夕されば、色なき風に紅葉散る
決して癒えぬ傷があった。
大切な者を喪った喪失感。その穴はどのような想いを重ねても晴れることのない絶望感。
彼が好きだった紅葉。彼と眺めていた唐紅。燃えるような夕映えに照らされた眩しい光景。
世界だけは色褪せることはない。なんて皮肉で、哀しいことなのだろう。
「どうして私を置いて逝ってしまったの? ずっと、共にいてくれると約束したじゃないの」
色なき風に悲壮をのせて女はひとり佇んでいた。
てのひらに握られたのは彼が最期にくれた約束の指輪。揃いで買った指輪も今はひとつきりで手のひらに握られている。
「ああ――可哀想に。あなたは、喪ってしまったのですね」
燃えるような唐紅の中で静かな声が聞こえた。
女が振り返ればまるで|色彩を奪われたか《モノクローム》のような男が憐れむような表情を浮かべて女の姿を見下ろしていた。
「喪ったものは戻りません。一度虫籠から離れた蝶は還らないように、その哀しみは生涯癒えることがないのです」
断じるような言葉。無責任な慰めの言葉や憐憫の感情ばかりを寄せられていた女にとっては何処か心地よさを感じるものだった。
元気を出して。あなたが笑うことをきっと彼も望んでいるわ――そんな綺麗な無責任の言葉は聞き飽きた。
ただ、哀しみに寄り添ってくれる誰かの存在が欲しかった。女は僅かな期待をこめて男の姿を見つめる。
「私の名は紫苑――あなたの癒えぬ哀しみを救いましょう」
紫苑が手に持っていた何かを掲げたのが女が見た最期の記憶。
美しい世界の色彩。燃えるように映える唐紅の中で、主を喪った指輪がさみしくその場に転がっている。
「そう――帰らない。還らない」
決して埋まらぬ穴があった。
大切な何かを喪った喪失感。その穴を埋めるためにあらゆる想いを飲み込んでも治まることのない飢餓感。
「一度、喪ったものは――かえってこないのです」
何を喪ったのか紫苑自身も最早覚えてはいないけれど、きっとこの切望は失くした何かを取り戻すその日まで満たされることはないのだろう。
●色なき風
「もう、すっかり寒くなりましたね」
年の瀬に向かう時候。肌を撫でる色なき風は冬の気配を間近に連れてきていた。
星詠みの青年史記守・陽(黎明・h04400)はホワイトボードに地図や資料の画像を貼り付けていく。
「今回、√妖怪百鬼夜行で事件を予知しました。紅葉の名所でもある山なんですが出現する妖怪の名は紫苑。蜘蛛の妖怪です」
紫苑は古妖に狂わされ正気を失わされて、好ましく想った存在を蝶へと変えて奪い『虫籠』に収めている人妖。
つまり彼の抱く虫籠に閉じ込められている蝶の数は此れまで彼が積み重ねてきた罪過そのものである。
「俺が視た光景はある女性が紫苑と接触する場面でした。恐らく、大切な人を喪った人なんだと思います。そのようなことを言っていましたから――しかし、彼女を助け出すことはできません。既に蝶に変えられてしまっている」
間に合わなかった。手遅れだ。しかし、このまま紫苑を放置すれば周囲の人里に降りた紫苑が更なる罪を重ねる可能性もある。
――せめて、彼女の無念を晴らすためにも撃破をお願いしたいんです。
陽は空色の双眸を哀しげに伏せながら言葉を続ける。
「紫苑が出現するのはどうやら夕方のようです」
今から向かえば日暮れまでに充分な時間がある。紅葉の名所というだけあって近くの街は観光業が盛んだ。
大正浪漫情緒溢れるハイカラ街。
レトロモダンなアイテムを求めショッピングをしたり、カフェーやレストランで一休みするのも良いだろう。
その後、紫苑の出現場所である紅葉山へ向かうが時間を潰すのも兼ねて紅葉狩りを愉しむのもいい。
先程の手作りもしくはハイカラ街で調達したお弁当を食べて行楽というのもありだ。
「喪われた命が戻ることはありません。彼女を救うことはできませんが、新たな犠牲を出さないためにも――どうか、皆さんよろしくお願いします」
綺麗な紅葉山を死の紅で染めるようなことはしてはいけない。
陽は真摯に一礼をした後に√能力者達を見送った。
第1章 日常 『妖怪ハイカラ街』
●
頬撫でる風は秋めいて冬の気配を連れてくる。
落葉が舞う物寂しさをともなう晩秋。されど、このハイカラ街は活気に満ちていた。
「お嬢さん、その麗しい黒髪に紅葉錦の簪はいかがかな? お安くするよ」
「まぁ――ふふ、たしかに美しいわね。では白狐と紅葉の簪をいただこうかしら」
「毎度! これから紅葉山に行かれるのであれば上着は羽織った方がいいですぜ。この時期の山は意外と冷えますでね」
大正浪漫の美観を保つ観光地としても栄えたこの街は地元住民と観光に訪れる旅人とで活気が衰えることはない。
大正レトロな小物を扱う雑貨屋。昔なつかしの駄菓子屋。独特の和洋折衷の衣装を取りそろえる服飾百貨店。
少し小腹が空いたならステンドグラスが美しいオシャレなカフェーでのひとときや、流行りの洋食が楽しめるレストランに向かうのも良い。
はたまた想い出を形に残したいのであればとんぼ玉や天然石を削って作る勾玉、はたまた草花を美しさとともに閉じ込める|植物標本《ハーバリウム》もある。
広いハイカラ街も路面電車に乗れば移動もすぐに行える。
さぁ、この街で如何様に過ごすのも貴方様次第です――。
●
行き交う喧噪にゆるりと金眸を細めて八百・千(|嘘と針《はっぴゃくとせんぼん》・h00041)はハイカラ街を眺める。
(賑やかな街は久々だわ)
千の店である癒し処《萬》は風光明媚な場所にひっそりと佇んでいる。喧噪を離れゆったりと過ごせる癒し処もよいが偶には斯く様な喧噪も恋しくなる。
久々の賑やかな街だ。折角だから色々とお店を見て回りたい。
何処から廻ろうかしら。思案しつつ周囲を見渡せば目についたのは案内所だった。紅葉シーズンということもあり混雑している案内嬢の手を患わせるのも気が退ける。
木棚から|観光案内冊子《パンフレット》を一部取って広げた。
(まぁ、色々お店があるのね)
眺めながら何をしようか考える。お店に置く小物が欲しいし、和菓子のレシピも増やしたい。
いつも看板狐の役割を精一杯務めてくれている一くんの玩具やお手入れ用具も確保したい――あげたらキリがない。欲しいものが沢山だ。
(雑貨とかは、このあたりの雑貨屋が集まっている商店街を見ればよさそうね)
地図に目を通しながら目的の店にあたりを付けていく。けれど、行きたい場所を見つける度に更に新たに行きたい場所が見つかってしまう。
例えばお菓子。店で出しているお菓子の種類を最近増やしたいと考えている。
本屋や製菓用品専門店へ行ってレシピを探すのもいいけれど、折角街に出たのなら洋菓子に挑戦してみたいところ。
手近に良い店はないかしら。千が周囲を見渡せば丁度レトロなアンティーク家具が自慢の純喫茶が目についた。
ドアベルを鳴らして中へと座り、窓際の席に腰掛ける。メニューを開いて頼んだのは蜂蜜入りのミルクティーと当店自慢だと謳われるフルーツショートケーキ。
静寂に耳を傾けながら鳴り響く蓄音機の音楽と規則正しく時を刻む鳩時計の秒針の音に聞き惚れる。
ゆるやかな時間を過ごすうち運ばれてきた茶器に目を見張る。洋食器ではあるけれど和工芸の文様も上手く取り入れられている和洋折衷の品だった。
(あら、すてきな食器ね。後で食器屋さんも見に行ってもいいかもしれないわ)
茶器を眺めてケーキに舌鼓していれば過ぎる時はあっという間。
(そろそろ行かなければならないかしら)
名残惜しいが時間はいずれは過ぎるもの。足りなくても惜しむ気持ちはない。
また今度ゆっくり見に来る――そんな新たな楽しみが出来るのだから。
●
ハイカラ街という名前が既に大正レトロを感じさせる。
続く煉瓦の道と瓦斯灯を興味深そうに眺めながらも緇・カナト(hellhound・h02325)は傍らでこれでもかと瞳を瞬かせる気配に興味をうつした。
「妖怪ハイカラ街……! なんと心躍りそうな響きだろうなぁ」
「トールが大正浪漫に興味あったの意外だなァ」
トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は瞳を雷鳴にも負けぬほどにきらきらと瞬かせて機嫌良く頷く。
「主は鼻が利く、我は経験値が増える。適材適所と言えるのではなかろうか……!」
「……なんの経験値だよ。オレの鼻は美味しそうなご飯屋にしか利かないケド」
大正ハイカラ街へ気合いをいれて連れてきたのはトゥルエノの方だ。
誘いを断る理由もなかったのでついてきたカナトだが、トゥルエノがまるで子どものように興味を示すのは少し意外であった。
「あ。あんな所に駄菓子屋もあるぞ〜!」
「駄菓子屋は……ん〜……まぁイイか」
きょろきょろと周囲を見渡していたトゥルエノが見つけたのは昔なつかしの風情ある佇まいの駄菓子屋だ。
興味を惹かれ弾む心のままカナトの手を引っ張っていくトゥルエノ。駄菓子屋は腹が膨れそうなものはなさそうだがトゥルエノが行きたいのであればいいか。
「主! くじ引きだ」
「やりたいのか? 別に構わないが」
くじ引きに興味を示したトゥルエノに軽く了承してしまったのがカナトの運の尽き。
(……トールの豪運さを侮っていた)
当たり籤を無限に引き続けまさかの足止めを喰らう羽目になってしまった。
|朝六時の清掃活動《おいのり》も必要なさそうな豪運だ。やはり普段の行いが物を言うのだろうか。
当て続けた駄菓子はとんでもない量になりそうだったのである程度カナトがその場で食べて処理をした。
それでも流石にハムスターのように延々とこの場で駄菓子のみを食べるわけにはいかないので、ある程度は土産とすることにした。
「駄菓子屋とは魔の空間であったのだなぁ満喫した!」
店を出た頃には満足げなトゥルエノの腕に何やらこんもりと丸まった買い物袋が下げられている。
「何か買ったのか?」
「主! ほら、注射器だ。人はこれでぶすっとして身体の不調を治すのであろう? 我も主が怪我をしたらこれで治す! どうだすごいだろう……!」
注射器(錬り飴入り)を手に握り締めてふんふんと気合いを入れるトゥルエノ。
それで注射をされたらトドメを刺されてしまいそうだという言葉は仕舞い込めば、雷獣が次はカフェーか洋食屋がいいよなと首を傾げている。
「我はアレが気になって〜……なんて名だったか、クリームソーダ?」
「ああ、それならば洋食屋なら纏めて済むんじゃないの」
「あの店先が良さそうだな! では入ろう」
手近にあった洋食屋へと入るが馨しい香りが周囲を漂っている。雷獣の店のチョイスは中々良いようだ。
カナトはトゥルエノが店のステンドグラスに気を取られているうちに注文を済ませる。自分は気になったものを頼んで――トゥルエノの分はお子様ランチでいいか。
これならば、オムライス、ナポリタン、エビフライ、ハンバーグ、ミニグラタン等ひとしきり楽しめる。
そうして暫く待って運ばれてきた料理にトゥルエノは目を丸くした。
「これは……!」
驚きながらもずずっとトゥルエノはお子様ランチをカナトの方へと差し出し何やら満足げな表情を浮かべる。
食べ物系はカナトに食べて欲しいようだ。雷獣のお節介を有難く頂戴しつつカナトはお子様ランチから旗を引き抜いてクリームソーダへと刺してやった。
「うむ、おいしい」
しゅわしゅわとした軽やかな刺激とバニラアイスにつつまれたソーダの甘い味わいが喉を通り抜けていく。
旗刺しクリームソーダはいつもよりも特別な味がした。
●
色なき風が狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)の金色の髪を揺らした。
(――恋し、乞うた者を喪った悼みは容易く癒せぬモノ)
けれど胸に秘めるか。記憶の底に葬るか。其は他者が決して断じるモノでない。
今更想いを寄せても散った命が再び咲くことはない。
人知れず蝶となってしまった彼女への弔いに澄夜は想いを|植物標本《ハーバリウム》に込めることにした。
植物標本作りが体験出来る工房。数々の花材が|色褪せぬ形《ドライフラワー》として並べられている。
澄夜は暫し並ぶ花材を見つめる。やはり目が向かうのは燃えるような唐紅。その中でも季節柄なのか紅葉の花材が特に目を惹いた。
「……ふむ、ひとえに紅葉と言えど色付きや大きさに随分と違いがあるのだな」
移ろいゆく季節を閉じ込めたかのように色付きつつある紅葉から、燃えるような唐紅。咲きし時を過ぎて後は朽ちるのを待つような臙脂の紅葉。
閉じ込めたいのは、彼女が最期に見つめ想いを寄せていた錦紅葉の秋模様。ならばなるべく目を見張るようにいっとうに美しい唐紅がいいだろう。
澄夜は一枚ずつ葉を慎重に吟味して選び終える。どれも此れもとっておきの燃えるように美しい唐紅だ。
一旦選んだ紅葉やその他の花材を作業机に置いて、次は植物を閉じ込める瓶が置かれている棚へと訪れる。
様々な瓶から|円錐《テーパー》型のボトルを2本手に取り席に戻る。
紅葉をひとつ手に取った。
燃えるような紅。それは如何にふたりの心を暖めるものであったのだろう。
想い燃やして恋うた先――頬も紅葉と同じ唐紅の色彩に染まっていたのだろうか。
(せめてもの手向けになれば良いが……)
澄夜は慎重に紅葉と黄色く染められたかすみ草を交互に入れる。
思い浮かべるのは永久の秋。閉じ込めるのは差詰めもみじ谷の色鮮やかな光景というところか。
ふたつの植物標本を丁寧に作り上げていく。
ひとつは、全てを終えた後の弔いに彼女が愛した紅葉の下に。
そして、もうひとつは救えぬ命を忘れない為に、この掌に――。
紅葉は散る。命も散る。今は怨みを晴らすことしか出来ないが約束しよう。
必ずや邪悪なる神秘は討ち滅ぼすと。
出来上がったばかりの植物標本を割れぬように緩衝材に包み込んで店を出る。
晩秋の冷たい空気が頬を刺す。向ける視線は紅葉山。
(――さてさて、花蜘蛛の血は何色であろうな)
出来れば赤が良い。紅葉を鮮やかに染め抜く赤色が。
●
吹き抜ける秋の風は少しずつ木の葉の色付きとともに街に冬を連れてくる。
活気ある街並みに続く煉瓦道。瓦斯灯は一定間隔に並んでいる。
「わぁ、ステキな街並み! 大正モダンってやつだね」
野分・風音(|暴風少女《ストームガール》・h00543)が興奮したように瞳を燦めかせば、志藤・遙斗(普通の警察官・h01920)も同意するように頷く。
「レトロな街を散策するのって良いですよね。古き良き時代に思いをはせるのもまたおつなものです」
忙しく巡る現代社会。つい疎かにしがちだけれど偶にはこの様にのんびりと観光に興じて想いを馳せるのもいい。
渡瀬・香月(Gimel店長・h01183)も遙斗の呟きに同意する。
大正浪漫溢れる街並みは何だか洒落て見えて目新しく見える――だが、洒落て見えるのは街並みだけではない。
香月が傍らのナチャ・カステーラ(|スイーツハンター《甘いもの好き》・h00721)に視線を遣る。
彼女はエメラルドグリーンのトレンチコートに黄色のロングスカートとブーツという出で立ちで煉瓦道を颯爽と歩いている。
「なんだか今日の服はお洒落だね。秋服?」
「ええ。とっておきの秋服よ。お気に入りなの。ふふ」
香月の問いかけにナチャは機嫌良さそうに答える。
本格的な秋を迎え、すれ違う人々が纏う服も木の葉が色付くようにまろやかな色彩へと変わっている。
香月は歩きながら周囲の人々の服装を眺め、目に入った遠くに見える紅葉山も紅く美しく色付いている。
唐紅の中でナチャが纏うエメラルドグリーンはとても映えそうだ。
元気よく最前列を歩いていた風音はふと振り返り、皆に話しかける。
「そういえばまずはカフェに行くんだよね? 見晴らしのいい席がいいなぁ……で、カフェってどっちだっけ?」
「ああ、それならこの道をもう暫く真っ直ぐ行って交差点を右に曲がったところにあったはずですよ」
「おわー……さすがおまわりさん、道案内はばっちりだねえ」
風音の問いに難なくすらすらと応えて見せた遙斗に思わず関心してしまう。
いつの間に確保したのかわからないが手にはパンフレットがある。
遙斗がいればひとまずは道に迷うことはなさそうだと風音は安堵し、彼の案内のままカフェへと入った。
幸い入れ違いに四人客が退店していき、彼らが座っていた窓際の席
風音が我先にと窓際の席に飛び入って行った。その隣にナチャが腰掛け、向かい側の席に遙斗と香月が座る。
窓からは街ゆく路面電車がよく見えた。興味を惹かれる風音を微笑ましく眺めつつ、ナチャは早速メニューを開く。
「あら、スイーツのメニューがこんなに沢山あるのね。おすすめのパフェは……和栗モンブランにキャラメル林檎、スイートポテトにシナモンパンプキン……期間限定だけでも沢山あるのね」
「どれも秋らしいメニューですね。どれにするか決められましたか?」
「これだけあると決めきれないわ。ふふ、いくら食べても食べ飽きないけれどさすがにすべては厳しいかしら」
「それならば、皆さんでシェアしては? その分多く楽しめると思いますよ」
ナチャと遙斗が話していれば、遙斗の発言を聞きつけてしゅぱっと風音が振り返る。
「いいの?!」
「ええ、一緒に食べましょうね、風音ちゃん。ところで風音ちゃんは自分の分の注文は決まった?」
「わーい! アタシはスイートポテトとアップルティーにする! ふたりはどうする?」
そうして視線を男性陣に向ければ香月がトンとメニューを指さした。
「俺は|もみじの天ぷら《・・・・・・・》を茶請けに貰おうかな。ドリンクは紅茶のホットで」
香月の言葉を聞いて皆が少し驚いたような表情をした後に指さした先――メニューへと視線を落とす。
其処には確かにもみじの天ぷらの文字がある。比喩表現等ではなく本当にもみじを揚げてある。
「紅葉って食べられるの?!」
「紅葉の葉をちょっと甘い衣で揚げててさ、かりんとうみたいで結構美味しいんだよ」
「ほんのり甘いのね」
香月の言葉に味を想像する風音の様子を眺めながら遙斗はメニューを捲る。
とりあえずの珈琲を選び合わせるスイーツは何にしよう。季節のタルトは和栗。季節限定のお菓子はメープル入りの紅葉のマドレーヌだ。
「悩みましたが俺はコーヒーと和栗のタルトにしようかな。紅葉のマドレーヌも気になるんですけど、こっちも美味しそうだったので」
全員の注文が出そろったことを確認してから店員を呼ぶ。注文を済ませて暫し歓談している宛ら風音は窓の外。大正浪漫の街並みが続く先に綺麗に赤く色付く山を見つけた。
「ねぇねぇ、ここから見えるあの山が紅葉山だね。山全体が色付いててすっごく綺麗!」
「ええ。綺麗な紅葉ね。今から楽しみだわ」
頷きながら呟いたナチャの言葉。遙斗も紅葉山を眺める。
紅葉の思い出と聞いていつも脳裏に浮かぶのは柔らかく赤く色付く優しい記憶だ。
「俺と妹の育った施設の中庭にも大きな紅葉が有って、そこでどっちが綺麗な紅葉を拾えるかよく競ったりしていましたね」
「そういえば、アタシも小さい頃は綺麗な葉っぱを拾って押し花にしてたなぁ」
「紅葉を押し花にした栞とかも良さそうね風音ちゃん♪」
三人の話を静かに聞いていた香月がふと思い付きで言葉を漏らす。
「折角だから綺麗な紅葉を拝借して栞を作るのもよさそうだね」
「ええ、偶には童心に返って――そうするのも悪くはないかもしれませんね」
紅葉は秋の一瞬を彩ってすぐに雪に朽ちる。押し花としておけば完全に色彩を留めることは難しくとも、仄かに色褪せた写真のように記憶を呼び起こす一端となれる。
今日という何気ない日の記念にも、偶には子どものような遊びに興じるのも悪くはないのかもしれない。
喫茶店でのひとときを終えて一同が向かったのは勾玉作りの体験教室。
「色とりどりの天然石は見ているだけで楽しいね。どの石にするかは決めた?」
「これだけ種類があると悩むけれど、今日の思い出を閉じ込めるのであれば因んだ色合いのが良さそうね。これとかどうかな」
「ああ、良さそうだね。着ている服と似た色だ」
香月に問われ沢山並んだ天然石からナチャが選んだのは今日纏うトレンチコートと似た色彩の翡翠。
勾玉としても王道の石。魔除けの象徴ともされる効果を持つ。香月も天然石が飾られたショーケースより綺麗に澄んだ青色をしたフローライトを取り出す。
サイズとしてはどちらかというと小ぶりだけれども、元よりスマートフォンにつけられるようなストラップを作ろうとしていたから反って都合が良い。
一方、風音と遙斗もショーケースを見ていた。
「お母さんが手芸好きだからたまに一緒にやるけど、勾玉作りは初めてだなぁ」
「何事も挑戦をすることは良いことですよ。とはいえ、これだけ種類があるとどの石を選んでいいのか解りませんね」
ふたりでにらめっこするようにショーケースを見つめる。見つめれば見つめるほど、どの石も美しく感じられる気がして余計に迷ってしまう。
「うーん、そうだなぁ。何を作るつもりなのかで決めてみるのがいいかも。何か作ってみたいものとかある?」
「そうですね……せっかくですし、妹へのお土産にでもしようかな? 高校生に勾玉って渋すぎないですよね?」
「きっと妹さん喜ぶわ。お揃いのやつ作っちゃいましょ遥斗さん♪」
ナチャにそう声を掛けられて遙斗はほっと胸を撫で下ろす。それであれば可愛らしい|薄紅色《ローズクオーツ》を選んで、自分の分は|淡い水色《ブルーカルセドニー》を選択した。
「良かったなら折角だし、お揃いのを作ろうかな?俺のは淡い水色にしたら対比取れそうかな?」
「うん。いいじゃないかな」
香月も穏やかに微笑む。
そうして、一同は思い思いの気持ちを込めて勾玉作りに暫し勤しむことにした。
●
天高く馬肥ゆる秋。雲ひとつないこの秋空のように戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)の心も晴れ渡っていた。
「……ふつうのお出かけって心踊りますね! 担がれてない! 危なくない! やったー!」
「一応人妖が出る場所ではあるけどね?」
心躍らせるくるりに意地悪く水を差したのは雨夜・氷月(壊月・h00493)だ。月が燦めく夜空のような双眸を細めて笑うその顔は悔しいくらいに美しい。
されどくるりはへこたれない。
「で、出ますけど……今は遊べますから!」
「ま、今の時間帯は遊んでも問題は無さそうだしね――何して遊ぼうか?」
「そうですねー。紅葉狩り前に、観光します?」
斯くしてふたりはハイカラ街を漫ろ歩く。
「わー、着物だぁ」
くるりの目に留まったのは呉服店の店先に飾られた振り袖だ。
「お兄サン方、観光かい? 折角ならば服を買えるというのも一興、よければ一着どうだい?」
店先に気配を感じたのだろう。出てきた店主の女の声にくるりはびくりと驚いて、退く。
「くるりは着物着ないの?」
「……え、私はいいです」
「着ればいいのにー」
ぶんぶんと首を振る。服に着られてしまう姿が目に見えている。
このまま撤退を決め込もうとしたくるりを店主の台詞が引き留めた。
「お兄さん色男だねェ……その爽やかな色彩の服も良いが留紺で渋く決めてもイケるとアタシは見たね」
「それはそう!」
店主の褒め言葉にくるりは全力で乗っかった。それはもう、サーカスの玉乗りピエロのように。
「なんでも着こなせそうですよね! 和服氷月さん見たいです!」
「お嬢さん、うちの品揃えは街一番だよ。そちらのお兄さんに一番似合いそうな服を選んであげな」
「乗りました!」
悪戯っぽくウィンクをする店主とくるりの間で何やら友情のようなものが芽生えた。
「……凄い手の平返しを見た気がする」
「ささ、行きますよ氷月さん。まずは店員さんおすすめのものから羽織ってみませんか!?」
「仕方ないなあ……」
くるりに引き摺られるようにして呉服店の中に入る。
顔が良いというのは素晴らしいことである。気が向くままに手に取った服を氷月にあわせていくけれど、そのどれもを着こなしてしまうのだから最早罪か何かではなかろうか。
「古典柄合う……片身変わりもいい……あ、その色いいですねぇ」
「なんか自分で着るより張り切ってるね?」
「はい! 顔がいい人の着せ替え、楽しいので! すごい……美人百難隠すの体現――」
くるりは高揚感のまま思わずマズいことを口走ったことに気付いたのは氷月がかんばせににっこりとそれはもう素晴らしい笑顔を咲かせていたからだ。
「んっふふ、くるり、それはどう言う意味かな?」
