの一言でも、あの頃の優しくて穏やかな、芥多が最も聞きたかった色で笑ってくれれば良いものを。
 最期に伝えておきたいことがあったのではないか。再び永劫の別れへ立ち返らねばならない男に、何か遺しておく言葉もあったはずだ。彼女はそういう人だったから。許されるならば、斯様に悲痛なものでない、祈りが聞きたい。
 ありがとう――というだけでも良い。さようなら――でも構わない。ただ一言でもありさえすれば、芥多はこの身が尽きて永劫手を取り合えない場所に逝くことになったとしても、それを杖に百年なぞ光陰の如く乗り越えて待てる自信があるのに。
 暗闇の向こうで呼んでいる彼女の幻聴は結局、芥多の欲しかったものは何一つくれなかった。怪異の呼び起こしたものなのだか、或いはただ隘路に用意された仕掛けをたまさか通っているだけなのだかは知らないが、所詮は幻聴に過ぎぬくせに都合の良いもの一つ用意はしてくれない。折角幸いなる夢を見せて来た割に、肝心なところで何一つ気が利かぬ。
 まあ――仰いだ曇天に光はない。
 致し方のないことでもあろう。花は悲鳴すら許されず切り落とされて、美しい門出を飾るはずだった真白を深紅に染め上げて枯れたのだ。芥多は彼女が最期に言い残したかった言葉を知らないし、たとえこの先に進んだところで知ることは永劫ない。
 所詮幻聴であるならば、男の脳裡にあるものの他に見て取れるものもないだろう。過去の再訪に過ぎないものに、見知らぬものを期待するのは無駄だ。
 空気はこれほど凍てついているのに、見上げた空からは雪の一片すら舞い降りはしなかった。泣き崩れそうな曇天はじきに真白の光に呑み込まれていく。乾いた頬を伝う冷えた温度の一滴すらも、降り注いではくれない。
 実に――。
 運が悪い。

冷嶋・華子


 あの光の向こうには、己の求めるものが広がっているのだ。
 冷たいが|つめたく《・・・・》はないアスファルトの罅割れと、生ける者の気配の一つもない暗闇の裡である。後方に迫る馴染みある暗闇の感触を知りながら、冷嶋・華子(つめたい・h03803)は茫洋と、眼前に煌々と煌めく真白の光を見詰めている。
「……――眩しい」
 まるで目を灼くようだった。どうしたところで人倫とは相容れぬ心と体には似つかわしくもない。だというのに、差し込んだ光に目が眩む。その向こうにあるような気がする幸いの夢より都合の良い幸福が、華子の裡を絡め取るようだ。
「螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>螯ャ縺セ縺励>」
 しかし彼女の足は前には出なかった。誘う輝きを茫洋と見詰める。曖昧な確信は女の心を渦巻くが、体は思うがままに走り出しも、無邪気に指先を伸ばしもしなかった。
 出来なかった――という方が、正しいのかもしれない。
「豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ豁サ縺ュ」
 暗闇の鎖が足を繋いでいる。泥濘の如く纏わり付くそれの主は闇の中で絶えず声を上げている。人には決して意味ある言葉と聞き取れはせぬだろう、怨嗟とも呪詛ともつかぬ、刺すような声だ。
 やがて体に絡みついて来た蟠る闇が、背後の暗がりの裡から華子のことを見詰めた。
 振り返る必要はない。
 彼女には、それが何なのか、疾うに分かっている。
「谿コ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺――」
「……そんなに囀らなくても、何処へも行かないわよ」
 真白の指先で触れた蟠りは、無秩序に絡んでいたとは思えぬほど指通りよく解けた。一本一本を見れば何らのことはない、まるで鎖の如く伸びる黒い髪を見詰めている。
 暗闇からこちらを見詰める針の如き眼差しは、きっと血に汚れているだろう。温い命の残滓からさえ触れた端から温度を奪い、|つめたい《・・・・》体で華子を見ているのだ。
 |■■■■■■《かつてのはなこ》は、そういうものだった。
 存在――というのが最も近しいのだろうか。生きてはいない。死んでもいない。災厄は|在る《・・》が故に全てを破滅せしめ、人類に牙を剥く。たとえばその性質に歯止めを掛けるような、人が理性と呼ぶような葛藤が存在しえないのだとしたら――。
 獣よりも性質の悪い、呪いに過ぎぬ。
 暗闇の中から華子を引き留めるのはそういうものだった。与えられた本能に順じ、何らの迷いも疑問もなく人類へ敵対する。或いは|敵対《・・》すらしていなかったのかもしれぬ。ただ赴くままに、衝動を世に解き放っていることが、人にとって直視すら悍ましい結果を齎しただけで。
 華子は|これ《・・》から逃れ得たわけではない。身を縛る闇の如き髪の鎖と同じだ。心の奥底に押し込めて蓋をして、見えぬように必死に目を逸らしているだけだ。目を凝らせど見えぬ暗闇の中に厳重に仕舞い込んだ|それ《・・》が、隘路の暗がりにふと鍵を外して現れているに過ぎない。
 だから。
「……光の先に何があるにしたって、わたしには過分だわ」
 斯様な代物が心に渦巻いている。
 実際、あの光の向こうにある華子にとっての美しき未来が何を示しているのかさえ、ぼんやりと歪んで明瞭にはならない。
「弁えてるわよ」
 |光《ゆめ》が|災厄《はなこ》としての|宿願《ほろび》であるなら、そんなものは叶うべきではない。理解しているから幾度も蓋をした。溢れそうになるたびに鍵を変え、触れ得ぬなりにも今あると分かる温度を確かめることで、奪ってはならぬと噛み砕いて来た。
 或いは。
 もっと別のものならば――余計に叶いはすまい。
 逃れ得ぬ|つめたさ《・・・・》が華子の邪魔をする。伸ばした指先は温度を奪い、誰もを傷付ける凶器だ。無機物としか安心して触れ合えぬ手に黒い髪が纏わり付く。|これ《・・》がある限り――もしかすればなくなったとしても――彼女が彼女でなくなりでもせぬ限りは、仄かな夢を現実に投影することなぞ出来はしないのだ。
 理解している。
「……身の丈に合わない希いや夢なんて、持つべきじゃない、なんてことくらい」
 華子は災厄である。
 たまさか理性の軛を得て、人間に友好的であるからと人の社会の中にいることを許されているだけの、悍ましき存在に過ぎぬ。どれほど自らの存在理由に蓋をして人の隣に生きたとて、見下ろした隘路に彼女を誘い込んだ存在と、根本を違えることは出来ないのだ。
 光は彼女を迎えに来る。影の鎖に縛られたまま、囀り続ける呪の元から歩み出すことも許されぬ、|つめたい《・・・・》体を。
「…………嗚呼、眩しいわね」
 解けてしまいそうなくらい。

ツェツィーリエ・モーリ


 目を醒まして、まず腰の刀に手を添えた。
 暖かな夢の名残を打ち払うような寒気が体に纏わり付いている。曇天からは一片も降り注がぬ陽光の代わり、ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)の視界を迎えたのは、隘路の先から差し込む真白の光であった。
 お誂え向きの順路である。立ち上がりながら抜き放った刃の冴え冴えとした煌めきを横目に、女の足は用意された出口へ向かって一歩を踏み出した。
 ――刹那に声がする。
 老若男女の入り混じった、声ともいえぬ声だった。必死に命乞いをしている。死にたくない。救いを天に祈っている。誰か助けて。逃れ得ぬものから逃れるために泣き喚いている。嫌だ怖い。呻く声はまともに聞こえない。痛い苦しい。
 やがて全ては|反転《・・》する。
 生から死へ。この世の絶対の摂理を以て不可逆の終末の訪れが、全ての声を呑み込んでいく。
 意味のある言葉は絶叫と咆哮に掻き消える。引き攣った驚愕の声は恐怖の吐息と悲鳴に変わった。乞うた救いは苦痛に歪み、生を乞う声は切迫したものへ変じ、やがてそれもまた空を裂く断末魔になった。
 遺るのは――。
 静寂の中に立つツェツィーリエ独りである。
 襲い来る幻聴は止まない。まるでそれが彼女の抱いた原初の罪だと突き付けるが如くして、波の如く繰り返し隘路に反響する。
「やめて」
 我知らず塞いだ耳の裡に絞り出すような声が響いた。内耳を蹂躙する見知らぬ人々の断末魔は、|その日《・・・》の克明な記憶を押し留めるように、女の裡から湧き出でる。
 ――人が好きだ。
 だから己を役割の檻に閉じ込めた。人の傍に在ろうと考えた幼い怪物の拙い試みは、存外に優しく世界に受け入れられた。人は護られるべきだ。己に封ぜねばならず管理せねばならぬほどの力が在るのなら、それらは全て人を護るために使い果たされるべきだった。
 だから違う。こんなものは知らない。ツェツィーリエの裡にこんなものはあってはならない。|メイドさん《・・・・・》は|これ《・・》を生み出した化け物を絶つべき者で、断じて|これ《・・》を齎す者ではない。
 ツェツィーリエは人の味方だ。人には混じれずとも、人の善き隣人として傍に控える|メイドさん《・・・・・》だ。たとえどんなにそれが■■■ても――。
 ――ほんとうに?
 ついた膝の向こうに影が蟠っている。動くことのない暗闇の、全てを呑み込むような漆黒は、ツェツィーリエに与えられた最初の愛の色をしていた。
 自らの力で完全に制御することの叶わぬ権能はこの色に打ち払われた。やがて差し伸べられた手が纏っていた同じ色が、ツェツィーリエを|人《・》にしてくれた。藤色の燈火を常に隣に携えた影の色を、彼女は。
 災厄は憶えている。
「これが、わたくしの最初の罪なのですね」
 まるで罪人の如く茫洋の海の名を与えられ、番号を振られた理由だ。
 得心の溜息が虚しく隘路に融けた。凍てつく気配は馴染み深い死を連れている。未だ夜ではないというのに、身が冷えていく感覚がいやに不快だ。
 得た名前の意味すら分からぬ年頃の、ほんの小さな娘が犯した大いなる罪が、内耳の奥で呻いている。人間の隣で生きることすら出来ない化け物が、やがて彼女を人の隣にいられるようにしてくれた二人の男女によって柔らかな心を手に入れるまでの、ほんの短い間に呼んでしまった取り返しのつかない禍いだ。
 己の手が無邪気に触れたばかりに壊れてしまったもののことを、思わぬわけではない。
 さりとてそれがツェツィーリエの足を泥濘に絡めとる理由にはなり得ない。過去を幾ら悔いたところで戻りはせぬことを、彼女は知っている。それよりも顔を上げて前を見なくてはならないのだ。幾度祈り願ったところで、同じ轍を踏むのであれば何らの意味もない。
 彼女は二度と怪物にはならない。
 愛しいものが傍に在る。一度得た幸福を捨て去れるほど、愚かでも自棄でもない。斯様に悍ましき結末が世に再び齎されることのないように、彼女は己の■を律した。|メイドさん《・・・・・》の軛で自らの在り方を縛り、与えられるには過ぎたるほどの美しい居場所を守るために剣を取ると決めた。
 だから。
 ――伸ばそうとした指先に力が入らないのが何故なのか、ツェツィーリエにすら分からない。
 掌は無力にアスファルトの罅割れをなぞった。いつの間にか取り落とした刀が真白の光に煌めいている。ほんの少し足を動かして手を伸ばせば、すぐにも彼女の|人を護る力《・・・・・》は手許に戻ってくるはずなのだ。
 分かっている。全て理解している。己が何か、災厄と呼ばれるに値する、覚えのない罪を背負っていたことすらも。
 ならば何故。
 立ち上がることすら出来ずに、影に蹲っているのだ。
 真白の光が災厄を迎える。やがて迫り来る光に、悲鳴も恐怖も断末魔も呑み込まれて、消える。

ララ・キルシュネーテ


 幼い頃に聞いた子守歌が、今は歌詞まで確かに思い出せる。
 上機嫌な鼻歌と共に小さな真白の聖女の足取りが弾む。曇天に差し込まぬ日差しの代わり、凍てつく隘路を照らし出す前方の光の方へ、ステップは舞踏に似た柔らかさでアスファルトを踏んだ。
 ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の前から夢が消え果てても、彼女の裡には確かな温もりが残っていた。
 夢らしい夢を見るのも思えば久方ぶりのような気がする。それが今もなお彼女の体に温度を纏わせてくれるような幸福に満ちたものであれば、猶のことだ。母の膝の上に座る感触をつぶさに思い出せる。頭を撫でてくれる指先の体温は今もララの髪を梳いてくれている気がする。
 ほんの幼い頃に別れたきりの――そうだとしても忘れ得ることの出来ない家族の声と記憶は、繋ぎ止めておきたいと思う心と反して、ララの裡から驚くほど簡単に零れ落ちてしまう。褪せて遠退いたそれらを満たされて、可惜夜の翼が上機嫌に光るひとひらを踊らせる。
 スキップは軽やかだ。与えられた|擬態《あい》の証を揺らして光めがける迦楼羅の雛女を、ふと呼び止める声がした。
「待って、桜樂」
 まるで走り出した気儘な幼い娘へ縋るよう。柔らかな女の心配げな声音に続くのは、同じ年頃の男の穏やかな忠言だった。
「そちらに行ってはいけない」
 ――ママとパパの声かしら?
 思えばそう思い込むものであろうか。ララの内耳に反響する声は、すっかり彼女のよく知る愛しい色を帯びてしまった。
「危ないから、こっちにおいで」
 二人分の声は心底娘を心配している。家にいたときと寸分たがわぬそれに、思わず唇から小さく笑みの吐息が転げた。
「桜樂、足を止めて。振り向いて」
 名前を呼ぶ声は未だ少年のようだ。ララが大きくなったのだから、兄もまた同じだけ大きくなっているのだろう。果たしてどんな姿をしているのだか、幼い頃に一緒にはしゃぎ回った思い出の他に今を知らない彼女には分からない。
「先に行かないで」
 少女の声色で焦るのは姉だろう。彼女と最後に会ったのも、未だ幼いララにしてみれば遠く昔の出来事のように思える。
 どれもこれも彼女の足許に蟠った。愛しく優しい声音と裏腹に、泥濘の鎖のように絡みつく。
 これでは弾むようなステップは踏めない。しかしアネモネの眼差しは真っ直ぐに眼前の光を見詰め、踏み出す足は鈍らなかった。
 立ち止まるのは――。
 簡単なことだ。人々はいつもそうして項垂れていた。超常に縋り、血と争いを生み、|聖女《ララ》に跪く。花冷えの気配は容易に胸裡に滑り込み、恐ろしいほど熱を奪っていく。
 恋しい。
 振り向いて駆け出したい。逢いたい。かえりたい。両腕を広げて小さな娘になって、思う存分に櫻色の愛を抱き締めたい――。
 夢の中に取り残された心の一片がささめく。少女の心が暗闇の声に後ろ髪を引かれている。だが。
 ぬいぐるみを強く抱き締めた聖女は、振り切るように駆け出した。独り招かれた樂園に君臨しながら、彼女はそうして進んで来た。進んで来て――しまった。未だ真なる空を知らぬ未熟な翼のままで暖かな巣から転げ墜ち、救世に届かせるには小さな掌の雛女は救うべきものを見付けたのだ。
 だから赦されない。ただの娘に戻ることを、ララが許しはしない。小さな体に不相応の誓いを宿したまま、聖女として上だけを見ているのに疲れ果てたとき、与えられるほんの少しの追憶に身を委ねて目を閉じることは受け入れられても――。
 立ち止まってはならない。足を進めなければ前にあるものは掴めない。蹲って誰かに何かを与えてもらうことを祈るのは、いつか成る迦楼羅天に相応しくない。
 だから。
「いいえ。ララはいくわ」
 脳裡を埋めつくす愛しくて優しい家族に、首を横に振って毅然と前を向く。
 彼女の前に道はない。ララはいつでも先駆者だ。立ち並ぶ茨を切り落として、小さな足で軽やかに踏みしだいた地にこそ道が出来る。皆を導く道の最果てにこそ、やがて至るべき救世の誓いが叶うのだ。
 ほんの僅かに細めた目に笑声が載る。思えば別れ一つ告げるすべがないままで、ここまで歩いて来てしまった。心の裡に残された少女の未練を、柔らかな桜樂の声が紡ぐ。
「いってきます」
 ――行くのは光の下ではないけれど。
 ララこそが光だ。曇天の隘路一つも満足に照らせぬ真白の光芒などではない。この世の遍く全ての影を取り払い、真なる樂園にて救済を成す迦楼羅の鮮やかな光が、ララなのだ。
 今もまだ心配してくれているのだろう愛しい声たちを、遠退いても覚えている。くれた温もりは色褪せても、確かに心に宿っている。彼らのくれたものに相応しく、憂いを打ち払う――光になる。
 零れる光のひとひらが踊る。春疾風が一筋、真白の光を目掛けて現を駆けていく。

ケヴィン・ランツ・アブレイズ


 運命の号砲が、狭い隘路に轟いていた。
 一片の光も舞い込まぬ曇天が重く垂れこめている。まるで|故郷《まち》を焼いた炎が立てる煙のようだ――目を眇めるケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の裡に過ぎるのは、抱いた夢と幸福の終わりを告げる日の記憶だった。
 大切なものが指先をすり抜けるのは一瞬だ。そしてそうなる日を知り得る者は誰もいない。少なくとも、大地を踏みしめて生きる者の中には。
 自らの足となる存在を与えられたのは、正騎士の誉を受けて四日目のことだった。正式に騎士団に配属された者が皆通る儀だ。厩舎の中にいた数多の馬のうち、ケヴィンが導かれるように触れたのは青毛の牝馬であった。
 指先に懐く柔らかく美しい毛並みにどよめいたのは騎士団の面々の方だったのを覚えている。聞けば彼女はいたく気位が高く、乗せるどころか触れることさえ許さぬという。それゆえ、厩舎のうちでも一、二を争うほどの遠乗りの資質と俊足を持て余していたそうだ。
 しかし指で触れた刹那のケヴィンの確信に違わず、牝馬はいとも容易く彼に背を預けることを選んだ。理由は分からずとも互いに通じ合う心へ口を挟む者はない。寧ろ彼女の手綱を握る相手が生まれたことを喜んでいるようだった。
 幾ら息が合うといえどもそれだけでやっていけるほど甘くはない。馬の持つ資質を十全に引き出すのも騎士の力量のうちだ。ケヴィンを相棒に選んだ彼女の賢い性質もあり、乗馬にも幾らか慣れた彼は、幾らか遠くに足を伸ばすことにした。
 前評判通り、牝馬は自慢の体力で以て彼を遠くに連れ出してくれる。この分であれば遠乗りも問題なく熟せるだろう――と確信した直後のことであった。
 昼食にと持参した食事を終えた折だった。お誂え向きの木陰へ身を預けていたケヴィンの前で、ふと牝馬は何かに気付いたように顔を上げた。
 首を巡らせた彼女の異状にはすぐに気付いた。よもや不調かと立ち上がった青年の首筋を頻りに引いて嘶く。どこか焦るような調子で背へ誘っているのは明白だった。
 それが何であれ――。
 少なくとも、彼女は何かを感じ取っている。聡い牝馬の懇願に違わず、ケヴィンが背に跨った刹那、手綱を引くや否やに彼女は走り出した。元来た道を全速力で駆け抜けるさまに、男の裡にも驚愕より深く強い焦燥がこびり付き始めた頃、最悪の不安を確証に変える色とにおいが彼の知覚に纏わり付いた。
 空は鮮やかな朱に燃えていた。
 立ち昇る煙が地を埋め尽くす火を映し出し、重く垂れこめる曇天の如き灰色を燃やしていたのだ。
 夥しい血の香と、それすらも燃やし尽くすような肉と建材の焦げたにおいが混じり合う地は、既に故郷と呼ぶことも出来ぬありさまへ変じていた。人々の気配は途絶えている。血溜まりに転がる骸は焦げ朽ちて、代わりに未だ飢えたる魔物どもが徘徊する。護るべき人々を背負いながら懸命に戦ったのであろう|騎士団《どうほう》もまた、圧倒的な物量によってか堅牢な鎧を割られ地に伏しているのが見えた。
「ケヴィン!」
 あの日に聞いた悲鳴が、男の足を絡め取ろうとする。
 将来有望な騎士が戻って来たことに、同胞は安堵したようだった。しかし同時に悔しげな表情をも見せたのは、きっとケヴィンを慮ってのことであったのだろうと思う。
 逃げ惑う人々や瓦礫の下で呻く声を救おうと、残った騎士団の面々と共に、青年は迷いなく得物を抜き放った。
 しかし――。
 経験も覚悟も足りない新米騎士の奮戦も奔走も、虚しく火と波濤の如き魔物の群れに呑まれた。
 誰のものかも分からぬ血に伏したケヴィンの耳には何も聞こえなくなっていた。彼自身の生命が途切れる直前の静謐だったのか、或いは護ろうとした何もかもが真実永遠の眠りに沈んだのか、もはや知るすべはない。
 これで――終わるのか。
 始まるはずだった前途が死の暗闇に鎖されていく中、何を思ったのかも曖昧だ。千々に引き裂かれていく思考が今にも止まる刹那、不意に大きく脈打った心臓に、竜の息吹が燃え盛った。
 |総て碧《アルグレーン》。
 罰され堕ちてなお燃える炎の如き魂が、生まれ変わった人の身に宿り、そしてその身を食い破る。
 若き竜は覚醒の咆哮を上げた。高らかな宣誓だった。唐突に現れた至強の存在に怯える間も狼狽する時間もなく、魔物どもは火を纏う吐息によって薙ぎ払われて――。
 次にケヴィンが目を開けたときには、何一つ残されてはいなかった。
「……あれが、俺の目醒めってやつだったンだなァ」
 失ったものの感触を確かめるように掌を握る。自らに宿る竜の力と記憶の断片を取り戻しながら、彼の心には人として過ごした幸いの形も、抱いていた幼い夢も宿り続けている。亡くしたものの重みは確かに若き竜の双肩に刻まれている。
 生き残った。
 呪禍であろうか。或いは祝福であろうか。どちらにせよ、記憶は旧懐の痛みと亡失の苦しみを宿してケヴィンの裡に宿っている。決して忘れてはならぬものとして、背負うべきものとして――。
 青く燻る空を見上げ、己を取り戻した竜は識った。
 |ニンゲン《・・・・》には覚悟が要る。ただ一歩を踏み出すことにさえ纏わり付く鎖の如きそれを引き摺りながら、彼らは愚直に光を見据え、愛しい過去の呼び声を背負って前に踏み出す。
 嗤う気にはなれなかった。
 ケヴィンが心に宿した竜の魂の代わり、非力な体が持つ力だ。強大な竜には覚悟なぞ要らぬ。強き力を揮えるならば、震える手で武器を握る必要なぞないからだ。最初から堅牢な鱗で総てを弾けるならば、苦しむこともないからだ。
 だから――。
 だからこそ|ニンゲン《・・・・》の心には、覚悟と呼ばれる輝きが、いっとう強く宿るのだろう。
「この不器用な生き物にとって、最後の光、一番の可能性となるのかもしれねェなァ」
 幽かに笑う吐息には、強大なる力の残滓を纏う者の声が載る。踏みしめる一歩は過去を振り切りはしない。足に纏わり付くそれごと踏み出したケヴィンの足は、やがて真白の光に触れた。

久瀬・彰


 眠りから醒めた後の倦怠感との付き合いも、思えば長くなったものだ。
 起こした体に纏わり付くそれをいなし、夢の残滓を拭い去る。立ち上がる足に気怠さの気配はない。久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)にとって、慣れ親しんだルーティンである。
 用意された順路に逆らう気はなかった。夢の淵から叩き落とされるように目覚めるのも、下がった心拍が徐々に上がっていく感覚も呑み込んで立ち上がるのも、職業柄よくあることだ。
 ――迷いなく差し込む光の方へ歩き出す服の裾を引くように声のすることだけが、常と異なっていた。
「██■■」
 |ととさま《・・・・》の笑ったところを、少年は殆ど見たことがない。向き合った時間より背を見ていた時間の方が長かったかも分からない。村長の役を継いだ父の関心事は専ら村と|カミサマ《・・・・》のことだったと知っていたから、必然、名を呼ぶ厳格で硬い音に何か不満を覚えることはなかった。
「██■■ちゃん」
 年輪の如く皺の刻まれた手は、もうこの世にはないのだろうか。少年を呼ばう|大ばあさま《・・・・・》は、彼が村を永久に近しく離れることになったときには既に随分と歳を経ていた。柔らかな声はいつも隣の孫が危険な目に遭わぬよう、掌を固く握っていた。
「██■■くん」
 呼べば振り返ってくれる|かかさま《・・・・》は、駆け寄れば声と同じように穏やかな笑みで少年を抱き止めてくれた。最後まで|おくり《・・・》の儀式に反対していた彼女は、息子も娘も同じように平等に――あの村では殊に珍しく、一人の人間として大切にしてくれていた。
「██■■」
 年の離れた|あねさま《・・・・》は村が好きではなかった。いつもつまらなさそうな顔をして、無聊を慰める何かを探していたように思う。しかし時に逃げ出すかの如く診療所へと向かうときも、少年とその片割れにだけは、優しい声で内緒ごとを残していったのを覚えている。
「██■■ちゃん」
 隣にいると――信じていた。
 信じるというほど意識もしていなかったかもしれない。片割れと手を繋いでいるのは、少年にとって当然の摂理だった。未来を想うときにその姿のないことはなかったし、それは|彼女《・・》にとっても同じことなのだと思っていた。疑ったこともないから、意識のうえに浮上することすらなかった。
 今は遥か遠く、逢いに行こうと思う足すらまごつく先にいる声は、あの頃思い描けた歳月を越えて隔てられても鮮明に耳に蘇る。
 懐かしい声だった。懐かしい■だった。濁水に沈むような雑音に邪魔されて言葉として受け取ることの出来ないそれが――。
 ――|ぼく《・・》を呼ぶ、|家族《・・》の声が。
 逡巡を知らなかった足に絡みつく。後方の暗闇には夢の続きがあるような気すらする。水に埋められたときのような、何一つとして音にならぬ雑音の裡から、少年の本当の■■を取り戻してくれるのではないかと期待する。
 そういう世界があれば良かった――と、思っている。
 彰は本当の■■を聴き落とさない。この身が大いなる願いの代償として捧げた全てが身に戻り、今は逢えぬ大切な人々と、今ここにいる大切な人々の輪郭を見失わずに済む。最初の祝福が抜け落ちた空洞を支配する、無明の暗闇は照らされて、繋がりの糸は明瞭に目の前に映し出される――。
 夢の中にあったはずのそれらは、現実には存在しえない。
 濁流の中に取り落としたものは幾ら探せど見付からず、男の脳裡にはいつでも暗闇が鎌首を擡げている。あの沢の濃霧の中を永久に彷徨うような感覚は今も背筋にざらついた感触で這い回る。
 見えなくなってしまったものを手にしようとするほど、彰は子供ではあれなかった。ともすればほんの幼いうちから、泣いて縋るような心は持ち合わせていなかったというべきなのだろうか。
 だから、彰は大切なものを取り落とした。
 ――だから、歩いて行ける。
 今も鮮明に思い描ける記憶の中の、呼び声の主たちと共に道を歩くことは出来ない。もう二度と誰にも本当の■■は呼ばれないのだろう。既に己を己と思ってもらうことすら出来ない相手も、両手の指では足りぬほどに存在している。
 思うたびに心のどこかに誘惑の罅が走った。やけに重い足取りが、逆撫でされるように落ち着かない胸裡を更に強く掻き立てる。それでも。
 ――|久瀬・彰《おれ》には、やることがあるから。
 思う一念は後ろ髪を引く声よりも重かった。目の前の|未来《ひかり》と背後の|過去《やみ》の天秤は、確かに前へと傾いている。
 この霧は晴れない。
 だとして、今の彰には、霧の中で得たものが多すぎる。名も分からぬ子供を受け入れて、実子と寸分たがわぬ愛情で育て上げてくれた家族がいる。もう見付からぬからと霧の向こうに置いて久しいものごと受け入れて、光明を当たり前のように差し出してくれた人がいる。叶うことのないだろう|いつか《・・・》に思いを馳せて、その成就を心底から願ってくれる友人がいて――。
 彰もまた、|いつか《・・・》を思うようになった。
 落ち着かぬ心に任せて手を伸ばした霧の先にも、掴めるものがあると教えてもらった。だから叶わぬと知ってなお伸ばす腕の先に、望んだ全ての光ではあらずとも、それに近しいものが掴めれば良いと思うようになった。
 ほんの僅かの思いは握り締めてみれば存外に暖かい。買い集めた物品には未だ心の奥底に蟠る諦念とは別の祈りが宿った。ただそれだけでも、迷う足が未来を抱くに充分だ。
 いかなる無明の暗闇の中であれ、前に出る一歩の先に道があることを、彰はもう知っている。
 出られぬときには引いてくれる腕もあるだろう。そしてそれは、彼が思考の裡で輪郭を失おうとしているときに考えているほど冷たいものではない。暖かな声が呼んでくれる|今の■■《・・・・》が、真白の光の向こうに聞こえるような気がして――。
 男の足は迷いなく暗闇を振り切って、真白の霧中へ歩み出した。

ラナ・ラングドシャ
ラデュレ・ディア


 目を開けているのに昏い。
 背に感じていた柔らかな白花の寝台の気配はなく、代わりに冬の冷気が背筋を上った。硬いアスファルトに重く垂れこめる曇天は光を通さない。
 二、三の瞬きの後、大きな体を慎重に起こしたラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)は、隘路の向こうに眩く差す光を見る。
「ボクたち、白い花畑で眠ってたはずだったのに、いつの間にこんな真っ暗な所に来ちゃったんだろ」
 零した声は独り言ではないはずだった。当然に続くと見越した相槌が聞こえない。息を潜める昏い路地裏に耳を一度動かして、ラナはあるはずの温もりの名を呼んだ。
「ねぇ、ラー……レ?」
 横合いには誰もいない。
 眠っている間に、卵のように腕から転げてしまったのだと思っていた。よもや下敷きにしてしまったか。逆向きに寝返りを打ってしまったか、或いは後方に。
 忙しなく巡らせた視界のどこにも、今や見慣れた笑顔はない。帰ってくるはずの声もない。眠りに就く直前、ラナの腕にすっぽりと収まってしまうような小さな体で、それでも包み込んで彼女を護ると言ってくれた温度が――どこにもいない。
「ラーレ? ラーレ!」
 叫ぶ声が切実な響きを帯びた。血の気の失せた頭がぐらついている。止まらない眩暈と裏腹に拍動が強まる。早鐘を打つ心臓に合わせて頭痛がする。勝手に乱れる息を上手く吸い込むことすら出来ず、涙の色を帯びる吐息に目尻がちりちりと熱く痛む。
 寂しい。
 胸の裡がひどく締め付けられる。絶え間なく罅割れるように痛む心が訴える単純な感情は、しかしラナが己を保つにはあまりに重く垂れ込めた。
 己を千々に引き裂かせるような想いを――ラナは知っている。
 記憶として具体性を持たない曖昧な感情が、胸裡に満ちて溢れかえった。思わず握り締めた胸元を見詰めても答えは見当たらない。緩慢な瞬きを繰り返し、幾分ましになった呼吸と共に、金色の眼差しは前を見据えた。
 光は足許を誘っているようにも見える。後方の暗闇が順路だとは思えない。ならば、先まで共にいた彼女もそちらの方に向かったのかもしれない。
 優しい彼女が傍にいないのは不自然だったが、ラナを起こしても起きなかったから、先んじて進むことを決めたのだと思えば得心は出来た。確かに少し臆病なきらいがあるが、彼女はそれで歩みを止めて蹲るような少女ではない。傍にいる“おともだち”は必ずや彼女を助けるだろう。
 だから――。
 そうだ。
 きっとラナを待っている。あの光の向こうで心配そうに振り返るロップイヤーを想い、ラナの足は立ち上がった。
 罅割れたアスファルトの上を歩く。遠近感を狂わせる光量がどれほど近付いたのかも分からぬ頃、ふと幽かな声が耳を掠めた。
「――テ」
 聞き覚えがあった。
 ぴくりと耳が揺れる。当たり前のように振り返った。振り返って――しまった。
 暗闇の向こうから聴こえて来る。
 ――悲鳴が。
「タ ス ケ テ 。オ ネ エ チ ャ ン」
 取り落とした過去が、波濤のようにラナを攫った。
 金色の瞳孔が開く。折り重なるのはどれも、彼女に助けを求める悲鳴だった。暖かな部屋も撫でてくれる温もりも、全てが瓦解したあの日。無力で非力な大きな猫の前で引き裂かれていった――。
 ――|ボク《わたし》のかぞくの声。
 唸り飛び掛かっても何の意味もなかった。理不尽な暴力は|長女《・・》の剥き出しの牙をせせら笑い、伸ばされた腕は彼女をも痛みの底に叩き落とした。
 傷から紅色を散らし、炎の這うような激痛を堪えながら、彼女は息を失っていくかぞくに手を伸ばした。無理矢理に二つに裂かれた尾から零れる血色が、いつも手入れをしてもらった自慢の毛をぐしゃぐしゃに乱しても。目の前が真っ赤に染まって、もはや意識の淵すら曖昧に歪んでも。
 それでも手を伸ばした先で、護ると決めたものは全て血溜まりに沈んだ。
 膝から抜けた力が戻らなかった。あの日の冷たさを刻みつけるように、真冬のコンクリートがラナの体を冷やしていく。
「ごめん」
 大きく柔らかい自慢の尾は地に伏せる。力なく垂れた何も聞き逃さない大きな耳に、かぞくの悲鳴だけが木霊する。
 護りたかった。本当だった。護るために死力を尽くしたのも間違いではなかった。それでも目の前に横たわる結果は、彼女を赦してはくれない。
 どれほど必死になったところで、ラナは何も護れなかったのだ。
「ごめんね」
 うそつきで。
 約束を守れなくて。
 震える指先で髪飾りに触れながら、ラナはただ、懺悔を繰り返した。

 ◆

 起こした体で緩慢に見渡す周囲には、望んだ色が映らない。
 鎖された隘路の暗がりを見詰めて、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は瞬いた。白花の残酷な加護は目の前にはない。代わりに広がる曇天に、共に眠りに就いたはずの大きな猫の身も――ない。
「わたくしたちは眠っていたはず……ラナ?」
 呼べど虚しく声が反響するだけだった。優しく穏やかな温もりは冬の凍てつく風に急速に攫われて、今は染み入るような寒さばかりがラデュレを包んでいる。
 孤独の裡で、しかし彼女の前には光がある。後方の無明は恐らく彼女をどこにも連れて行ってはくれまい。進むべきが光の裡であることは容易に知れた。
 共に手を繋いでいたはずの彼女を探すためにも、早くあちらに向かわねば。迷いない足が踏み出すごとに、脳裡には“|夢《げんじつ》”の光景が声と共に浮かんで消える。
 大きな猫が彼女の手を引いてくれるようになってから、沢山の日々を重ねた。出逢った数多の縁との特別な思い出も、何のことはない言葉を重ねる日も、全てラデュレの道を示す導になる。|ラーレ《・・・》の空の中身を満たすのは幸いばかりだ。身を焼くような熱でなく、陽だまりのような温度と木漏れ日のような優しさが、探し物を求めて彷徨う彼女の足を繋ぎ止めてくれる。
 だが。
 元あったはずの中身は、一向に戻らない。
 どちらが夢なのだろうか。或いはどちらが現実なのだろうか。光の先にある|現実《・・》の裡に、ラデュレが真実この手にあると思っていた全てはあるのだろうか。
 都合の良い夢を見ていただけかもしれない。光の向こうで目を開いてみれば、何もない|はじまり《・・・・》が、目の前に広がっているのかもしれない――。
「……いいえ。そんなはずはありません」
 自らを鼓舞するための声は思いのほか明瞭に響いた。
 胸の裡に約束がある。一緒に探そうと繋いでくれた手がある。どこへ向かうかも分からぬ道を、二人で共に笑いながら歩いて、互いの見失った探し物を見付けようと交わした願いの証がある。
 それに――。
 夢の裡で聞いた声にも、応えねばならない。
 嘲るような声は確かに言った。|早く思い出して《・・・・・・・》――と。
 ならばラデュレは思い出さねばならないのだろう。伸ばした手の先に触れるのだろう、今は見えない形を知ることが、どれほど恐ろしくても。
 自らの望んでいる|過去《・・》の形すらも明瞭には分からない。それでも、きっと触れてしまえば思い知るだろう。ラデュレには己にも分からぬ望みの形があることを知ったとき、手にした記憶がそれと食い違っているかもしれないことを思うのが、怖い。
 だが。
「……わたくしは、知りたい」
 芽吹いた確たる想いの前には恐怖も霞むのだ。まごつく足は確かに小さく一歩を踏み出し、息を詰めた刹那のことである。
 柔らかな毛の感触が足許に懐いた。見ればめかし込んだ三匹の兎が、まるでラデュレを先導するように見詰めている。
「わたくしを、導いてくださるのですか?」
 ――初めて会ったときのように。
 何も分からぬままのラデュレの手を引くかの如く、三匹は彼女の前を歩いてくれた。つかず離れずの距離を必死で追い掛けるうちに、彼女は自らの足で歩くことを覚えたのだ。
 此度もまた行く先を示してくれる彼らに頷く。六つの眼差しは慈しむようにラデュレを見上げ、彼女を気遣うような歩調で前に出た。
 嘗てのことを知っているのだろうか。問うたところで声を持たぬ彼らからの応答はないし、そうして知ることに意味もないように思える。彼らはいつでも彼女を認めてくれている――ただそれだけで良いのだ
思う。
 たとえ何があっても、怯え隠れて足を止める必要はない。時にはあてどなく彷徨い歩いても良い。ラデュレの描く軌跡は、誰に示されるまでもなく彼女の足許に宿っている。
「――ありがとう。クロノス、カイロス、ルイス」
 だから、ラデュレも迷いなく視線を上げた。真白の光の方に向けて踏み出す足に躊躇いは潜まない。今はただ、大きくて暖かな陽だまりに似た笑顔と再び出会うために。