「あ゛っ――く、口が滑りまし、あああ!?」
氷月に額を軽く小突かれつつ、くるりは負けを確信した。
これに関しては彼相手に隙を見せてしまった自分が悪いのかもしれないと後悔先に立たない。
「店員サーン、このコに似合いそうな感じの華やかな着物持ってきてー! 値段は問わないよ!」
「高い着物!? いいです!私は着飾らなくて良いですっ!」
抵抗は虚しくにんまりと氷月と同じ様な笑顔を浮かべた店主が着物を手に躙り寄ってくる。
「お嬢サンも中々逸材さ。定番だけれどやはりお嬢サンの年頃は袴が似合うと思うんさ。さぁさ、この紅葉の袖に臙脂の袴はどうだい?」
「着飾った氷月さんと私で並ぶの、格差ひどいからぁ……!」
思わず後ずさろうとして氷月に肩をがっちりと捕まれてしまい、退路を断たれてしまった。
「ほらほら、くるりもオシャレしよ! 遠慮しないでさ!」
「い、いやいやいや無理です無理です!」
「大丈夫! 俺が責任を持って似合う簪見つけてあげるから。さ、着付けは任せてもいい?」
「勿論さ」
一体何が大丈夫なのか。敵ながらもはやあっぱれな連携プレイであった。
店員に更衣室に引き摺られた後、出てきたくるりは氷月にトンボ玉の簪で髪を結われた。
――なんでこの人、髪結出来るんだろう。
●
穏やかに晴れ渡る秋空には何処か切なさをつれた秋風が渡る。
煉瓦畳の道に足音を響かせて歩む柳・芳(柳哥哥・h09338)はふっと灰色の双眸を細めた。
(もう還らない喪ったものへの苦しみは分からなくはないけどねぇ……)
脳裏に浮かべるのはかつて師匠と仰いだ存在の姿。今はもう泉下の客だ。同じような経験があるからこそ芳もその気持ちは解らなくはない。
喩えば蝶となり哀しむ心さえ失えば、二度と苦しまずに済む――そう視点を移せばそれはある意味で救いと呼べるのではないだろうか。
(いいや……俺はそうなりたいとは思わないな)
誰に言うでもなく己に対して軽く首を振って改めてハイカラ街を見渡す。
せっかく街の方へと訪れたし、何か買い物をしていこう。
(紅や香をそろそろ新しいもの探そうかと思っていたんだよなぁ)
この辺りは多少庶民的な雰囲気を漂わせた商店街のようだ。だが、地元住民が普段使いするというのにも少しは根が張る。
差詰め観光客やちょっとした贈答品を取り扱うような場所なのだろう。
その中で化粧品を取り扱っていそうな店の暖簾を潜ることにすれば、店主の妖狐の女性が細めを更に糸のように窄めて微笑み出迎える。
「いらっしゃいませ。何をお探しでしょうか」
「紅や香を――せっかくならば今の時期らしい香りのものとか季節を感じられるものならばなお良い」
「畏まりました。少々お待ちくださいませね」
店員の女性は一旦芳から離れて周囲の棚よりいくつかめぼしいものを拾い上げてくると机の上に置いた。
「今の季節限定ですとこのあたりをお勧めしております。錦紅葉の紅と香であれば金木犀がいっとうにお勧めですわ。特に金木犀の香は毎年好評を頂いておりまして直ぐに売切れてしまいますので今年は張り切って多めにご用意いたしましたのよ」
「なるほど、確かに季節感を感じられてよいが……紅は種類が豊富なようだが、何かこだわりがあるのか?」
「ええ、勿論です。錦紅葉の紅は実際の紅葉と合わせて調色しておりますの。ですので、何種類かございますのよ」
店員が指し示す通り、同じようなパッケージで何種類かあるようだ。黄みがかった明るい色合いからまろやかな深みのボルドーまで。
「お客様でしたらこのあたりのお色がお似合いになるかと思います」
店員の見立て通り進められた紅は肌によく合った。揃いの錦紅葉の紅板と金木犀の塗香を購入した芳は想いを馳せながら山へ向かった。
●
――|懐古趣味《レトロ》。
この国の人であれば懐かしさを感じるやもしれない大正浪漫の美観を保つ街並みは、アダルヘルム・エーレンライヒ(華蝕虚蝶・h05820)の双眸には新鮮に映る。
東洋にはあまり馴染みがない。ゆえに、この瞳には路面電車も駄菓子屋も行き交う人々が待とう東洋風の装いも全てが真新しい。
真新しいものという刺激は創作意欲を擽る。
月夜の絵画を表紙にうつしたスケッチブックを手にアダルヘルムはハイカラ街を漫ろ歩く。
描くものは決まっていない。気が向くままに筆を走らせて光景をスケッチブックの白紙の中に閉じ込めた。
ある頁には元気よく声を張り上げて客を引く商店街の店員の姿を。またある頁には並んで風車を回し遊ぶ幼い姉弟の姿を。さらに頁を捲り偶然通りがかった公園に咲く花の姿を描いた。
斯く様にして何枚もの頁に光景を閉じ込めて、僅かに足に心地良い疲労が溜まった頃合いに偶然ステンドグラスが美しい喫茶店が目に入り、立ち寄ることにした。
「申し訳ございません。ただいま満席でして――テラス席でしたらご案内ができるのですが」
「ああ、構わない。頼む」
ただ小休止できるだけで充分だからテラス席でも問題ない。
頼んだ珈琲に砂糖を少しいれて口を潤すように味わいながら周囲を眺める。
通されたテラス席からは活気ある大通りがよく見えた。行き交う人々の喧噪。通る路面電車が刻む音。
(然し本当に活気のある街なのだな)
この街を訪れてから過ごした時間は未だ其程長くはない。
それでもこの街に暮らす人々や、この街に訪れた観光客の人々が浮かべる表情はみな一様に明るく平穏な日々を享受しているように目に映った。
素晴らしいことだ。それは、とても良いことなのだと思うけれど。
この街の中にいるというのに、その光景がやたら遠く見えてしまう。
平穏な光景の中。まるで白い画用紙に一点だけ落とした|洋墨《インク》のように酷く不格好で場違いに思える。
自分の居場所は戦場だ。
死んでも死にきれず傷だらけのこの身で賑わいに満ちた街中を歩むには、どうにも不釣り合いだ。
(……砂糖を入れたはずなんだがな)
晩秋の風にあてられた珈琲は想像よりも早く冷めてしまったようでやたら苦く感じて自嘲を零す。
――俺は破滅を待つだけの身。
みなと同じ日向には行けないが、遠くからは見守ることはできる。
(平穏なこの光景を護る為にも、必ず食い止めなくてはな)
アダルヘルムが胸に抱く小さな決意は誰にも知られることのないまま秋空にとけてゆく。
●
吹き抜ける秋の風が色付く木の葉とともに冬の気配を連れてくる。
活気溢れるハイカラ街にも紅葉の季節が訪れた。
物寂しく冬へと向かうばかりの時候と思えどこの街は寂しいなんて言葉とは無縁の賑やかさで満ちている。
「これが『たいしょうもだん』なんだねぇ……」
お洒落で見慣れぬ街並みを脅威深そうに見渡しながらラブ・バレンタイン(愛を尊ぶ戯言・h05493)は呟いた。
煉瓦造りの街も道路の中央を悠々と走る路面電車。一定間隔で並ぶ瓦斯灯。一見西洋風味の街並みのようだけど随所に日本の面影が見られる。
行き交う人々が纏うのも着物や洋装など様々で、その色や形もとりどりで個性的。飽きずにあちらこちら見渡していたラブの鼻をふわりと良い香りが擽って小首を傾げる。
「……これは、何の匂いだろう」
「恐らくカレーだと思うよ。この辺に洋食屋でもあるんじゃないかなァ……ああ、ほら! あった、あそこ」
ラブの零した呟きに隣を歩いていた國崎・氷海風(徒花・h03848)が|煙管《キセル》で方角を指し示す。
洋食屋紅葉亭と看板に描かれているあのお店より独特の芳香が漏れているようだ。
何となく惹かれて近付けば店先に小さなカウンターがあり、其処でテイクアウトもできるようだ。
「ふむ、カレーコロッケの持ち帰りができるんだね。せっかくだし買っていこうか」
「いいね。何事も経験あるのみなのだよ」
氷海風の誘いにラブも頷いて、ひとつずつカレーコロッケを買う。
揚げたてのコロッケはさっくりと心地よい歯ごたえがした。まろやかな馬鈴薯の味わいから少し経ってから特有のスパイスの味わいがふわりと口内に広がる。
それでいて子どもでも問題無く食べられるような程好い塩梅に纏め上げられており非常に美味だった。あっという間に食べ終わってからラブは周囲を見渡す。
「他にもこのような店があれば立ち寄りたいものだ」
「ラブさんラブさん、食べ歩きもいんだけどさァ、天然石で勾玉作れるんだって!」
氷海風の口から飛び出した勾玉という言葉にラブは首を傾げた。
「ふむ、勾玉……?」
「うん、勾玉。食べるのは後にして先にそれやらない?」
「それはどのようなものなので?」
「うーん……そうだねェ。実際見てみるのがわかりやすいと思うよ。めちゃくちゃ楽しそうだしぃ、思い出にも残るもんねェ!」
氷海風の話を聞いていたら興味が自然と勾玉なるものへと映ったラブは頷いた。
斯くしてふたりで勾玉作りへ。説明を聞いた後早速ショーケースに並ぶ石達に視線を落とす。
「なかなか難しいねぇ、どれがいいかなぁ」
「吾輩、この透明の石が良い」
「お、ラブさん早いねェ……」
迷う氷海風の傍らでラブが手に取ったのは|水晶《クリスタル》。即決に感心しつつも氷海風は自分の石を決めきれない。
お店の人に薦められた自分の髪の色と似た翡翠に決めて早速作業台へと並んで座る。
作業台には道具一式と見本となる勾玉が置かれている。ラブは見本の勾玉を持ち上げてじっくりと観察をした。
「勾玉、というのも初めて見た。このように綺麗な飾り、自分で作れるものなので?」
「ええ、こちらのペンで印をつけてヤスリで削るだけですから初めての方でも簡単にできますよ」
店員の女性にそう言われたが不器用ゆえ到底上手くできる気はしなかった。
案の定作業を初めてみたところ全然思ったように削れない。助けを求めるように氷海風の方を向けば丁度作り終えた彼と視線があった。
「ラブさんどう? 出来そう? ……あ、うん。手伝うよ」
SOSオーラを感じた氷海風はラブから作成途中の勾玉を受け取った。
やたらとデコボコとしているが大凡の形は作れているようなので、表面を整えていけば見本と近い形になる。
「ヒソカくんは何事も器用であるなぁ」
手際の良さはまるで魔法のようだった。ラブは感心しつつ見守って出来上がった勾玉に氷海風とお揃いの色の紐をくくりつけた。
●
大正モダンなハイカラ街を廻里・りり (綴・h01760)を手に駆け巡る。
「わぁ! こんな場所があるんですね」
「りり、あまり走り回ってはぐれちゃわないようにするのよ」
「はーい」
見守るベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)が声をかけたので返事をしてから彼女の元へと戻ってきた。
初めて訪れたハイカラ街。目に映るものについ興味を惹かれてしまう。
きょろきょろと周囲を見渡して写真を撮ったり看板を眺めるりりの姿をベルナデッタは微笑ましく見つめた。
「ふふ、この場所が気に入ったのね」
「はい! おちついた雰囲気でとってもすてきです……!」
この後紅葉を身に行くのだから、あんまりフィルムを使いすぎないようにしなくちゃ。
りりはきゅっと自制心を働かせて、改めて周囲を見渡せばハーバリウム造りの手書き看板を見つける。
「気になるものがあったの、りり?」
「はい! 見てくださいベルちゃん! ハーバリウムがつくれるみたいですよ。せっかくなので、つくってみませんか?」
「楽しそうね。ええ、勿論」
りりの誘いに頷いて、早速店内へ入ろうと歩むベルナデッタ。けれど、りりは足を止めて何か言おうとしている。
「あの、つくったものを、こうかんこ……とかどうでしょう? おたがいのイメージでつくるんです!」
「今日の思い出に、交換ね? とっても素敵。そうしましょ」
ベルナデッタが言葉を待っていれば飛び出したのはりりの素敵な御提案。
自分が好きなものを作るよりも楽しいかもしれない――勿論断る理由などなく、ベルナデッタは優しく微笑みながら頷いた。
斯くしてふたりはお互いを想いながらハーバリウム製作に勤しんだ。
出来上がったタイミングはほぼ同じ。りりが自慢げに見せてきたハーバリウムにベルナデッタが驚いたように瞳を丸めた。
「あら……このボトルは、林檎の形をしているのね。こんなものあったのかしら」
「はい、実は棚のすみっこにひとつだけぽつんとあったんです。前にちょっとだけお試しで入荷したもののあまりみたいで使ってもいいって言われたので!」
「ふふ、素敵だわ」
りりの掌の林檎のような形をしたハーバリウムを眺める。ボトル自体が林檎のような形をしていて、蓋がヘタの形になっている。
中に閉じ込められている深紅の薔薇を引き立てるように白色とピンクの霞草が添えられている。浮かび上がる金箔が華やかで優美な印象を引き立てた。
「えへへ、とってもおいしそうにできました! ベルちゃんのはー……わぁ、きれいな水色のお花ですねっ」
「ええ、ブルースターに青いアナベルを入れてみたわ。それから白いパールも入れてみたわ。ころころしていて、可愛かったから。りりっぽくて」
ベルナデッタが作ったのはやや小ぶりのティアドロップ型の爽やかで可愛らしい印象を閉じ込めた。
ハーバリウムも可愛いけれど、りりの興味を惹いたのは結わえてある水引飾りだ。藍色と白とラメ入りの水色――きらきらと星のように燦めいている。
「水引ですか? とってもかわいい……っ」
「ええ。水引の飾りもつけられるそうなの。色の選び方が難しかったけれどこだわってみたわ。特にこのラメ入りの水色がりりの好奇心に満ちた目にそっくりでお気に入りよ」
「わぁ! 可愛いです。わたしもつけてみたいです!」
「ええ、あちらにあるわ」
水引が置かれている棚に案内されたりりが選んだのは紅色と白と金色――結わえばもっと可愛いハーバリウムが出来た。
「ありがとうございます、ベルちゃん! お家にかえったらお部屋に飾りますっ」
「私も楽しかったわ。ありがとうね、りり」
お互いのハーバリウムを交換してから緩衝材で包み込み鞄へしまって店を出る。
ハーバリウムの分だけ増えた荷物の重みを感じながらベルナデッタは遠くに見える紅葉山を見つめた。
(紫苑と対峙するのは、少し怖いのだけど――この思い出があるから、戦えるわ)
白磁肌を秋の風が撫で吹き抜けていった。
●
色なき風は世界に紅葉という色彩をもたらした。
|色なき季節《冬》へと向かう時期の一瞬の燦めきのような彩りに溢れる季節。
「すっかり紅葉しているな――神なびのみむろの山を秋行けば錦たちきるここちこそすれ」
「わー! すっかり紅葉イースターだー! ねぇ祝光ー! 紅葉イースターだよ! 秋の山とイースターも似てるよね!」
舞い降りてくる落ち葉をてのひらで受け止めて咲樂・祝光(曙光・h07945)がしっとりと祝光が呟けば、エオストレ・イースター (|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)のやたらと明るい声が雰囲気をイースターへと変えた。
「似ているか?」
「似ているよ! 祝光、この街ってさイースターレトロにぴったりじゃない!」
「なんだそのイースターレトロって……エオストレ、絶対イースターにするなよ!」
「むーわかってるよー。今は、紅葉を楽しむんだよね!」
話題がころころイースターエッグのように転がっていく。エオストレは本当に解っているのだろうか。
祝光はハイカラ街と紅葉がどうか無事に季節感を保つことを祈りつつ、念のために釘を刺しておく。
「で、まずは何する? イースター以外でな」
「うーん、何がいいかなー。あ、祝光、あっちに何かあるよ」
エオストレが指を指したのはハーバリウム作りの体験が出来る店舗の看板。
「ああ、これはハーバリウムだな」
「これがハーバリウム……小さいイースターエッグいれたら可愛いな」
またもや転がり出てきたイースター発言を軽く流しながら祝光は店先に並ぶ美しいハーバリウムを眺める。
四季折々の花々が閉じ込められたボトルの中で、祝光が目をとめたのは桜と水晶が閉じ込められたハーバリウムだった。
何処か母を想起させる一本が祝光は郷愁を誘う。
「……母様……元気だろうか」
家族想いの幼馴染の様子にエオストレは笑う。再び漫ろ歩いて見つけたのはとんぼ玉作りの看板。
「あ! みて祝光! とんぼ玉作りだって。やってみよー!」
「秋色なのも綺麗だな」
こちらも店先に見本となるとんぼ玉が飾られていた。どうやら今は期間限定で月夜や紅葉など秋を感じさせるとんぼ玉が作れるらしい。
折角だし紅葉のをと考えてふと祝光は傍らの幼馴染の朱色混じりの髪を眺める。唐紅のとんぼ玉は彼の髪によく映えそうだ。
「君、髪が長いし……俺みたいに簪でまとめてもいいんじゃないか? 簪にとんぼ玉をつけて、ほら俺みたいに」
「簪?」
祝光が指し示した簪を見つめながらエオストレはきょとんと首を傾げてからすぐに顔を明るくする。
「なら、僕は祝光とお揃いなのがいい!」
「それは、流石に恥ずかしいというか……」
「早速作ろー!」
「あ! 待てよ卯桜!」
制止も聞かず突撃していった幼馴染を慌てて追いかけて、ふたりは早速とんぼ玉作りに取りかかった。
選んだのは透明硝子に金ラメを混ぜ込んで、その上に細い赤い硝子棒とナイフを使用して紅葉の絵を付けるデザインだ。
祝光は早速店員に説明を受けながら製作に取りかかる。芯棒に溶かした硝子玉を巻き付けて――。
「……あれ?」
巻き付けるだけなのにとても歪な硝子玉になってしまった。すぐに店員が板の上でとんぼ玉を転がして形を整えてくれた。
気を取り直して絵付けをするがどうみてもただの赤いブチ模様が散らされたようにしか見えない。一歩間違えれば事件現場のように見えなくもない悲惨さ――なんだこれ、難しすぎる。
エオストレの様子を伺えば彼は見本のように綺麗な紅葉模様を描いていた。しかも白い硝子を使ってうさぎの絵まで追加している。
「意外に器用だな、君……俺のは見るなよ」
「祝光のも綺麗で可愛いよ! 自信もって!」
体でエオストレの視線を遮ろうとしたがあっさりと突破され見られてしまった。
気を遣ったのか本心なのか。無邪気な言葉が祝光の心に突き刺さる。
そうして作り上げた簪を付けて店を出た。秋の風におそろいのとんぼ玉が揺らぐ。
「わーい! 似合うかな?」
「……まぁ、悪くないな」
●
大切な人を失った哀しみは大きい。心に空いた穴の埋め方も簡単に見つけられるものではない。
夢見月・桜紅(夢見蝶・h02454)の心に僅かばかりの痛みが走る。蝶となった彼女の痛みは自分のように感じた。
(夕暮れまで何もしないのもです、し、散策してみましょう、か)
桜紅はハイカラ街をぼんやりとした思考で漫ろ歩く。
普段であれば甘味処で甘い物を頂いたり、カフェーで一息つきながらお気に入りの本のページを捲ったりするのだけれど、今日ばかりは気が向かなかった。
山に行く時間までずっとこのままだというのも流石に少し忍びない。
どうしようか――。
「……あら、勾玉作り、でしょうか?」
頭の中でぐるぐると思考を巡らせながら彷徨うように歩いていれば、見つけたのは勾玉作りの看板。
初心者歓迎とも書いてある。あまり器用ではないけれど、何かの作業に没頭していれば気も紛れるかもしれない。
「せっかくですから、作ってみましょう、か」
少し遠慮がちに扉を開ければ早速店員に出迎えられる。
軽くこの店の説明を聞いてから天然石が収められたショーケースへと視線を落とした。
ショーケースに並ぶのは、色とりどりの天然石達。けれど、桜紅が探していた色は決まっていた。
「えぇと、紫色はあるでしょう、か? 昔にいた、大切な人の瞳の色が濃紫だった、ので」
「濃紫ですか――それでは、こちらの|紫水晶《アメジスト》は如何でしょう。いっとうに深い夜明け前の空のような石ですよ」
「わぁ、とっても、綺麗です、ね」
薦められた石に桜紅は一目惚れ。ほぼ即断した桜紅はその石を大切そうに手に抱いて作業台に向かった。
手順に従って、早速印をつけてからヤスリで丁寧に削っていく。最初は慣れず覚束なかった手付きも少し削れてきた頃にはすっかり作業が手に馴染んだ。
暫く没頭し続けて気が付けば手のひらのアメジストは勾玉のような形を取っていた。
お世辞にも見目が良いとは言えないだろう。少し不格好な勾玉だけれど、桜紅のありったけの想いが込められている。
磨き上げた後、心惹かれた組紐を取り付けて店を出た。
(……つい、面影を、追いかけてしまいますね。だって、忘れてしまいたくないです、から)
桜紅は少し和らいだ秋の太陽に出来上がったばかりの勾玉を翳し、口元に小さく笑みを咲かせる。
さぁ、口ずさみましょうか。
――あなたが好きだった『勿忘の桜歌』を。
●
色なき風が連れてきた冬に染まる前の一瞬の彩り。
ハイカラ街にそびえる木々も紅に染まる――斯様な錦秋は夜鷹・芥(stray・h00864)の心を休ませた。
「頼みがあるんだが……」
「ええ、わたくしでお役に立てることでしたら何なりと」
傍らに淑やかに歩く冬薔薇・律(銀花・h02767)は笑んで答えた。
女性らしい嫋やかな笑みが今は心強い。芥は金眸に真剣な色彩を混ぜて言葉を紡ぐ。
「預かってる知人の高校生に手土産を買いたい。特に女子の好みが疎いんで……一緒に選んでくれるか?」
「ええ。もちろん。どのようなものをお好みになるのでしょう」
「可愛いもん全般は好みそうだが……双子だから、揃いの物でも」
可愛いものであれば何でも喜びそうではあるが、逆に言えばそれ以上の見当が付かない。
このような時、女性ならば何を欲しがるのだろうか――芥は暫し思考を巡らせて、律の表情を再び伺う。
「律の好みは? お前の惹かれる物も識りたいから教えて」
「わたくしの好きなもの……やはり植物を象ったものが殊に好きです。ひととせに生命を咲かせるようなその有り様には惹かれてしまいます」
「植物か、らしいな――双子も花は好きだな。特に秋花……金木犀を好んでいるようだ」
律が植物が好きだと語る理由に芥も表情を和らげて同意する。
花の生命は短い。咲いたことを喜ぶ間もなく散り萎む。然れど刹那に懸命な美しさで色彩を遺す様に人は惹かれるのであろう。
秋に散り急ぐ紅葉が掌へと舞い落ちる。直ぐに風に吹かれて何処かへ飛び去ってしまう。
消えた紅葉を視線で辿り追いかけながら、律はある雑貨店を見つける。
「でしたら、あのお店に入りましょう――ふふ、夜鷹様の捜し物が見つかりそうな気がしますわ」
律に誘われて雑貨店に入る。店の外観は西洋風の白煉瓦。店先には折々の花が咲く。
木の扉を開けば、天井からつり下げられたスワッグがふたりを出迎えた。
「此処は……」
「お花の|装飾品《アクセサリー》を取り扱うお店のようですわね。先程、ちらりと見えましたの」
何のお店かやや解りづらい店だった。先程、通りがかった一瞬で見抜いた観察眼に芥は感心しつつ視線を商品が置かれている棚へと映す。
桜の簪、向日葵のブローチ、彼岸花の|耳飾り《ピアス》につまみ細工椿の髪飾り。
流し見ていた芥はひとつの立派な魚に目をとめた。それはそれは立派な錦鯉の縫い包みであった。やや間抜けた表情が愛おしい。
抱き上げてくまなく眺め、見つめ合う。
「……夜鷹様?」
「あ、ああ、律。どうした」
不思議そうに話しかけてきた律に気が付き芥は流れるような手さばきで錦鯉を元の場所に戻し、まるで何もなかったかのように取り繕う。
律もあえて何も見なかったことにしておき、掌にのせたアクセサリーを芥に見せた。
「お二人も花がお好きなら、この月と金木犀を象ったチャームはいかがでしょうか」
「へえ、月に咲く……可愛いチャームだ。きっと二人も気に入る」
「金木犀は月に咲く花と云われておりますのよ」
嫋やかに律は微笑む。その視線の先は芥の金眸。少し不思議に思いながらも芥は早速金木犀のチャームをふたつ手に取り会計をした。
「――律」
店を出て再び歩きだそうとする律を芥は呼び止める。足を止めて振り返る彼女に紅色雲錦文様を描く硝子細工の帯留めを差し出す。
「御礼もあるけど似合いそうだと思って。貰ってくれるか?」
「まあ……大切にいたしますわ。いつもいただいてばかりですから今日はお返しをと思っていたのですが、またいただいてしまいました」
律は帯留めを大切そうに仕舞った後、そのまま手提げより金木犀のチャームを取り出す。それは先程芥が双子用にと買ったばかりのものだ。
「金木犀は夜鷹様にとっても特別なものなのでしょう? お二人だけではなく夜鷹様にもお似合いかともう一つ包んでいただきましたの。どうぞお受け取りくださいまし」
「……俺にも? ああ、やっぱり綺麗だ。有難うな」
芥は礼を告げて瞳に穏やかな色を浮かべた。
●
秋めく風に白雪の髪を靡かせて物部・真宵(憂宵・h02423)はハイカラ街を漫ろ歩く。
連れ歩く管狐達が落ち葉を追いかけたりクンクンと道端の匂いを嗅ぐ姿を見守り歩けば、幼く小さな管狐があるお店の前で座り込んだ。
見つめる先にはきらきらと燦めくとんぼ玉がある。
「露草、とんぼ玉作りに興味があるの?」
『きゅん!』
元気よく露草が頷くように一鳴き。
真宵は露草を抱き上げてから視線を落ち葉と戯れる今様と青藍へと寄ってもいいか訊ねてみれば彼らもやりたいことがあるのか真宵の足元にやってきた。
斯くして一同は工房へ。工房の中で今様達と一旦解散した真宵は椅子に腰掛け膝の上に露草をのせる。
「ひとりでは危ないからわたしと一緒にしましょうね」
『きゅん!』
斯くして真宵が補佐しながら露草はとんぼ玉を作りを始める。
露草は幼く甘え癖もあるけれど案外肝は据わっている。火を怖がることなくくるくる、ころころととんぼ玉を作っていく。
きゅん。露草が自慢げに一鳴きして前足で指し示したのはしんと冷えて澄んだ冬の空のような天色。
「ふふ。自分の色を作りたかったの? ……違う?」
きゅんきゅんと上目遣いで露草が嬉しそうに口にしたのは異彩の双眸を持つ彼の名前。
確かにその燦めきは|天藍石《ラズライト》にも似ていて、真宵は穏やかにルールブルーの双眸を緩めた。
「あなた、彼に贈り物がしたくてとんぼ玉を作りたかったの? まぁ……ふふ、そうだったのね――今日はご一緒出来なくて残念だったわね」
そういえば今日は一人で出掛けると管狐達に告げた時、露草が見せた少しだけいじけた様子の意味がようやく解って真宵は思わず笑ってしまった。
帰ったら此れを渡すついでに露草の様子を伝えてみようか――斯様に考えていれば露草が袖をくいっと引っ張った。
どうやら早くとんぼ玉を飾り付けるパーツ選びに行こうと促しているようだ。真宵は促されるままついていき、露草がパーツを選ぶ様子を見守った。
シルバーの雪の結晶にも似た花座。露草の色彩に近いビーズ。瑠璃色の組紐を組み合わせて根付けにした。
斯くして完成した頃。別行動をしていた青藍と今様が紫陽花の硝子細工があしらわれた飾り櫛を持って帰ってきた。
「まあ……これをわたしに? うれしい、大切にするわね」
渡された飾り櫛を手に問えば、きゅうくうと2匹が誇らしげに鳴いた。
「ふふ、あなたも喜んでもらえるといいわね」
きゅんと露草も嬉しそうに鳴いた。
●
――喪ったものは戻らない。還らない。
氷薙月・静琉(想雪・h04167)は舞い落ちる紅葉を掌で受け止めながら物思う。
一度喪ったものは戻らない。斯様に見事に色付いた紅葉が散れば後は朽ち果てるのを待つように。
(静琉様が哀しいお顔をしている……)
櫻・舞(桃櫻・h07474)は憂愁に閉ざされたかのような静琉の横顔を気遣わしげに見つめる。
「大丈夫です?」
「……すまん。折角来たんだ。愉しまないと損だ、な」
「はい、楽しみましょう!」
花開くようにふわりと舞は|咲《わら》う。僅かに心に何かが刺さったような痛みはきっと気のせいだと自分に言い聞かせた。
漫ろ歩くハイカラ街。舞にとっては初めて見るものばかりで子どものように瞳に燦めきが宿る。
「ほわぁぁ……静琉様! 大きな箱が動いてます!」
「ああ、路面列車だな。舞、あれに乗ろう」
「路面電車?」
不思議そうに小首を傾げる舞を連れて静琉は路面電車へと乗り込む。
ゆっくりとした速度で走り始める路面電車に舞は驚いてしまって静琉に話しかけようとするけれど、開けっ放しの窓から吹き付ける秋の風に気が付いて外を眺める。
まるで窓枠を映写幕のようにして景色が流れてゆく。おろおろきょろきょろと物珍しそうにしている舞の様子を微笑ましく眺めながら、静琉は心地良い揺れに瞳を閉じた。
「静琉様?」
「あ、ああ……この揺れ、なんか安心するなと思って、な」
「はい、とても心地良い揺れですね」
流れゆく景色と心地良い揺れに暫し微睡んでいれば目的地である店の近くの停留場へと着く。
降りて向かうは呉服店。今日は舞の冬物を買いにきたのだ。
「この子の冬コートを探してるんだが……似合いそうなものを見繕ってもらえないだろうか」
「ええ、勿論喜んで」
大きな建物や見たことのない光景に圧倒されている舞を引き連れて静琉は店員へと話しかける。
店員は舞の姿をちらりと眺めてすぐに何点かのコートを静琉へと見せた。
どれもが冬らしい雰囲気を漂わせながらも何処か舞が纏う春の気配を思わせるような暖かみのあるデザインだ。
吟味するように一点ずつ眺めた静琉は最終的にベルベットの道行外套とカシミヤのファー付きロングケープを選ぶ。
首を傾げて今ひとつ状況が掴めていなさそうな舞の姿と服を見比べて少し思案する。
「どちらもハイカラで似合いそうだな。ではこの二点で」
「はい。ありがとうございます」
会計を済ませる。一先ずコートは買えたから次は小物類か。
「後は手袋や帽子等の小物も、だな。お勧めの店はあるだろうか」
「それでしたら裏手にあります雑貨屋さんがお勧めですよ。幼馴染の店なのですけれど彼女とは昔から趣味が似ているのか取り扱う商品の雰囲気が似ておりますの。お客様もよくあわせていかれますわ」
「ありがとう。店も近いようだし寄ってみよう」
店主に勧められた店は彼女の言葉通り先程買ったコートとも合わせやすそうな全体的に清楚で可愛らしい雰囲気の小物をよく取り扱っているようだった。
「舞、どれか気に入るのはあったか? 手袋や帽子を変えればと思っているのだが……」
「そうですね……」
静琉に問われた舞は店の中をくるりと廻って、目に留めたのは桜をモチーフにしたシリーズが並べられている棚だった。
春陽を受けて柔らかく色付く淡桜のような色彩を基調にフリルや桜の形をしたビジューがあしらわれている。
「淡い桜……舞らしくて可愛いデザインだな。よし、その手袋などを一式買おうか」
手袋や帽子、ついでにストールやマフラーも購入して店を出る。
コートや小物類はかなり嵩張る。沢山の荷物を持ち歩く静琉の姿を見て舞がようやくハッと気付いた。
「ほわぁ!? もしかして私のモノですか?」
「ああ」
「買い物とはお金なるモノが必要で大変だと聞きました。良いのですか?」
「金の事は気にしなくていい。必要な物だからな」
舞は購入品のことを思い出す。コートは静琉が真剣そうに選んでくれていたし、小物類は純粋に可愛らしくて気に入った。
頬を撫でる風は冷たいけれど、静琉の気持ちが舞の心を暖めていくようでふわりと笑う。
「ありがとうございます。私の宝物、大切にします!」
●
カフェーの窓からは色めく秋がよく見えた。
窓枠で切り取られた異国情緒溢れるハイカラ街の街並みはまるで映画の中のよう。
√EDENで生まれ育った兎沢・深琴(星華夢想・h00008)にとってはタイムスリップしたような光景にも見えた。
異国情緒と|懐古趣味《レトロ》が折混ざった店内は活気ある街並みとは逆に落ち着いていてとても居心地がいい。
馨しく鼻を擽る珈琲の薫りに注意を向けていれば、窓の外――テラス席から犬の鳴き声が聞こえた。
興味を惹かれて其方を向けば、テラス席でお行儀の良い犬がはちきれんばかりに尻尾を振って飼い主からおやつを貰う時を待っている。
メニューの説明書きに視線を落とす。どうやらこの店はテラス席に限りペット同伴も可能らしく犬と猫用のおやつも注文できるらしい。
(そういえば、まだちゃんとお礼はできていなかったかもしれない)
暗闇に沈みそうになった心を救いあげてくれた星の輝きを思い出す。折角だから、土産を買うのもいいかもしれない。
「カフェラテとプリンアラモードをひとつずつ。それから、この猫用のクッキーって持ち帰りはできるのかしら」
「ええ。お持ち帰り用もご用意しておりますよ」
「よかった。では、それもお願い」
注文を取り終えて引き上げていく店員の背中を眺めて鞄から先程古書店で買ったばかりの本を取り出したタイミングで注文したものが運ばれてきた。
「美味しい……」
シックなアンティーク調の食器にのせられたプリンアラモードを早速口へと運んだ深琴は思わず呟いてしまった。
プリンが美味しかった。昔ながらの固め食感のプリンはシンプルだからこそ美味しく作るのは難しいからこそ感動する。
舌鼓を打ちながらあっという間に食べ終えて、机の上に置いたままの本を開いた。
薔薇と黒猫の表紙に惹かれて買った本。詳細は確認せずに買ってしまったから内容については全くわからない。
カフェラテをゆったり楽しみながらページを進める。
どうやら児童文学らしい。優しい筆致で綴られる物語は薔薇園に迷い込んだ白兎が薔薇園の主である黒猫と交流していくストーリー。
暫く読み耽りふと視線をあげれば壁掛け時計が示している時間にやや驚いてしまう。
(あら、いつの間にかかなりな時間が過ぎてたのね)
でも折角だからもう少しこのゆったりと流れる時間に身を任せ微睡んでいよう。
深琴はふたたび視線を落とし、本の頁を捲った。
●
頬撫でる色なき風は秋めく気配を連れてきて、冬が訪れる直前一瞬だけ魅せる落葉が赤や黄等様々な色彩に染まっていた。
街路樹の合間に見えるうつろう空の色は青く澄み切っていて夜の訪れまではまだ時間があるように感じる。
(――被害を出さずに、とは思うものだが焦っていてもしょうがないよね)
各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)は何処となく逸る気持ちを落ち着けるようにゆっくりと深く呼吸して視線を地表へと下ろした。
活気溢れる晩秋のハイカラ街。静かで物寂しい季節へ向かうこの時期もハイカラ街はそのような気配とは無縁のようだ。
続く煉瓦畳の道。規則正しく立ち並ぶ瓦斯灯。大通りを征く路面電車。午后のひとときを楽しむ人々の声――此処は様々な光景で溢れている。
(何か面白いものがないかなぁ……)
これだけ様々なものが在ればきっと何かしらはあるのだろう。しかし、ただ悪戯に選択肢をばらまかれているだけのような気もして反って見当が付かない。
何となく先程観光案内所で貰ってきた|案内冊子《パンフレット》に目を通す。
服飾店に雑貨店、飲食店に工房や公園、神社やはたまた温泉施設など多種多様な施設が地図と共に表示されている。
上から順番に一通り目を通して、ふと工房の案内文で目が留まる。どうやら、勾玉などを作れるらしい。
(ふむ、勾玉かぁ)
じっと眺めて思案する。|鏡《あきら》はその名が表わす通り|鏡《かがみ》の付喪神である。
今でこそ写真機の一部となっているけれど、本来の自分は鏡なのだ。そして、そんな鏡の自分が武器にしているのは刀だ。
(――やっぱり、これは玉があった方がよくない?)
架空の物語でありそうな3つ集めたら特別な効果やら秘められた能力が発揮する――なんてことは無いような気はするけれど、何事にもお約束というものはある。
一応店にはまだ現役の鉱石ラジオもいるし、他にも小さな置物のジオード達もいくつかいるけれど、ひとつふたつ増えたところで問題ないし何より店主は自分なのだから文句を言わせたりもしない。
ちらりと下の段に描かれているとんぼ玉の紹介にも目が行く。季節限定で彼岸花や竜胆や紅葉、もしくは満月の柄などにも挑戦できるらしい。
だけれど鏡は心の中で静かに首を横に振った。一度決めたことだし、此処で天然石を選ばねば何処からかまたもや不満が飛び出してくるかもしれない。
斯くして鏡はひそかに決意をこめて工房の扉を開く。
出迎えた店員に一通り説明を受けてから早速天然石が並ぶショーケースへと視線を落とす。
様々な色彩の石が並ぶ中で鏡が惹かれたのは青や緑が入り混じる不思議なマーブル模様の石だった。
「お、これは面白い色合いだね」
「クォンタムクァトロシリカですね。クリソコラを中心にシャッタカイト、マラカイト、スモーキークォーツが混合した珍しい石なんですよ」
「くお……んたむ、くあとろ……シリカ?」
石の名前だけではなく続く説明も何やらよくわからなかった。まるで呪文か何かのようだ。
「クォンタム、クァトロ、シリカですね。覚えにくいですよね」
区切りながら言った店員の言葉でようやくなんとなく理解が出来たような気がする。
個性溢れる石達の中でお気に入りのひとつを見つけて席に戻るさながら鏡は壁に貼られた張り紙に気付いた。
どうやらそれは誕生石や石言葉を纏めた一覧表らしい。石選びに迷った人に向けた張り紙なのだろうが、その中で9月4日に記載されていた『不思議ちゃん』という単語に鏡は失笑してしまった。
正確な誕生日は覚えていないから自分で選んだ日付だけれど、もしかしたら何かの意味があるのかもしれない。
席に着いた鏡は説明書きに従って早速始める。
まずは印をつけてから、ヤスリでひたすら削っていく工程が待っている。
「――さ、頑張って削っていこうか」
目指す大きさはてのひらに収まる程度。根気がいる作業だろうが無心で続ければ案外すぐに出来上がるかもせいれない。
●
秋めく風がハイカラ街に秋を連れてきた。頬撫でる風は冷たく、冬の足音も少しずつ聞こえてきそうな時分だけれど、この街には活気が満ちている。
(モダンな雰囲気がとても素敵)
舞い散る木の葉を掌に受け止めて御狐神・芙蓉(千歳洛陽花・h04559)は改めて周囲を見渡した。
西洋の雰囲気を漂わせる建物に立ち並ぶ瓦斯灯。煉瓦畳の道をカランコロンと下駄を鳴らして芙蓉が纏う着物にも秋の|唐紅花《からくれない》が咲いている。
「芙蓉さん、今日の装いはとても似合っていて可愛らしいな」
「ふふ、ありがとうございます。ファウ様」
ファウ・アリーヴェ(果ての揺籃・h09084)が素直に褒めれば、芙蓉はふわりと微笑みながら赤と白の蛇の目傘をくるりと回した。
今日の芙蓉の装いはベージュの地に秋に映える唐紅花をそのまま閉じ込めたかのような竜田川文様の着物を纏っている。
「ファウ様もいつもと少し違う雰囲気で素敵ですね」
「共に歩く芙蓉さんに恥をかかせるわけにはいかないのでな、少し気を遣った」
「まぁ、普段のファウ様も素敵ですけれど、心遣いは素直に嬉しいです」
少し言葉を選びながらファウが応えれば、芙蓉が穏やかに笑う。
ファウの装いは普段とそう変わらない無地だ。しかし、共に歩く芙蓉に馴染むように|涅色《くりいろ》の羽織と着物に|鉛色《なまりいろ》の袴をあわせた。
旅の荷物は赤銅色に白の献上柄が入った信玄袋に纏めれば、全体を纏める良いアクセントになる。
「改めて、ご一緒出来て光栄だ。今日は沢山、のんびり遊ぼう」
「ええ。今日は沢山遊びましょうね」
ファウの言葉に芙蓉は微笑みとともに頷きを返す。
ゆるりとした歩調でふたりはハイカラ街をそぞろ歩き様々な光景やお店を見てまわる。やがてある店の前で足を止めたのは芙蓉だった。
「あら? こちらはとんぼ玉を作れるのですね。ファウ様、よろしければお互いの印象を想わせるとんぼ玉を作りませんか?」
「それはいいな――よければ、完成した品を交換しないか?」
「ふふ、面白そうです。是非に」
知り合ったばかりの相手だ。お互いを思い描き形にすることでもっと相手への理解が深まるかもしれない。
互いの提案に頷き合って、とんぼ玉作成体験が出来る工房の扉を開く。
硝子を熱する為のバーナーから発せられる熱気が工房内に満たし暖房のような役割を果たしているようで、やや肌寒い外と比較し過ごしやすい。
入店するとすぐに気が付いた店員がふたりを出迎え、慣れた口調で説明を行い席に通した。
「ファウ様、少しよろしいでしょうか」
案内された席に荷物を置いて、早速色硝子棒を取りに立ち上がろうとしたファウを芙蓉は呼び止める。
振り返ったファウに芙蓉は良いことを考えましたと言わんばかりの若干の嬉しそうな笑みが込められている。
「通された席は隣同士ですけれど、完成するまではお互いのとんぼ玉を見ないようにいたしませんか? 折角ですから、楽しみは全て完成した時にとっておきたいのです」
「ああ、勿論――完成した時のお楽しみだな」
特に断る理由もないし、思いつかなかったもののその考えにはファウも同意だ。
隣同士に腰掛けているので視界の端にはちらついてしまう。
いつもと少し違う芙蓉の横顔にファウは記憶の中の彼女を呼び起こす。それは――否、あまり見つめてはいけない。見ているのが横顔だとしても、完成するまでは互いに内緒と契ったのだから約束を違えることになってしまうかもしれない。
一呼吸おいてファウは自らの手元に集中した。
斯くして、なるべく作業工程を互いに見ないようにして作業に没頭していれば出来上がったタイミングはふたりほぼ同時。
「俺はできたが……芙蓉さんはどうだ?」
「ふふ、私もちょうど」
芙蓉は掌に深い青色に白い小花が咲くとんぼ玉をのせてファウに見せた。
「まるで夜空のように美しい藍色だな」
「ええ。ファウ様の瞳を思い浮かべながら色硝子を選びました。中々良い色彩を選べたのではないかと思います。お花は素直で可愛らしい所が健気に愛らしく咲く白い小花みたいと思ったから選びました」
「ああ、とても綺麗だと思う――ところで、この花の種類は?」
「内緒です」
ファウの問いかけに芙蓉は誤魔化し笑う。
実のところを云えば白い小花はカスミソウ。花言葉は感謝を表わす。
いつも気遣ってくれる彼への想いを籠めた。けれど、花言葉というものは秘めるものだから彼が気が付くまでは内緒にしておこう。
「ところで、私の印象のトンボ玉はどのようなものでしょう?」
「ああ、俺なりに芙蓉さんらしさを籠めてみたつもりだ」
ファウが掌にのせて見せたのは紅赤と金木犀の色が揺蕩うように混ざる透明なとんぼ玉。二輪寄り添うように咲き描かれたのは|伽藍菜《カランコエ》の白い花。
芙蓉はわくわくとした視線でとんぼ玉をじっくりと眺めて少しだけ首を傾げる。
「とても綺麗なそれに、どんな私を思い浮かべたのですか?」
「白い伽藍菜の花は暖かい沢山の人々との思い出というイメージと、あまりに愛らしい、同じ言葉を二度繰り返す口癖を花を二個寄り添わせて表した。解釈に違いがないと良いのだが」
「ファウ様から見た私ですもの。解釈に違いなどありませんよ。自分を想って作られたことが、とてもとても嬉しいですから」
芙蓉の言葉に少し安堵したファウはゆらりと尻尾を揺らした。
相手の視点から見た自分を知れた嬉しさで揺らぐ尻尾。可愛いと言われたのは少々悔しいところもあるけれど、芙蓉に言われるのであれば悪くはない気がした。
互いにとんぼ玉を交換する。
もうすっかりと冷えたはずなのに、何処かあたたかい熱を持っているように感じるとんぼ玉。
ファウは優しく撫で、芙蓉は嬉しさに穏やかな微笑みを咲かせた。
●
色なき風が秋の気配とともに美味しそうな香りを運んでくる。
鼻腔を擽るのはあまりにも香ばしくて美味しそうで食欲をこちょこちょ擽る感じの超スパイシーな芳香だ。
――おっと。興奮のあまりに何か変な表現になってしまったかもしれません。とにかく、美味しそうな匂いが足を止めるのです。
「これは、カレーのにおいでしょうか……!」
ハイカラ街を漫ろ歩くガザミ・ロクモン(葬河の渡し・h02950)――否、訂正しよう。おいしそうな匂いに釣られるまま歩いているガザミはまたもや立ち止まる。
「食べ物の匂いに敏感だな」
「ええ、此処は美味しいもので溢れているようですので、ついつい足が止まってしまいます! これは新手の罠に違いありません」
「罠も何もただ此処で営業しているだけだと思うがな――だが、お陰で美味い店リストは右肩あがりだ」
ガザミとともに歩く――否、こちらも訂正しよう。
おいしそうな匂いに釣られるまま歩くガザミの後を着いてまわる神楽・更紗(深淵の獄・h04673)。
元々、食事は好きではなかったが、ガザミといると不思議と食欲が増す。きっと、彼という存在そのものが幸福というとっておきの|香辛料《スパイス》となっているのだろう。
(美味い店リストだけではなく体重も右肩あがりだが、以前よりも筋肉がついて体は軽いのだからいい事だ)
ガザミが足を止めると同時に足を止めて、反応したお店を更紗も眺める。
洋食屋紅葉亭と看板に描かれているお店のようだ。店先には小さなカウンターがあり、其方でテイクアウトができるらしい。テイクアウトの名物はカレーコロッケ。
揚げたてのコロッケを買ってはふはふと食べ歩きに勤しむ人々の顔は皆幸せでおいしそうな表情をしている。
ガザミもてっきりそのまま吸い込まれていくかと思ったのだが、意外に踵を返し立ち去ろうとした。
「ふむ、食べぬのか?」
「お腹はすいてますけど、山でお弁当を食べたいので我慢です」
「意外に頑固なところがあるよな」
立ち去るガザミの後を追いかけながら更紗の目に入ったのは串カツの屋台。
「あの屋台が美味そうだ」
「更紗さんが食べたがるって珍しいなぁ……でも、食べたいのならば喜んで、串カツ、串焼きにお付き合いして頂きます」
立ち止まった更紗は串カツを串焼きを二人分注文する。ふわりと良い匂いが漂いガザミの空腹感を刺激し、ぐぅと腹が鳴った。
鳴った腹を確認した更紗はくすっと笑いながらガザミの目の前で揚げたてさくさくの串カツをおいしそうに食べてみせる。
ごくり、と思わず喉が鳴る。更紗はたった今美味しそうに食べていた串カツと同じものをガザミの口元へと差し出した。だが、ガザミは口を開かない。
「今日は食いつきが悪いな」
先程のカレーコロッケを諦めた時の雰囲気とは少し違う。まるでそれは――。
「照れているのか? 新鮮だ」
差し出された串カツはガザミの食欲を刺激する。蟹の姿での餌付けには慣れたけれど、|人間《こ》の姿だと照れてしまう。
されど空腹と、それから更紗の好意と雰囲気にに抗うことなどできずパクリと齧りつく。瞬間、口の中にさくっとした軽やかな衣の触感と鶏肉のジューシーな味わいが口いっぱいに幸せとともに広がった。
「カレーソースとハーブ塩が、カツと鶏肉とベストマッチで激ウマー!」
いざ口に運んでしまえば思わずいつもと同じ様にキラキラとした光をガザミは瞳に浮かべる。自分が美味しそうに食べる姿をいつも通りの表情で眺めている更紗の顔を窺い見る。
(お腹すかせているのを放っておけなかったのかな。本当に優しいなぁ……)
そう、更紗は優しい。味を感じないのに、食事に付き合ってくれるし、手料理も残さず食べて褒めてくれる。
(嬉しくて、けど、無理してるんじゃないかって心配になります)
ガザミは無意識に更紗の姿を見つめていた。じっと見つめられるガザミの視線に更紗もまた気付く――其処まで見つめられると更紗も凄く恥ずかしい。
「ニヤニヤ見るな」
「あ、じっと見過ぎましたね。ご、ごめんなひゃい~。むぅ、ニヤニヤしてないですよ~」
更紗はガザミのほっぺたをむにむにと揉んで弄ぶ。照れ隠しゆえの行動だけれど手指に残る感触は至福そのものだ。
「顔をむにむにされまくったから、表情筋肉がゆるゆるですよぅ――もー。それに、更紗さんといると退屈しなくて楽しいです」
「退屈しないか。それは妾の――」
台詞だ――そう更紗が続けようとしたところで突然ガザミが離れた。まるで犬のようにくんくんと匂いを嗅ぐ。
周囲に漂う甘い花のような薫香――その出所を探せば、先にあったのは雑貨屋だ。
「くんくん、雑貨屋さんからいい香りがします!」
「ほう、確かに、いい香りだ。心地よい。行ってみるか」
「はい!」
近付いて店の中を覗く。
どうやらルームフレグランスやアロマキャンドル、石鹸などを取り扱うお店らしい。
特に充実しているのは、天然素材に拘った石けんだ。
花の形をした石鹸や水晶のようなクリアに花を閉じ込めた石鹸は見ているだけで楽しい。店先に並ぶ石鹸はそれぞれが形や中に閉じ込められている花に因んだ香りを纏っているらしい。
「わ、お花の石鹸がいっぱいだ」
ガザミは棚をわくわくとした視線で見渡すと、やがてひとつの石鹸に視線がとまる。
透明に金色の花を閉じ込めたような石鹸。良い香りの石鹸達の中でもとびきり甘い香りを放つ金色の花。
「この花と香り好きです。名前なんでしょうね?」
「金木犀だな。妾も好きだ」
ガザミの問いかけに更紗は素で答え――気付く。
(え……妾はなんて言った!?)