 ◆

 俯き伏せるラナの耳を、小さな声が呼ぶ。
「――みゃう!」
 きつく閉じていた目を開けた。六匹の仔猫たち――ラナの護霊たちが、必死に呼び戻すように声を上げている。瞬く眸から零れ落ちた涙に反応してか、世話係たちは一斉に彼女へ飛び掛かる。
 優しく涙を拭いてくれる肉球がある。ラナを|ラナ《・・》として留める理由である、大好きなラングドシャを、浅く開いた口に入れてくれる手がある。
 あの日に護れなかった大切なかぞくは、形を変えてラナを抱き締めてくれている。大丈夫だから、もう自分たちは痛くも辛くもないから――懸命な想いを優しく抱き締め返して、柔らかな温もりに顔を埋める。
 暖かい。
 ようやく思い出す。一度喪ってしまったものへの悔悟を、彼女は前に進む力にした。力のなかった長女は今度こそこの幸福を守り抜くと決めたのだ。冷えた血の中に何も沈ませたりしない。
 大切なものを――もう二度と、喪いはしない。
 そのために転生を選んで、かぞくを再びここに呼んだのだ。
「ありがとう、みんな」
 涙の残滓はもう冷たくはなかった。腕の中にあるものを抱き締めたラナの耳に、ようやく聞き覚えのある、優しい兎の声が響く。
「ラナ、ラナ……! 何処にいるのですか、ラナ……!」
「――!」
 顔を上げた先に光がある。
「ラーレの、声……?」
 その向こうから聴こえて来るように思える。しかし輪郭は判然としない。濃く影が落ちていておかしくはないはずなのに、ラナの目にはただ、眩むような眩い光しか映らない。
 だが。
「わたくしは、ラーレは此方です……! あなたが夢に囚われるのでしたら、ラーレが、今度はあなたを導いてみせます……!」
 必死に上げているのだろう声はしかと耳に届くから、思わず泣き笑いが零れた。
「……にゃは。あんなに大きな声出して」
 大声を出すことに慣れてなどいないのだろうに。このまま叫ばせていては、きっと喉が枯れてしまう。そんなことになってしまったら大変だ。誰よりラナが、心配してしまうから。
 だって――。
「独り、などではありません。あなたも、わたくしも“ふたり”です……!」
「――そうだね、ラーレ」
 共に旅路を行くと決めた。
 交わした約束は確かに胸の裡に煌めいている。ラデュレの声が、光よりも明瞭な燈火で、ラナの心を奮い立たせてくれる。
 護れなかった。全てを喪った。その先にあった出会いも、命の定量の差によってラナの方から別れを告げた。それでも――。
 今、腕の中には確かに|みんな《かぞく》の温もりが寄り添っている。耳に届くのは道を共に歩むと決めた人の声だ。
 暗闇に足を止めて、懺悔に身を委ねて膝をつくほどの恐怖は、今ここに在る温度が塗り替えてくれる。
「ボクは独りじゃない」
 声へ手を伸ばす。きっとその先で、ロップイヤーはこちらに懸命に手を伸べてくれているだろう。
 あと一歩、ほんの一歩の距離が遠くてならないラナの膝に再び力を宿すために。この光の向こう側にあるのだろう現実の、あの穏やかなで優しい幸福に二人揃って戻るために。
 ――キミの手でボクを導いて。
「手を伸ばして、どうか掴んでくださいませ……!」
 伸ばした手がしかと触れ合った。大きな猫の冷たい指先を、小さな兎の暖かな繊手が握り締めて――。
 立ち上がる二人を真白が呑み込む。

ノーバディ・ノウズ


 立ち上がっても首はない。
 頭がなければ知覚もないのは必定である。根こそぎ奪われた脳にて知覚される世界こそが己を作り上げるという論調の下に立ってみれば、畢竟ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)にとって、自らを自らとして定義する力は失われている。
 ましてそれは永遠に戻りもせぬのであろう。少なくとも彼の抱えた欠落が欠落であり続ける限りは。
 見えるはずがない。聞こえるはずがない。理解という理解の起点となる機能を失った彼には、しかし九割がたの機能を失ったとは思えぬほど明瞭に|見えて《・・・》いる。周辺が暗闇であること。それを照らす一条の光が、まるで誘う道標のように彼を照らし出していること。
 実にお誂え向きのお膳立てであることだ。加えて、どうも現実に帰れたというわけでもないらしい。すっかり醒めたつもりの夢は未だ彼を完全に解放してくれず、それゆえ見えぬはずのものまで見せられている。
 手っ取り早く落ち着くならばニコチンとタールが一番だった。既に夢の気配そのものは去って久しく感ぜられるが、状況は決して良いとはいえない。普段ならば懐の煙草に火を付けて、一服がてらに咥えながら隘路を漫然と歩きでもするところだが、夢の裡に置き去りにされた頭もその代用物も見付かりそうにない今は咥える口もない。
 まして――。
「《|Wherever《何処であれ》》」
 ないはずの|頭の内側《・・・・》で、|声《ノイズ》が乱反射している。
「《|Whenever《何処であれ》》」
「《|Whatever《何であれ》》」
「《|Whyever《是非もなく》》」
「《|However《道理もなく》》」
「《|─_ ̄=_ ̄─《汝、定義能わじ》》」
 斯様なものに晒されながら暢気に一服している暇もなかったろう。たとえ頭があっても、煙草より先に溜息を供にしていたに違いない。
 徐々に増していく雑音が、不愉快な音を伴って明瞭な発声を邪魔している。お陰で最後に何を言っていたのかすらも判然とせぬ。声でさえないそれが嘲笑うが如くノーバディを突き放した刹那、周辺の景色が奇妙に捩れるのが|見えた《・・・》。
 隘路を包んでいた闇は不気味に蠢く何かに変容する。味気ない灰色のアスファルトは全て蠕動を繰り返し、生命といえば冒涜になるとすら思える気配を湛えた。狼狽える間もなく汚泥の如く這い寄ったそれらが、枷のようにしてノーバディの身を絡め取ろうとする。まるで――。
 |██《コレ》こそが俺の本性だと、指を差すかの如く。
「《|Who are you?《お前は誰だ?》》」
 再び脳髄を声が過ぎる。先よりも明瞭なそれは、数多の声が折り重なったもののようにも、誰か一人がそう発したようにも思えた。
 老若男女のどれともつかない。裏を返せばどれでもある。或いは生きているものの声ではなかったのか。何か無機の気配を湛えたような、それでいて有機的な音だった。
 子供の無邪気な問い掛けに似ていて、老爺の厳然とした冷徹な詰問じみても響く。蠱惑的な女の囁き、どこか気の抜けた男の声、静謐と熱狂と好奇と無関心の全てを内包した声が、幾重にも|ノーバディ《・・・・・》を問う。
「《|Who are you?《あなたはだぁれ?》》」
「《|Who are you?《汝何者也や?》》」
「《|Who are you?《貴様は何だ?》》」
「《|Who are you?《ナニモノダ?》》」
「《─_─_ ̄- ̄--__ ̄──》」
 その――。
 全てに、溜息を吐いた。
「――喧しいわボケが」
 疾うに遅い。
 在りもしない頭の中に|████████《ろくでもないもの》が詰まっている。それが幾度も問い掛けるのだ。雑音にも満たないような繰り返しの、答えの出ない問答を突き付けて、彼の身を縛って指を差す。進展がない。進歩がない。堂々巡りを繰り返すことこそが使命であるとでも言いたげな言葉の螺旋に腹が立つ。
 あまつさえ目の前の光がまるで慈愛の如き顔をしているのも気に入らぬ。斯様な闇に囚われた哀れな男を救い出してやろうとでも言いたげに、隘路を照らす一条の光になってやろうとでもするように――|目のない《・・・・》男の手を引いて正しい方向に導いてやろうとでもしているようだ。
 ――知るかアホが。
 ご丁寧に盲目のまま膝を折るようならば、斯様なところまで辿り着けやしない。あらゆる名を受け、まるで都市伝説のような通称までもつけられて、ノーバディはここに|定義され《たっ》ている。
 独善的な光も露悪的な闇も天辺にある。お誂え向きに用意した罠が彼の頭を奪ったお陰で、今ここにあるのは在るべきものを欠いた空隙だけだ。伸ばした掌に本質的には光線も暗がりも触れやしないが、ノーバディの|頭《・》は何も触れ得る物品である必要性はないのだ。
 |首から上がない《・・・・・・・》ならば、翻り頭上にあるものは全て頭だ。
 光と闇が混ざりあう。相反するものを無理矢理に詰め込んだ混沌は決して|頭《・》と呼ぶに至らず、しかしノーバディの知覚はその内側に明瞭に渦巻いた。外からどう見えるのだか分からぬのが惜しい。鏡も硝子もないから、この|混沌《カオス》がどれほど似合うのだか分からない。
 誰でもない。
 であるから何でも無い。擦られ尽くした舟の命題の如きありさまだ。何もかもを挿げ替えられるならば何になれようか。自らを定義するものが都度にして入れ替わるというなら、何がノーバディを保証しようか。だが。
 このどうにもならぬ混沌の裡にあるものこそが、何より強く男のありさまを描く輪郭になる。。
「【WHO AM I?】なんて自問自答、飽きるくれーやってんだよこっちは」
 答えは出ない。あるわけがない。少なくとも真実の頭のない限り、彼の前に答えが示されることはないだろう。
 だからもう遅い。もしノーバディを揺さぶるために用意された罠だというなら失笑ものだ。幾度も繰り返し、なお見付からなかった答えを今更問い掛けられたところで、用意されるべき答えのないことに慣れ切った身に何の動揺があろうものか。
「その上でお説教臭え|光と闇共《テメーら》に言うなら――」
 絡め取りたいのならば、もっと早くにこうするべきであったのだ。
「〝|知ったこっちゃねェ《Nobody Knows》〟ってな!!!」
 道を呑み込むはずだった真白の光も、呑み込まれて消えるはずだった闇も、ここにはない。全て男の頭上にて渦巻く混沌の裡に呑み込まれた。やがて相反するそれらは馴染むことなく混じり合い、反発して――。
 道は弾ける。
 真白の暗闇が辺りを覆い尽くした。眩く輝く光と無明の闇の向こうから、やがて静謐な足音が、昏い光を割って現れる――。

第3章 ボス戦 『青い流れ』



 全て貴方の選択だ。
 貴方は心の奥を見た。頭の奥を聞いた。最後に眼前に示されるのは、意識である。
 真白の光の、或いは漆黒の闇の先、眩むような白と無明の黒の合間から歩み寄るように、足取りが一つ近付いて来るのを感じるだろう。
 やがて現れた女には光源がなかった。足元の影は朧に霞む。
 聞き覚えのある、そして耳馴染みのない声は、貴方を見たように思えた。白花の寝台で感じた者もあるだろう纏わり付くような視線が無機質に笑う。
「はじめまして、お久しぶりです」
 声はいかなる音で聞こえただろうか。
 貴方が声だと認識した音が、|それ《・・》の発したものを聞き遂げた他者と同じ響きをしていたとは、誰にも断言し得ない。|それ《・・》にすら真実分かり得はしないのだ。
 |それ《・・》は事象である。観測である。媒体である。最も人の世に馴染む形をした外なる何者かの目である。緩慢な瞬きに意志はない。あるとして、|それ《・・》は貴方たちに理解し得るものではない。
「数多の人たちを|見て《・・》来ました。貴方たちの事象も|見せて《・・・》頂きました。自ら白花に身を横たえ、道を辿りながら、皆帰りたいと願うのです。ですから、問いたいことが一つ、定まりました」
 声と認知し得る音は滔々と続く。流れの如く。時間の如く。或いは事象の如くして。
 貴方に答える必要はない。
 しかし意識とは問いを受ければ脳裡に答えを描くものでもあった。貴方の表層へ上った応答を汲み取り、速やかに空間は捻じ曲がるだろう。
「あなたが帰りたいのは、どこですか?」
 ――答えを返す必要はない。
 表層に上るそれを否定するだけでも良い。さもなくば端末を破壊すれば意識の幻想は消える。目を背け時の経つのを待てば、観測者は記録を残してその場を去る。むろん、虚ろな問答に律儀に応ずることも出来る。
 何をしても同じだ。同族とさえ聞こえる音を真実分かち合えぬ生命体に、外なる眼差しを理解することは出来ない。真の意味で理解されることも――ない。
 幸いなるかな、悲しむ者よ。全て貴方の選択だ。
徒々式・橙
リリアーニャ・リアディオ


 厭な音だと思った。
 声だと認識したのは一拍遅れた後だ。己の不貞すら暴き立てる真白の暴力の前に屈したリリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)は、網膜に焼き付いた光に眩む視界の中で、足許すら覚束ぬまま息をしていた。
 帰りたい場所――と、声は問うた。
 濁る思考の湖面には己の顔も映らない。或いは映したくないのか。茫洋と彷徨う眼差しには声の主さえ見て取れず、リリアーニャの思索は無意味な水泡に取って代わった。
 刹那に。
「うさぎさんじゃないですか、何やってんですこんなところで」
「……橙?」
 湖面に一滴の雫が零れる。
 耳馴染みの良い声の主の方は、ごく平然とした表情で魔女を見ていた。隘路を抜け出し元凶を前にして、問い掛けも知らぬげな徒々式・橙(|花緑青《イミテーショングリーン》・h06500)の緑の双眸が青空の眼差しと絡み合う。
 模糊としたリリアーニャの奥底に、橙の眼差しは己が存在意義を見た。ふらふらとした足取りで何をしていたのかも、或いはその眼差しの奥に何を映し取っていたのかも知りはせぬが――。
「帰りたいなら、帰ってきてください。私の所に」
 橙は、誰もの燃え立つ希望である。
「ねぇ? リリアーニャさん」
 呼ばれた名前が魔女を現実に繋ぎ止めた。構えられた銃口は迷いなく端末の方に向けられている。ようやく正体を取り戻した心が、夢と現実のあわいで眼前の男の実存を疑う。
 起きたと思えばまた夢のさなかに放り込まれたか。
 否。
「大丈夫ですよ、貴方の祈りは私が叶えますから」
 銃砲は軽やかに響き、橙の存在を保証する。
 装填された感情の名を――約束。
 かの青き流れに当たろうが当たるまいが関係はない。事象が事象でしかないのであれば、着弾が意義を成すこともあるまい。だから橙が狙うのはただ一つだ。
 |約束《・・》が必ず結実することを、彼女に伝えること。
 目も眩むように鮮やかだった。同時に激情に濁った湖面は感情の泥を鎮め、リリアーニャの前には確かによく知った男の背だけが映った。
 ――ばかみたい。
 約束は二人でなくては結べもしないのに、一人分の引鉄を引いて。
 ――情けない。
 分かっているくせに膝をついて、濁った水面に己を映そうとなんかして。
「ええ」
 立たねばならない。誰かの光に焼かれて蹲り、闇に逃げ場を探して這い回っていてはならない。
「信じてるわ、橙」
 引鉄は――二人で引かねば意味がないこともあるから。
 手にした斧は己には不釣り合いだ。もっと必要な形がある。もっと最適な形がある。誰かのために作られた武器ではない、リリアーニャの手に似合うものが。
 橙こそが約束された未来だ。彼は祈りで、希望で、誰しもが眼差す明るい光そのものだった。だから。
「うさぎさん、前を向いて。私が、貴方を肯定します」
 他の誰に否定される祈りも願いも――その主の心の一かけらですら、橙は受け止める。
 短剣を握り締めた兎が跳び上がる。太陽があれば覆い隠していただろう。或いは月の元にあっても、漆黒は濃い影を掛けただろう。
 深淵の闇は魔女に呼応した。遠かった距離を刹那に眼前へと詰めてなお、貼り付いたような蒼白な笑みは変わりはしない。
 およそ血液らしいにおいを纏わぬ、その名に相応しき青が虚構の体から漏れ落ちるのに構わず、漆黒の魔女が手繰る闇は絶望の如く眼前の女の形を囲う。
「帰るためにも、この夢は終わりにするの」
 それが約束だから。
 二人で引かねば意味のない引鉄に手を掛けた以上、|待った《・・・》はなしだ。
 逆手に振り上げる短剣がその身を貫いた。揺らがぬ想念の下、咲き残る漆黒の薔薇飾りが、端末の幻想を打ち破る。

氷野・眞澄


「貴方と問答をするつもりはありません」
 端末は、視た――と言った。
 ならば声に載せたところで今更であろう。講釈を垂れる必要性もないほどの自明である。何をどうしたところで、氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)が帰りたいと願うような場所は一つしかないのだ。
 言葉の代わりに眼前を見据えた。よく視える目にはあらゆる不都合も好都合も一緒くたに映る。たとえば眼前の|それ《・・》が畢竟人の形を模しているだけであること。在り方はただ過ぎ去っていく事象にほど近く、役割を果たすほかに何らの意味も持たぬこと。
 これで幾らか感情めいたものでもあるのなら、|視える《・・・》ことへの気分でも訊いてみたかったところだが――。
 望んだ答えも望まざる答えも戻りはすまい。無意味な問答に終始すると分かっていて、声を交わす意義はない。
 ただでさえ、世界は煩しすぎる。
 眞澄はかの端末の如き無感動では有り得なかった。本来人にあらざるべき視界には字義通りの苦痛が付き纏う。まして視えてしまえば多かれ少なかれ情動は揺らぐ。人間の心が真に無関心であることなぞ有り得はせぬのだ。
 浮かぶ思いを殺し、身を苛む辛苦に耐えて、視たくもないものを映して生きている。目を逸らすにも耳を塞ぐにも限界はある。眞澄に視えるものは、瞼を閉じてしまえばそれで良いような、単純なものではない。
 苦労は尽きぬ。身に纏う漫然とした苦痛に溜息を零すことも、真の意味で誰かに理解されるような日は遠い。まして――視えていながら何も感じ取りはしない端末に、相互理解を望むこと自体が荒唐無稽だ。
 それに、眞澄は定めた。
 全てを視続ける。決意というには静かで、諦めというには指向性を持ち過ぎた想い一滴を取っても、理解には及ぶまい。
 であるから、拒絶も受容も求めてはいなかった。彼の裡にはただ己の定めた道だけがある。少なくとも――|視続ける《・・・・》ことに限っては。
 ならば成すべきは一つだ。無意味な問答も厄介な幻もとうに受け入れている。目を逸らさずに、瞼を閉じずに視据えて立つと決めた日に、無理解に期待と失望をする必要はなくした。
「貴方の噂が人々に害を齎すなら、私がするべきことは一つ」
「そうですか」
 眞澄の向ける視線へ返る声は機械じみていた。見据える眼差しを貼り付いた笑みで見返して、事象は眼前の|敵《・》の選択を記録する。
 だとして――目は逸らさない。
 超常の観測が超常の一端を断ち落とす。結合を、つながりを、その身の全てに至るまで。