今主語をすっ飛ばして、違う意図に聞こえるような発言をしてしまったのではないだろうか。
まるでその場から逃げ出すように石鹸をふたつ掴み取ると会計を済ませにいく。
随分と冷えたはずの秋の風――なのに、何故か更紗の顔はやたらと熱かった。
●
思い出はいつも胸の中にあって、決して届かないものだ。
色なき風が連れてきた秋の唐紅花は咲き映えて神代・ちよ(Aster Garden・h05126)の双眸に眩く映る。
『――ええ。多くの色が世界を彩っています』
ふと脳裏に懐かしい声が過ぎる。純血を重んじる神代家に於いて人と交わり産み落とされた|忌み子《ちよ》。
事実を隠すように虫籠と称される座敷牢で育った半人半妖のちよにとっては僅かばかりの空間と世話係であった紫苑だけが世界の全てであった。
(紫苑が現れるかもしれない……と聞いて、つい来てしまったのです)
星詠みが語った紫苑の名。もし逢えたのなら――と逸る感情が心を強く揺さぶるけれど、今は未だ早い。
日が暮れ世界が一面の紅に染まる|時刻《とき》まで未だある。
今は、秋の景色と活気に満ちたこのハイカラ街の景色を楽しむことにしよう。
斯くしてちよは当て所なくハイカラ街を漫ろ歩く。だけれど美しい花簪の店も、馨しい練り香水の店も今は興味が持てない。
(どうしても、やはり気になってしまうのでしょうか)
どうにも心は逸るままらしい。そんな己に内心苦笑を浮かべて通りがかった古書店の店先でとある絵本を見つけた。
(これ……懐かしいですね。昔、あのひとが読んでくれた絵本です)
題名や表紙絵に見覚えがあった。子どもの頃、何度も彼に読んで貰った絵本だ。
数ある絵本の中でも特にこの絵本がお気に入りだった。何度も読んでとねだっては彼が語る御伽話の世界に耽った。
だけれど不思議なものであんなにも好きで何度も読み聞かせてもらった絵本だというのに内容までは思い出せない。
歳月がちよの記憶に刻まれた思い出という|洋墨《インク》を滲ませ暈かしていったのか――それとも、本当は内容なんてどうでもよくてただ彼の声を聴いていたかったのか。
(不思議ですね。まだあの『虫籠』を出てきて、そんなにたっていないはずなのにこんなにも遠く、昔のことに感じるのは)
今となっては解らない。答えも出せないだろう。
――もう、あのひとがいてくれたあの場所は喪われてしまったのだから。
ちよはふと、空を見上げる。秋めく風に紅葉がひらりはらりと舞っていた。
さりげないありふれた景色。されど、その一瞬ですら美しく鮮やかに色付いている。
『本当にそんなに外の世界は美しいのですか?』
『ええ。とても。あなたが求めるもの全てがあるでしょう』
幼い時分に交わした言葉が脳裏を過ぎる。
狭い虫籠の中で育ったちよにとって、外の世界を識る術は彼の言葉の他に無かった。
彼が美しいと語る世界も実際に見たわけではなくまことの意味で幼い自分は彼の言葉を理解ができなかった。
「今なら、あなたが語った世界の美しさ――鮮やかさをちよも知っているのです。あなたと同じ目線で、世界を見ることができるのです」
当然、世界にはまだまだちよの知らないことで溢れているだろうしそのどれもがきっと、とても、とても美しいだろう。
きっとそのすべてを彼だって知らないのではないだろうか。
ちよが見つけた世界の美しさを、ちよがまだ知らない世界の彩りを――ふたりともが知らない世界に溢れる物語を今ならば共に探してゆくことだって出来るのに。
「――それなのに、あなたは目を閉じてしまったのですね」
天高く澄み渡る青。こぼしたちよの言葉は誰にも届くことなく掻き消えていく。
それまでに、きっと――そう思考を巡らせてからちよはゆるりと首を振った。
(いいえ、いま悩むのはやめておきましょう。せっかく決めていた、こころがにぶってしまいそうですから……)
ちよにとっては、大きな決断だった。
世界を彷徨い舞って、心だって彷徨わせて、ようやく辿り着いた決意という旅路の果て。
その旅路の果てに辿り着いたのならば、もう引き返すことはできない――否、引き返してはならない。
今でも、あのひとは|大切な人《Anker》だからこそ、あのひとにこれ以上罪を犯させたくはない。
「ちよは前に進むのです――そう、するしかないのです」
絵本を握る手に、無意識に力が籠もってしまっていた。
ちよはこころの中で絵本に謝罪をしてから古書店の中に入り、その絵本を買い求めた。
僅かに西に傾きはじめた午后の秋陽がちよの白桜の髪を照らしている。
忘れえぬ想い出を綴り、終わらぬ旅路として続いた物語。
ちよは錦紅葉の山へとゆっくりと――されど、確実な足取りで向かう。
――彼と紡いだ御伽話に|終止符《ピリオド》を打つために。
第2章 冒険 『紅葉に染まる双子山』
●
色なき風が紅葉山に秋の彩りを連れてきた。紅葉の名所と名高い紅葉山は一面が映えるような唐紅に染め上げられている。
今まさに見頃を迎えた錦紅葉達目当てに訪れた人々で賑わいを見せていた。
蜘蛛の人妖が現れるのは黄昏時。いくら名所と言えど日が落ちた後の山は危険が伴うからその頃には多くの人々が下山するだろう。
日が西に傾き世界が赤色に染まる夕暮れまでは未だ時間がある。今は素直に冬が訪れる前の世界が魅せるひとときの彩りを愛でよう。
●
映える唐紅の錦紅葉。駆け足で過ぎる季節を彩る色彩を愛でながら物部・真宵(憂宵・h02423)はゆるりと紅葉狩りを楽しむ。
足元で機嫌良く歩き回る管狐達を微笑ましく歩いて暫く経ち、身体に僅かな疲労を感じてきた頃合いに。
「あら、お茶屋さんがあるのね」
少し休憩していきましょうか。言葉を続けようとした真宵の足元をちいさな管狐の露草が駆け抜けてゆく。
駆け出す露草。一拍子遅れて今様と青藍が露草を追いかけなんとか進路を塞いで露草をとめた。
「今様、青藍、ありがとうね――露草はあまり今様達を困らせてはダメよ」
真宵は管狐達のもとまで歩み寄り、まだ走り足りない様子の露草を抱き上げる。
きゅんきゅんと不満げな鳴き声をあげる露草を宥めるように一撫でしてから茶屋に入る。
紅葉を眺めながら甘味を楽しみたいので外の床几台に腰掛けて、店員にぜんざいと管狐達にはそれぞれ違う紅葉焼きを注文する。
暫く紅葉を眺めながら待てばあたたかなぜんざいとほかほかの紅葉焼きがのせられたトレイが運ばれてくる。
お行儀良く座って待つ管狐たちの前にそれぞれ紅葉焼きを置いて、食べていいわよと声をかければ管狐たちは夢中で食べ始めた。
「ふふ、美味しい?」
管狐達に訊ねれば、同時に答えるように一鳴き。今様は小豆、青藍は抹茶、露草にはカスタードを選んだが無事に気に入って貰えたようだ。
器用に食べる青藍と対照的に今様と露草は少しだけ不器用なのか口の周りに餡がついてしまっている。
真宵はそっと拭ってやった後、空に架かる色付いた紅葉を仰ぎ見る。
「きれい……」
澄み渡る空色に燃えるような唐紅のコントラスト。うつくしい光景に思わず呟きを漏らせば真宵の頬をやや冷たくなった風が撫でた。
季節は移り巡りあっという間に木の葉色付く秋が来た。紅葉焼きを食べ終えて真宵の膝の上で暖をとっていた露草がきゅんきゅんと何かを訴えかけるように鳴く。
「そうね、クリスマスも近くなったわね――プレゼントが欲しいの?」
『きゅん!』
元気よく頷くように一鳴きした露草の頭をこしこしと撫でながら、ふふふと柔らかな微笑みを浮かべる。
「プレゼントを貰えるのは、ちゃんと良い子にしてたらよ? だから、あんまりお兄ちゃん達を困らせないの。わかった?」
『きゅん!』
任せて!と言わんばかりに元気よく鳴く露草を、少し子守りに疲れた様子の今様達がじぃっと見つめていた。
●
紅く色付く秋山に白衣の裾を翻して月依・夏灯(遠き灯火・h06906)は、興味深く眺める。
紅葉の山は夏灯にとっては初めてだ。燃えるように鮮やかに染まる紅色は夏灯の目に映えて見えた。
(綺麗だな……)
炎の色彩でもある赤は好きな色。炎は怖いと感じつつも夏灯にとっては救いの色彩でもあった。
ゆえに、この光景は本当に怖いと感じる程に美しい――等と感傷に浸っていたその時、肩に乗っていたにゃんこががぶりと耳を噛んだ。
「にゃんこ、痛いよ。|侵食する《囓る》のはやめて」
耳に齧り付かれ慌てて両手で引きはがしたがなおも手のうちで黒猫が夏灯の腕を囓ろうと身を捩らせている。
空腹レッドアラート。大変危険だ。早急に何か食べ物を調達しなければならないが山の中。
どうしようか――夏灯は考えながら周囲を見渡すと何かを持って歩く観光客の姿を見かけた。
(あ、あれが噂の紅葉焼きか)
この近くに例の茶屋があるのだろうか。
軽く探してみればやや道を進んだ先に甘い香りを漂わせる茶屋を見つけた。
「にゃんこ、ここで何か食べていこうか」
他の人に迷惑をかけないようににゃんこをがっしり確保して置いて列に並ぶ。
少しだけ待って自分の番になったのでカウンターに置かれたお品書きの紅葉焼きに目を通す。
「折角だから、季節の味がいいな……うん、栗にしよう」
夏灯が呟くとにゃんこが少し不満そうな視線で夏灯を見ていた。
夏灯がにゃんこの不満そうな様子に気が付いたことを確認したにゃんこは続けてたしっとカスタードの文字を指す。
「いっそのことふたつ食べちゃうか……すみません。カスタードもお願いします」
「承知いたしました。はい。どうぞ」
手渡されたふたつの紙包み。焼きたてのようでまだほかほかと暖かな紅葉焼きを表のベンチまで持っていって腰掛ける。
(紅葉の形って芸術的なほど綺麗だよね)
頭上に映える紅葉の葉と手にある紅葉焼きを見比べながらその形を愛でる。
暫く掲げていれば熱々の紅葉焼きも程好く冷めて適温になっていた。
思いきって齧りつくと薄皮のさっくりとした歯ごたえと栗の豊かな甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しい!」
初めて食べたおやつだけれど、思わず声に漏らしてしまう美味しさだった。
この世界には初めてのことが沢山ある。知らないことだらけというのも悪いことばかりではない。
――素敵な世界をまたひとつ学べた。
夏灯はしばし口の中に広がる栗の余韻と美しい秋色に酔いしれていた。
●
お揃いのストールを身に纏ってふたり並んで歩けば少し冷たくなった秋の風だって辛くはない。
「|藍《らん》ちゃん、カイロ、持ってきたの……ひとつ、あげるね?」
「わぁ、ありがとう。|秋桜《あき》ちゃん」
雲路・秋桜羽(秋桜咲く渡り鳥・h06838)から手渡された使い捨てカイロを受け取って握り締めれば、蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)の手のひらにじんわりと柔らかな暖かさが広がった。
山道に備えていつもよりも多めに着込んできたけれど、それでも冷たい風に指先が少し凍えていた。
柔らかな暖かさのカイロと同じように優しい気遣いを感じながらふたりで燃えるように映える唐紅の紅葉を眺める。
近付く冬の足音。秋から冬へ移ろいゆく間に一瞬魅せる世界の彩りは溜息がこぼれそうな程に美しい。
「綺麗だねぇ?」
「うん、とっても綺麗……だね?」
微笑みながら語りかける藍花に秋桜羽は頷いて秋の唐紅を愛でる。
しばらく心を奪われるように見惚れたのちにはっと思い出すように鞄を弄ってスマートフォンを取り出して、見事に色付く唐紅をファインダーにおさめた。
スマートフォンの画面に、一瞬を切り取って閉じ込めたかのような一枚の写真。消えないように
「今日は誘ってくれて、ありがと……♪」
「ふふ、喜んでもらえてうれしい」
藍花は穏やかに秋桜羽の隣を歩きながら色付く紅葉に負けない程に良い表情を魅せる彼女の横顔を眺めていた。
(誘って良かったなぁ……)
藍花の口元に微笑みが咲く。
紅葉を愛で歩き写真撮影に興じる彼女は本当に楽しそうに見えた。楽しんで貰えたと言うならば何よりだ。
語らい紅葉を愛で、すれ違い人を見送りながら歩くさがら僅かに身体に心地良い疲労が蓄積した頃合い。
秋桜羽は一旦スマートフォンを鞄に仕舞って藍花の方を向く。
「そういえば、例のお茶屋さんはまだ……かな?」
「うーん、確かもうすぐのはず、だけど……ちょっと疲れてきた、ね」
会話を交わしながら説明を思い出す。確か名物は鯛焼きみたいな紅葉焼きというお菓子。
随分と種類があるという話だった――藍花は脳裏に思い出せる限りのラインナップを並べた。
「秋桜ちゃんは、何か食べてみたい味はある?」
「そう、だね……うーん、定番の小倉は食べたい、かな……後は、季節のお芋も栗も南瓜もみんな気になっちゃう」
「秋って、おいしいものばかりだよね。どれも、ほっくりしてて美味しそう」
「うん……おいしい、けど……」
秋桜羽は答えながらお腹をそっと擦った。食べられる量にも、食べてもいい量にも限りがある。
だけれど、それを無視して覆してしまう程に秋の味覚の誘惑は凄まじい。
察した藍花もしんみりと頷きながらも、けれども食欲の秋を抑え切れそうにないのは同意してしまう。
「秋の期間限定だけではなく、カスタードやクリームチーズも気になるんだよね……」
斯様な会話を続けながら歩き続けて見えた茶屋。
結局何にするか決めきれず欲張って全種類頼んでしまったけれど、渡された盆にこんもり盛られた紅葉焼きを前にして若干呆気に取られてしまう。
「ふふ、たくさん買っちゃったね?」
「食べきれなかった残りは明日のおやつ、だね?」
秋桜羽が小さく笑う。
縁台に並び腰掛けてから藍花は天辺のひとつを手に取って割ってみれば中から出てきたのはお芋餡。
「秋桜ちゃん、半分こしよ……?」
「うん、それに半分こしたら……たくさん食べれるもん、ね?」
差し出された紅葉焼きを受け取って並んで一緒にいただきますと言葉を交わしてから口に含めばふくよかな甘い味わいが口いっぱいに広がった。
美しく色付く紅葉と甘い紅葉焼き。空気は冷たいけれど友人と過ごすこの時間は暖かなお茶とともにふたりの心を暖めてくれる。
「今度は冬景色……クリスマス、かな?」
「うん、冬のお出かけも楽しみだねぇ……」
巡る季節。続く日常。共に過ごした時間とともに増える想い出のアルバムの1ページに今日の唐紅もしっかりと挟み込んで、ふたりは穏やかに微笑みあった。
●
冬が訪れる前の僅かなひとときの間に色付く木の葉は見事なまでにうつくしい唐紅に染まっている。
錦に喩えられるほどに一面を埋め尽くす紅葉を各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)は眺め愛でる。
「あぁいい景色だ――かつての写真機の持ち主たちもこういう景色だけ、人物だけを撮ることを追い求めていればよかったのね」
回想するのは過去の"持ち主"達のこと。
|そういうもの《・・・・・・》を映すと謳われた写真機に手を伸ばしたものは、須くその生涯を短いものとして散らした。
ある者は好奇心だろうか。また、ある者は何らかの使命感だろうか――各々の野望や渇望を抱え写真機を携えて向かったのは危険な場所。
皆、写真機の噂話に踊らされていたのだ。
(あんな場所に赴かなければ、もっと平穏に長生きできただろうに……)
|そういうもの《・・・・・・》を映すために自分も|そういうもの《・・・・・・》になっていたのでは世話がない。
今更なんと言おうとかつての持ち主達は帰ってくるわけではないし、彼らの愚かな行いをなかったことにもできない。
(………………)
鏡は嘆息する。眼前に広がる燃えるような唐紅もなんだか曇って見えてしまう――これはよくない兆候だ。
「せっかくの景色だ。湿っぽくなってはいけないねぇ」
思考を入れ替えるように軽く頭を振る。確か先程通りがかった道に茶屋があったはずだ。
(気分転換も兼ねて甘味でも食べよう)
鏡は着た道を引き返し茶屋へ入る。少々並んではいるが回転はよく、すぐに鏡の版になった。
「紅葉焼きの、ええとカスタードとクリームチーズをもらおうかな」
「カスタードとクリームチーズですね。承知いたしました。お熱いのでお気をつけくださいね」
注文と会計を済ませたのとほぼ同時に紅葉焼きを手渡される。
店員が言う通り焼きたてなのか紙包み越しでもほかほかとした暖かさが伝わる――少々寒くなってきた頃合いだから、これくらい暖かな方が反って良いのかもしれない。
購入した紅葉焼きを持って、店先に置かれたベンチに腰掛け紅葉焼きを食す。カスタードクリームの甘さとクリームチーズのまろやかな酸味がさっくりとした歯ごたえとともに楽しめた。
食べ終えた鏡は先程作った勾玉を紅葉に翳し見る。
(さっきまで石を削ってだいぶ疲れたからね。でも、頑張った甲斐があってよい感じになったと思うよ)
勾玉の緑は紅葉の唐紅によく映える。どちらも同じ|この星《地球》の色彩だ。
●
眼前のやたらと顔の良い男――雨夜・氷月(壊月・h00493)は完璧とも言えるかんばせで優雅に微笑んでみせた。
秋に燃えるように映えて美しい唐紅だって一瞬でくすんで彩りを失いそうな程にやたらめったら完璧な笑顔を浮かべる男。
通りすがる人々も思わず氷月に視線を奪われている。だが、戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)は知っている――あれは、どうせ碌でもないことを考えている顔だと。
「んっふふ、やっぱり場所に合わせて服着た方がテンション上がるじゃん?」
「私には勿体なすぎる着物ぉ……絶対支払えない金額ですってぇ」
テンションが上がる以前に汚してしまったらどうしようなんて恐れがくるりの脳裏を支配する。
「お金は使う為にあるんだし、俺的に楽しければ問題無しだよ」
「テンションの為だけでこんな高価なものを……? ふつうしませんよ……?」
「気にしない、気にしない!」
話は以上とばかりにばっさりと言い切った。テンションの為だけにこんな金額のものを普通は買えない。
この着物代だけで何が出来るかなぁとくるりは脳内で考えたが、半額も行かないうちに小市民はギブアップ。
外見だけではなく金銭感覚の格差も凄まじいようだった。だがしかし、くるりは氷月の姿を眺める。
「でも、いい買い物だったと思います。氷月さん、とってもお似合い! 紅葉も映えますねぇ……一枚絵みたい」
「うん? 俺? 随分と珍しい事言うね?」
「……掻っ攫われると褒める暇がないんですぅ!」
珍しいのではなく言わせて貰えないだけなのだ。
やたらと口数の多い店主と一緒に選んだ氷月の衣装は思った以上に彼に似合っていた――否、あの顔の良さならどんな衣装でも着こなせてしまうのだろうか。
藍鉄色の着物に留紺の羽織。一見無地のようにも見えるが主張しすぎない市松模様が上品さを添えている。
天然石がいくつか数珠繋ぎにされた羽織り紐の中央には満月のような黄翡翠が映えている。
「くるりもよく似合ってるよ。やっぱりアンタに赤はよく映えるね」
「ぇ、私も? 似合いますか、ぅー……その、ありがと、ございます……いつも、かわいく……してくれて……」
月夜の双眸を細め真っ直ぐな褒め言葉に、くるりは頬を紅葉のように染めながら応えた。
纏うのは生成色の地に紅葉が流れる竜田川文様の袖。袴は紅葉と同じ臙脂色というハイカラさんスタイル。
下駄や草履は履き慣れないと山道は大変だろうからとブーツを合わせて貰った。
正直自分では馬子にも衣装だと思うし、この完璧美形と並ぶのは罰ゲームか何かのように感じる気持ちもあるが、くるりだって年頃の女子高生だ。
素直に可愛らしい装いは嬉しくなるわけで。
「オシャレ、慣れなくて、恥ずかしいけど…:…うれしい、です」
「んっふふ、よかった」
くるりの言葉に氷月は満足げに微笑む。本当に顔が良いからつい流されてしまいそうになるけれど――。
「強引さは! 変えて欲しいですけど!」
「あっはは! だってアンタ、強引にやらないと絶対着ないじゃん。これくらいで丁度いいと思うんだよねえ。普段ももっとお洒落しても良いと思うよ」
愉快げに顔の良い男が笑う。褒められることは嬉しいがお洒落な普段着というのは中々にハードルが高い木がする。
「いや、お洒落とかあんま慣れてなくて」
「じゃあ、今度は洋服でも買いに行く?」
「いやっ! それは! またテンションがどーたら言って出そうとしそうですしっ!」
「いいじゃん。俺は楽しいし、くるりは可愛い服が着られる――WinWinじゃない?」
「じゃな――」
氷月の言葉に言い返そうとしたその時だった。氷月との会話に気を取られてしまっていた所為もあるのだろう。
慣れぬ着物と山道でくるりはちょっとした段差に躓いて蹌踉ける。
「み゛っ」
「おっと!」
まるで蝉が潰れたかのような悲鳴をあげながら転びかけるくるりを氷月の腕が抱き留めた。
「わっ……ふふ、今日は支えてくれるんだ」
「んっふふ、着飾ってもこういうトコロは相変わらずだね!」
「ありがとうございます」
「ドーイタシマシテ! だって折角の着物が汚れたらモッタイナイし」
「余計な一言! お高い着物ですけどぉ!」
態々言わなくてもいいのにとむくれるくるりの傍らで小さく付け足した氷月の「なぁんてね」という呟きは彼女には聞こえなかった。
●
秋の色彩と芳香を纏えば自然と足取りも軽くなる。
先程、ハイカラ街で手に入れたばかりのお香と紅をその身に纏った柳・芳(柳哥哥・h09338)は紅葉狩りへと繰り出した。
秋に映える唐紅の中を少しだけ浮かれた足で進む。燃えるような唐紅の中でも僅かに色彩は個々に異なる。
(良い買い物をしたなぁ)
僅かに異なる紅葉の中で手に入れた紅と同じ色に染まった紅葉を見つけて、つい芳の口元は緩んだ。
紅葉焼きが名物の茶屋までは後少しある。気分よく歩いている芳は其処まで疲労を感じないけれど、普段あまり山登りをしない人々が疲労を感じて休憩をしたいと思う場所に丁度茶屋が建てられているのだろう。
中々に賢い商売である。
斯くして進んで見えた茶屋で紅葉焼きを購入する。様々な味があり少し悩みながらも折角ならばと期間限定の芋味を選んだ。
「結構、再現出来ているみたいだね」
薄皮の紅葉焼きは金具の細かい模様までもよく反映している。天にそよぐ紅葉にかざして見比べてみればなかなかのそっくり具合だ。
さくさくと軽やかな食感とほっくりとした甘さが特徴の紅葉焼きをお供に紅葉狩りを楽しむ。
まだ明るいうちに登山道をぐるりとまわる。
(正確に場所を特定するのはさすがに難しいかな)
紫苑の出現地点は正確に知らされてはいるものの、女性が紫苑と遭遇した地点については其処まで詳しくは知らされていない。
星詠みに連絡を取って正確な地点を聞こうにも、現地にいない星詠みから口伝だけで目印となるものが少なそうな山中で正確な位置を伝え聞くのは難しいだろう。
(でも、諦めるわけにはいかないね)
斯くなる上は人海戦術。芳は多数の配下妖怪を呼びだして周囲の捜索を命じる。
そう、諦めるわけにはいかないのだ。
件の女性が大切な人を失って悲しかったように、件の女性自身が姿を消して行方も知れない現状――きっと、彼女のことで嘆き哀しむ人だって出てくるだろう。
まるで、哀しみの連鎖だ。
終わってしまったことはもう取り戻せはしないものの、せめて次に起こるであろう哀しみを少しでも和らげる手助けができたらいい。
探し続けて、やや日が西に傾き始めた頃合いに配下妖怪が真新しい銀指輪を手に戻ってきた。
(この場所は念のために覚えておこう)
彼女を想う人々や弔いたい人々のために。
発見地点を配下妖怪から聞いた芳は、周囲を見渡してやや目立つ特徴的形状の石を見つけ、目印代わりにその場に置いた。
●
頬を撫でる風はやや冷たくともやや歩いて火照った頬を冷ますには丁度よく心地良い。
清らかな山の空気を浴びながら天高く澄み渡る空色に映える唐紅を愛で歩く咲樂・祝光(曙光・h07945)は、ふと傍らを歩いていたはずの幼馴染の姿が見えないことに気が付いた。
(あれ? 卯桜は?)
一旦立ち止まって周囲を見渡せば、背後から何かが近付いてくるような気配に気が付く。
「まってよー!」
「なんだ、卯桜。もうへばったのか」
「山道って歩きづらいんだよぉ……」
必死に追いかけてきたであろう|エオストレ・イースター《誘七 卯桜》(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)がしわくちゃ顔で答える。
今にも枯れうさぎになりそうなエオストレに祝光はじぃっとした視線を向けた。
「君は兎だろ? 山は得意なんじゃないの?」
「僕は登山に適したイースターじゃないよぉ」
しわしわうさぴょん。エオストレは本当は禍津神であって兎じゃないんだけど、まぁ今は些細な問題だろう。
立ち止まった祝光に追いついたことで一旦立ち止まる機会を得たエオストレは息を整えて体力を回復する。
「むしろ何で祝光はヒールの靴でスイスイ歩けるのさ」
「俺は慣れてるし龍だから脚力が違うの」
涼しい顔で言ってみせた祝光は道の先を指し示す。
エオストレが指す先を追いかけると木々に隠された先に僅かに建物のような何かが見えた。
途端にしわしわうさぴょんの瞳に輝きが戻る。まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のようだ。
「あれは……茶屋っ!」
「……ここら辺で休憩しよう。とりあえず茶屋まで頑張れ」
「休憩!? うん、休む!」
全力で頷きつつも再び表情はしわしわと萎れる。ちらりと何かを訴えかけるような視線をエオストレは祝光に向けた。
(僕もう歩けないよ。チラッ……)
祝光は察したように溜息を吐く。気付けぬ程浅い縁ではない。
助けを乞うエオストレに祝光は手を差し伸べた。
「いいよ」
「祝光やさしい!」
仕方が無いので手を貸す――というか、半分担ぐようにして茶屋に辿り着き、縁台に転がすようにエオストレを座らせた。
「……ん? なんかさっきより元気になってない? いいけどさ……食べよう」
「んふふー。食べよ食べよ」
元気なだけではなくやたらとエオストレは上機嫌だ。
担がれて楽だったし僅かに体力も回復できた気もするし、何よりも祝光に構って貰えることが嬉しかった。
後ついでに良い香りもした。良いことしかない。
イースターと同じくらいに素晴らしい心地ができた。
しかし、祝光にそのことを告げてしまえば実は疲れた振りをしていただけではないかと疑われて甘やかして貰えなくなってしまう気がしたから黙っておいた。
「君は何にするの?」
「俺は……あずきと抹茶に――噫、でも栗もいい。ミコトは南瓜か」
「気になるのは全部食べよ! 僕はそうするー!」
「全部なんて食べ切れるのか?」
半信半疑でエオストレに訊ねる。実際に運ばれてきた菓子を心から美味しそうな様子でぺろりと完食する。
見事な兎のような食べっぷりに感心しながら見つめていれば、祝光の手元にひらりと紅葉がひとひら舞い降りてくる。
色付く美しい紅葉。されど、それは緩やかな死でもある。
秋を迎え|終わりの季節《冬》へと向かうひとときに色付く紅葉は、最期に映えるような唐紅を魅せた後は散るのみ。
一度散ればその葉は朽ち、腐り果てる。
「喪ったものは、還らない……か」
西に傾きつつある太陽は放つ光を徐々に赤へと変えつつある。
唐紅がより染め上げられてゆく光景を眺めながら、やがて訪れる逢魔が時を想う祝光。
西日に照らされた祝光の横顔を眺めるエオストレは最後の菓子を口にひょいっと放り込んでから不思議そうに首を傾げた。
「急にどうしたの? そんなの当たり前じゃん。死ってそういうものなんでしょ? でも桜は散れどもまた咲いて、朽ちることはない――輪廻する……それは、人が短命だから」
「ふふ、君らしい考え方だね。俺達は喪い続けるから、さ――少し、感傷的になった」
薄く笑いを浮かべる祝光を眺めながらエオストレは想像した。
もし、人のようにすぐに祝光との別離がきて彼の居ない世界に放り出されてしまったとしたら――それは、酷く恐ろしくて体温を確かめるように祝光へとくっつく。
「……俺にくっついても暖はとれないぞ」
いつも通りの幼馴染の声にエオストレは寒いと誤魔化した。
●
そよぐ秋風に揺らぐ紅葉は唐紅。
冬へと至るひとときに彩りを添える姿を愛でながら八百・千(|嘘と針《はっぴゃくとせんぼん》・h00041)はゆっくりと歩を進める。
(紅葉狩りなんて一体何時ぶりかしら)
錦にも喩えられる美しい紅葉景色を眺めながら、千はふと随分と遠ざかっていたことに気が付いた。
すれ違う人々は皆唐紅の色彩を綺麗と尊び愛でている。
(赤に染まる景色は――綺麗だけど少しだけ苦手、ね。思い出したくない事まで思い出してしまいそうで……)
和やかに紅葉狩りを楽しむ人々の声は千の心を僅かに和ませるけれど、それよりも沈みかけた思考を慌てて引き戻して軽くかぶりを振る。
気を取り直して名物の紅葉焼きなるものを食べてみよう。確か茶屋はもう少し先に進んだ場所にあるはずだ。
(――あら、私食べてばかりかしら?)
何だか食べてばかりな気もする。けれど、街歩きの次は山歩きをするのだ。色々と歩いて巡っているわけだからたまには許されるだろう。
それに此れはただの食べ歩きではない。
お店に出す新しいお菓子のための研究で必要な行為なのだ――なんて誰に告げるでもなく言い訳をしながら歩いていれば、あっという間に店に辿り着く。
「ご注文はいかがいたしますか?」
「ええと、定番の小豆と季節限定物を一つずつ。飲み物は焙じ茶があると嬉しいわ。あとは……大福」
名物の紅葉焼きと好物の大福。つい気が惹かれるままに気になるものを衝動的に注文してしまった。奥へと戻っていく店員の後ろ姿を眺めながら千はすぐに後悔をする。
周囲の人々が手に持っている紅葉焼きは想像よりもやや大きい。
いくら歩き回ったとはいえ、胃袋の許容量も有限なのだから自分1人では食べきれる量ではない気がした。
「お待たせしました。ご注文のお品は以上でお揃いでしょうか?」
「ええ。間違いないわ」
「それではごゆっくりどうぞ」
「少しよろしいかしら」
予想通り店員が運んできたお菓子達は中々に量が多い。
奥に戻ろうとする店員の背を呼び止めて千は話を切り出した。
「これね、お土産にできないかしら。家でお留守番をしている子へのお土産にしたいの」
「ええ、勿論です。包みを持ってきます。冷ましてから包みにいれてくださいね」
斯くして店員は快く千に包みを手渡した。
まだ暖かな紅葉焼きをひとつ食べながら、千はしばし優しい甘さに酔いしれていた。
●
すっかり頬を撫でる風は冷たいが色付きの盛りを迎えている秋の唐紅の下を少年と青年が歩いていた。
「ハイカラ街を満喫したな〜」
トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)の様子はいつもよりも上機嫌そうだ。
周囲の景色を眺めながらのんびりと歩いていた緇・カナト(hellhound・h02325)はぼんやりと呟く。
「目的地までの山登りかぁ」
「ああ、眺めるだけでも紅葉狩りと呼ぶ。言葉の綾も愉快ではあるが~折角の景色を楽しもうか、なぁ主」
「まぁ未だ紅葉が見頃らしいから景色を眺めながらのんびり行くかね」
言葉を交わしてのんびりと山を登る。暫く歩き続けて現れた建物をトゥルエノは指さした。
「紅葉焼きが名物らしい茶屋があるぞ主……!」
「……紅葉狩りは如何なったんだい、珍しモノ好きの雷獣クンよ」
眺めるだけの紅葉狩りではなかったのか。まぁ、食事の誘いを断る理由もないしトゥルエノに引っ張られるようにして茶屋へと入った。
テイクアウト用のカウンターに並びつつ、周囲の人々が持つ紅葉焼きを眺める。
「ほぅほぅ、どうやら紅葉焼きは鯛焼きの紅葉バージョンらしい。ちなみに主は頭から派か尻尾派か……」
「鯛焼きは頭から丸呑みにする。紅葉位ならひと口だなぁ」
「モミジなら関係なしにパクッと行けそうだな!」
言葉を交わしていればあっという間にふたりの番。
紅葉焼きは定番から洋、変わり種まで種類豊富に取りそろえられているらしい。
「味選べんの? 和よりも洋より気分だからカスタードとかクリームチーズ……秋らしい期間限定、芋や栗のを味わってくのも良さげだなぁ」
「チョコやクリームチーズ味も珍しそうだし、秋らしい芋や栗味も良さそうだなぁ〜どれも捨てがたい」
カナトの言葉に頷きながら、トゥルエノはお品書きを眺めながらわりと真面目に悩む。
「やや、他にも栗最中や大福もあるらしい。主!」
「雷獣クン、そんなに食べられるのかい」
「うぅ、そうなのであるよな……我に主のような力があれば……!!」
トゥルエノは自分のお腹を抑えながら悲壮感たっぷりに呟いた。
人の身を取れるようになった時は主に『どうだすごいだろう……!』とばかりに自慢したが、何故か取れた姿は幼子のもの。
無限の食欲を持つ主には到底及ばぬ。何故斯くも無力なのであろうか。
「ついでだから全部買っていくか」
「主?」
「……多少は冗談だ」
結局トゥルエノと分けるからという名目で全種類を購入して近くのベンチを目指す。
紅葉焼きから最中や饅頭、それからそれぞれの飲み物。テイクアウトできるものをとりあえず全て頼んだら中々のボリュームだ。
最初はカナトが全て運ぼうとしたがトゥルエノが持ちたがったのでドリンクを持ってもらうことにした。
小さな身体でぷるぷる震えながら零さないように気をつけつつ懸命に運んでいる姿が大変健気で愛らしい。
「どうだ、すごいだろう……!」
「落とすなよ」
胸を張るトゥルエノにカナトは冷静に告げてふたりは茶屋の近くにある広場にやってきた。
近くには小川が流れており、水面には紅葉筏が静々と流れている。丸太のベンチに腰掛けて早速袋の中に纏められた紅葉焼きを分配する。
「何から食べる?」
「とりあえず我はチョコ紅葉焼きを頂こう〜」
「はい」
トゥルエノはカナトに差し出された紅葉焼きをぱくりと齧りついた。
さっくりとした食感とともにたっぷりのチョコクリームが出てくる。少々歩いて多少は冷めたと言えど未だ少し熱い。慎重に冷ましてから続きを食べた。
一方カナトは慎重に食べ進めるトゥルエノの隣で黙々と紅葉焼きを食べていた。
横目でちらりと雷獣の様子を確認して食べ終えたタイミングを見計らい、クリームチーズと栗味を半分に割ってから差し出す。
「はい。チョコもチーズ味もそれなり旨かったが、やっぱり栗のは秋らしくてよかった」
「ああ、食欲の秋というのも良きものだなぁ」
「……お前にも食欲の秋とかあったんだなぁ。霞とか食ってそうなのに」
「主と一緒に食べるご飯は格別だ!」
「そうか」
屈託のない表情で言うトゥルエノから視線を逸らすようにカナトは紅葉を見る。
口の中で広がる紅葉焼きのカスタードは、いつもよりも甘く感じた。
●
天高く澄み渡る晴天。秋風に染め上げられた唐紅が一面に広がっていた。
「わぁ、すっごく綺麗!」
思わず歓声をあげて、鮮やかに染まる紅葉に野分・風音(|暴風少女《ストームガール》・h00543)は見惚れた。
山登り自体は冒険でよく行う。けれど、冒険の時はあまりじっくりと景色を眺めて歩くことはないから、こうして景色を目的に楽しみながら山登りを行うのもいい。
跳ね回るような足取りで散策していたら気付けば結構歩いていたらしい。
清涼な山の空気の中に仄かに甘い香りが漂っていることに気が付いて風音は香りを辿り歩けば、やがて茶屋が見えてきた。
「あ、ここが紅葉焼きが名物の茶屋だね」
山中という立地だけれど茶屋は紅葉狩りの客で大変賑わっていた。茶屋で甘味に舌鼓を打つ人々の手には噂の紅葉焼きがある。
(紅葉焼きおいしそー!)
丁度小腹も空いてきた頃だし、折角だし少し食べていこう。そう決めた風音は茶屋のカウンターに近付いてお品書きに視線を落とす。
「うーん、色んな味があるなぁ。悩んじゃう……うーん、うーん。えーと、決めた! すみませーん! 紅葉焼きのあずきと南瓜、それと緑茶をテイクアウトでお願いします」
「承知いたしました。はい、お熱いので気をつけてくださいね」
注文をするとすぐに品物を渡された。焼きたてほかほかの紅葉焼きが若干秋風に冷えた手を温める。
少し歩いて、ちょっとした広場のようになっている場所を見つけた。片隅には可愛らしい丸太のベンチがいくつか置かれている。
「あ、ここのベンチ、景色も良いしちょうど良いかも!」
腰掛けてみると風音の予想通り素晴らしい眺めだった。広場のすぐ隣を川が流れており水音と流れゆく紅葉筏がとても綺麗だった。
折角だし川面を眺めながら食べるのもいいのかもしれない。
「それじゃあ、冷めないうちに――いただきまーす!」
元気にいただきますの挨拶をして紅葉焼きにかぶりつけばさくっとした食感とともにあずきの優しい甘さが口いっぱいに広がる。
あっという間にあずきを食べ終えて、あたたかな緑茶を飲む。あずきの甘さと緑茶のさっぱりとしたほろ苦さの相性が良い。
南瓜の方もこれまた優しいほっくりとした甘さが丁度よくさらりと食べられた。
「おいしかったなぁ」
呟きながら改めて川面を見る。それにしてもいい景色だ。折角だから写真も撮っていくことにしよう。
●
映える紅葉は燃えるような唐紅。
視界全てを埋め尽くす紅葉に心を奪われるかのように冬薔薇・律(銀花・h02767)は、ほぅっと息を吐いた。
「見てくださいまし、一面の赤は燃えるよう」
「夕暮れに染まる赤に、紅葉がいっそう彩りを深めてるようだな」
律の傍らで夜鷹・芥(stray・h00864)も静かに頷き答えつつ紅葉の合間から見える空を金眸で眺める。
先程に比べて随分と日は西に傾いてきた。射し込む秋陽も色彩を徐々に朱く色付いて逢魔が刻の訪れを予感させた。
「紅葉は葉の老化だそうですが、この鮮やかさはむしろ生気に満ちているように感じますわね」
「ああ、冬を迎えて散る間際の植物の力を感じさせる色だ」
花は散るからこそ美しいと詠った歌があったか。桜は潔く散るからこそ愛でられるのであって、最期に魅せる美しさにきっと人は惹かれるのだろう。
傾く陽により燃えるような色彩を浮かべゆく紅葉を眺めながら歩いていれば、小さな広場に出た。
広場のすぐ脇には水面に紅葉筏を浮かべた谷川が静々と水音を立てながら流れている。
「少し休憩しようか」
「ええ、此処でしたら景色が良いですし丁度いいですわね」
丸太ベンチに腰掛けて谷川を眺める形でふたりは持参した弁当を広げる。
美しい空気と景色を愛でながらつまむ弁当はいつもとまた違う味わいがしそうだ。早速弁当に箸を伸ばそうとしていた芥にふと律は話しかけてみる。
「そういえば夜鷹様の好きなものはなんでしょうか」
「俺の好きなもの……食い物なら肉、とか? 此れが好きだ、と今まであまり意識はしてこなかったが」
丁度持っていた箸で唐揚げを持ち上げて見せてみた。
「じゃあ……そうだな。俺も訊き返してみて良い? 好きなもの」
「わたくしですか? 甘いものが好きなことは以前にお伝えしましたが、お弁当ならこの卵焼きかしら」
指したのは綺麗に巻かれた卵焼き。
ふむ――なるほどと芥は考えて一旦持っていた唐揚げをベンチの上に置いていた蓋の上に置いてから自分の持っていた弁当箱を律へと差し出す。
「卵焼き、俺のもやる」
「まぁ、いいんですの?」
「ああ、甘い味だといいな」
遠慮がちに窺う律に芥はほんの少し表情を緩めて言葉を返した。
それでは、失礼します――と、律は端にあった卵焼きを慎重に持ち上げて自分の弁当箱へと運んだ後、同じように今度は律が芥に弁当箱を差し出す。
「それではわたくしの鳥の照り焼きももしよろしければどうぞ」
「いいのか?」
「ええ。お弁当のおかずの交換って、なんだか素敵ではありませんか?」
ふわりと微笑む律にそうだなと頷いて芥は律の弁当箱から一口サイズの鳥の照り焼きを貰った。
そうして映える秋の錦紅葉を愛でながら弁当を食べる。
「そういえば、律とこんな風にゆっくりとした時間を過ごすのは好きだ、とも思う」
「もちろんわたくしも、あなたさまとこうして過ごす時間が好きです」
半分以上食べ終えたところで、ふと呟いた芥の言葉に律も穏やかに返す。
ゆっくりと時間が流れていき、季節が巡る。紅葉が散れば白雪降り積む冬が来る。
長いようで、あっという間の日々だった――と、ふと律は紫色の双眸を窄め想う。
「季節は巡りまた冬が来ます。夜鷹様とお会いしてもう一年になりますがまだ知らないことばかりですわね」
「もう一年になるのか――ひととせが巡るのは早いが、俺も未だ知らない律のことを知っていけるのは楽しみだ」
「ええ、わたくしもです。よろしければまた、お話をお聞かせくださいましね」
対話を重ねて、交流を続け、共に過ごす時間を巡らせて互いを知っていく。そのことはとても素晴らしいことだと思うから。
斯様に視線を交わすふたりの合間に紅葉がひとひら舞い降りる。芥は風に揺られる紅葉を捕まえてから律の掌にのせた。
「まぁ、ありがとうございます。ふふ、夜鷹様、紅葉の花言葉をご存じなのかしら」
「確か……大切な思い出だったか。この場で贈るには相応しい花言葉だろうな」
「ふふ、此れもまた約束にいたしましょう。その時にはきっと、今日の日は大切な思い出となっていますわね」
ふたりの間を再びはらりと紅葉が舞う。
美しい変化を魅せる世界の中で大切な思い出を紡いでいく――そう、約束を交わして。
●
季節の移り変わりが連れてきた秋風が染め上げた紅葉は唐紅。
錦に喩えられる程、鮮やかに一面を彩る唐紅は心地よく晴れた秋空によく映える。
「ベルちゃん、見てください! 紅葉がとってもきれいに染まってますよっ」
「ええ、すっかり秋が深まって。とってもきれいね、色とりどりで」
身体いっぱいに感動を表現する廻里・りり(綴・h01760)を微笑ましく眺めながら、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は穏やかに微笑んだ。
山の空気は街の空気とは少し違う。とても澄んでいて気持ちの良い空気をベルナデッタが深呼吸をすれば、傍らからくちゅんとくしゃみの音が聞こえた。
「りり、大丈夫?」
「大丈夫です! でも、山にのぼってくると、ちょこっとひえますね……」
「あらあら、冷えていて? 風邪を引かないように、りり。ストールをどうぞ」
少し寒そうな様子のりりにベルナデッタは自分が羽織っていたストールをそっと羽織らせた。
紅葉に負けないくらいに立派な紅色の薔薇柄のストールだ。色合いが気に入って纏っていたものだったけれど丁度よかった。
「わ、ありがとうございます! でも、ベルちゃんはさむくないですか?」
「ワタシは大丈夫よ――でも、陶器の肌は随分冷えるから。あなたをびっくりさせないように、手袋をしておくわ」
「わかりましたっ! でも寒かったら言ってくださいね!」
「ええ」
ベルナデッタへの気遣いを忘れない優しいりりの言葉に穏やかに頷きながら、ふたりは紅葉山を昇る。
一斉に唐紅に染まっているように見えたのだけれど、実際は僅かに個々で差がある。唐紅にひとえに纏めてしまっても実際のところはそれぞれの紅葉に若干の色彩の差だってあった。
ゆるりと紅葉を愛で歩くさながら、紅葉達の僅かに異なる変化も楽しむ。
斯様にベルナデッタは紅葉狩りを楽しんでいたのだけれど、ふと隣のりりが何やら落ち着かない様子でそわそわしていたことに気がついた。
「りり? 何か気になることでもあった?」
「ベルちゃん、えぇっと……おちてる子なら、持ちかえってもいいでしょうか?」
ベルナデッタが訊ねてみれば、りりはちらちらと地面に落ちている落ち葉を気にしているらしい。
言葉を続けて?といった意図を籠めてベルナデッタが僅かに首を傾げれば、りりは理由を話し出す。
「じつは夏に灯籠をつくってから、押し花にするのにはまっていて……」
「ああ。なるほど。木から自然に離れたのならば、許してもらえるかしらね?」
納得したようにベルナデッタは頷きながら、ふと近くの岩の上にちょこんと一枚乗っていた紅葉の落ち葉を手に取った。
「それじゃあ、ワタシも一枚連れて行くわ。灯籠づくり楽しかったものね」
「はい! あのときみたいに飾れるのもかわいいですし、なにより思い出としてとっておけるのが、すてきだなぁって!」
「ふふ、素敵なことだと思うわ。この子達は後は朽ちてゆくだけ――それもそれで次の生命に巡る大切なことだけれど、綺麗な姿でいたことを憶えておいてあげるのも大切なことだと思うの」
ベルナデッタの言葉にりりは嬉しそうにはいと頷いてからその場にしゃがみ込む。
落ちたばかりの紅葉が絨毯のように地面を埋め尽くしている。一面の唐紅をりりはじぃっと真剣に一枚一枚眺めて吟味してから数枚拾い上げる。
「ちいさい子と、おっきめの子と……あ! 染まりかけの子もいますよ! 内側が黄色で、外にむけて赤くなってます!」
「あら、本当ね。色のグラデーションが綺麗だわ」
「どの子もすてきですけど……この染まりかけの子が今日のとっておき、かもしれませんっ! この綺麗な色を活かしてあげられるような押し花にしてあげたいです」
崩れてしまわないようにそっと未完の童話集に挟み込んでから、本を胸に抱いたりりはうーんと首を傾げる。
「うーん、押し花アートや栞とかでしょうか……それもとっても素敵なんですけど、ちょっと違うことに挑戦したいかもしれません」
「だったら、紙を漉いて入れ込むのはどうかしら? ハガキにもなるし、乾かす前に整えて紙の器も作れるし」
「わぁ! 素敵です! うまく薄く作れれば灯籠みたいなライトとかも作れそうです! お家に帰ったら、いっしょに押し花にしましょうね!」
「そうね、先の約束がまた増えたわ」
微笑みあうふたりの間にまた、紅葉がひらりと舞い降りた。
●
やや冷たくなった秋の風が夢見月・桜紅(夢見蝶・h02454)の頬を撫でた。
秋山を唐紅に見事染め上げる錦紅葉は眺めているだけで心を弾ませる。
「あぁ、紅葉が綺麗な朱色に黄色、色とりどりです、ね!」
桜紅が眺め見上げる視線の先。映える紅葉が浮かべる唐紅の色彩はひとえに唐紅といっても一枚一枚僅かに色付き方が違う。
ささやかな色の変化を愛でながら、己の双眸の色彩を思い浮かべる。
自分の双眸も赤色だけれど、このとても鮮やかに染め映える紅葉とはまた違う色彩だ。
(今日の目的は他にありますが、それでも、来てよかったです、ね)
冬へ至るまでの僅か一瞬に季節が魅せる唐紅。本の世界も愛してはいるけれど、現実の世界の色彩はより物語よりも鮮明に実体を伴ってこの双眸に映る。
美しい光景だ。わびしさを感じさせる
冷たい風が桜紅の頬を撫でる。巡りゆく季節が連れてくる秋風はどうしても感傷的な気持ちにさせるのだ。
(……あぁ、いけません。どうにも、寂しさを感じてしまい、ます)
桜紅が握る手のうちには先程作ったばかりの勾玉がある。
強く握っていたせいだろうか――すっかり桜紅の体温で勾玉は暖められていた。
(物静かで、あんまりお喋りするのは、得意じゃなくて……ただ、一緒に居てくれる人。どれだけ願っても、ここにあるのは、素敵な紅葉と、たくさんの人々です、けれど……)
大切な人の瞳の色彩を映しとった|紫水晶《アメジスト》。かつて、その人が眺めていた世界はどのような色彩だったのだろうか。
「……ねぇ、|紫葉《しよう》。世界は、やっぱり素敵なものばかり、ね」
桜紅はこころの中にいるその人に語りかける。大切な思い出だ。でも、想い出は所詮は想い出。現実で共に過ごすことなど叶わない。
どのような世界を見ていたのか――思いを寄せたとて答えを教えてくれる人は今は此処にはいない。
(私は、この景色をあなたと見たかった、けれど、それは叶わない、から……せめて、この素敵な景色を、守るわ)
桜紅は密やかな決意を心に抱く。桜の花びらが舞い散るようにひとひら桜紅の手に紅葉が舞い降りる。
まるで誰かに応援されているかのようで――だからこそ、退くわけにはいかないと強く思えた。
「――見守っていて、ね?」
唐紅の合間。仰ぎ見た晴天は穏やかに澄み渡っていた。
●
まことに美しい光景を前にすれば、美しいという賛辞の言葉でさえ蛇足のよう。
(言葉に表せない程にとは、このような光景を言うのだろうな)
秋めく風が染め上げた唐紅を前にして、アダルヘルム・エーレンライヒ(華蝕虚蝶・h05820)は鉛筆を執る。
何かを意識したわけではなかった。ただ、この美しい唐紅を前にして、咄嗟にこの光景を描かなければと本能的に考えたのだ。
(――俺にとって、呼吸する事と描く事はきっと同意義だ。止めたらその瞬間に死んじまう)
喩え絵が自分を孤独の淵に追いやろうとも、讃えられることがなくても止めることなどできなかった。
斯くして眼前に広がる唐紅の錦紅葉をキャンバスの中に閉じ込めてゆく。
冬が訪れる前のほんの僅かな季節が魅せる彩り。喩えこのまま葉が冬に朽ちても絵の中ならば、この燃えるような美しい唐紅を閉じ込めておくことができる。
だがしかし、アダルヘルムの心の中には僅かに勿体ないという感情が渦巻いていた。
斯様に綺麗な色彩なのに見頃が一瞬しかないのは勿体ない――だが、花は散り際が一番美しいというように一瞬だからこそ人の心を打つのかもしれない。
(――いかん。手を止めてはダメだな)
脳裏で思考を巡らせていれば、気が付いた時には手が止まっていた。悠久の時を生きる者だとしても、この紅葉の彩りは一瞬だしこの後に待つ戦いだってある。
今は時間を無駄に浪費するわけにはいかないのだ。
(この絵を見せたい奴らがいるんだ……本当に見せる、とまでは言い切れんが)
一先ず今は絵を描くことに集中しよう。そう心に決めたアダルヘルムはひたすらに筆を走らせて光景をキャンバスに写し取る。
斯くして描き終えた頃には日はやや西に傾いて、蒼穹の晴天は穏やかな色彩へ移ろっていた。
立ち上がって見えた茶屋に、アダルヘルムはふと思い出す。
山中にある茶屋の名物は紅葉焼き。薄皮さっくりとした鯛焼きを紅葉の形にしたような菓子なのだと。
(たしか、変わり種や期間限定の味も充実しているし他のメニューもあるのだという話だったか)
考えればお腹のあたりが何かを訴え欠けるように音を立てた気がしないでもないがきっと気のせいだろう。恐らくは。
(……別に食べたい訳じゃないぞ。モデルにするから仕方なく、だ!)