狩々・十坐武郎


 何が起きたのか分からず混乱する頭の中に、響くように疑問を落とす声が呼び起こす幻影は、狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)の前に現れなかった。
 帰りたいところ――と問われたところで、今の彼には先に考えるべきことが幾らでもあったのだ。眼前の女が敵であること、唐突に降って湧いた問いの咀嚼。全てを飲み干すには時間が足りず、十坐武郎は一度困ったように頭を掻いた。
 随分と一方的で理不尽な問いだが――。
「なんでもいいなら答えてやるよ。俺の帰りたいところはない」
 それは過去ではない。
 幸福な思い出の懐かしい気配は確かに十坐武郎の心に深く根付いた真なる幸福である。転じ、隘路で彼に酷薄な台詞を吐きかけて来た祖父の酷く弱り果てたような怨嗟の声も、彼に|戻りたい《・・・・》と思う時間を思い出させてくれる鍵なのであって、それそのものが|帰りたい《・・・・》といえる場所ではない。
 戻りたいことと、帰りたいことは、違う。
 帰る――とは、戻ることよりもなお強く心に根付く希求である。扉を開き暖かな食事を楽しんで、柔らかな布団で眠る。それを疑うこともせずにいられる場所のことだ。
 まさか未来にあろうはずもなかった。過去にないものを未来にあると信じて見据えることは出来まい。
「――だから、強いていうなら“今”が帰りたい場所だ。今、現在」
 あまり言葉を重ねればボロが出るだろうと思った。理屈を連ねたところで眼前の理外の存在には納得も理解も存在しないが、さりとて問いを重ねられるような隙を作ればなお討伐が遅れるばかりである。
「要は過去も未来も、どっちでもいいってことだな」
 旧懐の熾火と共に思い出すことはある。燃え立つような希望と共に想像することもある。しかし帰りたいと願うことはない。そこに、十坐武郎の求めるものはない。求めたものも、これから求めるのであろうものも――今ここに在る希求に敵うことはないのだ。
 再認識させてくれたことには素直に感謝の念が湧き出た。故に見据える表情には快哉の笑みが浮かんだことだろう。
「大事なこと思い出させてくれてありがとな」
「感謝をなさるのですね」
「敵にだって有難く思うことはあるだろ」
 それが許す許さぬとは別軸の話である――というだけのことだ。だから右目に集中する竜漿が伝えて来る隙を見逃してやることはしない。
「ってことで。じいちゃんの酷い声聞かせやがってパーンチ!!」
 繰り出した渾身の拳は女を真っ向から捉える。まるで器物が割れるに似た感触が、男の拳に伝わった。

クラウス・イーザリー


 畢竟、夢の裡に囚われた眠りなぞ、大した休息にはならぬのか。
 或いは隘路に聞いた声との葛藤に打ち克つために、あまりにも心をすり減らしてしまったか。自らの心の裡すら判然とせぬまま、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は拳をきつく握り締めた。
「……俺が帰りたいのは、大切な人の隣だよ」
 嘘ではない。クラウスに分からぬのは、その天秤の所在ではなく、傾きの方だった。
 今日も彼に幸いを伝えてくれる、生きている誰かの許なのか。或いは既に会うことすら叶わず、永劫冷たい土の下に横たわる太陽の隣なのか――己にも分からぬ心の所在に眸を僅かに揺らめかせながら、しかしすぐに決然と前を見る。
 使命感だけが彼に灯った炎だった。錬成された魔力兵装は白刃を煌めかせるが如く姿を変える。居合の構えの向こうに、宿す想念は太陽の遺した分け火ばかりだ。
 斬る。
 眼前の怪異を。人々の脅威を。数多の犠牲者を白花の寝台の下に絡め取り、今なお皆を招き入れる――放置すれば数多の民に苦しみの種を与えるのだろう、この女を。
 クラウスが動き出すまでに、六十秒の集中が必要だった。しかしその間に隙を作り出すような生き方はしていない。彼が育ち、身を置いて来た世界にあって、隙を晒すことは即ち死を意味した。
 科学を結集して作られた砲台は持ち主の思念を正確に汲み取る。正しく雨の如きレーザーが降り注ぐ中、光と闇の混ざり合った世界の裡から伸び来る攻撃は全て不可視の力が盾になる。或いは――その身を抉ったとして、クラウスは揺らぎもしなかっただろうが。
 掠める槍の如き|何か《・・》に身を晒し、しかし彼はそれを良しとしている心にも気付いていた。この頃は周囲に与えられる暖かな時間のお陰で|なり《・・》を潜めていたはずの、心の中の希求が鎌首を擡げているのを感ずる。
 あの夢のせいか。
 ――斯様に必要以上の攻撃に身を晒そうとするなど。
 それでも、今は自己嫌悪も保身も捨てる。クラウスの目の前には、少なくとも成すべきことがあるのだ。そうして自らの外に理由を置いている間、彼は堂々巡りをいっとき忘れられる。
 やがて六十秒は過ぎ去る。己の裡に力が満ちたのを感じた刹那に足は強く地を蹴った。踏み込みと共に迷いなく引き抜いた白刃は、深く端末の体を穿って、身より青い光の如き内部の液体を迸らせる。
 同時に――身を掠めていた傷と深い虚脱感が、クラウスの全身を覆った。
「……疲れた、な」
 零れる声は頼りなく地に落ちる。今はただ、慣れ親しんだベッドに身を埋めて、何も考えずに眠りたい――。

チェスター・ストックウェル


 観測されるのは二度目だ。
「なんだ、君か」
 以前には在り方を問われた。此度は帰りたい場所か。一度見たことのある蒼白な貼り付いた笑みに、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)の眼差しは気安げに軽く手を振り返してすらみせる。
「どうだった、面白いものは見れた? ――って、俺が質問されてるんだっけ」
 青き笑みが変わることはない。何を言ったところで意義もないことも、以前から理解はしている。帰りたい場所――と思って、心に浮かぶ鮮明な光景の方に意識を遣った。
 チェスターが空を飛ぶことを荒唐無稽な夢だと思っていた頃の記憶は、時を経てもなお鮮やかに陽光を彩る。皆と同じ歩調で煉瓦造りの道を蹴っていた頃。いつかどこかで道が分かれたとしても、皆と同じように歩いていくのだと信じて疑わなかった頃。チェスターの中に、未だ暖かな血脈の通っていた頃――。
 それは帰れば両親が笑顔で迎え入れてくれる扉の向こうの、光が灯された部屋の中だった。日差しに照らされて煌めく芝生と土のみずみずしいにおいと、己を取り巻く歓声だった。皆と小さなテーブルを囲んで、脂と塩の塊を口に放り込んでは笑い合った店だった。それから。
 それから――。
 吐息が零れて初めて、チェスターは己が笑っていたことに気付いた。嘗て幾度も浮かべた自嘲よりも暖かく、しかし確かな諦念を孕んだ唇は、全て理解している。
 |行こう《・・・》と思えば今でも足を運ぶことは出来る。サッカー場では今日も子供たちの声が響いているだろう。ファストフード店には代わり映えしない味のハンバーガーとポテトが並んでいるに違いない。それでも。
「俺が帰りたい場所はもうないけど、俺の|帰る《・・》場所はあの家だけ」
 家にはもう灯りは点らない。
 サッカー場にチェスターを呼ぶ声はしない。ファストフードを食べて笑い合う|同世代《・・・》の中に、チェスターの知る顔はいない。
 時は遡らないから、もう――戻れやしないのだ。
 そうしている間にも、少年の前には山とやるべきことが積み上がっていく。彼が幾ら停滞していても、得てしまった職責は彼がいつまでもただの|エルム・ヒルの幽霊《ノーティーゴースト》であることを許してはくれない。
 カミガリの仕事は幾ら捌いてもきりがない。暫定助手の肩書は薬屋の女が招集をかけるための体の良い言い訳であるような気もする。そういえば、昨日録画しておいた試合もまだ見ていなかった。
 そのどれも、捨てる気にはならない。
「だからこの話はここでおしまい。案外忙しいんだよ、幽霊って」
 ポルターガイストが巻き起こった。路地裏の片鱗、瓦礫の如くなったアスファルトの断片の向こうで、チェスターは楽しげに笑った。
「知ってた?」

燦爛堂・あまね


 明けの空がちかちかと瞬いて、目も眩むような真白と黒に色を足す。
 走り出した万年筆は止まらなかった。燦爛堂・あまねの眼前で、|絢爛燦然世界《あまねくすべてがきらめいて》(h06890)いる。真白のカンバスに夜を塗り足し、漆黒には空を足し、やがて飛び立つ蝶々たちの色を幾重に描く。彼女の眼差しは蒼白な顔ではなく、与えられたカンバスの上に注がれていた。
「わたくしは、自分の棲家へ帰ります」
 ――どこか彼の声と同じような音が問うたような気もした。
 或いは聞き馴染みのない声だったような気もした。どちらともつかず、またどちらでもあるのだろう音は、あまねの聴覚野に届くや否や消えてしまう。
 一心不乱に描く蝶の群れが羽搏く。その向こうにある扉を見据えて、彼女の眼差しは幾度も押し開けたそれを思った。
 古びたドアを押し開けるとき、内からでも外からでも蝶番の軋む音がした。外気と混ざりあう絵の具に独特の薫りをいっぱいに吸い込むたび、あまねは嘗てそれに身を浸した日を思い出す。
 忘れ得ぬその人の指先が、数多の絵を描いて愛した|燦爛堂《アトリヱ》の、鮮やかな色彩に囲まれて――彼女はようやく息が出来るのだ。
「絵筆は絵を描く為の道具に御座いますもの」
 カンバスと画材なくして、どうして生きていられようか。
 たとえ番えてくれる唯一の指先を喪ってしまっても、あまねは己の身を鮮烈な色で染め上げる。真白の尾をいつかのように揮い、嘗てあった眸を額縁として、描かれた|絵《ひかり》を飾る。
「それがわたくしの|存在証明《アイデンティティ》」
 だから夜は終わりにしなくては。
 朝が来なければ空は見えない。光は遍く闇に打ち沈み、色彩を失って平坦に広がる。それでは描けない。描き甲斐も――ない。
 群れ集う楝色の蝶は儚く翅をはためかせるが、数多に集えば舞い散る鱗粉が夜明けを染め上げる。言葉を紡ぐのと同じような温度で動き続けた万年筆は、やがて白も黒も埋め尽くす鮮烈な陽の訪れを描き出した。
 思えば幽暗の裡に足掻くような道であった。昏い胎の中で見る幸福な夢から、無常の現世に産み落とされる人に似た道程だった。映し出されたのは不幸ばかりでなかったが、しかし幸いばかりでもなかった。ならば。
「勝手に朝を描き足したって宜しいでしょう?」
 白花の寝台はここにはない。だから柔らかな褥の誘いは捨てて――。
 起きる時間だ。
 たとえそこに夢見た祈りがないのだとしても、あまねの描くべき燦然たる色がある。

五香屋・彧慧


 大抵のものは指に留めてはおけぬ。
 感情も、願いも祈りも、痛苦や絶望ですら、流体の時間のうねりに呑み込まれて形を失う。肉体は滅び、道具は壊れ、服は擦り切れる。ましてそれが一人の所有物でないのなら、尚のこと。
「さっきぶり」
 五香屋・彧慧(空哭き・h06055)には幸いの形は手に取れぬ。
「みていたの ね、維久もみていたわ」
 あの視線。
 目の前にあるのと同じ、無機質でありながら奇妙に生々しい瞬きをする不可視の眼差しを揺り籠にして夢を見た。昏い隘路を、目を焼く光を目掛けて漂った。やがて辿り着いた先で明かされた空疎な目的を前にして、柔らかなままの指先に曖昧な幸福の影を透かす。
「観測主体があなたひとりなら、なにかわかった?」
 或いは数えることの出来るものではないのか。
 |主体《・・》といえども蒼白な顔そのものに意志があるとも思えなかった。彼方より視線を呉れる何者かが|幾つ《・・》あるのかも分かりはせぬ。観測者たるは彧慧も同じだが、ただ観測|のみ《・・》と至って全てを無機質に――或いは無垢に――書き留めるだけであれば人間の成れ果てとしては機械的がすぎよう。
 |心《きもち》は宿る。幾多の人々の夢のあわいを渡り、始まって、また終わる。その全て、外なる目に明け渡されることもない。彧慧の中に留まって指先を零れ落ちるだけの、砂のようなものである。
 現れるのは駅のホームだった。
 親しんでいる。今も隣にあるともいる。古びて軋み、懐かしく揺らめく朧の霧に立ち竦む。だが。
「いいえ、どこにもかえらない」
 畢竟全ては消えるのだ。
「そしてたどりつかないの。|維久たち《われら》は漂泊の民であり、定命の|霊《たましい》」
 行き場はない。戻る先もない。辿り着きませんように。辿り着けませんように。やがては全て美しく、破片も残らず芥と消える塵灰に至るまでの、いっときの間隙にすぎぬ足取りである。
 住まうとは――。
 何と生きることであろうか。地に足の着くことであろうか。
「いっときのぬくもりがあるかないか なの」
 止まり木の他に何も在らぬ魂には、もはや身を寄せる安らぎの焔は鮮やかに過ぎる。
「それで、幸いってなんだった?」
 幻影はやがて現れた。闇の裡より出でて光の下に集うそれらが端末を取り囲む。
「じらさないで、とてもきになっているのよ」
 ――迫る質量なきものたちを見るでなく、蒼白な相貌は静かに貼り付いた笑みを浮かべていた。やがて零れる言葉もまた、無機質に響く。
「残念ですね。私は――定義するものではないのです」

花岡・泉純


 伝う悲しみの最後の一雫を、細く白い指先が拭う。
 ふと鼻腔に漂う甘やかな香りは、爛漫の春を告げる花の薄紅色を思わせた。
 顔を上げた花岡・泉純(よみがえり・h00383)の視線は緩慢に桜の香を追う。やがて己の肩先へと定まった視線の先で、まるで寄り添うように、墨染の蝶が留まっているのを見る。
「エレス……ありがとう」
 共に歩んで来た影は、まるで応じるように翅をゆっくりと動かす。物言わぬ|彼《・》に頷いて、泉純は立ち上がった。
 ――呪詛の声を嘘だと断ずることが出来たら、どれほど楽だったろうか。
 逃避は出来ない。泉純には分かっている。彼女が楽園だと思って来て、なお今も恨めずにいる酷薄な花園の中には、子供たちの悲哀が融けている。
 同じようにして命運を受け入れ散るべきだった――と言われて、彼女に首を横に振ることは出来ない。それでも。
 二人の友人は、泉純をあの場所から解き放ってくれた。
 一枚の花弁は風に乗って、繋がれた生はここで今を歩いている。一人紡いで来た足跡も、手を結んでくれる縁の数々も、幻のように消える儚いものではない。
 泳ぐことも歩くことも出来ず、足と胸に走る激痛に立ち止まることは、きっと一度や二度ではないのかもしれない。そのたび竦む足を、しかし完全に折ることはしたくなかった。
 今や繋いでもらった今を――結んで来た全てを照らし、爛漫の春は咲く。悲しみに立ち枯れることのないままで、薄紅を咲き誇らせていたい。
 そうすれば――。
 やがて輪転する命が巡り会うこともあるだろう。桜の木の下、互いに顔を見合わせて、『また逢えたね』と笑える|日《生》が来たとすれば。
「きっとそこがわたしの|還《・》る場所なんだと思う」
 今度こそ、繋いだ手の全てを離さずにいられるように――。
 人は廻り合い、はじめましての握手を交わす。さようならの後の再会に、久しぶりと手を振り合う。泉純の心に心地よく響く二つの声は、どちらが聞こえるとしても、きっと喜ばしい。
「エレスにはおかえりって言ってあげなくちゃ、ね」
 肩先の蝶に笑いかける。物言わぬ翅は確かに頷いたように思えた。浅く笑った泉純の目が静かに閉じる。
 ただ、今は。
「もう少しだけ……眠っても、いい?」
 目蓋の裏にいつでも幸福が巡れば良いのに、きっとそうはいかないのだ。
 それでも、薄墨の蝶の優しい肯定が心地よかった。余韻を手繰るように、泉純の鼻は子守唄を囀る。
 自らを抱き締めるように巡る薄明の光芒を、蒼白な眼差しが見据えていた。

神代・ちよ


 きっともう、そんなものはどこにもない。
 解き放たれた後からあれほど美しく目に映っていた『虫籠』は、今や鮮やかな色彩を見失って灰色に沈んだ。そうなって初めて、神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)は、この世界のあまりの広さを前にして茫然とした。
 帰る場所は、自らの手で壊してしまったのだと知った。
 二度目の繭の中から孵ることには痛みが伴う。鮮烈なる希望だけを灯した翅は揺らぎ、今や光を前にして軋む足を進めるのは使命感と焦燥感だけだった。
 だが――。
「ちよがここに居ること、知ってくださってありがとうございます」
 生きるとは、続いていくことだとも知っている。
 呼吸は止まらない。拍動は刻まれている。ちよがどれほど|止まれ《・・・》と願ったとして、万象の一切は水の如く流れる。
 ならば立ち竦んでいるわけにはいかないのだ。いかに拒んだとしても、光はいずれちよを呑む。真実の意味で足を止め、未来を拒むことなど出来ない。
「あなたも感謝を述べるのですね」
 驚愕というには淡々と、同情というには無機質に、蒼白な事象は貼り付いた笑みで音を零した。
 浅く曖昧な首肯と共にちよは笑った。モノクロームにまどろむ世界は、それそのものが終わらない悪夢のようだ。しかし振り返る背に暗渠を背負っていると知りながら、敢えてそれを見詰めることも出来ない。
 歩んで来た足取りを思い返すには――。
 焦がれた面影の質量があまりに多すぎる。いつしか消えた、或いは最初からありはしなかったのかもしれない、隣の大きな足跡を見ることは難しい。少なくとも、今はまだ。
「本当ならば、あなたを倒さなくてもよいのかもしれないのですが――」
 観測する者は観測するだけであるから。
 それそのものに害があるとどうしていえようか。眼差しは外なる何者かへと事実を伝え記録するためだけのものだ。
 だとして、人の理の外にある者のやり方が、今この地を生きる全てに何をも為さないとはいえないだろう。今まさしく他者を取り込み、幸福の夢と悲しみの隘路を見せて、心についた傷を抉るのは事実である。
 世に痛苦の蔓延ることに目を瞑ってはおれぬ。畢竟ちよは、そのために己の焦がれた居場所を屠った側面を、否定しえないのだから。
「――さあ、あなたもちよの世界へお招きするのですよ」
 追憶はいつでも色を喪っている。いつか曖昧になっていく声と共に、モノクロームは光と闇を呑み込んで、蒼白な女の顔をも灰色に塗り潰す。

三珂薙・律


 最初に、醒めたか――と思った。
 無意識の裡に落胆の色が滲んでいるのを遅れて自覚する。あの夢のさなかに置かれて、存外にも悪くはない――なぞと思っていた己の心を、三珂薙・律(はずれもの・h01989)は小さく苦笑した。
 のち、眼前の蒼白なる女に視線を向けて一つ唸る。
「識りたいという貪欲さは分かるが――永劫、真の意味を理解する事は叶わぬよ」
「それはあなたたちも同じでしょう。ですが、あなたたちもまた観測し、知り得たと思えば名を付けるのですから」
「……君は俺とは違う”はずれもの”らしい」
 次の声には不愉快が載る。果たしてその観測のために幾らの|命《はな》を散らしたか。代償を踏みにじり、流れた血の上に立つことを何一つと思わぬらしい。
 或いは――それを知覚することさえないか。
 断絶されたる価値観に巡る厭な感覚は、名を嫌悪という。成程、|同族《はずれもの》の理屈同士であっても分かりあえはせぬとは、実に不毛なことだ。
「今は弟子の処に」
 ただ平行線をなぞるばかりの問答を繰り返していても仕方があるまい。やがて立ち上る夜闇の気配より、死者の髑髏が律を覆った。
 世はなべて選択の連続であるとするならば――。
「俺も俺の意志で君を討とう」
 抜き放たれた劔の冴えたる煌めきが、光と闇のあわいに一つの標を作り出す。問いの答えは記された。己が目に映す、残映の如き帰る場所の揺らめきを一顧だにせず、律の眼差しは眼前の蒼白を見据えた。
 踏み込めばなお冴える一閃に、蒼白なる女の腕は届かない。避けられずとも流すは出来る。或いは受け、弾き、防ぐことも。
「ほっほ、此れは興味深い、観測者が主人公を気取るとは」
「私は主体であり、客体です。人は物語の綴り手を主人公とは呼ばないのですね」
 問答の続きをしよう――眇められた律の眼差しには面白げな色すら揺れる。髑髏の忌むべき力が圧殺の気配を纏い、質量を増す闇が女の体を握り締めるが如く弄んだ。
「俺も人間については今まさに学んでいる最中よ」
 零れ落ちる青い体液が、血のようなもの――或いはオイルと呼んだ方が正しいのやもしれぬものであることを横目に捉え、律の劔が振り抜かれる。
 些かの興を見出だしたから、敢えて無慈悲なる圧殺の威力に手加減を施した。言葉を返せるように。この応酬が、少なくともかの青き流れが途絶えるまでは絶えぬように。さりとて剣戟の一手にまでも容赦をするつもりはない。
「最近、人の想いの強さを識ったばかりでな」
 白刃と同じだけ鋭い双眸が、青き客体を貫いた。

ツェイ・ユン・ルシャーガ


 焼こうと思えばすぐにも焼けよう。
 然れどもツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)の内心に灯る一点の火種はそれ以上に燃え上がりはしなかった。すぐにも術式を行使するには些か大儀な道であったのだ。
 問いに耳を傾けたところで何らの意味も持たぬことは自明であろう。端末は端末に過ぎぬ。視線は視線に過ぎぬ。人ならざる者に人の理を説くならば、相手が理解しようとしていなくては意義がない。
 故に、ツェイは答えを返さなかった。
 しかし聞いてしまえば脳裡には返答が描かれる。煤色の小さな狐が跳ねている、あの穏やかな温もりの待っている家。手を伸ばせば届くところにある温度は、今もきっと彼の帰りを待って、何くれとなく文句をつけているのだろう。
 ツェイの束の間の灯火だ。
 ――いずれ消える、光だ。
 長命の身は所業の無常をよく知っている。結局のところ時間を手に留めておくことは叶わずに、在るものは軈てツェイの手を離れて一人で走ってゆくのだろう。
 本当は。
 彼が|そうだ《・・・》と思うよりも遥かの昔に、|帰る場所《・・・・》なぞ、どこにも――。
「――余計じゃの」
 浅い溜息が白と黒の合間を割った。
 元より見えぬものを裡にて形にする必要はない。そうして噛み潰して来た。今もまた、同じように噛み砕いた胸裏の思いを飲み干して、ツェイは眼前の蒼白を見た。
 休憩は終わりだ。
「今日のこれら全てが覗き見とは。愉しんだか、観測手よ」
「楽しむ、という機能を有していません」
「そうか」
 僅か憂うように伏せた眦に、落胆の色は浮かばない。
「されど演し物に|無料《ただ》観は無しじゃ」
 目を――。
 開く。
「その無作法な目玉を置いてゆけ」
 |視て《・・》いるというのなら、妖眼と目が合ったはずだ。
 視線に乗る咒詛が弾ける。赫赫と燃え立った焔はすぐに消えるが、貼り付いた笑みの端末が涙の如く流す青い液体がその効力を確かにする。
 戻れぬ過去の、遣り直せぬ失敗の先ばかりを見せられた。伸ばせど届かぬと知るから伏せて来た目の奥を暴かれて、心の裡の火種は凍夜の月の如く怜悧な炎に変わっていた。
 背筋を逆撫でされるように心地が悪い。いつかの感覚を手繰り寄せて、ふとツェイは息を零した。
 人はそれを怒りと呼んで、ツェイもそう習って生きて来た。
 今や己のこと如きには纏わりもせぬ炎が沸々と冷えて冴える。業腹に任すまま、放たれた妖の眼は端末の向こうまでもを見透かしたが――。
「……何時まで経っても未熟者じゃの」
 笑声は、どこか苦く唸るように零れた。

狗狸塚・澄夜


「只今──とでも言うと思ったか?」
 獣の唸るが如く、銃砲が鳴る。
 狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)の放った一発の弾丸を契機として、現れたる妖の群れが蒼白な女の喉笛に殺到する。荒ぶる敵意を前にしてなお笑みを崩さぬ悍ましき外なる眼差しの端末へ、睥睨する澄夜の眼差しが眇められた。
 ――人のそれを模しているようで、きっとそうではない体に、傷は付いているようには見えない。
 それで構わなかった。
「還る場所など人には現しか有り得ぬのだ」
 凛然とした訣別であった。
 或いは宣誓であった。蒼白なる笑みを真実の意味で破壊せしめるより以前に、澄夜が通って避けるわけにはいかぬ儀の一つであった。
 眼前の、何一つと理解するつもりのないのであろう無意味な観測媒体に対してではない。
 この声を聞く――全てに対しての。
「血塗れになろうと足に釘打ち、足が使えぬなら這ってでも足掻くべきなのだ」
 身と心を絡め取り、永遠の泥濘を安息と囁く感傷の、優しく傷口を引き裂くような痛切に別れを告げねばならぬ。
 人心の裡――真の自由意思の裡にのみ燦然と輝く太陽を、手ずから貶め地に転がしてまでも恩恵を手に入れようとする醜悪を放つ、神秘への誓いを立てねばならぬ。
 畢竟生きるとは、蔓延るものが与える理不尽の荷役を、手中に抱え込むことだ。
「――其れだけが彼方過去に愛した者への手向けとなるのだから」
 伏せた目と共に銃口を下ろす。無警戒の身を取り囲む悪なる気配が待ちかねたように口を開けるのを、澄夜は後方にしかと感じた。
「我が身を骨まで喰らえよ、悪神」
 もはや眼前の女に声も言葉も尽くしてやる意味はなかった。代わりに暗渠から身を喰らうのであろう荒魂が、死の苦痛を連れて身に這入り込む。
 アラートが遠くに鳴っている。異形と変わりゆく己の体を朧な意識を蝕む激痛の裡に感じながら、澄夜はただ、一身に眼前の悪しき神秘を焼き払うことだけを刻みつけた。
 痛みなど疾うに受け入れた。
 なくして生きることが出来るのであれば幸福だろう。しかし斯様な灯火の与えられる日は、澄夜からは喪われて久しかった。在るべきは、ただ、この身がいかなる定めに晒されようとも現を護る意志だけだ。
 たとえ死と隣り合わせてでも――取りうる最善にて迎え撃つ。
 最期の意識が途切れてのち、現れた荒魂の呪詛が全てを飲み込む。生きとし生ける全てのものを恨み憎む継ぎ接ぎが、哄笑の如き唸りと共に、眼前に立つ人の形を奪い去る。

香柄・鳰


 問われるまでもなく答えは決まっている。
「私のお仕えする御方、傅くと決めた御方――我が主のお傍です」
 香柄・鳰(玉緒御前・h00313)の声は異名とよく似て凛然と響いた。告げたところで意味のないことは、無機質で味気のない声を聞いたときから分かっていることだった。
 しかし裏を返せば言わぬ意味もない。告げようが告げまいが変わらぬというなら、己の心に通した尤も揺るがぬ誓いを口にすることは、少なくとも黙り飲み込むよりは意義がある。
 心をしかとこの地に縫い付ける、確たる理由になるからだ。
 優しく己を心配してくれた姉に会いたい。最期まで鳰を優先した彼女の指に、笑みに、もう一度触れたい。きっと笑い合っていられたはずの未来の続きを、たとえ今際の夢でも構わないから味わってみたい。
 戦場を共に馳せた友人たちの顔は今でも思い出せる。ほんのいっときであっても平穏を分かち合っていた皆と、腹は減っても寄り添い合うだけで充分だった温もりを分かち合いたい。
 鳰にとって、それは変えられぬ瑕だ。
 美しき今と天秤にかけてなお釣り合うほどの重石が心に蟠っている。擲って泥濘に身を沈め、殆ど覚えてもいないような頃にしか感じたことのない安らかな眠りに身を委ねたい――と、胸の奥底は未だ泣くように疼く。
 それでも。
 どこへ向かうとも分からぬ足を、穏やかでありながら峻険な声が引き留める。
 主命は既に下された。厚い髪の奥から鳰を見詰める眼差しの優しさを、焦点を結ばぬ眼差しにも知っている。
 何より鳰は己の意志で、自らの主が下した命を守ると定めたのだから――。
「何という事はない、決まり切ったお話です」
 抜き放つ刃は冴え冴えと煌めく。思い返したならばなお大きくなる存在に無性に会いたくなった。剣士たるもの戦場で逸ったりはせぬけれど、幾度目かのおさらいにそう長く心を費やしているほど悠長でもない。
 どうにせよ勝手に帰りはするのだろうが、茶も茶請けもないここで、それまでのんびり談笑するのも――それこそてんで性に合わぬ、無意味な話だ。
 故に踏み込むのは鳰が先だった。鈴が大きく音を立てるのを聞きながら、玉緒御前の目は眼前のぼやけた蒼白を前に伏せられる。
「では、『斬らせて頂きますね』」
 暗闇が満ちる。
 鈴の音の反響は、しかし視界を失ったことのない者には正確に捉えることも出来はすまい。やがて暗渠を断ち割るような一閃が空間事蒼白を切り裂いて――。
 後に立つ背を伸ばした武人は、大太刀を懐紙で拭った。
 ――今日の夕餉は何かしら。

夜鷹・芥


 耳に届いた音が声だということに気付いても、何に語りかけられたのか分からなかった。
「おまえはだれだ?」
 茫洋と眩む問い掛けの無意味さにも、一拍と置かずに気が付いていた。夜鷹・芥(stray・h00864)の前で笑っている無機質な蒼白は、問い掛けに対して思考するような沈黙を置いたのち、芥の思った通りの答えを返す。
「私を定義するのは皆様です」
 芥の脳裡に僅かに生まれた思考の余剰が、ふいに問い掛けに応え始める。
 帰る場所などなかった。
 最初からあったためしはない。路地裏で彼を育て上げたのは道具が欲しかった大人たちだった。ただ銃を向けて引鉄を引くだけの日々に、願うほどのものがあるならば――。
 ただ一条の、金木犀の香り。
 大それたものを望んだつもりはなかった。他には何も要らなかった。或いはそれこそが傲慢だったのか。唯一の居場所を永久に繋ぎ止めておきたいと、一身に願ったことが間違いだったのか。
 秋の馨りは雨に散った。代わりに立ち昇る血の香が全てを塗り替えていく。あの暖かな掌が消える。冷たく頬を撫でる雨。零れ落ちた体温を永久に奪い去った、自らの指が掛かった引鉄の感触ですら、覚えているのに。
 家族は――。
 心の底を優しく暖める熱の在処は。
 罪なる残穢には過ぎたるものだったか。奪い続けた者が|守りたい《・・・・》だなどと一丁前の口を利くなどと、赦された話ではなかったようだ。
 歪む幻影に裡なる哄笑が重なる。ひどく煩わしいそれを横目に、芥の眼差しは、しかし己が再び重ねた時間の先を見据えていた。
 一度喪ったのだから、喪ったままでいようと思った。
 だというのに、騒がしい声は芥を囲んで離さない。頭を抱えて個性に振り回されながら、眼差しで窺う笑顔の一片すら忘れ得ぬ|新たな記憶《・・・・・》は、気付けば彼の心の随分と大きな場所に陣取っていた。
 作るつもりはなかった。作ろうとも思っていなかった。それでも強引に引かれた腕の先で、彼の名を呼ぶ声が頭を過ぎるなら――。
 否定することは出来ない。したく――ない。
「此れで良いんですよね」
 幾度もなぞった金木犀の笑みを、またなぞる。
 芥は明るく頭を撫でる無遠慮な手と笑声にはなれない。それでも、せめて――彼がそうして己に向き合っていたように、新たな居場所に向き合おうと思う。
 だから。
 指先は撃鉄を起こした。向けた銃口は今ばかりは震えない。真っ直ぐに見据えた先の蒼白なる笑みを目掛け、銃声が一つ、確として鳴り響いた。

時司・慧雪


 問われたならば返事をするのも一種の儀礼であろう。
 たとえ相手に通すべき筋もなければ話も通じず、意志一つ持たぬと肌が理解していても――時司・慧雪(界岐堂・h00889)にとって、斯様な違和はさしたる問題ではなかった。
 理解をしてやる必要はない。必然、向こうに理解されねばならない理由もない。結局のところは平行線だ。どちらつかずの歩みが、どちらとも分かり合えぬのと同じことである。
 しかし――。
 考えを幾ら巡らせたところで、慧雪の裡には何も湧き出ぬ。
 そう即物的なものではあるまい。彼自身をこの地に縛り上げる軛というよりは、もっと裡にあるものを問うているのは、これまでのことから推察出来る。
 さりとて|帰りたい《・・・・》というほどの強い希求なぞ一つも持ち合わせてはいないのだ。事実は事実として、歪み意識を映し出すはずの鏡は、未だ漆黒と真白を湛えたまま、代わり映えせず男の前に揺らいでいる。
 ――両親は慧雪を一顧だにしなかった。
 父は終ぞ目すら合わせなかったし、母もまた愛した男の現身として、子へ与えていただけだった。未成年のまま残された孫を引き取った祖父母も、養育の義務を果たすほかには何らの愛着も持っていないことは、少年だった慧雪にもすぐに見抜けた。恨むほどの執着もない場所に帰りたいとは思わない。
 友人というほど深い関係を築くこともしなかった。もし気の置けぬ仲の者があったとして、まさか赤の他人の許へ|帰りたい《・・・・》だなどとは天地が引っ繰り返っても思いはすまい。畢竟、他者は他者に過ぎぬのだ。心を許すことと、居場所にすることとの間には、大きく深い隔たりがあるものだろう。
 旧懐を擽るような暖かな思い出を持っているわけでもなければ、今に心を落ち着ける安住の地があるわけでもない。むろん小ぢんまりとでも構えた店の暖簾に愛着の類がないとは言わないが――。
 それだけである。
 待ち望むように焦がれることも、祈るように身を寄せたいと思うこともない。看板を掲げた以上は付き合いも生まれようし、その稀薄な縁故の類を幾つも受け入れて来た。必然、慧雪が最もよく身を置くカウンターの居心地が、最も彼に馴染んでいるというだけの話だ。
 だから。
「お前さんの言う|帰りたい場所《・・・・・・》は、私には存在しない」
 答えは投じた。
 後は斬るだけだ。引き抜いた刃の冴え冴えとした白閃は、空疎を映し取る黒白のあわいに立つ蒼白なる女を、迷いなく斬り裂いた。

ライナス・ダンフィーズ


 いちいち鬱陶しい仕事である。
 幸福な夢、呼び止める声、最後に問うのが帰りたい場所か。脈絡のあるともないともいえない繋がりを、超常の目がいかに捉えているのかは知りもせぬ話だが、少なくともライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は怪訝に眉根を寄せた。
 何の意味があるのだかてんで分からぬ。理解するつもりもないのであろうに問い掛けを繰り返すなぞとは時間の無駄であろう。どうにせよ意味のないことを知っていても、意義を考えるのもまた人らしい情動といえようか。
 ともあれ隻眼の男は早々に思索を打ち切った。肩に載せていた長槍をぐるりと回す。構えはごく自然に、何らの躊躇も孕まずに、眼前の獲物へ穂先を向けた。
 叩き壊す前に応じてやろう。
「そんな場所無えよ」
 母のいない生家に帰りたいと思うことなぞ断じてない。
 蠍の毒はライナスの喉を今も狙っている。無関心な父と疑心暗鬼の毒婦におめおめ近付くような真似をする馬鹿がどこにいようか。
 掃き溜めには今も行き場のない子供らと使い物にならない大人が転がっていることだろう。育つほかなかったから育ったようなもので、わざわざ帰郷に労力を割くくらいならば新天地に足を向けた方が余程有意義だ。
 塒にしている場所すらも日によって違う。待つ相手も、待っている相手もいない根無し草にとって、それが|眠る場所《・・・・》以外の役目を持ったことはない。
 或いは――。
 より感傷的な捉え方をするならば、|生まれる前に帰りたい《・・・・・・・・・・》とでも嘯いてみることも出来ようが。
「そんなの死ぬのと一緒じゃねえか、|胸糞悪い《Nauseating》!」
 死ぬつもりなぞ毛頭ない。噛み千切ってやらねば気の済まない喉笛がある。研ぎ澄ませた牙で以て貫いてやらねばならない心臓があるのだ。
 それを差し置いて死と同義の虚無を受け入れるほど、ライナスは己の矜持を捨ててはいない。
「だから俺には、身体が帰る場所も、心が帰る場所もありゃしねえ。必要ねえんだよ」
 足は先に進むだけだ。それこそ事象の如く。或いは時間の流れの如くして。
 羽を休める場所があれば良い。そしてそれは、必ずしも誰かの存在を|よすが《・・・》にするようなものではない。次の一歩を進むために必要なのは、ただ己の足と、意志だけだ。
 眇められた金の隻眼が地を蹴った。狙うはただ一点、外なる存在と端末とを繋ぐ眼差しだ。
「分かったらとっとと失せろ」
 銀の髪が翻る。光と闇との合間を引き裂くように、穂先は蒼白なる女を貫いた。

雨夜・氷月


 顔を上げた先に、蒼白な顔がある。
 新月にほど近い眼差しに、唯一引き留められた光だけが僅かに揺らいだ。雨夜・氷月(壊月・h00493)の茫洋とした脳裡が問い掛けを認識した刹那、迷いなく零れ落ちる答えにようやく正体を取り戻す。
「ちがう……っ」
 悲鳴じみた否定が咄嗟に蓋をした。耳障りな声の主が次の無機質な声を上げる前に、月光を纏う花硝子で女の形をした躯体を貫く。
 我知らず額に添えた掌に冷たい汗の感触を覚えた。首を横に振って否定の言葉を叩き込んでも、一度表層に浮き上がった景色は強固に焼き付いて、消えてくれはしない。
 誰かを大切に想う心などあってはならない。氷月は何れ己を真に殺し得る神秘に辿り着き、この世の不要物を完全に破壊せしめる手段を得るのだ。そうすれば、顔も声も判然としない幾つもの指先の糾弾に応じて、ハッピーエンドに手が届くはずだった。
 いつの間に、どうして笑い声ばかり追うようになったのだろう。
 真の意味で|楽しい《・・・》と思うことなどなかったはずだ。それがどうして暖かな記憶として根付いてしまったのだろう。いっときの享楽を紡いで、誰の手にも触れず掠めず、破壊も守護も気儘に纏って歩いて来たはずなのに――。
 こんなにも暖かくては期待してしまう。そこに永遠にいられること。伸ばした手は当たり前に結ばれて、氷月を受け入れてくれること。
 一度も叶ったことがない願いだった。元より理を異とする存在は、他者に受容されること自体が高望みだ。
 分かっている。
 分かっているから払い除けて来た。最初から期待しなければ、失望も絶望もすることはない。傷付くことも――ない。
 それでも、幼い子供の癇癪のように、氷月の裡からは感情が溢れる。独りは苦しい。寒い。
 ――さみしい。
 性懲りのない祈りを思考ごと投げ出してしまいたい。取り出した刃をいつかのように首筋に当てた。食い込む冷えた感覚が意識を刈り取るまでのあと一歩が、しかしあのときと同じように氷月を引き留める。
「なんで」
 何故思い出してしまうのだ。
 ここにないはずの掌の感触と、こちらを見詰める眼差し。必死の色を僅かに孕む声。
 ――お前の存在価値は、もう其処で既に在る。
 しかと覚えているそれを起点に、記憶の糸は容易に次の幸福を手繰る。氷月に向けられるにはおよそ似つかわしくない、精一杯に伝えられる感謝の声。そこにいることを疑わぬように彼を呼ばう声。
 不要だと後ろ指を差したのは、今や顔も名前も分からぬヒトだった。
 今ここで、氷月の死を咎めるのも――同じ|ヒト《・・》との記憶であるなどと。
 いっそどちらかが別のものであれば良かった。同じ括りにある|モノ《・・》から与えられる冷たい硝子片と暖かい温度のどちらを信じれば良いのだ。氷月が心の中央に据えるべきが生であるのか死であるのかさえ、彼にはもう選べない。
 だから想ってはいけなかった。
 死を目指す足取りに躊躇があってはならなかった。せめて目を伏せて蓋をするくらいのことが出来るようにしておかなくてはならなかった。だというのに、氷月の冷えきった指先は温もりを求めてしまう。再び氷雨の中に投げ出されれば余計に苦しむだけだと知って、|今度こそ《・・・・》を信じたい心も捨てられない。
 疾うに手遅れだった。
 ほんの僅かに思い出してしまった温もりだけで、銀月の眼差しが光を取り戻すほど。
「嗚呼……会いたいなあ」
 顔を見て声を聞いて名前を呼んでもらえたら――。
 それでようやく、いつものように笑えるような気がしてしまうほど。