誰に向けてかはわからないけれど言い訳めいた言葉を口にしてアダルヘルムは茶屋へと吸い込まれていった。
●
「舞、歩き難くないか?」
「はい、大丈夫です」
氷薙月・静琉(想雪・h04167)が問えば櫻・舞(桃櫻・h07474)がふわりと微笑んで頷いた。
ふたりは錦紅葉が美しく色付く山道を並び歩く。舞はいつもと同じ草履を履いており、山道の環境で歩きづらくはないかと静琉は心配をしたが幸い、舞の足取りはしっかりとしたものだ。
「草履は慣れましたので、静琉様は大丈夫ですか?」
「俺はブーツだし問題ない」
「ブーツ? とってもオシャレな履き物ですよね。それは歩きやすいのですか?」
きょとりと首を傾げる舞に静琉は頷きながら少し自分の足を少しあげて軽く振ってみせた。
「靴底も安定しているしこのように振り回しても脱げる心配はなく動きやすい……ブーツもさっき一緒に買っとくんだったな」
「いえ! 沢山買って頂いて私はぬくぬくです」
舞は嬉しそうに白桜色のストールを掲げてみせた。冬に向かうさながらの秋山。もう暫く経って日が落ちれば気温はより下がるだろう。
とはいえ、まだ冬用のコートは少し早い気もしたからひとまずストールだけを取り出して他の購入品は街の荷物預かり所に預けてきた。
錦紅葉の合間から見える秋空を静琉は仰ぐ。先程よりはやや青空の色が和らいで黄昏刻が訪れる気配を見せてはいるものの、夕暮れまでにはまだ時間がありそうだ。
「確か、夕方頃に敵様が現れるのですね」
「ああ、人妖が現れるまでまだ時間もある。紅葉も愉しみながら休み休み往こう」
見事に染まる紅葉。紅に橙、黄色に茶――錦のように美しいグラデーションを魅せる光景に見惚れるのは静琉だけではない。
すれ違う見物客も皆綺麗だねと言葉を交わしあっている。
「近くで見上げる聳えた一本も、遠くから眺める樹々や山々も全てが美しいな」
「はい……お花の鑑賞とは違って紅葉は葉のみなのにみんな少しずつ違う色をしていて綺麗ですね。山全体が真っ赤な山みたいですが燃えるようででも温かい色です」
静琉の言葉に頷きながらも舞は周囲の見物客が放った単語について気になっていた。
「紅葉……そういえば先程から他の方が紅葉狩りと……紅葉の木を刈ってしまうのですか?」
なんだか舞の声が震えている気がして静琉が不思議そうに舞の姿を見れば、彼女はぷるぷると小さく身を震わせていた。
「紅葉狩りの語源は『狩り』と云う言葉の意味に『観賞する・愛でる』等があるから、だな。物理的に斬り倒してしまうわけではない」
「そ、そうなのですね……よかった」
舞は露骨にほっとした表情を見せた。
舞本人もどうして此処まで紅葉に感情移入してしまったか解らないけれど、ひとまず可哀想な目に遭う紅葉の木がいなくて何よりだ。
斯くして歩き続け、ふと甘い香りが静琉の鼻腔を擽った。辿るように視線を其方へと向けると茶屋がある。
「丁度良いところに茶屋があるな。舞、休憩していこう。紅葉焼き……食べないか?」
「はい!」
頷きつつも紅葉焼きとはなんだろうと舞は考える。
茶屋に入り席に案内されてから興味深く周囲を見渡せば、周囲の人達が持っているものを見てああと納得。
「紅葉焼きは紅葉の形をしているんですね! 私はこし餡をお願いします」
「俺は好物の芋餡と……それから、ぜんざいと抹茶も二人分頼む」
「わぁ、ぜんざいも抹茶もどちらも美味しいですよね」
注文を終えて暫く待てば注文したものが運ばれてきた。
紅葉焼きとぜんざい、抹茶――それから、抹茶用の茶菓子として小さな干菓子が2つ添えられている。
「静琉様! 抹茶に紅葉と小鳥さんのお菓子が添えられていますよ。可愛いです!」
「ああ……俺のは紅葉とうさぎのようだ」
少し食べるのが勿体ないかもしれません――そう真面目に干菓子と向き合う彼女を眺めつつ静琉は芋の紅葉焼きを食べる。
薄皮のさくっとした軽い食感と芋の柔らかな甘さが口いっぱいに広がる。
「甘い物を食べると疲れが和らぐな」
「甘い物は回復薬なのでしょうか? 心もほっこりと致します」
「回復薬……そうかもしれない」
静琉は言葉を返しながら、ふと窓の外を眺める。
茶屋のすぐ近くを谷川が流れており、紅葉筏が錦のような模様を描いて谷川を流れる様を見ることができた。
「それに、今だけの鮮やかな景色の中で頂くのも風流で……贅沢な時間、だ」
「ええ、静琉様と一緒に過ごせるこの時間が贅沢な時間です」
舞は頷きながら紅葉焼きを食べれば、何よりも甘くて優しいような味がした。
●
色なき風が連れてきた唐紅の紅葉錦が、天高く澄み渡る秋空に映えている。
紅葉山の木々はみな美しく色付いて冬へと至る僅かな瞬間の彩りを見せていた。
御狐神・芙蓉(千歳洛陽花・h04559)は見惚れながら歩き、口元に微笑みを浮かべる。
「ファウ様、とても綺麗ですね」
「ああ、とても、綺麗だ」
ファウ・アリーヴェ(果ての揺籃・h09084)は答えながら芙蓉の姿を眺めた。
燃えるように映える唐紅の中でも秋の色彩を纏う彼女の姿は一層に燦めいて見える。まばゆい夕陽に目を窄めるように、秋の唐紅の中で微笑む彼女はあまりにも美しい。
「ファウ様、本当に綺麗ですよね。一面が唐紅に染まる瞬間――刹那の彩りだからこそ、より一層美しく見えるのかもしれません」
「そうだな、まるで夕焼け空の中を歩いているみたいで楽しいと思う」
ふわりと美しさに微笑みを咲かせる芙蓉の足取りに合わせながらファウも歩く。
山中の散歩はよくするけれど、誰かと歩くのは初めてのことだ。最初は緊張でやや覚束なかった足取りも山道を歩き山の中腹程に至る頃には自然と足並みを揃えることができた。
斯くして一瞬の季節が魅せる彩りを愛で歩いているうち、やがて眼前に見えてきた茶屋を芙蓉はさした。
「ファウ様、ファウ様。あそこで美味しそうなものを売っておりますよ」
「良い香りだな」
興味ひかれるままふたりが近付けば店頭の看板には名物である紅葉焼きの説明が書かれている。
興味深そうに眺める。自慢は薄皮さっくり食感と種類豊富な餡やクリームらしい。
「紅葉焼きですって。折角ですし買っていきましょう?」
「ご当地グルメと謂うものか。うん、寄っていこう」
あまい香りに誘われて何処か浮き足だったような芙蓉に導かれファウも茶屋へと向かう。
されど、甘い物に浮かれ立つのは芙蓉だけではなくファウも同じ。茶屋へと入り空席を探す。
|紅葉の季節《繁忙期》の茶屋はそれなりに混雑をしておりどの席も埋まっていた。それでも根気よく探し続けて丁度食べ終えた二人組が立ち上がったのでその席に並んで腰掛ける。
二人掛けの長椅子席。やや狭いが、運良く座れただけで良いだろう。
「私は栗にしますが、ファウ様は何にします?」
「どれも美味そうでとても迷うが……抹茶にしよう」
品書きに視線を落としながら言葉を交わしてから店員を早速呼んで注文すれば直ぐに運ばれてきた。
焼きたてなのかほかほかとしたぬくもりが手の中に広がる。
この調子だと中の餡も少し熱いかもしれない――そう考えたファウが手元の紅葉焼きを眺めていれば、何か隣から視線を感じて首を傾げつつ其方に顔を向ける。
「芙蓉さん、何か?」
「ファウ様はお茶の味がお好きなのですか? 美味しいですよね、抹茶味」
「どの味にするか悩んだ程どれも捨てがたかったが……抹茶のふくよかな旨味は好きだな」
芙蓉の問いかけにファウは応えつつも、芙蓉の視線はファウの紅葉焼きへと向けられている。
じーっと見つめる芙蓉の視線。薄皮の紅葉焼きは中の抹茶餡が僅かに透けて仄かに緑色に見える。その様が珍しいのだろうか――ファウが内心そのようなことを考えていれば、芙蓉が意を決したように切り出した。
「……折角ですし半分こしません?」
「ああ、成程。栗と迷ったから助かる、ありがとう――はい、どうぞ」
視線の意味を知って納得。ファウとしても悩んでいたから有難い提案だった。
快く割って差し出せば、芙蓉がありがとうございますと微笑んでから同じ様に栗の紅葉焼きも半分割って渡した。
芙蓉の機転に寄ってふたつの味を楽しんだふたりは茶屋を後にする。
歩き続けた疲労も僅かな休息と糖分補給ですっかり癒えて、足取りも軽い。
そうして進んだ山道で、ふとあるものを見つけた芙蓉がふわりと微笑んだ。
「少し手を貸して頂けませんか?」
「? はい」
微笑みに誘われるままファウが手を差し出せば芙蓉がその手を掴み落ち葉の山へと倒れ込む。
「――?!」
咄嗟のことでファウは何も言えなかった。されど、彼女が怪我をせぬよう驚きながらも庇い抱いて落ち葉の山へとそのまま倒れ込んだ。
倒れ込むと同時ふぁさりと落ち葉が舞う。こんもりと積もった落ち葉の山はまるで布団のようで痛みなどは全く無かったが状況が飲み込めずファウは思わずぽかんとしてしまった。
その様子を腕の中の芙蓉がふふっと笑う。
「悪戯成功です」
「え? 悪戯?」
「ええ。落ち葉が集まったこの場所で寝転んだら気持ちよさそうだなと思ったのです」
「く、ふふ、ははは……」
芙蓉の口から発せられたまさかの理由にファウもつられるようにして笑ってしまった。
思いっきり破顔するファウに芙蓉も更に微笑みの表情を濃くする。
「ねえ、ファウ様。少しばかりお昼寝しながらお話しましょう? ファウ様の好きなこと、楽しいと思うこと、色々なことを教えてくださいな」
「話、か」
心地良い微睡みの中、訊ねられた問いかけにファウは少し思案する。
好きなこと。自然。世界は優しい人や喜びに溢れていたこと。――そして、芙蓉さんの見せる表情が愛らしくて好きなこと。
ファウを見つめる芙蓉の表情はいつにも増して柔らかくて、愛らしくて。その表情と視線をしっかり見つめ返しながらファウも訊ねる。
「あなたの事も知れたら嬉しい」
「私ですか? 誰かの笑顔が私が一番好きなものですよ」
勿論、芙蓉が好きな笑顔にはファウの笑顔も含まれている。
出会った時、少し影があったような彼が笑っているのが本当に嬉しくて――いつまでも幸せで笑顔でいてくれたらと言葉にせずとも思うのだ。
「ああ、俺もだ」
ファウも頷きながらも、やはり微笑む芙蓉から視線が離せなくて愛おしげに微笑む。
彼女がずっと、優しい咲顔に囲まれていて欲しいと心の中で願う。
(――こんなに安心して瞼を閉じるのも、生まれて初めてだ)
頬を撫でる秋風は冷たくとも、とても心地の良いものだった。
●
秋風に染められた唐紅が見渡す限り広がっている。
色なき風が連れてきた、冬に至るまでの一瞬だけの時期が魅せる季節の彩りは人々の心を和ませる。
「更紗さん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。急ぐこともないし、のんびり紅葉狩りをして過ごそうか」
整備された登山道であろうと慣れない者には中々に体力を消耗させる。
案じるように訊ねてきたガザミ・ロクモン(葬河の渡し・h02950)に神楽・更紗(深淵の獄・h04673)はふっと微笑んで答えた。
山育ちで山道には慣れているガザミに比べて更紗はあまり坂道は得意ではなかった。慣れぬ更紗に合わせてガザミは歩調をゆったりとしたものに合わせていたけれど、美しき景色を愛でながらであれば本来身体を襲うであろう疲労も感じずにいられる。
穏やかに紅葉を愛で他愛のない話に花を咲かせながら斜面をゆっくりと登る。蹴り上げた紅葉がふわっと舞い散る様も何だか楽しい。
「良いお天気でよかったですねー。晴れた空が気持ちいいし、紅葉もめちゃくちゃ綺麗です」
「ああ、秋空の澄み渡る青色と紅葉の唐紅が対比となってお互いをより引き立たせるようだ。空気も街とは違う心地よいな」
「はい! 山の空気っておいしいですよね! 僕は山育ちなので凄く懐かしい感じがします」
元気よく言うガザミに更紗はああと思い出す。そういえば彼は山育ちだった。
なんとなく山の中をおにぎりを掲げ、てくてくと横歩きする|蟹《ガザミ》を脳裏に浮かべて微笑ましくなりながらもふと気になったことを聞いてみる。
「ガザミの故郷の山も紅葉が見事なのだろうか」
「いえ、僕の故郷のお山は一年中藤の花が咲いていたので紅葉とは無縁でしたね。でも、去年の夏にお山の半分くらい燃えてしまって……」
「そうか、燃えてしまったのか……」
この場で触れるべき話題ではなかっただろうか。更紗は気遣わしげにガザミを見るが彼はいつもと変わらぬ様子を見せている。
そもそも彼に聞かされていなかったのだ。この話の流れは事故のようなものだろう。
「……そういう重大な事は、もっと早くに話してくれ」
「更紗さんと一緒にいると楽しくて、更紗さんのことで頭がいっぱいになるんですよ」
「食欲ではなく、か?」
「そ、そうじゃないですよ!」
少しからかうつもりの言葉に返ってきた反応も心地が良い。
否定してからガザミはこほんと咳払いをひとつして平静さを取り戻す。
「焼け跡に紅葉を植えるのもいいかもとふと思いました。更紗さん、紅葉の種を拾ってもいいでしょうか?」
「ふむ、良い考えだな。種拾い、妾も手伝おう」
「ありがとうございます! 紅葉の種って面白い形をしているんですよ」
ガザミは屈んで地面を眺める。落ち葉に隠れてよく見えないけれど軽く掻き分けて探せば木の根元に小さなそれを見つけた。
ひとつ見つければその周辺にいくつか見つけることが出来た。
それらを丁寧に拾い上げてから手のひらにのせて更紗へと見せる。広げた羽の根元に種子がついている――喩えるならば、竹とんぼのような形だろうか。
「紅葉の種って、プロペラ型なんです。落ちる時にくるくるまわって風に乗るんですよ」
「ふむ、紅葉の種子はプロペラのような形をしてるのか。初めて知ったぞ」
ガザミの説明を聞きながら興味深そうに眺める更紗。じぃっと観察してから足元にふと紅葉の種が落ちていることに気が付いてガザミへと渡す。
ありがとうございます。そう笑んだガザミはおもむろに紅葉の種を空へと放り投げる。
「て、投げるんかーい!?」
「ほら、くるくる回って落ちる様子が、不思議で面白いでしょ? ってあ! 種、全部投げちゃいました。ごめんなさい!」
即座にツッコミをいれてから更紗は風に舞う種を興味深く眺める。
「ほう、これは確かに不思議で面白い。風に舞う種か、なるほど」
くるくると空を舞う紅葉を眺め、ふと更紗はある考えへと思い至る。
「ガザミ、もう一度投げてくれ」
「はい? いいですけど……」
ガザミはやや不思議に思いつつも更紗に言われた通り、落ちた種をもう一度拾い上げてから空へと放り投げた。
くるくると舞い落ちる紅葉の種。更紗は手に持った扇で風を起こして紅葉の種を地面へと落とさぬように調整する。
「ふむ……これは、なかなか、いい鍛錬になるな」
「すごい、面白いですっ!」
ふわふわと浮かぶ種を見つめながらガザミも感心したような声を上げた。
案外楽しくなってきたらしく、その後何度か繰り返した後――更紗が楽しい遊びの礼にとその場で舞を魅せた。
(故郷のお山で、今日みたいに、唐紅の舞台で踊る更紗さんを見れる日が来るといいな)
更紗が起こす微風に紅葉が揺らぎ、舞う。息を呑むように美しい唐紅の中で舞う更紗もまた同様に美しい。
ふたりで集めた紅葉の種を大切に小物入れに収めながら、暫くの間ガザミは見惚れていた。
斯くして紅葉の中で存分に遊び終えたふたりは歩みを進めて茶屋へと向かう。
店先の縁台に腰掛けて紅葉を眺めながら甘味に舌鼓を打つ。
「サクサクうまー!」
紅葉焼きがお気に召したらしいガザミは小倉餡を食べ終えた後、クリームチーズの紅葉焼きへと手を伸ばし甘じょっぱコンボを決めている。
ガザミと同じものを更紗も頼んでいたけれど余りにその食べっぷりが心地が良いので自分の分の一部をガザミに分け与えることにした。
サクサクもぐもぐ食べ進めるガザミを眺めながら更紗は暖かなほうじ茶を口に含ませた後、視線を紅葉へと再度移す。
「紅葉の景色もよいが、芒野原もいいぞ。芒野原が風に波打つ音は潮騒に似て耳に心地よく、芒の種が風に舞い飛ぶ様子は雪のようだ」
「芒野原も金色に輝いてきれいですよね。銀色の穂が風でいっせいになびく様子は壮観です。芒の雪。是非、拝見したいです」
「ああ、必ず――今度、見に行こう」
ガザミの紅い双眸に映る唐紅――視線を奪った紅葉に張り合ったとて仕方のないことなのだが。
(――妾はまだまだ子供だな)
更紗の口元にふっと笑う。
ふたりの視線の先。ふわりゆらりと美しい紅葉が舞っていた。
●
秋風に染め上げられた木々の葉は多様な色彩を浮かべている。
繊細な変化を魅せる紅葉をひとつずつ逃さぬように眺めていれば歩む足も止まる。心を奪われるというのはまさにこのようなことを言うのだろう。
(紅葉をじっくり眺めたのはいつ以来だったかしら)
唐紅に見惚れていれば兎沢・深琴(星華夢想・h00008)の思考は過去を向く。
(幼い頃は色々な場所に連れて行ってもらったっけ)
極普通の幸せな家族だった。子ども達に色々な経験をさせてやりたいと常日頃から言っていた両親は季節の折々、様々な場所に連れていってくれた。
記憶のアルバムを捲るように想い出が蘇る。
たとえば動物園に行った時は、まだ自分は未就学児だったはずだ。大きな象に驚きかたまってしまった自分を年の離れた姉が頭を撫でて慰めてくれたっけ。
水族館に行った時はイルカショーでは、飛び込んだイルカに思いっきり水をかけられてしまった。隣に座っていた姉も同様に濡れたのに、自分よりも先にハンカチで身体を拭いてくれた記憶がある。
テーマパーク。ピクニック。旅行。観光地。
確か紅葉が綺麗な場所にも行ったはずだ。ただ、其処がどんな場所だったかはぼんやりとしか覚えていない。
動物園や水族館のように子どもにも解りやすく表現の出来るようなものではなくて、パッと出てきたのは綺麗だねという簡単な感想。思えば、まだ景色の綺麗さすらもまだよく理解していない頃合いだったと思う。
木々を見上げ歩く家族達を他所に落ち葉で遊んだり、どんぐりを拾って遊ぶことばかりに夢中だったはず――なんとなく、母にその様子を苦笑されたような想い出があるから。
そう、全てはもはや想い出の中。そして想い出というものは、戻れぬようになってから余計に綺麗に色付いて見えるものなのだ。
決して手に届かないからこそより美しく見える――もう、あの頃のようにみんなで出掛けることが叶わないからこそ未練がましくも過去の記憶に縋ってしまうのか。
捲る記憶のアルバム。その中の自分はいつも笑っていた。当時はただ遊びに行けて嬉しい。楽しい――その程度しか思っていなかった。
今想えば、あの当たり前の時間はとても贅沢なものだったと痛感してしまう。
(喪われた命が戻ることない……)
見上げる深琴の視線の先で、紅葉がひとひら舞い落ちた。思わず手のひらで受け止めようにも軽く風に攫われて、容易にこの手をすり抜けていってしまう。
想い出が美しい。尊い――そう、気付くのは、いつも喪ってからなのだ。
傍に在るうちは、その存在の尊さを意識することもない。なんて、愚かなことなのだろう。
(姪の咲月ちゃん……あの子に家族との時間を楽しんでもらう事も出来ない)
姪の人生は短くはない。始まったばかりだ。なのに、あの子はこれから先、想い出を重ねていけることはない。
胸に鋭い痛みが走る。斯様に後悔を秋風に浮かべても、何も変わりなどしないのにどうしても気持ちが後ろを向く。
(――ダメね、また感傷的になってる)
唐紅に美しく染まる木々は色なき風にふかれて、やがて色彩を喪い朽ち果てる。
秋風には確かに冬の気配が混じっていて、秋の終焉と舞い散る木の葉の逝く果てを思い知らせるかのようで――だからこそ、このような気持ちになってしまうのだろうか。
(それとも、被害者の女性と自分を重ねてしまっているのかしら)
顔も知らない。名前も知らない女性。だけれど、彼女が抱いていたであろう気持ちを深琴は痛い程に理解が出来てしまう。
別に、激しく動いたわけでもないのになんだか胸が苦しくて、息も浅かった。
(こんな状態で戦うわけにはいかないわよね)
深琴は立ち止まって深呼吸をすれば、視界の端に茶屋が見えた。
考え事をしながら歩いていたせいか随分と歩を進めていたことに気が付かなかった。
(ちょうどよかったわ……少し休んで、気持ちを落ち着かせてからいきましょう)
甘味が程好い気分転換になってくれることを願って、深琴は茶屋の中へと入った。
●
人々の和やかな声が耳に届いて、ふと顔をあげる。
神代・ちよ(Aster Garden・h05126)の白桜の髪を揺らす秋風が、紅葉の葉も燃えるような唐紅へと染め上げていたようだ。
冬へと至る僅かな瞬間を魅せるこの美しい唐紅の色彩も、紅葉を愛でゆく人々の声も――この場に満ちるすべてのものが美しいように感じる。
(ふふ、もみじ狩りですね)
秋の紅葉。かつて彼が語ってくれた話の中にも出てきたことを思い出す。
彼は語った。秋風に舞う唐紅の紅葉は美しいのだと。冬に舞う六花も美しいが燃えるように鮮やかな唐紅の色彩は秋という季節の一瞬にしか相見えないからこそ尊いのだと。
あの頃の自分は彼の話を何よりの楽しみにしていた。彼が語る内容に思いを馳せて世界が持つ本当の色彩を知らぬまま、世界の美しさに焦がれていた。
その想いを共有するひとも居ないまま、ちよは今ひとり紅葉山を登っている。
(もう、結構山を登ってきた気がするのです)
かつての想い出話に耽っていたらなんだかあっという間に時間が過ぎてしまった気がする。
気が付けば、随分と山も登っていたようで眼前に休憩所の役割も兼ねる茶屋が見えた。
紅葉の名所のこの山の中腹に唯一存在する茶屋ということもあり、中々盛況なようで沢山の人々が楽しそうな表情を浮かべて憩いのひとときを過ごしている。
「せっかくですから、寄っていきましょうか」
そう心に決めて近付いて、店先に置かれた看板が目に入る。看板にはこの店名物だという紅葉焼きの紹介がされている。
(ふふ、もみじ焼き……とてもかわいらしいのです)
店員手書きであろうイラストを眺めて、ちよはくすりと微笑んだ。
どうやら持ち帰りや土産用に包んで貰うこともできるらしい。甘味好きの友人達の顔を思い浮かべる。
斯様な時でなければ、友達のみなへの土産にこの可愛らしい紅葉焼きを包んで貰い持って帰るのもよかったかもしれないけれど今は――きっと、恐らくそんな余裕はない。
(この戦いを終えたら……おともだちと、すぐにちゃんとお話できるかわかりませんから)
いつもだったら何気なく紡げる想い出話もいつものように語れるかはわからない。
(きょうは、ちよが今いただくぶんだけ、買い求めることとしましょう)
そう心に決めて、ちよは店先の縁台に腰掛けた。
品書きに視線を落とす。沢山味があって悩んだけれど季節限定だという栗餡と香ばしいほうじ茶を注文することにした。
やがて運ばれてきた紅葉焼き。焼きたてでまだ熱いそれを慎重に持って少し冷ましてから食べる。
薄皮のさっくりとした歯ごたえと、栗餡の滑らかな甘さが心地よく美味しい。あっという間に食べ終えたちよはほうじ茶を飲みながら改めて紅葉を見上げる。
(紅葉のお山、まこと、色鮮やかで美しいものです)
冬の厳しさも、春の淡さも、夏の激しさも――そして、鮮やかな秋も。
(『虫籠』を出てひととせ、ちょうど季節がひとまわりですね)
秋は、ちよのはじまりの季節であった。彼がいなくなって、鍵が開いていたことをいいことにあの虫籠を出て世界に旅に出た。
|他人《ひと》は|たった《・・・》一年と云うかもしれない。されど、ちよにとっては長い一年であった。
はじめてこの眸で映した世界は――うつくしかった。
(……ちよは、たくさんのものを見たのですよ。それを、あなたに聞いてほしかった、といえば、わがままでしょうか)
見上げる視線の先で紅葉が舞う。応えるものなんて当然居ないけれど、それでも心の中で彼を想い呼び掛けることを止められるはずがなかった。
秋の紅葉は一様に唐紅に染め上げられるように見えて、実のところは色も形もまったく違う。
世界はそんな、ちょっと違うもので満ちている。
ひとも、生きているものも、足元の石ころでさえも違う。
もちろん流れゆく日の一日も、斯うして過ごすひとときでさえも、ひとつとしてまったく同じものではない。
それは他人にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、ちよはこの一年――この双眸で外の世界を映してから初めて知ったのだ。
(だからこそ、その中のひとつを|いとおしい《・・・・・》と思えることが、とてもかけがえのないことなのだと、きっと――)
其処まで考えて、ちよはそっとかぶりを振って考えを霧散させた。
「そろそろ、日が暮れますね」
気が付けば、晴天の群青色を浮かべていた空は穏やかな夕陽の色彩へと移ろいはじめていた。
西に傾いた斜陽が紅葉達をより紅く染め上げている。
「そろそろ、行きましょうか」
ちよは立ち上がり会計を済ませ店を後にする。
此処から、彼がいる場所へは山道を道なりに進めば辿り着く。
――進めば、もう、引き返せない。引き返すつもりもないけれど。
ふと、ちよは視線を落とす。足元に綺麗な紅葉の葉がひとつ落ちている。
(今日の想い出として、この紅葉を持っていきましょうか)
しゃがんでそっと紅葉を拾い上げ、はぐれてなくなってしまわぬように本へと挟み込んだ。
想い出を、形として遺そう。
喩えこの双眸がとらえる世界の色彩を喪うことがあったとしても――今日という日を、忘れないために。
第3章 ボス戦 『蜘蛛の『紫苑』』
●
決して埋まらぬ穴があった。
大切な何かを喪った喪失感。その穴を埋めるためにあらゆる想いを飲み込んでも治まることのない飢餓感。
何を失ったのか――もはや、紫苑自身も覚えてはいない。
「一度、喪ったものは――かえってこないのです」
帰らない。還らない。一度喪ったものは、いくら手を伸ばそうと二度と掴み取ることはできない。
――私は、何を探していたのでしょうか。何が欲しかったのでしょうか。
きっと、ずっと何かを欲していた。手に届かないと理解していても、手を伸ばすことをやめられなかった。
そこまでして焦がれた何かはもう、わからない。わからないからこそ、埋めなければならぬのだと|情念《バケモノ》が叫ぶ。
無闇矢鱈に手の届く|偽物《もの》を虫籠におさめても埋まるはずなんかないのに、それすらも最早理解ができない。
色なき風が紅葉を揺らす。落ちる陽。茜色に焦げる空。燃えさかるように色付く唐紅。
色彩豊かに映える秋景色の中で一点のみ色彩を奪われたかのような灰色の男が独り長く伸びる影法師を引き連れて佇んでいた。
「きたのですね」
紫苑は双眸を閉じたまま、来訪者達の方を向く。
「ああ――あなた達の、魂はどのような色彩で羽ばたいてくれるのでしょう」
鬼灯の提灯が妖しく輝くと同時に、蝶を捕える蜘蛛の糸が来訪者へと伸ばされた。
●
斜陽の中現れた男に月依・夏灯(遠き灯火・h06906)は目を窄める。
(自分の喪失を他人の感情で埋められるはずないだろ。自分で抱えていくしかないんだよ――僕だってそうだ)
内心で思わず呟いてしまった言葉に夏灯は首を振る。