水藍・徨


 帰りたい場所など疾うに決まっている。
 頭の裡に描かれた最初の居場所――父と母の笑顔が宿る家を思いながら、水藍・徨(夢現の境界・h01327)はふと、頭に引っかかっていた疑問が鎌首を擡げるのを感じ取った。
 言い争うような声。続いた二発の銃声。思う端から振り払いたくなるような想像を否が応でも掻き立てるそれが、少年の心に深い疑念を植え付ける。間を置かずして育っていく芽を否定しようにも、彼の中にあるどこか確信めいた感覚が、なおも耳元で囁くように躊躇いを生んだ。
 ――二人は生きている。
 そのはずだ。死んでしまうようなことは|起きていない《・・・・・・》。今まで疑ったこともなかったはずの認識が、何かによって捻じ曲げられた虚構であるような気がする。足取りの先にあったはずの穏やかな日々はもはやどこにもないのかもしれない――打ち払うには傾き過ぎた疑念の天秤は、少しずつ少年の心に厭な想像を注ぎ込む。
 当たり前の現実の足許がぐらつくに似た感覚を遠ざけるようにして、徨の指先がきつくフードを握る。
 分からない。目の前の景色も曖昧に歪んでいく。彼が思う|帰る場所《・・・・》が本当に正しいのかどうか。
 半ば逃避じみた感覚で、徨は咄嗟に考えを巡らせた。両親のことを思えば思うほどに心に差し込む悍ましい想像を打ち払うために、他の|帰る場所《・・・・》を探し始める。
 管理機関ではない。帰るべき場所として思い出すのは友人たちの顔ばかりだ。彼らは皆、徨が自らの手で壊してしまった。空っぽになった独りぼっちの部屋にいることには違和感のようなものがあったから、思い出せない誰かの背を追って抜け出したのだ。
 居住しているアパートにて結んだ縁もある。しかしそれは|縁そのもの《・・・・・》を肯定するだけで、場所としてみればただ一時住んでいるというだけだ。大切に抱えて来た自由帳の中の|世界《Elpis》もまた、現実の彼が足を踏み入れたいわけではない。
 希望と理想は燃え立つような光となって徨の輪郭を照らし出してくれるが、思わず吐息が口を衝くような居場所とはなり得ないから――。
 彷徨わせる視線は光と闇に照らされた足許を彷徨った。
 理想の主人公になりたいと思ったことがある。
 もしかしたら最初に筆を執った理由は、そういう幼い願望だったのかもしれない。だが|なりたい《・・・・》という思いが徨自身を強く定義するわけではなかった。一度も手にしたことのない理想に、どうして帰ることが出来ようか。
 分からない。
 帰りたいと願ったことが、ないわけではない。だというのにその願望の先にあったものが判然としない。まるでこの世に独り取り残されたような感覚が、嘲笑うようにして徨の足をなおぐらつかせる。
 誰かが教えてくれれば楽だろうか。父と母が徨に幾つものことを教えてくれたように。
 誰かが決めてくれれば安堵を抱けるだろうか。管理機関が嘗て彼に幾つもの命を下したように。
 誰かの背が導いてくれれば辿り着けるだろうか。顔も名前も曖昧な、彼を連れ出してくれた誰かの背を追って外の世界へ出たように。
 それとも。
 ――思い付いてしまった結論を否定するように、少年はきつくフードの端を握って目を伏せた。首を横に振って最悪の空想を打ち払う。物語にすることさえも出来ないような、希望の全てを焼き尽くすような結末はとても受け入れられない。
 もしも――。
 考えたくすらないけれど、もしも本当なのだとしても、受け入れたくない。
 最初から、徨に帰る場所などどこにもない――だなどと。

櫂・エバークリア
黒野・真人


 これは人間ではないと、ただの一度の言葉で悟る。
 貼り付く笑顔から零れる音を聞き遂げた。女の形が問うた言葉は確かに人のそれと変わりない。だというのに――。
 蒼白なる流れと己の断絶を前に、黒野・真人(暗殺者・h02066)の本能は忌避を眩暈へと変えた。
 こんなものと対峙するのは初めてだ。理解する気のない問い掛けも、ただ観測を続ける虚ろな眼差しも、異質に過ぎる。彼が今しがた足を付けている場所が、本当に現実であるのかどうかすら疑わしくなるほどに。
 端末に何を告げたところで理解することはないだろう。人が抱えた幸福を、或いは歩んで来た地獄を俯瞰する眼差しには喜びも愉悦も憐憫もない。ならば真人たちの心に蟠る怒りも悲しみも怒りも、観察するだけの事象を前にして何らの意味も孕まない。
 言葉が――。
 言葉が本来伝えるべきものが通じない。
 だというのに、女の声は確かに意味の通ずる人の言葉で問い掛けた。きっと人の言葉で返せば、それを受け取って反応を戻すのだろう。吐き気のするほどの矛盾が背筋を遡る。鋭敏になった皮膚が粟立つのを感じた。
 ――コレがエイリアンってヤツか。
「ははっ」
 茫然と瞠目したまま、我知らず零れた乾き切った笑声で己の状況を思い出す。
 掌の鈍い痛みを認識して視線を落とす。いつの間にかきつく握り締めていた拳にぬめるのは汗ではない。開けば零れ落ちる紅色が、食い込んだ爪に幽かな痕を残している。
 敵を前にして呑まれるなどと、暗殺者にあるまじき失態だ。蒼白な女に攻撃の意志があったなら、真人はこの間に幾度死んでいるか分からない。
「クソみてーな機械どもと同じなんだよ」
 横から吐き捨てる声に視線を上げる。
 煙草の火を消した櫂・エバークリア(心隠すバーテンダー・h02067)の眼差しは、問い掛けを渡したきり無機質な視線をくれるだけの女を睥睨した。
 人の世の理の外にいる存在はおしなべて|こういうもの《・・・・・・》だ。どれもこれも空っぽで、そのくせ当たり前のように傲岸で、不遜である。こちらの都合を考えもせずにあちらの勝手を押し付けて、理解と融和を望むようなふりで無意味な質問を投げかける。
 あの花畑に幾人が取り込まれたか。その全てを、眼前の女は見詰めるだけ見詰めて捨て置いたのだろう。そして今ここで事象を解決せんとする櫂たちも、かの端末の向こうに覗く外なる眼差しにしてみれば、ただの観測対象にすぎない。何一つと揺り動かされぬくせに、一方的に見詰めて来ようとは、いかにもそれらしい遣り口だ。
 降り注いだ氷雨の気配は消えない。散々押し付けられて来た幸福な夢の残滓が心の底を這い回る。仕事中に煙草を咥えるなぞと、思えばあるまじきことだった。
 ――此度の仕事は、これ以上この外なる者の餌食になる人間を失くすこと。
 終わらぬうちから煙に巻くとは――。
「思ったよりムカついてんだ、俺は」
 逆立つ声をいやに客観的に聞きながら、櫂は己が心中に燃え盛る炎の熱を知る。
 望んでもいないのに脳裡を無遠慮にまさぐられ、取り出された断片を|真なる幸福《・・・・・》なぞと嘯いて目の前に翳される。無理矢理に口の中に入れられた歪な味に蹂躙されてなお喜べるような犬ではない。
 まるで――。
 胸中の炎が櫂自身を覆うようだった。
 瞠目する真人も見たことがない。これほどまでに怒る男だったのか。
 否。
 怒りと表現することさえ生温かった。櫂の身を覆うのは、猛るような烈火の炎である。
 熱が肌に触れるかの如き感覚を前にして、真人はふと合点した。
 櫂が生まれ育った世界は今なお蹂躙されている。彼自身もまた幾つもの喪失と理不尽を経験したはずだ。思考を持てど心を得ない機械どもに弄ばれながら、なお武器を手に立ち上がる人類の一人であるならば、眼前で超越者の眼差しをくれる心亡き存在を許せるはずもない。
 真人でも、常の彼を何と評するのかは知っている。飄々としたそぶりは纏う堅牢な鎧だ。それを引き剥がした先の剥き出しの猛りを目の当たりにしているのだ――と。
 だが。
 櫂は理性を捨てたわけではない。成すべき仕事は成すべきで、斯様に何らの理解も示さぬ無機質な微笑みに呑まれてやる必要もない。それより。
「真人、帰ったら飯作ってやんよ。何喰いたい」
 共犯者の唐突の問い掛けに、真人がきょとんと瞬いた。その魔案差しが何より現実を教えてくれるものだから、櫂の眦もまた僅かに色を和らげる。
 常の日々へと立ち返るための儀式のようなものだった。ごく当たり前の――手を伸ばせば隣にある現実を、漆黒の青年が連れて来てくれることを、櫂は知っている。
「何でも良いの?」
「おう」
「っしゃ、ドデカ盛りトリカラ! この前搬入した分、全部な!」
 ふと消えた炎の熱感の理由は分からない。それでも告げられた食事の話は何より真人の心を掴んだ。ちょうど二キロばかり搬入された唐揚げを思い出して、ガッツポーズと共に弾む声で応じる。
 知らぬ間に足は地についていた。目の前にあるのは間違いなく現実の光景だ。夢は終わり、仕事を成したなら、すぐにも帰るべき前途が二人の目に差し込んでいる。
「やっぱアンタといたら現実忘れねえわ」
 笑声を孕んだ真人の声に、先まで櫂の心の罅から零れ落ちていた炎も|なり《・・》を潜める。最後に残った煙草の煙の如く宙へと融けて霧散して、もう形も分からない。
 だから次に開いた唇は、常とよく似た飄々とした色をして、真人の耳朶を揺らした。
「気にすんな。俺にとってもなんだからよ」
 それでこそ共犯者であろう。
 真人もまた頷いた。先まで考えていたことも、掌から零れ落ちた鮮紅と共にしまい込む。今となってみれば下らぬ思考を分かち合うよりも、今は互いの存在を現実への鋲として、使命感と闘志を奮い立たせる方が有意義だ。
 |こんなもの《・・・・・》の勝手を許すことは出来ない。何一つとして理解を催さない超越者のマン差しを、真人も櫂も許しはすまい。斯様に無機質な視線にくれてやるべきものは何一つとしてないのだ。
 それこそ――人間としての矜持なぞ、尚のこと。
 心の裡に深く根差した信念こそが人だ。感情に呑まれ、時に迷い、痛みを引き摺りながらでも進む――その何たるかすら理解一つしようとしない、目の前の端末に価値はない。その確信もまた、二人同時に済ませている。
 とはいえ、真人は誰に対しても律儀な青年であった。返事を返さぬのも|公平《フェア》な態度とはいえまいと、頭の裡を過ぎる素直な感性を抱えている。
 櫂もまた先より穏やかに目を眇める。深く心を覆った烈火のような怒りは収まれど、眼前の端末が幾度となく相手取って来た機械群どもと大差ないことは変わりない。
 斯様な物品へ返してやる言葉なんぞ、とうの昔から一つに定まっている。告げることに造作はないが、しかし確信はあればあるほどに良いことも、櫂は知っていた。
 だから。
 今の話をする。未来でも過去でもない、櫂の目の前にある漆黒の共犯者と歩む、現実の話を。
 ほんの些細な現在が、二人の前に幻想を映し出す。それは日々を過ごすのと何ら変わりない景色だ。それを見据えてようやく、二人は顔を見合わせて小さく笑った。
 暗殺者の身は神なる鳥を纏い、バーテンダーのナイフは殺意を纏う。必要な六十秒はとうに過ぎ、二人が蒼白なる端末を打ち砕くのに必要なのは――。
 ただ深い踏み込みと。
 声を揃えた返答だけだ。
「現実へに決まってんだろ!」
「現実へだ! 失せな!」
 同時に振り抜かれた白刃が蒼白なる女の形を穿つ。水の如く流れ落ちる青い液体が、彼らの帰るべき現実の道へ零れ落ち、切り拓く隘路の道標のように光った。

ツェツィーリエ・モーリ


 そこはお前の帰る場所ではないと、声が呼ぶ。
 問いの答えは自然と意識に浮き上がって感ぜられた。ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)の中には、彼女が認識するまでもなく決まっている答えがあるはずだった。
 少し前であれば――この旅を始める前であれば、きっと育った孤児院だったろう。弟妹たちの声が笑い、優しい母が名を呼んで、不器用な父が料理を振る舞ってくれる暖かな居場所だ。
 今は主を待つ家であろうか。幼馴染みの如く育った二人との間に、主人とメイドと言葉にするほどの隔てはない。殆ど姉弟のように気の置けない二人のために忙しく動き回るのは、今やツェツィーリエの中にしかと根付いた日常だ。
 帰りたいと思っていた。今も――思っている。
 だというのに。
 目の前の無明の暗闇は、何一つとしてツェツィーリエの望んだものを映しはしなかった。
 静謐が、彼女の中に芽生える疑心を肯定している。囁く声は嘲笑うように絶えず耳に響いている。暖かな日の光の下は、帰るべき場所ではない。或いは。
 ――居場所ですらない、と。
 怪異が映し取った景色は、彼女の裡に常から響く声を調子づかせるようだった。まるで彼女自身を呑み込むようにして、渇望が鎌首を擡げる。
 ――足りない。
 何が足りないのかも分かりはしない。美味しい食事を幾ら食べても、誰かの笑顔のために幾ら貢献しても、決して埋まらぬ幸福の底で何かが疼いている。渇き飢えるそれが求めるものが何であるのか、ツェツィーリエ自身にすら見当がつかないというのに。
 ――欲しい。
 あたたかなものが欲しい。触れたい。三十七度にも満たぬ人肌の柔らかな感触では満たされはしない。もっと深くにある輝き、人を人たらしめる原初の温度を、この手に収めたい。
 衝動はツェツィーリエの奥底で疼いている。いつでも彼女の前に鎌首を擡げ、その全てを明け渡して思うままに振る舞うことを望んでいる。そうすれば――。
 そうすれば。
 ツェツィーリエは愛を忘れるだろう。尊ぶ心を失うだろう。抱いた最初の願いを――ただ守りたいと植え付けられた信念を、掻き消すだろう。
 思うさまに奪う。彼女の欲している輝きと温もりを全て手中に収めて頬ずりをする。しかし儚く柔らかな命は、冷たい|死《・》の指先に堪えられないだろう。きっとすぐに壊れて消えてしまう。だから彼女はまた、新しい温もりに手を伸ばす。この世にある温度の全てが途絶えるまで。
 分かっている。分かっていた。ずっと蓋をし続けた心にある渇望を受け入れてしまえば、彼女は彼女が守ろうと律した全てを致命的に傷付ける。
 きつく目を閉じても更なる無明が広がるだけだ。耳を塞いでも、裡側から響く声を遮断することなど出来はしない。
 ツェツィーリエは――|ツェツィーリエ《・・・・・・・》でありたいのに。
 誰もを守るメイドさんだ。世界の味方だ。それ以外のものになりたいと思ったことは一度もないはずなのに、目の前の無明は彼女を容易く呑み込もうとする。少女の皮を丁寧に削いで、裡にある全てを暴いて曝け出そうとする。それが――。
 怖い。
 抜き放たれた大太刀は、気付けば眼前の端末を切り裂いていた。這う氷が青い体液を凍らせていく。張り付いたような笑顔は倒れ伏してなお変わらず、咄嗟に目を逸らしたツェツィーリエの裡で、しかし声は止むことなく彼女を駆り立てる。
「やめて」
 ――ここにいたいのに。
「呼ばないで」
 温もりなど要らない。この|本能《たましい》が願う、決して手を伸ばしてはいけない何かが手に入らなくとも構わない。渇望が埋まることなどなくて良い。ここにあることを赦してもらえるならば。
「私は、ここにいたいの」
 人でないものが、人の恰好をして、人の中で生きる。それがどれほど荒唐無稽な願いなのかを、ツェツィーリエは疾うに理解している。
 幾つもの枷で|私《・》を封じた。|わたくし《・・・・》の堅牢な鎧で身を覆ったのは、己を守るためではない。
 己から、世界の全てを守るためなのだ。
 取り返しのつかない罪を背負ってなおも、ツェツィーリエには紡いだ絆がある。愛された過去がある。この世界に留まりたい理由が幾らでも湧いて来る。そのために剣を取って、そのために敵を斬り伏せて来た。
 人の世の温もりが自身にとって劇毒であることを知りながら、それでもここにいたいと思う心までも、否定されねばならないのか。
「お願いだから――」
 冷たい冥府の門の向こう。本来あるべきであった災厄の形。人の意志を得ることがなければ、身を浸していたのであろう|茫洋の海《・・・・》の彼方――。
 ツェツィーリエが本当に求めるものを手にしたときに行きつく、凍てる|夜《・》に。
「そこに還れと、呼ばないで――」