(……って言っても無駄なのに何やってるんだろ、僕。あ〜、やだやだ)
彼の言葉に共感出来てしまう点もあるせいか、心に棘がちくりと刺さり膿むように痛む。
どんな言葉を話していたとて相手は打ち倒せなければならぬ簒奪者である。
切り替えなければと己を奮い立たせながら夏灯は火龍の霊符を構え、放てば子蜘蛛を纏めて焼き払う。
子蜘蛛に気を取られていると思ったのか夏灯を狙い伸ばされた蜘蛛の糸も火で纏めて焼き切る。
それならばと紫苑は提灯を掲げるが夏灯は薄く口元を緩める。
「何色の蝶になるか興味はあるけど、僕はなれないよ」
「随分と自信がおありなのですね」
紫苑を眺めながら夏灯は静かに語る。戦場に似つかわしくない落ち着いた様子は鬼灯の提灯を前にしても揺らぐことはない。
「……?」
あの言葉のままを受け取るならば、夏灯は鬼灯の提灯の意味を知っているはずだ。
夏灯の様子に紫苑はが表情に困惑の色彩を浮かべたその時、にゃんこが夏灯に向けて掲げられた提灯を猫パンチで叩き落とした。
転がる鬼灯の提灯が斜陽を浴びて地表に長い影を描いている。叩き落としたにゃんこの方へと視線をやると地面に着地すると毛を逆立ててシャーと威嚇していた。
「ほら、にゃんこが怒っちゃうからね」
「なるほど、あなたは独りではなかったということですか。戦力を見誤りましたね」
「僕やにゃんこだけじゃないよ――君を止めようと、他の仲間達もきているんだから」
再び、やんのかステップで踏み込んでいくにゃんこの背を見ながら、夏灯は火龍の分霊を召喚する。
燃えるような夕映えの唐紅に業火が燃え滾る。召喚した火龍に目線で支持を出しながら夏灯は改めてじっと紫苑の姿を見る。
「紫苑くんって綺麗だし、君のほうが似合うんじゃない? ――僕が君に差し出せる彩りは、今は炎しかないけどさ」
燃える姿を綺麗だなんて言うわけではない。彼を美しい蝶にする術を自分が持ち合わせているわけではない。
彼の魂の色彩の羽ばたきを見ることは叶わないけれど、仕方が無い。それよりも、今は目の前の戦いに集中するのみだ。
「――喪失を抱えて生きるのは苦しいだろう。僕たちが終わらせるから」
●
燃えるような夕焼けの中に色彩を奪われたかのような男がぽつんと立っている。
その姿はどこか寂しげに物部・真宵(憂宵・h02423)の双眸に映る。
(大切な何かを喪うと、わたしもあなたのようになってしまうのかしら)
こころの中で大切なひとの姿を思いうかべれば、ずきりと胸に痛みが走る。
(これは……)
胸の痛みの意味も今はわからないけれど、解らないからこそ――真宵は男へと口を開く。
「あなたはどうして蝶へと変えてしまうの?」
「この虫籠に蝶を閉じ込めなければならないからです」
「何故蝶を閉じ込めなければならないの? 蝶は自由に空を舞うべきよ」
「それが蝶の在処というものでしょう? ――喪う前に、還らぬ前に、手に届かぬ場所へと消えてしまう前に虫籠へと閉じ込めて、大切に鍵をしめなければならないのです」
真宵の問いかけに答えになってない答えを返す紫苑。
そのやり取りを傍らで聞きながら、野分・風音(|暴風少女《ストームガール》・h00543)は拳をぎゅっと握り締める。
「アナタも古妖に狂わされた被害者なんだろうけどね、けどもうすでに加害者になってしまってる以上、放ってはおけないよ」
彼自身がもはや狂っており、手遅れであることは明白である。
事情はわからない。想いも願いもわからない。されど、人を害すならば――討たねばならないと握り締めた拳に大風を纏わせる。
「せめてこの綺麗な夕暮れの中で最期を迎えさせてあげるのが、アナタと蝶達への手向けだよ!」
喪った命は還らない。狂った情念が正しい形を取り戻すこともない。
「世界の果てまで吹っ飛んで行けー!!」
風音は足に暴風を纏わせて踏み込み、一気に加速し肉薄する。
紫苑の傍で牽制しようとする配下子蜘蛛に風を纏った拳を放つ。子蜘蛛達を纏めて吹き飛ばし散らす。
されど、一気に踏み込んできた風音に対して紫苑が蜘蛛の糸を伸ばす。もう少しで命中する――だが、蜘蛛糸が風音に絡み付く前に燃えて消える。
|狐火和《ほのお》を放ったのは背後に居た真宵だ。
「わ、ありがとう! 助かった」
「いえ、大丈夫ですよ。彼の相手はお任せくださいね」
風音に返事を返してから真宵は足元で控えていた管狐達へと話しかける。
「今様、青藍――残った子蜘蛛達の相手と彼女の支援をしてくれる?」
「きゅう!」「くう!」
真宵の呼び掛けに答えて管狐の今様と青藍が子蜘蛛目掛けて飛び出していく。
そして、今様達の背を追ってひときわ小さな管狐――露草も掛けていこうとする。
「露草、あなたも行くの?」
「きゅん!」
露草は振り返って誇らしげに一鳴きする。じぶんもできる――そう主張するように。
よくみれば瞳は若干不安そうな色彩が混じっているけれど、いつかの戦いの時のような泣き出しそうな様子はない。真宵は口元を緩めていってらっしゃいと露草を見送った。
「答えすらもわからなくなってしまうなんて、なんて悲しいひと」
静かにぽつりと零すように真宵は告げて狐火和の炎を紫苑へと放つ。
「けれど無辜の人々に害が及ぶのは見過ごせません」
静かに決意を込めた炎が紫苑の身を焦がす。それでもなお、諦められぬ情念のように伸ばされようとする蜘蛛脚。
されど月夜を宿す妖刀を加えた四尾の白狐――霽月の冥夜ノ祓が真宵に近付かせぬというように近付く前に脚を切り落とす。
「蝶よりも高く飛ばせてあげるよ!」
子蜘蛛を粗方散らし終え援護に入った風音の暴風にふかれ、真宵が放った炎は更に勢いを増してゆく――それは、いかに大風に吹かれようと揺らぐことなく絶えぬ情念の炎にも似ていた。
暴風が紫苑の身を苛むように吹き付けて、風に巻き上げられた木の葉がまるで蝶の舞のように焦げるような茜空へと舞い上がる。
舞い散る落ち葉をひとひらそのてのひらで受け止めて、真宵はぽつりと呟いた。
「……本当に大切だったのね、喪ってしまった何か、は」
燃えるような斜陽に染め上げられた唐紅。嵐が去った後の一葉は何も応えてくれなどしない。
●
「魂の色彩か――面白いことを訊くな」
アダルヘルム・エーレンライヒ(華蝕虚蝶・h05820)は口元を自嘲に歪めた。
(たとえ蝶と化しても、俺の魂が羽ばたく事は無いだろうに……醜い毒虫と化して地べたを這い回るのがオチだ)
羽ばたくこともできぬ惨めな毒虫。地を這い誰の目にも留まることのない端役。
もっとも自分がそのような存在になったとしても、気味悪がる家族すら居ないが。
アダルヘルムは手慣れた手付きでハルバードを真紅に輝く蹂躙形態へと変える。
「見す見す捕まって堪るものか」
子蜘蛛は蹴散らして蜘蛛糸はハルバードで叩き斬る。
まるで絡め取る蜘蛛糸のように次々と繰り出される紫苑の攻撃を捨て身の覚悟で踏み込みいなす。
どうせ死なぬ身なのだから多少の無茶が如何した。痛み止めもろくに効かぬこの身はこの程度の痛みなどどうってこともない。
それでも、いつもよりも切っ先が荒ぶり乱れている自覚がある。理由などはもう理解していた。
(――他ならぬ自分自身と相対しているようで、酷く気分が悪い)
そう、この男は自分自身とよく似ているのだ。
この男の事情などついぞ知らぬし何を喪い求めているのかも知ったことではない。
だが、それでも決して手に届かぬものに手を伸ばし、愚かしくも駄々を捏ねる子どものようにみっともない姿は厭でも現実をつきつけてくるようだ。
「ああ、よく識っているとも――喪った存在が戻る事は無い、二度とな」
「ゆえに取り戻さねばならないのです。喪った蝶をこの手に収めねば」
「くだらん夢想だな」
吐き捨てるように呟いたアダルヘルムはハルバードを握り直し、叩き切るように荒々しく振りかぶる。
喪ったものは二度とは戻らない。何をしても取り戻すことはできない。
別に欲しくもない永久に近い生命は別離という永劫の辛苦だけを生み続ける。
旅路の途中で新たに出逢い、漸く大切でさえもきっと辿る結末は同じなのだ。
(嫌でも、解っている)
アダルヘルムは燃えるように赤々と染まる夕陽をちらりと横目で見る。
陽はやがて燃え尽きて灰も遺さず夜となる。眩しく痛い程焦げる茜色の一部にもなれずに己はいつも世界にぽつんと立っているだけだ。
(――俺もいつか、ああなってしまうのだろうか)
夕影の中、いつかの笑い声が聞こえた気がした。
●
人妖『紫苑』。魂を蝶へと変えて虫籠へ囚える存在。
だが、柳・芳 (柳哥哥・h09338)は紫苑こそが囚われている存在なのではないか――そう考えながら、灰眸を窄める。
(紫苑、過去の思い出の喪失感にお前も……いや、もしかすると誰よりも囚われているんだな)
それはとても同情に値することなのかもしれないが、それでも彼の行いは到底容認できるものではない。
芳は愛器の煤竹色の横笛を抜き放ち、小刀へと変える。木の葉が舞う中、枯葉に紛れるようにして紫苑のもとへと肉薄す。
「囚われているの方はお前の方だ」
冷静な声で言い放つと手甲――暗器「黑线」より黒色の金属線と認識阻害を放ち心身を捕える。
「ああ、桜が――」
「桜?」
認識阻害により僅かに彼の心を揺らがせたことにより、紫苑の口からまろび出た言葉に芳は不思議そうに訊ね返す。
「桜が、誤った場所へと散っていく」
何処かうわごとのように紫苑は告げて、けれどもすぐにその言葉に哀しみを滲ませる。
「だけれど、喪われたものは戻らないのです。還らないのです。それでも、私は――」
「そうとも、一度喪ったものはもう掴むことはできない。それでも諦められないならお前が迎えに行くんだな」
芳は静かに告げると暗器での一撃を再び叩き込む。攻撃を受けてよろめく紫苑を視界に収めながら芳は指輪を仕舞った荷物入れを思う。
(全てが終わったら指輪を持ち主の家族などあるべき場所に届けて仇は討たれていることを伝えよう)
斯様なことを家族に伝えたとて、受け取った家族はどう思うだろうか。
もしかしたら哀しみを深くしてしまうかもしれないが、それでも解らぬよりは答えを見つけた方が立ち直りへの手助けになる。
行方知れずになった女性の行方を知れることは決して遺族にとって悪いことにはならぬと信じたい。
芳は小刀を握る手に力を込める――哀しみの連鎖は少しでも食い止めたい。せめて、その心が安らぐように。
(供養を頼むことで少しでも心を慰める手助けが出来れば良いが)
枯れ落ちた葉は朽ちて腐り、二度と木枝でかつての生命力に満ちた色彩を見せぬように、喪われた生命が二度と戻ることはない。
出来ることは少ないかもしれないが、それでも己が人のために為せることを淡々と行っていくのみだ。
●
年月は人間の救いである、忘却は人間の救いである――そのような言葉を見かけたのは、かつて開いた国語の教科書の中だっただろうか。
どのような哀しみでさえも|年月《とき》という薬が痛みを和らげてくれる。記憶という一枚の紙の中で哀しみの記憶の文章は曖昧にぼやけて徐々に輪郭を喪うように、いずれは忘れさせてくれる。
其れを救いなのだと嘯く言葉を、当時は何も特に感じずにただ当たり前の日常を享受していたのは思えばひどく贅沢なことだったのだとも思う。
「大事なものを忘れちゃうの……私は、辛かったです」
戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)の身で疼く痛みは心か――それとも、|背中《呪の証》か。
忘れたことさえ忘れてしまえば傷にも気付かずに済む。その方が痛みも和らぐのではないか。そう想いながらくるりは雨夜・氷月(壊月・h00493)の方へと視線をやる。
「覚えてないまま、何も気付かないなら、その方がいいのかな――氷月さんはどう思います……?」
「アンタにとってそうならソレは一つの正解だよ、くるり。それが絶対的な正解でなくても、アンタが納得できるならそれが良い」
氷月の心は疼く痛みを冷やし、痛みを取り除くような氷水にも似ていた。
否定はしない。だって、その問いに答えはないのだから。それでも、答えを求めるのだとしたら、それは各個人の心に依るものだから他者が口を出すようなことでもない。
「俺の考えを言うなら他者の幸福はそのヒト以外は語れないと思ってる――俺が語る事はこれ以上無いかな」
「そう、ですね……私もそう思います。
「ま、寄り添いたいって思うなら好きに声を掛けたら? それが救いになるかもだし、虫籠に入るのはイヤだから俺は加減せずにヤるけど」
「すいません私も虫籠入るの嫌です!!」
くるりは即座に言い返す。帰る場所がわからない迷子だけれど、帰る先があんな虫籠の中なんて死んでも御免だ。
あの簒奪者に多少は同情する気持ちはあるが、だからといってその行いを認めたいわけではない。
「行為を肯定する気は、なくて……」
「そう? じゃあ戦える?」
「それは勿論……!」
氷月に問われて即座にくるりは言い返す。自分でも覚悟はできているのだとくるりはPsychoQuakeを放ち、紫苑の足を止める。
やるじゃん――斯様な想いを視線に込めてちらりと背後のくるりを見てから氷月は|銀片《やいば》を握り、襲い来る蜘蛛の糸を断ち切り紫苑の元まで肉薄する。
間近に迫る紫苑と氷月の互いの顔。氷月は薄く笑うと容赦無く銀片を振るい、その身に血の華を咲かせる。
くるりの元へ迫る子蜘蛛があれば、夕陽に伸びた長い影法師から出でた力が護った。
戦場で舞う氷月の姿は、それこそ蝶のように美しく動きに無駄がない。
そんな彼の強さと優しさに甘えてしまうのはいつも通り。
(|この人《氷月》さんは私と見てるものが全然違うけど……いつもやさしい)
くるりは申し訳ないと思いつつも、攻勢に出てもらい庇ってもらう――せめて彼の援護になるようにと攻撃を放ち続ける。
斯くして一段落ついたのを見計らって、くるりは問いかけを投げる。
「幸せは人それぞれなら、氷月さんの幸せは、どんな形ですか」
「俺の幸せの形? 変なことを聞くね、くるり。知らないよ、そんなもの」
いつもと変わらないように、何もおかしいことなどないように氷月はからりと笑う。
だけれど、くるりは笑って誤魔化そうとする彼を逃さぬとばかりにじっと見つめる。
「……話す気がないのと、|知らない《分からない》は、全然違くないですか」
「どうだろうね」
「氷月さんが知りたい。あなたの話が、聞きたいです」
触れようとすれば融ける薄氷のように、目の前にいるのに触れさせてくれようとしない彼にくるりは真剣に話すけれどやはり容易には掴ませてくれないらしい。
氷月はフッと冷たい笑いをひとつ浮かべて、紫苑の方を眺める。
「アンタと同じかな――わからないものは埋まらないよね」
●
燃えるような唐紅の中で、孤独な影法師がひとつ寂しく長く伸びていた。
影の主――夕陽を背にした紫苑が繰り返し口にする言葉。夜鷹・芥(stray・h00864)が目を窄めたのは、茜色の空を焦がすが如く燃え盛る夕陽が眩しかったからではない。
「哀れだな。喪ったものが埋まることは二度と在りはしないのに、足掻いても残るもんなんざ、結局虚しさだけだ」
「ええ」
冬薔薇・律(銀花・h02767)は頷きながら冬色の双眸をゆるりと開く。
「何を喪ったのか、それすらわからぬまま求め続けるだなんて哀れです。終わらせて差し上げるのがせめてもの情けですわね」
年月と忘却が人の|救い《薬》であるというならば、それすらも赦されぬのはただ苦しく虚しいだけだろう。
律は夕陽の先――逆光となっている紫苑へと語りかける。
「あなたが狂うほどに焦がれたものがもし人であったなら、きっとその方はあなたに忘れて欲しいと願うでしょう」
「忘れぬことなど、赦されないのです」
その声に気が付いたのか、紫苑の表情が律を向く。相変わらず閉じられた双眸と色彩とともに悲哀以外の感情を喪失したような姿を律は黙したまま見つめる。
紫苑――追憶の花言葉を持つ植物の名を冠した男は、一体今何の記憶に縛られているのだろうか。
(赦されない、か)
芥が内心漏らした言葉は夕映えに溶けることなく霧散する。拳銃を握ると一気に射程範囲まで踏み込んで引き金をひいた。
律に気を取られていた紫苑はまるで不意打ちの如き一発を浴びた紫苑が襲撃者の様子を探すが、その前に芥は黒暗の闇を纏って姿を紛らわす。
紫苑が姿を掴みかねていることを確認した芥はそのまま肉薄し持ち替えた花影の太刀を振りかぶれば、唐紅よりも赫いものが咲く。
芥が前に、律が後ろに。息を合わせ戦い紫苑を追い詰める。そうして他のEDEN達が追撃をかけるのを眺めながらほっと息を吐く。
「……律も、忘れて欲しいと願うか?」
唐突に投げかけられた芥の問い。きっと、先程紫苑に対して投げかけた言葉に関連することなのだろう。
芥がどのような表情で告げたのか窺い識ろうにも彼の姿は燃えるような夕焼けに強く照らされ、逆光となったその顔を双眸に窺い見ることはできない。
ゆえに律は続きの言葉を待つことにした。彼が紡ごうとする想いを、言葉を、ひとつも逃さぬと受け止めるように。
「俺は……忘れてしまうことが恐ろしくて、必死に縋りついてしまうのは愚かだろうか」
「大切な思い出ならば、忘れる必要はありませんわ」
「律……」
彼が忘れたくないと願う記憶までは確証を持ってはっきりと解らずとも――善き記憶は心を繋ぎ止める錨となる。
何も恥じることはないし、大切に想うことを咎める
「その思い出があなたさまを支え、導くものなら覚えておくべきものです」
「そうか。覚えていても、良いのだな」
律の言葉を繰り返すように芥は繰り返す。
ええ、そうです。そう律は頷きながらも、冷静に言葉を続ける。
「ですが――もし、思い出があなたさまの何かを縛るのであれば、紫苑のように焦がれた果てに道を外れてしまうものならば、わたくしなら忘れて欲しいと、そう願うでしょう」
風が吹き、紅葉が舞う。燃えるように赤い夕映えの中に舞う唐紅を律は掌にそっと収める。
律の姿を真似て芥も掌を翳せど紅葉は、その掌をすり抜けて彼方へと逃れてゆく。今は手が届かない一葉を瞳で追いかけて、静かに自嘲に表情を歪めた。
(辛くなるならば作ってはならないと思っていたのに)
喪失が哀しみを生む。ならば、大切なものを最初から作らねば傷付くことはない。
だのに、人生とは斯くも思うようにはいかないようで気が付けば出来てしまっている。
手放すには惜しくなってしまった想い出。
(壊れても縛るのろいになろうとも、それでも嫌だと、俺はきっと――)
茜の空を焦がすように燃え盛る夕陽はやがて燃え尽きて夜となる。
夜へと至る僅かな唐紅の時を、ふたりはただ静かに見送った。
●
手に届かぬのならば、いずれ喪ってしまうのならば、最初から存在しなければ傷付くことはない。
(いっそ何もかも忘れてしまってた方が良かったのかもなぁ)
男の話をきいて、その姿を実際に眺めて、各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)が抱いたのはそのような感想だった。
半端な記憶は焦りとなり気がとなる。それならば、全て忘れてしまった方が楽なのではないだろうか。
そして、忘れたことさえ忘れてしまえば、痛みを感じずにいられる。
年月は人間の救いである、忘却は人間の救いである――そんな言葉があるように、忘れてしまえるのは
此れは人間への言葉であるけれど、蜘蛛の人妖である紫苑とてきっと
追憶の名を持つ男だからとはいえ、いつまでもその情念に縛られる必要はないのだ。
(俺にできることをしよう)
以前は幕末の頃だったか――今の鏡は戦いから離れて久しい身だ。正直、簒奪者相手の戦いは自信がない。
ゆえに、できることをしよう。そう決意して鏡は夕焼けの中で佇む紫苑に視線をやる。
「君は、その虫籠いっぱいに見も知らぬ人々をとらえたとしても決して満足はしまいよ」
「何故、そう言い切るのですか」
紫苑は瞳を閉じたまま、鏡の方へと向く。紫苑の攻撃の手は止んでいる。
戦うよりも、鏡の言葉の意味を――否、己が身を苛む飢餓感の正体を、紫苑とて掴みたいのだとそう願っているからだろうか。
紫苑が話を聞く姿勢であることを確認した鏡は、言葉の先を勧める。
古妖に狂わされ、正気を失った簒奪者に言葉がどれだけ届くのかはわからない。されど、だからといって止めたりはしない。
ただひたすらに、根気よく言葉を重ねる。
「だって本当に欲しいのは別ものなのだから」
「ですが、喪ったものは戻らないのですからこの手に蝶を捕えねばならないのです」
話が繰り返す。紫苑に根付いた狂気という病巣は思うよりも根深い。
彼が望むもの――恐らく、自分達も手に届かぬ場所にある其れを取り戻すまでは紫苑が自主的に蝶を逃すことはなさそうだ。
本来であれば、とらわれた人々を人に戻して元に戻ればよい。それが叶わずとも解放してほしいと思っていた。
(蝶も魂も心も異国ではプシュケというらしい――心を縛るのは己自身だけでいいのだ)
ままらないよね――鏡は夕焼けの中に、静かににがく笑った。
●
茜の空を焦がすように斜陽が燃えている。
斜陽の中で立ち尽くす男は、全ての色彩を奪われただ悲哀の一色に染め上げられたような姿で来訪者達を迎えた。
(寂しさがひとを狂わせるなら――狂えなかった俺は寂しさすら、感じることが無かったのだろうか)
紫苑を眺めるファウ・アリーヴェ(果ての揺籃・h09084)の相貌からは何もかもが抜け落ちたような様子でぼんやりとしていた。
寂しさが狂わせてしまうならば、情愛が妄執へと変わり、纏わり付く情念として身を苛むとも――それは、生きているという証左なのではないだろうか。
(――ああ、余程、彼の方が生きて……)
夕陽を背にして立ち尽くす紫苑の姿が眩しく見えたのは、きっと、夕陽だけが眩しかったからではない。
「……参りましょう、ファウ様。新たな悲しみを生ませないために――彼にこれ以上、罪を犯させないためにも」
「……そうだな、奪わせてはいけない」
傍らで夕陽と紫苑の姿を眺めていた御狐神・芙蓉(千歳洛陽花・h04559)の言葉で、ファウは我を取り戻した。
雑念を棄てて、今は戦いに集中すべきだ。彼の大切な人も、きっと彼自身もこれでは悲しむ――その哀しみの連鎖を断ち切る為にも刀を手に執らなければらない。
「蜘蛛糸に、蜘蛛脚――それから子蜘蛛か。手数が多くて厄介だな」
「ええ、ファウ様。お互いに死角を補いながら戦いましょう」
「ああ、承知した――貴女のことは、俺が護る」
蜘蛛糸も、蜘蛛脚も貴女に届かせてなるものか。決意をこめて鞘から引き抜いた刀は夕陽と紅葉を映して紅く染まっている。
「頼りにしていますよ、ファウ様」
随分と善い表情になった。先程まで少し要すがおかしいように見えたから心配をしていたけれど、これならば問題がなさそうだ。
戦地の中でも優雅さを忘れずに――竜田川文様の袖を揺らしてたおやかに笑みながら芙蓉は引き抜いた中華剣に己が能力を纏わせる。
斯くして刀を握り決意を固めた芙蓉とファウは互いの死角を補いながら紫苑のもとまで駈ける。
己が元まで近付こうとしている襲撃者の存在に気が付いた紫苑がふたりの身を捕らえようと蜘蛛糸を放つ。
「その攻撃を、届かせない――」
彼女のためだけではない。彼女を大切に想う誰かを、大切に想っていた誰かを、彼がまた傷付けてしまうから――そのようなことをさせるものか。
ファウは己の霊力を刀に込めて勢いよく薙ぎ払えば、纏った霊力が凍て風を生み蜘蛛糸を凍り付かせる。
凍り付いた蜘蛛糸は秋風にふかれて割れ散る。夕陽に照らされた破片がきらきらと一瞬の燦めきを見せた。
「ありがとうございます。ファウ様」
芙蓉は礼を告げて、それでは私も頼ってばかりではいけませんねと踏み込み中華剣を薙ぐ。紅葉筏を流す川の水のように静かな一閃が紫苑とともに、彼を護るように周囲をわらわらと囲んでいた子蜘蛛も纏めて払う。
「どれだけ好ましく思う人を捕らえても、心の飢餓は満たされることはないというのに」
呟く言葉は秋風にのって憐憫の情をのせる。彼が抱く虫籠の中には、今も数多の蝶達が自由を奪われ囚われているのだろう。その羽ばたきの数は、そのまま彼が犯した罪の数。
誰かを傷付けても、毀しても、捕えても本来彼が望んでいたものは他のものである以上、満たされることはないのだ。
だって、彼が本当に逢いたい人は、もう――。
「本当は、わかっているのでしょう? 本当に手にしたいものは、もう戻らないことを」
「逃してしまったのは私の罪。ですから、この虫籠の中に戻さねばならないのです」
別離の辛苦は狂気をもたらす。毒のような狂気は脳髄の奥にまで染みこんで、最早癒すことは恐らく出来ぬだろう。
「其処まで思い詰めてしまう程、大切な人を喪ってしまった悲しみ。想っていた人に二度と逢えないという絶望は耐えられないものなのでしょう――私にも、痛い程解ります」
芙蓉とて、同じだ。かつて大切に想っていた人達に何度逢いたいと願ったことか。
ふたたび逢える奇跡があるのなら彼のように夢想のような奇跡に縋りたくなるかもしれない。
だけど、そんなものは起こりはしない。夢想は夢想で、奇跡はあくまでも手が届かないもののことを言うのだ。
夢まぼろしの虚構に縋り付いて、人々を傷付けるなどあってはならない。ゆえに、彼を止めないといけなければならない。
狂わされる前の彼は、きっとこんなことは望んでいないと芙蓉は考えるから。
「あなたに永遠の眠りを授けましょう――」
芙蓉の赤き雷光を纏った剣閃とともに錦紅葉が舞う。紅い落陽に赤い血が舞った。
赤い光景を何処か|他人事《ひとごと》のように眺めながらファウは剣を振るい続ける。
ひとの心などはいつまで生きても理解することはできないかもしれないけれど、紫苑に寄り添おうとする芙蓉が彼の情念と妄執に呑まれてしまわぬように護ることはできるだろうから。
安心して悲しみと向き合って、彼と寂しさに共感できるように、此方を気にしないように、支えるための剣は、芙蓉を補うように振るわれる。
斯くして戦いが進み、少しずつ紫苑が追い詰められていく。その様を芙蓉は眺めながら、ふとある考えへと至る。
(大切な人を失い続けるこの長い生で、私は、彼の様にならないと言えるのでしょうか……)
この身が抱える長き生はこれから何度も別離を突き付けてくるだろう。何度も、何度も、何度だって、その生は|落陽《死》を見届けることになる。
陽は繰り返し昇るように、別離の数だけ新たな出逢いがあると新たな|落陽《死》がある。
燃え盛るような斜陽はいずれ燃え尽きて夜を連れてくる。
その夜を前にして、己の心は如何様に在ればよいのだろう。
「芙蓉さん?」
「ファウ様……大丈夫ですよ」
案ずるような彼の問いかけにいつも通り、嫋やかに笑んでみせる。
彼女が大丈夫というならば、今はその言葉に従おう。ファウは赤い夕陽を瞳に映して祈る。
届くと信じて、手を伸ばし続けた彼はきっと強く手優しい人だっただろうから――その彼が至るであろう永遠の眠りという旅路がせめて安らかにあるように、と。
●
喪われたものが戻ることはない。帰らない。還らない。
空を舞い、自由を識った蝶が出でた虫籠に戻ることがないように喪われた何かが戻ることはないのだ。