ラデュレ・ディア
ラナ・ラングドシャ


 繋いだ手の温もりが今度こそ離れてしまわないよう、固く強く握る。
「ラナ……! よかった、やっと会えましたね」
「……ラー、レ?」
 目の前のロップイヤーは柔らかく揺れ、小さな掌からは先までの凍てた隘路の幻想を振り払うような温もりが伝わって来る。瞬くラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)の目の前で、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は消えなかった。
 ようやく戻って来られた――と思った。眠りに落ちて、隘路を渡る間のほんの僅かな時間であったはずなのに、指先に伝わる暖かなラデュレの体温が愛おしく懐かしく思える。
 まるで長い間、離れ離れで放り出されていたような気分だった。目の前で微笑むロップイヤーに溢れ出す思いを堪えられぬまま、ラナの手が小柄な体を抱き寄せる。
「ラーレ……! よかっ、た。よかったぁ……!」
 無事だった。また会えた。護ると誓ったほんの小さな温もりが、今ようやく胸の裡に戻って来たことに安堵して、桃色の双眸は止めどなく涙を零す。
「離してしまってごめんね」
「ありがとうございます、ラナ。いいえ、わたくしは平気なのですよ」
 涙ながらの声を聞きながら、ラデュレもまたラナの胸に頬を寄せた。暖かく柔らかな体温が全身を包む感覚は、あの白花の寝台の中で眠りに就く直前に感じたものと同じだった。
 いつでもラデュレを護ってくれる。怖気づけば掌を握り締めて笑ってくれる。まるで怖いものなど一つもないように、太陽と同じだけ明るく笑う。
 それでも――小さな掌が撫でる背中は、決して万能の盾ではない。背丈の分だけ大きいから強いように思えるけれど、ほんの華奢な、少女の感触だ。
「……ありがとう。ボクの名前、沢山呼んでくれて」
 ラナを導いてくれた指先の感覚を背に感じながら、大きな猫は一つ鼻を啜った。零れ落ちた涙の残滓は目許に残るが、それが零れ落ちることはない。互いにここにいる。こうして固く体を寄せ合えている。ならばもう、涙を流す必要などありはしない。
 万感の感謝の声を受けて、ラデュレもまた充足したような安堵を覚えた。いつも護られるばかりではいたくない。ラナは決して勇敢なる戦士であるばかりでも、ましてや姫を守るために剣を取って傷付く騎士であるばかりでもないのだから――。
 怖いことから守りたいと願うのは、ラナの方ばかりではないのだ。
「わたくしは……ラーレはお役に立ちましたか?」
「うん、うん! ラーレのお陰でボクは――」
 続こうとした感謝の言葉を遮るように。
 ぴんと立ったラナの耳に、垂れたラデュレの耳に、同じ問いが滑り込む。
 体を離して同じ方向を見れば、蒼白なる女の無機質な笑みが佇んでいた。捻じ曲がる空間の中で、二人を何らの感情も宿さぬ笑みで見詰める端末へ、ラデュレの声が確信めいた色で問う。
「あのとき感じた視線……あれは、あなたさまのものだったのですね」
「お気付きの方もいらっしゃるとは思っておりました。ええ、その通りです」
 隠す意図は見受けられない。或いは意義がない――とでもいう方が正しい声色だった。
 ラナの眼差しは僅かに揺らぐ。問いへ応え始める意識の表層が何を描くのか、彼女には疾うに理解出来ていた。心の裡に否応なしに広がる波紋は、しかし隣にある温もりが渡してくれた言葉と声の数々によって、大きな猫の足に確かな力を宿してくれる。
 ――ボクは、独りじゃない。
 隣を見ればラデュレも笑っている。交わされた眼差しは今にも空間に断絶されてしまいそうだったが、ラナには怯える理由もなかった。
 明るく快活に歯を見せる、太陽のような笑みへと、ラデュレもまた確かに頷いた。目の前に見えるものが何であっても、二人はまた必ず手を繋げると、信じているから。
 ラデュレの前には曖昧な祈りが広がった。
 見も知らぬ過去の己を、取り戻したい。せせら笑う紅い幻想が何者であるのかを知りたい。この身に何が起きたのか、あのギャベルの音が何なのか――振り返るたびに目の前に迫る暗渠を照らし出すことを望んでいるのは、否定しえない事実だ。
 手を伸ばすたびに不安にもなる。よすがのない己が、よすがを求めて過去に期待しているような気になるのだ。掴むのが希望なのか絶望なのかも分からぬままであるというのに、彼女が真に望むものが手に入ることをごく自然と思い描いているような――。
 だが。
「わたくしは、ラナと一緒に探していきたいのです」
 過去に戻りたいわけではない。
 もしかすれば、彼女の温もりを知る前であるならば、正しく目の前に過去を映し出して欲しいと願ったのやもしれない。しかし紡いだ絆は確かに目の前に道を示してくれた。千々に割れた欠片を拾い上げるために、必死に地面だけを見詰めるのではない――二人で前を見て歩くための、道を。
 だから。
 ラデュレは前を向いた。
 他方のラナの前には明瞭な過去がある。
 暖かな部屋で気儘に歩き、弟妹たちとじゃれ合って遊ぶ。丸くなって眠り、お気に入りの籠を取り合って、優しい掌に撫でられるのを待つ――自由で、優しくて、幸福な|時間《ゆめ》だ。
 弟妹たちの声が呼んでいる。|ぱぱ《・・》と|まま《・・》が笑っている。鼻の奥が痛くなるほどに懐かしい光が、ラナのことを呼んでいる。
 それでも、ラナは笑って首を横に振った。
「ばいばい、ありがとう」
 零れたのは訣別の言葉だった。
 或いは彼女も、この温もりを見付ける前であれば、戻り得ぬ過去へと手を伸ばしていたのかもしれない。まどろみの中に再び身を埋めることを良しとしたのかもしれない。しかし、ラナはもう見付けてしまったのだ。
 亡失を経て、新たな温もりの中で永遠の眠りを迎えた。今再び新たな命を宿して前を向いたとき、隣にある幸福は、過去のまどろみよりもずっと鮮烈にラナの大きな体を照らし出してくれる。
 だから。
「そして、行って来ます」
 ラナは幸いなる夢に背を向けた。
 同時に歪んだ幻想は新たな光景を描く。黒白の光、立ち尽くしたまま観測を続ける端末、そして。
 固く握り合った掌の、確かな温度。
「ボクの帰りたい場所はここじゃなくて、ラーレの隣なんだ」
「わたくしの……ラーレの帰りたい場所は、ラナの隣です」
 顔を見合わせる。
 同時に零した宣誓は、果たして同じ形を描いた。揃った心が映し出したのは幻惑でも幻想でもない。確かに横にある、|現実《いま》の体温だ。
「ラーレも?」
「ええ。とても嬉しいお揃いですね」
「ふふ、そっか……! そうだね!」
 ならば尚更帰れない。望み、望まれて、だというのに指を離す理由はどこにも見当たらない。
 後は――宿した温度を確かにするために、目の前の脅威を打ち砕くだけだ。
「おいでくださいませ、皆さま方。わたくしに、力をお貸しください……!」
「みんなも、お願い!」
 ラデュレの声に応じて現れるのは、|女王《クイーン》不在の兎たちだ。|ラナ《かぞく》を助けるために現れる仔猫たちもまた全身に気合をみなぎらせている。
 言葉で解決することは出来ない――と、ラデュレは疾うに知っていた。ならば力を示して切り拓くほかに道はない。
 敵にも、力にも、恐れる必要はない。固く繋ぎ合った指先は、いつでも彼女を守ってくれて――守りたいと思わせてくれるから。
 ラナもまた、確かに握り締めた掌の温度を糧として、しかと大地を踏みしめる。
 思い出は思い出だ。過去は過去だ。決して現在でも未来でもあり得ない。時に振り返り懐かしみ、愛おしむ時間を必要とするのだとしても、正しく幸福|である《・・・》わけではないのだ。
 続いた道の先にある景色にこそ、真なる幸いが灯るだろう。二人で進めば、きっといつか、さがしものも見つかるはずだ。そしてそのときにこそ――。
 ラナとラデュレは手を取り合って、心の底から大きな声で笑い合うのだ。
「みんなで、一緒に!」
 取り返しのつかない過去を抱えたままで、幸いなるために。

日宮・芥多


「確かに帰りたいと本気で願いましたよ、俺も」
 日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)の声音は存外に淡々とした響きを帯びた。
 特段の意義もない。隠し立てしたわけでもない。帰りたいからといって帰れるわけでもなければ、事実として目の前に広がっている暗渠を否定するような材料もない。どれほど受け入れがたい現実であっても――。
 受け入れるほかないだろう。
 現実であるのだから。
「だって帰りたい場所が何処にあるのかわかりませんしね、俺も!」
 へらりと笑う顔は常の色と変わりなかった。芥多の脳裡に去来する焦がれた情景はどうあれ目の前には現れそうにない。
 死にたいと願って死ねる体だったときは、思えば幸福であったのかもしれない。もはや彼は彼自身の意志でこの世を去ることすら奪われてしまったし、そも心から愛した人はそれを心底から嫌がるから、|何があっても《・・・・・・》それだけは選ばないと約束してしまった。
 そのうえ斯様な身の上になるとは思いもしなかった――というよりも、これほど荒唐無稽な存在があるとはさしもの芥多も思いもしなかった、という方が正しいか――から、この世から彼女を奪い去った元凶は怒りに任せてその場で殺してしまった。肚の奥に渦巻くどろついた感情を武器に乗せて叩きつけようにも、肝心の相手がいない。
 あの日に迷い込んだ場所は未だに見付からないから、頸と胴体の離れてしまった花嫁がどこにいるのかも分からない。探し当てたとしてまさか彼女がそのままの姿でそこにいることはないだろう。
 生きていなくても――。
 髪に触れることは出来たはずだ。全てを灰にした後の、小さな壺に収まった|彼女《・・》に手を合わせることは出来たはずだ。それなのに。
 芥多の目の前に彼女の存在を証明するものは何一つ残らない。もう二度と髪を撫でてやることは出来ないし、それどころか骸を荼毘に付すことすら出来はしない。笑顔の遺影だけがある、空っぽの仏壇に、彼の愛した人の証明は宿りはしない。
「いつだって俺は、俺の居場所に帰りたいだけなんですがねぇ」
 ――ただいま、といったら、おかえり、と返して欲しい。
 食事がなくても構わない。電気が点いていないなら芥多が点ける。彼女の言葉が彼を咎めるなら何だって聞いたし、ただ幸福に笑っていてくれるのであればいかなる道を選ぶにも躊躇はなかった。
 高望みをしたつもりは、芥多にはない。
 ベッドに横になれば当たり前のようにある温もりを抱き締めて眠り合う。帰れば彼女がいて、ようやく息を吐ける。ただ笑い合って、時に少しの諍いがあって、最後には隣合って身を委ねる――共に生きていく日々があれば、それだけで良かった。
 だが。
 彼の目の前に広がるのは塗り潰されるような虚空と、貼り付いたような笑みを浮かべた女だけである。
 彼の望んだものはどこにもない。帰ろうにも手段がない。何一つとして手許に残らなかった|彼女《・・》の証は、彼の心の裡に永劫埋まらぬ大きな空洞を開けて、満ち足りた幸福を正気ごと奪い去ってしまった。
 それを――。
 真っ直ぐに見詰めながら、芥多はいつものように笑った。
「……はは、仕方ない、仕方がないです! 俺はどうにも運が悪いので」
 一切合切、運のせい。
 何もかも運が悪い。この世に起こる不条理は大抵は運の悪さの一言で片が付く。彼が全てを喪ったのも。最高の幸福と、その先に続く未来を喪ったのも。彼女の首が転げたのも白い衣装が鮮紅に染まったのも何一つ持ち帰れなかったのも今ここに彼女がいないのも彼が死ねない体になったのも最後の|機会《チャンス》に死ぬことも許されなかったのもカメラロールの長い空白も繰り返し見る悪夢も視たくもない蒼白な女の顔を見詰めているのも今ここで暗渠に向き合っているのも全部。
「全ては運が悪いせいです」
 踏み出した一歩が軋む。
 芥多の姿は既に変容していた。罅割れた空洞からは尽きせぬ怒りの炎が燃え立っている。蛇の如き金色の眼差しは真っ直ぐに獲物を睥睨した。
 もっと殺し方を考えれば良かった。こんなことになるくらいなら、もっと良いやり方があったはずだ。何度でもやり直せるなら一度くらいは白星をくれてやっても良かった。剥き出しになった骨は蛇蝎じみた異形を描き、咲き誇る黒百合と彼岸花が心の臓から溢れ出す。
 黒く変質した腕は鉤爪の如く振り上げられた。燃える髪の先までもに悔悟と憤怒を灯したままで、芥多の声は低く、眼前の端末へ唸る。
 もしも。
「もしもこれが全てお前のせいだったなら、この怒りを簡単に晴らせて良いのにな?」
 ――単なる八つ当たりでなければどれほど救われたことか。

冷嶋・華子


「ふふ」
 可笑しくもないのに笑いが漏れた。そも冷嶋・華子(つめたい・h03803)に笑んだつもりはなかった。目の前の蒼白な女の、命の温度を一つも感じぬ絡みつくような視線は、疑念も当惑も浮かべずに華子を見ている。
 それをして無垢だと呼ぶのであれば――まあ、無垢であるとはいえようが。
「いえ、なんでもないのよ。ただ、幾つかの本を思い出したの」
 終わらぬ嫌悪感で異界と死を呼び起こす六つの短編集であるとか。
 モキュメンタリーと呼ばれるジャンルが有名になって久しい。とみに最近は後味の悪いものばかりだ。現実と肉薄する異界。幻想と紙一重の恐怖。違和感を手繰った先にある真相を知れば手遅れになる――胃の腑の底に蟠って抜けない棘に似た感触が、胸の裡に苦渋を残して、最後の頁を迎える。
 ジャンルの流行の先駆者ともいえよう存在の執る筆は実に的確に人間心理の暗渠を衝く。揺さぶられた心が現実に戻るまでに幾許時間が掛かったとの評も納得がいこうというものだ。
 華子の唇は尚も冷え、しかし笑みをかたどった柔らかな粉雪の如き頬は崩れない。黒白の狭間に立つ端末の視線を一瞥して、真白の女は小さく鼻を鳴らす。
「褒め言葉よ? 人の綴る字があれだけ生々しい、嫌な質感を生み出せるなんて――見習うところがあると思ったの」
 人間災厄として。
 或いは――身を作る源流の片割れの、生まれ落ちて育った理由としても。
 語り終えて零した吐息は凍てついている。指先までもを凍らせるような冷気の中で、華子の眼差しが僅かに細められた。
 脈絡のない話をした。口を挟むこともなく微動だにせぬ女の形をした端末のことを真に理解出来ないのだとしても、災厄には分かっている。
「貴女の問いには何にも関係ない話よね。けれど、貴女はそんな事気にしないでしょう?」
 だって。
「貴女、|そういうもの《・・・・・・》なんでしょう?」
 昔の己のようだ。
 間違っても生物ではない。定義された存在理由のためだけにその場に在る。己の生まれた意義にのみ忠実に動き、それ以外の何も出来ない、この世の仕組みとよく似た存在だ。
 規定されたプログラムに善悪はない。己のやっていることの意味も分かってはいないだろう。理解する必要がないからだ。それが何を齎すのかに興味を示す機能など搭載されてはいない。ただ在るように在り、作られたように動く。
 かの蒼白なる端末に与えられたのは|観測《・・》のみである。他の何を成す必要もない。|かくあれ《・・・・》と定義されているから、自らを作り上げるそれに従って意志のあるように見えない瞬きを繰り返し、意味ある人間の言葉を模して聞こえる音で問う。
「憐れとは思わないし、愉快だとも思わないわ」
 今は一足先に這い出したが、結局のところは華子と同じ穴の貉だ。ただ。
「わたしね。今、すごく機嫌が悪いの」
 凍てる眼差しが端末を見る。
 胸の裡に苦味を残すモキュメンタリーの表紙を閉じたときの思いを、何千にも何万にも膨らませてなお足りない。この世のいかなる創作物であったとて、華子にこれほど厭な思いをさせることは叶うまい。
 真なる幸いなど見たいと思ったこともない。
 見ぬために目を伏せた。本懐と相反する心を優先したからだ。それを目の前に暴かれて、真白の死したる大地の無辺を、大切な魂と共に歩く夢を見せられた。目覚めてなおも華子を絡め取った声は嘗ての己によく似ていた。絡みつく闇と絶え間ない呪詛の呻く声を聞きながら、否応なく光に呑まれて――。
 挙句の果てに|帰りたい場所《・・・・・・》だなどと。
 そんなものはない。あったことも――ない。
「わたしがわたしで在って以来、今までで一番不愉快だわ」
 唸るような声に、しかし万物を凍えさせる冷気が逆巻くことはなかった。意味がないからだ。むやみやたらと危害を加えたところで相手は単なる観測者の眼差しに過ぎぬ。幾度にも作り直されて、幾重にも現れては、また同じことを繰り返すのだろう。
 だが――。
 華子の視線は、零下の温度で蒼白なる女の形を見た。
 問いに応じるのも癪である。
 存在意義を成就させ、満たして、こちらからは観測することすら出来ないような彼方の外なる眼差しを充足させる――なぞと、ただでさえ苛立たしいところには堪えかねるほどの業腹だ。
 だから。
 華子は指を組んだ。
「祈るわ」
|祟神《かみさま》に。
「|貴女の存在理由も観測も全て無駄で無為になるように《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》って」
 切なる祈りと願いに応じ、現れたる|祟神《カイイ》がけたたましく笑う。無数の札と鎖に縛り付けられた形は正しく零落した神の如く、しかし既にその身に道理も倫理も宿ってはいない。
 瘴気と腐臭を垂れ流す祟神は、術者の祈りを聞き遂げた。既に何もかもを見失った|それ《・・》は、当然ながら|傷付けない《・・・・・》ということの定義そのものを捻じ曲げている。たとえばいかなる形になり、いかなる苦しみにあえいでいても、命一つさえ無事で生きているのであれば、傷付けたとは考えない。
 そして――眼前の端末は、生きてすらいないのだ。
 眼が奪われる。肉体がひしゃげる。零れ落ちる蒼白な|体液《オイル》が命を証明することはない。息をしない体の肺腑に似たものが押し潰されたところで何らの意味もあるものか。
 曰くモキュメンタリーにおいてカメラとビデオは大いなる役割を果たす。監視カメラ。スマートフォン。ハンディカム。一眼レフ。時にVHSにまでに遡る|映像記録《・・・・》は、再生するSDカードを失えばただの我楽多と変わりない。だから。
「笑えるくらい台無しになって頂戴ね」
 頭を破壊された女に、笑う。
 ――そうじゃないと、八つ当たりした甲斐がないもの。