「仰る通りです、ね……喪われたものは、戻りません、から」
薙刀を握る夢見月・桜紅(夢見蝶・h02454)の手のひらに力が籠もる。
別離の辛苦は桜紅の身も苛んでいる。悲しい。苦しい。寂しい。脳裏に刻まれた想い出を振り返るたび、胸に痛みが走る。
痛みはわかる。解りすぎてしまうからこそ、桜紅の決意は固くなる。
「そんな空白を埋めるために、命を奪うのは……見過ごせないの、です」
桜紅は人が好きだ。そして、なにより、桜紅が好きだった人が命を賭けて護ろうとしたのも、人である。
だからこそ、見過ごせない。見過ごしてははならないと薙刀の切っ先を紫苑へと向けた。
「だから、ここで止めさせてもらいます、ね」
斯くして桜紅は恐れることなく落ち葉散る夕映えの中を駈けてゆく。夕映えに妖しく光る蜘蛛の糸が桜紅の身を苛もうと伸ばされても、桜紅は恐れる様子などまるでなく冷静に薙刀で切り開く。
それでも防げぬ蜘蛛糸が桜紅へと絡み付いてその身を呪詛で苛み激痛をうもうとも、桜紅の赤眸から強い意思の光が失われることはない。
全く怯む様子のない桜紅に、不思議に思ったのか紫苑がふと訊ねた。
「なぜ、貴女は立ち向かってくるのでしょうか。蜘蛛に近付く蝶はその命を絡め取られると――識っているでしょう?」
「元より、逃げるつもりはない、ですから」
言葉は強い意思のもと呟かれる。巻き付かれたまま、射貫くように紫苑を真っ直ぐ見つめている。
「私は、歪んだ桜。でも、この力は、大好きな人々を、この景色を守るために、覚悟を持って、使うの」
桜紅は真名に眠る力を解放する。|桜花の抱擁《クロノサクラ》――桜の名を持ちながらも、その木の性質は人々に春に愛でられる薄紅色彩の其れではなく、歪みだ。
一面の紅葉山に異質な木の根が突然生えて、紫苑の身を縛る。それは桜の樹の根。
「なるほど、このような手段を持っていたとは」
「退くわけには、いきませんから……」
紫苑が縛られ木が緩んだためか絡み付いていた蜘蛛の糸がほろりと解けた。呼吸を整えながらも桜紅は木の根にこめる力を緩めない。
「歪んでしまったあなたの物語の結末が、せめて少しでもさいわいなものであるように、私もささやかながら助力、しましょう」
●
更に西に落ちた斜陽が兎沢・深琴(星華夢想・h00008)の目を眩ませる。
「喪ったものは、帰ってこない――ええ、よくわかってるわ。未だに喪失の後悔に揺らぐ私の魂は彼にはどんな色に見えるのかしらね」
時を経ても深琴の胸を突き刺す痛みは消えない。
ちくちくと、秒針を刻む音が脳裏に蘇る。あの時夢中でスマートフォンの画面を叩き続けた手のひらに滲んだ汗もすぐに浮かんできそうだ。
後悔、悲しみ、やるせなさ――それらは今も全てこの胸に存在し、この心の大半を構成している。
この喪失感を埋められるのだとしたら、其れはどれだけ幸せなことなのだろう。
その気持ちが解ってしまうからこそ、深琴は紫苑のことを他人事だと思えなかった。
「喪失感を埋めたい――その気持ちは解らなくもないの。その想いがあるのは、きっと、貴方も大切な何かを喪ったのではないかしら。ただ、やり方がよくなかったのよ」
魔導書を抱く深琴の腕に力が籠もる。
「蝶に変えて捕えることで本人の悲哀は終焉させることができたのかもしれない。でも、その人にも大切に想っていた人がいたはずで、その人にも誰かを喪うという想いをさせているの――喪失の連鎖をこれ以上生み出させない。貴方の思い通りにさせないわ」
「そうですか。それであるならば、私がその悲しみも蝶として捕えましょう。全てをなくしてしまえば、悲しい思いもせずに済む。あなたも何かを喪って苦しいのでしょう? あなたのことも救いましょう」
狂った蜘蛛に言葉は正しく伝わらない。掲げられる提灯が深琴を蝶に変えようと妖しく光ろうとした刹那、流星のように飛び出してきた黒猫が提灯を叩き落とし阻んだ。
《まぁ、どんなに綺麗な色だったとしても僕の愛しき赤薔薇を君なんかに渡したりしないけれどね》
毛を逆立てて、紫苑を警戒し続ける星がいつもよりもずっと厳しい声で紫苑に言う。
お眼鏡に叶ったとしても捕えられるつもりはないけれど、それよりも自分を護ろうといつものように前衛に立つ星に深琴は呼び掛ける。
「星――彼は私が相手をするわ。だから、子蜘蛛をお願いできるかしら」
《深琴が望むのならば、そのように――けれど、大丈夫なのかい?》
「ええ。いつまでもあなたに頼ってばかりでは居たくないの。それに、なんだか私と似ている相手だからこそ、立ち向かいたい」
《――良い顔をしているね。深琴。それでは君の道は僕が切り開こう》
|星は願いを聞き届ける《ウィッシュアポンアスター》。昏き深淵の爪にて群がる子蜘蛛を薙ぎ払い、切り開かれた道を深琴は深く息を吸いながら進む。
幸せだった家族を引き裂いてしまった深琴の罪。命を奪った罪を命以外で贖う道はきっと何よりも苦しく険しくて、きっと、歩みを止めてしまった方が楽なのだと思う。
「私はまだ大切な人を護る為に、歩みを止めるわけにはいかないの」
開かれた魔導書より出でた降り注ぐ薔薇の花びらは紅葉よりもなお赤く、気高さと
(彼に話したことは本心から来るもの。けれど、咲月ちゃんのしあわせの為ならば、自分の命さえも差し出しても良いと思っているの)
ふと、脳裏に過ぎるのは幼い頃に姉に読み聞かせてもらった児童書のお話。表紙のイラストに惹かれて買ってもらったはいいものの、内容は子どもの自分にはまだ難しくて、姉に要約してもらいながら読み聞かせてもらったことをよく覚えている。
(――誰かのさいわいのためならば)
死後罪に気付いた蠍が他者のさいわいを願い、身を灼く話。あの蠍が話すことは今の自分は痛いほど解る。
ああなれたらどれほどに幸せで、救われるのだろうか。
(けれど、もし、それで誰かが悲しむことがあるのなら、喪失の連鎖になるのよね)
生きる以上、喪失からは逃れられない。喪失は必ず悲哀を生む。そのことは何よりも自分が一番識っている。
喪失の連鎖は如何しても止められないのなら、せめて自分の終焉は生み出す悲哀を和らげるような幕引きにしなければならないのかもしれない。
(――まだ、|人生の終焉《エピローグ》を決めるのは早いわ)
人生は結末が見えず、書き直しもできない一冊の物語。旅路の果てはまだ遠い。
少しずつ藍に色付きはじめる夕空に、一番星が燦めいていた。
●
燃え盛る夕陽に焦がされた空。影法師は孤独に伸びていて、間もなく訪れる夜を憂う寂寞のみが斜陽の中で立ちこめている。
咲樂・祝光(曙光・h07945)は黎明色の双眸で立ち尽くすように落日の光景を眺めていた。その視線の先にいる男が纏う気配から目が逸らせないようだった。
「帰らない。還らない。虫籠から出でて|自由《そら》を識った蝶が二度と戻ることがないように、取り戻したいのであれば己の手で捕えてこの加護に収めるしかないのです」
紫苑から吐き出された言葉は絶望のようであり、決意のようであり、呪詛のようでもあった。
言葉を聞きながら、祝光は拳を握る。彼が漏らす呟きを理解ができぬわけではなかった。
喪ったものは戻らない。犯した罪が消えるわけではない。かつて抱いた感情と、其れがもたらした結果は変えられない。
何をしてもどうしようもないことを今更嘆けど、既に毀れた心の欠落は決して埋まりはしない。
(だが、何を求めていたのか欲していたのか……己の核とも言える想い――それすらも喪ってしまうとは、その苦しみは煉獄そのものなのだろう)
かつて犯してしまった間違いは、今も祝光の心身を苛んでいる。だが、理由があるからこそ祝光は立っていられた。喩えば、その理由を喪失してしまったとしたら恐らく今と同じ様に立ってはいられないだろう。
ただ理由も解らぬ痛みに耐え――否、その痛みに耐えられるかどうかは怪しい。ひたすらに辛苦を耐え続け、喪失に灼かれる痛みは想像を絶するものだろう。
「……俺自身が喪ったもの」
祝光の記憶の中、切ないほどに優しい桜吹雪の中で白虹が揺らぐ。
傍に在ったあまりにも強い|聖焔《ひかり》は徐々に遠ざかり、今は欠片も見つけられない。
あの|愛しい存在《ひかり》を喪ったのは自分のせいだ。|大切な存在《ひかり》を守り切れなかったのは己の罪咎。
灼くように眩しい斜陽を前にして祝光は俯きかけたけれど、
「物思いはここまでだ――今は、目の前の蜘蛛と向き合わないと」
蜘蛛――ふと、思い出して祝光は傍らにいる(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)を見る。
(蜘蛛だってエオストレが騒ぐかも……ん? 静かだな)
てっきり騒ぐかと思っていたのに、予想が外れていた。エオストレは何やら祝光が難しい顔をしているなと思いつつも、蜘蛛には動揺はしていなかった。
「君が言っていることも、祝光が何か考えていることも難しいなぁと思うけど、僕に解るのは今の君はイースターじゃないってこと、君自身が蜘蛛の巣に引っかかってしまったみたいだね」
「イースターじゃない、とは……?」
エオストレから飛び出した奇っ怪な言葉に紫苑の眉間に皺が刻まれる。
「心の穴は塞がらない満たされない? それはそう! だってその穴は塞ぐものじゃないから、大切な何かがあった証だよ!」
「大切な何か、ですか」
「愛の名残はいつも哀しみを遺していく、それを慈しみ痛みごと愛していくものだって父上がいってた!」
春が冬の終わりを告げるように、エオストレの言葉が烈日のように紫苑へと放たれる。
眩しい太陽の如き言葉は祝光の心にも突き刺さる。
「探しものが見つからないと悶々とするよね。なくしたものは戻ってこなくても、別に形を変えてかえってくることもある。それを見つけられるかどうかは君がちゃんと、目を開いて見つけなきゃ! それにはイースターが一番! なんたってイースターは復活を司るんだから!」
「それでこそだ、エオストレ。だが、イースターにするなよ!」
「くっ……!」
折角の決め台詞のつもりだったのに、祝光に釘を刺されてしまった。無念。
されど、これしきでへこたれるエオストレではないのだ。
イースターは何度も復活するように、何度釘を刺されたってイースターもみじにするし、、レトロイースターにするし、あと、ついでに夕陽とかもイースターにすることを諦めない!
此の世全てをイースターにするまでエオストレは歩みを止められないのだ。
エオストレが駆け出せば、紫苑がその動きを阻害しようと蜘蛛糸を放つ。
「残念――僕は蝶々じゃないんだな」
|AMAZING♡ESTAR!《イースター・ハプニング》!
イースターの真骨頂を君に教えてあげよう――花火のように繰り出された花吹雪がふたりに纏わり付こうとする蜘蛛糸を爆破して切断し唐紅を彩っていく。
「君に、祝光は渡さないよ。祝光の魂の燦めきは君には勿体ないし――それは、|僕のもの《・・・・》」
「く……なんですか、この力は――」
イースターに彩られイースターに翻弄される紫苑を眺めつつ、祝光は桜護龍符を構える。
「エオストレの魂はそれはもう賑やかなイースター色で、君の手にはおえないだろう!」
紫苑の手どころかイースターを手に負える人は早々いないだろう――まぁ、それはこの際どうでもいいか。
「呪詛には、祝を――大切に思っていただろうそれを、醜く腐らせる前に、美しい蝶として咲かせよう」
祝光が神楽を舞えば燃えるような唐紅の中に優しい薄紅色の桜が混じり、言祝ぐ暖かな曙光が紫苑の呪詛を解いてゆく。
「囚われない。君にも俺自身の妄執にもね」
自分も彼も他の人だって蝶々にさせられない。囚わせたりしない。
蝶々の羽ばたきは時には世界を変える。それは、きっと――。
「蜘蛛の糸は繭ではなく、捕らえるもので……時に、誰かを救うものだよ。囚われ藻掻くような君に救われて欲しい」
そう思うのは甘いのかな――そう考えながらも祝光はエオストレを援護するように紫苑へと桜護龍符を放つ。
(相変わらず祝光は優しいなぁ……)
でも君がそう思うなら、僕もその気持ちに応えよう――エオストレは仕込み刀を引き抜いて紫苑へと肉薄する。
「捉えられるのは君の方、囚われてるのは君の方――蜘蛛の糸って繭なんだっけ」
身を守るために動かされたような蜘蛛脚はエオストレの手によってひとつずつ切り裂かれてゆく。
もう、これで君が閉じ籠もる隙も与えない――なんて想いを言外に込めて刀を薙ぐ。
「綺麗な蝶々が飛び立てるように、ちゃんと眼を開いて認めなよ。君のイースターは案外そばにあるのかもよ」
閉じ続けられた双眸が長い冬から目覚めるように紫苑の双眸がゆるりと開かれてゆく。
その先に、桜のはなびらがひらりと舞った。
●
夕空を焦がすように燃え盛る夕陽はなおもその焔の勢いを強めて、眩しく八百・千
(|嘘と針《はっぴゃくとせんぼん》・h00041)の金眸を灼いた。
燃え尽きる直前の線香花火が魅せる一瞬のきらめき。やがて夕陽は燃え尽きて、夜を連れてくる。
|唐紅《もみじ》の中にふわりと舞う|薄紅《さくら》の花。呆然と見開かれた紫苑の紫眸を、千は複雑な想いで見つめる。
「なくした大切なモノ――ぽっかり空いた胸の穴。私にもよく分かるわ」
千は己の胸に手をあてて、金眸を閉じる。瞼の裏に思い浮かべるのは、かつての大切な人達の姿。
朝は三度。四度目の夜に曙は来ぬ。八百度――千度祈りを重ねても、朝日は二度と昇らない。枯れ落ちた花が再び色彩を取り戻すことがないように、抜け落ちた体温がふたたび身体に芽吹きその鼓動を蘇らせることはないのだ。
不可逆であるからこそ美しい。不可逆であるからこそ尊い。
花の散り際に美しさを見出して、一瞬の燦めきを尊ぶ――そう皆が思えたのならば、世界に斯様な辛苦は満ちてはいないのだ。
(そうよ。何も変わらない。アナタと全く同じではないけれど、私にも亡くした大切な者達があるから、帰らないぬくもりを求めて未練がましくも縋ろうとしたのだもの)
千の視界の端で白尾が揺らぐ。その数は八尾――かつて九尾あった一尾は欠けて、|家族《・・》となった。
彼女達が褒めてくれた、自慢の白尾。彼女達との絆の象徴でもあった、己の尾。遺された大切なものを切り取れば喪ったぬくもりに近づけるのではないかと考えた。
(でも、それでは全然代わりとはならないの)
絆は錨だ。己の心の拠り所であり、掛替えない存在。だけれど、どんなものであっても、かつて結わえた絆の代わりにはなり得ぬ。
否、そもそも代わりにしようとした発想自体が今では間違いではないかとさえ考える。
「けれど違うものでは穴は埋まらないの。どんなもので埋めても隙間からサラサラと色々なものが零れ落ちていくだけだわ。余計に虚しくなるくらいにね」
喪ったもの。代わりにしようとしたもの。その存在を思い出せば、じわりと苦い感情が蘇ってくる。
愛おしい存在ではある。けれど、違う存在では決して代用にはなりえない。
だけれど、そんな事を紫苑に言っても無駄なのだろう。
「でも、アナタはそれを知っていて、それでも求めているのですものね」
「そうです。虫籠から出でた蝶が帰らぬように、喪ったものが戻ることがない。ゆえに、蝶をこの籠に収めなければならないのです」
紫苑本人はきっと、真面目に言葉を紡いでいる――そのつもりなのだろう。
己が吐いた言葉の矛盾にも気が付かずに、|色彩を奪われたか《モノクローム》のような男に千は|煙管《キセル》を手に執りながら語りかける。
「もし何を失ったのか思い出したいのなら協力しましょうか?」
「協力……?」
千に向けて伸ばそうとされていた蜘蛛糸がぴたりと動きをとめて、ひらひらと勢いを弱めて地に堕ちる。
「私は過去を少しのぞけるわ……物品の、だけれど。アナタの持つその『虫籠』がアナタとずっと共にあるならそこから何か見えるかもしれないわね」
「何か……」
「知りたい? 知りたくない?」
畳み掛けるように投げかけられる千の問いかけに紫苑は沈黙する。
「そう、それがあなたの答えなのね……まあアナタが望まぬとも僕は僕のやり方でアナタを眠らせてあげる」
沈黙は――即ち、肯定だ。その証拠に千が近付いても紫苑は攻撃をしようとはしなかった。
斯くして千は紫苑に近付いて、|武装化記憶《サイコメトリック・ジオキシス》を使用する。
虫籠に触れても見えるのは、紫苑の喪失感と犠牲者の無念のみ――ならば、別のところにあるのだろうかと彼の身体を眺めて想う。
(あら? これだけ、コーディネイトが違うような)
目に留めたのはモノクロの服装の中で一際目立つ赤い羽織紐。
そっと千は羽織紐に触れてみれば、千の脳裏に桜吹雪が舞う。
ひどくそれは朧気で、今にも消えてしまいそうな儚い記憶の残影だった。
「そう――アナタの記憶は桜の色なのね。これは、誰かからの贈り物――そして、これこそが、あなたが本当に逃したくなかった『蝶』」
記憶を暈かし、視界を滲ませるような桜吹雪の中でひとりの女が羽織紐を手に微笑んでいる。
――紫苑、信頼と親愛の証としてこの紐を貴方に贈るわ。
読み取れたのは、たった一言。
だけれど、きっと、この羽織紐はその女からの贈り物なのだと千は直ぐに察することができた。
紫苑が積み重ねてきた罪が羽織紐の記憶も濁らせたのか全てを読み取れなかったけれど、僅かに遺る優しい春の木漏れ日のような暖かな感情だけはよく伝わってくる。
「優しい夢に抱かれて逝きなさい」
まるで子守歌を口ずさむかのように、何処かやさしい声音で千は囁いて放つは|瞞忘朧心《マボロシ》。
「ああ、桜が――、私の、愛おしかった桜は……なくしてはいけなかった、私の罪は――」
紫苑には何が見えているのだろう――それとも、何も見えていないのか。
紫眸の中に桜の花びらが舞う。
夕空を焦がす斜陽が燃え尽きるまで後僅か。
間もなく訪れる夜。生命が眠りに就く夜は彼にどのような|終焉《ゆめ》をもたらすのか――千はその果てを見届けるべく、彼の姿を眺め続けていた。
●
決して償えぬ罪があった。
「――紫苑」
甘やかに彼女の声が己の名を呼ぶ。
人と妖の境界が薄れゆくこの時代で流れに逆らうように、神代家は頑なに妖の純血を護っていた。
先細りしていくだけの将来に目を背け、因習に縊られる時を待ち続ける誇りという名の埃にまみれた旧家。
薄汚れたその家に、ひとつだけ射し込む光のように美しいあの方に私は心を奪われ全てを捧げると決意した。
あの方の傍に居られるだけで幸せだった。それ以上は望んでいなかった。
ああ――ただ、あの方に手慰みで作った羽織紐を頂いた時は本当に嬉しかったと想う。
「紫苑、信頼と親愛の証としてこの紐を貴方に贈るわ」
嫋やかに、美しく、桜のように微笑んだあの方の心に報いようと心に決めた。
後から思えば、それこそが全ての悲劇のはじまりだったのだろう。
結果、私は間違いを犯した。
|人間《アレ》をあの方に引き合わせ、|半妖《なり損ない》が産まれた。
純血を尊ぶ神代家でひとときの迷いなどと見逃されることもなく、迎えた結末はあの方のような美しい薄紅色ではなく血腥い深緋色。
恋があの方に間違いを犯させ、愛があの方を縊った。
何故そのような愚かなことをと何度もあの方の墓に言葉をぶつけた。
何故あのような者をあの方に引き合わせたのかと己の愚かさを呪った。
だが、今になって理解が出来る。
愛という情念は人知の及ばぬものなのだ。最早狂気と言ってしまっても差し支えがないだろう。
あの方でさえ己の愛に振り回され、破滅の宿命が待ち受けていたとしても止められなかったのだと思う。
そうして語る私もきっと、愛という狂気に脳髄を侵された哀れな愚者だったのだろう。
●
燃え盛り黄昏の空を焦がす斜陽は徐々に勢いを緩めて、もう間もなく灰のような夜を迎える。
それでもなお秋の夕の名残をとどめる燃え盛るような唐紅の中に、柔らかな春の色彩が舞い込んだ。
「――紫苑。会いたかった、ずっと会いたかったのですよ」
春の色彩の中で佇む神代・ちよ(追憶のキノフロニカ・h05126)の姿に紫苑の瞳は驚いたように丸められた。
「貴女は――」
「紫苑」
彼が紡ごうとする名を、ちよは被せるように呼び掛けて制した。
彼が呼ぼうとした名は、ちよのものか、それとも別のものか。考えても仕方がない。過ぎ去ったものも、他人のこころもちよには如何することもできないのだから。
ゆえに、彼が狂ったことも今更如何することもできないし曲げようのない現実なのだ。
「紫苑、あなたを置いて、あの虫籠を出てきてしまったことがあなたを簒奪者に堕としてしまったのだとしたら――そう考えるのは、うぬぼれでしょうか」
ちよの呼び掛けに紫苑は黙したまま、ちよのことを見つめている。
閉じられていた双眸は開かれた。かつて彼が見せてくれていたうつくしい紫眸がちよの姿を見つめている。
だがしかし、その眸にちよの姿がまことの意味で映し出されることがないことを残念ながらちよは、はじめから理解していた。
「――ふふ、きっとうぬぼれなのでしょうね。ちよがいなくても、きっとあなたは……」
全ては言葉にしない。斯様なことは言葉にせずとも最初から識っているのだから。
|洋墨《インク》で、紙へと書き込まれた言葉が滲んでぼやけても消せないように過ぎ去った時を変えることなど出来ない。
生とは、いくつもの頁を編纂した物語である。積み重なった|場面《エピソード》が結末を決定する。
ゆえに、己はきっとただの傍観者でしかない。彼の物語に介入できる機会に恵まれたとしても、きっと、何も、変わらなかった。
「こんなかたちでの再会になってしまったこと、悔やんでも悔やみきれませんが……でも『世界』を見せてくれた紫苑に、感謝してもいるのですよ」
「感謝、ですか」
ちよの言葉に紫苑は静かに返答する。
|感情《いろ》なき言葉。きっと他人が推し量れぬであろう感情も、虫籠の中でただ紫苑だけを見てきたちよには理解ができる。
後悔だ。彼は後悔という蜘蛛糸に絡め取られて藻掻くことも忘れてしまった哀れな存在。
「そうですね……喪ったものは、もう帰ってこない。あなたの云う通りです。いつかあなたのもとへ変えるのだと想っていた、ちよの夢想も――もう、かえることはないのでしょう」
枷たる想いを解く絆となれたのなら僥倖だった。
だって、彼は自分に『世界』を教えてくれたひとだから。
はじめて、ちよの世界を色づけてくれたひとだから。
だから、自分も彼の|世界《ものがたり》を構成する一部であれたらよかったのに。
「ずっと、ずっと、ちよは紫苑のことが――」
言葉を紡ごうとしたちよの口が留まる。
伝えたところで、きっと彼の荷になってしまうだろう。彼の心に留まりたいと願う気持ちも|虚構《うそ》ではないけれど、それは望むところではない。
(だから、ちよができることは、ただひとつ)
其れは、紫苑のために、紫苑に立ち向かうことだけ。
「忘れえぬ記憶を、絆を――きいてくれますか。紫苑」
思い出を綴った絵巻を紐解いて、彼が喪失してしまった記憶を語れば周囲の光景はかつて紫苑と過ごした虫籠へと変化する。
「ここは……」
「あなたと此処で過ごした頃はちよは空も世界も識りませんでした。だけれど、今は違う――ちよは、強くなったのですよ」
呆然としたままの紫苑にちよは少しずつ歩み寄る。
かつて思い出を結わえた虫籠の中。近付く桜蝶を眺める紫苑の双眸。
「だから、きっと紫苑を|連れていって《・・・・・・》あげられる――|お母さまのもと《彼岸》へ」
八百・千の|能力《ちから》が僅かばかりに紫苑の正気を取り戻してはいたけれど、それでもきっと彼は大半の記憶も想いも喪失している。
今の彼に|彼岸《お母様のもと》の意味が伝わるかは定かではない。どれだけ記憶が遺っているかもわからない。
記憶という道標を喪い、行くあても解らぬ迷い人――それが、今の紫苑であるならば、正しき場所へと導くのが己の責務だ。
「紫苑がちよのことを見ていない事なんて、ずっとずっと、本当は気づいていたのですよ」
だけれど、ふたたび開かれた彼の紫眸が|現在《いま》も自分を見ていないことはわかる。
今もきっと紫眸が捕える己の姿に何かを想うのであれば、それはきっと己が面影を強く遺すと云う母の姿であろう。
だが、それならそれで良い。良い夢を見たまま眠れるのであれば、彼に想いを寄せる者としてもきっとさいわいなことだから。
「だからどうか思い出してください――紫苑の望みを、あなたが還るべき場所を」
「私の望み、は――」
手に届かぬもの程、欲しくなるのだと誰かは語った。それは、まことにそうであった。
狂おしく美しい蝶を求めてしまう。捕えてしまえと疼く本能を幾度も立場という言葉で押し潰した。
ゆえに恋慕に蓋をした。最初から届かぬものなら諦めて思慕を忠誠で塗りつぶした。
疾うに狂気に犯された情念の中に、僅かばかりに優しい薄紅の色彩が宿る。
「あの方に、しあわせになっていただきたかった」
幸せになれるならと己の感情を封じたのにその結末が斯様なものであったのならば、己の手でと傲慢にも想ってしまうこころを誰が責められようか。
「――そう、それでいいのですよ」
ちよは微笑んだ。優しげに、切なげに、散る間際の桜のような淡い微笑みだった。
最初から最後まで彼の心の中に己は存在しないままであることを改めて突き付けられた。されど、斯様な感傷で今更ちよの決意が濁ることもなかった。
肩でちよの合図を待つ子蜘蛛の柘榴に目配せをすれば柘榴はすぐさまに蜘蛛糸を吐き出して紫苑の身体を縛る。
「散らない花などないように、暮れない昼などないように、あなたはここでおしまい――ここで止めるのです」
柘榴はちよの想いに答えるように蜘蛛糸の捕縛を強める。
桜燐光を纏い、背から耀翅を顕現させたちよは祝彩の花籠より薄紅色の桜胡蝶を喚び出す。
「あなたにこれ以上、罪を重ねさせたりしない――物語の結末は、ちよが彩りましょう」
蝶の羽ばたきは世界をも揺らす。
唐紅に染まる世界を埋め尽くすかの如く乱れ舞う桜胡蝶。
「かえってこないのなら、あなたが逢いにゆけばよいのです。ちよがここに来たように、それが――きっと『恋』なのだと、おもうのです」
花を散らす嵐は|紫苑《花》の命も散らし、大風がやんだ後――斃れ臥す紫苑の姿はまるで眠るように穏やかな表情を浮かべていた。
「さようなら、紫苑――ずっと、これからも、あなたに恋をしていました」
吹き荒ぶ色なき風が唐紅の紅葉を運ぶ。
一度落葉した紅葉が再び青々とした色彩を取り戻すことがないように、落命した存在が息を吹き返すことはない。
落葉は朽ち果てて、落命した存在が道行きを共にすることはない。
すなわち、永劫の|別離《わかれ》。
疾うの昔に覚悟はできていた。決意は定めていた。
何度も世界を彷徨い飛んで漸く定めた旅路の果て――決意も結末も今更揺らぐことはない。
(そして、はじめまして。あなたのいない世界)
情念も、恋心も、全てを塗り尽くすような夜の訪れをちよはただ眺め続ける。
「――あなたのいない世界を、まだ鮮やかだと、美しいとちよは想えるのでしょうか」
色なき風も、紅葉も、誰も答えなどくれるはずがないのに愚かしくも答えを|世界《そら》へと投げかける。
黄昏空を焦がすように燃えしきる斜陽は燃え尽き地に堕ちて、もう間もなく全ての色彩を奪い去る灰のような夜が来るだろう。