ノーバディ・ノウズ


 闇も光も一緒くたにした混沌が、首の上に収斂している。
 相対すればどちらが怪物なのかもよくは分からぬ。片や蒼白なる端末は美しく静謐な女の顔に笑みを張り付け、片やノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)の|ない《・・》頭には白とも黒とも付かぬ奇妙な渦が巻いている。
「『|WHO《だれ》』の次ァ『|WHERE《おうちはどこ》』ってか? 質問がそんなにお好きかよ?」
「質問を好んでいる、というわけではありません。観測のために最も有効な手段を用いています」
 吐き捨てるような男の声は朗々と続く。両腕を広げる仕草にも女の表情が変わることはない。淡々と――或いは滔々と、流れるような声音が紡ぐのを聞き遂げるや否や、ノーバディはひときわ胸を逸らして大笑してみせた。
「こんなにインタビューされちゃァ人気ヒーローも顔負けだな。まァそもそも俺の顔がねェけどな!」
 呵々大笑に乗せた冗談は光と闇の淡いに融けていく。何らの反応も返さず、ただ彼を見詰める女の形との間に落ちた沈黙を、|重い《・・》と感ずるのすらノーバディだけだ。
 肩を落として溜息を零す。顔があれば眉間に皺を寄せて一瞥していたことだろう。感情を表示するモニターすら失った今、渦巻く混沌から感情を読み取るすべがあるとすれば、大袈裟な身振りと声色ばかりである。
「――はァ、嫌味もジョークの一つも通じそォにねェ、宇宙人と話してる方がユーモラスだぜ」
 いっそのことこの端末の先にいる何かが目の前にでも現れた方が有意義かもしれない。
 ノーバディの前で歪み出した景色が、精確に彼の脳裡を映し取り始める。帰る場所――と言われて、今の彼が思い浮かべるのは二つだけだ。
 |今の彼《・・・》の|故郷《ホーム》。首ごと記憶を見失い、およそ人らしいとはいえない境遇と姿の彼を迎え入れて、誰とも変わらぬ者であるが如く扱ってくれる場所だ。いつ行っても騒がしいから、たとえ首のないばかりに聴覚野も明瞭でないようなときでも、きっとすぐに分かるだろう。何より誰もノーバディを放ってはおくまいから、無遠慮な手の温度が彼を捉えれば、掌と同じだけの温度がある街並みを否が応にも思い出すに違いない。
 次いで早送りのように現れるのは|今の職場《カンパニー》の景色だった。扉を潜ればいつも通り仕事と同僚が出迎えてくれるだろう。誰も彼も特殊な事情を背負っているから、ノーバディの首のあるなしに拘るような者は誰もいない。書類の向こうで笑う顔がかわるがわる映し出されるさまは、さながら走馬灯の如きありさまだった。
 まるで――早く|その先《・・・》に辿り着かせようとしているようだ。
 やがて電源を落とすかの如く、ノーバディの知る景色が途絶える。最後に残るのは静寂と、無辺の暗渠のみである。テレビを消した後の画面であれば己が映り込むだけまだましだったか。
 本当に|帰る場所《・・・・》――出生の地など、首と一緒にどこかへ忘れて来てしまった。
「聴いただけで思い浮かべたもん映し出すのはなかなか悪趣味じゃねーか? 『|WHERE ARE YOU FROM《元居た場所は何処か?》』ってかよ」
 何度も同じ答えを返すのも芸がない。|NOBODY KNOWS《知るかボケ》は彼の十八番だが、いかんせん先から何度も言い過ぎて、ノーバディの方が先に食傷だ。
 捻りのない答えと共に蹴とばしても味気もあるまい。何より眼前の女の思うさま振る舞ってやるのも気が乗らぬ。真正面から応えるよりは――。
「こっちからもインタビューだ」
 ほんの意趣返しでもした方が良かろう。
 頭のあるべき位置にある光と闇は混沌となり、曖昧に光を揺らがせる。白とも黒ともつかぬそれが周囲を照らし出したとき、そこにある全ての|由来《・・》が輪郭を失った。
「アンタは誰で」
 ――顔が剥がれ落ちる。
「アンタは何時からそう在って」
 体の輪郭がぼやける。
「アンタは何処から来て」
 外なる者に繋がれた眼球の形をしたものが地を跳ねる。
「アンタの目的は何で」
 観測の意義が失われる。
「アンタは何の為に存在して」
 |定義《・・》が崩れて消えていく。
「アンタはどうやって存在してる?」
 ノーバディの中にある|─_ ̄=_ ̄─《定義不能のナニか》が、闇を綯い交ぜにした光の裡に紛れ込む。やがて光は遍く黒白を歪ませ、暗渠の中へと全てを誘った。投射する光の向こうにある何もかもを|定義不能《・・・・》に塗り潰す、悍ましき光の中に照らされて、外なる端末は己を定義し得る全ての言葉を失った。
 ただ人の肉に近しい外身を手に入れただけの機械に似たものが、定義を失えばどうなるというのか。
「よォ」
 ――|それ《・・》はパーツであった。
 パーツ同士の結びつきを失い、己が定義を以て築いた関連を失った。指と手の間にある定義を失くし、目と処理機構に通ずる連続性が消え、人の形をしていたことの意義が失活する。|5W1H《存在理由》の全てが不詳となった今、機材が機材であるための結び目が瓦解していく。
 何もかもが己を見失う中で――。
「自分が|Nobody Knows《何も分からない何か》になる気分はどうだい?」
 元より何も分からぬ男の声だけが、笑った。
「『知ったこっちゃない』けどな!」

久瀬・彰


 問いと共に脳裡に過ぎるのは、幾つもの情景だった。
 まず表層に立ち昇ったのは、久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)を構成するうちで最も根源的な光景である。帰りたい場所――と言われて、いつでもいの一番に思い返す|家族《・・》の顔だった。
 多忙な職責を背負っている割には、この歳になっても家族団欒の機に恵まれていると思う。何くれとなくメッセージは届くし、私用のスマートフォンの留守番電話には大抵の場合聞き慣れた声で留守メッセージが吹き込まれている。
 育ての親を父母と呼び、血の繋がらぬ|義妹《・・》を姉と呼ぶことに抵抗するような歳は過ぎた。といっても、彰には、最初からそんなものはなかったのだが。
 実子と|誰とも分からぬ《・・・・・・・》子に均等な愛を注ぐことがどれほど難しいことなのかを、彰はよく理解していた。胎の中で育て、また未だ言葉も喋れぬ頃から腕に抱いて来た自らの子供を優先したくなるのも人の情だろう。しかし彼を育てた父母は、便宜上の双子の姉となった少女と彰との間に一切の格差を生まなかった。その確たる信念を敬愛し、感謝して、同じだけの無辺の愛情を返したいと思って生きている。
 双子の姉も――。
 彰の名を一番多く呼んでくれているのは彼女だ。他に出会った誰よりも早くから、ずっと彼の傍で手を繋いでくれた。独りでいればたちどころに自らの輪郭を見失ってしまう彰を――彼女にその気はなくとも――保証し続けてくれた姉を、本当の意味で独りにするわけにはいかない。どれほど気丈に振る舞ったとて、天才には孤高と呼ばれる孤独が付き纏い続けるのだから。
 ただ。
 見慣れた情景がすり替わる。笑って手を伸ばしている姉の姿が、あの幸いなる夢の中に見た女の姿になって、彰に笑みを投げかけていた。
 もしもあらゆる瑕疵がこの世に存在しなかったのであれば。喪失したはずの何もかもが赦されていたならば――一度は濁水の裡に沈んだ██が戻り、彼を知る誰もの記憶に未だ██・██が残されていたならば。
 少年は手を離さずにいられたのだろう。離れることを考えもしなかったはずの|片割れ《・・・》と共に笑い合って生きていられたのだろう。
 その手を取りたい――と思ったことが、ないわけではない。
 心の天秤に乗る|彰《・》の反対側には██・██がいる。彼はいつか身を浸した冷たい濁流の中に在って、影の如く彰の脳裡にある暗闇の中を彷徨っている。|彼《・》の唯一知る幸福を思うとき、彰はいつでも、真実血を分かった片割れのことを思い出す。
 しかし、男は息を吐いて目を伏せた。
 分かっている。どれほど回顧すれど赤い首飾りは消えはしない。彼の判断が露と消えてくれるわけでないのと同じだ。まどろみの中に見る悪夢と同じような、目を開けば消える|もしも《・・・》を追い求めて現在を捨て置くほど、彰は子供ではおれなかった。永遠の泥濘に身を横たえて目を閉じて捨て去れるほどに、今ある光を軽視してはいない。
 それに――離すことすら考えてもいなかった手を離すと決めたのは、間違いなく少年だった。
 二度と繋げないと分かっていた。あの崖の下にある昏い霧のさなかから帰ることは出来ないとも理解していた。それでも、必死に彼を引き留めようとする片割れの手を何てこともなく振り払うようにして、永久の眠りを受け入れたのだ。
 何も分からない子供であれば弁明をしたのだろうと思う。知らなかったのだと泣きもしたのかもしれない。そう思うには、少年はあまりに聡明すぎた。自ら差し出す██が永久にこの世から喪われたことを理解しても、ただ静謐に事実を受け入れるだけだったように。
 どれほど望めど戻りはしない。最初の祝福は指先を零れ落ち、新しくこの世に形を留める久瀬・彰が生まれた。望外の二度目の命を手に入れても支払った代償は得られずに、彼の頭の中にはいつでも昏く深い霧が立ち込めている。
 己の存在すら覚束ない。かわるがわる差し伸べられて己の|名前《・・》を呼ぶ声も、差し込む光の名前すらも留めてはおけない。悪足搔きのように記す手帳に並べられたそれと、吹き込まれたメッセージを聞き返したときにしか分からないのだ。
 恨みはない。全て少年の決めたことだ。
 だが。
 だから。
 ――失われて戻らないはずのそれを再びこの手に得られるよう、差し込む光をなぞって足掻くのも。
 その向こうにあるのだろう、霧の晴れた快晴の空を仰がんと歩くのも。
 全ては|久瀬《・・》・|彰《・》の決めたことである。
 穏やかに手を伸ばす幸福の夢から、或いは快活に手を掴もうとする今の名残から、静かに視線を逸らす。その先にある蒼白な顔は笑みを湛えて彰を見据えていた。
 帰りたい場所は|そこ《・・》にはなかった。
 過去でも現在でもない。留まればただ融けていくばかりの黒く陰った水の底から、或いは目印を求めて伸ばした指先さえも霞んで消える昏い霧の裡から、彰が己の足で踏み出す一歩の先にあるものだ。
 そのために――成すべきことは、██・██であろうと彰であろうと変わらない。
 星詠みは白花の都市伝説を打ち払うことを依頼した。██を忘れても言葉を忘れたことは一度もない。あの真白の寝台の上に降り注いだ、無機質で生々しい視線の主を――。
 否。
 その端末を切り落とす。
 何ら痛痒はないだろうことは予期していた。所詮は外なる存在とは切り離された、単なる監視カメラの一台に過ぎまい。それでも破壊せしめれば干渉の手段を失うやも分からぬ。少なくとも、青き|目《・》を用いた干渉を断ち切れることだけは確実だった。
 たとえそれが一時的なものであっても、放置しておく選択肢はない。斃さずに去るまで待てば、河岸を変えて同じことを繰り返すのであろうことは明白だった。
 煮え立つように影が揺れる。惜しみなく注いだ霊力はやがて励起する槍の如くして顕現した。カミの力を宿すそれが端末の動きを封じるように地へ突き立つ。さながら檻に閉じ込められた囚人のような格好だった。
 これで――逃すことはあるまい。
 右手で軽く首飾りに触れた。そのまま持ち上げる指先に呼応して影が龍の如きシルエットで立ち上がる。無数の細い蛇が縒り合わさって、生まれたのはかの濁水に似た巨大な槍だった。
 術者の意に従い、槍は端末の|目《・》を正確に穿った。硬い――皮膚とは思えぬ音とともに砕けたそれが地に倒れる。零れ落ちる青い|体液《オイル》がたちどころに濁った水へ変わっていくのを見遣り、彰は幾分考えるようなそぶりで顎をなぞった。
 |カミサマ《・・・・》の力が外なる存在にまで届くか否か、彼には分からない。僅かであっても干渉が出来たのであれば、濁水と影となってやがて存在を消失するだろう。しかし、往々にして外なる者とは怪異に輪をかけて埒外である。
 そう都合良く事が運ぶとは思わない。冷静に状況を検分しながらも、男の眼差しには苦渋も苦慮も滲まなかった。
「――これは機関の皆と相談かな」
 彰一人で解決する必要があることなど、実のところそう多くはないのだと――。
 今はもう、疾うに知っている。

ケヴィン・ランツ・アブレイズ


 どうにせよ、眼前の視線はこの世界に背を向けて去っていくのであろう。
 張り付いた蒼白で他人行儀な笑顔を見遣り、男は一度目を伏せた。握り締めた拳の裡に感ずるのは己が心と、竜と人の狭間に在る命の端緒――ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の長き旅の始まりだった。
 燃え尽き果て、今やこの世のどこにもありはせぬ故郷を想う。自らの裡に燃える炎の火種を再び覗き込む。
 まず思い出すのは、あの惨劇の後のことだった。
 魔物たちを退けたケヴィンは、混乱する内情をさておいて、惨憺たるありさまの家屋の間を縫って歩いた。魔物どもに追い立てられていたときに比べれば足取りは緩慢だったが、同時に焦燥の熱を失った心には重く暗雲が垂れ込めた。声を投げれども転がった体の殆どからは返答もなく、辛うじて呻き声を返した者を含めても十指にさえ満たぬ生存者のうちで、何とか自らの身を起こすことが出来たのはケヴィンを除いてたったの一人だった。
 生存者を騎士団本部の地下へ運んだのは、殆ど覚醒したばかりの嘗ての竜一人だった。他の誰しもが起こり得ぬと思っていても、不測の事態に備えておくのが騎士団の役割だ。本分を忘れることのなかった彼らの遺した堅牢な地下施設は知恵なき魔物たちによって暴かれることはなく、救援を呼ぶための特別回線も未だ生き残ってくれていた。
 火の手の上がっているのは近隣の都市にも見えていたようだ。すぐにも応援を寄越すと切迫した声で告げて切れた宛の先を待ちながら、しかしケヴィンは休むことなく人々の顔を見て回った。
 重傷に呻く者の手当をすれば心の苦痛を訴える声がする。騎士団の面々は自らの無力に打ちひしがれ、目の前で散っていった、救えなかった――或いは救う手を伸ばすことも出来ないまま|見殺しにした《・・・・・・》命への罪悪感に項垂れた。辛うじて息をしていた民は喪われた家族や友を探して弱々しく名を呼んでいた。そのどれもに満ちる、遣り場なき悲しみと怒りを感じながら、ケヴィンは懸命にその手を取って励ましの声をかけ続けた。
 もしかすれば――。
 必死で周囲にばかり目を遣って、自らの裡に鎌首を擡げる同じだけの激情と混乱に目を向けずにいられたことに救われていたのは、未だ目覚めたばかりの竜の意識そのものであったのかも分からない。
 未だ、竜の眼前には分からぬことばかりが横たわっている。己について指折り数えるならば、知っていることの方が少ないとさえいえる。
 嘗ては“|総て碧《アルグレーン》”と呼ばれていたこと。弱く脆く小さな人の形に零落せねばならぬほどの罪を犯したこと。
 その罪の重さすらも、竜には分からぬ。いかなる禁忌に触れて斯様な罰を受けることになってしまったのかも、いかにしてその罪が暴かれたのかも、誰の手によって判が下されたのかも思い出せはせぬ。記憶の大洞を埋めてくれる者は最早この世のどこにもありはせず、過去に遡ることも出来ぬのであれば確かめるすべもない。
 だが――竜は確信している。
 己は破壊と享楽を好むが故に闇に堕したような存在ではない。未だ意識の眠る中、人として人々の中で騎士としての指標に手を伸ばし続けたのと同じように、竜として在るべき姿を軽んじ唾棄したことはない。
 この心に筋違いの憤怒も恨みもないことが、何よりの証左であろう。己は己の意志を貫き、或いはそれこそが状況を打破し益を齎すただ一つの方法だと信じていた。禁忌に触れた後に与えられる罰を理解して呑み込んですらいたのかもしれない。
 少なくとも、人の身に宿った竜の心は、その選択を後悔してはいなかった。思い返せど満ちるのは静謐な決意と穏やかな受容だけだ。それだけは明瞭に覚えている。
 ――とはいえケヴィンが己の裡と向き合えたのは、故郷における災害という他にない全てが過ぎ去ったのちのことだった。
 隣の都市より派遣された救援部隊は迅速に彼らを助け出して労った。瓦礫に埋もれ、地に伏した犠牲者たちのうちには身元すらも判然とせぬありさまの者も多くあったから、可能な限りの配慮と共にようやく弔いを終えるまでにも随分と時間が掛かってしまった。
 ケヴィンの他に一命を取りとめた者たちは、傷が癒えるのを待って散り散りになっていった。街に居を置いていたからとて遠い親戚や友人が他の都市にないわけではない。惨禍を目の当たりにした保護先も可能な限りの差配をしてくれたこともあって、最後までその去就を見守ったケヴィンが一人静かに己の内面と向き合う頃には、疾うに混乱は過ぎ去っていた。
 全てを喪ったことへの悲しみや苦しみもまた、激情というよりは静謐な大洞として青年の中に蟠った。絡まった糸を幾分解してようやく、彼は人の一人すらも住めはせぬだろう廃墟に背を向けて、独り旅に出ることを決めた。
 三年の月日を――。
 竜は短かったと思い、人は長くも短い日々だったと思う。
 どちらをも感ずる心を否定することはない。相反する竜と人との狭間を、ケヴィンは既に真実どちらも己のものとして咀嚼していた。
 冒険者としては随分と場慣れして来たものだ。力を揮う加減も立ち回りもダンジョンの攻略も、自らの頭と腕とを相応に信頼しても問題はあるまい。されどケヴィンが求める騎士としての道は冒険者として生計を立てるよりもずっと遠く長く続いている。
 とはいっても八十年前、ケヴィンの以前に一族で最後に名を上げた大叔父――大騎士の称号を冠した彼がその勇名を馳せたのは三十になる少し前であったそうだ。今のケヴィンとは十も違う。若き気鋭の騎士の才覚も、宿した竜としての破格の力も、経験の差を埋めるには役には立たぬ。騎士としての経験とは即ち、自らの心を磨くことに他ならぬからだ。
 六割程度しか生きてもおらぬ青年など当時の叔父からしても青二才であろう。気を急いて伸ばした手が星に届こうはずもないのであるから、焦燥に駆られて我武者羅に道を走り出す必要もない。
 今はただ己の中にある光を握り締めていれば良いのだと、ケヴィンは知っている。故に。
「――俺が帰りたい場所、なァ」
 問い掛けに零した声は静謐だった。双眸の奥に宿る望郷の思いは遥か遠く、嘗て笑い合って走り抜けた故郷を偲んだ。
「今は失われたそいつを、いつか何かのカタチで取り戻すために騎士として突っ張って生きているって聞きゃァ、アンタはそれを嗤うのかィ?」
「いいえ。私はただ観測するのみで、定義する者ではありません」
「そうかィ」
 同情も祈りもない音色に淡く笑んだのは、今の彼の心の奥に抱く想いを支えるのは、何も過去に燃え崩れた瓦礫に重ね見る幸いの気配だけではないからだ。
「ニンゲンとして生きるってのは奥が深いモンだ」
 未だ人として生きた時間の方が短い。
 たったの十九年で何が分かるのだ――と言われれば、ケヴィンに反論の余地はあるまい。賢しらな顔をした小僧の戯言だと、ともすれば|大人《・・》は笑うのやも分からぬ。
 だが、青年は竜であった。
 人としての時間がいかに短かろうとも、異種を見詰める眼差しには永きを生きる強者の光が入り混じる。己の裡にある真なる過去が光を想うとき、そこにあるのは戻りはせぬ|過去《かつて》の栄光だ。空を自由に飛び回り、神とすら呼ばわれた威容こそが、竜にとっての美しき灯火であった。
 しかし人は違う。命を次代に繋ぐことで繁栄して来た弱く儚い種の、竜の持ちたる歴史と比べて何と若いことか。数千年を誇り字に残す彼らにとって、最も美しき光は|現在《いま》この瞬間に差し込むものに他ならぬ。
「……いつかその輝きが、かつての|竜《オレ》たちを追い越す日が来る」
 ケヴィンの前に溢れるのは煌めきであった。
 若く脆弱な人間たちが築き上げるほんの柔らかな城壁と、その向こうにあるこの世の春である。
 いつか目に映すべきその輝きに目を細めて――嘗て竜であった青年は、竜にあるはずのなかった掌を握った。
「それを同じニンゲンの視点で、見られりゃいいねェ」


 かくて黒白は掻き消える。
 観測を終え、或いは破壊された端末は、眩む貴方の視界の裡になお声と呼ぶべき音を届けただろう。
「それでは、御機嫌よう」
 ――目を開けた貴方の前には隘路がある。しかしその向こうより差し込む光は雑踏を伴い、閉塞した世界を歩む人々の足取りがごみごみしい街を横切っていく。
 幸福の夢の醒めたる先で、貴方は今を勝ち取った。悲しむ者を誘う泥濘の甘き白花は今暫しなりを潜めるだろう。やがて歩み出す足取りは、確かに貴方の選択で、今に連なる未来を目指す。
 幸いなるかな。

挿絵申請あり!

挿絵申請がありました! 承認/却下を選んでください。

挿絵イラスト

開く

読み物モードを解除し、マスターより・プレイング・フラグメントの詳細・成功度を表示します。
よろしいですか?